タバサと太公望の主従がトリステインに戻ったのは、降臨祭が終わってから十四日後。既にヤラの月中旬に差し掛かった頃であった。「いやはや、今回はずいぶんと長いことお出かけじゃったのう?」「嫌味を言うでない! だいたい、あの吹雪ではどうしようもなかろうが!」 オスマン氏が水ギセルを燻らせながらそう言うと、太公望は苛立たしげに鼻を鳴らした。 学院長室の窓枠は吹き付けられた雪で覆われており、石壁の外は見渡す限りの銀世界。強風こそどうにか収まったものの、未だに白いものがちらちらと舞っていた。どうにか通り道だけでも確保しようと、教員と使用人たちが雪かきをしている。「巷では〝白銀の降臨祭〟などと歓迎されとったが、こうも続くとたまらんわい」 同席していたタバサがこくこくと頷く。トリステインのみならず、ハルケギニア大陸で冬にここまで天気が荒れるなど、滅多にないことであった。 当然、各国の交通網は麻痺。緊急で竜籠を出すことこそ可能だが、寒空を飛ぶのを嫌がる竜が多いため、目の玉が飛び出るほどの高額料金を請求される。 もちろん、太公望らにはそれ以外の帰寮手段があったわけだが……そんな真似をしたが最後、融合その他諸々の事情を知るイザベラや王天君ならともかく、その他の王政府関係者から不審な目で見られること間違いなし。 よって、リュティスに滞在して雪が小降りになるのを待った上で、ガリアの王宮から借り受けた風竜で戻るしかなかったのである。「それはともかく、皆が無事で良かった」「君の開戦予測日、どんぴしゃじゃったの~」「おおよその流れが見えておったからのう」「皆に特別休暇を出しておいて正解じゃったわい」「なんだ? まさか……」「そのまさかじゃよ。捕らえられた『レコン・キスタ』の手の者が、魔法学院の襲撃計画を練っていたと自白したそうじゃ」 タバサの顔から、ざあっと音を立てて血の気が引いた。が、オスマン氏は好々爺そのものの笑みを浮かべている。「ミス・タバサ。何もなかったから心配することはないぞい」「詳しく話していただけますか」「もちろんじゃとも。実はな……」 戦況次第ではアルビオンきっての腕利きたちが、内通者の手引きによって警戒の薄い学舎に潜入し、生徒あるいは教職員のいずれかを誘拐。人質の命を盾に、その家族やトリステイン王政府を脅迫して動きを抑える計画があったというのだから洒落にならない。 ほっと安堵の息を吐いたタバサを余所に、太公望が実にイイ笑顔で嘲笑う。「ケケケ、人質にできそうな者たちは皆、特別休暇で学院から出払っておったからのう」 オスマン氏が愉快げに答える。「うむ。王政府に報告しておいたお陰で、計画そのものが立ち消えになったそうじゃ」「内通者さまさまだのう」「まったくじゃ」 顔を付き合わせて嗤う両者。魔法学院の危機を事前に救うことに成功した彼らだが、端から見ると根性悪の老人共が、質の悪い陰謀を計画しているようにしか見えない。「さて……」 パイプから吸い込んだ煙を吐き出すと、オスマン氏は訊ねた。「天気の話や近況はこのくらいにしておこうかの。戻って早々揃ってわしの元を訪れたのじゃ。不在中の単位がどうこうなどという用件ではなかろ?」 頷くふたり。それを確認したオスマン氏は、手にしていた水ギセルを置いて杖に持ち帰ると、ついと振った。ガチャリという音がして、学院長室の扉に魔法の鍵がかけられる。 同時にタバサも自前の長杖を掴み、呪文を唱えた。〝消音〟の魔法だ。 トリステイン最高と謳われたメイジと、若くして『スクウェア』に至った少女が施した防諜を破るのは至難の業である。 そんな中、最初に口を開いたのは……これまで静かだったタバサだ。「学院長は、わたしの事情をどこまでご存じですか?」 内心で密かに驚くオスマン氏。無理もない、彼は太公望が事情の説明を行うものだと思い込んでいたのだから。「君の家にまつわる諸々のことかの?」「……はい」「概要くらいは把握しとるが、わしも一応はトリステインという国に仕える貴族じゃからのう。下手に隣国のお家騒動に首を突っ込むわけにはいかん。君には教員にあるまじき非情さだと受け取られるやもしれんが……」 蒼い髪がふるふると横に揺れる。「わたしは、わたしの事情をトリステインに持ち込むつもりはありません」 顎髭をしごきながら、オスマン氏は確認した。