――オルレアン公夫人の魂魄病巣切除成功から、10時間ほど後。 夢の中で充分な休息をとった一行は、再び例の大扉の前に立っていた。「おそらくだが、扉の奥にはこの<フィールド>を支配する存在が居座っておる。よって、わしらを近づけぬよう、何らかの罠が仕掛けられているのは間違いない。よいか? 絶対に気を抜くでないぞ」 伏羲の言葉に、全員が杖を抜くことによって応えた。 それを確認した伏羲は、前日に施した封印を解くべく『打神鞭』を一振りした。昨夜、手術が終わった後で、伏羲は『空間宝貝』を使うことにより、薬効が表へ漏れ出さないよう、空間を隔てることによって扉を封印していたのだ。 両開きの大扉に、鍵はかかっていなかった。伏羲とタバサ、コルベールとキュルケがそれぞれ左右に分かれ、中から何かが飛び出してきた場合にすぐ対処できるよう、身構える。「我の行く手を阻む、大扉よ……その封印を解き放て」 全員が位置についたことを確認したタバサが<念力>で強く押すと、大扉はギイィィイ……ッと、軋んだような音を立てながら開いた。 開いた扉の奥に見えた光景は――タバサにとって、覚えのある場所だった。 長く続く廊下、そしてその両脇に複数並ぶ、片開きの扉。そう、ここはタバサの実家――つまり旧オルレアン公邸を、在りし日の状態そのままに再現した、まさしく『夢の世界』なのであった。 今、自分たちが立っているのは――いつもなら、従僕のペルスランが笑顔で迎えてくれる玄関口の前。しかし、当然のことながら、彼は現在ここには居ない。夢の外で、タバサたちが無事帰ってくるのを、天に祈りながら……ひたすらに待ち続けてくれている。 タバサは、自分の身長よりも長大で、節くれ立った木の杖を右手に下げ、大きく深呼吸した。そうでもしなければ、心の内から溢れ出てくる怒りの感情で、どうにかなってしまいそうだったから。「この扉の奥は、オルレアン大公家の屋敷そのもの。だとすると、目の前の廊下をまっすぐ行った突き当たり、横の通路いちばん右奥にある部屋が最も怪しい。そこが母さまの寝室だから」 タバサの言葉に、伏羲が呟いた。「ふむ、見覚えがあると思ったら、やはりそうか。ならば、案内を頼んでもよいか?」「わかった」 伏羲の言葉に、タバサは即答した。それを耳にしたコルベールが、ふいに目を細めると、注意深く周囲を観察し、その後ぎりぎり全員に届く程度の小声で報告した。「通路左右の扉の奥から、複数の気配を感じます。ただし、人間のものではありません。どうやら、守護者(ガーディアン)の類が多数配置されているようですぞ」 コルベールからの報告を受け、伏羲がタバサへ確認を取る。「タバサ。通路に並ぶ扉の奥は、別の場所へ続いていたりするか?」「いいえ。わたしの記憶通りなら、全て何らかの部屋への入口になっている」「わかった。ただし、あくまで夢の中であるため、別個に通路が存在する……つまり、その先から敵が現れることも想定した上で行動したほうがよかろう。皆のもの、作戦会議のため一旦後ろへ引くぞ。ただし、中が見えるよう扉は半分だけ開けた状態でな」 全員、了承の印に頷いた。 玄関を出て、入口扉外まで戻った4人+α(タバサの遍在)は、それぞれ前1・中3・後1の隊列――前衛にスノウ(遍在)、中軸にコルベール・キュルケ・タバサチーム、後衛役は伏羲という編成を組んだ。 その上で、改めて玄関周辺を警戒しつつ、タバサから内部の基本構造を聞き取る。と、コルベールがすいと手を挙げた。「意見があるのですが、よろしいですかな?」 全員が目で頷く。「今回の作戦は、屋内で行われます。狭い通路や小部屋などで、爆発を伴う性質がある魔法――つまり<フレイム・ボール>のような殲滅系の魔法を使うのはまずい。ですから、作戦行動中に用いる火系統の魔法は<炎の鞭><炎の刃>などに制限したほうがよいかと」「そうだのう。状況次第で<炎の壁>などを使うことも念頭に入れておこう」「了解しました」「了解」「わかったわ」「ただし、廊下の左右に並ぶ扉の先に大量の敵が潜んでいる、または例の蔦のようなものがあった場合、即座に焼き払ってもらいたい」 キュルケとコルベールの目を見て、伏羲は念を押すように言葉を紡いだ。「あの扉の奥は独立した『病巣』であるので、夫人の身体や心に悪影響はない。よって、一切の遠慮はいらぬ」 その指示に、コルベールが再び意見を述べた。