―――― * * * ――――
「ゼロさん達との連絡がつかない?」
エルピスは、困惑した表情で報告するジョーヌに、思わず問い返す。彼女はただ「はい」と震える声で答えた。
先程、黒狼軍のオペレーターより通信が入った。予定時刻を過ぎても、白の団のメンバーが予定ポイントに現れないこと。そして、その遅延について何の連絡もとれていないこと。
黒狼軍は作戦案を一旦破棄し、「今後の白の団の方針に合わせる」とだけ言い残し、一方的に通信を遮断した。
「どうしましょう……」
呟くように言うジョーヌ。横に座っているルージュも黙り込んだままだ。
エルピスは冷静に考えを巡らせる。ふと、基地内からアルエットとメナートがいなくなったという話を思い出し、「まさか」と顔をしかめる。
潜入用機材の中に彼らが紛れ込み、何の用意もしていないままネオ・アルカディアに入ったというならば、作戦に支障が出るのは当然だ。特に、シエルの危機を耳にしてあのホームから戦場と化したこの基地まで、ゼロの反対も押し切って来たアルエットの強情さを考えれば、そう言う行動をとることは容易く想像できる。
あの時点で、そこまで頭が回らなかった自分の愚かしさを呪い、それを踏まえた上で、もう一度思案する。
「……仕方ありません。ゼロさん達からの連絡を待ちましょう」
今の戦力では誰を増援に送り込んだ所で、無事の保証はできない。それ故にいくら頭を悩ませた所で、これ以外の選択肢はない。
ただ、どれだけの期間を目処とするか……――――エルピスはついぞそれを口にできなかった。
ゼロたちの失敗――――即ち、シエルの喪失。そうなれば、二度と彼女をネオ・アルカディアから奪還することはできず、この白の団という組織の存在意義が失われてしまう。
祈るしか無い。なんとか危機を乗り越え、無事にシエルをここまで連れ帰ってきてくれることを。
そんなエルピスの複雑な胸中を感じ取ったのか、ジョーヌは問い返すことも無く、ただ小さく頷いた。
29th STAGE
暗躍の調
―――― 1 ――――
正直、自分に起きている事態の整理がつかない。
とりあえず、予定が大幅に狂った事は確かだ。良い方にか、それとも悪い方にかは分からないが。
「適当にかけてちょうだい。」
レヴィアタンに促されるが、どこに座るべき――――というより、どういう立ち居振る舞いをすべきか仲間たちとともに右往左往してしまう。
「おい、コルボー」とヘルマンが耳打ちしてくる。
「一体全体……何が起きてんだ?」
無言で「俺だって聞きたいよ」としかめっ面を浮かべる。共に行動しているヘルマンにわからないことが、どうして自分に分かるだろうか。
そんな風に戸惑う自分たちを無視して、レヴィアタンは自室へと戻っていった。このまま逃走してしまう可能性もあるというのに、なんとも大胆なことだ。それどころか、呆然と立ち尽くしたまま十数分経過した後、戻ってきた彼女が着替えを終えていたことに、益々呆気にとられてしまう。
「座らないの?」と、余裕綽々といった笑みを浮かべて、彼女は一人がけのソファーにゆったりと腰掛けた。
尚も呆然とするコルボーたちだったが、そんな空気を切るように、メナートが「ボフッ」と勢い良くソファーに腰掛けた。
「うお、ふっかふかー!」
高級感漂う座り心地に声を上げるメナートの頭に「馬鹿かお前は!」と思わずヘルマンは拳骨を食らわせる。直ぐ様頭を抱えて「なにすんだよー!」と叫び返した。
その様子を見て「クスクス」とレヴィアタンは笑う。その敵意が微塵も無い笑みに毒気を抜かれて、ジョナスが長椅子に渋々と腰掛ける。それに続いて、ティナとコルボーも座り、しかめっ面をしたままではあるが、ようやくヘルマンも腰掛けた。
だが、ある二人だけは、まだ落ち着く気配を見せない。
「どういうつもりだ」
ゼロはじっとその場に立ったまま問いかける。そのコートにしがみ付くようにして、アルエットも立ったままレヴィアタンを見ている。
「そう怖い顔しないの。あなた達も落ち着いたらどう?」
黒のタイツに包まれた足を組み、その上に肘を置き、頬杖をつく。彼女の一挙手一投足がどうにも魅惑的で、コルボーは視線を奪われる。
妖将レヴィアタン――――ネオ・アルカディア四天王の一人。情報戦を司る冥海軍団の団長。そんな彼女と戦場以外でこうして出逢うことなど、一般のレプリロイドである彼らの誰が想像できただろうか。噂に違わぬ容姿と振舞いに、男心が揺さぶられる。そんなコルボーの腹をティナが肘で軽く突いた。
だが、幾度かの邂逅を済ませたゼロは、彼女に対し見惚れることも、臆すこともなく、対峙する。
レヴィアタンに“怖い顔”と揶揄された表情のまま、ゼロはレヴィアタンを睨み続ける。「相も変わらず強情ね」とレヴィアタンは溜息を吐いた。
「そんな風にしたところで無意味よ。――――分かってるのでしょう?」
余裕の笑みから、挑発するような笑みへ。「ああ、そうだとも」とゼロは心中で呟き、眉間に悔し気なシワを寄せた。
どういう状況であるか、痛いほどわかっている。――――レヴィアタンと遭遇した時点でこの作戦はとうに失敗なのだ。
このチームの命運は全てレヴィアタンに握られている。あの連絡路で出会した瞬間に。
レヴィアタンの案内に従いメガロポリス――――その深部、目的地であったユグドラシルへと辿り着くことができた。それから何の障害もなく、こうして彼女の屋敷へと招かれたわけだが、それに抗えなかったのは無論、自分たちのこの状況が“捕虜”と何ら変わらないということがゼロにもコルボーたちにも分かっていたからだ。
下手に事を荒げれば、ここは敵のホーム……途端に周囲を囲まれ、退路は絶たれ、挙句、作戦は完全に崩壊する。シエルの救出もできなければ、ゼロという英雄も失ってしまう。
彼女自身、ネオ・アルカディアの四天王の一人として恥じない戦闘力を持っている。例え戦闘用のスーツを着ていなかろうと、愛槍フロストジャベリンを側に置いていなくとも、コルボーたちでは彼女に敵わないだろうし、例えゼロが相手をしても、時間稼ぎ程度の行動は容易にしてのけるだろう。そんな彼女に従う以外の選択肢はどこにも見当たらない。
ようやく渋々と、ゼロもソファーに腰掛ける。その横にはアルエットが静かに座った。「いい子ね」とレヴィアタンは微笑む。
「安心なさい。別にここであなた達をどうこうするつもりはないわ」
微笑みを浮かべたまま、レヴィアタンはそう言い放つ。その真偽が分からず、コルボー達は互いに顔を見合わせる。普通に考えれば“罠”だ。しかし、今彼女が醸している雰囲気にはまるで敵意が混じっていない。そんな矛盾する二つのイメージに頭が混乱する。
だが、ゼロだけは彼女の言葉が真実であると、すぐに見抜いた。妖将レヴィアタンとはそういう女であると、彼は既に理解していた。
「なら、どういうつもりだ。――――まさか、妖将様と一緒にパレード鑑賞と洒落込めるわけかい?」
「残念、それは叶わないわ。そもそもあれは爺様方の催し物だしね」
百二十五周年記念式典の一切は元老院の管轄により行われている。レプリロイドの集団の中でも、聖騎士団やイレギュラーハンターが中心となって絡む所以はそこにある。と言っても、五年前のパレードにおいては四天王たちも来賓として紹介され、国民たちから大いに褒め称えられた。しかし、今回はそれすらも許されない。
「――――何より、今年は“度重なる失態”のおかげで、国民に顔向け出来ないの。パレード中もお仕事よ」
苦笑とともにそう皮肉っぽく言うレヴィアタンに、“度重なる失態”の元凶である“紅いイレギュラー”は「なるほど、そいつは悪かったな」と平謝りを返した。
それから「冗談はさておき」と雰囲気を改め、ゼロは問いかけようと口を開く。