「わしが君の素性を知っているかどうか確かめたのは、説明すべき内容の省略ができるか否かの判断に必要だった。そう解釈して問題ないかね?」 タバサは頷き、言葉を紡ぐ。「本当は、ふたりと直接話がしたかった。あなたたちに危険が迫っていると」 そして彼女は語り始めた。人間を使い魔にしたという噂を聞きつけたロマリアの神官が、ふたりに接触してきたこと。ジュリオが語った虚無に関連する内容を、イザベラや王天君、地下水の助力やガリア王家の悲劇の真相には触れることなく、オスマン氏に伝え聞かせた。 祖母がロマリアに洗脳されたことや、ガリア貴族たちが調略によって煽られていたことは報せない。オスマン氏が信用できないからではなく、ロマリアが「知られていることを知らない」というアドバンテージを最大限に活用するためだ。 同時に、タバサとイザベラの身を守るための措置でもあった。太公望と王天君が側についているとはいえ、万が一ということがある。最悪、王権争いの真相に辿り着いた彼女たちがロマリアに消されかねない。ただでさえ、ガリアの裏を司るイザベラには敵が多いのだから。 『部屋』の外で交わされた言葉は、いつか漏れる。そのくらいの覚悟をもって挑まなければならないし、仲間に伝えるにしても最低限必要な情報だけに留める必要がある。 タバサが情報の取捨選択を行いつつ必死に説明する姿を、太公望はただ無言で見ているだけであった。そんな彼の口端がわずかに上がっているのに気付いたのは、オスマン氏だけであろう。 ――それから四日後。 オスマン氏は魔法学院の馬車で、トリスタニアの王城へと向かった。 可能であれば、話を聞いた当日のうちに緊急の案件として王室に持ち込みたかったのだが、しかし。公務での王都行きが迫っていたこともあり、あえて間を開けたのである。 オスマン氏ほどの人物が連日王宮を訪れたりしたら、周囲の者たちは何事かと騒ぎ立てるであろう。内通者を一掃した直後とはいえ、耳目を集めるのは得策ではない。ならば、元々の予定を利用したほうがよいと考えたのだ。 密談の申し入れを受けたサンドリオン王は、これを承諾。トリステイン最高のメイジ・オスマン氏と最強のカリーヌ王妃、蘇りし虚無のルイズが手を組めば、出入りの激しい王宮内とはいえ誰にも怪しまれることなく関係者を隠し部屋へ導くことなど容易かった。 ……問題が起きたのは、ある程度彼らの間で話が進んでからのことだった。○●○●○●○●○ 頬を撫でる風が、眠っていた才人の覚醒を促した。「あと五分……」 ある意味お約束ともいえる寝言を発しながら、寝返りをうつ。その途端、妙に固いベッドの感触に痛覚を刺激され、才人の意識が徐々に夢の底から浮上し始めた。「んあ……?」 目を開けると、頭上に青空が広がっていた。天頂に輝く太陽が、才人の顔を照らしている。「へ?」 飛び起きた才人は周囲を見て驚愕した。どこまでも続く、広大な草原が目に入ったからだ。「はい?」 ベッドが固いのも道理である。彼は寝床ではなく、地面に横たわっていたのだから。いや、それ以前に……。「つうか、どこだここ」 才人がいたのは、草原の中でぽつんと盛り上がった、小高い丘だった。振り返ると、一本の木が立っている。どうやら、この木の根を枕に昼寝をしていたらしい。強烈な陽差しが草原に降り注いでいたが、この場所だけは背後の大樹に守られ、日陰になっていた。「俺、なんでこんなところで寝てたんだ?」 遥か遠くに、山と森らしきものが見える。が、それ以外には何もない。もちろん才人はこんな場所なんて知らなかったし、来た覚えもない。とすると、誰かに運ばれたのだろうか?(けど、何のために?) 理由はわからない。けれど、とりあえず周りを見てみよう。そう考えた才人は、立ち上がろうとして地面に手をついた。「ん?」 それは、ふにょんとして、柔らかかった。はて? 太陽の光で温められたとして、土がこんなにふよふよになるものだろうか。第一、ぽよぽよしているのは右手側だけで、左手のほうは普通の地面と変わりなかった。「なんだこれ?」 手触り自体は布っぽい。母が愛用していた低反発クッションとも違う、ふよんとして、触れているだけで幸せな気分がこみ上げてくる、この物体は……。 