―――― * * * ――――
作戦の経過を管制室で確認していたエルピス達は、その強大なエネルギー反応に驚愕した。輸送列車の反応はあっという間に消失してしまった。
「ゼロさんは!?」
ジョーヌが目を凝らしてモニターを見つめると、ゼロの反応は確かに確認できた。オペレーター達はほっと胸を撫で下ろす。しかしまだ安心するのは早いと、エルピスは気を引き締めるよう注意する。
「彼の戦いはまだまだこれからですよ……」
指し示す一点には、他のレプリロイドの比ではない強力な反応が表れていた。それに注目した者たちは皆生唾を飲んだ。
部屋の後ろのほうで見守るシエルは、祈るように両手を胸で組む。いつしか、合わせたその掌には汗が滲んでいた。
「大丈夫だよ、シエル。私たちの英雄はきっと勝ってくれるさ」
思わず強張っていた肩を、セルヴォが優しく叩き、微笑む。しかし「ええ、そうね」と答えるシエルの表情は以前にも増して、活力を感じられるものだった。彼女は今まで以上に彼のことを信じているのだろう。
誰もが作戦経過に気をとられている中、シエルに気を使いながらもセルヴォは一人考えていた。
先日、ゼロの治療データに現れた異変。各所の損傷具合から割り出した自己修復回路の損傷率は、間違いなく常識的なボーダーラインを切っていた。その事実を受け入れまいと何度も計算を繰り返し、その結果、数値の信頼性が高いことを知り、絶望したのだ。忘れるはずがない。
しかし後日、ブラウンがセルヴォに提出した治療データには、ある時点から二次関数的に治癒率が上昇していることが示されていた。そのデータが意味しているのは、自己修復回路における最低ライン――――「五割以上の損傷」からの復帰。つまりは“百年以上前の技術”による現代常識の超越である。
――――彼の潜在能力は…“私たち程度の技術”では計り知れないのかもしれない……
突き付けられた現実に、科学者としてある種の恐怖心を覚えながら、同時に、彼が“英雄”足るに相応しいレプリロイドであることを確信し、その存在を殊更頼もしく感じていた。
8th STAGE
未来
―――― 1 ――――
ガタガタと貧相な音を立て、ついに列車は止まる。――――いや、正確には列車“だった”ものだ。
エネルギーの放出に伴う反発と爆風により、宙を舞った真紅のコートが地面に落ちて倒れこむ。その直後、グッと手に力を込め、上体を起こす。意識はハッキリしていた。
砂漠で放った時よりも、その出力を抑えこむことができた。完璧とは言えないが、ある程度のコントロールが出来るようになったらしい。ただし、戦闘に扱えるだけのエネルギーを残すことができたかどうかは別だ。
――――全て消し飛ばしたか……?
辺りを見まわす。輸送列車は一部の車輪とそれに繋がるシャフトが残っているだけで、ほぼ消滅していた。出来れば本当に“全て”を消すことができていればいいと思った。残念ながら“例の敵”とまともに戦える自信がない。
しかしそんな願いも虚しく、ゼロのセンサーは直ぐに、自身の近くに高エネルギー反応があることを感知していた。
「よくもまあ、派手にやってくれたもんだぜ。“紅いイレギュラー”さんよぉ」
「く…っ」
後方から聞こえる挑発的な声に反応し、立ち上がって振り返り、身構える。威風堂々と腕を組んで立っている黒い影。今、一番顔を合わせたくなかった相手がそこにいた。
「俺様の輸送列車を“こんな”にしちまってくれるとはよぉ」
ミュートスレプリロイド、雷霆の黒豹――――パンター・フラクロス。
その姿にはこれまで戦った他のミュートスレプリロイドにはない迫力と威厳が確かにあった。
――――どうする……?
ゼロは逡巡する。このまま剣を合わせて良いものか。短期決戦と決め込んで立ち向かえば、まだ勝機はあるかもしれない。
――――いや、勝算は非常に薄い
今の自分に残されている体力は通常時の半分にも満たない。それに対し、今目前に構えているミュートスレプリロイドの、事前に得たスペックを比較すれば勝負にすらならないことはどんな愚鈍な計算機でも容易に証明することができるだろう。
――――ならば逃げるか…?
