―――― * * * ――――
『お待ちくださいエックス様! どうかお待ちを!』
自分に目もくれず、ただ通り過ぎようとする救世主に、彼は叫ぶように懇願した。
自身に掛けられた嫌疑の全てが、言われもない冤罪であることを声の限りに訴えた。百年もの間この世界を統治してきた、そんな救世主程の男であるならば、窮地に立たされた自分をきっと救ってくれるだろうと信じていたのだ。
だが、彼へとその救世主が向けた視線は、まるで理解のできない摩訶不思議な物体を見るかのようで。それどころか、出会したことのない状況に困惑しているようですらあった。そんな者に、今の彼の状況を理解し、救う力など有るはずもない。
後から考えればそう納得できるのだが、その時の彼は、そんな相手の様子に気づくこともなく、ただ声を上げるばかりだった。
すると突然、彼の視界が赤みがかった光の刃の切っ先で遮られる。思わず腰を抜かす。
刃の主は、四天王のリーダー格、ハルピュイアだった。
『我らが主に縋り付こうとは……烏滸がましいにもほどがあるぞ、痴れ者が』
そのまま右足で彼の頬を蹴り飛ばす。彼はその場に倒れこんだ。
『イレギュラー処分を受けなかっただけでもありがたく思え。そして、二度とこのユグドラシルに近づくな』
そう言ってハルピュイアもまた、背を向け歩き始めた。
彼は力の抜けた腕で上体を起こし、前を見る。そして、ハルピュイアの背中を見つめた。白いマントの背中が、無力な彼を嘲笑っているように見えた。
――――あの…“白”が……
憧れていた。救世主を囲む者達が纏う、白いマントや衣の類。いつかそれを身に纏いたいものだと想いを馳せた。
一介のレプリロイドの研究員ではあったが、戦略研究所でも優秀な成績を残し、地位も築きつつあった。その努力と才を認められ、いつかきっとかの救世主に召し上げられるだろうと信じていた。
だが、その夢は儚く砕けて散ってしまった。
――――あの“白”が……憎い
今の彼にとって、憧れた白のマントは、憎悪の対象となり変わった。あれ程までに憧れていたというのに。自身を裏切った“白”をどうしても許せなかった。
だがそれでも、心の奥底で、“いつかきっと”と思わずにはいられなかった。その思いを捨てられなかった。
栄光と威厳とを併せ持つ、あの白いマントを、いつか必ず我が手に掴みたいと、願わずにはいられなかった。
奥歯を食いしばる。指の先には地面をひっかくように力を込めた。憎しみと、悔しさと、憤りと……そう言ったあらゆる負の感情がぐるぐると頭の中で渦巻いていた。
『だいじょうぶ……?』
不意に聞こえてきた声の方へ視線を向けると、小さな手が差し伸べられていた。
そこに立っていたのは幼い少女だった。可愛らしいポニーテールを揺らし、優しく微笑んでいる。
今まで一度も向けられたことのないあどけないその笑顔に、彼はただ手を伸ばすことしか出来なかった。
そして、伸ばした手を握り返してくれた小さな手の温もりは、彼の心を優しく包み込んだ。
18th STAGE
color of mine/d
―――― 1 ――――
「くだらない……」
メモリーが見せる回想風景に、エルピスは起床とともに毒づく。もう七年も昔のことだ。今更何の役にも立たない、くだらない記憶。
とは言え、あれが始まりだったのは確かだ。この闘争も、感情も。
だからと言って、何故今、思い出すのか。それには間違いなく、自身を取り囲む最近の状況が関係しているのだろう。
解放議会軍の裏をかいた謀略。度重なるミュートスレプリロイドとの戦闘における活躍。闘将との戦闘と生還――――。ゼロはその実力を余す事無く発揮し、英雄として申し分ない働きを見せている。エルピスの計画通りに事が運んでいれば、彼を旗印にネオ・アルカディア打倒の流れを作り上げ、その勢いのまま進撃を続け、今頃エルピス自身はその流れの中枢を担っていた筈だった。
だが、議会軍の裏切りから何かがズレ始めた。
今や白の団内では、解放議会軍との共闘を進めてきた方針が失策であったことを批判する者が出始め、同時に、トップの椅子に座りつつも、ゼロとは違い自ら危険を冒すことのないエルピスに対し、真っ向から反抗を示す者まで出始めていた。
皮肉にも、どれもこれも英雄と称されるゼロの行動との比較から生まれたものであった。
そういった状況から、エルピスの心にも少なからず動揺が生まれていたのだ。
ベッドから起き上がり、団服に袖を通す。そして、掛けていた白のマントに手を伸ばした。
不意に、夢の光景がフラッシュバックする。
「……だから何だと言うのか…」
苦い顔をしながら、その“白”を手に取り、上から羽織った。
「さっすが伝説の英雄だよなー! もうミュートスレプリロイドを八体も、しかもあの四天王の一人もやっつけちまったんだから、すっげーよなー!」
談話室で称賛の声を上げながらメナートが騒いでいる。
その様子を見ながら、コルボーは呆れたように声を漏らす。
「初めは腹が立つほど非難してたくせに……調子がいいよな、本当に」
「まあ、そう言ってやるなよ」
トムスが宥める。
「実際、全体的にも同じような声が上がり始めてる。あの英雄さんがみんなから認められてきたっていう証拠だろ。いい傾向だよ」
確かにトムスの言うとおりだ。いや、それ以上の影響があるといってもいい。コルボーは思わずニヤケ顔になる。
最初に命を救われた時から今日まで、コルボー達はゼロの力を信じ、協力を続けてきた。
前までは彼に対する批判を耳にして気分を悪くすることも少なくはなかったし、自分達自身も変わり者のように扱われたこともあった。
だが、今ではそのようなことは一切見られなくなり、むしろ、ゼロとの信頼関係の深さと行なってきた共同作戦の数から、マークをリーダーとしたチーム自体もエースとして崇められているような節さえある。
正直な話をすれば、元は彼ら自身もまた、あの英雄に対して半信半疑だったはずなのだが。
「だが…残念ながらいい傾向ばかりでもないんだな、これが」
マークが二人の間に割って入る。
「知ってるだろ、“英雄派”を名乗る連中のこと」
白の団内で次第に数が増え始めている“英雄”――――即ちゼロの名前を掲げる派閥のことは、確かにコルボーもトムスも知っていた。
エルピスの指令や作戦に対して反抗し、何かとゼロの名を持ちだしてはエルピスの批判ばかりを繰り返している。
例え、ゼロのことを信頼しているマークたちでも、彼らのやり方は好ましいと思えなかった。
「そもそも、大してゼロさんと親しかったわけでもない連中がそんな事言い出してるわけですからね! 腹立たしいもんですよ!」
「結局、どいつもこいつも危ない橋を渡るのが怖くなってきたってだけですよね」
コルボーとトムスの言うとおり、彼らの中心にいるのは、ゼロとそれほど親交が深かったわけではない者達ばかりで、それどころかまともな戦闘に参加したことのない者もいたくらいだ。
要は、平穏な基地内の生活に慣れすぎたおかげで、戦地へと赴くことに恐れをなし、反抗するための理由にゼロの名を挙げては、エルピスの批判へとすり替えているというだけの話だった。
「でもよー、アイツらの言うことも一理あると俺は思うぜ?」
何時から聞いていたのか、メナートが軽い調子で口を挟む。
「何が一理あるだよ。そんなやり方されて、ゼロさんにだって迷惑だろ」
「だってよー、だんちょーさんが戦わねえのは事実じゃん? 結局、俺らばっかり下働きで危ない目にあってさ」
戦地へと足を運ばず、基地の中枢にある司令室で指揮を執り続けている姿に対して、メナートのような見方をするものが少なくない。
英雄派の者達も、結局はそこを最初に突いて来たのだ。とは言え、それもまた理不尽な話である。
「戦場に出ることもなく、テキトーに遊んでるだけのおまえが言うな!」
思わずコルボーが怒鳴りつけると、トムスが肩を掴み、「まあまあ」と宥めた。
「うっせーなあ……でも本当のことだろ! 偉そうにふんぞり返って、『あれしろ』『こうしろ』『戦ってこい』――――おかしいと思わねえ?」
「成程、メナートの言いたいことも分からないわけではない」
「な!」と驚きの声を上げるコルボー。今にも騒ぎ出しそうなその口を、トムスは咄嗟に塞いだ。マークは話を続ける。
「だけどな、メナート。もしも団長がいなかったらどうなっていたと思う?」
「『いなかったら』…って?」
突然の問いかけに、メナートは考えこむ。横で聞いていたコルボーとトムスも同時に顔を見合わせ、考え始めた。
「そりゃ……ん~……」
考えども上手く答えはでない。というより、ある程度分かってはいたのだが、口にしにくかった。
マークが続ける。
「覚えてるか、フラクロスの輸送列車を襲撃した作戦のこと。あれを考えたのは団長だったし、たぶん団長じゃなかったら考えつかなかった」
ネオ・アルカディアの力の象徴の一つ、パンター・フラクロスの輸送列車を襲撃しようなどとは、実際のところ誰も考えつかなかった。特に、戦闘力的に乏しい白の団に取っては不可能といっても過言ではなかっただろう。ゼロの力で成功したとはいえ、初めに提案したのはエルピスだ。
「それだけじゃない。今日まで白の団を統制してきたのはあの人だ。あの人がいなかったら、正直、非戦闘型の俺達がここまで組織としてまとまって、生き残っては来れなかっただろうさ」
日毎にネオ・アルカディアの攻勢は勢いを増している。多くのレジスタンス組織が潰れていき、集落もまた襲撃にあっていると聞く。
だが、白の団は生き残り続けている。黒狼軍のように戦闘のプロ集団が所属しているわけではなく、ただの一般型レプリロイド達がこれだけの大所帯を築きながらも、敵に本拠地が割れることもなく、残り続けているのだ。
