―――― ∞ ――――
(Question):
救世主とは何者であるか?
――――救世主とは、世界を救う者のことだ
(Question):世界を救うとはどういうことか?
――――世界を救うとは…………
世界を救う………とは……
答えに詰まるのも仕方ない。その定義は至極曖昧で、誰かが容易に定められるものではないから。
けれど、それは“全てにとって完璧な解答”を期待した場合に限る。
“全てにとって完璧な解答”ではなくとも、“僕らの間においてのみ完璧な解答”であるならば、良いのだ。
では、僕らにとって完璧な解答とは……――――?
――――………………
……それを得るため、まずは定義しなければならないものがある。
僕らなりの定義を、ここで互いの共通理解として持っておく必要がある。
例え、それもまた、全てにとって完璧な解答でなくとも。構わない。――――問おう。
(Question):世界とは、何か?
――――世界とは……
「世界とは……」?
――――俺達にとって世界とは…………「人間の世」だ
……そうだね。
人間の言う「世界」とは。「人間の世」であり。
その人間の手によって生まれたレプリロイドにとっての「世界」もまた、「人間の世」と言って差し支えない。
補足があるならば、レプリロイドにとっての「世界」とは、つまり「人間とレプリロイドの世」というのが、最も適当だろう。
故に――――……‥‥
(Question):救世主とは、何者であるか?
(Answer):救世主とは、「人間の世」を救う者のことだ
そう。救世主とは、人間(ないしレプリロイド)にとっての救世主であればよい。
それ以外の存在にとっては、時に敵となりうる可能性すら持っていても構わないだろう。
では――――次の問だ。
(Question):それでは、如何にして“救う”のか?
――――人間の……生活を、命を守ることによって救うのではないか
それは、つまり
(Answer):“人間”という種が存続し続けるように“守る”ことで、“救う”のだ
……続けて問おう。
(Question):如何にして“守る”のか?
――――簡単な事だ
(Answer):脅威を取り除くことで守るのだ
非常に無難で、順当な答えだと思うよ。……いや、その通りだ。
か弱い“人間”の命を守ることこそが、救世であり、救世主とはその先陣を切っていく存在だろう。
そして、脅威となり得るものを排除することで、守っていく。――――それが“救う”ということ。
では――――これはどうだろうか?
(Question):“人間”という種を“脅威”から守るとして、いったい何者から守るのか?
“人間”という種が、この地球上で一時の栄華を誇ったのは間違いない。
だが、その上で、何ゆえ救世主が必要とされるのだろうか。これだけ繁栄した“人間”という種を、一体何者が脅かすというのか。
――――自然環境は、どうだ?
(Answer):“人間”という種が、適応できない速度で、自然環境が変化してしまえば、それが脅威となりうるのではないか
間違いではないだろうね。
実際。イレギュラー戦争の副産物としての環境汚染によって、人類はネオ・アルカディアという国家に逃げ込まざるを得なくなった。
生命の母たる海からは隔絶され、森林の類は絶滅したも同然。今の程度だからまだ保っていられるが、これが、更に悪化していけば?
君の言う通り、自然環境の変化は、間違いなく、人間にとって脅威となりうるだろう。
しかし――――
(Criticism):それは“救世主”が対応すべき相手ではない
“自然”に意志はなく。“自然”に目的はなく。“自然”に敵意はなく――――……‥‥
そんなものを相手取って、人類を守るという使命を、果たせる者がいるだろうか。
ともすれば、自身もまたその“自然”によって淘汰されかねないというのに。
“自然”は、“救世主”が手に負えるような相手ではない。
故に、“自然”は人類の脅威となりうるが、“救世主”の対応すべき相手ではない。
(Re:Question):いったい何者から守るのか?
――――……人間の敵から守る
人間の敵とは?
――――……それは……
(Answer):レプリロイド――――イレギュラーから守るのだ
人類の生活を脅かし、生存の危機を招いた原因はイレギュラー戦争に他ならない。
そもそも、レプリロイドという存在自体が、人間に対して脅威となりうる力を十二分に持ち得ている。
イレギュラーになるかどうかに限らず、レプリロイドは、人類の敵として相応しい存在だった。
……そう考えるのもまた間違いではないだろうね。
しかし、実際にそうなのだろうか。人間にとってレプリロイドは敵となり得るのだろうか。
(Criticism):レプリロイドに、人間を殺すことが出来るか
――――出来る。当たり前だ。
人間よりも遥かに強い力を持ったレプリロイドが、どうして人間を殺せない道理があろうか。
その主張はもっともだ。――――では、これはどうだろうか。
一人のレプリロイドが、人間に叛意を持った。
殺そうと思い、武器を振り上げた。さて、殺人は成功するか――――?
――――それは……
………………………………………
……しない。何故なら……
人間に敵意を向けた瞬間に彼は、スクラップに変わってしまった。
理由は簡単だ。彼は“イレギュラー”に認定されたのだ。
では、これは?
一人のレプリロイドが、人間に逆らった。
自分の行動こそが正しいと、主張した。さて、彼はどうなるか――――?
――――それは………同じだ
人間に逆らった彼は、鉄屑に変えられてしまった。
理由は簡単だ。彼は“イレギュラー”に認定されたのだ。
――――……同じだ
人間に歯向かった彼は、頭部を撃ち抜かれてしまった。
理由は簡単だ。彼は“イレギュラー”に認定されたのだ。
――――……どれも、同じだ
人間を傷つけた彼は、ハンターによって処分されてしまった。
理由は簡単だ。彼は“イレギュラー”に認定されたのだ。
(Answer):レプリロイドは人間を殺せない
理由は簡単だ。それより先に“イレギュラー”に認定され、処分されるからだ。
……これらは、極端な表現にすぎない。事実、殺人に成功したレプリロイドも存在している。
けれど、人間の死因を総合的に考えれば、遥かに少ない割合だ。希少といってもいい。レプリロイドによる殺人の成功率は極めて低い。
その理由は、勿論プログラムという名の理性もあるし、そしてこのような社会システムにもある。
だから、事実として、言い放つことが出来る。レプリロイドには人間を殺せないのだと。
例え、殺すことができたとしても、傷つけることができたとしても、人類という存在に対して、滅亡に至るまでの致命傷を与えるには力不足であると断言できる。
――――しかし……イレギュラー戦争は起こった
そうだね。それも無視はできない。
地球上に生きていたほとんどの人類を駆逐してしまった、イレギュラー戦争という地球規模の一大事件。
だが、しかし。君も知っての通り。イレギュラー戦争の引き金を引いたのは、たった一人のイレギュラーだった。
それに釣られるようにして、次々と事件は引き起こされ、挙句の果てには、人類存亡の危機に陥った。
(Question):それは、全てのレプリロイドに起こりうる事態か?
――――いや…………違う…な……
(Answer):否。もしそうであったなら、人間は今頃、保護されること無く滅亡させられている
そうだ。
地球という惑星がこれだけ荒廃した今、生存圏を制限された人間を滅亡させることなど、レプリロイドには容易い筈だ。しかし、イレギュラー戦争の後でも、そうならなかったのは、ロックマンエックスという救世主だけが理由では決して無い。多くのレプリロイドが、結局は人間を守ることを選んだのだ。
つまりは、イレギュラー戦争を引き起こした男の例は、極特異な“一人”にすぎないと断言できる。
だから、イレギュラー戦争の事例を引き合いに出して、レプリロイドが人間の脅威足る存在であると定義するのは、不適当だ。
――――それならどうして……
「どうして」?