「爆燃気流(バックドラフト)等が生じる危険性があるため、着火を含む室内殲滅の指揮については、この私が執らせていただいてよろしいですかな? そのほうが燃焼規模や範囲の調整がし易いですから」 そう告げたコルベールの声には、一切の迷いがなかった。昨日の<炎刃>を用いた手術経験が、彼を火の使い手として、完全に立ち直らせることに成功していた。 それを聞いた伏羲は心から安堵したように言った。「そうか、それは助かる。ならば、そちらについては完全に一任する。そもそも<火>に関しては、コルベール殿のほうが、わしなどよりも遙かに巧く扱えるからのう。キュルケは、彼の指示に従って動いてくれ」「わかりましたわ。先生、よろしくお願いします」 キュルケの返事に、コルベールは力強く頷いた。「それでは最後の確認をするぞ。室内の殲滅はコルベール殿とキュルケが担当し、廊下に現れた敵については、基本的にわしとタバサが受け持つ。なお、移動中並びに殲滅中の防衛、つまり<盾>の展開は、特別な指示がない限りわしに任せてくれ。スノウは索敵及び周囲警戒、タバサは攻撃のみに集中するのだ」「了解した。あなたの<盾>が、全員の中で最も強固。そのほうがいい」 タバサの言葉に、全員が同意を示す。その後、質疑応答などを行ってさらに細かい点を詰めた伏羲は、最終確認へと移った。「ただし、あくまでこれらは基本であって、緊急時はその限りではないからな。いざという時は夢の外へ待避、つまり目覚めることも念頭に置いて行動してくれ。ここでの『死』は、最悪の場合、心の消滅に繋がる。よいな? 夢の中だからといって、絶対に無茶なことをしてはならぬぞ」 この伏羲からの忠告に、全員が頷いた。「よし、では総員突入ッ!」 伏羲の号令で、特殊潜入『治療班』は一斉に行動を開始した。○●○●○●○● 全員が、慎重に屋敷の奥へと続く廊下を歩いてゆくと――すぐに、その時は訪れた。左右の扉が全て一斉に開き、中から多数の<木枝の矢(ブランチ)>が先頭を進む『スノウ』目掛けて、勢いよく飛来してきた。 しかし、既に伏羲が展開していた<風の盾>によって、それら<木枝の矢>は全て明後日の方向へと逸れていった。と、その矢がまるで挨拶代わりであったかのように、部屋の中から不格好な兵士たちがぞろぞろと姿を現した。それは、樹木でできた魔法人形――ガーゴイルであった。 もしも、ここを訪れたのが並のメイジであったなら、その不気味な姿に腰を抜かすか、あるいは一度に襲いかかってきた十数体の木製ガーゴイルが持つ棍棒のような腕によって、あっという間に昏倒させられていたかもしれない。 だが、今ここにいるのは。トリステイン魔法学院――いや、国内でもトップクラスの使い手と呼んで差し支えない者たちである。伏羲が展開した<風の鞭>10本が、あっという間にガーゴイルたちをはじき飛ばすと、タバサがそこへ20本の<氷の矢>でもって追撃。全てを射貫き、ばらばらにした。「前方1時方向扉内、炎による殲滅作戦を行う。ミス・ツェルプストー! <フレイム・ボール>準備! 着弾目標、指定の扉奥。現在位置から5メイル先!」「了解ッ!」 コルベールの指示で、キュルケが呪文の詠唱準備に入る。彼女の状態を確認したコルベールは、なんと懐から取り出した手鏡に、目標とした室内の奥を映し――それと同時にキュルケが構えるところを見ながら<錬金>で揮発油を精製し始めた。つんとした独特の刺激臭が鼻を刺す。もしもここに才人がいたら「ガソリン臭い……」などと言っただろう。 これを目撃したタバサは「手鏡でこんなことが……」と、素直に感心すると同時に、コルベールに対する内心の評価を大幅に上昇させた。やはり彼は、自分よりも遙かに経験豊富な軍人であったのだ、と。「<フレイム・ボール>発射5秒前……4……3……2……1……今ッ!」 キュルケが放った<フレイム・ボール>が部屋へ飛んでいったのとほぼ同時に、伏羲が全員の身体を<風の盾>で防御する。途端に響き渡る轟音。燃え上がるガーゴイル達。「<火球>着弾確認! 爆燃気流、及び延焼の可能性、極めて軽微! 残敵有り、2体出てきます!」 目が熱やその他のものでやられぬよう、鏡を使って慎重に扉内部を確認していたコルベールの声と同時に、火のついたガーゴイルが2体、ふらふらとよろめきながら出てきたが、双方共にタバサの<風の刃>によって切り裂かれ、ぱらぱらと床に舞い散った。「正面1時方位・室内の敵、全滅。