「答えろ。お前はいったいどうやって――――」
「『俺達の情報を掴めたのか』って?」
ゼロの言葉を先に口にする。ああ、そうだ。それが一番の謎だ。
彼女があの場所に現れたのはタイミングが良すぎる。それどころか、あの時の彼女の言動は、全てを予期していたかのような余裕があった。そして、それは今も変わらない。
真っ先に思いつくのは黒狼軍の裏切りだ。しかし、そうだとして黒狼軍側にいったいどんなメリットがあるのか。白の団など、下部組織を利用しながらネオ・アルカディアを引っ掻き回し続ける彼らにとっては取るに足らない存在のはずだ。“紅いイレギュラー”ことゼロについても、もしも黒狼軍にとって邪魔というなら、刈り取るタイミングは今でなくとも良かったはずだ。
では、いったいどうしてこの情報は掴まれのか。――――その問いに対し、レヴィアタンはサラリと答えてのける。
「ネオ・アルカディア最優の隠密部隊を舐めない方がいいわよ。紅いイレギュラー」
その彼女の言葉と共に、ザラリとした悪寒が背筋に走る。――――瞬間、黒衣を纏った仮面の男がゼロの真後ろに立っていた。
コルボー達は「わッ」と短く声を漏らし、その息を止める。その男が何者であるか、ゼロは既に知っていた。
「……隠将、ファントム」
その殺気から護ろうとアルエットを抱き寄せたまま、ゼロは名を呼び、睨みつける。
合点がいった。隠将ファントム率いる斬影軍団――――ネオ・アルカディアで最も優れた隠密機動部隊。彼らならば、一レジスタンス組織の潜入作戦など、どういった経緯であれ、入手していたとて何もおかしく感じない。ベルサルクを補足できずにいるという話で、その実力を疑う者もいるが、それだけが特別な問題であり、ネオ・アルカディアがこれだけの規模を持ちながら他の勢力による大きな襲撃を受けずにいるのは、彼らの尽力のおかげに他ならないのだ。
一触即発という二人の雰囲気を感じ取り、レヴィアタンが「ほらほら」と言いながら手を叩く。
「人の家の中でやめてちょうだい。――――ファントム、来たのならまずは私に声を掛けるのが礼儀ではなくて?」
「……失礼した」
凍てつくような冷たい声で短く謝罪の言葉を口にする。
その後、すぐに視線をゼロへと移す。
「……拙者とともに来い。紅いイレギュラー」
そう言って、ファントムはくるりと背を向ける。呆気にとられるゼロの向こう側から、「ちょっと」とレヴィアタンが声を上げる。
「もう連れてゆく気? 私だって、もう少し彼と話したいわ」
大人っぽい容姿にどこかミスマッチな、髪に飾り付けられた赤いリボンを揺らし、不満気に口を尖らせる。どこまで本気かわからない彼女の態度を、ファントムは無言で一蹴する。
「来い」
ゼロにだけ短く、もう一度呼びかける。幾度か逡巡した後、その言葉に従う以外は無いのだと悟り、ゼロは立ち上がった。すると、服の裾をアルエットが引っ張る。
瞳で「連れて行って」と訴えているのが分かる。
「……アルエット……聞き分けてくれ」
だが、頑としてアルエットはその手を離さない。
ふと、ファントムがこちらを向く。そして表情の分からぬマスクの下から、真っ直ぐにアルエットを睨みつけた。
あまりの殺気に、ゼロは身構える。彼女をこの場で斬り殺さんばかりの、ファントムの殺気。僅かでも動けば、ゼロはゼットセイバーを引き抜くだろう。思わず見ていただけのコルボーたちもその身を震わせ、引き下がる。
だが、アルエットはそれでもゼロから手を離さなかった。
それどころか、ファントムへと睨み返していた。
緊迫した時間が数十秒続く。ゼロは息を呑み、奥歯を噛み締める。レヴィアタンですら、この場で万が一の攻防が起きることを覚悟した。
次の瞬間、ピタリとファントムの殺気が消える。
「……よかろう、御主も来い」
そう短く告げ、再び身を翻した。
ほっと胸を撫で下ろす一同。だが、今度はゼロがアルエットを睨む。
「お前なあ……」
振り下ろされる腕に、アルエットはキュッと目を瞑る。
するとその手は、彼女の頭をワシワシと大雑把に撫でた。
「大した玉だよ。――――叱りつけてやりたいところだけどな」
感心したように言うゼロに、まんざらでもないような笑みをアルエットが浮かべた。
それから一度だけレヴィアタンを一瞥する。「いってらっしゃい」とでも言うようにヒラヒラと手を振る彼女に、軽く頷き、ゼロはアルエットと共にファントムの後に着いて行った。
「いや……ちょっと待てよ! 俺達は!?」
事態が呑み込めたヘルマンが騒ぎ出す。
ゼロという英雄が連れて行かれた今、この状況は非常に不味い。妖将の屋敷の中で、無防備なまま取り残されたのだ。どのような結末が待っているのか、想像し、思わず身を震わす。
そんな彼らを宥めるように、レヴィアタンは「大丈夫よ」と声をかける。
「あなた達の身の安全は、私が保証するわ」
「し……信じられるか!」
思いもよらぬレヴィアタンの言葉に、呆気にとられるコルボー達。ヘルマンだけが声を荒げて抗議する。
だが、レヴィアタンは「フフ」と妖しく笑う。
「信じるも信じないも、あなた達に選択肢はないでしょう? それとも、ここで私とやり合う? 純戦闘用レプリロイドであるこの私と」
既に、ゼロ同様、コルボーたちを一目で非戦闘型と見抜いていたレヴィアタンは挑発するように言ってのける。
無論、答えは「NO」だ。とんだ無駄死にしかならないだろう。
悔し気な表情を浮かべ、未だ訝しむヘルマンに、レヴィアタンは「そうねえ」と軽く考えこむように唸る。
それからおどけたように人差し指を立て、笑顔で答えた。
「彼への“乙女心”に懸けて誓うわ――――なんて……どうかしら?」
益々、その心中が理解できないレヴィアタンの態度に、彼らはただ呆然として、気づけば警戒する心を失っていた。
―――― 2 ――――
「ネオ・アルカディア、ユグドラシル聖騎士団一同、整列!」
号令とともに、コロシアムに集まった数百人のレプリロイド達は一斉に足を揃える。
その軍団の前へと天馬を模して作られた一体のミュートスレプリロイドが進み出て、仁王立つ。
再び「敬礼!」との強い号令に、皆、一斉に構えをとった。そして「直れ」の声に従い、その手を下ろす。
「ユグドラシル聖騎士団総長、ペガソルタ・エクレール様よりのお言葉!」
前に進み出たミュートスレプリロイド――――ペガソルタ・エクレールはその場に集結した聖騎士団一同の顔を見渡し、満足気な高笑いを上げた。
「良い! 皆、良い面構えだ! しかし、そう張り詰めるのはやめい! 楽にせよ!」
ペガソルタの言葉に合わせ、聖騎士団の面々は肩の力を抜き、“休め”の体勢をとる。
「うむ」と満足そうにペガソルタは頷く。
「建国記念式典の開催まで、残り十日と迫っている! 諸君! 理解しているであろうが、我ら聖騎士団一同は! 今日より五日後に、このメガロポリスの中心地ユグドラシルより出発するパレードの警護につく! そして一部の者はステージ上で国民中に“演舞”を披露し! また一部の者は“模擬戦”にてその力をネオ・アルカディア中に知らしめる使命を負っている!」
「応ッ!」と声を張り上げ、団員達は答える。それに対し、ペガソルタは片腕を上げ、言葉を続ける。
「皆それぞれの任を全力で全うせい! この建国記念式典にて、我ら聖騎士団の威厳と栄光を! 美しさを! 華麗さを! 人々の目に焼き付けてみせるのだ! それこそが我ら聖騎士団の使命! それこそが愛する国家の、より一層の繁栄へと導く、道標となろう!!」
「応ぅッ!!」と、一際大きく響き渡る鬨の声。聖騎士団の士気は最高潮に達している。
その様子を客席より観ていた人々は大きな歓声と拍手を送る。中には騎士の名を叫び、指笛を吹き、感動の涙を流す者までいる。