これは正直、奇跡といっても良かった。
「その団長がもしも死んでしまったらどうなるか考えて見ろ。いったい誰がこの組織をまとめていくんだ? ……たぶんゼロさんはやってくれないぞ」
群れることを好んでいるようには決して見えない彼のことだ。リーダーを務めてくれとお願いしたところで、それを素直に受けてくれるとは思えない。
無論、シエルが務めたとしても、エルピスほどの指揮能力や、戦略眼があるとは思えない。
となれば、もしもエルピスがいなくなってしまえば、ここは本物の烏合の衆となり果て、早々に消えてしまうだろうことは容易に考えられる。
「団長はそれだけの役割と、その分の責任を負ってるんだよ。だから、『前線に』云々の批判をする事自体が筋違いさ」
これには流石のメナートも言い返せなかった。「だけどよぉ…」と小さく呟き、口を尖らせる。流石は一チームを率いるリーダーだけはあると、トムスは感心し、コルボーに至っては真っ向からメナートと言い争いをしようとした自分の幼稚さ加減を静かに反省した。
「本当に、そういうもんかねえ……」
不意に横から聞こえた声に、思わず一同は反応する。そこには、白の団内でも皮肉屋で有名なピックが悠々と座っていた。
「へへへ……そう怖い顔すんなよ」
ピックは薄ら笑いを浮かべながら、敵意を顕に睨むマークに向けてそう言った。
「何が言いたいか…はっきり言えばいいだろう、ピック」
「マーク、まあ落ち着けって…へへへ。俺は別に悪気があって言う訳じゃあねえんだぜぇ?」
そうは言うものの、ピックは明らかに挑発するような笑みを浮かべてマーク達を見ている。
だが、マーク達の視線を物ともせず、ピックは飄々とした態度で語りを続ける。
「ただよ…あんたが言うような状況になったところで、大して困りゃしないんじゃないかと俺は思うんだよな」
「なに?」
『あんたが言うような状況』――――即ち、エルピスがもしも死んでしまったらという場合である。マークは先程、エルピスの存在価値と必要性を説いた。だが。ピックはそれに異を唱えるというのだ。
「何故そんなことが言える」
「へへへ、そうさな……例えばそんな状況になっても、マーク……あんたがリーダーをやったところで変わりゃしないじゃないか?」
自分のことを担ぎ上げるような意見に、マークは驚き、呆然とする。開いた口がふさがらない彼に代わり、トムスが「どういうことだ」と問い直す。
ピックは厭味ったらしく口端を吊り上げ、得意げに話しだす。
「よくよく考えても見な。この白の団って組織が、実際にレジスタンスとしてどんだけの成果を出してんのかをよ」
マークたちだけでなく、メナートまでもがこれまでの経緯を振り返る。
各地でのゲリラ活動、脱国者や崩壊した他のレジスタンス構成員達の保護等、その活動は多岐にわたっている。
敵部隊への襲撃は、フラクロスの輸送列車襲撃に代表されるように、成功を収めた作戦も決して少なくないし、多くのレプリロイド達を保護し、今も白の団の人数は拡大し続けている。
マークは再びピックを睨みつける。
「確かに俺達は、戦闘においては非力だ。それでもいつだって命懸けで活動に取り組んできたし、救った者達もいる」
「だがよ、それがネオ・アルカディアにどれだけの影響を与えたとあんたは思うのかい?」
ピックの問いに、マークは口篭った。『どれだけの影響を与えた』か――――それについて、自分は確かに触れていなかった。
遣り取りを聞いていたコルボーは思わず動揺を顔に出す。その様子を見逃さなかったピックは、すかさずコルボーを指差し、「心当たりのある奴もちゃぁんといるみたいじゃねえか、へへへ」と厭味ったらしい薄ら笑いを浮かべた。
「へへへ……そうさ、俺達程度の連中がどれだけ体を張ろうが、結局あのでけえ国には傷一つ付けられちゃいないのよ」
むしろレジスタンス全体の形勢は日に日に悪くなっているようにも見えた。
フラクロスに限らず、どれだけの猛者を倒そうとも敵の攻勢は収まらず、小規模のレジスタンス達は次々と姿を消し、集落はいいように襲撃を受け続けている。
「あの英雄は“紅いイレギュラー”だなんて名前で呼ばれて警戒されてるが、片や俺達の方はどうだい? “白の団”の中で他に誰がネオ・アルカディアに目を付けられた? 注目されるような働きをした?」
白の団に限らず、ネオ・アルカディアという国にとって、脅威となり得る要注意人物というのは、正直なところあらゆるレジスタンス組織を覗いても殆ど現れてはいない。
結局は今も警戒されているのは、黒狼軍のベルサルクとゼロ位のものだ。
「だからと言って、俺がエルピスさんの代わりになれるなんて理由になりはしないだろ」
そう反論するマークに、ピックは「分かってねえな」と首を横に振る。
「現状で目を見張るような成果を出せてもいないのに、“あの人じゃなきゃ”なんてどうして言えるんだい?」
その言葉にマーク達は言葉を失う。それを見て、ピックの薄ら笑いは嘲笑へと変わった。
先ほど口にした輸送列車襲撃の功績も、彼一人のものではなかったし、そもそも結果的に、ネオ・アルカディアには予想していた程の打撃を与えることが出来なかったと言って良い。あの作戦以後、ネオ・アルカディアが騒ぎたてた話題といえば“紅いイレギュラー”の活躍だけであって、それで国内の生活水準が逼迫したという話を聞いたことも、軍の活動範囲に大きな影を落としたという話も聞かない。
結局、あの輸送列車がなくなろうと、代用する補給路は他にも用意することができたし、他に強力な部隊がないわけでもなかった。
フラクロスを撃破した英雄の存在は騒がれても、作戦を提案し指揮をとった人物を「なんと優秀な者がいたものだ」と賞賛する声も、畏怖する声も聞こえてこなかった。
もしもエルピスでなかったなら――――確かに輸送列車襲撃作戦は思いつかなかったかもしれない。
だが、それで本当に大きな負の影響が生まれただろうか。
エルピスでなければ本当に白の団はまとまらなかったか?
ゼロという英雄が活躍してくれるのであれば、他の誰が指揮を執ったところで、何ら問題がないのではないか?
“エルピスじゃなければいけない理由”がどこにあるというのか?
「要はよ。リーダーなんてのは誰がやろうと変わんないのさ。あの英雄が暴れ回ってくれてさえいればよ。…へへへ」
横で「なるほど」と頷くメナートを尻目に、何とか言い返そうとマーク達は言葉を探した。だが、ピックの言葉に反論の余地が見つからない。
彼の言うとおり、ゼロが闘い続け、成果を出し続けていれば――――極論すれば、エルピスだけでなく、白の団が存在しなくなったとしても――――白の団がレジスタンスとして目指していた目的は達成できてしまうだろうと考えられた。
そう、ピックは白の団の存在意義までも否定したのだ。だが、それに返す言葉が彼らには見つけられなかった。
「……じゃあ…どうしてお前は白の団にいるんだよ」
コルボーが声を搾り出すように問いかける。するとピックは小馬鹿にしたように笑う。
「そりゃ…まあ拾われたのがたまたま此処だったってだけさ。へへへ…悪いが古参じゃあない俺が此処にいる理由なんてのは、そんなもんさ。その辺で野垂れ死ぬつもりもないし、しばらく命を繋げられるんならそれに越したこともないしな」
思わず背筋が凍るような思いがした。
きっとこのように考えているのはピックだけではないのだろう。他にも大勢の者達が、“その程度の志”でこの組織に参加しているのだ。そう考えると、コルボー自身も、白の団という組織の存在意義というものが分からなくなり始めた。
ピックの言うとおり、ゼロのような者さえいれば、エルピスも――――いや、自分達ですら必要がないのだろう。
それから、「白けちまったな」とピックは笑いながら席を立ち、談話室から去って行った。
マークとトムスは互いにしかめっ面で顔を見合わせる。コルボーはピックが出ていった扉をしばらく睨み続けた。
扉へと近づいてくる足音を聞き取り、思わずその場を離れた。
曲がり角へと身を潜め、談話室から出て軽い足取りで廊下を歩くピックの背中を、見つめる。いつしかその眼は鋭く睨みつけていた。
それからピックの姿が見えなくなると、まるで空き巣のようにコソコソと身を隠す自分の様子を省みて、言いようのない複雑な気分がこみ上げてきた。
「何をやっているんだ……私は…」
エルピスは仕方なしに苦笑する。
自分に関する話題が部屋の中から聞こえ、気づけば耳を澄まし盗み聞きしていた。
正直なところ、こんなことをしたのは今日だけの話ではなかった。
ここ最近、自分を見る団員たちの目が気になって仕方ない。前までは司令室に篭り、戦略を練るのに専念していられたというのに、今では見回りと称して基地内を徘徊しては、自分に対する団員たちの態度確かめずにはいられないのだ。
「クソ」と心の中で悪態をつく。そして、胸を締め付けるような悪寒を感じ、その場を足早に去った。
エルピスがリーダーである必要は無い。
先ほどの遣り取りから、あそこにいた者達が出した結論は、結局それだった。
ゼロさえいれば、打倒ネオ・アルカディアは果たされると。エルピスがいなくとも、それどころか白の団が存在せずとも、この戦争は進むのだと。
似たような話は既に何度も聞いてきた。その度に奥歯を噛み締め、拳に力を込めた。
だが、今まで以上にはっきり自身の存在意義を、全てを否定され、エルピスは耐え切れぬ屈辱感と堪えきれぬ憤りとを抱えたまま、黙々と歩き続けた。
――――クソ……クソ………クソぉ……!
