「………………」
掌中で光る銀の珠を、ヘカテーは大事に大事に帽子の中にしまい込む。
宝珠の名は『大命詩篇』。巫女たる彼女だけが彼方より託される事の出来る、秘中の秘たる自在式。因みに、悠二の『零時迷子』に刻まれているのもこれである。
「………ふぅ」
この『託宣』は、巫女とその大杖『トライゴン』の持つ力によって為されている。しかし、それだけでは不十分。“彼方”より託宣を受ける為には、それ相応に因果の安定した力場が必要なのだ。
故にヘカテーは、『星黎殿』に居た頃からそうしていたように、御崎市を離れて遠方に赴いた。
「(……今から帰れば、昼休みには間に合う)」
が、それも終わった。
“あちら”の準備が済むまでは、ヘカテーに出来る事は無い。暁が明ける前にと、水色の少女は高き空へと飛翔する。
「(帰ろう………)」
いつか去る、束の間の居場所に想いを馳せて……壮大な緑の海を滑空する。
「(………どうして?)」
そんな心の動きを確かに感じて、少女は自分に問い掛ける。
確かに今は、『戒禁』の施された『零時迷子』に干渉は出来ない。だが……だからと言って御崎市に留まる理由にはならない。『零時迷子』が無理なら、それを宿した悠二ごと連れて行けば良いだけの話なのだから。
「(なのに、私は……)」
“狩人”を討ち倒した後、悠二ではなく自分が、彼の都合に合わせると決めていた。深く考える事もなく、そうする事に大した疑念も抱かずに。
「(あの時は……ベルペオルを怒らせたままだったから……)」
いい加減 彼女の機嫌も直っている頃だろう。ならば……そう、今すぐにでも、悠二を連れて『星黎殿』に…………そこまで考えて、
「っ」
平井ゆかりの笑顔が、坂井千草の微笑みが……そうする事で失う光景が過って……最後に、失望に暮れる悠二の顔が浮かんだ。
「…………………」
………まあ、今のままでも支障は無い。『託宣』する為に外に出なければならないのは『星黎殿』でも変わらないし、むしろ御崎市の方が教授を誘き出しやすい筈。
いま考えた理屈で自分を正当化するヘカテーは、ほどなく人里へと辿り着く。空も段々と白み始めて来た。ここから先は飛んだら目立つと、人目が無い事を確認して狭い路地に着地する。
その靴底が路面に触れる拍子に水色の炎が一瞬 彼女を包み、巫女の法衣を解いた。
そこに立つのは、薄水色のワンピースの上から青のカーディガンを着た可愛らしい少女。どこにでも居る……とは言えないものの、とりあえず一般人的な少女である。
(シュビッ!)
刹那 瞳の端を煌めかせたヘカテー。居合い抜きのようなキビキビとした動きの延長で指先に挟まれているのは、本と呼ぶには薄く小さい帳。人はそれを、電車の時刻表と呼ぶ。
「……あれが、駅です」
丁度良く目に見える位置にある小さな駅を、わざわざ口に出して指差す。
ここから先は、文明の力を活用する次第だ。ここ最近の人間の進歩は本当に凄まじい。自在法も無しにあんなに大きな鉄の塊をあれだけのスピードで走らせるとは、なかなか侮れないものがある。
上から目線の割に意気揚々と駅に踏み込むヘカテーの旅は………
「大人一枚、御崎市までです」
「……え? 大人……で良いんですか?」
「…………………」
開始早々、不本意な口論から始まる事となった。
ホテルのコードレス電話が、ゆっくりと下ろされる。
「……やはり、別人でありましたか」
「同姓同名」
昨夜は郊外のホテルで一泊した二人で一人の『万条の仕手』は、一応の確認に案の定という溜め息を漏らす。
掛けた先は関東外界宿(アウトロー)第八支部。話した内容は、近衛史菜の経歴と素性。
「………平井ゆかり嬢には、気の毒な結果になりそうであります」
平井ゆかりから聞いた、近衛史菜の人物像。今年の四月、入学式からズレた時期にギリシャから転校して来た女生徒。
御崎市出身の構成員という事前情報と異なる話を聞かされて、ヴィルヘルミナは支部に連絡を取り……結果は黒。平井の友人は外界宿の構成員ではないし……恐らく、人間でもない。
実のところヴィルヘルミナには、平井が近衛史菜ではないと判った時点である程度 予想できていた。
平井から感じた気配の名残は、紅世の徒かフレイムヘイズと長く近しく接していなければ起こり得ないもの。故にこそヴィルヘルミナは、彼女との邂逅を本物の近衛史菜との対面以上に有難がった。
なぜ外界宿の構成員の名を名乗っているのかは知らないが、“その近衛史菜”こそが気配の正体に違いない。
「無問題」
「……その通りであります」
場合によっては平井の友人を討滅する事になるが、問題は無い。この世ならざる存在である紅世の徒は、死ねば“そこにいたという痕跡ごと”消滅する。つまり平井の記憶にも残らず、彼女に哀惜を感じさせる事も無い。
……だが、今はまだ憶えている。だからヴィルヘルミナは、こう言った。
『貴女の友人は、恐らく私と同じフレイムヘイズなのであります』
と。
紅世の徒だと伝えるよりはショックが少ないだろうし、結果的に人を守る側だと伝えておいた方が協力的になってくれる筈。
それに……まだ嘘とは限らない。街を喰い荒らした徒を討ったフレイムヘイズが、この歪みきった地を放置できずに留まっている可能性も残っている。
「いずれにしろ、明日になればハッキリする事であります」