――――どうしてネオ・アルカディアの救世主達は、レプリロイドを危険視して、虐げた?
レプリロイドが、人間にとって脅威ではないと、そう定義できるというのに
何故、この世界は罪もないレプリロイドを、そうまでして排斥しようとしているのか
この事実と、現実の間には矛盾が生じているのではないか
言いたいことは、最もだ。
そうだ。救世主達は、レプリロイドが、人間にとって脅威でないことを先に定義していた。
その上で、下等(とされる)レプリロイドを排斥するような政策をとったのだ。人間優位の世界を作ったのだ。
――――結果、レジスタンスが生まれ、人類は脅威にさらされながら生活を続けている
これが、救世主たちの望んだ「救世」なのか?
…………それに答えるより先に、先の問いの答えを明確にしなければならない。
いや、それに答えるためにこそ、先の問いの答えを明確にしなければならない。
(Re:Question):“人間”という種を脅威から守るとして、いったい何者から守るのか?
いや、もっと簡潔に問おう。
(Question):“人間”の敵は何者であるのか?
“人間”の命を脅かし。
“人間”の生活を脅かし。
“人間”の歴史を脅かし。
“人間”という種にとって、敵となる存在は、一体何者であるのか。
――――…………それは……
……口籠る必要もない。
君はもう気づいているはずだ。
“人間”にとって、最も警戒すべき存在。敵。
それは――――
“人間”の命を奪っても処分されない者。
“人間”の生活を妨げても許される者。
“人間”の歴史を書き換える権利を持っている者。
如何なる虐殺も、時に功績として称えられる存在。
如何なる独裁も、時に英雄として崇められる存在。
如何なる“人間”への侮辱も、恐喝も、暴力も、時に認められる存在。
それは――――…………‥‥‥・・・・・・
(Answer):
“人間”の敵は、“人間”だ
歴史を一度紐解けば、“人間”同士の争いはそこかしこで行われている。
経済か、宗教か、民族か――――理由は様々なれど、“人間”は“人間”を殺し続けてきた。
そして、自分とは他のグループに属する者を、根絶やしにすることも厭わない性分を隠し持っている。
イレギュラー戦争という特異事例を除けば、イレギュラーによる殺人数など、“人間”が犯した殺人の比ではない。
そもそも“人間”は“人間”を殺したとしても、必ず処分されるわけではない。
レプリロイドは“人間”を傷つけただけでも、イレギュラーとして処分されるというのに。
そのハードルの差が、そのまま互いの殺人数の差を物語っているのは間違いない。
それだけではない。レプリロイドの殺人が、必ずしも全てレプリロイド自身の思考によるものとも限らない。
“人間”の理想を、野望を、欲望を叶えるために、道具として扱われた場合もある。
それを“人間”による“人間”への攻撃と言わずして何とする。
“人間”の敵は“人間”だ。
人によっては異論もあるのかも知れない。
けれど、現段階で僕達が共通に辿り着いた答えはこれだ。
故に、これこそが僕達の間でかわされる遣り取りにおいて、最大の定義となる。
“人間”の敵は“人間”だ。
さて、ここで非常に大きな問題が生じてしまうのに気づいただろうか。
(Re:Question):世界とは、何か?
(Re:Answer):世界とは「人間の世」だ
(Re:Question):救世主とは、何者であるか?
(Re:Answer):救世主とは、「人間の世」を救う者のことだ
(Re:Question):それでは、如何にして“救う”のか?
(Re:Answer):“人間”という種が存続し続けるように“守る”ことで、“救う”のだ
(Re:Question):如何にして“守る”のか?
(Re:Answer):脅威を取り除くことで守るのだ
(Re:Question):“人間”の脅威――――敵は何者であるのか?
(Re:Answer):“人間”の敵は、“人間”だ
(Re:Question):その敵をどうするのか?
(Re:Answer):排除するのだ
(Re:Question):“人間”を?
(Re:Answer):“人間”を
“人間”を守るというのに、“人間”を排除するというのか。
――――…………全てを排除する必要はない筈だ
(Question):守るべき“人間”を、選りすぐるのか?
(Answer):そうだ
そうするしかない
(Question):“人間”を殺める“人間”を選り分けるのか?
(Answer):そうだ
そうするしかない
(Question):それが、“人間”を“救う”ということか?
(Answer):それは……………
(Question):脅威になり得る“人間”を“選別”することが?
(Question):未来に有益な“人間”を“選別”することが?
(Answer):…………………………………
「そうする以外ないじゃないか」――――そう言いたげだね。
けれど、本当にそれは正しいのだろうか。
本当にそうするしか道はないのかな。
いや、それをして良いのだろうか。
(Question):それによって、本当に“人間”は救えるのか?
――――いや…………それは………違う
(Answer):救えない。そもそも選別など不可能だ
いったいどれだけの数を殺せば足りるのか
いったいどれだけの摩擦を解消すればよいのか
何千年という時間があろうとも
誰もが心を一つにできなかったというのに
――――どうして、種の脅威となる“人間”を見定めることができようか
…………その問いに、救世主達はぶつかり続けてきた。
「最初の彼」を始めとして。皆が一様にぶつかってきたのだ。
答えは出ない――――そう決めつけて動いても構わないのかもしれない。
だが、それは許されることだろうか。いや、違う。
いつだって求められたのは、その“答え”だ。
救世主達は皆、その“答え”を求められた。「最初の彼」が導き出した“答え”を。
探したよ。けれど、それには誰も辿りつけなかった。
それでも求められた。だから出さざるを得なかった。
“人間”の敵たる“人間”から、“人間”を守る答えを。
現時点で出せる、最良の答えを。
(Question):“人間”を“人間”からどうやって守るのか
それぞれに抱いた野望、感情、利害関係――――それらから起こる摩擦を、争いをなくすには、どうすればよいか。
全て解決するには、方法はひとつ。
(Answer):人間達の心を一つにすれば良い
――――……無茶だ
先程、お前が言った通り、人間の心はいつだって一つになどならなかった。
様々な思想の違いから、衝突は生まれ続けてきた。
当然だ、その多様性こそ、人間という種族が生き延びてきた要因の一つなのだから。
またしても、もっともな意見だ。確かにその通り。
多様性を持って生まれてきた人間が、どうして一つにまとまることができようか。
不可能だろう。――――そう、断じても良かった。けどね――――……‥‥
一度だけ。たった一度だけあったんだ。
人間の心が一つに纏まった瞬間が。
「生存」という一つの命題にむけて、纏まった瞬間が。
全ての摩擦が意味をなくし、“人間”同士の争いが消え、“人間”同士が互いに手を取り合った瞬間が。
――――それは………まさか………
そう、それは――――……‥‥
(Example): イレギュラー戦争
強大なイレギュラーという存在によって、“人間”たちは一つに纏まらざるを得なくなった。
結果として、心はひとつになった。結果として、唯一国家が作り出された。
そう、イレギュラー戦争=強大な外敵の存在こそが、皮肉にも、“人間”を救う一番の近道となったんだ。
――――………それじゃあ……お前たちは……
もう、分かったね。
この世界の真実が。
罪もないレプリロイドが、イレギュラーとされる理由。
レプリロイドが必要以上に虐げられる理由。
戦力差で圧倒的に不利なレジスタンス組織が、今尚存続し続けている理由。
(Question):
“人間”を如何にして救うのか?
何故、この世界は一部のレプリロイドを排斥しようとしているのか?