このまま尻尾を巻いて、退散してしまおうか。逃げること自体は非常に悔しいことではあるが、「戦略的な撤退」と捉えれば受け入れることはできる。
しかし、果たして逃げ延びることも出来るだろうか。その行動を、俊足を自慢とするこの相手に対して完遂するだけの余力すら危うい。まさに八方塞がりの状況と言える。この状況を根底から覆すだけの材料はどこにも見当たらない。
そしてゼロはいよいよ覚悟を決めた。進もうが退こうが、どちらの道も塞がっているというならば、進むしか無い。残るすべての力を持って、この強敵を撃退しよう。
そう決心したゼロだったが、フラクロスは想定外の行動に出た。
「そらよ」
ぶっきら棒にそう言って、何かを投げる。自分に向けて飛んで来るその物体を、ゼロは素直にキャッチしてしまった。何かと思い、じっと見る。それは携帯型のエネルギーパックだった。
「どういうつもりだ……?」
その行動の意図がつかめず、問いかける。フラクロスは鼻で嘲笑い、答える。
「“プレゼント”ってヤツさ。俺様の輸送列車を見事に破壊してくれやがったからなぁ。そのご褒美だよ」
「ははっ。舐めてくれる……」
不敵に笑い、言葉を返す。普通ならばそれを素直に受け取ることなど決してできない。敵からの屈辱的な施しを受け入れるのはプライドが赦さない。――――そう、普通ならば。
ゼロは迷わず、そのストローに口をつけ、一気に飲み干す。その瞬間、体中にエネルギーが満ち溢れてゆくのを感じる。力が漲ってくる。全快とまでは言えないが、まともに剣を振ることはできるだろう。
どんな屈辱よりも、今欲しているのは“勝利”である。どれだけ舐められようと、戦いに勝利することができるならば甘んじて受けよう。――――ゼロの“戦士としての本能”がそう告げていた。フラクロスは一目でそれを読み取っていたのだろう。その行動に決して驚くことはなく、むしろ当然のことのように、何食わぬ顔で構えていた。
ゼロは空になったパックを脇に投げ捨てる。
「借りはキッチリ返してやるよ。……百倍にしてな」
そう言ってゼットセイバーを左腕から引きぬく。
「そいつぁコッチの台詞だぜぇ……」
黒豹もまた戦闘体勢に入る。漂うは極限の緊張感。
「……ハルピュイア様からの大事な任務を、キレイに砕いてくれやがってよぉ…」
そう言いながらもどこか嬉しそうに笑っている。
「部下同様、お前も仕事熱心なんだな」
ゼロも笑っている。奇妙な高揚感が込み上げてくる。
そしてお互い、片方の足で一際強く地面を踏みしめた。
「耳揃えて返してやるよ………… テ メ エ の 体 に な ぁ !!」
フラクロスの咆哮と共に、死闘の火蓋が切って落とされた。
―――― * * * ――――
解放議会軍と共同で物資の輸送作業をしている途中、強大なエネルギーのぶつかり合いをセンサーが感知したのにつられ、思わずその方角へ視線を遣る。
気づけば、その場で手を止めてしまっていたのは、コルボーだけではなかった。
数キロ先までも響いた爆音の、その数分後に激しい戦闘を感知しただけに、不安ばかりが募ってゆく。
「手を休めるな!」
不安を振り払うようにマークが一喝する。
「いつ、敵が来るかもしれないんだ! 急げ!」
しかしそう言いながらも、マーク自身、ゼロの身を案じずにはいられないらしく、時折不安そうに戦場の方向を睨んでいた。
そのまま各々が自分の作業を続けながらも、それでも皆が思うことはただ一つだった。
―――― 2 ――――
「…っ!」
旧世紀の悪魔、ソロモン七十二柱の一人――――「フラウロス」
「オラオラオラオラオラオラオラオラァアァアアァッ!!!!」
三十六の悪魔軍団を率いる地獄の大公爵。豹の姿をしているが、命じられれば力強い男の姿へと変わる。魔法陣の中にいる限りは神学を語るのだが、外に出れば嘘ばかりをつく。術者が命じたあらゆるモノを破滅させる力を持つと言われていた。
今、この場にいるその悪魔は、押し込まれていた“魔法陣”を破壊され、自由を得た。しかし、口から出る言葉は嘘ではない、真っ直ぐな“情念”。積もり積もったフラストレーションは彼の力を爆発させ、例え主が止めたとしても、目の前の敵をその大きな爪で抉り殺そうと襲い続けるだろう。
高速のラッシュ。白い大型の爪は止むことを知らない。更に強く踏み込む。
「…ラァアアァアァァァッ!!」
顔面目掛けて爪が襲いかかる。大きく振られた腕をゼロは間一髪のところで躱し、掛け声と共に刃を振る。フラクロスは飛び上がり間合いをとるが、ゼロは休む間を与えることなく追撃をかける。
高速の剣技。右、左、上、下…――――あらゆる方向から緑の閃光が襲いかかる。しかし、フラクロスはそれを見切り、華麗に捌く。
爪に施されているビームコーティングは、それほど強力なモノではない。しかし、刃のベクトルを見切り、逸らすことで、ダメージを軽微に抑えている。事実、彼の白い爪には微量ながら焦げ目がついてゆくのだが、戦力が削がれるほどではない。
連撃の最中、ゼロのアクションに一瞬の隙を見極める。フラクロスはそのチャンスを見逃さなかった。
「もらっ……」
――――待て!
瞬時に振り掛けた腕を止める。それよりも速く、ゼットセイバーに稲妻が走った。
「フェイクかッ!?」
ガネシャリフを倒した雷の突き…――――雷神撃!