どこから間違えたのか。何を誤ったのか。生まれた不協和音は少しずつ肥大化し、エルピスを追い詰め始めていた。“あの日”の屈辱が脳裏に思い出され、負の感情が重なり、心は更に蝕まれた。
暫くして、自分が足を止めていたことに気づく。そして、自分が辿り着いた部屋の扉を見つめる。
そこは彼女の部屋だった。
どうして此処に辿り着いたのか。明確な理由はわからなかった。だが不意に、彼女の声を聞きたい衝動が、エルピスの胸を強く叩いた。
何度か逡巡し、そして衝き上げる想いのまま、躊躇いがちに扉をノックする。
部屋の奥から少女の声が「はい」と元気よく聞こえたことに、エルピスは安堵した。
そして、「どうぞ」と促されるまま、扉を開いた。
―――― * * * ――――
『それでは、クラフト隊長。取材へのご協力、本当にありがとうございました』
レコーダーとメモ帳をカバンに仕舞い込み、ネージュがそう言って丁寧に頭を下げると、クラフトは苦笑いを浮かべた。
『君がそういう態度だと……正直困るな』
『「そう言う態度」…って。どういう意味?』
意地悪そうに笑いながら、ネージュは問い返す。つい先程まで見せていた仕事上の顔ではなく、一人の友人としての親しみやすい顔を見せていた。
そんな彼女の表情に、クラフトは『そうそう』と微笑む。
『君はそう言う調子の方が似合っている』
『……私もそう思うわ。ありがとう、クラフト』
しばらく仕事上で顔を合わせることがなかったということもあり、こういう時の微妙な緊張感が、二人にとってはどこかぎこちなく感じられたのだ。
『それじゃあ』とネージュが席を立とうとする。しかし、クラフトはそれを片手で引き止める。
『こうして面と向かって話すのも久しぶりなんだ。もう少しゆっくりしていけば良い』
『でも、忙しいんじゃない?』
クラフトの予定を気にするネージュ。だが、クラフトはまたも苦笑する。
『こういう時間もできれば取りたいと思っていたんだ』
ネージュとの時間なのか、それとも友人との他愛のない雑談の時間なのか。クラフトの言う『こういう時間』というのが、具体的にどういったものを指すのかは分からない。
しかし、なんとなくその意味が分からないでもなかったので、ネージュは黙って再び席についた。
『あれから五年……か』
懐かしい物を眺めるように目を細め、クラフトは窓の外を見つめる。『そうね』とネージュもまた、懐かしむように答えた。
『あれから五年』――――第一部隊長に就任してから。ネージュとの出会いから。ネオ・アルカディアの新たな救世主として注目されてから。5年もの月日が経った。
ネージュはあの時から、随分と大人の女性らしくなったものだと、クラフトには感じられた。しかし、彼女の根幹――――レプリロイドさえも慈しむ熱く優しい心は今も変わっていないようだった。
クラフトはあの時からほとんど変わっていないのだと、ネージュは感じた。レプリロイド故に、外面的な成長があるわけではないので、当然なのだが。しかし、五年前に比べれば背負った使命と、責任、それらに対する覚悟のようなものは随分と強く感じられた。
『ふと…虚しくなる時があるんだ』
不意にクラフトが零した言葉に、ネージュは問い返すように視線を向ける。
『今朝も…な。テロリストを捕えた時……銃口を奴の頬に押し付けた時……考えてしまった。いや…迷ってしまったんだ』
“同じレプリロイドとして生まれてきたハズなのに、何故こうも殺し合わなければならないのか。”その問いが彼の頭を掠めたのは、今回の唯一度だけではない。
イレギュラーを処分する時。捕える時。引き金を引く時。戦っている時。
第一部隊長として責任を負うようになってから、特に。……いや、新たな救世主として期待と羨望の目を向けられるようになってからの五年間……と言った方が正しいだろう。
目の前で対峙している、裁かれるべきレプリロイド達との差を、顕著に感じてしまうのだ。そして、そこに強い迷いと苦悩が生じる。
『“正義”というのは…どうも容易い道ではないな』
“正しいこと”をしたい。ただ、それだけだ。だが、その“正しさ”が、時に信じ切れない時がある。
己の道を、信じ切れない時がある。
『分かる…かな。なんとなく』
ネージュが口を開く。
彼女も似たようなものだった。
彼女が正しいと信じる道も、それを遮ろうとする者達が何度となく立ち塞がっている。“それは過ちだ”と声高らかに否定されることは、数えきれず、その度に迷い、悩む。
『けど…ね、クラフト。私は信じているわ』
芯の通った声に、クラフトは思わずネージュを見つめる。彼女の目は、その言葉通り、確信のようなものに満ちていた。
『あなたの道は間違っていない、誇っていいものだって』
優しく微笑んで見せる。
『きっとそんな戦いの果てに、“人間とレプリロイドが真に理解し合い、支え合う未来が来る”って』
彼女だけではない、もっと大勢の者達がレプリロイドの活躍を認め、理解し、本当のパートナーとして暮らす世界。
イレギュラー戦争が起きるよりも前の時代はそうだったと聞いたことがある。だからこそ、それは不可能ではないと思えたし、信じることができるのだ。
『だから私は記事を書き続けるわ。そんな未来を信じているから。……ううん、そんな未来に“したい”から』
今は、全ての人に理解されないかもしれない。けれど、書き続けていればきっと誰かが共感し、理解され、その想いと理想は広がるはずだ。
何より、それが本当に“正義”であるならば。必ずいつの日かそうなる筈だ。
力強い言葉に、その堂々とした宣言に、クラフトは半ば呆気にとられる。それから、困ったような笑みを浮かべて、言葉を零す。
『……君は、強いな』
ネージュは『そんな風に信じてなきゃ…やってられないわ』とはにかみながら答えた。
その表情を見つめながら、クラフトは一人考える。
“人間とレプリロイドが真に理解し合い、支え合う未来”――――本当にそんなものが来るのならば。きっとその時に、この苦悩は全て報われるのだろう。
だが正直なところ、彼にはそれを信じるだけの手掛かりも、引き寄せるための力も、どうしても考えつかなかった。
だからこそ、今、目の前でそんな言葉を強く発することができる彼女の笑顔が、晴天に輝く太陽のように、眩しく見えたのだろう。
同時に、自分の手が届かぬ、遠い空の上にいるように見えたのかもしれない。
―――― 2 ――――
「旦那ぁ…」とチャンの情けない音声通信が届いた瞬間、クラフトは自分の予測が的中したことを確信し、先日犯してしまった失態を強く後悔した。
ガラノフとの対面から三日が経過した。クラフトの元へチャンが知らせたのは、塵炎軍団第二十三独立遊撃隊による件の集落に対する襲撃の事実だった。
だが、その日の襲撃はいつもと違い、“紅いイレギュラー”の出現にも関わらず、塵炎軍団たちは退却をすることがなかった。――――それどころか、彼らは驚くべき暴挙に踏み切ったのである。
可及的速やかに支度を終え、ライドチェイサーを走らせる。到着すると直ぐ様降り立ち、襲撃の爪痕が残る集落の奥へと、急ぎ足で踏み込んでゆく。その表情には鬼気迫るものがあった。
クラフトを見つけたチャンが、慌てたように駆け寄ってくる。それに気づくと、クラフトは彼の肩を勢い良く掴み、怒鳴るように問い詰める。
「レイラはどうした!?」
その声に身を竦ませながら、チャンは恐る恐る「すいません」と謝罪の言葉を口にした。
三日前――――第二十三独立遊撃隊が住処としている廃工場から立ち去る際。ガラノフに勘付かせてしまった恐れがあると、クラフトは不安に思った。
“紅いイレギュラー”が現れたという情報に関しガラノフが問いかけてきた瞬間、咄嗟に『聞いていない』と答えてしまったが、よくよく考えれば不自然な話だ。
命令系統に乱れが生じている塵炎軍団、その一部隊が得られる程度の情報だと言うのに、その標的を血眼になって探している筈の自分が『聞いていない』というのは、普通ではない。それも、かの第十七精鋭部隊長であるならば尚更だ。
しかし、仮に逆の返事をしたところで、「何故、奴を放っておきながら、こんな場所へ出向いてきたのか」と訝しがられていただろう。
ガラノフは暴虐な男ではあるが、愚かではない。加えて、養成課程の頃から争っていた相手のことは互いによく理解していた。
故に、ガラノフがクラフトの不自然な応答に疑問を感じただろうということは容易に想像できたし、そこから真実に近づくかもしれないと予測できた。
クラフトはチャンに、万が一のことが起きた場合、必ず連絡をとるように念を押した。自らも、第二十三独立遊撃隊の動向に気を配った。
だが、そんなクラフトの目を警戒していたのか、ガラノフは少数の部隊を秘密裏に動かし、今回の襲撃を決行した。
そして、あろうことか、“紅いイレギュラー”――――レイラだけをターゲットに絞り、強引に連れ去っていったのだ。
目的はおそらく、これまでの妨害に対する復讐だろう。どんな仕打ちを受けるかは想像に難くない。
クラフトはチャンの肩から手を離す。そして、悔しさに顔を歪めた。それを見ていたチャンはまたしても恐る恐る謝罪する。