また、内部の鎮火を確認しました。火炎治療班、次に備え待機します」「了解した。総員、陣形を立て直せ! 周囲確認の後、前方へ移動する!」「了解!」 号令と同時に、即座に陣形を立て直す一同。見事なまでに息ぴったりである。「次! 正面11時方向扉奥、殲滅準備にかかる! ミス・ツェルプストー、何か問題はないか!?」「大丈夫! まだ10発以上……いえ、14発撃てますわ!」「残弾数了解した! 大変よろしい。では、行きますぞ!」 こんな調子で、ずんずんと廊下を進んでゆく『治療班』。 ……どう見ても屋内殲滅部隊以外の何者でもないのだが、これは正真正銘、誰がなんと言おうと『治療班』なのである。だが、現在の彼らの進軍状況を見たら、並の使い手ならば対峙はおろか、側に近寄ろうなどとは間違っても思わないであろう。 ガリア王国の裏組織『北花壇騎士団』闇の騎士七号『雪風』のタバサ。 夢の中で<力>を取り戻している、地球の『始祖』伏羲の半身『軍師』太公望。 元トリステイン王国<特殊魔法実験小隊>指揮官『炎蛇』のコルベール。 水精霊団が誇る最大火力砲台にして、炎の女王『微熱』のキュルケ。 彼らの行く手を遮るものは――何もない。全てが、塵と化し風に乗って消えた。○●○●○●○● ――そして、一行はついに最後の部屋。タバサの母の居室前に立った。 その扉には、魔法的な罠も、鍵すらも掛かってはいなかった。中に何かがいるのは確かだが、殺気立っているような雰囲気はない。 そこで、タバサの<遍在>スノウが先頭に立ち、そっと観音開きの扉を引いてみた。奥にはベッドと小机が見える。双方共に、タバサにとって見慣れたものたちであった。それらは母の部屋にあったものと、全く同一だったから。 部屋の周囲には、本棚が並んでいた。その前に……ひとりの男が立っている。おそらく、この者こそが<夢>の支配者にして、この『薬』を調合した者の<意志>が具現化した存在だろう。そう判断した伏羲は、冷静に『解析』そして『分析』を開始した。 かの存在は、薄茶色の――ハルケギニアではあまり見かけない形の、ゆったりとした造りの長衣(ローブ)を身につけ、室内にも関わらず羽根飾りのついた、つばの広い帽子を被っている。帽子の隙間からは、腰まで届く見事な金髪がさらりと垂れていた。 男の<意志>は、扉側に背を向けたまま、本棚に向かっていた。パラパラというページをめくる音が聞こえてくることから察するに、どうやら本を読んでいるらしい。 いくら夢の中とはいえ、すぐ側に他人――それも、明らかに敵意を持つ者が近付いてきているにも関わらず、全くそれを気にすることなく書を読み進めているというのは、余程肝が据わっているのか、それとも自分に自信があるのか、あるいは――。 と……その<意志>が、背を向けたままふいに口を開いた。「この『物語』というものは、実に素晴らしいな」 思わぬ言葉に、その場にいた全員があっけに取られた。「ふむ、なるほど。歴史や文化、思想などに、独自の解釈を織り込んだ上で、娯楽に変化させる。それを読み手が受け取ったときに、書き手が望む感情を呼び起こすことで、己の主張を理解させるのだな。実に素晴らしい。我が種族には無い文化だけに興味をそそられる」 異国風の長衣を纏った金髪の<意志>は、まるで、ガラスで造られた鐘のように澄んだ声音でそう言った。そこには、一欠片の敵意も含まれてはいない。「老人は尋ねた。『おお、勇者イーヴァルディよ。そなたは何故、苦難にあえて立ち向かうのだ?』少年は答えた。『わからないよ、ただ……ぼくの中にいる何かが、歩みを止めることを許さないんだ。自分の内側にいる誰かが、ぐんぐんとぼくを引っ張っていくんだ』と。このやりとりなどは、不思議と勇気を呼び起こす作用を持つ」 伏羲は、思わず顔をしかめて呟いた。口端がぴくぴくと引き攣っている。「何だ、このロマンティックで微妙に場の空気が読めない男は」 その言葉に、同行者たちが次々に疑問を呈した。「薬の元凶……なのではないの?」「ミスタがわからないのでしたら、専門外の私では完全にお手上げですぞ」「まあ、空気読めてないのは確かよね」「いや、そういうことを言いたいのではなくてだな……!」 排除を目指す敵を前にしているにも関わらず、そんな暢気なやりとりをしていれば、当然のことながら相手に悟られる。金髪の男は、手にしていた本をそっと本棚に戻すと――静かに。