(Answer):
イレギュラー戦争をモデルケースとして
レプリロイドと“人間”との争いを継続することで
“人間”の心を一つに纏めるためだ
――――…………それが……真実だってのか……
………救世主――――ロックマンエックスの話をしよう。
最初の救世主――――ロックマンエックスの記憶は、後の救世主たちに引き継がれてきた。
しかし、記憶データとともに引き継がれた彼の苦悩からくる負の感情は、(無論、その苦悩は決してこの問題に関するものだけではなかったけれど)あまりにも大きすぎた。
いや、「“彼以外のロックマンエックス”にとって、大き過ぎた」と言おう。何故なら、オリジナルエックスはその苦悩を抱えても尚、正気を保ち、その意志を強く持ち続けていたから。
流石“救世主”と呼ばれた伝説のレプリロイドなだけある。
対して、彼ほどのキャパシティを持ち得なかった他の救世主達は、皆その“感情”に耐え切れなかった。
初期の者達は、その負担に耐え切れず、機能を停止した。
そう、ロックマンエックスの“感情”の記憶こそ、他の“エックス”達にとって最大のバグとなったのだ。
数世代後に生まれ始めた“エックス”達は、オリジナルを参考に作られた優秀なコピーだった。
それ故に、ある程度の期間、耐えることが出来た者も増えてきた。
さて、そんなロックマンエックスの思考を継いだ瞬間から、先程の問いが常に“エックス”たちの頭のなかで行われてきた。
そして、引き継いだ記憶に耐えた、最初の“エックス”によってこの答えが出されてからというもの、皆がこの答えに頼り続けてきた。
それ以上に事態を好転させる正解を見つけられなかったからだ。
――――だが、そんな世の中、そう長く続くはずがない
その通りさ。
実際、人間の欲望は底が知れないものだ。その感情は、測り知れないものだ。
いつしか、この状況に“慣れた”者は、己の地位を向上せんと、他者と競うようになった。非情なまでに。
ある程度までならば問題はなかった。だが、それが命のやりとりにまで発展してしまえば、別だ。
ヴィルヘルムという男の存在こそ、最たる例だ。
原初の目的がどこにあったのかは知れないが、彼は今、人間の頂点に立つため、形振り構わずに突き進んでいる。
相手がレプリロイドであろうと、そして、人間だろうと、立ちふさがるものに容赦はしないだろう。
そして、それは決して彼だけの話ではない。
平和に見える世界の裏で、いったいどれだけの人間が策謀を張り巡らせ、この偽りの平和に楔を打たんと構えているだろうか。
それらが一斉に爆発した瞬間、誰がそれを止められるのか。
いるとすれば、きっと一人だけだ。
――――しかし、その“あいつ”はもういない
そうさ。
いるのは、偽りの救世主だけ。
その場凌ぎの応急処置で、なんとか世界を支えてきただけの、救世主の模造品。
いったい、そんな者に、何ができるというのか。
(Question):では、諦めるのか?
“人間”を守るという使命を。それを果たすために生まれてきたというのに。
事実、このまま行けば、再び世界は混沌の渦に陥っていくだろう。
“人間”同士の権力争いが拡大し、レプリロイドを用いた武力闘争が引き起こされ――――その結果は、言えたものではない。
誰が収束させられるというのだ。その事態を。
何千年という間、争い続けてきた“人間”を、誰が再び止めることが出来るのか。
いるとすれば、一人。――――本物の救世主たるロックマンエックスだけだ。それ以外に頼れるものが、いるだろうか。
――――けれど、“あいつ”はいない
そのロックマンエックスは、いなくなってしまった。いるのは偽りの救世主だけ。
いや、それよりも酷い。
偽りだと暴かれてしまった、哀れな救世主の成り損ないだけだ。
(Question):じゃあ、諦めろというのか?
出来るはずがない。それをすれば、全てが無意味だったと切り捨てることと同義だ。
この百年間、世界を守り続けてきた、救世主達の想いを、心を、魂を、全て裏切ることになる。
でも。自分の力では不可能だ。それは理解している。
(Question):じゃあ、誰に頼ればいい? 誰に縋ればいい?
自分の力では不足だと理解した今。誰かの力を借りたいと願うのは必然だ。
けれど、一体誰がその役を買って出てくれるというのか。
「世界を救う」という、生半可な覚悟では成し得ない理想を遂げることを。
それでもこの世界を救いたいと願う、この僕は――――
い っ た い 、 誰 に こ の 世 界 を 託 せ ば い い と 言 う ん だ ?
「…………たった一人だけ……いたんだ……」
この世界を託すに相応しい人物が。
この世界を救ってくれと、縋るに足る男が。
「本物の救世主と肩を並べられる英雄が、この世界にはまだ一人だけ、存在したんだよ」
伝説の中へと忘れ去られた英雄が。
百年の眠りについた英雄が。
たった一人だけ。
――――…………………………………………
…………おい…………………………
………つまり………お前が…………
「そうさ――――」
世界を救ってくれと願ったのは
伝説に頼ったのは
英雄をこの世界に目覚めさせたのは
その存在を、マザーを介してDr. シエルに伝えたのは
「“君”に縋ったのは――――」
マザーではない
ましてや“母さん”でもない……‥‥
「――――“僕”だよ………ゼロ」
Dr. シエルの手によって生み出された、この偽りの救世主が
君を復活させるシナリオを描いたのさ
この世界を救うために
――――……………………………………………………‥‥‥‥・・・・
―――― 5 ――――
重たい瞼を無理やり開き、顔を上げる。ぼやけた視界が、次第に鮮明になっていく。
視線の先には、蒼い軍勢が広がっていた。それが、ネオ・アルカディアの一般兵――――パンテオンの群れだと理解できたのは、ようやく頭がはっきりして、体中を駆け巡る激痛に気づいたのとほぼ同時だった。
どうやら、各部神経は正常に働いているらしい。
あれだけの力を放ったというのに、こうして生きていられたのは、幸いというべきか。
――――いや、違う……な
自分がこうして生きていられた理由。それは唯一つ。助けられたからだ。
首筋の入出力インターフェースが、僅かに接続の感触を残している。
「ダメだよ、ゼロ。……本当に命が燃え尽きたら、どうやって僕を連れて帰るつもりだったんだい?」
頭上から声が響く。首が痛くて、彼の表情は見れなかったが。
声の感じから、微笑んでいるのだと分かった。
ノヴァストライクとゼットセイバーの衝突。それは、相打ちの形で終わった。
無論、己のすべてを投げ打って刃を振るったゼロの損害は大きく、復帰は著しく難しい状態にまで陥ったのだが、それを救ったのは彼だった。
ゼロと自分とを接続し、自身の自己修復機能をサポートに用いて、ゼロの修復機能を復帰させた。それによって、なんとか一命を取り留められたのだ。
「相変わらずだね」と自身が引き継いだオリジナルの記憶と比較して、苦笑する。
そうさ。ゼロはクールに見えて、その実、荒っぽいところがあった。強引に力で切り抜けようとする時も多々あった。
いろいろと、変わった部分もあるけれど、根本は変わらない。熱い魂を持った、一人のレプリロイドであることは。
ゼロの性分は、ちゃんと分かっている。