「ゥオラァァアァァアアァ!!!!」
咆哮とともに、フラクロスは自慢の爪で防ぐ。その爪にもまた強力な雷を帯びさせていた。
共に雷を帯びた、ゼットセイバーとフラクロスの爪が衝突する。「バチチチチ…」と空を割るような激しく甲高い雷鳴が一面に轟く。互いに、死力を振り絞るような咆哮と共にエネルギーを注ぎ続ける。
雷と雷の激しいせめぎ合い。雷神達の間で、花火のように雷が弾け、辺りに強烈な光が飛散し続けている。
突然、「バァンッ」と大きな破裂音と共に、辺りに放出されていた光は飛沫のように消え去った。――――そして、弾かれたのは紅いコート。
「どしゃっ」と地面に倒れ込む。が、強引に肘で地面を弾き、すぐにその場を飛び退く。「ズドン」と音を立て、ゼロがいた場所にフラクロスが勢いよく着地した。
ゼロは素早く立ち上がり、体勢を整える。フラクロスは間髪入れずに飛びかかってきた。再びのラッシュに、ゼロは応戦する構えを取る。だが――――……‥‥
「オラオラオラオラァ!! こんなもんじゃねぇえだろぉおぉ!!!!」
フラクロスの攻撃速度は徐々に上がってゆき、ゼロに反撃の余地を与えない。そして捌ききれなくなった純白の爪が、掠めたゼロの頬から流れる擬似血液により、僅かに紅く染まる。押し勝った事実にほくそ笑むフラクロスは、そのまま首を掻っ斬ろうと腕を振る。――――が、ゼロは瞬時にその腕を、しがみつくように自らの両腕で固く掴み、地を踏みしめる。すると、決して軽くはないフラクロスの体は宙に舞い、そのまま投げ飛ばされた。
不意を突かれたフラクロスだったが、即座に状況を判断し、地面にうまく着地する。追い討ちを警戒して顔を上げるが、そこにゼロの姿はない。刹那、風を切る音に反応し、後ろへと飛び退く。間一髪、上空からの滑空攻撃を躱す。
安心するのも束の間、着地と共に舞った砂埃の中から緑の閃光がフラクロスの喉元目がけて突き出された。既の所でバク転により間合いを取り、飛び掛ってくるゼロのセイバーを、稲妻を纏わせた両腕の爪で防ぐ。またも激しい鍔迫り合いとなった。
「ククク……ファーッハッハッハッハッハッ!!」
弾ける火花の中、突然笑い出すフラクロス。
「何がおかしい…!?」
ゼロが問いかけると、嬉しそうに笑みを浮かべながら答える。
「おかしいわけじゃねえ! 嬉しいのさ! テメエが思った以上に骨のある相手でよぉ! 愉しすぎて仕方ねえのさ! ぎりぎりブッチギリの……命のやりとりがよぉ!!」
再び咆哮を上げる。久方ぶりの愉悦に浸り、歓喜に満ちた叫びの声。
「なあ、“紅いの”……テメエもそう思うだろぉ?」
共感を求める声にゼロは眉をひそめた。フラクロスは、先ほどとはうって変わって、殊更いやらしい笑みを浮かべる。
「テメエも……“殺し合い”が“愉しくて仕方ない”んだろう!?」
核心を突くその言葉と共に、脳内を駆け抜けるノイズが、激しい攻防の流れを一瞬にして断ち切った。
次の瞬間、フラクロスの回し蹴りがゼロの脇腹に深く食い込む。完全に隙を突かれ、防御の体勢を取れていなかったゼロの体はそのまま真横へ勢い良く飛び、地面に叩きつけられた。
体に鈍痛が重たく響く。その一撃により、これまでの互角とも言えるやりとりから一転、フラクロスが優位に立つ。――――だが、ゼロの心中は、それどころではなかった。
――――愉しい……?
フラクロスは確かに言った。『命のやりとりが愉しい』と。この“殺し合い”が『愉しい』と。常識的な道徳観と倫理観を持ち合わせた普通のレプリロイドならば、そのような心情が理解できるはずもない。
だが、ゼロにはその気持ちが確かに理解できてしまっていた。
「どうなんだぁ、“英雄”さんよぉ…?」
その場に腕を組み、「“英雄”のクセに、“殺し合い”に愉悦を感じてしまうのか」とでも言いたげな、皮肉めいた嘲笑を追い討ちの代わりに浴びせる。
“英雄”と称され、賞賛される者がそのような下劣な感覚を感じてしまって良いはずがない。だが、ゼロは「確かにその通りだ」と認めざるを得なかった。
地に両手をつき、身体を起こす。そして、枯れた大地を間近で見つめ、想う。
――――…愉しい………
ひどくノイズが走り続ける中、それを拒むことはできなかった。
“殺し合い”が。“殺すこと”が。“命を奪うこと”が。“斬り刻むこと”が。
――――愉しい
愉しくて、愉しくてどうしようもない。
先程の列車の中から――――いや、目覚めてからずっとだった。
本能が叫び続けていたのだ。繰り返す戦いの中で。どれだけ拒絶しようとも、遠ざけようとも、昂ぶる興奮を抑えるができない程に。愉しくて仕方がない。そんな自分を確かに感じていたのだ。そして時には自身の制御すらままならない程に、そのどす黒く歪な感情は大きな存在感を放っていた。
――――……楽になれる