くるりと優雅な動作で振り向いた。「薬の元凶……なるほど、お前たちは侵入者か」 正面を向いた金髪の男は、線の細い……一般的な観点でいえば、まさしく美形といってよいであろう涼やかな顔立ちをしていた。切れ長な目の奥に光る瞳は、深い海の底を思わせる群青色。だが、全く年齢がわからない。幼年とも老齢とも取れるような、不可思議な気配を漂わせている。「ふむ。この<場>に侵入するのみならず、人形を配置した廊下をも無事抜けてきたのか。なるほど、蛮人にしては相当に強き<力>を持つ者たちと見える」「……蛮人?」 自分自身も、最初の段階でかなり失礼な発言をかましていたにも関わらず――思いっきりそれを棚に上げて呟いた伏羲に、心底不思議そうな顔を向けた男の<意志>は、ようやく何かに気付いたような声でこう言った。「もしや、我を蛮人と勘違いしているのか? これは失礼した。お前たち蛮人の間では、初対面の挨拶をする際には、帽子を取るのが作法だったな」 男は、全く裏表のない声でそう言うと、帽子を脱いだ。「わたしは、この場を管理する者だ」 さらりとした金髪の隙間から、尖った長い耳が突き出している。「え、エルフ……!?」 キュルケは、思わず声を上げてしまった。 長身の男――調剤者の正体は、ハルケギニアの東に広がる砂漠(サハラ)に住まう長命種にして、人間の天敵。強力な先住の魔法を用いる種族、エルフであった。 ハルケギニアの住民にとって、エルフとはまさしく恐怖の象徴である。人間の数倍の寿命を持ち、高度な文明と長い歴史を持つ彼らと立ち会うなどという無謀な行いは――少なくとも単独では、絶対にしたくない。これは、全てのメイジ――いや平民も含めた、住人全体に共通している認識なのだ。 以前、ラグドリアン湖で太公望の『B・クイック』が炸裂した際に、それをエルフが用いる先住魔法と勘違いしたルイズたちが恐慌状態に陥ったのは、そのあたりに由来する。 杖を握るタバサとキュルケの手に、力が籠もる。その指先は、恐怖で細かく震えていた。だが、そんな彼女たちの前へ、ひとりの男が庇うようにすっと立ち塞がった。 彼女たちの<盾>となったのは、コルベールだった。彼の額からは、幾重もの汗が流れ落ちている。先程までの戦いぶりを見る限り、間違いなく歴戦の勇士といって差し支えない彼にとっても、やはりエルフは怖ろしい存在であるようだ。しかし……少なくとも彼の背には、一切の迷いがなかった。 ――生徒たちを守る。コルベールの熱意は、既に『魂の天敵』を相手にしても一切揺らがぬほどに強く篤い剛炎の壁となり、護るべき者たちの前へそびえ立っていた。 その背中を見たキュルケは、自分の胸の中に、これまで感じていたものとは全く違う、燃え尽きる程に熱く……それでいて柔らかに踊る<炎>が灯るのを感じていた。 だが、そんな彼らの目の前に立つ――現在はエルフの姿を取っている<意志>は、まるで気の毒な者を遠い場所から見つめるような態度で、こう告げた。「お前たちに要求したい」 もしも、この場にいたのがメイジだけであったなら、その言葉だけで震え上がっていたかもしれない。だが、幸いにしてここに居合わせたのは、メイジだけではなかった。「なかなか面白いことを言う。『交渉』ではなく、いきなり『要求』なのか」 ……そう。エルフの存在を何とも思わない者、伏羲であった。 彼からしてみれば「耳が長い妖怪なんぞ、別に珍しくもなかろう」程度の認識しかない。宗教的な縛りも、刷り込まれたものもない。だいたい、己の半身たる王天君も細く長い耳を持っている。よって、伏羲が無条件にエルフを畏れる理由など、一切ないのである。 だが、エルフの<意志>には、そんな伏羲の反応が思いのほか面白く感じられたらしい。彼は、ふっと表情を緩めると、伏羲に向けて口を開いた。「これは失礼した。この部屋へ至る『道』を<力>でもって突破してきた蛮人たちに、まさか話して通じるとは思ってもみなかったのだ。我は、無益な争いを好まない。よって、このまま大人しく引き下がってはもらえないだろうか。もちろん、あの女性の<意志>も、元の場所へ戻してもらいたい」 それを聞いた伏羲は、持っていた『打神鞭』の先端を、掌でぽんぽんと弾ませながら、心底呆れたといわんばかりに、目の前のエルフの姿形をとっている<意志>に尋ねた。「わしも、戦いは正直好かぬのだがのう。おぬしが申し出てきているそれは、話し合いとは呼べぬものだと思うのだが?」 