そんな彼の思考を他所に、ゼロは言葉を振り絞ろうとする。――――が、上手く声が出せない。どうやら発声器官が損傷してしているらしい。
「クソっタレ」と心の中で毒づく。このような大事な場面で、どうして上手くいかないのかと、自分を詰る。
「それじゃあ、僕は……行くね」
そう言うと、彼は振り返り、歩き始めた。蒼い軍勢の方向へと。
自らとゼロとを討伐せんと現れたであろう、ヴィルヘルムが差し向けたネオ・アルカディアの軍勢に向けて。
百機以上のパンテオンと、メカニロイド、ゴーレムがひしめく戦場へ。たった一人で向かっていった。
その背中を、そこに辛うじてぶら下がる、折れた翼を視界に捉え、ゼロは奥歯を噛みしめる。
「待て」――――と叫ぼうとしたが、やはり声が出ない。
「チクショウ!」と内心で悪態つく。脳内に浮かび続ける、数々のエラー報告をすっ飛ばし、自己修復機能の標的を発声器官に絞る。
声を出さなければならないのだ。とにかく今は、それだけが必要なのだ。
――――伝えなきゃ……いけない言葉があるんだ……
立ち上がることも出来ず、苛立ちから地面をガリガリと引っ掻き回そうとする……が、それすら思うようにいかない。
上体を起こそうにも、関節部が軋み、他の感覚神経を通じて、激痛が走り、妨げる。
――――それでも……あいつに……
言わなければならないことが、あるんだ。
命に代えても。たった一つ。――――気づいてほしいことがあるんだ。
―――― * * * ――――
五年程前――――N.A.歴119年のこと。Dr. シエルの手によって新たなエックスが生み出された。
最初に抱いた理想は、生みの親である彼女が抱いていたものと凡そ同じもので。人間とレプリロイドとが、互いに手を取り合い、支えあう未来を作ることだった。
それが、不可能だと思い知らされたのは、マザーからオリジナルの記憶を引き継いだ時。
世界の歴史を知り、同時に人間の欲深さを知った。人間の業の深さを知った。
それに対するオリジナルエックスの深い苦悩を知った。
そこからまた、この世界を――――人間を救う方法を探った。
導き出したのは、かつて救世主の座についていた模造品たちと同じ結論だった。
しかし唯一つ。大きく違っていたのは、事態が急を要していたこと。
百年という時間の内に、既に世界は変革の兆しを見せ始めていたのだ。
一部の人間が、更に高みを目指し始めていた。浅ましい野心を抱き始めていた。
それは間違いなく、争いの火種であった。互いの利害が一致しない限り、闘争は避けられないだろうと。
その中で世界を繋ぎ続けるためには、今の社会システムによる“誤魔化し”だけでは、もう保たなかった。
だから、また考えなければならなかった。
世界を救う手立てを。この先に幕を開けるであろう乱世の先で、理想が遂げられる方法を。
『やるよ、僕は。どんな手を使ってでも、世界を救ってみせる』
決意は堅かった。
自分の命を投げ打つことも厭わなかった。
――――どうして、それが俺を復活させることだったんだ……?
脳内に侵入してきた彼のアバターに対し、ゼロは問いかける。
マザーを介して、シエルの手によってゼロを目覚めさせた。それ自体はよしとしよう。
しかし、何故、そうすることが「世界を救う」ことに繋がるのか。
――――俺には……申し訳ないが、そんな力は無い
ここまでの戦いで、救えないことを思い知った。いや、それ以前から、救世主としての器など、己には無いのだと理解していた。
もしそれがあるとすれば、きっと“あいつ”だけだ。事実、“あいつ”は救世主と呼ばれるまでになれた。
しかし、自分は――――どうだ? それだけの力があったとは到底思えない。これまでに取り零してきた命のことを思えばこそ。
問いかけられた彼は「確かにね」と答える。
「確かに、君にそれだけの力はないのかもしれない。けれど――――僕には、君の必要性が……必要とされる未来が目に浮かんだんだ」
――――『俺が必要とされる未来』…?
「そうさ」
きっと、これから先。ネオ・アルカディアは混迷の時代に突入する。それは避けられないだろう。
そもそもヴィルヘルムのように、人間が救世主への猜疑心を抱き始めた以上、この国家体制がそのまま継続されるものとは思えなかった。遅かれ早かれ、現在のように偽りの救世主が追い落とされる事態は起きていただろう。
そして「救世主」という、これまで“絶対”とされてきた存在が退けられた時、拮抗した力を持った者達はどうするか。――――これまで以上に熾烈な権力争いに発展することは目に見えていた。
では、その先の未来はどうか。
そうして己の野望を叶えるための闘争が行われ、きっと国家は分裂する。
その争いの果てに人間社会は再びの崩壊を迎え、人間とレプリロイドの世界は終焉へと至る。
もしかしたら、そうならないかもしれない。しかし、そうなる可能性のほうが高かった。
なにせ、この荒廃した世界の上で、人間という生命はあまりにも軟弱で、これ以上生活環境が侵されてしまえば、絶滅は必至なのだから。
だが、さっきも言った通り、その道は避けられなかった。ほぼ確定事項と言ってよかった。
千年や、百年とかいう猶予はもはやなく。十年後なら幸運――――不幸ならば明日にでも、そのカタストロフは起きる可能性があった。
だから、考えるべきは、それが起こった後のことだ。
その悲劇が起きることはどうしようもないのなら、その後をどうにかすればいい。
そうだ。誰かがその後に修正を図ればいい。
「イレギュラー戦争を救世主とともに終結させた、君こそが、その役に相応しいと、僕は結論づけた」
本物の英雄たる、ゼロならば、きっとその後の世界を背負えるだろうと、信じることが出きた。
そういう彼に、ゼロは「やめてくれ」と切り返す
――――俺には……そんな力……
「そうだね、無いかもしれない。……けれど、君以外に、それに近い役割を果たせる者がいるだろうか」
もしかしたらいるのかもしれない。けれど、今の自分にはまるで思い当たらなかった。救世主の代わりとなる者のことなど。――――いや、ゼロに“救世主”の代わりを務めてほしいわけではない。
「君が世界をまとめられずとも。君が、救世主と共に描いた“懐かしい未来”を目指して戦う姿を見て、もしかしたら他の誰かがその役を背負えるかもしれない」
必要なのは、引き継ぐこと。理想を。魂を。想いを――――これから先の未来に、希望を引き継いでいくこと。いつか遂げられることを信じて、守り続けていくこと。
そのために、ゼロという“本物”の英雄が必要だと判断したのだ。
そうして、伝説の英雄の所在を、マザーを通じてDr. シエルへと横流しした。
ちょうどバイル名誉議長が囲っていたエルピスという男が、レジスタンス組織を立ち上げようとしていたこと、それにシエルが協力していることを知っていたから。
「ただ、母さんが僕を置いて出て行ってしまったのは……誤算だったけどね……」
理由もなく、信じていた。いや、高を括っていたのだ。その度胸が、彼女にあるはずはないと。そしてまた、どんなことがあろうと、母が子を見捨てるはずがないと。あらゆる面で甘く見ていた。
その結果、彼は独り取り残され、喚き散らす羽目になった。
仕方のない事だ。少し考えれば、分かることだった。
所詮“偽り”の涙しか流せない、“偽り”の救世主――――彼女の理想を遂げるには、不適当だったのだ。
――――どうして、アイツに何も言わなかった?