その本能に従うままにすれば、迷うことも悩むこともなくなるのだろう。目の前の敵を愉悦欲しさにただ斬り刻むだけの下衆な存在に成り下がれば、何もかもが楽になるのだろう。
激しくノイズが走る。それはまるで声のようだった。己を律する心を妨げ、快楽の海へとひきずり込むような、呪われた響きだった。ずるずると、再びそれに呑まれていきそうになる。何もかもを投げ捨て、ただ愉悦へと浸ってしまおうと本能が叫ぶ。
――――けれど……
ゼロはノイズを振り払うように、首を横に小さく振る。――――どれだけ本能がそれを求めようとも、それは“違う”。絶対に“違う”のだ。
だが、“違う”というならば――――……‥‥
膝を押さえ、ゆっくりと立ち上がる。そして目の前に立ちはだかるフラクロスをぼんやりと見つめた。しかしゼロの目に映っていたのはフラクロスであって、“フラクロスでは無い”もの――――それは言わば自身の写し身、“愉悦”に酔いしれる己の姿だった。
ノイズに耐えながらも、ゆっくりとではあるがゼロは口を開く。先程のダメージで頭がおかしくなったのかと訝しむフラクロスには気にも留めず、そこにいる自分の幻影にただ一言問いかけた。
「…お前は……何の為に闘っているんだ…?」
愉しいから闘う? 愉しいから殺す? ――――違う。確かに“殺すこと”も“闘うこと”も愉しい。
けれど、それは闘う理由ではない。愉しいから闘うのではない。愉しいから殺すのではない。しかし、それならば――――……‥‥
「お前は……いったい何を求め…戦っているんだ……?」
繰り返す破壊と殺戮の果て、それにより引き起こされる、抑えきれぬ昂揚と自身への嫌悪とに揉まれながらも“闘い”続けるのは、その先に“何か”があるからだ。確かに求めたものがあるのだと信じているからだ。
「『何を求め…』…………だと…?」
フラクロスは質問の意味を介すことができず、問い返す。が、ゼロがそれに答えるよりも速く、フラクロスの飛び蹴りはゼロの胸部を捉える。強烈な一撃に、ゼロの体は大地を派手に転がった。
激痛に苦悶する。当たり所が悪すぎた。内部にもダメージを負ったらしく、咳き込むと擬似血液が飛び散った。
「そう言うテメエは何が欲しいってんだ? ――――手柄か? 勲章か? ……富か!? 名誉か!? 地位か!? えぇ!? どうなんだよ、“紅いの”ぉ!?」
フラクロスは怒るように、そしてまた嘲笑うように言った。
「愉しい! 嬉しい! 気持ちいい! ――――“俺たち”にとっちゃそれだけで十分だろうが! こんな世界の片隅で! 荒れた大地の上で! 他に何を求めようってんだ? 『愉しいから』、『嬉しいから』、『気持ちいいから』――――“たかが殺し合い”に、それ以上の理由なんざいらねえだろう? こんなブッ壊れかけの世界で、それ以上に何が得られるってんだぁ!?」
まるでようやく見つけた理解者に裏切られたかのような感覚だった。
だが、そんなフラクロスの複雑な心持ちを他所に、ゼロは独り、激しいノイズの中、ひたすらに考えを巡らせた。
――――…手柄…勲章……富…名誉……地位……?
もちろん、そんなモノが欲しいわけではないし、何よりそんなモノに興味など無い。それでも確かに何かを求めていた。“かつての自分”は。
――――……“俺”が求める物……
長く険しい闘いの先に、求めた“何か”――――…‥
「……かつて…“俺”が求めたもの…」
そう呟いた瞬間、呪いの響きはピタリと鳴り止む。そしてその代わりに、ゼロの脳裏を継ぎ接ぎだらけの映像が雪崩のように掠めて行った。
荒れ果てた街。幾体ものイレギュラーの残骸。――――封印された過去の断片。同胞たちの亡骸の中、背中を合わせるもう一人の男――――青い背中。戦友の姿。その瞳の奥に映るもの。流れた輝き。
“彼”に託した願いと約束。
「……“俺”は……」
長い眠りから覚めて出会ったモノ。
荒廃した大地の上、過酷な環境の中。命を懸ける者たち。託される希望、結ばれる約束―――それを背負う背中。小さく、幼い少女が確かに持ち合わせている強い意志と儚い理想。しかしそれを見つめる瞳に、そこに流れるものに、秘められた確かな輝きに嘘偽りなど無い。――――それらに向けて立てた、誓いと決意。
「……“俺”は」
夢の中――――血染めの空、天に浮かぶ暗黒の雲と太陽。しかし、それを切り裂く鮮烈な光。彩色を取り戻す世界。暗黒は汚れなき白へと姿を変え、空は雄大な青へと変わる。
そして、その大地に一輪の花が咲き、揺れている。
意識の向こう側。新緑の大地の上で、優しく、温かく、穏やかに吹く風の中。ゆらゆらと確かなリズムで揺れている花。
その名前は――――……‥‥
「………しいんだ…」
漏れ出るような小さな声を上手く聞き取れなかったため、フラクロスは耳を澄ませた。
