ヘカテーが平井のマンションに泊まった翌朝。監督不在をいい事に夜と朝の鍛練をすっぽかして久しぶりの惰眠を貪ってから登校した坂井悠二を待っていたのは………
「は? いなくなった?」
「うん……坂井くん家にも帰ってないの?」
朝起きたら『出掛けます』という書き置きだけ残してヘカテーが姿を消していた、とのたまう、微妙に悄気かえった平井だった。側頭の触角が力無く垂れている。
「書き置きあったからそんなに問題視してなかったんだけど……よく考えたら夜中に出てく時点でおかしいんだよね。うぅ、あたしがもっと強くハグっとけばこんな事には……」
何やら保護者気分で責任感に耽っているらしき平井を眺める悠二は、対称的に落ち着いたものである。
「自分で出掛けたんなら、別に心配する事ないよ。ヘカテー星みるの好きだし、天体観測にでも行ったんだろ」
「……ホント?」
心配するどころか、平井にフォローを入れる余裕すらあったりした。
ヘカテーの強さを知る悠二が身の安全を案ずる道理は無く、この一ヶ月で『目を放したら何をしでかすか判らない』という心配もかなり薄れている。それに加えて、
「(普通に、いるもんなぁ……)」
悠二は、その鋭敏な感知能力でヘカテーの存在を掴んでいた。正確には、この世ならざる大きな存在が街に在る事を感じていた。位置までは判らなくとも、居るか居ないかくらい判る。
「目を離すとひょいひょいどっか行くのはいつもの事だし、いちいち気にしてたらキリが無いって」
ついでに嘘も吐いてみる。「街に気配がある」などと言えるわけもないから、別の方向から平井を安心させようと考えた次第だ。……少し前までと正反対のやり取りだと思うと、何だか可笑しかった。
「……何かあやしー」
そして、そんな変化はいとも容易く見破られたりしてしまうわけで。
「坂井君、ホントはヘカテーがどこ行ったか知ってるんじゃないの?」
「ッ知らないって! 何でそうなるんだよ!」
「だって平然とし過ぎてて坂井君らしくないんだもん。何か根拠とかあるんでしょ? 吐けー!」
あらぬ疑いを掛けられつつも、とりあえず無用の心配を払う事には成功する。
椅子の後ろからヘッドロックを極められつつ、そういえば、と悠二は思う。
ヘカテーが御崎市に居る事は判っていても、なぜ彼女がそうしているのかは判っていない。普段のヘカテーから鑑みれば、学校をサボって遊んでいるとも考え辛い。
「(一体、何してるんだろうな)」
悠二は気付かない。
いま自分が感じている気配が、ヘカテーのものではないという事を。
悠二は知らない。
紅世の徒と似て非なる存在―――フレイムヘイズの持つ気配を。
御崎市の市街地を外れた人通りの少ない路地を、これでもかと言うほどに人目を引く女性が歩いている。
精巧に作られた人形のような端整な美貌もその一因を担っているが、それ以上に彼女の服装が目立ちに目立つ。
桜色のセミロングの髪に同色の瞳。薄紫のワンピースの上から身に付けているのは純白のエプロンドレス、そして頭上に輝くヘッドドレス。端的に言えば、メイド姿である。
それだけでも十分に奇特なのだが、彼女は今にも登山でも始めてしまいそうな大きなサイズのザックを背中に背負っていた。アンバランスにもほどがある。
「……思っていた以上に、酷い状態でありますな」
「歪曲過剰」
彼女の名はヴィルヘルミナ・カルメル。
紅世の王、“夢幻の冠帯”ティアマトーと契約を交わしたフレイムヘイズ、『万条の仕手』である。
「(……まるで、消滅する直前のオストローデを見ているようであります)」
フレイムヘイズとは即ち、世界のバランスを守るという使命を帯びた王の剣だ。
今の彼女もまた、その使命に則り、トーチが大量に発生したというこの御崎市を訪れていた。目的は原因の究明、及び排除である。
朝一番の電車で御崎市に到着したヴィルヘルミナは、その足で街の中を練り歩いていた。
不意に、コンビニのガラスの向こうの時計が目に留まる。
「む……」
「時間」
フレイムヘイズはトーチと同じく、日常から零れ落ちた存在。しかし、全ての人間が日常の中に生きているわけでもない。
フレイムヘイズの情報交換支援施設『外界宿(アウトロー)』。人間でありながら、力以外のあらゆる方面でフレイムヘイズをサポートする組織の力を、ヴィルヘルミナも大いに有効活用していた。
今もそう、異質な存在に辿り着く為に、街に起きた異変をより正確に知る為に、この街で生まれ育ったという外界宿の構成員と待ち合わせをしている。
「少し早いでありますが、向かうとするであります」
「五分前行動」
実のところヴィルヘルミナと、彼女の頭上のヘッドドレスに意識を表出するティアマトーは、既にこの街に紅世の徒が居ると確信していた。
喰い荒らされた痕跡たるトーチの数だけではない。フレイムヘイズとしての彼女らの感覚が、人ならざる存在の気配を明確に察していた。……だが、その気配は自在師特有の不安定な振幅を繰り返していて、場所の特定にまでは到らない。
やはり、情報に精通した協力者は必要だった。
「(……“愛染の兄妹”ではないようでありますな)」
踵を返して待ち合わせ場所へと向かう。少し早足に歩を進めながら、判っている範囲で可能性を模索する。