助けを求めれば、協力してくれたかもしれない。いや、絶対にしていただろう。彼女は、そういう人間だった。
支えてくれと縋ればよかった。そうすれば、一人置いて出て行くようなこともなかっただろう。
しかし――――
「じゃあ、君は言うのかい? たとえ母親とはいえ、たった十歳の少女に、助けを請うのかい?」
ゼロは言葉を失う。たしかにその通りだ。
助けを請えば、協力してくれただろう――――どれだけ自分が非力だろうと、無理をしてでも。そういう少女だ。
だからこそ、出来るわけがない。彼女の身を、大切に思えばこそ、不可能だ。
――――じゃあ、お前は……
少女の身を案じて、孤独を選んだというのか。
その問いに、彼は答えなかった。いや、その沈黙こそが、答えだった。
だが、その結果として、本当の孤独を知ることになってしまった。それはどんなに辛い境遇だっただろうか。
「けれど」と、再び口を開く。
「……僕には“影”がいてくれた」
――――隠将……ファントム……
ファントムは、彼の考えを聞き、理解し、その目的を果たすために行動を始めた。
「元々ヴィルヘルムの兵であったことを利用してね。いわゆる“二重スパイ”さ」
『救世主が偽りの可能性がある』――――そんな情報を流し、ヴィルヘルムの行動を誘った。
そう。作戦は単純だ。
どうせ、いずれ訪れる未来であるならば、自分たちがコントロールして、それをわざと引き起こせばよいのだ。
自分たちに都合がいいタイミングで。他の者の準備ができていない状態で。
つまり、ヴィルヘルムによる革命をわざと引き起こし、そこにゼロという存在を放つことで、崩壊のシナリオを緩和しようとしたのだ。
事実、こうして立ち上げられるであろうヴィルヘルムの国家はあまり長く続かないだろう。
なにせ、土台となる人心が掴めないままの、不完全な立ち上げとなってしまったのだから。
故に、争いはすぐに起こり、混迷の時代へと早期に突入するだろう。
しかし、崩壊が早いほど、その修復も早く済む。それこそが、狙いだった。
「実際は、どうなるかわからない」
この先の未来、不確定なことはそこかしこに満ち溢れている。
明日のことも、明後日のことも、来週のことも不透明だというのに、数年先の未来のことがどうして見通せようか。
けれど、それでも「きっと大丈夫だろう」と信じることが出来た。
何故なら、この先の世界には、頼れる“本物”の英雄が、確かに生き残っているのだから。
――――今までのは、全部……演技だった…ってのか
真実を知り、驚きを隠せないままゼロは問いかける。
演技――――もし、彼がゼロを生き残らせようと考えていたのならば、あのメガロポリスにおける遭遇戦での気迫も、先ほどの鬼気迫る口上も、その何もかもが演技だったというのだろうか。
そんな疑問に、彼はあっさりと「いいや」と首をふる。
「全て本気だったよ」
君を殺そうとしたことも。君への嫉妬も。母さんへの憎しみも。先ほどの戦いも。全てが本気だった。
「でも、理性と感情のベクトルが必ずしも一致するとは限らないだろう?」
ゼロは否定できずに押し黙る。
確かにそうかもしれない。その経験は、自分にもある。“破壊”という、自身の存在理由ともいうべきプログラムに抗い、誰かを救いたいと願ってきた。
「こうしなければ」「ああしなければ」――――理性で分かっていようとも、頭で考えていようとも、どうしても行うことができない。別の行動を取りたい。
感情があるが故の矛盾。感情を持ったレプリロイドであるが故の、弊害。
だが、本当に決め手となったのは、その感情を超えたところで芽生えた使命感だった。
「思ったよ。――――『僕の負けだ』……ってね」
先ほどの一撃。
あれだけの状況で、ノヴァストライクと同等以上の威力をゼットセイバーに上乗せして放つことが出来たのだ。
おかげで、彼の本体は、翼がもがれ、アーマー全体もひどく損傷した状態になっている。
――――しかし、事実上は俺の負けだ
ゼロは強く言い返す。
間違いない。結果、自分は生死の境ともいうべき状況まで陥った。
それでも生きていられるのは、ゼロの決死の一撃を受けても尚、正常に活動できる程度の損害で済んだ彼が、苦心して助けてくれたからにすぎない。
――――お前が本気だったなら……俺を救うはずがない
そうだ。もしも、本当に殺そうと思っていたなら、何故、とどめを刺さなかった。
それで終わりにしても良かったはずだ。
「そうかもね。けど、こう考えることは出来ないかい?」
爽やかに笑いながら、彼は言った。
「君の強い想いが、僕に君を『助けたい』と思わせる“奇跡”を起こしたんだ……って」
実際、ゼロの全力を受け止めた彼は、ゼロという存在を、この世界に残していくことに強く納得することが出来た。
唯一つ……自身が抱いていた感情的な願い以上に、それを優先すべきだと。
いや、むしろ――――その願いが叶わない代わりに、残すべきなのだと。
誰よりも、何よりも、大切な人の為に。
彼女が生きる、未来の為に……‥‥
〔……………………………………………………………………………………………………………………………………〕
思考にノイズがよぎるのを感じる。
“それ”は、きっと彼の心の声だった。
ゼロは“それ”に触れた瞬間、彼の想いの真実をわずかに垣間見る。
救世主としての使命とは別に、彼自身が抱いてきた、願い。
他に比べられるもののない、唯一つの願い。
――――……お前………これは……
「気づかれたか」とバツが悪そうな顔をする。
隠し切りたいと思っていた。けれど、溢れてしまった。
仕方ないことかもしれない。なにせ、自分にはもう、時間がないのだから。
「ヴィルヘルムの軍勢が、ここに迫っている」
二人の衝突に反応したのか、救世主を完璧に討ち取るため、そしてまたおそらくは、人類の脅威とされた紅いイレギュラー討伐のため。
「チッ」とゼロは舌打ちをする。この状況で、敵に囲まれてはどうにもできない。
――――頼む、修復機能をサポートしてくれ!
せめてゼットセイバーを振るえる程度に。いや、彼の援護が出来る程度に。
それだけ回復できればいい。それだけでも十二分にやれるはずだ。そう信じるしか無い。
どんな状態であろうと関係ない。約束を守るのだ、絶対に。彼を連れて、二人で帰るために、戦わなければ。
「できない。瀕死の君を、これ以上危ない目に合わせるわけにいかない」
――――何言ってる!
怒鳴り返すが、彼はまるで悪びれる様子もない。本気で言っているのだ。
そして、流れてくる思考から、ゼロは彼の真意を理解し、絶句する。彼は既に、覚悟を決めていた。
ゼロの様子に気付き、「仕方ないね」と彼は少しも隠すこと無く、言い放つ。
「お別れだ、ゼロ。僕は、自分の最期の役目を全うするよ」
そう、最期の役目を。
「英雄を守る」という重大な役目を。
――――待て!
叫ぶが、彼の意識が離れていくのを感じる。接続を終了する準備に入ったのだ。
それでも、「待ってくれ」と呼びかける。
――――お前の帰りを、あいつは待ってる! 頼む! だから……
しかし、彼は直ぐに首を横に振り、「できないよ」と切り返す。
「僕には、彼女に会う資格がない」
……多くの者を殺めてきた。計画のためとはいえ、彼女の心を裏切り続けてきた。
それなのに、今更どんな顔で会えばよいのだろう。出来るわけがない。
望んでいいわけがない。――――自分一人が、そんな“願い”を。
――――資格なんて……何を馬鹿なことを……!
「それにね」と付け加える。そう、理由はそれだけじゃない。
僅かにはにかんで見せながら、ポツリと呟くように言う。
「僕はもう、疲れたんだ」
その言葉は、重く響いた。
「疲れた」――――それもそのはずだ。生まれてから僅か五年という時間しか生きていないというのに、彼の心には、百年以上世界を支えてきた歴代エックスの記憶が、苦悩が引き継がれているのだから。
世界のためとはいえ、同胞の命を切り捨てねばならなかった――――次々と自ら命を絶ってきた先代達の気持ちが、今なら痛いほど分かる。
もう、楽になりたいのだ。これ以上の“苦悩”には耐えられないから。
けれど、せめて、救世主としての最後の役割だけは全うせねば。
世界を救うための“種”を、守り通さねば。
過去の救世主たちのために。英雄たちのために。
それができなければ、きっと死んでも死にきれないだろう。
―――― そ ん な こ と 、 ど う だ っ て い い ! !