「解散」の号令がかかり、騎士団員達はそれぞれ指定された出口に向け歩き出す。鳴り止まない歓声と拍手に対し、皆、頻りに手を振りながら笑顔で答える。
建国記念式典十日前にコロシアムにて必ず行われる、ユグドラシル聖騎士団決起大会。メガロポリスのみならず、アースガルズ中から国民を招き建国記念式典への士気を高める。無論、チケットは即完売。観戦できるのは一握りの裕福層だけだ。
騎士団員達による演舞に始まり、この日のために投獄されていたイレギュラー達との模擬戦闘を行い、その強さと華やかさを人々に見せつけ、最後にこうして総長であるペガソルタの演説で幕を閉じた。
建国記念式典前の催し物としてはこれが最後にして最大のものであり、これが終了することで、「いよいよ」という雰囲気がネオ・アルカディア中に伝染していくのだ。
「おやおや、これは“コロシアムの英雄”ヘラクリウス・アンカトゥス殿ではありませんか」
出入り口と控え室とを繋ぐ通路へと戻ったペガソルタの前に、よく見知った二人のミュートスレプリロイドが立っていた。
このコロシアムで連日開催されていた「ショー」にて、不敗の記録を保持している最強の英雄、ヘラクリウス・アンカトゥス。そして、その弟クワガスト・アンカトゥス。
だが、ペガソルタはクワガストなどまるで気にもせず、ヘラクリウスに笑いかける。
「如何でしたかな。我らが聖騎士団の決起大会は。貴殿の目から見て」
「うむ。……悪くない」
ヘラクリウスは短く答える。「そうでしょうとも」とペガソルタは満足そうに高笑う。
「ええ、理解しておりますよ。我ら栄光ある聖騎士団の威光を目の前にしては、そのように言葉少なになるのも無理はありません」
主観を多分に混ぜた言葉を自信満々に返すペガソルタ。
それに対し、今度はクワガストが「はっ」と鼻で笑い返した。
「痴れ者が。世辞も分からぬか」
ピタリと高笑いが止む。――――そして、そこに漏れ出したのは嘲笑。
ペガソルタはクワガストへ視線を向けること無く、嘲笑う。
「これはこれは“墜ちた英雄”殿。僻んでおられるのでしょうが、それ以上の失言は醜さを増すばかりですぞ」
「何をッ! 貴様!」
飛びかかろうとするクワガストをヘラクリウスが「待て」と止める。その様子を見てペガソルタの嘲笑は更に大きくなる。
「聞いておりますぞ、ヘラクリウス殿。貴殿の弟君は確か、名も無きイレギュラーに“泥を塗られた”とか」
「黙れぇッ!」
「落ち着け、クワガスト!」
ヘラクリウスの制止を振り切り、飛びかかるクワガストをペガソルタはヒラリと躱す。
速度では敵わないと気付き、「クッ」と悔しげに睨みつける。だが、ペガソルタは尚も無視を決め込む。
「半壊状態の弟君を、貴殿が救われたとか。一部の間では『卑怯な敵の不意打ちから弟を救った兄の姿に、絆の強さを知り、人々は涙した』と伝えられているが、実際は違う」
コロシアムで起きた一大事。クワガスト生涯の屈辱となった、その顛末をここで口にしようとするペガソルタに、クワガスト当人が怒りを顕にする。
その張り詰めた雰囲気を裂くように、ヘラクリウスは「そこまでにしていただこう、ペガソルタ騎士団総長殿」と声を上げる。
「不出来ではあるが、私には大事な弟。それ以上の無礼は私とて我慢ならぬ。――――しかし、何よりまず、我が弟クワガストの非礼を詫びよう」
そう言ってヘラクリウスは静かに頭を下げた。その様子を見て、ペガソルタは嬉しそうに「フン」と鼻を鳴らす。
「美しき英雄に、そう言われては致し方あるまい。こちらこそ非礼を詫びよう、ヘラクリウス殿」
ペガソルタもまた頭を下げる。蚊帳の外に出されたクワガストだけが、やりきれなさに「クソ」と小さく悪態を吐いた。
「楽しみにしていてくだされ、ヘラクリウス殿。パレードでの、我ら聖騎士団の演舞は今日のものより、遥かに華やかな舞台となるでしょうから。そして勿論、“おこぼれ”で頂いた“模擬戦”もね」
皮肉っぽくそう言って「ハッハッハッ」と大きく笑い声を響かせながら、ペガソルタは去って行った。
自身の満ち溢れる背中を見送った後、不意にクワガストが頭を下げる。
「すまぬ、兄者。――――俺の未熟さ故に、恥をかかせた……」
「良い、クワガスト。気が短いのはお前の悪いところだが、その素直さは美徳だ」
軽く笑いかけながら、ヘラクリウスはそう言ってクワガストの肩を叩く。しかし、クワガストは兄の内心を思えば、複雑な感情を抱かずにはいられなかった。
当初の予定では、今年のパレードにおける移動型特設ステージでの公開模擬戦闘はアンカトゥス兄弟の役目であった。
コロシアムで勝ち星を上げ続ける二人の屈強な英雄の力を示すことで、パレードを盛り上げ、ネオ・アルカディアの力を知らしめることが目的だったのだ。
しかし、その予定は数カ月前に起きた一大事件によって大きく狂わされてしまう。
いつもの如く、クワガストはイレギュラーを狩る蒼い救世主の役を負って、コロシアムのステージに上った。そして、いつもの如く、まるでゴミ屑を処分するように、散り散りに逃げようとするイレギュラーたちを自慢の刃で斬り殺し、会場を沸かせた。
だが、次の瞬間――――クワガストの片腕は大きく宙を舞っていた。それに気づいた刹那、今度は男の腕がクワガストの片足を根本から引きちぎり、そのまま腹部を蹴りつけ、地面に叩きつけた。
例え不意を突かれたとはいえ、これまで刃を交わしてきた平凡なイレギュラー達とはまるで同じに思えぬその圧倒的な戦闘力に、クワガストは戸惑うまま、戦闘不能の状態まで追いやられてしまった。
会場の方々から悲鳴が上がり、控えていたパンテオン部隊が演目の強制変更と同時に、制圧に乗り出す事態にまで陥った。しかし、イレギュラーの力はその程度では収まらず、最終的にはヘラクリウスが参戦し、電磁ワイヤーで取り押さえて事態を収束させた。
それからというもの、クワガストの人気は失墜。遂にはパレードでの役目を返上するまでに、その威厳を落としてしまった。
予期せぬ一大事に己を責め続けるクワガストに、「仕方のない事だ」とヘラクリウスは宥めるように言った。だが、こうして聖騎士団の決起大会を見に足を運んだのは、パレードでの大役に少なからず未練があるからだろうとクワガストは察していた。
だというのに、先ほどのやりとり。そもそもこちらから挑発したというのに、相手の言葉にまんまと乗せられ頭に血が昇ってしまうとは、これでは恥の上塗りだ。それも自分一人ならまだいい。しかし、兄が横にいたのならば、ヘラクリウスの面子にまで泥を塗ってしまう。
反省を滲ませるクワガストに、「気にするな」とヘラクリウスは声をかける。
「俺が『良い』と言っているのだ。それくらいは聞いてくれても良かろう」
諭すように言うヘラクリウスに、クワガストは「すまぬ」と再び謝罪の言葉を口にした。
「しかし……だ。言わせてもらえば、所詮“あの程度”だ」
ヘラクリウスは腕組みをし、「フン」と鼻を鳴らす。
「クワガスト、お前は俺が奴らを羨んでいるとでも思うたのだろうが、それは違うぞ」
クワガストの苦悩を見抜いていると宣言し、そしてその気遣いを大きく否定する。
「奴らが相応しいかどうか確かめに来たのは確かだが、俺は見世物になることに未練など無い。このコロシアムで散々だ」
その言葉は意外に思えたが、よくよく考えれば合点がいった。
ヘラクリウスは常々、自分たちの役目を「ショーと国防にある」と説いていた。だが、その目的はあくまでも“人間の為”。人々の心を潤すこと。人々の安全を護ること。それらの達成こそが真に大事な役目である。見世物となることを喜びとしてはいないし、威光を知らしめる事などどうでもいい。
だからパレードにわざわざ参加することなど、ヘラクリウスにとってはそれほど価値が高くなかった。己がそこに参加せずとも、人々の心は盛り上がり、活気づくのは至極当然なのだから。