ゼロは再び弱々しく立ち上がると、もう一度だけ言った。しかしそれは誰に向けてでもなく、どこかぼんやりと、けれど一言だけ確かに呟いた。
「……俺は……“未来”が…欲しいんだ…」
―――― 3 ――――
「………未来…だとぉ…?」
そう確認するように呟く。今、確かに目の前の男は言った――――「未来が欲しい」と。
次の瞬間、黒豹は咆哮を上げた。その声は失望や怒りといった感情を顕に含み、天を割るのではないかと思えるほどの強烈な叫びであった。
そしてその咆哮を終えると直ぐ様、地を強く蹴り、ゼロの懐に飛び込んだ。そして、左の爪で首を掻っ切ろうと腕を振る。間一髪のところでゼロは避ける。――――だが、それが本命の一撃を確実に当てるためのブラフであることに、ゼロはその一撃を食らう直前まで気づくことができなかった。
激しい電流を帯びたフラクロスの尾が、ゼロを捉える。それと共に、回路を焼き切ってしまうほどの強烈な電撃が身体中を駆け巡る。――――フラクロスが誇る必殺の一撃、「テイルスパーク」。ゼロは声にならない叫びを上げ、その電撃がやむと同時に、力なくその場に倒れこんでしまった。
しかし、フラクロスの怒りはそれだけでは収まらない。倒れたゼロの背中を片足で踏みつけ、「ふぬけたことぬかしてんじゃねえぞ!」と吐き捨てた。
「そんなもんにいったいどんな価値がある!? “俺たち”に必要なのは、闘いでのみ感じられる“今”! “この時”! “この一瞬”!! それだけのハズだ! えぇ? ……そうだろう!? そうだろうがよぉ!? 違 う か ぁ !?」
そう吠えると、またも腹のあたりを蹴り上げる。ゼロの体は僅かに宙を舞うと、そのまま地面を虚しく転がった。
闘いの中、理解者を得たと思った。共に、殺し合いの中にのみ己を見出し、闘いの中にしか生きられぬ“獣”同士――――“今”という時に全力を、命を、全てを懸ける、そういう生き物なのだとフラクロスは確信していた。それなのに、この男は“未来”を求めていた。“今”という時にだけ、“命の奪い合い”の中にしか生きられぬと確かに理解していながら尚、この男は“未来”を求めていたのだ。
それはフラクロスにとって、とてつもない裏切りであった。
ピクリとも動かないゼロの身体を鼻で笑い、背を向ける。
「……呆気ない終わりだったなぁ、英雄さんよぉ…」
怒りと失望がひと通り巡った後、フラクロスを包んだのは言い知れぬ孤独感であった。
――――これで……いなくなった…
そう、これでこの世からいなくなってしまったのだ。渇きを潤してくれる強者が。対等に力をぶつけ合える戦士が。この世界でようやく見つけた、自身を曝け出せる“仲間”が。
しかし、自分にとって最上級とも言える愉悦の味を知ってしまった黒豹の舌は、更なる“理解者”を、既に求め始めていた。
「へっ……次は“闘将”様にでも挑んでやろうか………」
冗談交じりに呟いてみる。しかし、それが冗談どまりの儚い妄想であることはとうの昔に分かっていた。ミュートスレプリロイドとして生まれた自分には、命を賭して仕えている四天王に――――それがたとえ直接の上司であるハルピュイアではなくとも――――手を出すことなど決して適わないのだ。
虚しい闘いの終わりに意気消沈する黒豹は、何処へともなく足を向け、寂しく歩き始めた。いつかまた何処かで、真の理解者に巡り会えるであろう運命を信じて――――…‥
だが、そう考えるには些か早すぎたらしい。
「………あぁん?」
気配を感じて背後を睨むと、そこにはボロボロになりながらも立ち上がる紅い男の姿が確かに在った。
「テメエ……まだやる気か…?」
既に勝負はついた。これ以上の闘いは、一方的にいたぶるだけになることが容易に想像できる。フラクロスにとってそれは、僅かな愉悦すら感じさせぬどころか、苦痛とも言える“作業”だった。
だが、この男が敵であることには変わらず、逃したとあっては主であるハルピュイアへ顔向けができないと自身に言い聞かせ、振り返り、攻撃の構えを取る。できるならば、一息に終わらせてやろうと思った。
「……お前の……言うとおりだ…」
突然の呟きに、フラクロスは跳びかけた足を抑える。ゼロは尚も、似付かわしくない弱々しい声で語り続ける。
「俺には……“今”しかない……」
思い出せない“過去”も、予測のつかない“未来”も、何も与えてはくれない。――――信じられるのは、闘うことで感じることのできる“今”のみ。“破壊”という宿命を遂行するその瞬間だけで十分だ。この掌は、それ以上何も掴めないのだと知っている。
そんなことは、百年も昔からとうに気づいていた。
「俺は……破壊者だ……」
破壊者として生まれた自分に用意されたのはそれだけなのだ。命を奪い、殺し、破壊し……そんな存在に、どうして未来が掴めよう?
