「何かお前と二人で帰るの、かなり久しぶりな気がするよ」
その日の放課後、坂井悠二は中学からの友人である池速人と二人で道草をしつつ下校していた。
本屋で立ち読みしたり、CD屋を冷やかしたり、どこにでもある ありふれた日常の光景として。
「池は入学してすぐ予備校とか入ったし、僕の周りもドタバタしてたからなぁ……」
自販機でコーヒーを買い、何となく立ち寄った公園のベンチに腰掛けてダラダラと話す。ほんの半年前には当たり前だった過ごし方が、今は遠い過去の事であるように思えた。
「平井さんと近衛さん……か。中学の頃の坂井からは想像できない絵面だよな。これが噂の高校デビューか」
中指で眼鏡を押し上げながら、如何にも皮肉っぽい口振りで話し掛けて来る池。その横顔を敢えて見ずに、悠二は小さく鼻を鳴らした。
「(よく言うよ)」
池は知らないだろうが、悠二と平井が親しくなったのは、単に席が隣になったからというだけではない。
悠二の親友である池に、平井が好意を寄せていたからである。最近では何故かサッパリその手の話題が出る事も無いが、当時は頻繁に引っ張り回されていたものだ。
……しかしまあ、そんな事を池に直接言えるわけもないので、返事もせずにコーヒーを啜る悠二だった。
「あと、吉田さんも」
「ブフッ!?」
だと言うのに、池はお構い無しに突っ込んで来る。話題を避けていると察してくれるだろうと思っていた悠二は、口に含んだコーヒーを盛大に吹き出した。
「なっ、な……何だよ急に!? さっきから!」
「別に急な話じゃないだろ。むしろ遅過ぎるくらいだ」
思わず振り向いた悠二の見た池の表情は……存外に真剣で、悠二は僅かに気圧される。そこに、他人事を面白がっているような色は微塵も無い。
「気持ちに応えてやれなんて言うつもりないけどさ。……変だろ? 吉田さんがあれだけ勇気出してるのに、お前は何も言わないで弁当もらってるだけって」
案の定、池は厳しい口調でグウの音も出ない正論をぶつけてくる。………そう。それは、悠二が今まで向き合っていなかっただけの、厳然たる事実だった。
「………………」
弁当をくれているだけ、などという欺瞞はとっくに通用しない。告白という明確な形ではないにせよ、悠二は吉田の示してくれる好意に気付いていた。
「(でも僕は、人間じゃない……)」
いや……そんな打算に逃げるまでもなく。誰かを好きになるという感情を……悠二は未だに知らなかった。
「………ま、僕が口出しする事じゃないか」
黙り込んでしまった悠二の肩を、打って変わった気軽な調子で叩いて、そのまま池は立ち上がる。「親に買い物頼まれてるんだ」と後ろ手に別れを告げて歩き去る背中に、悠二は何か言おうとして……結局押し黙った。
「とりあえず、後悔だけはしないようにな」
最後に告げられた一言が、重く深く、悠二の胸に楔を残した。
「この街に起きている、異変?」
「その通りであります」
悠二が思春期の少年らしいようでそうじゃない……と見せて実は少年らしい悩みに頭を悩ませている頃……平井ゆかりは、とある喫茶店で怪しげなメイドと相対していた。
「今日一日、この街を視察していたのでありますが……とにかくトーチの数が多過ぎる。早急に徒を見つけ出さねば、取り返しのつかない事態にもなりかねないのであります」
とーち? ともがら? と首を傾げそうになる平井だったが、今の自分は“近衛史菜”。このメイド……ヴィルヘルミナが当たり前に使う単語を訊き返すわけにはいかない。神妙な顔で頷き返す。
「(て言うかコレ、実はかなりヤバい感じなんじゃ……)」
そうしてしまってから、早くも後悔に襲われる平井。解らないながらに、『取り返しのつかない事態』という言葉に危機感を募らせて………
「(ヤバいんだったら、なおさら退けない)」
しかし怯まず、逆に己を奮い立たせる。その取り返しのつかない事態に、近衛史菜……ヘカテーが関わっているのだ。半ば以上に面白半分だった行為が、強烈な使命感へと磨り替わっていく。
「とーち、そんなに多いんですか?」
「異常であります。徒は通常、フレイムヘイズとの戦いを避ける為に無駄な歪みを避け、一つ所で多くの人間を喰らわない。……しかし、この街の徒は明らかに常道を外れている」
軽く繰り出した平井のジャブに、トリッキーなクロスカウンターが被せられた。さっきまでの危機感が途端に霧散する。
「(……今、人間が喰われるって言った?)」
真顔で珍妙な事を言われると大変リアクションに困る。笑うべきな否か、たっぷり三秒ほど見つめてみるものの、敵はヘカテーを優に超える鉄面皮の持ち主である。初対面の平井が見分けるにはハードルが高過ぎた。
「だからカルメルさんが、そのトモガラがこれ以上人を食べる前にやっつけに来たんですね?」
仕方ないので、どっちにも通用しそうな路線で行く事にした。
両掌を合わせて朗らかに笑い、「いや頼もしいですホント」というオーラを全身から漲らせて。
結果は………