それでもこうして聖騎士団の様子を伺いに来たのは、クワガストが考えるほど高尚な理由ではなかった。言うならば“気が向いた”程度のことだ。
そして“気が向いて”足を運び、目にしたのはやはり、予想通りの光景であった。
「戦場の心得もろくに無い、有象無象共が。いくら華やかに飾りつけようが、玄人の目から見ればその非力さは明らかだ」
聖騎士団の団員は皆、戦場に出た経験もなければ、前線のレプリロイドたちのデータを自身にフィードバックしてもいない。曰く「汚らわしい」。曰く「高潔なる騎士には不要」。
ミュートスレプリロイドにして総長であるペガソルタ・エクレールにしてもそんな調子であるため、基本スペックの高さに反して、正直その戦闘力はクワガストにも及ばないだろう。
身を翻し、「行くぞ」とクワガストに声をかける。
「明日から再び開かれるコロシアムでの戦闘に備え、調整をせねばならん」
ヘラクリウスの思考は、クワガストが思っている以上にドライだ。
熱い戦闘力を備えつつも冷静沈着なこの振る舞いと判断力。それを思い知るたびに、クワガストの憧れは一層強くなってゆく。
――――だからこそ……だ
今も尚、自責の念が消え失せないのは、そんな兄に恥をかかせてしまったという点が大きい。
どれもこれも、あのイレギュラーとの一戦がキッカケだ。
――――隻眼スコープのイレギュラーめ……
忌々しい男の顔が脳裏に浮かぶ。左側に通常の義眼を持ちながら、右側にメカニカルスコープを装備した男性型レプリロイド。幸の薄そうな鬱屈とした表情に、ほとんど無言の様子が、不気味さを助長する。
対戦の後に思い出したことだが、数ヶ月前、自分のあとで行われたショーにおいて、パンテオンの一団を殲滅した謎のレプリロイドがいた。その男こそ、まさに“それ”だった。
そもそもは己の油断が招いた事態ではあったが、それでもこの屈辱は絶対に忘れられない。
噂に聞いたところ、あの一戦でイレギュラー処分を受けて“更生施設”に送られたが、機器による精神プログラムの操作を受けても、崩壊に至ること無く平然としていたため、やむを得ずヘルヘイム第十二階層に送られたと聞く。
――――上が処分に困れば、再びコロシアムに戻される筈だ
もしその機会が来れば例えヘラクリウスが止めたとしても、クワガストは一対一の決闘によってこの雪辱を果たすと心に決めている。
それを達成するまでは、どれだけ蔑まれようと堪えるしか無い。救世主以上に敬って止まないヘラクリウスに、これ以上の恥をかかせてはならぬと胸の内で強く自身に言い聞かせた。
―――― 3 ――――
「マー♪ マー♪ マー♪ マー……」
アレクサンダが弾くピアノの音階に合わせ、イーリスは自分の発声を確かめる。国を背負う人気歌姫にとって、日々のボイストレーニングは重要な日課であり、まして数日後に一大イベントを控えた今は殊更熱が入っている。
やがて何度目かの音階練習を終え、イーリスはホッとしたように息をつく。その表情は期待に満ちていながら、わずかばかりの不安が見える。だが、直ぐに溢れんばかりの笑顔を浮かべ、アレクサンダに向けて丁寧にお辞儀する。
「いつも付き合ってくれてありがとう、アレクサンダ」
「いえ、こちらこそ。私如きでよろしければいつでもお供いたします」
アレクサンダもまた、丁寧に言葉を返す。
それから、イーリスは木製の椅子につく。それから、ようやく自分の胸の内を吐露する。
「やっぱり、私も緊張して来ちゃったわ……。劇場でコンサートを行うことなら、もう慣れっこなのに……」
数日後に始まる記念式典パレード。その出発に合わせ、パレードの中心を進む移動式ステージで、イーリスは歌声を披露する予定となっている。ネオ・アルカディア中から支持される“虹の歌姫”をの美声こそ、パレード開幕の合図に相応しいと、元老院内で推す者がいたそうだ。
「……お兄さまも……せっかく議長という椅子にいるのだから、止めてくださればよかったのよ」
子供のように頬を膨らませながら、そう言って口を尖らせる。その仕草に、思わずアレクサンダは笑いを漏らしてしまう。
「な……なに?」
「いえ………別に大したことでは……。それより、せっかくの大役です。そう文句を口にするより、前向きに構えた方がよろしいのではないでしょうか」
百二十五周年式典にして初の試みとも言える、一歌姫による移動コンサート。いくら人口が減ったとはいえ、全人類にその様子を配信するコンサートなど、まさに前人未到の快挙である。
成功を収めることが出来れば、今後繁栄を取り戻すであろう人類の歴史に名を刻むことは確実と言っていいだろう。
「“だからこそ”よ! ほんの少しでも誤ってしまえば、それがそのまま歴史に刻まれるのよ? 後悔してもし切れないわ」
大げさに頭を抱え「ん~」と唸ってみせる。
その様子が可笑しくて、アレクサンダはまたしても笑いながら言葉を返す。
「大丈夫ですよ、イーリス様。いつものように歌えれば、何も問題はありません。問題があるとすれば、初めてのコンサートの時のように、練習をし過ぎて喉が枯れてしまうことの無いように、気を配ることかと思いますよ」
「……た……確かにその通りね」
過去の失態を思い出し、イーリスは思わずしかめっ面になる。まるで赤ん坊のようにコロコロと変わる表情も、イーリスの魅力の一つなのだろうと、アレクサンダはそれを見るたびに思っていた。
不意に、今度は少し憂鬱そうな表情を浮かべる。「忙しいものだな」と内心で微笑みながら、アレクサンダは「どうかしましたか」と尋ねる。
「あ……いや、別に大したことではないの」
そう言いながらも、イーリスの顔はどこか物憂げだ。哀しげな瞳が向ける視線を辿って、アレクサンダもその先にあるものを見つける。
洋服ダンスの上に立てかけられた古めかしい写真立て。「ああ、そうか」と納得する。
「父上様のことを?」
「……バレてしまったわね」と苦笑を返す。
「こんなにも素晴らしい晴れ舞台だもの……本当は見て欲しかったなぁ……って」
イーリスの父は、彼女が十ニの頃に亡くなった。ネオ・アルカディアの医療技術ならばもうしばらく生き永らえることができたが、延命措置を好まなかった為、そのまま息絶えた。
彼女の母親もまた既に彼女が幼い時に亡くなっており、実の肉親は既にいなくなっていた。
「お兄さまがいてくれて本当によかった」
微笑みながら、そう口にする。
イーリスの母親を失いしばらくして、両親を亡くしてから親戚筋を転々としていたレオニードを、イーリスの父親は引き取り、養子とした。
思えば、延命措置を受けずにそのまま眠りにつけたのは、レオニードという信頼出来る息子ができたからだろうと思う。
その頃からレオニードは多才ぶりを発揮し、大学の博士課程を飛び級で卒業。イーリスの面倒もよく見ていたのだ。
「でも、それでもたまにね……寂しく思ってしまうこともあるの。……きっと贅沢なのね、私」
「そんなことは……」
無い――――と思う。
どれだけ華やかな活躍をしていようと、まだまだ十七の少女であることに変わりはない。
母親の思い出もなく、父の顔は実感とともに心の内から希薄になっていくというのに、寂しさを覚えるなという方が酷な話だ。
どんなに優秀で優しい兄が傍にいたとしても、その想いは人として当然のものであるような気がした。
「ウフフ……ありがとう。もちろんアレクサンダ、あなたも一緒にいてくれて、本当に感謝しているわ」
レオニードがイーリスの家に養子に入った時、共に連れてきたレプリロイド。彼もまた、イーリスの良き理解者となり、良き家族となっていた。
そんな良き家族として、アレクサンダは心のまま微笑みかけ、優しく言葉をかける。