自分たちが求められているのは一方的な要求であって、交渉どころの話ではない。だが、その言葉を聞いた男は、ふっとため息をついた。「やはり、蛮人と話し合いをするのは無理なのか。我としては、できる限り穏やかに事を済ませたかったのだが」 ふざけるな。タバサは激しく憤った。母さまの<夢>を無理矢理ねじ曲げた挙げ句、一方的な要求をつきつけておいて、穏やかに事を済ませたい? 相手は単なる『薬』に込められた<意志>だ、本物のエルフではない。畏れるな! エルフと対峙するという恐怖を、迸る怒りの感情が上回った。 杖を構え直し、一歩前へ出ようとしたタバサを、しかし伏羲が遮った。「念のため確認しておきたいのだが。おぬしにとって、それらの要求は一切相譲れぬものであるのか?」 その問いかけに、エルフの姿をした『モノ』は、小さく首を縦に振った。「我は、この世界を保つためだけに造られた、かりそめの<意志>だ。よって、それを外れることはできない」 いっぽう、伏羲の後方で身構えているタバサ、そしてキュルケとコルベールは心底驚いていた。彼はエルフ……いや、薬に込められた<意志>とすら交渉するのか、と。 少し考え込むような素振りを見せた伏羲が、再度口を開いた。「最後に、もう一度だけ聞くぞ? どうしても……なのか? 戦わずに、ここからおぬしが去るわけにはゆかぬのか? こちら側が何らかの条件をつけて、おぬし自身を解放することも、一切不可能であるのか?」 その言葉を聞いても、エルフの<意志>は頑ななまでに動かなかった。「そうか、残念だ。わしとしても、できれば戦わずに済ませたかったのだが」 その言葉を合図に、全員が杖を構えた。しかし、エルフの<意志>は畏れるどころか、顔色ひとつ変えずに、ただ静かにその場に佇むのみであった。 絶対に母さまの心を治す。たとえ、そのために戦わなければならない相手がエルフであろうとも、ここで引くわけにはいかないのだ。タバサの心が、強い感情で震えた。彼女は杖を構え、呪文を詠唱する。「ラグーズ・ウォータル・イス・イーサ・ウィンデ……」 タバサが最も得意とする呪文<ウィンディ・アイシクル>が完成した。合計20本の<氷の矢>が、エルフの<意志>目掛けて飛んでゆく。しかし、彼女が放ったそれは敵対者の胸の前でぴたりと停止すると、そのまま床に落ちて、キィン……という澄んだ音と共に、砕け散った。 直後に叩き付けられたキュルケの<炎の鞭>も、タバサの<ウィンディ・アイシクル>と同様に、壁のようなものに遮られ、男の身体には届かなかった。「なるほど……これが先住魔法。エルフの<反射(カウンター)>か」 杖に<炎の蛇>を纏わせたコルベールがポツリと呟くと、それを聞いた少女たちの身体が完全に硬直した。自分たちが相対している敵が何者であるのかを、改めて思い知ってしまったがゆえに、彼女たちは、魂に刻まれた恐怖によって縛られてしまった。そんなふたりと同じように、コルベールと伏羲もその場から全く動かない。「先住魔法……何故、お前たち蛮人は、そのような無粋な呼び方をするのだ?」 金髪で細身の身体を持つ<意志>の瞳には、怒りどころか、敵意の欠片すら浮かんではいなかった。タバサは……いや、キュルケとコルベールも、その瞳に宿るものの正体に気付いて愕然とした。 そこにあるのは、戦わねばならないことに対する悲しみではない。哀れみですらない。なんと『無関心』であった。そう――彼は、自分たちを未だに敵と認めていないのだ。いや、そんな認識すらないのかもしれない。 彼らエルフや妖魔が使う先住魔法は、メイジたちの系統魔法よりも遙かに強力であると、いにしえより伝わる書物などには記されている。その真偽の程は定かではないが、少なくとも目の前の男が、自分たちを『敵』どころか、単なる置物程度にしか見ていないのはあきらかであった。伏羲を含む全員が、思わず後じさった。「蛮人よ。我は争いを好まない。だが、敵対するというのならば<精霊の力>をもって、この場から強制的に排除する。それが、我に課せられた使命だからだ」 そう言って、エルフの<意志>が片手を前にかざし、タバサたちがいる場所へ向けて、一歩前へと足を踏み出した――その時。「タバサ! <風の盾>で全員を包み込め!」 伏羲のかけ声と共に、突如<意志>の足元に八角形の輝きが出現する。「かかったな! 宝貝『誅仙陣(ちゅうせんじん)』!!」 