「すいません……旦那」
だが、クラフトは何を思ったのか、そんな彼を鋭く睨みつけ、低い声で問い返した。
「何に対してお前は謝っている…?」
その威圧感に、チャンは思わず後ずさる。明らかにクラフトの目には怒りの色が見えたのだが、その理由が、真意がわからない。
チャンが口篭ってしまうと、クラフトは周りを見渡し始めた。
集落の者達は、クラフト達の尋常ならざる現在の状況を、不安そうに見つめていた。――――いや、見つめていた“だけ”だった。
そんな彼らの様子に痺れを切らしたのか、クラフトはそこにいた全ての者に聞こえるよう、声を張り上げて怒鳴りつけた。
「あの子が連れて行かれる時も……お前たちはそんな風に、ただ見ているだけだったのか!?」
大地が震えるように、その声は集落中に響き渡った。
クラフトは赦せなかった。
己の犯してしまった失態も、事態を防げなかった無力さも。そしてまた同時に、これまでレイラに守られてきたというのに、いざ彼女が危機に瀕した時、その身を呈して護ろうともせず、我が身大事に傍観を決め込んでいた彼らのことも、赦すことが出来なかった。
あんな幼いレプリロイドがたった一人で、大勢の命を守るためにその身を危険に晒していたというのに。向こう見ずで無礼なところはあるが、あんなにも優しい少女に対して、今まで与えてくれた恩を平気で無下にしてしまえる、その神経がクラフトには信じられなかった。
一通り睨みきると、クラフトは肩を怒らせたまま身を翻す。これからすべきことはただ一つだ。
急ぎ足で歩き出す――――その瞬間、「お待ちください」と呼び止める声が聞こえた。
振り向くとそこには、集落のリーダーが進み出ていた。
「お待ちください…クラフト様……」
そう言って、怯えながら近寄る。そして半ば躊躇いがちではあったが、その場に座り込むとクラフトに向け、地面に擦りつけるようにして頭を下げた。
その光景に、クラフトだけではなく、チャンも、その場にいた誰もが言葉を失った。
リーダーは土下座の体勢のまま、腹の底から声を張り上げた。
「どうか! どうかクラフト様のお力で、あの子を助けてやってください! お願いします!」
驚きのあまり、呆気にとられるクラフト。リーダーは、そのまま頭を上げ、クラフトを見つめる。そして、尚も言葉を続ける。
「仰るとおりです。我々はあの子にこれまで守られながら、あの子が連れ去られていく所をただ見ていることしか出来ませんでした。しかし……」
不意に言葉が途切れた。
そして、まるで悔しさを堪えるように顔をしかめる。
「しかし……非常に情けない話ですが………私は恐ろしかったのです。あの軍人たちが……。我々より遥かに強い、あの者達が…恐ろしかった」
その言葉に、他の者達も同様に顔をしかめた。中には悔しさに奥歯を噛み締める者、血が滲むほど拳を強く握り締める者もいた。
その実力差を考えれば、当然の事だった。
立ち向かえば、己の命がまるでゴミ屑も同然に扱われると分かっていながら、どうしてそれができようか。
命を落すだけならばまだしも、場合によっては体中をいいように弄ばれ、利用されるかもしれないというのに。死すら生ぬるい苦境がそこにあるかもしれないというのに。
そんな相手に立ち向かおうというのは、尋常な神経ではない。
立ち竦むことしか出来なかった。怯えることしか出来なかった。逃げ隠れることしか出来なかった。
自分達を護ろうと立ち向かう少女の背中を頼りにすることしか出来なかった。
その無力さが、悔しくて仕方がなかった。
気づけば、彼だけではない、次々と集落のレプリロイド達がクラフトの前に出て、頭を下げ始めた。地を舐めるように、懇願し始めた。
「助けてくれ」「お願いします」「どうかあの子を」――――次々に願いの声が、その場を包み始めた。
しかしその声はどれも、ただ縋るわけではなく、自らの無力さを呪い、悔しさを堪えるような、悲痛な響きを含んでいた。
皆、思っていたのだ。レイラという少女がどれだけの覚悟で自分達を護り続けてくれていたのか。それに頼り続けた自分達の愚かさと、情けなさを。
だが、それでも自分たちの力ではどうにもできないことが分かっていた。故に、ただ頭を下げ、願うことしか出来なかった。
「どうかクラフト様! あの子を……レイラを助けてください!」
集落中の思いが、一つにまとまり、クラフトの胸に突き刺さった。
「とにかく……落ち着け」
次々に声を上げる者達に、クラフトはそう言って宥める。何度か言い続ける内に、声は少しずつ鎮まりはじめた。
ようやく全てが収まると、懇願の眼差しを向ける者達に向け、クラフトは呟くように答えた。
「……言われなくとも、そのつもりだ」
皆、その言葉を聞き、安堵の色を見せた。
誰の言葉を聞くより先に、クラフトは答えを既に持っていた。誰に願われることがなくとも、ガラノフの下へレイラを救いに行くつもりだった。
だが、それは決して容易いものではない。
相手は同じネオ・アルカディアの、軍の一部隊だ。下手なやり方をすれば、問題は自分の周囲にも影響を及ぼす。とは言え、策を凝らしてあまりに時間が経ってしまえば、取り返しのつかないことに成りかねない。
ならば、どうするか。
賢将や元老院へ、塵炎軍団の風紀の乱れを報告したとしてもそれほどの効果はないし、レイラがそれで救えるとは思えない。そもそも、外のレプリロイドを救うという時点で協力者を得ようとは考えない方がいい。
そうして考えたところで、彼に浮かぶのはただ一つ――――正面から出向いての交渉、それだけしかできない。
「お前たちはここで待っていろ。チャン。もしものことがあれば、直ぐに知らせるんだ」
心の中で「やるしかない」と気を引き締め、振り返る。そして、急ぎ足で集落を出ると、ライドチェイサーに跨った。
チャン達が見送る中、クラフトはアクセルを回し、最高速でその場を後にする。
――――レイラ……
先日出会った少女のことを思い浮かべると、手遅れにならないことだけを、只管に願い続けた。
―――― * * * ――――
研究所から被験体が逃げ出したという話を聞いた。
彼の上司である人間の研究者が進めていた計画で、その逃げ出した被験者は、研究所内に多くの犠牲者を出しながらそのまま行方をくらませたそうだ。
あとに残ったのは死体や残骸の処理と、事件の責任追及であった。
大きな問題があった。それは、そのプロジェクトが外部に持ち出すことを堅く禁じられた極秘プロジェクトであったという事実だ。
その計画のコンセプトは“ネオ・アルカディアの守護者として相応の力量と高潔さを併せ持つ戦士の生産”という大層でありながら、大変内容が想像し難いものであった。その詳細は一切外部に公開されることはなく、その一部に携わった彼にさえも詳しい説明をされることはなかった。
その機密性――――場合によっては国家の威信に関わる問題への発展性を含むことから、責任は重大であり、ユグドラシルからの追放は間違いない。それどころかメガロポリス、果てはアースガルズに留まることすら赦されないだろう。
彼の上司は恐れた。戦略研究所でも一定の地位を築き、元老院議員として議会に招集される身分にまで登りつめたというのに。たかだか一つの失態で、その椅子どころか、これまで守り続けてきた財と地位の一切を失ってしまうかもしれない瀬戸際に立たされたのだ。留まるために、手を選ぶことは出来なかった。
『は…?』
最初に口を衝いて出たのは、間抜けのような、疑問符付きの一言だった。
その詳細を知らされてすらいないというのに、監督不行き届きの責任を着せられ、裁かれることになった。
状況が呑み込めないまま、事態は彼を置いて疾走する。
裁判が開かれ、彼の上司は弁護人として一言二言口添えをし、そのまま翌日には有罪が決まった。戦略研究所第四室主任職の剥奪とユグドラシル並びにアースガルズ区域からの全面追放。
事件から三日で、彼はそれまで積み上げてきた全てを失った。
ユグドラシルの聖殿、その廊下で救世主に訴えを叫び、少女と出会い、それから五年が過ぎた――――
気紛れからか、才能を認められたからか。彼は“おじいさま”の下に匿われてきた。
『ネオ・アルカディアと戦いましょう』
驚きを隠せない少女の瞳を真っ直ぐに見つめながら、彼はきっぱりとそう言い切った。
『今のネオ・アルカディアをこのままにしておく訳にはいきません』
レプリロイド達は今もなお、不当な罪で裁かれ、その命を脅かされ続けている。奴隷のような毎日に苦しむ者達がいる。
特に、ここ二年程の状況は百数十年の歴史の中でも群を抜いている。イレギュラー処分率は過去最高となり、レプリロイド達の待遇は悪化してゆく一方だ。
『でも……』
渋る彼女の手を取り、彼は言い聞かせる。
『シエルさん、私と共にネオ・アルカディアを出ましょう』
―――― 3 ――――
扉を開けて最初に目に入ったのは、モニターに大きく映しだされたあの男の顔だった。
「どうしたの、エルピス?」