けれど、だからこそ――――……‥‥
「……掴めないからこそ……欲しいんだ……」
求めてしまうのだ。憧れてしまうのだ。“未来”という、決してこの手に掴めないものを掴みたくて仕方が無いのだ。それも、夢を覆うような暗黒の世界ではない、もっと明るい、光り輝く世界。誰もがいつか描いた優しく温かい未来――――“懐かしい未来”を。
しかし、それでも分かっている。破壊のために生まれた自分の両腕は、そんな未来を斬り裂くことしかできない。絶対に掴めやしない。
「……掴めないから……俺の掌では零してしまうから……だから…」
だから“あいつ”に願いを託した。約束をした。
“あいつ”が流す涙の向こう側に、そんな未来があるのだと、きっとその手に掴んでくれるのだと信じた。“あいつ”の優しさが、みんなを“懐かしい未来”へと連れていってくれると信じた。だから、剣を振り続けた。そんな未来を作る“あいつ”の道を切り開くために、闘い続けたのだ。
そして今、また同じことのために剣を振っている。
「…………小娘」
この世界で出会った、あの優しい少女の顔を思い浮かべる。
彼女が流した涙こそ、いつか“あいつ”が流したそれと寸分違わぬ輝きを持っていた。だからこそ、闘うと誓ったのだ。いつかみんなを“懐かしい未来”へと導いてくれるであろう少女のために、剣を捧げると誓ったのだ。
ふらふらな足でなんとか体を支えながら、ゼロは再びゼットセイバーを構える。ダメージ量はピークに達していた。少しでもフラクロスの攻撃を食らってしまえば、完全に機能が停止してしまうと言ってもいいだろう。しかしそれでも、ゼロは構えた。そして、目の前に立ちはだかる黒豹を睨みつけた。
その目に確かな闘志を感じると、フラクロスは自然と闘いの構えに戻っていた。
――――なるほど、おもしれぇ
この英雄はこんな圧倒的に不利な状況でさえ、勝機を捨てずに挑んでくるらしい。
だが、纏っている空気が先程までとは全く異なっていた。闘いに酔いしれていた時とも違う、非常に澄んだ、それでいて覇気を感じさせる、そういう不思議な空気だった。
フラクロスは思わず身震いをする。おそらく次の一撃で完全に仕留めることはできるだろう。だがしかし、その一撃を与えるには、あの空気に打ち勝つことが条件となるのだろう。なんとも歯ごたえのある最終ラウンドではないか。
ニヤリと不敵に笑い、何度目かの咆哮を上げる。
「いいだろう……。テメエが“未来”を求めるってんなら……そのくだらねえ幻想ごとテメエの首を抉り取ってやろうじゃねえかぁ!!」
両腕を構える。「バチバチ」と音を立て、雷のエネルギーが蓄積されてゆく。しかしそれだけではない。ジェネレーターの出力を最大にし、テイルスパークの為のエネルギーまでも高速で蓄積する。
今対峙している男は、どれだけの傷を負っていようと、紛う事無きフルパワーをぶつけなければならない相手だ。そう感知して放たれるフラクロスの真の本気が眩しい輝きを放っている。
対するゼロも、右腕にゼットセイバーを握り、左腕には別のエネルギーを蓄積させている。列車を破壊するほどの威力は望めないだろうが、最強の技――――アースクラッシュで勝負に出ようという意図が伝わってきた。通常の使い方では躱された後の隙が大きいことから、おそらくフラクロスの体に直接エネルギーを流し込みにくるだろう。それができれば正に必殺の一撃となるはずだ。
――――それよりも速く、俺の爪はヤツの首に届く……!!
空は既に紺色に染まっていた。夜の風が吹き荒び、星が瞬き始める。
フラクロスは一気に間合いを詰めるべく、「グッ」と後ろ足に体重をかける。ゼロもまたゼットセイバーの柄を強く握りしめる。
これが最後の攻防になるであろうことは、お互いに分かっていた。永遠にすら感じる、緊張の一瞬――――……‥‥
刹那、咆哮とともにフラクロスが地を蹴り、一気にゼロへ向かって跳躍した。そしてゼロがゼットセイバーで応戦の構えを取るよりも速く、その首目がけて両腕を伸ばす。万が一躱されても、テイルスパークがゼロの回路を焼き切るだろう。
確実に仕留められると直感した。
―――― あ ば よ 、 英 雄 ぅ っ !!
そう心の中で叫んだ――――まさにその時。
ゼロはエネルギーを蓄積していた左腕を、何を血迷ったのか地面へと突き刺す。
通常のアースクラッシュを発動させるというならば、躱すのは容易い。フラクロスは勝利への確信を強固なものにする。強大なエネルギーの放出を感知し、その場から一旦飛び退こうと再び地を蹴る。――――しかし、それこそが大きな誤算だった。
「 な ぁ っ ! ?」
足元がヒビ割れて光が漏れたかと思うと、そのまま「ドォン」と大きな音と共に地面が激しく弾けた。大量の砂が巻き上げられ、足場も砕けて宙へと勢い良く跳ね上げられる。
――――まさか!?
フラクロスはその戦術に驚愕する。
ゼロはアースクラッシュのエネルギーを直下に放出することによって、一気に足場を崩し、砂を巻き上げたのだ。これにより、この一瞬だけではあるが、視界を遮られ、フラクロス自慢の高い機動力までも削がれてしまった。
「しま……っ!!」
ゼロの姿を見失ったことに気づいたその直後、鮮やかな緑の閃光が砂塵を割って高速で駆け抜けてゆくのを目の端で捉える。そしてそれと共に、美しい金の長髪と真紅のコートが横を流れていった。
あまりにも華麗な、ほんの一瞬の出来事であった。
――――…バカな……
砂に塗れながら、考えを巡らせる。
慢心はなかった。勝利を確信してはいたが、隙を見せたつもりなど毛頭無い。速度も、ダメージ的にも、明らかに勝っていたはずだ。それならば何故だ? ――――何故このようなことになる?