「? フレイムヘイズは、元よりそういう存在であります」
………まさかの、肯定。
今度こそ言葉を失って硬直する平井の様子には気付かず、ヴィルヘルミナは手元の紅茶を一息に飲み干し、立ち上がる。
「その為にも、貴女の協力が必要なのであります。街の異変を掴むには、この街を良く知る者の認識が最善でありますから」
そして、“眼前の少女以外”誰にも見られていない事を確認してから……『清めの炎』で自身の口を拭った。
「………?」
そんな………フレイムヘイズとしては日常的な動作を見て、“近衛史菜”は目を皿のようにして固まってしまっていた。
………おかしい。ヴィルヘルミナの認識通りならば、近衛史菜にとって『清めの炎』など珍しくもない筈。
「まさか………」
「一般人」
その僅かな違和感が、そもそも無理があった茶番劇に、呆気なく幕を下ろした。
「………それで、近衛史菜のフリをしていたわけでありますか」
「…………はい」
責める、というよりも呆れた半眼で見下ろされ、平井ゆかりは俯いて小さくなる。しかし、その様子は反省というよりも混乱に近い。
「(……まあ、無理もないのでありましょうが)」
「(軽率)」
「(うるさいのであります)」
もっとも、ヴィルヘルミナに平井を強く責める意思は無い。確かに近衛史菜を騙ったのは彼女だが、それだけではこんな事態には成り得ない。会話に遊びを持たず、端的に要件に入るヴィルヘルミナの性分が招いた失態でもあった。
「(しかし、これは……)」
「(好都合)」
確かに失態ではある。しかしヴィルヘルミナは、失敗とは考えない。凹んでいる少女の弱気に付け入るように、要求する。
「もう良いのであります。それより……“本物の近衛史菜”の居場所を教えて貰いたいのでありますが」
許すような口振りで、気配を漏らさない程度に、身に纏う存在感を強める。それだけで、眼前の少女は得体の知れない貫禄に呑まれる。
「………その前に、訊いてもいいですか?」
―――筈だった。
有無を言わさぬつもりで威圧したヴィルヘルミナに、平井は顔を上げて質問し返して来たのだ。
「カルメルさん……ロクに確認もしないで あたしを“近衛史菜”だって断定しましたよね」
俯かせていた顔を上げ、目を逸らす事もなく、真っ直ぐにヴィルヘルミナの瞳を見据えて来る。その中に在る真意を見極めようという意思を込めて。
「いくら店内に居たのが あたしだけだったからって、変じゃないですか?」
「(………この子供)」
怯えるどころか冷静に不自然な点を拾い上げて、躊躇なく問い詰めて来る。今も変わらず威圧し続けているヴィルヘルミナに。
「何か、あたしを近衛史菜だって確信できる目印があったんじゃないですか」
しかも、思い切り図星を突かれた。ほんの数分前まで、トモガラという単語すら知らなかった一般人に。
「……それを訊いて、どうするつもりでありますか」
「教えてくれなきゃ、近衛史菜の居場所は教えないって事です」
突き放してみても、やはり動じない。逆にヴィルヘルミナの方が驚かされた。
「…………………」
二人で一人の『万条の仕手』は、それらしい言い訳は無いかと僅かに思考を巡らせて……見つからず、諦めた。
ヴィルヘルミナと平井には、これまで一切の接点が無い。そんな相手を待ち合わせ相手と間違える理由など、それこそ“本当の理由”くらいしか思い付かない。
「―――それは、貴女から………」
平井ゆかりの知人である。そこまで判れば、直接教えて貰わなくとも探る手段はいくらでもある。だが敢えて、ヴィルヘルミナは平井に語る事にした。
この歪みきった状態すらも、より大きな災禍の布石でしか無いとすれば……悠長に構えてはいられない。
「異能者が持つ気配の残滓が、色濃く匂ったからであります」
一人の少女が真実を知る不幸と、この街に迫る歪んだ脅威。どちらを憂慮すべきかなど、秤に掛けるまでもない。
御崎市から遠く離れた山嶺の野。人跡未踏の頂に一人、水色の少女が跪いている。
両の手を組み、瞳を閉ざすその姿は、まさしく神に祈る巫女そのもの。
「“頂の座”ヘカテーより、いと暗きに在る御身へ」
ゆっくりと、目蓋が開かれる。常ならば水色に光る少女の瞳が、今は黒き闇に染め上げられていた。
「此方が大杖『トライゴン』に、彼方の他神通あれ」
傍らに突き立てられた巫女の錫杖が、見えない何かを受けて震えだす。
「他神通あれ」
それに呼応するように天が渦巻き、水色の光が雪となって山野を壮麗に飾った。
「他神通あれ」
踊る光華が天の川となり、緩やかな螺旋を描いて舞い続ける。その、あまりに幻想的な光景は………
「他神通あ―――」
巫女の祈祷が止むと同時、爆縮にも似た激しい光を生んで、瞬時に“吸い込まれた”。
糸の切れた操り人形のように崩れ落ちた少女が、ゆっくりと身を起こす。その瞳は、水色の輝きを取り戻している。
「…………あと、一つ」
少女……“頂の座”ヘカテーの掌中で、銀の宝珠が燦然と輝いている。