「きっと父上様も、イーリス様のことを見守っていてくれていますよ」
慰めと言えばそれまで。――――けれど、その時のイーリスには、それ以上の温もりを感じられた。
思わず潤む瞳を恥ずかしげに伏せながら、イーリスは「ありがとう」とお礼を言った。
その様子の意味がよく分からなかったので、アレクサンダは「イーリス様?」と名前を呼んで問いかけたが、その直ぐ後に、イーリスは満面の笑顔で「大丈夫よ」と返した。
「そういえば、ねえアレクサンダ。あなたはお父さまから“英雄のお話”、聞いたことある?」
「『英雄のお話』……ですか?」
首を傾げるアレクサンダに、「ええ、そうよ」と得意げに微笑み返す。
「小さい頃、よく聞かされたの。知らないのなら教えてあげるわ。英雄と、英雄が愛した可憐な花の物語!」
イーリスは幼い頃に聞かされたお伽噺の中でも、それが一番のお気に入りだった。「よく聞かされた」と言うより、実際はイーリスが何度も話すようせがんだくらいだ。
「では、お願いします」とアレクサンダが口にすると、「それじゃあね……」と話し始める。
得意げに、饒舌に、まるでその風景を見てきたかのように物語るイーリス。時に大きく、時に静かに、身振り手振りを加えて。歌うような優しい声で。時に叫ぶような激しい声で。
何度も心に刻んだ、父親との思い出の物語を久しぶりに他人に話すのが、余程嬉しかったのだろう。
アレクサンダは、子供のようにはしゃぐイーリスの姿を見つめながら願う。
幼くも、強かに生きるこの花が、いつまでも幸せであるように――――と、切実に。
―――― * * * ――――
ファントムに連れられ、作業服姿のまま、ゼロはユグドラシルを歩いて移動した。左右真後ろを黒いパンテオンが囲んでいるが、両手の自由は利き、その気になれば一戦交えて逃亡することも可能そうに思えた、無論、そうなればレヴィアタンの屋敷に残してきたコルボーたちの無事は保証できないだろうが。
ふと鼻先に白い塊が柔らかく触れたことに気付いた。空を見上げると灰色に覆われた冬空から、白い雪が優しく降り注ぎ始めていた。
「……そんな時期か」
同じようにして空を見上げていたファントムが、ポツリと呟くのが聞こえた。
先ほどの凍てつくような声色と一転した、少し情緒的な響きに、ゼロの彼に対するイメージが少しだけ揺れる。だが、それから先はファントムから一言も発されることはなかった。
「前見て歩けよ」と空を見上げてばかりいるアルエットに、ゼロは優しく言い聞かせる。彼女にとってもどうやら久々の光景らしく、心なしかはしゃいでいるようにさえ見える。繋いでいた手も、雪に気を取られているせいか力が抜けていて、スルリと滑り抜けないよう、ゼロは優しくも少しだけ強めに握った。
「ゼロは……なつかしくないの……?」
返事の代わりに問いかける。
言われてみれば、目覚めてからこの方、天から降り注ぐ白雪を目にすることなど無かった。こうして降雪が飾る街の風景ならば尚更だ。
だが、ゼロは「そうさな」と、どこかバツの悪そうな顔をする。
「……雪にはどうも、いい思い出が無いらしくてな。綺麗だとは思うんだが……」
「そう」と、少し寂しげにアルエットは口を尖らせた。
降り注ぐ雪がどうこうというわけではない。この景色についても同様で、特に何か記憶が反応するわけでもない。
ただ、思い出すのはついこの間のこと。寒空で起きた悲劇。白銀の世界で己の無力さに打ちのめされた一件。
鮮血に染められた雪原が、今もまだ胸の奥にその光景を残している。
「じゃあ…おねえちゃんをたすけたら……またいっしょに雪のふる町を歩こう!」
いつにも増して元気よく、アルエットは無邪気にはしゃぐ。その言葉に、朗らかなアルエットの笑顔に、ゼロは見事に不意打ちを食らった。
パンテオンたちからは一瞬警戒する反応を感じ、ファントムでさえ、ピクリと反応したのが分かった。
敵の真っ只中で、“おねえちゃん”――――シエルを救出した後の話を堂々と口にしてしまうのは、無邪気さのなせる業か。それとも、底知れぬ度胸のなせる業か。
「そしたらね。きっと“いい思い出”ができると思うの……」
どちらにせよ、その言葉はゼロの胸の奥に温もりを与えるのに十分であった。
「そうしたらゼロも……雪のふる町が好きになれるよ」
「……ああ、そうだな」
短く答えた後、言葉に表せぬ想いをどうにか伝えられないかと悩む。
そして結局、いつものようにその小さな頭を優しく撫でた。
その時――――図らずも視界に捉えた、黒い背中が纏った優しい空気が、事の終わりまでゼロの記憶の片隅に引っかかり続けることになる。
暫くして辿り着いたのは、レヴィアタンの住まいより二回りも大きい荘厳な屋敷であった。まるで城かと見紛うほどの見た目に、ゼロとアルエットは圧倒される。
ファントムはパンテオンたちとともに二人を連れ、正面からは入らず、裏口へと回る。何かと不都合なことがあるのだろう。ここまで平然とユグドラシル内を歩いてきたのは、ゼロが作業着姿のままであったからだと、自分の身なりを再確認して思い当たった。
裏庭を回り、正面にあった豪勢な扉とは打って変わった、一人分の大きさの慎ましい扉を開いて屋敷の中へと足を踏み入れる。パンテオンたちはそれ以上立ち入らず、光学迷彩を作動させたのか、その場で姿を消した。
左右に並ぶ幾つもの扉をまるで意に介さず、ファントムはひたすら続く廊下を直進してゆく。
よく掃除が行き届いている屋敷の中は、埃の一つも、僅かな汚れも見受けられない。
以前世話になっていたホームの屋敷と比べて、使用している様子もまるで感じられないところがどこか不気味に感じられた。が、これだけ大きな屋敷は見かけだけであって、実際に使用しているスペースは限られているのだろうと直ぐに理解した。
それもその筈で、これだけ大きな屋敷を所有している者の立場は容易に想像できた。四天王以上の、いや、ユグドラシル内でも最大級に大きいこのような屋敷に住んでいる者といえば一握りの連中だ。それなりの立場にあり、それなりの責任を負っている“人間”――――……
ようやく辿り着いた大きめの両開き戸の前に立ち、ファントムはノックをする。
中から「入れ」と、僅かに嗄れた低い男声が聞こえてくる。それに従い、ファントムは両手で扉の取っ手を掴み、押し開いた。
「ご苦労であった。隠将よ」
豊かな口髭を蓄えた老人が、高級そうな装飾を施された肘掛け椅子にどっしりと座ったまま、労いの言葉をファントムにかける。
白髪混じりの黒髪はまるで黒い炎のようで、先の尖った鷲鼻が老人の攻撃性を象徴しているように見える。年齢を感じさせない鋭い目は鷹の如く、瞳の奥には野心の炎が確かに揺れているのが、ゼロにも一目で分かった。
「……掛けるが良い、紅いイレギュラー」
事前に用意されていたもう一つの肘掛け椅子に、ゼロは言われるまま座る。アルエットはどこか怯えたように、ゼロの椅子に擦り寄る。
右目に掛けたモノクルの下から探るようにじっと見つめると、それから「フン」と鼻を鳴らす。
「“紅の破壊神”などと呼ばれておるからどのようなレプリロイドかと思えば……とんだ優男であるな」
「……初対面の相手に対して、なかなか無礼なことだな、“じいさん”」
ゼロの切り返しに、老人の眉がピクリと反応する。しかし恐れを知らぬ紅い英雄は、不敵な笑みを浮かべる。
「……成程、人形にしては、口が達者なようだ」
老人の目つき、言葉遣いから、ゼロはその老人がレプリロイドに対して大きな嫌悪感を抱いているのだと、強く確信した。
ネオ・アルカディアの歴史において、一般の人々にとってゼロは、百年前の戦争を終結させた紛れも無い英雄であった。例え今は“紅いイレギュラー”などと呼ばれていようと、それを理解している人間の目には、救世主に対するものと同等とはいかなくとも、ある程度の敬意や或いは畏怖の色が滲んでいてもおかしくはない。