パラパラと舞う砂の粒を眺めながら、攻撃の直前に、僅かに捉えたゼロの瞳を思い出す。
――――……ああ……そうか……
少し考えた後、ようやく理解した。
自分は“今”を生きることしか考えていなかった。しかしあの男は“未来”――――それも自分ひとりのためではなく、多くの者達のための“懐かしい未来”を掴むために、“今”を生き抜こうとしていた。
それぞれが背負う物、目指す物の大きさの違い。それこそが決定的な差となったのだろう。
その差に気付くことができたとは言え、時既に遅かった。
――――すまねえ……ハルピュイア様……
絶対的な信頼を置かれながら、ついにその信頼を裏切ってしまった。
だが、何故だろう――――その心は何処か清々しい物だった。
――――“未来”…か……
フラクロスはその言葉に想いを巡らせる。
この世界が、既に異常なものであることは彼自身、既に分かっていた。理不尽な法、レプリロイドと人間の歪な関係、荒廃した大地、残り僅かな生命たち――――おそらくこのまま終焉へと向けて、世界は加速し続けるだけなのだろうと、心の何処かで気づいていた。だからこそ、“今”を生きることに終始しようとしていたのかもしれない。
しかし、こんな世界でも、あの男は“未来”を求めている。“未来”を紡ぐ者たちのために、“未来”を斬り開くために剣を振り続けてゆくらしい。
――――…そういえば……
聞いたことがある。世界に危機が訪れる時、現れる伝説のレプリロイドの話を。絶え間なき進化を続け、如何なる逆境においても決して屈せず、その手で未来を切り開いてゆくという。そのレプリロイドの名は――――……‥‥
フラクロスはニヤリと笑った。
――――ああ、そうだ……。その名はこの男にこそ相応しい……
最期の力を振り絞り、金髪をたなびかせる紅い背中に向けて、彼の名を呼んだ。
「……ロッ…ク……マ…ン………」
腰を断たれて宙を舞った胴体が、虚しく地に落ちた。
最期の台詞が届いたかは分からない。しかし死にゆく間際、瞳に焼き付けたのは紛れもなく伝説の背中だった。
彼にとっては、それだけで十分だった。
―――― 4 ――――
――――勝った……のか…
確かめるべく振り返ると、腰を両断されたフラクロスの亡骸が転がっていた。それを見た瞬間、両膝は崩れるように地面へと着き、ゼロはそのまま倒れこんでしまった。両腕に僅かな力を込めて、なんとか上体を起こす。
強敵だった。ベストコンディションでなかったとは言え、これ程までに追い詰められる闘いは、この先もそうは無いだろう。というより、無いと思いたい。
ほんの少しでも、どこかで何かを違えていたらあそこに転がっているのはおそらく自分の方だっただろう。
そんなギリギリの状況でも勝利を掴めたのは、他でもない、“戦う理由”に気づけたおかげだ。しかし、その胸中は複雑な想いで埋め尽くされていた。
『要するに、あいつはお前らの“理想の犠牲”だろう』
いつだったか、セルヴォに言った言葉が胸に刺さる。よくもそんなことが言えたものだと自嘲する。
結局、自分もあの非力な集団と何ら変りなかった。
知らず知らずのうちに、かつての友に懸けた夢と理想を、あの幼い少女に重ねていた。“懐かしい未来”という名の理想を、たった十四歳の少女に背負わせていたのだ。彼女の流す涙に、いつか見た“あいつ”のそれと同じ輝きを見出したがために。
『あの子にはそれだけの器が確かにあるんだよ……残酷なことに』
セルヴォの言葉を思い出す。成程、確かに残酷な話だ。こうして多くの者達が、あんな幼い少女に身勝手な夢と理想を、これから先も託し続けるのだろう。そして彼女はそれを決して拒まず、受け容れてゆくのだろう。例え自分の身がどうなろうと。――――そう想うと、胸が苦しくなる。
だが、そのおかげで救われた者たちがいる。自分も含め、大勢の者たちが彼女の存在に救われ、背中を支えられ、前へと進んでいけるのだろう。
「ならば自分は、剣となろう」――――ゼロはそう思った。
どれだけ理想を背負わせようと、ただ頼るのではない。彼女が進む道を、命がけで切り開いて行こう。この力は、そのためにあるのだから――――……‥‥
――――そういえば……
星の儚い輝きに照らされながら、不意に思い出す。
――――あの約束は…どうなったのだろう……?
あの日、“あいつ”と交わしたあの約束は、何処へ言ったのだろうか。
約束と言うにはおこがましい、一方的な理想の押し付けではあったが、それでも“あいつ”は約束をしたのだ。『“懐かしい未来”をつくる』と。『“懐かしい未来”へ皆を連れてゆく』と。――――眠りに付く前、そう約束を交わしたハズだ。未だ不確かで不鮮明ではあるが、それだけは確実に言える。
――――あの約束は………
自分が預けた未来への希望は、いったいどこへ行ったのだろうか。今ではどんな形をしているのだろうか。ゼロはそれが知りたくて仕方なかった。
そんなことを考えていると、不意に、握り締める砂の粒がザラッと、掌に嫌な感覚を与える。それからジワジワと悪寒のようなものが込み上げてきた。それどころか激しい耳鳴りまでも聞こえ始めた。繰り返すそれは、まるで「これ以上それを考えてはいけない」という警告のように聞こえる。だがそれでも、ゼロは考え続けた。
あの約束の場所は?