タバサが<盾>を展開し終わったのと、ほぼ同時。突如周囲の風景が塗り替わった。 つい先程までタバサの母の居室であったそこは、いつのまにか荒涼とした原野に変わっていた。その空は、深く暗い闇に包まれていた。そして、光る糸状の何かが、まるで鳥籠の如く、格子状に周辺全域へ張り巡らされている。「これは……!?」 突然のことに、さすがの<意志>も驚いたのであろう。その瞳に、彼らと対峙してから初めて別の色が浮かんでいる。それは、わずかながらの焦り。そんな彼の様子を見た伏羲が、実に嬉しそうな顔をしつつ、大声で嗤った。「ダァホが! わしが、ビビって動けないのだと思っていたようだが、違うわ! タバサとキュルケがおぬしの気を引いてくれている間に、自分の<陣>を構築しておったのだよ!」 タバサは驚いた。さっきから彼が一切手を出さなかったのは、これの準備をしていたからなのか。でも、以前見せて貰った『切り札』とは明らかに違う。これは、いったい何だろう……? ――実は。最初に『要求』という言葉を聞いた時点で、交渉が一切通じない可能性があると判断した伏羲は『打神鞭』を掌の上で弾ませるという、一見何気ない仕草を装いながら、こっそりと、この空間宝貝『誅仙陣』を展開する準備を整えていたのだ。「なるほど。隙を見て『罠』を張っていたということか。しかし、我に通用するようなものでは……」 そう言って<精霊の力>を行使しようとしたエルフの<意志>であったが……次の瞬間、叫び声を上げた。「そんな馬鹿な! 蛮人め、いったい何をした!?」「なるほどのう。やはり先住魔法とは、そういう性質のものであったか。そして、どうやらおぬしたちエルフは『空間使い』と戦った経験が、一切ないとみえる」 先程とはまるで別人のように取り乱し始めたエルフの男とは対照的に、伏羲の顔は冷徹な『観察者』そのものに変化していた。「確か、エルフや妖魔が使う先住魔法とは、場に宿る精霊と契約して行使されるものであったな? では、ここで質問だ。その<場(フィールド)>が何者かによって書き換えられてしまった場合。精霊との契約は、果たしてどうなるのであろうか?」 その伏羲の言葉に、調剤者の<意志>が凍り付いた。「そんな! 『薬』を一切使わずに、<夢>を塗り換えたというのか!?」「そうだ。あの部屋の周辺だけだがのう。<夢>は、無限の宇宙に例えられるほどに広大な<別世界>だ。自分の夢ならばともかく、他者の<世界>を全て書き換えられるほど強大な<力>など、わしは持ち合わせておらぬのでな」 夢を塗り換える。タバサは、驚嘆した。そういえば、夢の中だからこそこのようなことができると、以前太公望が言っていたではないか。実際に『彼の部屋』の内装が書き換わるところを何度も見せて貰っている。「ありえない! <場>を書き換える魔法……こんなものが……ッ!」 慌てふためくエルフの<意志>に、伏羲は追い打ちをかけた。「おぬしのおかげでよい実験ができた。書物だけではいまいち確定できなかった先住魔法の性質について、これで確証が持てた。感謝するぞ」 聞いた者全てが凍てつくような声でもって、そう告げた伏羲の姿は、まるで――開発中の薬品によって、大きな被害を受けた被験者たちを前にして、ただ静かに実験結果のみを報告する、冷徹な研究者のようであった。 そんな彼らのやりとりを聞いて、タバサは気付いた。そうか、これが実戦における『空間操作』の扱い方なのか、と。 タバサだけでなく、キュルケも一緒になって周囲を見渡した。これが、太公望がよく話していた<フィールド>にして、彼や才人が住む異世界のメイジ<力在る者>の一端を担う『空間使い』が最も得意とする戦法なのかと、驚きを顕わにした。確かにこれは、ハルケギニアでは『異端』扱いされてしまうだろう。見知らぬ他者が大勢いるような場所で、簡単に使える類のものではない。彼女たちはそう受け取った。 そして、先程からこの<フィールド>をつぶさに観察していたコルベールも、初めて見た魔法技術に驚嘆していた。系統魔法に一切の悪影響を及ぼさず、それでいて簡単に先住魔法を封じてしまったこれが、いかに有用であるのか――彼には即座に理解できたからだ。しかし彼の驚きは、それだけでは終わらなかった。 それは……ふいに、空から落ちてきた。小さく白いものが、ふわりと宙を舞う。「あ……!」「これは……?」「雪だ!」 