使命とか、存在意義とか……カッコつけた言葉を並べ立てて、本当は、ただ逃げているだけだろう!
ちゃんと向きあえばいい! お前自身の望みと! 願いと! 不可能だなんて決め付けるな!
過ちを犯したなら、それを背負って生きていけばいい! 償えないと決めつけて逃げようとするな!
何もかも背負った上で、胸を張って幸せを求めればいいじゃないか!
……声を張り上げ、叫ぶ。
届かないかもしれない。けれど、言葉を凝らさなくてはならない。
何故なら、彼にその権利はあるのだと、ゼロには思えたから。
――――だって…………お前はただ……………
世界を掴みたいとか、全てを手に入れたいとか、神になりたいとか――――そんな大それた願いを抱いているわけではない。他人にしてみれば非常にちっぽけで、矮小な望みだ。
それでも、それが彼にとって一番の願いであったならば。どうして諦める必要があるのだ。
咎はあるかもしれない。罪は背負っているかもしれない。
けれど、その重さをずっと感じてきたはずだ。それらとずっと向き合ってきたはずだ。
その程度の願いを叶える資格なんて、それだけで充分じゃないか。
誰にそれを非難することが出来るだろうか。
しかし、ゼロの言葉を、彼の微笑みが遮る。
そこからゼロは悟った。――――ああ、そうか。その全てを理解しているというのか。彼は。
それでもその道を選ぶというのだ。ならば、それを止められる道理がどこにあるのか。
言葉を失い、悔しさに歯ぎしりする。己の及ばなさを噛み締めながら、それでもぐっと堪えるしかできなかった。
そんなゼロに、彼は微笑みを浮かべたまま、優しい声で問いかけた。
「ねえ、ゼロ……――――」
「もしも」――――……の話だ。
もしも、“本物”になれたなら
どうだっただろうか。
救世主になんてなれなくたってよかった。
英雄にもなれなくてよかった。
それでもただ、“本物”になりたかった。
だって、もしも僕が“本物”だったら
“本物”になれたら――――……‥‥
「――――もしも本当の涙を流せたら、母さんは、僕を愛してくれたのかな?」
浅はかだろうか。
幼稚だろうか。
稚拙だろうか。
けれど、それだけを願っていた。
その想いだけは、偽れなかった。
――――お前は……ただ………それだけを……
……接続は途切れ、言葉は聞こえなくなる。全ては闇に引き戻される。
ただ――――耳鳴りのように、彼の問いが。影法師のように、彼の微笑みが。
ゼロの脳裏に、残り続けていた。
―――― * * * ――――
軋む聴覚神経に、ノイズとともに敵の口上が突き刺さる。
「ヤーヤー! 我こそは聖騎士団が長、ペガソルタ・エクレールなりッ! 偽りの救世主め! 覚悟ぉ!」
パンテオン部隊に周囲を囲ませ、聖騎士団が彼と戦闘を開始する。
翼がもげ、アーマーは損傷し、各部に深刻なダメージが刻まれた今、ノヴァストライクも、プラズマチャージショットも、特殊武器も使用できない。
出力異常を起こしたままのバスターショットで応戦する。だが、とてもまともな戦闘が出来る状態ではなかった。
「けれどこれが最期だ」と自分に言い聞かせる。
そうだ。勝利する必要はない。敵を充分に引きつければよいのだ。
おそらくヴィルヘルムのシナリオはこうだ。――――蒼の救世主と紅の破壊神を、聖騎士団長によって討ち取らせることによって、新たな英雄に仕立て上げる。
その上で、自分が政治の実権を握り、世界を牛耳る。非常に直接的で、読みやすい。ヴィルヘルムらしいシナリオだろう。
しかし、その新しい世界は、きっと長くは続かない。
今以上に人間優位となり、レプリロイドへの暴力的支配を強めていけば、反発によって、更に激しい反乱が起こることは必至。
いや、それだけじゃない。まだまだ人間の中にも侮れない相手は残っている。それを考えれば、とてもヴィルヘルムでは器が足りなすぎる。
必要なのは、誰かに仕立てあげられた“偽り”の英雄じゃない。
“懐かしい未来”を胸に抱き、戦い続けられる“本物”の英雄だ。
「ゼロはやらせない。彼は、僕達の“希望”なんだ……………」
僕達――――これまで世界を背負い続けてきたロックマンエックス達の。
そして、何より。これから先の未来を紡いでいくであろう、彼女の。
そのために必要だというのなら、こんな“偽物”の命でよければ、喜んで差し出そう。
ゼロは地面に顎を擦るようにして、前方へと視線をやる。
あの未熟な聖騎士団に、劣勢を強いられている彼の姿を目にし、歯ぎしりする。
彼の表情から、先ほどの遣り取りから、“全て”を覚悟しているのだと、察した。
そう。彼は、自らの命を持って、ゼロを守るつもりだ。
――――ふざ……けるな……
不意に、先ほどの衝撃で投げ出されたらしい彼のヘルメットが、視界の隅に転がっているのを見つける。
縦横無尽に亀裂が入り、端々は欠け、バイザーは砕け――――先ほどの戦いの壮絶さを物語っていた。
そして同時に、彼の、心を表しているようだった。
激痛が走るのを無視して、右腕を地面にすべらせながら、それに向けて伸ばす。震える手は、容易に届かなかった。
もう十センチ。もう五センチ――――人工筋肉がはち切れそうな感覚に苛まれながら、それでも体を伸ばす。そして、ようやくヘルメットに指先が届く。
引っ掛けた指で、鋭く響く痛みに耐えながら、僅かに引き寄せ、そこから掌で掴みとる。そしてまた、時々電撃のように走る激痛に顔を歪めながら、引きずるように手元へと引き寄せる。
そのヘルメットを支えにして、痛む体を無理やり起き上がらせながら、痛む首を他所に、再び顔を上げ、戦いの様子を視界に入れる。
いよいよ、彼のバスターが光弾を放てなくなった。かと思えば、光を放ちながら破裂してしまった。
その様子に呆気にとられた後、ペガソルタはいやらしい笑みを浮かべる。――――勝利は目前。
これで手元に武器は無い。あるとすれば、その身のみ。
ノヴァストライクのエネルギーを蓄積し始めたのを、ゼロは感知した。
放てないはずの、その技を準備し始めた。何故か。ゼロには直ぐに分かった。――――最も強いエネルギーを、その場で解き放つためだ。
―――― 動 け よ 、 体 ぁ ッ ! ! !
己の体に内心で怒声を上げる。だが、無意味だ。
先ほどから分かっている通り、どれだけ望んだところで、自分には戦う力など残っていない。
その奇跡を起こせる一筋の光明も、賭けの材料も残ってはいない。
できるとすれば、一つ。――――言葉を届けること。
――――せめて……声を……ッ!!
“全て”を覚悟した彼に。誤解を抱いたまま死へと突き進む彼に。
真実を伝えなければ。想いを伝えなければ。
―――― そ れ も で き な い で 、 何 が 英 雄 だ ! !