部屋に入ったものの、扉の前でじっと立ったまま、ゼロの顔を睨みつけるエルピス。その雰囲気はいつもの気品ある様子とはだいぶ違っていた。
その威圧感と普段とは明らかに異質な感じに、ゼロは何か察したのか「また後でな」と通信を切った。
「……何か用事?」
シエルが問いかけても、答えてはくれない。憤りのような色を顔に浮かべたまま、エルピスはそこに立ち尽くしていた。
暫くの沈黙の後に、シエルは再度、「エルピス?」と名前を呼ぶ。
すると突然、エルピスは肩を怒らせる様にして、シエルの目と鼻の先まで近寄る。そして、後ろの卓に叩きつけるようにして片手を置いた。その迫力に、シエルは跳び上がりそうになった。
「エル……ピス…?」
次にその顔を見た時、エルピスの顔はどこか苦しんでいるように見えた。
「シエルさん……。あなたは……私が…」
「ぐっ」と奥歯を噛み締め、言葉を飲み込む。そして、吐き出すように問いただす。
「あなたには…私とあの男とどちらが大切なのですか!?」
「……え?」
唐突過ぎる問いに、思考が追いつかない。状況がつかめない。
だが、エルピスの言葉は更に続く。
「私は…必要ではありませんか!? あの男さえいれば…それですべて事足りますか!?」
猛烈な勢いで迫り、「答えてください」と問い詰めるエルピス。シエルが落ち着くよう宥める声も掻き消されてしまう。
そしてとうとうエルピスの勢いに押し負けたシエルは、バランスを崩して椅子から転げ落ちた。小さく「キャッ」と声を上げると、エルピスもそれでようやく我に返った。
「い…たぁ……」
「…………すいません」
それから自分のしてしまったことを思い返す。なんという醜態を晒してしまったのか。
どうしていいか分からず、エルピスはその場で右往左往する。そして、「失礼しました」と逃げるように背を向けた。
「待って!」
シエルの呼び声に、扉のロックを解除しようとしたエルピスの手が止まる。
「……ごめんなさい。手をとってくれる?」
座り込んだまま、シエルは片手を伸ばし、そう言った。
エルピスは何度か躊躇った後、シエルの方へと戻り、手を取る。そのまま引き上げ、立ち上がらせる。
「それでは」と再び立ち去ろうとする。しかし、シエルはその手を離さなかった。そしてまた、もう片方の手を被せた。
呆気にとられるエルピス。その手はいつかと同じように、温もりに包まれた。
「シエル……さん…?」
「覚えてる?ゼロが傷ついた時のこと」
数カ月前、まだゼロがこの基地を拠点としていた頃。旧黄金の鷲基地でアヌビステップ・ネクロマンセス率いる死屍軍団との戦いの中、瀕死の重傷を負い、文字通り、三日三晩目覚めなかった時のこと。
エルピスは「ハッ」と想い出す。そういえば、あの時も同じ問いをした。
『そんなにその男が大切ですか?』
気づけば、シエルは微笑を浮かべていた。エルピスの手を優しく撫でるように包みながら。
「大切だよ…ゼロも」
ポツリと呟くように答える。
「だけど、エルピスのことも大切。……ううん、アルエットもセルヴォもドワさんも、ルージュやジョーヌも…みんな、大切だよ」
あの日と、何ら変わることのない答え。だがあの日と違い、その頬に涙は流れていない。
「私にとっては、ここにいるみんなが大切で、みんなが必要なの」
その微笑みは、優しさと慈しみに溢れていた。
「だから…ね、エルピス。そんな事聞かないで」
「……シエルさん」
先程までの迫力は影を潜め、潮らしい表情を見せるエルピス。「大丈夫よ」と、シエルは笑ってみせた。
「他のみんなも必ず分かってくれるわ。エルピスが私達には必要なんだ…って」
ここ最近、エルピスについてとやかく言う者達が団内に増え、そのストレスが彼を追い詰めているのだろうと、シエルは悟っていた。
励ましの言葉を掛け、固く握手をする。
「お願い、エルピス。これからもあなたの力を貸して」
彼に期待を寄せる蒼い瞳に真っ直ぐ見つめられ、エルピスはただ「ありがとうございます」と小さな声で礼を述べた。
それから別れを告げ、シエルの部屋を出る。
自室へと向かう廊下を歩きながら、エルピスは尚もぐるぐると考え込んだ。
それは、既に知っている通りの答えだった。
彼女がそう答えることを――――ここにいる誰もを等しく大切に思っていることを、エルピスはよく理解していた。このように強引に問い詰める必要もないほどに、分かりきったことだった。
しかし残念ながら、その答えはエルピスが求めたものでは決して無かったのだ。
「シエルさん……あなたは………」
あの場で、決して言うまいと、無理やり飲み込んだ一言が喉元で燻っているのが分かる。
煮え切れないものを抱え、途中で零れてしまうことのないよう注意しながら、自室へと急ぎ足で戻った。
―――― 4 ――――
乱暴に身を投げられ、「ぅあっ」と声が漏れる。
縛り付けられた手足をもぞもぞと動かしながら顔を上げると、厳つい顔をした大柄なレプリロイドが自分の方に近づいてくるのが分かった。彼はそのまま、彼女の前髪を鷲掴み、無理やり顔を上げさせる。
思わずまたしても呻き声が漏れる。
「なかなかいい声で啼くじゃねえか。なあ、“紅いイレギュラー”さんよぉ」
「う…うっさい! 離せ!」
「おらよ」と声を荒げ、地面に叩きつけるように手を離す。すると、彼女の頬に鈍痛が走り、一瞬息が止まる。
男――――ガラノフはじろじろとその風貌を眺めながら、口端を歪める。
「流れる金髪に、真紅のコート……まさかこんな手に引っかかるとは。なあ、サイモン」
そう言って、彼女の身をここまで運んできた男――――サイモンに視線を移す。
サイモンは引きつったような笑みを浮かべながら、そこに倒れている“紅いイレギュラー”の腰のあたりを蹴飛ばした。
「全く、ふざけたガキだぜ! このイレギュラーがぁ!」
二度、三度蹴飛ばすと、他の隊員たちがサイモンを抑えた。
“紅いイレギュラー”は蹴られる度に悲痛な呻き声をあげ、呼吸は荒くなっていった。
尚も“紅いイレギュラー”に乱暴を加えようとするサイモンに「落ち着け」と仲間たちが呼び止める。これまでの鬱憤と怒りが溜まっているせいか、更に“紅いイレギュラー”を痛めつけようと、不気味に引きつった笑みを浮かべながらその手を振りほどこうとしていた。
「落ち着け、サイモン。テメエは愉しむって事をよく分かってねえなぁ」
ガラノフがやれやれと肩を竦め、“紅いイレギュラー”に手を伸ばす。そして、恐怖のせいか小刻みに震える彼女のコートに手をかけ、力づくでその生地を毟りとった。
脇の辺りに激しくコートが食い込み、その痛みに思わず“紅いイレギュラー”は叫び声を上げた。壮絶な光景に、サイモンも、それを傍観し楽しんでいた者達も皆、言葉を失う。
ガラノフは口端を醜く歪めながら、痛みに喚き続ける少女の体から着衣を剥ぎとっていった。
「ほれ見ろ。ガキだが、愉しむには申し分ねえ身体つきじゃねえか」
露わになった白い肌を舐めるように眺め、ガラノフは感心したように言う。
実際、サラリと覆う金髪の輝きも相まって、少女の艶やかな肌とその腰つきは、その場にいた誰もが予想していた以上に蠱惑的だった。
少女は小さな声で何度も「やめろ」と口にするが、誰もその声を聞いてはいなかった。
顎をガラノフが持ち上げ、顔を向けさせる。少女の顔は、目の前の敵を睨みつけてはいるものの、恐怖に怯えていた。
「いいかい、嬢ちゃん。自分のやってきたことが分かってんだろ? これからその報いを受けるのさ」
殊更嫌らしい笑みを浮かべ、ガラノフはそう言い聞かせる。少女を激しい悪寒が襲った。
「俺の部下どもも、いろいろ溜まりに溜まっててなぁ。上司である俺としてはその欲求不満を解消してやる義務もあるってわけよ」
じりじりとその時を待ち焦がれ、サイモン達は疼く身体を必死に抑えた。
「それでだ、嬢ちゃん。これまでの全てをチャラにする代わりに、一つ協力ってことで、ここにいる全員に犯されちゃあくれないか? なに、簡単なことさ。国にいた頃と何ら変わりねえ、性処理玩具になってくれりゃいいだけの話よ。人間よりもちょいとタフな連中が相手だが……まあ、イキまくって頭がぶっ飛ぶだけさ。大したことはねえよ」
そう言って後方に打ち棄てられた女性レプリロイドたちの方を親指で示す。廃人同然に、意思を失い、壊れた人形のようになってしまった彼女達を視界に入れ、少女は全てを理解する。
そして、劈くような悲鳴を上げ、身を何度も捩らせた。縛られた手足をジタバタと動かすが、どうにかなる気配はない。
その様子を見て、皆、ガラノフ同様、下卑た笑みを浮かべた。
「サイモン、まずはテメエにヤらせてやるよ。これまでの分、きっちり返してやんな。口はどうする?」
「ありがとうございやす、隊長。そのままで大丈夫っす。喚いてもらった方が気分が乗るんでね」
サイモンはそう言って近づくと、少女の肩を掴み、無理やり仰向きに反転させた。
「やめろ! 来るな! 来るな! ゲス野郎!!」
「ヒャハッ……本当にいい声で啼きやがるぜ」
暴れる少女の体を押さえつけると、足を持ち上げる。そして、擬似的に取り付けられた己の一物を取り出そうと腰に手をかけた。
