「………出て来ませんわね」
妖花の織り成す美しい城の頂に立ち、“愛染他”ティリエルは己が生み出した揺り籠に視線を巡らせる。
山吹色の木葉を舞わすこの霧の結界は、封絶ではない。彼女の誇る自在法『揺りかごの園(クレイドル・ガーデン)』だ。
気配を隠蔽するこの自在法で自分たちの身体を覆っていた“愛染の兄妹”は、実はとっくに獲物の位置を掴んでいた。その獲物がこちらに気付いていないという確信の下、周到に準備を続けていたのだが……
「……取り逃がしたかしら」
その獲物の気配が急に遠ざかり、次いで忽然と消えたのだ。用意した檻から獲物を逃がす事を危惧したティリエルは、即座に『揺りかごの園』で街一つを丸ごと包んだ。これに囚われた者は、ティリエルを討滅でもしない限り中から出る事は不可能なのだが……未だに気配が現れる様子は無い。“仕掛けた目”にも、それらしい姿は見当たらない。
もし既に範囲外に逃げられているとしたら、これまでの準備が全て無駄になってしまう。と表情を険しくするティリエルの隣から、“愛染自”ソラトが首を出した。
「ちがう! いるよティリエル! ゆりかごのなかにいるよ!」
「! そう、そうですのね、お兄様」
自身は獲物の気配を全く掴めていないにも関わらず、ティリエルは兄の言葉をあっさりと信じる。
これがソラトの、本質から滲み出る特殊能力。どんな秘匿も隠蔽も通用しない、己が欲する存在そのものを貪欲に嗅ぎ分け見つけだす『欲望の嗅覚』。
「では頂きに参りましょうか、お兄様。もう、我慢なさらなくて結構ですから」
欲望に誘われ、妖花が伸びる。嬲り、奪い、踏み潰す為に。
「じ、自在法……!?」
陽光の大地の上、突如として湧き上がった山吹色の結界。今度こそ間違い様のない戦いの予兆に、悠二は引きつった悲鳴を上げる。
その隣で、ヘカテーが水色に燃え上がった。炎が全身を包み、消えた後に佇むのは、大きな外套と帽子に着られた紅世の巫女。
「……悠二、気配は宮殿からですか?」
「いや、違うと思う…けど……」
宮殿を数秒睨み付けてから、ヘカテーは視線を偽りの空へと向けた。
一応悠二に確認は取ったが、いくら何でも目の前の宮殿で自在法を使われて気付かないわけがない。となるとこれは、『天道宮』の外からのもの。……だが、そうだとしても疑問が残る。さっきまでヘカテー達は何の異変も感じずに休暇を過ごしていたのだから。
「(……私や悠二に一切の気配を感じさせず、これだけの自在法を瞬時に構築できる自在師)」
状況の理解は、そのまま現実の脅威へと繋がる。『天道宮』の『秘匿の聖室(クリュプタ)』が敵の気配を完全に遮断しているというのも、不安を煽る大きな要素となっていた。
……だが、安心出来る事実もある。気配を隠せるにも関わらず、不意打ちも掛けずに こんな形で結界を張って来たという事は、相手も『秘匿の聖室』の隠蔽までは見抜けないという事だ。
―――ならば、取るべき道は一つ。
「『星(アステル)』よ」
ヘカテーは右手に握った大杖『トライゴン』を『天道宮』へと差し向け、瞬く間に数十の光弾を流星と変えて降らし、神秘的な宮殿を爆撃した。
「うおぁ!?」
後顧の憂いを断った上で この『天道宮』に悠二を匿い、その間に自分が敵を排除する(二人とも隠れてやり過ごせる、と思うほど楽観的ではない)。
「ここから出ないで下さい」
宮殿の爆破に戦慄く悠二に一方的に言い捨てて、ヘカテーはあっという間に青空の彼方に飛び去った。
「…………ヘカテー」
燃え盛る宮殿を中心とする穏やかな庭園に一人残された悠二は、それをただ見送る事しか出来なかった。
「…………………」
戦いになれば足手纏いにしかならない。そんな事は判っている。ここに自分を残して行ったのも、ヘカテーなりの優しさだろう。今なら、そう言い切る事も出来る。
理解は出来て、しかし納得は出来ない。……いや、したくない。
『……我々と、同じだから…です。隣を歩む……者で、あっても……変わらないモノを持っている。だからこそ―――』
あの時……消滅の恐怖も自分たちの在り方も越えた所で感じた繋がりが、遠い過去になってしまう気がした。
「………戦う前は、ヘカテーの事だって怖がってたのにな」
蔵する宝具が偶々『零時迷子』だったというだけで、随分現金なものだと自分でも思う。それでも、やはり………今の自分でも、何か出来ないかと考えてしまうのは止められない。
「(フリアグネの時も、燐子の爆発を見抜けたんだ。今回だって、僕にも何か………)」
今の自分の唯一の武器とも言える、ヘカテーさえ凌ぐ感知能力を活かそうと、『秘匿の聖室』に遮断された空間で無為に意識を集中した悠二は、
「っ……」
思惑とは異なる形で、その成果を得る。変わらず、“外”の気配は少しも解らない。掴んだのは、“中”。