思わず<風の盾>から外へ手を伸ばしてしまった一同を、伏羲が慌てて制した。「いかん、その雪に触れるでない!」 どうして!? そう問おうとした彼らであったが、その答えはすぐ目の前で公開された。なんと、粉状の雪に触れた<意志>の手が、ジュッという音と共に、溶け崩れてしまったのだ。それを目撃した全員が、慌てて<盾>の中で身を縮めた。「なにッ!?」 調剤者の<意志>は、急いで<反射>を展開しようとした。しかし、書き換えられてしまった<フィールド>内に存在する精霊との契約を、最初からやり直すほどの時間は、残念ながら――既に残されてなどいなかった。「お、おのれ蛮人……ッ。このままでは済まさぬぞ!」 口では強気な発言をしてみたものの。<意志>は内心焦っていた。この場に留まっているのはまずい。精霊との契約を完全に無効化されてしまったのみならず、この雪に触れ続けていれば、自分は完全に消失してしまうだろう。 調剤者の<意志>は必死の思いで、外への出口を探した……しかしそれは、どこにも見当たらなかった。『薬』そのものに植え付けられた<意志>たる彼には、目覚めによる自力脱出も不可能であった。「これは、魂魄を溶かす雪。そして、ここはわしが支配する『空間』だ。記憶の欠片、その一片すら逃がさぬよ」 静かに降り続ける粉雪は、ごく細かなそれから、大粒の綿雪へと変化してゆき――しまいには、囂々と唸り猛る豪風を伴う吹雪となって、エルフの<意志>に襲いかかった。「深深(しんしん)と……溶けるがいい」 そう告げて、天を仰いだ伏羲の横顔からは――普段の暖かみのある表情が全て消え去り、真冬……いや、生きとし生ける者全てが強制的に活動を止められる、絶対零度の冷気が全面に貼り付けられていた。「き、き、貴様、まさか悪魔(シャイターン)……ッ!」 調剤者が注いだ<意志>に、初めて怯えの色が浮かんだ。だが、全ては遅すぎた。「う……くッ、やめてくれッ! や、や……め…………」 全身から煙を噴き上げながら、悲鳴をあげて逃げまどう<意志>の姿を見ても、杖をかざしたまま、全く動じずにその場に佇む伏羲の様子は――これまでタバサたちが見知っていた彼とは、完全に別人のようであった。 ――その姿は、まさしく『雪風の魔王』。主人の持つ二つ名に相応しい、極寒の空気と闇の衣を纏いし者。 エルフの<意志>も、悲鳴すらも。ジュウジュウという魂魄が溶ける音はおろか、全てが無音の闇に消えたその後に現れたのは……澄んだ青空と、暖かな春風。そして全面に広がる美しい花畑――。「お……終わった……の?」 タバサの言葉に、伏羲は頷いた。「うむ。病巣は跡形もなく全て消え失せた。おぬしの母上は、これで元通りになる」 その言葉に、全員が歓声を上げた。しかし伏羲の顔は、どこか陰っていた。「これは、わしの親友の口癖なのだが……」 ふうと大きなため息をついた伏羲は、小さな声で、それを口にした。「言葉を交わすことができるにも関わらず、わかり合えぬとは。本当に悲しい事だな」○●○●○●○● ――タバサは、未だ夢の中にいた。 そこは、幼い頃に住んでいた、ラグドリアン湖の湖畔に建つ、懐かしいオルレアン公邸。晴れ渡った青空の下、屋敷に住まう家族全員が、庭に用意された小さな丸テーブルを囲み、花が咲き乱れた春の湖畔を眺めている。父と母は優しげな笑みを浮かべ、揃って料理を摘みながら、談笑していた。 タバサ――いや、幼いシャルロット姫は、母が手ずから買い与えてくれたフェルト地製の人形『タバサ』を自分の隣に座らせ、絵本を読んで聞かせている。 本のタイトルは『イーヴァルディの勇者』。小さな少年が、剣を手に怖ろしい試練に立ち向かうという――貴族平民を問わず、子供たちの間で大人気となっている冒険譚だ。 この本に記された『イーヴァルディ』とは、地名やその他を示す単語ではない。物語の主人公である少年の名だ。にも関わらず、この本の表題が『勇者イーヴァルディ』ではなく『イーヴァルディの勇者』と表記されるのは、何故なのだろうか。 幼い頃は、疑問に思いつつもその意味がわからなかったタバサであったが、今なら理解できる。『イーヴァルディ』とは、勇者の名前ではない。かの少年の心奥に住まう『衝動』や『強い決意』といった概念を『勇気ある者』つまり『勇者』と表現しているのだ。 現に『イーヴァルディの勇者』の主人公は、いつも同じ少年とは限らない。それは女性であったり、時には年老いた老爺として描かれることすらあった。