しかし、目の前にいる老人の瞳は己の野望に輝き、ゼロを、その道に転ぶ一体のボロ人形程度にしか意識していないのだと、はっきりと物語っていた。
いや、ゼロだけではない。側にいるアルエットも、また、隠将と呼ばれネオ・アルカディア四天王の一人として敬われるべきファントムに対しても、同様の意識を持っているのだろう。
「あんた……いったい何者だ?」
そんな老人の感情を理解していながら、あくまでもゼロは毅然と振舞った。
どれだけの地位にいる者か、それどころか一体何者なのかある程度の見当はついていたが、問いかけるべきだと思い、口にした。
すると老人は、ゼロの口の利き方に引っかかりを覚えながらも、その質問を無視し、逆に問いかける。
「貴様の目的はなんだ? 紅いイレギュラー」
「尋ねているのは俺の方だ」
「……立場を理解していないようだな」
老人がそう言って手を上げると、光の刃がゼロの喉元に突き付けられる。
ファントムが手にしているビームサーベルが煌々と輝き、ゼロの生命を脅かす。
「……再び問おう。貴様の目的はなんだ? 紅いイレギュラー。答えてみよ」
専用コートも無い、今の状態では、戦闘能力に不安が残る。「仕方ない」と観念して、ゼロは老人の問いに答えることにした。
どれだけの情報を出して良いか瞬時に考え、言葉をひねり出す。
「狂った救世主をぶっ倒して、小娘の道を切り開く。俺の目的はそれだけだ」
最も単純で、明確な答え。同時に、嘘もなければ具体性をぼかした回答でもある。
しかし、その言葉にまんざらでもないような表情を老人は浮かべた。ある程度予想の範疇だったらしい。それも彼にとって良い方向で。
「成程……良かろう」
老人もまた不敵な笑みを浮かべ、ゼロを見つめる。
「我は全人類が頂点、元老院最高議長ヴィルヘルム。――――紅いイレギュラー、貴様の力が必要だ」
予想通りの正体に、ゼロは納得する。同時に、唐突に突き付けられた要請に、唖然とする。
飲み込めていない表情を眺めながら、ヴィルヘルムは言葉を付け足す。禍々しく、強烈な野望の一片を口にした。
「紅いイレギュラー、我が軍門に降れ。……あの“救世主”を討ち倒すために」
―――― * * * ――――
どれだけの年月が過ぎれば、この憎悪は消え去るのか。
そんなことをふと思った瞬間さえ、既に数十年と昔のことになり。今ではもう、その感情に対して何の疑念すら湧かない。
呼吸するように、水分を欲するように、眠るように――――まるで生まれた時からその感情がそこに芽生えていたかのように、彼の言動の全ては“それ”に支配されていた。
しかし生来“それ”を、何の引き金も無く持ち合わせている者などおらず。その感情には、どれだけ過去に追いやられようと、発端となった瞬間が確かにある。
彼の場合“それ”の起源は、八十年程前に遡る――――……
レプリロイドによるレジスタンス組織自体が特に存在せず、反体制行動自体それほど過激なものがまだ行われていなかった時代。
前年に制定された「人類保護法」の影響により、警察によってイレギュラーとして検挙されるレプリロイドの数が増加した。
“人類保護”の名目のもと、立場を圧迫されていったレプリロイドたちの不満は、次第に膨れ上がっていく。しかし、それを表に出せば、たちまち法の処分を受けることを知っていた彼らは、その不満を抑え、溜め込んでいく。
そうして行き場もなく積もり積もったフラストレーションは、いつしか心の中で激流に変わり、ふとしたキッカケで、留めていた堤防を決壊させてしまう。
次々と溢れだした激流は、合流し、やがて一本の巨大な流れとなって、国中を戦火に巻き込んだ。
世に言う「大反乱」――――ネオ・アルカディア、アースガルズ第一エリア首都、メガロポリスの街角で起こった暴力事件を発端に、傲慢な人類に対して起きたレプリロイドの集団蜂起。
その牙は、老人であろうと、女性だろうと、年端もいかぬ少年少女だろうと、何も知らぬ幼児であろうと、容赦なく傷つけ、死に追いやった。
多分に漏れること無く、少年の両親もレプリロイドにより殺された。
メガロポリス市長であった彼の父親は、彼の目の前で、誰よりも無惨に殺された。そして、必死で彼を護ろうとした母も、彼を腕に抱いたまま頭部を割られ、呆気無く死んだ。
あまりのショックに、彼は気を失う。
母の肉片と脳片、そして血液に塗れた彼を、レプリロイドが気に留めずにその場から去ったことが幸運した。
気づいたときは病院のベッド。全ての事が終わった後だった。
即時的に結成されたレプリロイドによる制圧チームによって、事態は一週間で収まり国家単位で見れば、それほどの損害が出ずに済んだらしい。街は既に復興し、街行く人々の表情には笑顔が戻りつつあった。
だが、少年の脳裏に焼き付いた光景は、決して容易に消え失せる傷ではなかった。
赤黒い体液でドロドロに塗れた視界に映った残虐なイレギュラーの顔。それを思い浮かべるたびに、少年は嘔吐し、体中を掻き毟った。
そして、“その感情”は芽生えた。
彼から何よりも惨たらしく両親を奪った“レプリロイド”という“殺戮兵器”に対する、紛れも無い“憎しみ”。
それは如何なる感情よりもドス黒く、鈍い輝きをテラテラと放つ。
その“憎悪”に促されるまま、彼は決意した。いつの日か人類の頂点に立ち、あの殺戮兵器共に、本来の立場を理解させることを。
危険であれば、何よりも即座に切り捨てられることを。代わりなどいくらでもいるということを。道具としての一生を自覚させることを。人間という主に絶対の服従を誓わせることを。
不要ならば容易に処分できるほど、人間と比べてその存在が余りにも軽薄であるということを。
“生命”などという言葉を用いることが、甚だ分不相応であることを。
所詮、作り物の“人形”に過ぎないのだということを。
それから少年は、その黒い感情を次第に大きく膨らませながら、その誓いを微塵も揺るがされることなく、己の道を進んでいくことになる。
N.A.歴四十四年――――元老院最高議長ヴィルヘルム、十歳の頃の事である。
―――― 4 ――――
「『あの“救世主”を討ち倒す』……だと?」
あまりにも突然の言葉に、ゼロは確認するように問い返す。
ヴィルヘルムは少しも間をおかず、「うむ」と短く返した。口元には笑みすら浮かべている。
目の前の老人が何を言っているのか、最初は正気を疑った。
ネオ・アルカディアにおいて救世主エックスとは、宗教で言うならば絶対不可侵とされる神そのものに近い。イレギュラー戦争を集結させた英雄。ネオ・アルカディアの建国。今もなお人類を見守り続けるその姿は、ネオ・アルカディアの国民であるならば崇めこそすれ、叛意を持つことなどありない。それも人間であるならば尚更だ。
その“神”を、目の前の老人は「討ち倒す」と口にした。ゼロの眼の前にいる、現人類の頂点、元老院最高議長という座についている老人が、確かに言ったのだ。
驚くことはそれだけではない。その野心を敵であるゼロに告げたのも勿論のこと、彼の側には救世主の臣下として名高い四天王、まさにその一人が控えているのだ。それだというのに欠片も臆すことなく、まるで平然と言ってのけた。
そしてそれに対し、四天王の一人――――隠将ファントムも何一つ気にしている素振りを見せない。
目の前で起こっているあらゆる事態がゼロを驚かせ、困惑させる。
しかしゼロは、無理矢理にでもそれらをすべて、一旦呑み込むことにした。でなければ、話が進まなくなる。
理由も動機も、不明な点は全て棚に上げ、ゼロは簡潔に整理する。