関節は悲鳴を上げ、体中に電撃のような激痛が走る。
バチバチと脳内に火花が走るような感覚すら起こる。
視界は、まるでカメラのフラッシュを連続で炊いているかのように、激しく明滅する。
塞ぎかけの傷からは擬似体液が吹き出し、そこら中の大地が紅黒く滲む。
どれだけ無視しようとも、脳内で劈くような警告音が響き続ける。
それでも。それでも。それでも――――………‥‥‥
魂を振り絞って。治りかけの発声器官を震わせて。
壊れそうな体を無理やり支えて。全身で、全霊で、大声を張り上げる……――――
「 こ の 大 馬 鹿 野 郎 ぉ ぉ ッ ! ! 」
一瞬、全ての時が止まったような気さえした。
パンテオンも、聖騎士団も、皆がその動きを止め、荒野の中心で一人、大声で吠える男に注視した。
集まる視線に微塵も構わず、ゼロはただ、ガラガラの喉で、叫ぶ。
「何が『本当の涙が流せたら』だ! 何が『愛してくれたかな』だ!」
ただ、叫ぶ
「勘違い抱いたまま、勝手な妄想膨らませてるんじゃないよッ!」
叫ぶ
「ちゃんと想っていたよ、アイツは!」
叫ぶ
「ずっと考えてたよ、アイツは!」
叫ぶ
「ちゃんと、お前のこと愛していたよ! シ エ ル は ! 」
呆然と、数百メートル離れたちっぽけなゼロの瞳を、彼は見つめる。
ゼロは真っ直ぐに視線を合わせながら、ほんの僅かも逸らすこと無く、叫び続ける。
痛みも、傷も、なにもかもどうでもよかった。ただ、叫び続けた。
「『同情』だって!? ッ ざ け ん な ! ! アイツは……! そんなちっぽけな人間じゃあない!」
先ほどの彼の言葉も、間違いではないかもしれない。彼女は優しすぎる。全てを救いたいと思うほど。端から見れば矛盾を産んでしまうほど。
けれど一つ、彼の認識に間違いがあるとすれば――――彼女が“本気”だということ。
同情か。哀れみか。そんなものは関係ない。彼女はただ純粋に、本気で救いたいと願っているのだ。全てを。
いや、それだけじゃない。
「どうしてあいつが今まで、お前のことを隠し続けてきたと思う!?」
――――そうだ。言ってしまっても良かったのだ。
彼が“偽物”だと。救世主は“偽り”だと。
そうすれば、ネオ・アルカディアの内部崩壊を誘えた。ヴィルヘルムのような男を利用して。
それができれば、今ほど追い込まれることもなかった。もしかしたら、白の団がネオ・アルカディアを制圧することもできたかもしれない。
けれど、しなかった。何故か。
理由は唯一つ――――…‥‥
「 お 前 を 守 る た め だ ろ う が ! 」
救世主としての地位を、今のように追われて、真の孤独にならないように。
彼が、どうか無事であるように。そう祈っての事だった。
間違いない。何故なら、彼女は言ったのだ。
『あのね、ゼロ。私は、エックスのことも助けたいの』
エックスは“道を誤っただけ”だと。道を間違えたなら、それを誰かが正してあげればいいのだと。
正体を明かす前から、彼女はそう言っていた。何故か。
本心だったからだ。彼が何者かに関係なく、助けたかったからだ。
いや、彼だからこそ、助けたかったのだ。
「だって! だって、アイツは…………――――」
何事かとわからぬまま、呆然と立ち尽くすネオ・アルカディアの兵たち。
その隙に、彼の充填は完了した。全てを解き放つ準備は出来た。
それに気づいたゼロは、最後の言葉を選ぶ。この瞬間の内に。最期に、彼が聞くべき言葉を、探す。
「だって……アイツは………――――」
言ったのだ。一言。彼女の核心を。
言わなかったのだ。一度も。彼女の想いを表すように。
あらゆる警告よりも、あらゆる感情よりも、あらゆる記憶よりも。
それは鮮明に、聴覚へと蘇る。
『ゼロ……エルピス……みんな………』
少しだけ俯きながら。
身勝手な己を恥じて、それでも言うべきだと奮い立たすように、拳を握りながら。
涙をこらえながら振り絞った、少女の言葉。
お願い
私のエックスを 助けて
「 シ エ ル は 一 度 だ っ て 、 お 前 の こ と を “ 偽 物 ” だ な ん て 言 わ な か っ た ! 」
空を、仰ぐ。
蒼く、優しく広がる空を
太陽を抱き、包む、母のような空を
決して届くことのないような気さえした空を 見つめる。
『できるわ、あなたなら。絶対に』
『だって、あなたは』
私の「エックス」だから
――――いつかの、幼い少女の言葉が、木霊する。
思わず、手を伸ばす。
忘れていただけだったのかもしれない。
気付かなかっただけなのかもしれない。
それは、すぐそこにあった。
ようやく、触れることができた。
じんわりと指先に、温もりが溢れてくるのを感じる。
それは次第に、体の隅々まで溶けこんでいき
気づけば、微笑みがこぼれ
頬に滴が伝っていた。
「ああ、母さん。――――僕は……‥‥・・・」
刹那、閃光が視界を包む。
全てがその衝撃によって塗りつぶされ、掻き消されてゆく。
その一瞬、世界の何もかもが静止したように思えた。
実際、全ての音が消えた。まるで真空のように。
そして地響きと、雷鳴とを同時に轟かせながら、突風が吹き荒れた。
吹き飛ばされそうになりながらも、ゼロはヘルメットを支えに、その場に留まり、両の瞼をしっかりと見開く。
そして砂塵と爆炎とが同時に包み込む空間を見つめながら、大きく口を開く。
喉を枯らしながら。体を軋ませながら。衝動のままに。
魂の奥から。
全身から。
自分のすべてを響かせながら。
“彼”の耳には、もう二度と届かないとしても。
“彼”の名前を
百年の苦悩を背負いながら、ただひたすら健気に闘い続けてきた“彼”の名を。
この世界を、未来を救うため。己の命を懸けた、救世主に相応しい“彼”の名を。
愛する人のために自らの全てを投げ打った“彼”の名を。
他の誰のものでもない、“彼”だけの名前を 叫んだ。
やがて、全てが収まり、静まり返る。
ゼロは、荒野に俯せにうずくまっていた。何もかもが消えた荒野に。
天高く照らす太陽に見守られながら。
遺されたヘルメットを、その胸に強く抱きしめながら。
しばらくして、その金髪を撫でるようにして、一迅の風が優しく吹いていくのを感じた。
―――― 6 ――――
「ゼロ!」
名を呼ぶ声が、耳に飛び込んでくる。
しばらくして到着した白の団の兵員輸送トラックから、ポニーテールを揺らしながら、少女が駆け寄ってくる。
せわしない足音が止まったかと思うと、うずくまるようにして座り込んでいたゼロの肩に、小さな手が優しく触れる。
「ゼロ、大丈夫?」
「……シエル」
彼女の名を呼び、顔を上げ、突風に乱された前髪の隙間から、見つめる。
シエルは、ゼロの髪を代わりにかき揚げ、手櫛で優しく整えた。憔悴しきった彼の顔が――――まるで抜け殻のようなそれが、瞳に映る。
同時に、視界を掠めた“それ”を、見ないように努めた。そのままキュッと唇を結び、まぶたを閉じ、それからまた、ゼロの瞳を見つめる。
「……もう、大丈夫よ」
そう、言葉をかけた。
決めていた。如何なる結末になろうとも、こうして迎えるのだと。
ヴォルクに問われるまでもなく、覚悟はできていた。いや、きっとこの結末も、心の何処かで予期していたのだ。
だから、大丈夫だ。心の準備は、全て整っていた。