そして、それら全ての主人公たちに共通しているものがある。それは――『前へ進む勇気』。 幼いシャルロット姫が手に取って、人形へ読み聞かせている本の主人公も、巨大な<力>を持つ怖ろしい魔王によって捕らわれた姫君を救うため、剣一本と勇気だけを頼りに、たったひとりで魔城の奥へと進んでゆく少年だ。 ハルケギニアの子供たちは、幼い頃は皆『イーヴァルディの勇者』に憧れる。この絵本を読んで、イーヴァルディのような勇者になる、あるいは英雄に付き従う騎士となり、共に世界を救う大冒険をすることを夢見るものなのだが――幼い頃のタバサ……シャルロット姫は違った。 彼女は、怖ろしい魔王に連れ去られた姫君に憧れた。勇者によって救い出された、か弱き少女に。そして、楽しいながらも退屈な日常から自分を連れ出して、未知の世界へと案内してくれる勇者さまが目の前に現れ、その手を差し伸べてくれる日を待ちわびた。 やがて、成長したシャルロット姫は囚われた。魔王にではなく……過酷な運命という名の鎖に。そして、期待が全て絶望へと変わる牢獄の中に閉じこめられた。だが――本に書かれた姫君のように、自分を助け出してくれる勇者が現れることはなかった。 そう――物語の『勇者』は、彼女の前に現れてはくれなかったのだ。「お嬢さまの客人がお見えになられました」 ふいに聞こえた従僕ペルスランの声に、タバサははっとした。それから、自分の姿を見て驚いた。人形の『タバサ』に本を読み聞かせていたシャルロット姫は、もうどこにもいなかった。今の自分は『雪風』を纏った、北花壇警護騎士(ノールパルテル)。ずっと孤りで戦い続けてきた、氷でできた人形。 やはりあれは夢だったのだ。時の彼方へ消えていった、幸せな時間の記憶――。 夢の中で夢を見ていたことに気付いたタバサは、思わず苦笑した。どうして、あんな夢を見ていたのだろう。あのように笑いかけてくれる父は、もうどこにもいないのに。優しく微笑みかけてくれる母も、怖ろしい『魔法薬』で――。「まあ、シャルロットのお友達? ペルスラン、急いでお通しして」 飛び込んできたのは、間違いなく母の声であった。タバサは思わず振り返った。そこにいたのは、先程まで丸テーブルについていた母ではなかった。少し歳を重ね、より表情の柔らかくなった……眠っている時にしか見ることのできない、穏やかな顔つきをしたオルレアン公夫人が、椅子に腰掛けて微笑んでいた。「母さま……」「どうしたの? ほら、お友達の出迎えをしていらっしゃいな」 そう言って笑うオルレアン公夫人の顔には、あの怖ろしい『薬』の影響など、どこにも見られなかった。それからすぐ、笑い声と共に近付いてきた足音に、タバサは振り返った。 屋敷の庭に、魔法学院の仲間たちが現れた。 ギーシュとモンモランシーが、ふたり揃って大きな花束を持ち、笑顔でタバサの側へ近寄ってきた。ルイズと才人が、照れたような笑みを浮かべながら、手に持った包みを差し出してきた。その中には、焼き菓子がたくさん詰まっていた。レイナールは、綺麗なリボンが掛けられた本を、彼女に手渡そうとしている。 そして、彼女の親友である赤毛のキュルケが駆け寄ってきた。いつものように、笑ってタバサを抱き締めてくれた。そんな彼女たちを見守るかのように、後方でオスマン学院長と、コルベール先生が微笑んでいた。 最後に現れたのは、太公望であった。 だがそれは、いつもの彼ではなかった。夢の世界でしか見ることのない――全身に漆黒を纏った姿。「あなたが、みんなを連れてきてくれたのね」 そう言って椅子から立ち上がったタバサの手から、抱えていた『イーヴァルディの勇者』が、とすん……と滑り落ち、テーブルの上へ乗った。その絵本のページは、突如吹いてきた暖かな風によって嬲られ、ぱらぱらとめくれていく。 ――わたしの前に現れてくれたのは、勇者様ではなかった。 開いたページに描かれていたのは。畏れる姫君の前へ悠然と立つ、魔王の絵姿。 <使い魔召喚の儀>を執り行ったあの日。絶望の色を瞳に宿した姫君の前に現れたのは。彼女を自由な空へと案内してくれる、気高き竜ではなく……勇者さまにお仕えする、聖騎士のような存在でもなかった。あのとき、タバサが出逢った相手は。 ――でも、わたしにとっては……きっと、これでよかったのだ。 どこまでも優しく、温もりに溢れた夢の中で……タバサはそう思った。