ヴィルヘルムは、救世主打倒を目論んでいる。そのことを、おそらくファントムは理解し、おそらく協力している。
そして、ヴィルヘルムは現在敵である、自分に対して協力を要請している。
「……悪い話ではないはずだ。何故なら……貴様らと私の目的はある点で一致するのだから」
ヴィルヘルムの目的――――救世主の打倒。確かに、白の団の目的もそこにある。厳密に言えば、シエルの目的は少し異なり、ゼロもそのために動いているつもりだが、いずれにしても救世主と対峙することになるのは同じだ。
戸惑いを浮かべるゼロに、ヴィルヘルムは「仕方ない」と己の計画について少し話すことにした。
「救世主の排除、そして人類による真の統治。それが私の目標だ」
“救世主”を名乗るレプリロイドの存在を、ヴィルヘルムは決して赦せなかった。
そこには他にも複雑な事情が絡んでいるのだが。とにかくヴィルヘルムは憎むべきレプリロイドの救世主を容認し続けることに耐えられなくなったのだ。
そもそも道具にすぎない“ロボット”に、どうして主たる人類が頭を下げ続けねばならないのか。何故、戦争で活躍しただけの“兵器”をわざわざ“救世主”と掲げるのか。
「槍や剣を持て囃したか? 戦車や戦闘機を崇めたか? 原子爆弾を神と祭り上げたか? ――――いずれも否だ。道具は道具の領分を守らねばならぬ。人もまた、道具の価値を違えてはならぬ。過去の人類がそれを違えたおかげで……見ろ、この世界はこんなにも歪な形となった」
不都合なレプリロイドが容易に処分されていく一方で、必要以上に祭り上げられ、英雄視され、崇められるレプリロイドもいる。イレギュラーハンター、十七部隊、聖騎士団、四軍団、ミュートスレプリロイド、四天王、そして救世主――――……‥‥
しかし、彼らが他のレプリロイドと何が異なるのか。――――何も異ならないハズだ。どのレプリロイドも、人間の目的のために利用される道具としての価値は何ら変わらないハズだ。“人類の平和を守る道具”としての価値は。
そしてその価値が変わらぬのならば、人間とレプリロイドの主従関係も変わらぬはずだ。
「だというのに何故、人類の頂点たるこの私が、レプリロイドに――――道具に腰を低くせねばならぬ?」
「……しかし、“救世主”だぞ」
百歩譲って、ほぼ全てのレプリロイドを道具として同価値であると認めたとして、しかし“救世主”はどうだ。
成程、ヴィルヘルムの言うとおり大戦を終わらせた兵器をまるで神のごとく崇め奉ることなど、ありえない話だ。万能の道具であると持て囃した所でそれまで。それ以上の存在に祭り上げることなど異常であろう。
だが“救世主”の功績は戦争を集結させた兵器としての価値だけではなかった筈だ。
残った人類をまとめ上げ、ネオ・アルカディアという国家を作り上げた。一言で言ってしまえば軽く思えるが、それは容易い道でなかったはずだ。イレギュラー戦争の中で生き残った人類は、多種多様の国民、民族、部族に別れていただろう。それぞれの主張があり、政治思想が有り、言語が有り、衣服が有り、生活スタイルが有り――――……‥‥挙げればキリがないほどの齟齬がその道を阻んだはずだ。
それを彼はまとめ上げ、一つの国家として成立させたのだ。その功績をただの“道具”だからと切り捨ててしまえるのか。
しかし、ヴィルヘルムはそんなゼロの言葉に鼻を鳴らす。
「ならば、あの救世主がイレギュラーにならぬという保証はどこにある?」
ゼロは虚を突かれた思いがした。
「“救世主”としての功績は認めよう。それはどれだけの年月があろうと、人類が辿りつけなかった道だ」
実際、このネオ・アルカディアにおいて人間同士の争いがどれだけあるだろうか。
多種多様な民族によって構成されているはずのこの国家において、人間同士の大きな争い事は建国からこの方一度もないと言い切れる。
「だが、結局のところ奴はレプリロイドだ。電子頭脳にいつ異常が出たとしておかしくはない“機械人形”だ」
イレギュラーにならないという保証は誰にもない。
もしイレギュラーになり得るかどうかの判別が最初からつくのであれば、今行われている人間とレプリロイドの争いはなかっただろう。
人類保護法も無く、八十年前の大反乱も引き起こされなかったはずだ。
「そんな機械人形が“救世主”という立ち位置につき続ければ、どうなる? 万が一にもイレギュラーとなったときは誰がそれを処分する?」
道を違えた国のトップを引き止められずに衰退した国家が歴史上には幾つもある。
ネオ・アルカディアが同じ道を辿らないという保証はない。国のトップが道を違えない保証はない。“救世主”だからとイレギュラーにならない保証は無い。
「分かるか、紅いイレギュラー。我ら人類の、再びの繁栄を誓うには、あの救世主を排除しないことには始まらないのだ」
座から降ろせば事足りる話ではない。救世主を崇める一部の者が、万が一にもレプリロイドたちが救世主について蜂起する可能性もある。
それ故の“排除”。“救世主”という看板を背負った以上、あのレプリロイドを政治の頂点から引きずり下ろす時は、処分する以外に道はない。
「……そうだとして、それなら何故俺に協力を要請する?」
立ち消えぬ疑問を口にする。
保護されていた人類の一人であるヴィルヘルムが「“救世主”を討ち倒す」理由は理解した。その言い分は間違いではない。
だが、それでも何故“紅いイレギュラー”たるゼロの協力が必要なのか。単純な戦闘力の問題ならば、必要ないだろう。元老院には聖騎士団やイレギュラーハンターがおり、何より正気であるうちの“救世主”が人類に刃を向けることなどあり得ない。
方やゼロは、現在のネオ・アルカディアにおいて“紅いイレギュラー”として憎まれ、追われている存在だ。その“紅いイレギュラー”にどうして、このような思想を持ったヴィルヘルムが協力を仰ぐのか。
「それは――――我々人類に、“救世主”は不要であるが、“英雄”は必要であると思ったからだ」
ゼロは理解する。
ヴィルヘルムは、人類を統べる“救世主”の排除を目的として動いている。だが、それを成し遂げた後、人々の心を支えるものは何だ。
意思統一に使う“道具”は? “象徴”は? ――――それらを解決する者こそが“英雄”の存在だ。
しかし、それが何故“ゼロ”であるのか。ネオ・アルカディアで用いるならば“クラフト”でも良かったはずだ。
そんなゼロの疑問に、ヴィルヘルムは答える。
「クラフトでも“ベター”だ。だが紅いイレギュラー、貴様であるならば“ベスト”なのだ。――――分かるか。人が欲しているのは英雄譚であり、美談だ」
“イレギュラー戦争”を共に終結させた二人の英雄。救世主として国を統べ、百年の間人類を守り続けてきた片方の英雄がとうとう狂い、道を違えた時、それを“親友”という立場から悲痛な想いを抱きながらも自らの刃で引き止めるもう一人の英雄。
そんな構図に、人々は容易く感情を揺さぶられるだろう。
「……だが、俺は“紅いイレギュラー”だ」
人々からテロリストの一味として敵対視される存在だ。
だが、それにもヴィルヘルムは「既に手はある」と切り返す。
「貴様の経歴について、どうこうすることなど造作も無い。――――何より、私には切り札がある」
ニヤリとほくそ笑む。
「これは、現段階では貴様に漏らすことのできない情報だ。貴様が協力者となるまで――――いや、救世主を討ち倒した後に公開しても良い。そうすれば立場は逆転する、そういうカードだ」
ヴィルヘルムの余裕の表情から察するに、真実だろう。万が一にもゼロを騙し討ちすることが目的であるならば、このような周りくどいやり方をするとは思えないし、虚偽だとして、口にするメリットも見当たらない。
「これ以上の説明は無駄だろう」とヴィルヘルムは言う。