「死ね! バカ! 死ね! 死んじまえよ! やめろ! ……やめろぉぉおーーーーーっ!!」
少女は一際大きな叫び声を上げた。
「 ガ ラ ノ フ !! 」
地鳴りのように響く怒声に、皆、ビクリと体を震わせる。
今にも少女の身体を犯そうとしていたサイモンも、その動きを止める。ガラノフはその声の主を睨んだ。
「……クラフトか」
「貴様……何をしている……」
その凄惨な状況を目の当たりにし、クラフトは昂ぶる怒りを必死で抑えながら、慎重に尋ねた。
だが、ガラノフはそんなクラフトの様子を小馬鹿にしたように、嘲笑を返した。
「『何をしている』? ……前に言った通りさ」
少女に覆いかぶさろうとしていたサイモンの身体を片手でどける。今にも陵辱されようとしていた少女の姿をクラフトに晒す。少女の顔は恐怖に青ざめていた。
「弱ぇ奴から“奪い”、強者である俺達が“欲を満たそうとしていた”。ただそれだけだ」
「…ふざけるのも大概にしろ……」
静かに怒気を含ませながら、クラフトはガラノフを睨みつける。
「ふざけてなんかいないぜ? 俺達は大マジさ。なあ、クラフト。それともテメエも加わるか?」
「ふ ざ け る な と 言 っ て い る !!」
怒鳴り声に、ガラノフの部下達は思わず後ずさる。だが、当のガラノフ本人は全く動じる気配を見せない。それどころか反抗心を瞳に燃え上がらせる。
「『行動を改めろ』と伝えたはずだ。でなければ貴様を――――」
「『処分する』か? ふざけてるのはテメエの方だぜ、クラフト」
そう言うと、殊更威圧感をむき出しにし、クラフトを睨みつけた。その尋常ならざる雰囲気に、部下達はまたしても後ずさる。
「できもしねえことをそうそう容易く口にするんじゃあねえよ。救世主ってのはホラ吹きでもなれんのか?」
「………その子に……レイラに罪はない」
先日同様、言い返すことのできないクラフトは、悔しさに憤りながら、要求を伝える。気づけば懇願するような目でレイラがこちらを見つめていた。
「レイラを解放しろ。今すぐに」
「できねえ相談だなあ」
そう言うと、今度は一変、ガラノフは豪勢な高笑いを上げた。
「滑稽だぜぇ、クラフト。何も知らない糞野郎が手前勝手な口上垂れる様を眺めるってのはよぉ」
「……どういうことだ?」
クラフトは眉を潜める。すると、今度はガラノフの部下達までニヤニヤと嫌らしく口端を歪めはじめた。
その異様な雰囲気に、クラフトは焦りを感じ、またしても「どういうことだ」と声を荒げて問い直す。
「残念だけどなぁ…クラフト。罪なら有るのさ」
「……!?」
クラフトは驚き、戸惑いの色を思わず見せてしまった。動揺を抑えきれない彼の様子に、ガラノフは自信ありげに語る。
「分かるぜ。いちいち外の奴まで確認しねえもんな。けどよ…ハンターのデータベースにはしっかりとこのガキの事件は記録されてるぜ」
彼女のDNAデータから、国内での居住場所、飼い主等、あらゆる情報を割り出し、ガラノフは一年前に起きた事件に行き着いた。状況証拠からではあるが、紛れも無く彼女が犯したであろう犯罪の事実を掴んだ。ガラノフは少し勿体ぶってから、ゆっくりと、そしてはっきりと口にする。
「こいつはなあ、殺しちまったのさ。人間を」
その瞬間、クラフトは言葉を失った。受け入れがたい真実に衝突し、理解が追いつかない。いや、認めたくなかった。そんな風に呆然とする様子を眺めながら、ガラノフは言葉を言い換え、再びクラフトに真実を告げた。更に端的に、分かり易い言葉を選んで。
「このガキは、人殺しなんだよ」
―――― * * * ――――
ネオ・アルカディア、アースガルズ第三エリア。少女はその中でもレプリロイドの風当たりが強くない地域に住む、ある人間の屋敷に飼われていた。
当初はその人間の息子の遊び相手という名目だった。楽ではなかったが、それほど酷い仕打ちを受けることもなく、ある程度平穏に暮らしていたのだが、数ヶ月ほど経過した頃、事件が起きた。
その家の亭主が、酒の勢いに任せたのか、彼女に乱暴をしようと迫った。少女は必死に拒絶しようとしたが、相手がレプリロイドであることをいいことに、男は殴る蹴るの暴力に訴え、少女を組み敷こうとした。
衣類も全て剥ぎ取られ、いよいよ…となった時、少女は無我夢中で男の腕を振りほどき、傍にあった鈍器に手を伸ばし、勢い良く男の頭部を殴りつけた。
気づけば部屋の中には血溜まりができていた。
少女は逃亡。苦心の末、偶然にも、とあるレジスタンス組織の構成員と接触し、国を抜けた。
それからいくつかの集落とレジスタンス組織を転々とした。
ネオ・アルカディアの襲撃を幾度も経験し、その度に命からがら逃げ果せた。
だが、共に暮らしていた仲間たちは、虚しいほど簡単に死んでいった。
先日まですぐ横で笑っていたものの頭部が、次の日には呆気無く砂塵に変えられた。
その日戦いに赴いた者達が、ついに帰ってくることは無かった。
そんな日々を過ごす内に、少女の中に沸々と志が湧いてきた。
そして煮え切らない意志を抱えながらある集落に留まり、暫く経った頃。
“紅いイレギュラー”の噂が聞こえてきた。
―――― 5 ――――
ガラノフが合図をすると、後方で控えていたパンテオン達が銃口をクラフトに向けた。そして、躊躇いがちな部下達を尻目に、ガラノフは片手で指示を送った。
たちまち、銃声が鳴り響き、クラフトの身体に数十発のエネルギー弾が撃ち込まれる。それを見ていた部下達はガラノフに「いいんですか」と慌てて視線で問いかけた。
だが、ガラノフは悪びれる様子もなく、「構わねえよ」と言ってのける。
「生憎、“紅いイレギュラー”もいることだ。こいつを処分したところで、俺達が罪をおっかぶる必要は無ぇ」
その眼は虚勢でも、冗談でも無く、真剣そのものであった。
たとえイレギュラーハンター第十七精鋭部隊長が相手だろうと、自身の邪魔をする者は決して許しはしない。無論、座右の銘である弱肉強食の範囲に基づいてのことだが。
一見狂気じみたガラノフのあり方に、彼の部下達は恐れを感じるよりも、カリスマ性を感じ、惹かれていた。それ故に、皆、彼の命には逆らわないのだ。
そして、ガラノフの指示を受けるまま、それぞれその場を離れ、武器を手にして戻ってきた。ここでクラフトを抹殺してしまおうと判断したのだ。
激痛に膝をつくクラフト。だが、銃撃を受けた痛み以上に、彼の心を覆う影は大きかった。
「……本当……なのか…」
震える声で問いかける。ガラノフは一層悦びに顔をひきつらせた。
レイラは否定の言葉を返すことができず、黙りこむ。しかし、その瞳は真実を語っていた。それを見て取ったクラフトは、言いようのない失望感に苛まれた。
「違う! 殺そうと思ったんじゃない! オレは…ただ!」
咄嗟にレイラは言い訳を口にする。だが、ガラノフは鼻で嘲笑う。
「理由や状況はどうあれ、テメエは人間を殺した。そして、それをイレギュラーハンターであるアイツは赦すことができねえ」
「なあ、そうだろ」とクラフトに問いかける。返事はなかったが、その表情で全てがわかった。
“人間に危害を加えるべからず”
それはレプリロイドとして最低限の行動指針だ。いったいどの様な仕打ちを受けようとこれは護らねばならず、遵守しなければならない法だ。
そして、これを破った者を処分するのがイレギュラーハンターの仕事であり、義務だ。
例え人間に乱暴を加えられたレプリロイドであったとしても狩らねばならない。もしもそれを赦してしまうならば、レプリロイド達の反乱を赦したも同然だ。
だが、そう言ったルール以前に、クラフトという一人のレプリロイドは“人間を守る”ということに対し、強い信念を持っていた。誇りを持っていた。
それ故に、今、目の前の少女を救いたい感情との狭間に立たされ、選択を迫られた。決して決めることのできない選択を。
それはクラフトにとって最大の障害だった。
「結局テメエは現実を受け入れようとしてねえんだよ」
ガラノフが更なる追い打ちをかける。
レイラの頭を鷲掴み、身体を持ち上げた。レイラは呻き声のような悲鳴を上げる。
「所詮この世は弱肉強食。力のある者が正しい。俺の言った通りだろう? このガキも一緒さ。暴力と言う名の“力”で、弱い人間をぶち殺した」
その声が重く響く。
「そして、権力という“力”に居場所を追われ、今こうして再び暴力と言う“力”の前で為す術なく叫び続けている。なあ、クラフト。認めちまえよ」
同じ道へと引き摺りこむような、囁くような声でガラノフがそう告げる。
「それでも…俺は……」
クラフトが何かを言いかけた瞬間、ガラノフはレイラの身体を投げ捨て、傍にあった自分のライフルに手をかけた。そして銃口をクラフトへと向け、引き金を引いた。
マントのビームコーティングがその威力を減退させるが、その痛みは尋常ではなかった。鈍い痛みを抑えるように、クラフトはうずくまる。
「いい加減に認めちまえよ、クラフト! テメエが選んだのはそう言う道なんだよ!」
ガラノフの怒りが、堰を切って溢れ出す。