「就寝」
常と変わらず、戦いを傍らに、『万条の仕手』は眠りに落ちる。
終わる事なき戦いの螺旋を、果てる時まで踊り続ける。
自宅の浴室、湯気が籠もって霞掛かった天井に向けて、平井ゆかりは手を伸ばす。握る。……何も掴めない。
「人を喰う紅世の徒……それを狩るフレイムヘイズ……喰われた人間の代替品、トーチ……」
聞かされた真実を、噛み砕くように口にする。現実味が無い……というのが正直な感想だった。『清めの炎』を目の当たりにしていなければ、今も信じていないだろう。
「……………喰われた人間は消える、か」
それでも……ほんの僅かでも、真実に触れて振り返る事で……判る事がある。
「……なんで今まで、不思議に思わなかったかなぁ」
平井ゆかりは、小さい頃からこの街に住んでいる。ずっと祖父に育てて貰った。―――“あんな離れた街に住んでいる祖父に”。
「はは……おかしいじゃんか、どう考えても」
毎年訪れる誕生日、小学校の参観日、大活躍だった運動会、高校に入った時の合格祝い。たくさん、たくさん……思い出はある。だが、“そんな事は有り得ない”。
「(あたしの両親は……徒に喰われて……………消えた)」
上に伸ばした手の甲で、何となく目の上を隠す。悲しい……わけではない。顔も思い出せない誰かの死なんて、悲しみようがない。
ただ、親の消滅に何を思う事も出来ない自分が……堪らなく虚しかった。
そして、そんな酷い現実に正面からぶつからなければならない場所に、近衛史菜は立っている。
「……坂井君も、知ってるよね。ずっと一緒に居るし、明らかに態度ヘンだったし」
今までずっと水臭いとばかり思っていたが、こういう事なら言えるわけがないとも納得する。自分が同じ立場でも、友達を巻き込む事はしなかっただろう。
「(でも……あたしは知っちゃったから)」
知らない方が良かったのかも知れない。知らない方が自然なのだろう。
でも……知ったからには、目を背ける事など出来ない。
「(どんな現実でも、受け止める)」
平井ゆかりは気付いていた。『万条の仕手』が隠そうとした―――“近衛史菜”のもう一つの可能性に。
ヴィルヘルミナと遭遇した翌朝、彼女なりの覚悟を胸に秘めて御崎高校の校門で待ち合わせをしていた平井ゆかりは………
「えっ、と………カルメルさん、ですよね?」
「時間通りでありますな、平井ゆかり嬢」
「律儀」
到着早々、引き締めて来た緊張感をこれでもかというほどに粉砕された。
人喰いの化け物と戦う異能者との待ち合わせ場所に、妙にファンシーな白キツネの着ぐるみが立っていたのだから、それも無理からぬ事と言えよう。
「抱き付いても良いですか!」
「遠慮させて貰うのであります」
「静粛要求」
当たり前だが、別にヴィルヘルミナとてふざけてこんな格好をしているわけではない。
彼女の着ぐるみは、『万条の仕手』固有の自在法を込めたリボンで編まれており、気配を完全に遮断する効果がある。力の消耗が激しいので常時発動させているわけにもいかないが、これから標的に接触すると判っている今なら話は別である。
………もっとも、そんなあからさまな戦闘準備について平井に語ったりはしないが。
「……それ、鎧みたいな物ですか」
だと言うのに、平井は急に眼を鋭くして、そんな事を言って来た。どう言ったものかとヴィルヘルミナが逡巡する間に、平井の方から更に続ける。
「遠慮とか、無しでお願いします。『知らない方が幸せ』とか、そういうの好きじゃありませんから」
続けて、返事も待たずに歩き出す。昨日も思ったが、恐ろしく肝の据わった少女である。
「………………」
そんな平井の姿に、ヴィルヘルミナも認識を改める。もう彼女を、『真実に触れた可哀想な少女』として扱うのはやめにしようと。
「あれ、平井さん今日は早いねって……着ぐるみ?」
「おっはよ池君!」
先を歩く平井に、メガネの男子生徒が声を掛ける。怪訝そうな声音を元気の良い挨拶で遮った平井は………自己主張の激しい視線を横顔から放った。
それが“確認”の要求であると察したヴィルヘルミナは………無言で、着ぐるみの親指と人差し指で○を作った。
「(………ふぅ)」
学校の校門から通学路を遡る形で、平井とヴィルヘルミナは歩く。
途中すれ違った人間の中にも………とりあえず平井の知人には一人もトーチは居なかった。知り合い以外ならどうでもいいというわけではないが、どうしても安堵の吐息は漏れ出てしまう。
「(………大丈夫)」
後は、悠二とヘカテーだけ。
平井が、ヴィルヘルミナの隠した可能性に気付いてなお道案内を申し出たのは、ヘカテーに恐れを抱いてヴィルヘルミナに味方したからではない。
ヘカテーが街の人間を喰い荒らした筈が無い。だからヴィルヘルミナに会わせても問題ないという確信………否、希望から来る強迫観念にも似た決意だった。
ヘカテーが紅世の徒で、この街にさらなる災厄を齎らすと言うなら……平井はヴィルヘルミナを止める言葉を持たない。
「………行きましょう、カルメルさん」
ヘカテーは違う。
強く念じて一歩を踏み出す平井は………
「………?」
掛けた言葉に返事が無い事を訝しんで、振り返る。
「カルメルさん……?」
そこには既に、フレイムヘイズ『万条の仕手』の姿は無い。
登校する生徒の居なくなった通学路を、冷たい風が通り過ぎた。