「いずれにせよ、貴様の力が必要であると私は考えている。それ故に、こうして招いた。それが全てだ」
ゼロを睨む瞳の奥で野心の炎が揺れる。ヴィルヘルムは再び勧誘の言葉を口にする。
「我々に協力しろ、紅いイレギュラー。この世界を変えるために」
「――――世界を変えるとして……」
ヴィルヘルムの言葉を借りて問い返す。
「あんたが頭に描いている世界で、俺達の権利はどうなる?」
その言葉に「ふむ」と息を漏らし、顎髭を撫でるヴィルヘルム。
「当然、貴様らの組織に所属するレプリロイドの安全は保証しよう。更に、癪ではあるが、貴様含めたリーダー格をレプリロイドとしては高位につけることを約束しよう」
それはある意味、交渉としては至極当然の条件であり、しかしヴィルヘルムについては最大限の譲歩であった。
これだけの憎しみを持ちながら、協力を惜しまないレプリロイドに対しては、その存在を認めようというのだから。
それはゼロにも理解できた。そして、今ここで断ることは愚の骨頂といっていい。
これが只の“交渉”でないことは既にわかっている。
ゼロは専用コートもないまま敵陣の間只中に立たされ、その傍には非力なアルエットまでいる。万が一ここで何かしらの事が起きれば、ゼロ一人なら切り抜けられたとしても、アルエットを守りながらでは不可能だ。そしてまた、レヴィアタンの屋敷に残してきたコルボーたちも無事に済まないだろう。
更に言えば、現在死に体の白の団を救う道はそれほど多くはない。
また、一つはっきりと分かったことがある。イレギュラーハンターによる襲撃が起こらなかったのは、おそらくヴィルヘルムからのストップがかかったからに違いない。こうして協力を要請する為に、その材料を残しておいたのだ。そう考えれば、あの不気味な平穏にも合点がいく。
では、断れば? ――――恐らく、白の団は崩壊させられる。ヴィルヘルムの指示によって。
今のゼロに、どれだけの悪条件であれど「YES」以外の答えは残されていない。
「……あんたと“俺達”の目的は違う」
しかし迷いの果て、とうとう口を衝いて出たのは、そんな拒絶の一言だった。
「なに?」とヴィルヘルムは思わず眉を潜め、ゼロを睨みつける。
「“俺達”――――白の団の目的は小娘の願いを叶えることだ。その理想を現実にすることだ」
人間とレプリロイドが共に手を取り合い暮らす、誰もがいつか思い描いたであろう懐かしい未来――――それを実現することだ。
「『救世主を討ち倒す』ことじゃない。自分たちが政治の実権を握ろうなんて大層なもんでもない」
もっと根本の話だ。もっと当たり前の話だ。
ただ生きたい。――――この世界で認められたまま。この世界で赦されたまま。
決して道具としてではなく、一人の生命としてその生き方を保証される世界に変わらなければ、無意味に等しい。
ヴィルヘルムの思想そのままを具現化した世界であるならば、レプリロイドの立場がこのまま改善されないことは目に見えている。
それは、シエルの描いた夢とはまるで違う世界だ。
それが達成できないならば、これまでの戦いに何の意味があったのか。これまで流した血の量に、どうして報いることができようか。
態度を決めたゼロに対し、「良いのか」と、ヴィルヘルムは驚きの目で見る。
「これを違えることは、貴様の死にも繋がるのだぞ?」
「そうだな。損得で考えるなら、間違い無く損な道を選んでいるだろうよ」
ゼロは自嘲気味に答える。そんなことはとうに理解している。
「それを『愚か』とあんたは笑うだろう。俺もそう思う。けどな――――……‥‥」
不敵な笑みを浮かべながら、何一つ臆すこと無く、何一つためらうこと無く、言い放つ。
「何より俺は、あんたの大層な野望なんぞよりも、あの小娘が――――シエルが口にした“ガキの夢”みたいな理想に命を懸けたいのさ」
――――突然の、暗転。
ゼロは何が起きたのか理解することもできないまま、その意識を失った。次いでアルエットも、そんなゼロの様子に気づく前に、気を失い倒れこんだ。
「もう少し、頭の回る男だと思っていたが……」
「惜しい」とばかりにヴィルヘルムは溜息をつく。それから「所詮、レプリロイドか」と嘲笑った。
「……如何が致しますか?」
先程二人の首筋に当てた、拳銃型の麻酔プログラム注入器を片手に持ち、ファントムが問いかける。
「紅いイレギュラーはヘルヘイムに送れ。無論、誰にも悟られぬように。――――第十階層あたりが良いだろう」
指示を受けたファントムは片手を挙げる。
すると、数体の黒いパンテオンが部屋に入り、そのうち二体ほどが一緒にゼロの身体を持ち上げた。
「命は取られぬだろうと思ったのだろうが、浅はかだったな。“べスト”が掴めぬなら“ベター”に切り替えるまでのことだ」
「クラフトを……?」というファントムの問いに、「いや」と首を横に振る。
「奴はもうダメだ。“意志”を持ちすぎた“手駒”は厄介故に……ペガソルタを使う」
聖騎士団総長、ペガソルタ・エクレール――――彼の能力が“英雄”となるにはまるで及ばないことなど、ヴィルヘルムにも分かっている。
しかし、“手駒”としては優秀だ。なにせ、ヴィルヘルムへの忠誠心は誰よりも厚い上に、考える頭を持っていない。
「建国記念式典の前日が良かろう。その時、電子麻薬を利かせた状態で紅いイレギュラーを外に放て。その首をペガソルタに取らせる」
ネオ・アルカディアに侵入してきた最悪のテロリスト、“紅いイレギュラー”。それを討ち取る聖騎士団総長ペガソルタ・エクレール。“英雄”と祭り上げるには最高のシチュエーションだ。
加えてその後直ぐに、ネオ・アルカディア建国を祝う記念式典が開催されるとなれば、宣伝効果は飛躍する。人々の興奮は高まり、中心で演舞を披露する彼の評判は天にも昇るだろう。
「そうなれば後は、救世主を追い落とし討ち倒すだけだ。それでこの世界は変わる」
殊更満足気にヴィルヘルムはニヤリと微笑む。
彼の野望を達成するのに必要な駒が全て揃った。もう何も迷う必要は無い。あとはその時が来るのを待つだけだ。
「……こちらの娘は?」
アルエットを示し、ファントムが問いかける。ヴィルヘルムは「好きにしろ」と鼻を鳴らして返した。
「妖将の屋敷にいる者もだ。処分して構わん。貴様に任せる」
「御意」と答え、背を向ける。それからパンテオンに指示を出し、アルエットの身体を運ばせた。
「して、隠将」とヴィルヘルムはなにか思い出したように呼びかける。
「黒狼軍の動きは?」
「ハッ。紅いイレギュラーと落ち合う予定のポイントに部下を向かわせましたが、構成員の姿はなく――――代わりに、こちらが放っていた密偵の残骸が……」
「出し抜かれたわけか。――――まあ、良い。救世主の様子はどうだ?」
「……変わらず。コチラに気づいている様子は見当たりませぬ」
「そうか」
「ククッ」と笑いが漏れる。
「今後も監視を怠るな。何か気取られている様子があれば直ぐに知らせろ。――――それこそ、貴様が作り出された所以なのだから」
「……仰せのままに」
短く答えると、漆黒のコートはうっすらと風景に溶け込み、そのまま煙のように姿を消していった。
後に残されたヴィルヘルムは、思わず口から笑いを漏らし、次第にそれが高笑いへと変わる。
ようやくだ。既にその起源を、本人は忘却の彼方に閉じ込めてしまったが。心に芽生えた黒い感情は長い年月をかけて熟成し、いつしか彼の体の隅々まで溶け込んでいた。
そしてその感情に突き動かされるまま、あの頃より八十年、元老院最高議長に就任してから二十年――――待ち望んだ瞬間がようやくこの手に届く。
この手に、世界の全てが――――……‥‥
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死者の国