「正義!? 使命!? 名誉!? 弱い人間を守る!? 悪を挫く!? 違う! 違う 違 う !! 俺達が立ってる場所はそんな“理想郷”じゃあ無ぇだろう!」
クソったれのルールに縛られた泥沼の世界だ。
抜け出したい思いが無いわけではない。逆らいたい思いが無いわけではない。だが、そこで生きていくためにはそのルールに従う外はない。
弱肉強食――――弱者は強者の肉となり食される。それがこの世の原理だ。
どれだけ足掻こうと、もがこうと、レプリロイドという弱者は、人間という強者に逆らうことはできない。それを受け入れるしか無い。
「イレギュラーハンターの道を貫くなら尚更だ!知っていた筈だろうそのくらい!! “その摂理に倣って生きるしか無ぇ”ってことくらい、分かるだろうが!」
イレギュラーハンター――――レプリロイドにとっての警察組織。現ネオ・アルカディアにおいて国内の治安維持活動組織として最強の部隊。人類の盾。
それはつまり、如何に残虐な人間の命であれ護らなければならない義務を負っている。その為ならばどれだけ同胞を処分することになろうとも決して厭わないことを誓っている。
それでも尚、クラフトはガラノフの道を拒絶しようとした。
それでも尚、クラフトは人間を護りたいと願った。
それでも尚、クラフトは今、目の前の少女を救いたいと願った。
それでも尚、クラフトはイレギュラーハンターの道を貫きたいと思った。
それでも尚、クラフトは罪を犯したレプリロイドを救いたいと思った。
その矛盾が、在り方が、ガラノフは何よりも嫌いだった。
「テメエは昔からそうだ! 『正義だ』『使命だ』と人間の言いなりになりやがるクセに、頭じゃ現実を認めずにズレたことばかり考えやがる! 綺麗事ばかり叫びやがる! それが苛つくんだよ! ムカツクんだよぉ!」
殊更声を荒げ、ガラノフは怒気を含ませて叫んだ。
「『それでも…俺は……』!? なんだ!? 『救いたい』か!? ふざけるなよ! 理想を吠えてばかりで救える世界じゃあ無ぇだろうが! いい加減に認めやがれ、クラフトぉ!!」
再び引き金が引かれる。放たれたエネルギー弾は、クラフトのヘッドギアに直撃し、弾き飛ばした。
皆、言葉を失い、クラフトを見つめた。幸い、頭部を貫通してはいなかったが、クラフトは虚ろな目で、地面を見つめていた。額からは血が流れていた。
『理想を吠えてばかりで救える世界じゃあ無ぇ』――――先程、ガラノフが口にした言葉が脳裏に反響する。そういえば以前、自分も似たような事を言った。
ボレアスの山内。あのポーラー・カムベアスと向き合った時だ。
『第十七部隊? …救世主の後継者? ……聞いで呆れる! ごの雪山を見で……純白の世界を目に焼き付けで……何も思わながっだのか!?』
『今やるべきごとは、ごんなごとなのか! 違うだろう!!』
掲げたい理想がないわけではない。命を奪わないまま平和を勝ち取れたなら、それに越したことはない。
しかし現実に、平和を乱そうとする輩は後を絶たない。時に己の利益のために、生存のために、信念のために…………世界に国家がたった一つとなった今でさえ、心が完全に一つになってはくれない以上、争いは大なり小なり、必ず生まれてしまう。
そこでクラフトは戦うことを誓った。人間のために。か弱く尊い命のために。
しかし、それでもまた、今目の前で弄ばれようとしている同胞の命を救いたいと思った。
ガラノフの言う通り、クラフトもまた理想を求めようとしていた。
この手を差し伸べられる誰もを救いたいと願っていた。
しかし、どこかで割り切らねばならないことが分かっていた。
しかし、それでも捨てきれぬ理想があった。
――――だから俺は……
あの時、酷くやり切れない想いが胸を駆け巡ったのはそのためか。
そんな風に迷い、悩む自分に、カムベアスは『理想を掴め』と声を張り上げた。そしてそこに踏み出せない自分を知っているからこそ、クラフトはあの時、声を荒げて怒鳴り返したのだ。
『理想だけを吠えたところで、救える世界ではない!』
――――違う……
ガラノフと自分を重ね、カムベアスの幻影を見つめる。そして――――
「……ネージュ…」
彼女の名が頭をよぎった。
『だから私は記事を書き続けるわ。そんな未来を信じているから。……ううん、そんな未来に“したい”から』
あの日の言葉が心の奥底で木霊した。あの日、どうして彼女があんなにも遠くに見えたのか、ようやく分かった。
「違う……」
クラフトが呟いた言葉が聞き取れず、ガラノフは思わず耳を澄ます。
「違う……そうじゃない……」
カムベアスも、ネージュも、ただ理想を吠えていただけではない。
それを求め、掴むための道を選び、進んでいた。
「彼女が…強かったわけじゃない……」
あの日、カムベアスへと怒鳴り返した言葉はただの言い訳だ。
きっと分かっていた。
ただ理想を掴めないのではない。
求めないのではない。欲しないのではない。
望まないのではない。願わないのではない。
理想を吠え、叫び、それでも追いかけない理由。それは単純だ。
「俺が弱かったのか………」
口にし、言葉にし、それでも目を背けていた。
ガラノフの言う通り、理想を吠えるだけで、心の底では諦めていた。
掴めないものだと蓋をして、遠ざけようとしては結局捨てきれぬまま抱えて。堂々巡りを続けていたのだ。
様子を訝しむガラノフ達の目も気にする事無く、クラフトはただ考える。
――――ならば、どうする……?
そんな弱い自分がどうすればここから這い上がれる?
どうすれば理想を求められる?追いかけられる?声高らかに叫び、真っ直ぐに手を伸ばすことができる?
思わず懐に手を入れる。すると、答えは直ぐに見つかった。
『そんな風に信じてなきゃ…やってられないわ』
「認めよう、ガラノフ。……確かにお前の言う通り、この世界は“弱肉強食”なのだろう」
よろけながらも立ち上がり、そう言いながらクラフトは真っ直ぐにガラノフを見つめた。
暴力であれ、権力であれ、力を持った強者により、この世界は動かされている。そして、弱者はその力に振り回され、時に犠牲となってしまう。それは変えられない摂理だ。
その中で一人、迷い続けていた。同胞を手にかけ続けることに疑問を持ちながらも、“人間を護る”という使命を盾に、いつしか諦めるようになっていた。目指したい世界が本当はあるというのに、目を背けようとしていた。真に信じたいと願っていた正義を、裏切ろうとしていた。
「だが……それでも俺は、護りたい。力の無い者達を。虐げられても尚、生きたいと願う者達を。人間だけでなく、レプリロイドでさえも。……その力がある限り」
今こそ、その正義を貫きたい。いや、きっと貫いてみせる。これから先は。
“彼女”が理想を求めて、この世界に抗うように。自分もそんな茨の道に、足を踏み入れる覚悟を決めたのだ。
「…俺は……もう迷わん」
ランチャーを解放し、銃口をガラノフに向けて、声高らかに宣言する。
「ガラノフ! 貴様らがこれまで行なってきた数々の蛮行は、同じネオ・アルカディアの同胞として赦し難き罪悪だ! 故に、イレギュラーハンター第十七精鋭部隊長クラフトの名において、貴様らを粛清する!」
迷いを吹っ切った眼と声色に、ガラノフ達は驚き、戸惑う。この短時間に彼の中で何が起こったのかはわからない。ただ一つ、分かっているのは、ここにいる第二十三独立遊撃隊と、たった一人で一戦交えようと腹を括ったということだけだ。「テメエ本気か!」とガラノフは思わず叫ぶ。
「俺は前に進む。それだけだ」
クラフトは短く鋭い声で返すと、ランチャーの引き金を振り絞った。
―――― * * * ――――
方々から呻き声が聞こえる。死屍累々といって良いような状況である。しかし、それにも関わらず、驚くべきことに、死人はいなかった。皆生きたまま、傷の痛みに呻いていた。
「…テメ……エ…………クラ……フ…ト……」
名を呼ぶガラノフに目もくれず、傷ついた身体のまま、クラフトはレイラの傍へと歩み寄った。
しかし、レイラはあからさまに怯えてみせた。
「…く…来るな…」
それは決して、先程クラフトが見せつけたメガビームスウィープの、脅威的な閃光を目の当たりにしたせいではない。
過去のトラウマ。加えて、つい先程襲われようとしていた現実。そしてまた、イレギュラーハンターとしてのクラフトに対し、己の罪状が割れてしまったこと等への恐怖が入り乱れていた。
「近寄るな………ぁッ!」
おもむろに腰を降ろすと、クラフトは自分のマントで包むようにしてレイラの体を抱き寄せた。
レイラはクラフトの腕の中で「バカ! やめろ! 離せ!」と何度も喚き、もがく。しかし、しばらくすると次第にその勢いは収まる。
冷たい筈のプロテクター。その内側から感じられる熱が、優しく感じられた。
「もう…大丈夫だ……」
そうクラフトが告げると、レイラは瞳を閉じて柔らかく微笑んだ。
「…………あったかい…」
それは初めて感じる、優しい温もりだった。
―――― 6 ――――
自室に戻ると、壁を勢い良く殴りつけた。
只の憂さ晴らし以外の何物でもなかったが、それでもエルピスの心は晴れない。
――――クソ……クソ………クソ……!