この国に渡る少し前、ヴィルヘルミナはある徒を追跡していた。
“愛染自”ソラトと、“愛染他”ティリエル。自儘に生きる徒の中でも、際立って“歪み”に配慮を欠いた若い兄妹。
この街にも、彼らの足跡の一つかと考えて足を運んだのだが……どうやら違うらしい。あの兄妹は気配を完全に遮断する独自の自在法を絶えず身に纏っていた。その彼らが、こんな風に気配を曝け出しているなど考えられない。
「到着」
「でありますか」
思案に耽って歩く内に、目的の店に辿り着いた。元々待ち合わせの事も考慮して散策していたので、そこそこに近い場所までは来ていたのだ。
人気の少ない路地の、いつ潰れてもおかしくないような寂れた喫茶店。確かに、紅世に関わる者が話す場所としては悪くない。余人が盗み聞いてどうこう出来るような話ではないが、やはり人気は少ないに越した事は無い。
耳に心地好い鈴の音を奏でて、喫茶店の扉を潜る。怪しいメイドの入店に、ウェイターらしき人物が密かにギョッとなりつつ「いらっしゃいませ」とぎこちなく言うが、ヴィルヘルミナはやはり気にしない。
待ち合わせた人物を探そうと店内を見渡して……
「む……」
「発見」
一目で見つけた。
そもそも他に客が居ないのだが、それ以上の特徴が彼女には在った。
日当たりの良い窓際のボックス席で、美味しそうにフルーツサンドを頬張っている少女。………それも、学校の制服らしき衣服身を包んでいる。
「(まだ年若い、とは聞いていたのでありますが……)」
まさか学生だとは思わなかった。……場違いであると感じながらも、ヴィルヘルミナは迷う事なく足を運び、少女の前に立った。
「“近衛史菜”でありますな?」
ヘカテーが姿を消したその日の放課後、平井ゆかりは一人で街を歩き回っていた。
当の悠二は適当な言葉で場を濁していたが、平井はそんな曖昧な理由で誤魔化されたりはしない。何せ、結局ヘカテーは今日一日学校に来なかったのだから。
「(おかしい)」
と、平井は思った。
真夜中に姿を消し、そのまま学校にも出て来なかった小っちゃい娘。……平井の知る坂井悠二ならば、ここは心配して然るべき場面である。
だと言うのに、あの楽天的な意見と行動。何かしら、平井の知らぬ“安心要素”を知っているに違いなかった。
「(……最近、ちょっと余所余所しいんだよね)」
と言っても、平井も今朝のような心配を継続しているわけではない。安心要素を悠二が知っている時点で、平井の心配も自動的に自然消滅だ。……ので、これは一から十まで彼女の興味本位による行動だった。
通常の平井は他人のプライベートに無遠慮に踏み込むほど無神経ではないが、生憎と悠二らは他人ではない。まぶだちである。
「(困ってる事あるんだったら、相談してくれたらいいのに………)」
そんなわけで、ヘカテーの不審な行動を目撃すべく歩き回っていたのだが、何の手掛かりも無しに都合良く見つかるわけもなく断念。手近な所で知っている店を求めて、フラフラと行き着けの喫茶店に流れ着いた。
立地が悪いせいで いつ潰れてもおかしくないこの店は、意外と美味しい料理を出す隠れた名店であった。世の厳しい生存競争に敗れてこの店が潰れてしまう事が、平井の細やかな不安だったりする。
「はむっ♪」
自由自適な一人暮らし。誰に気を遣う事もなく、平井は少し早めの夕食を採る。「帰ったら晩ごはんがあるから控え目にしなきゃ」といった気掛かりも無い。
そうして暫く、趣味の好いクラシックの流れる店の中で優雅な一時を過ごしていた平井。
その、目の前に………
「“近衛史菜”でありますな?」
全く唐突に、何の脈絡も無く、その人物は現れた。
「(ぅわぉ……!)」
鮮やかな桜色の髪と瞳を持ち、思わず平井が内心で喝采を上げるほどの、絶世の美女……否さ、メイド。
「先日、関東外界宿第八支部に連絡を入れた“夢幻の冠帯”ティアマトーのフレイムヘイズ、『万条の仕手』ヴィルヘルミナ・カルメルであります」
いきなり現れたかと思えば、平井には何の事だかサッパリ解らない単語を並べ立てるメイド。深々と下げた頭に、背負っていた背嚢がゴツンッと割と痛そうな音を立てて直撃したが、メイドは顔色一つ変えずにまた姿勢を戻す。
「(こ、こここ……こりは……!?)」
はっきり言って、ムチャクチャ怪しい。ここに居たのが坂井悠二なら、当たり障りの無い建前を並べつつ一目散に逃げ出すほど怪しい。
………が、平井にそんな無難なスキルは備わっていない。いま平井にとって重要なのは、このメイドが日本語を喋れるという事、そして……“近衛史菜”の名を持ち出したという事だ。
ウォッホン! と、平井はわざとらしく咳払いをしてから、
「YES! MY NAME IS HUMINA KONOE!」
「………日本語で喋っているつもりでありますが」
「冷静要求」
無駄に流暢な発音で、偽りの自己紹介を敢行した。
一方その頃、“本物の近衛史菜”はと言えば………
「い、犬が! 犬が追い掛けて来るー!」
「ウー、ワンワン!!」
「こらっ、エカテリーナ! あの人は不審者じゃないの! 追い掛けちゃダメ!」
可愛らしい豆しばに追い掛けられて半泣きになっていた。
―――平井ゆかりは知らない。近衛史菜という名前が、ヘカテーがホテルの受付嬢の名を騙った偽名であるという事を。