その意志を強く表すように、シエルは――――微笑んで見せた。
「帰ろう。一緒に」
戦場の跡を見れば分かる。ここでどれだけの死闘が行われたのか。
移動中に感知したエネルギー波の大きさで分かる。どれだけ強い魂がここで輝いたのか。
そして、ここに一人残されたゼロの姿を見れば――――その結果は一目瞭然だった。
だからこそ、帰ろう。白の団へ。私達の家へ。
もう十分に傷ついたから。もう十分に闘いぬいたから。
これから先も、どれだけの困難が待っているかはわからない。しかし、だからこそ、今は休もう。
手を差し伸べるシエルも、二人を見つめるコルボーたちも皆、同じように考えていた。
だが、そこでゼロが徐に差し出したのは、自身の右手ではなかった。
差し出された“それ”に、シエルは言葉を失う。そして、無意識のまま受け取ってしまっていた。
決して見るつもりはなかった“それ”を。――――あの子の、“形見”を。
同時に、その場に座り込んでしまう。力が抜けたように。そして黙って、傷だらけのヘルメットの表面を撫でた。
そんな彼女の様子を見て、思わず俯く。合わせる顔などない。自分は、結局約束を果たせなかった。――――けれど、だからこそ、伝えたいことがある。伝えなければならないことがある。
ゼロは、静かに口を開く。
「すまない……俺は………」
「やめて」
謝罪の言葉をすかさず遮る。
「あなたが、全力を尽くしてくれたことは分かってる……だから………」
「俺は……お前に泣いてほしくないと、願っていた」
ピタリと、今度はゼロがシエルの言葉を遮る。自身の“過去”の願いを口にして。
それは、改めて言葉にされずとも知っていた。そしてまた、改めて言葉にされて、再び思い知った。
ゼロがどれだけシエルのことを想っていたか。どれだけ、彼女を悲しみに触れさせたくないと願っていたのか。けれど――――
「……けれど…………もう、いいんだ…シエル」
そう言って右手で、少女の肩を優しく掴む。
「俺は……お前のことを……少しくらいは……解っているつもりだ」
分かっている。――――どうして、シエルがそう言うのか。どうして、シエルが“聞かない”のか。決してシエル自身のためではない。そういう娘だ。
『もう二度と泣かせない』――――そういうゼロの誓いを、知っていたからこそ。そのためにゼロが命懸けで戦っていたと、知っていたからこそ。少女は今、自分の心を押し殺して、微笑みを浮かべている。
その表情が、伝わる彼女の健気さが、ゼロにはひどく哀しく思えてならなかった。だからこそ、言うべきだと、決意した。自分の願いを、捨て去るべきだと。
「……いいんだ、もう我慢しなくて……。……泣いていいんだ……――――いや……」
己の口上を一時否定し、左手も差し出し、両手でシエルの肩を掴む。
華奢で、今にも折れてしまいそうな、少女の体。それでも、聞いてほしい。わかってほしい。
言い聞かせるように。懇願するように。小さく頭を下げて、告げる――――彼女のために。そしてまた、世界を背負い続けた彼のために。
「頼む……泣いてやってくれ、シエル。……あいつの――――エックスのために」
もう二度と、届くことはないのだろうけれど。
涙を流してほしい。――――彼を、愛していた証として。
言葉が耳に溶け込んだ後。シエルはしばし押し黙る。
それから、ぐっと息を呑み、ヘルメットへと僅かに視線を落とす。
「……大丈夫だよ。ゼロ」
尚も微笑みながら、そう返す。
じんわりと滲んでいく瞳で。
「ゼロは……命がけで戦ってくれたから……だから……だから……――――」
自業自得だ。
これがきっと自分が背負うべき罪なのだ。受けるべき罰なのだ。
――――そう、言い聞かせた。
代わりに、堪えなければならない。
今目の前にいる、どんなに傷だらけになろうとも闘い続けてくれた、英雄の心を責めないためにも。
――――そう、信じていた。
“それ”をしてよい“権利”を、自分が持ち合わせているとは思えないのだ。
まるで被害者のように。まるで優しい母親のように。
実際は一人耐え切れず、逃げ出し、“彼”を見捨てた極悪人だというのに。どうして今更、善人ぶった事ができるのか。それが、赦されるのか。
自分が、涙を流して良いわけがない。
だから――――……
「――――だから……ごめんなさい……。…少しだけ………この……まま…で……………………」
言い終えることができない内に、震える唇を結び、俯く。
すると殊更強く、まるで我が子を抱き締めるかのようにヘルメットを抱きしめる。
呼吸を押し殺し、肩を震わせ、それでも絶対に声を上げまいと、唇を、血が滲むほど強く噛み締めた。
静寂に包まれる二人の間で、僅かに漏れ出る嗚咽と、硬質なヘルメットに垂れ落ちる滴の音が、響く。
程なくして、堪え切れなくなった頃。
少女の叫びが、そこら中に響き渡った。
言葉にならない声を、全身で叫び続けた。まるで赤ん坊のように。
その目からは、留まることのない洪水のように、涙が溢れ続けた。
泣き叫んだ。顔をぐしゃぐしゃにしながら。
自分でも、感情をどうやって止めて良いのかわからなくなるほど。
次第に喉が枯れても、その泣き声は留まる気配なく、涙とともに溢れ続けた。
――――いったい、この世界のどこに、自分の愛情を正しく子に伝えられる親がいるだろうか。
正しく、子を愛せる親が、いったいどれだけいるというのか。
普通の人間の親子でさえ、完璧な意思疎通はあり得ないというのに。
人間とレプリロイドの親子というだけでも歪だというのに。
息子は……生まれながらにして世界の何もかもを知り、救世主として頂点に立つ、百年の記憶を背負ったレプリロイドの青年。
母親は……生まれながらにして天才的な知能を持ち、世間のイロハも知らぬまま、僅か十歳にして母親となった人間の少女。
――――そんな歪過ぎる親子が、どうして正しく分かり合うことが出来ただろうか。
それでも互いを愛していた。間違いなく。
母は子を。子は母を。大切に想い合っていた。
ただ、互いにその示し方を知らなかった。
抱きしめ方を知らなかった。
向き合い方を知らなかった。
導き方を知らなかった。
甘え方を知らなかった。
縋り方を知らなかった。
泣き方を知らなかった。
――――きっとそれだけだった。それだけの事だったはずだ。
しかし、それでは誰が全てを理解しているというのか。正解を持っているというのか。
それを知らなかったことを、誰が罪と呼ぶことが出来るのか。
それでも、彼女は一生この哀しみを忘れないだろう。この後悔を抱き続けるだろう。
「逃げ出す」という――――たった一度だけの過ちの為に。自分にとって最も大切なものを失ったことを。
胸の喪失感は、きっと二度と埋まることはないのだろう。
それは、たとえ天才とはいえ、たった十四歳の少女には、あまりにも大きすぎる罰のように思えてならなかった。
そんな少女を見つめながら、どうすることもできずに、ゼロも己の唇を噛み締めた。
英雄と呼び、信じてくれた少女を、結局はこうして悲しい目に合わせてしまった。
誓いも、約束も、守ることが出来なかったその両腕は、彼女を抱き締めることすらできない。
しかし――――そのまま滴り落ち、地面を濡らしていく涙…………
それはきっと、決して彼女だけのものではなかった。
To be continued ......