あの約束の世界は?
あの約束の“未来”は?
――――いったい……どこへ行った……?
何かにつられるように、顔を上げ、周りを見渡す。
草木一本見当たらない荒廃した大地。その上を、夜の風が砂埃と共に虚しく吹き抜ける。
「………………クク…」
しばらく黙り込んだ後、ふと笑いがこみ上げる。
「ククククク……フフ……フ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ――――……‥」
想い巡らすうちに、ゼロは気づいてしまった。気づかなければよかった事実に。
それを知らぬまま今日まで過ごしてきた己を、そんな自分を欺いてきた世界を、嘲笑うように、呪うように、ゼロは狂ったような高笑いを上げた。その響きは悲痛な叫びにすら似ていた。
一仕切笑い終えると、再び地面と向かい合う。そして、今持てる力を振り絞り、拳を叩きつける。自身と世界への、怒りや憤り、怨みなどの様々な感情が入り交じっていた。
「………ないか……」
気付かなければ幸せだったかもしれない。
このままシエルのためにと闘い続けるだけならば、どれだけ明るい“未来”を描けただろう。しかし、彼は“気付いて”しまった。そんな希望すらも一瞬でかき消してしまうような、重大な現実に。
「……この世界じゃないか………」
いつか“あいつ”と交わした約束。
連れて行ってくれと願った“未来”。
救世主となり、今なお世界を支えているという“あいつ”が、あの日「築く」と約束した、その“未来”は――――……‥‥
「…………この世界こそが……その“未来”じゃないか……」
そのまましばらく、ゼロは立ち上がることができなかった。
―――― * * * ――――
作戦を無事に終えた部隊が帰還すると、基地内は大きな歓声に包まれた。
これまでの歴史を覆すと言っても過言ではない、白の団創設以来初めての大作戦は成功を収めた。これまで大きな犠牲を払いながらも、ついにあのネオ・アルカディアに一矢報いることができたのだ。
帰還した者たちは祝福を受け、エルピスの案により祝勝会が催されることとなった。二年間の苦しい日々から一転、この日ばかりは誰もがこの戦争のこれからに希望を持った。
喜びの声と笑顔が溢れる大ホール。特別な食事などはそこまであるわけではないが、レプリロイド用に加工されたアルコール類をグラスに注ぎ、エルピスの声にあわせて乾杯をする。
「こうして作戦が成功に終わったのも、ゼロさんのおかげですよ」
満足そうに笑顔を向けるエルピスに、ゼロは苦笑いをしてみせた。ロシニョルにより応急処置が施されてはいるが、フラクロスとの戦いで受けた傷がひどく痛む。
「ゼロさん! こっちへ来て下さいよ! 一緒に飲みましょう!」
コルボーが殊更楽しそうに誘いの言葉をかけてくる。そこにはマーク達はもちろん、他の団員たちもゼロを迎え入れたそうに待っていた。しかし、ゼロはそれにも苦笑いで答える。
「悪いが……こいつが結構くるんで…な」
そう言って、包帯を巻いた箇所を指で差し示す。
それでも強引に引っ張っていこうとする面々を、シエルが止めに入る。流石にシエルには逆らえないらしく、渋々引き下がってゆく。
「ごめんね、ゼロ。みんな、あなたと喜びを分かち合いたいだけだから……」
「分かってる。俺だって約束どおりに、無事に帰ってこれてれば一緒にハシャいでたさ」
「そういえばそんな約束もしていたね」と、シエルは微笑んだ。
「でもまあ、ちゃんとこうして帰ってきてくれただけで、私は嬉しいわ」
フラクロスとの激闘は、ゼロの傷の様子を見ればハッキリ分かる。きっと、ゼロの方が倒れていてもおかしくはなかった、そういう闘いだったのだろう。
しかしそれでも、ゼロは帰ってきてくれた。生死の狭間をさ迷いながらではなく、しっかり生きたまま帰ってきてくれた。それだけで、シエルには十分だったのだ。
「けど……まあ、やっぱり傷が痛むんでな。部屋に戻って休ませてもらうよ」
そう言ってゼロは席を立つ。
「部屋まで支えていこうか」とシエルが駆け寄るが、「恥ずかしい」とはにかみながら断った。それでも、ホールを出るまで、シエルはその背中を支えていた。
ホールでの楽しいひとときが嘘のように、廊下は静まり返っていた。今は全ての団員がこのホールに集まっているのだから当然だ。
「それじゃ」と軽く手を振り、ゼロは背を向ける。だが、歩き出そうとした足を不意に止め、「小娘」と呼びながらシエルの方を振り返る。
「どうかした?」
気軽にそう問い返すと、ゼロは少し視線を逸らし、考え込む。それからしばらくして、シエルの大きな蒼い瞳をまっすぐ見つめ直す。
「いや……なんでもない」
そう言って、ゼロは再び背を向け、自室へと向かって歩き出した。
『なんでもない』――――そう言った時の、なんだか困ったような、寂しそうな、それでいてどこか救われたような……そんな少し不器用な頬笑みがシエルの心に引っ掛かり、その背中が見えなくなるまで、ただ一人、じっと見つめていた。
NEXT STAGE
理想郷の詩