先ほど感じた小さな気配が、燃える宮殿の中で今も息づいていた。
『天道宮』を脱し、海中へと飛び出したヘカテーが真っ先に感じたのは、
「(……近い)」
彼女の予測に反して急速に接近して来る二つの気配。涎を拭えない獣のような剥き出しの存在感と、不規則に振幅する曖昧な違和感。『秘匿の聖室』は感知出来ないと思っていたのに、明らかにヘカテーが出て来る前から接近を始めていた。
同時に脳裏を掠める、不自然な矛盾。
「(………小さい?)」
近づいて来る敵の気配は、ヘカテーが警戒していたよりもかなり小さい。とても、こんな大掛かりな自在法を扱えるとは思えない。
どちらにしろ向かって来るなら加減はしないと心に決めて、ヘカテーは高速で海面を突き抜けた。
そうして、目を見開いた。
「(これは……)」
山吹色の結界が、遠くに映る街をと容易く呑み込んで、不気味な霧と木葉を鮮やかに撒き散らす。
それら、徒の起こす不思議そのものと呼べる光景を背にして、海上に巨大な花が咲き誇っている。
「………あら、貴女でしたの」
その花に抱かれるようにして、二人の徒が抱き合ったままヘカテーを見ていた。
金髪と碧眼を魅せる、フランス人形の様な可憐な容姿の少年と少女。髪の長短や、鎧とドレスという服装の違いこそあれ、二人は鏡に映したように瓜二つの顔を持っていた。
「いつかはお世話になりましたわね。貴女でも外に出る事があるとは思いませんでした。箱に詰まって星と遊ぶ、つまらないお姫様?」
少女が口の端に厭味を乗せてわざとらしく笑う。その挑発的な態度は気にも留めず、ヘカテーは言葉そのものに反応した。
「………お世話?」
その、心底不思議そうな声に―――
「……まさか、憶えてらっしゃらないの?」
少女……“愛染他”ティリエルは、冷たい炎を瞳に宿した。
そう……彼女ら兄妹がこの世に渡り来てから程なく、二人は『仮装舞踏会(バル・マスケ)』の本拠たる『星黎殿』を訪れた。
そこで二人に、この世を謳歌する作法を説く訓令を授けたのが、他でもないヘカテー。……欲望と憤怒のままに牙を剥いた兄妹を苦もなく一蹴したのも、ヘカテーだった。ティリエルにとっては、忘れたくとも忘れられない屈辱の記憶……だが、
「………………」
ヘカテーにとっては、過ぎては流れる日常の欠片に過ぎなかった。この世に渡る徒は基本的に自儘で傲慢な性格をしているので、訓令の際に攻撃されるのも大して珍しい事件でもなかった。
そんな徒の兄妹をヘカテーが忘れてしまっているのも、ある意味仕方ない事なのかも知れない。
もちろん、そんな事情は愛染兄妹には関係が無い。自分たちが忘れられている、忘れられる程度の存在でしかない事に、甚だしく自尊心を傷つけられていた。
「そう……でしたら、今度こそ二度と忘れられないよう、その出来の悪い頭に恐怖と共に刻みつけて差し上げます」
煮え滾る怒りを暗い愉悦に混ぜて、ティリエルは凶悪な笑みを浮かべて見せた。最愛の兄の欲望を満たし、同時に忌々しい女も嬲り殺せる。これほど素晴らしい事は無い。
「私は“愛染他”ティリエル。そして彼が私のお兄様、“愛染自”ソラト。短い間の事でしょうけれど、しっかり憶えておいでなさいな」
名乗りと共に、まるでダンスにでも誘うように右手を差し向けるティリエル。その指先に導かれて、妖花の蔓が多頭の龍の如くヘカテーに襲い掛かった。
その先を、
「『星』よ」
光の巫女が制する。
錫杖の遊環が涼やかな音色を奏で、明るすぎる水色の星々が少女の周囲を照らした。
それら全てが………
「あ――――」
一斉に奔り、迫る蔓を粉砕し、巨大な花を咬み千切り、連鎖的な爆発を呼んで凄まじい水柱を起こした。
「……この程度ですか」
『トライゴン』を軽く振って、ヘカテーは波打つ水面を宙から見下ろす。
今の一撃は、迎撃であると同時に一つの保険でもあった。つまり……妖花の付近で静止していた、平井たちの乗るボートを破壊する事こそが目的だったのだ。
封絶内部の破壊は、外界と因果を繋ぎ合わせる事で後から修復する事が出来る。しかし、徒に喰われた人間の存在は還って来ない。故にヘカテーは、愛染兄妹が平井たちを喰らう前に必要以上に派手な攻撃で破壊したのだ。
「(感知と隠蔽が得意なだけの徒か……)」
己の買い被りに嘆息し、トドメを刺すべく錫杖を振りかざし―――
「ッ………!?」
瞬間、動きを止めた。
眼下の海中に向けて、凄まじい力の波が一挙怒涛に押し寄せ、瞬く間に集結した。
「っ『星』よ!」
逡巡も数瞬、練り上げた力を煌めく流星群へと変えて解き放つ。それと同時、集約された力が練り上げられ、突き上げられるのを感じて―――――
「ッッ!!」
力と力が真っ向からぶつかり合い、水色と山吹色が弾けて大輪の華を咲かせる。
その、向こうから………
「……!?」
―――無数の蔓が、雪崩を打って押し寄せて来る。