求めたのは何だったのか。
望んだのは何だったのか。
願ったのは何だったのか。
不意に、壁に突き立てた腕が視界に映る。その白い袖が、異様に腹立たしく感じられた。
そして、マントを脱ぎ去り、その場に投げ捨てた。まるで怒りをぶつけるかのように。乱暴に足蹴にする。
それから呼吸を整える。
「……どうして…私は…………」
今になって思う。どうしてこの色を選んだのだろう。
どうしてこの道を選んだのだろう。どうしてこの戦いを進もうと決意したのだろう。
どうしてこの想いを捨てきれないのだろう。どうして。どうして――――………‥
全てはそのマントが物語っているような気がした。
分かっている。
憧れだったのだ。羨んでいたのだ。模倣したかっただけだ。
あの救世主の傍に侍る、権力者達の威光を、いつか我が手にとくだらない野心を持っていただけだ。
『真っ白な優しい世界へ羽ばたける真っ白な翼』――――そんな口上も、只の見栄だった。
現に、今自分はこの“白”によって縛り付けられているような気がした。過去に、感情に、幻想に。
だからきっと、あの少女への想いも捨てられないのだ。あの日から大事に温めてきた想いを。
この色への憎しみと憧れと共に。
「…………クッソォ!」
再びマントを拾い上げ、乱暴に投げ捨てる。
そして、マントが地についた頃、ようやく気づく。扉が開き、そこに一人の女性が立っていたことに。
「…あ……」
「っッ!」
そこに立っていたのはオペレーターのルージュだった。
我に返ったエルピスは、途端に顔を酷く赤くしながら、なんとか表情を取り繕おうとした。
「な…なんですか、ルージュさん。何か用があるならばノックくらいは必ずしていただけないと……困ります」
その様子に、ルージュは少し唖然とした後、あくまでも冷静に答える。
「申し訳ありません。何度かしたのですが返事がなかったもので。ロックもかかっていらっしゃらなかったものですから……」
「そ……そうですか……」
相手がルージュでよかったかもしれない。万が一にもジョーヌのように口が軽い者であったなら、“エルピス乱心”の噂は団内に忽ち広まっていることだろう。
とは言え、醜態を晒してしまったことは確かだ。「オホン」と咳払いをして、恐る恐る口添えをする。
「……先程のは……他の方には」
「大丈夫です。ご心配なさらずに」
そう言うと、ルージュは本当に気にも留めていない様子で部屋へと足を踏み入れた。
かと思いきや、エルピスが投げ捨てたマントの下へと近寄り、手にしていた電子ボードを脇に抱え、優しく拾い上げた。
エルピスは思わず上ずった声で言う。
「そ……それは放っておいてください。それで…用件は……――――」
「ネオ・アルカディアの救世主は“蒼の救世主”」
不意に、ルージュの言葉が遮る。エルピスは「え?」と首を傾げ、黙る。
「私達のもとに現れた英雄は“紅の破壊神”」
“彼”のことを差す言葉に思わず、エルピスは顔をしかめる。
だが、ルージュは言葉を続けながら振り返った。
「蒼と紅――――………面白いものです。それらの色が二人のパーソナルカラーであることは、誰もが認める事実。その二色を聞いて、眼にして、彼らを連想しない者はいない程……」
「何が言いたい」と訝しむような目で見つめるエルピス。そんな彼に対し、ルージュはめったに見せない表情をして見せた。
思わず、エルピスも唖然として言葉を失う。そしてまた、ルージュは言葉を続ける。
「しかし、私は思います。我々の誰もが皆、自分の色を持ち、それに従い生きているのだと。ですが、時に濁らせ、時に変色し、偶に別の色に憧れてしまうこともあります」
そう言って、持ち上げたマントに視線を移す。
それから、真っ直ぐに歩み寄り、エルピスに差し出す。
「それでもまたいつか、自分の色を知る時が来る筈です」
エルピスは、差し出されたマントをじっと見つめる。
「私はそれでいいと思います。今はまだ自分の色を知らずとも、見つけられずとも、歩みを続ける内にきっといつか手に入れられるものだと……そういうものだと信じていますから」
その微笑みは、これまで一度も見たことのない、けれど正真正銘彼女の素顔だった。
呆気にとられるエルピス。それからしばらくして、「フッ」と笑みを浮かべ、マントを受け取った。
「……わざわざ拾って頂き、ありがとうございます」
「いえ、問題ありません。それより、この解析データなのですが……――――……‥‥」
仕事の顔に戻り、電子ボードを覗き込む。釣られてエルピスもまた、そこに示された情報に目を遣った。
白いマントに袖を通して。
―――― * * * ――――
必要とされたかった。
いくつかの集落を移り住み、レジスタンス組織に参加し、過ごした一年間。
しかし、いつでも感じたのは無力で護られてばかりの自分。だから、自分もどうか誰かの役に立ちたいと、誰かを護ってみたいと思ったのだ。本当にそれだけが理由だった。
そうして分かったのは、自分にはそれが出来るだけの力がないということ。誰かを護る力も、役に立つ力も持ちあわせてはいなかった。
だが、それは決して悪いことではない。力が無いことが悪いわけではない。というか、良し悪しを述べるべき問題ではない。
自分の弱さ、欠点、反省点、失敗、過ち――――あらゆる過去を認め、これからをどう生きてゆくかの方が遥かに大切だと、彼は教えてくれた。
「有益な協力者がいるとして、この集落を第十七部隊の保護下に申請した」
クラフトはそう伝える。
「万が一何かが起こった時はこの通信機を使ってくれ。俺が離れている時でも、近くにいる隊員が直ぐに駆けつける筈だ」
そう言って、支給された通信機をレイラに手渡した。レイラの後方では集落のメンバーが並んでクラフトを見送りに来ていた。
「やっぱり…行っちゃうの?」
「紅いイレギュラーを倒す。その使命だけは変わらない」
そう言って、自分の胸に手を当てる。それからレイラの頭をくしゃくしゃと撫でた。
「そんな顔をするな。今生の別れじゃあない」
あれから二日――――短い付き合いではあったが、レイラも、集落に住むみんなも、クラフトと打ち解けることができた。だが、クラフトは新たに立てた誓いを遂げるためにも、ここで別れを告げなければならない。長く留まる訳にはいかない。
クラフトは真剣な目で、レイラを見つめる。
「その代わり、レイラ。俺は約束する。十七部隊としての任を全うし、いつか必ず、レプリロイドが人間の最良のパートナーであることを認めさせてみせる」
レプリロイドと人間が真に心から支え合い生きてゆく世界。そんな理想を、クラフトも追いかけることに決めた。そして、必ず実現させると誓うのだ。
「それを遂げた時、俺はまた君に会いに来よう。必ず…な」
「クラフト……オレ、ずっとここで待ってるから」
そう言ってクラフトの手を両手で握る。その形を確かめるように、記憶するように。自分を救ってくれた人の手を。
すると、クラフトはレイラの片方の手を握り、硬い握手をした。
「もう二度と、あんな格好をするんじゃないぞ」
レイラははにかみながら「それはどうかな」と悪戯っぽく答える。思わずクラフトは苦笑いを浮かべた。
ライドチェイサーに跨り、ハンドルを握る。そして、片手で別れの挨拶をして、アクセルを回した。
他の皆が、大きく手を振り、別れを告げる中、その後ろ姿を見守るレイラ。胸の辺りで、ぐっと拳を握る。
「クラフト……絶対に死なないで…」
後日、第二十三独立遊撃隊へのクラフトの粛清は噂に広まり、塵炎軍団中を震撼させた。
しかし、規律の乱れに対する四軍団内の指導力不足と、クラフトの独断的な対応に対し、元老院と四天王で合意のもとに、この事件は闇に葬られた。
とは言うもののガラノフ達自身も、自分達の屈辱的な敗退を広めることを嫌ってか、それともクラフトへの敬意からか、事件について上に訴えを起こすような素振りは一切見せなかった。
ただ、それからというもの、クラフトの粛清を恐れてか、塵炎軍団の素行が改善されたことは確かだ。
「ありがとう、レイラ」
出会ってくれて。
キッカケをくれて。
そして――――……‥‥
「……ありがとう、ネージュ」
追い風に吹かれながら、誇らしげに小さく呟いた。
NEXT STAGE
妖将