才人はちらりと右手を見た。「る」 それは。「る、る、るるるるるる」 誰かがこの声を聞いていたら「幼竜の鳴き声みたいだ」と表現するかもしれない。とはいえ、才人がこんな声を上げたのも無理はなかった。「ルイズぅう!?」 未だに状況が理解できないが、何故か魔法学院の制服を着たルイズが、彼と寄り添うようにして寝息を立てていたのだ。おまけに、才人の左手は彼女の控えめな胸部に置かれている。「ふぉあッ!」 奇声を上げて飛び退く才人。本音を言えば、もう少し触れていたかったのだが……場の勢いとはいえ、好きだと告白した女の子にアレなことをするのは憚られた。ルイズを大切に思っているということもあるが、その感情と同じくらい、彼女から嫌われるのが怖かったのだ。 普段は感情任せに突っ走るくせに、こういうところではヘタレるのが才人という少年だった。 と、静かに横たわっていたルイズが身じろぎをする。「ん……」 ルイズなら、異変が起きた理由を知っているかもしれない。そう考えた才人は、少女の肩に手をかけ、軽く揺さぶった。魔法学院で共同生活を送っていた頃は、毎朝こうして寝起きの悪い彼女を起こしていたのだ。「もう少しだけ……」 異世界なのに、こういう時の寝言って変わらねえなあ。などと他愛のないことを考えつつも、才人はルイズの意識が覚醒するよう促し続ける。「いい加減起きてくれ、ルイズ。なんかおかしな事が起きてんだよ!」「うるさいわねえ。何なのよ、いったい……」 不満げな声で抗議しながらも、ルイズは身体を起こそうとした。「うう、なんでベッドがこんなに固いの!?」「それ、もう俺が通った道だから」「訳のわからないこと言わないでよね……」 そこまで口にしたところで、ようやくルイズは周囲の様子に気がついたらしい。鳶色の瞳をまんまるにして才人の顔を眺め、続いて自分が寝ていた場所を見回した。「何これ、どういうこと!?」「それは俺が聞きたいんだが」「そうじゃなくて! わたし、祈祷書に魔法をかけたはずなのに……」「祈祷書? 魔法? ……あ!」 ルイズの言葉を聞いて、才人はようやく前後の状況を思い出した。○●「余が甘かった。まさか、ロマリアがそこまで熱心に聖地奪還を目指しているとは……」 オスマン氏から話を聞かされたサンドリオン王は、呻き声を上げた。彼は「ルイズの系統が知られればブリミル教の御輿として担ぎ上げられる可能性がある」程度の認識を持ってはいたが、ロマリアの『聖地』に対する熱意を見誤っていた。まさか、これほどまで躍起になって『担い手』を捜しているとは思ってもみなかったのだ。「テューダー家を見殺しにしたのも、虚無の覚醒を促すためだなんて……」 ルイズの顔は、赤と青を行き来している。滅亡の瀬戸際に立たされた王党派の姿を自分の目で確かめていた彼女は、あまりのことに怒りと悲しみ、恐怖といった感情がないまぜとなって、頭がどうにかなりそうだった。そんな彼女を、カトレアが側で支えている。「…………」 カリーヌ王妃は沈黙を保ちつつも、鳶色の瞳に怒色を湛えている。曲がったことを嫌う彼女は『始祖』ブリミルの代弁者たるべき者たちの行いに対し、深く、静かに憤っていたのだ。「ふざけんな! 何が『聖地』だ! そんなよくわかんねーモノのために王子さまたちのこと犠牲にするとか、馬鹿げてる。だから俺は宗教なんて嫌いなんだよ!」「へッ、さすがはあのフォルサテが作った国だね。腹の黒い連中が集まるのは昔っからちっとも変わらねぇな」 才人は激しく怒っていた。彼と同様に、デルフリンガーも不満を露わにする。普段なら「不敬な!」と怒鳴りつけていたであろうエレオノールですら、彼らに対して反論しなかった。彼女自身が敬虔なブリミル教の信徒であるからこそ、野望のために始祖の血統すら軽んじる、ロマリアのやり口が許せないのだ。 代わりに、彼女は不快感に顔を歪めながら、現時点で入手済みの情報を提供した。「王宮の侍女複数と、アカデミーの女性研究員のうち数名が、月目の神官に街で声をかけられたという話を耳にしています。まるで宗教画から抜け出してきたような美少年であったと、もっぱらの噂ですわ」 そこへカトレアが追従する。「そういえば、街へ出た侍女たちがそんな話をしていましたわ。ごめんなさい、あまり詳しいことを聞けなくて」「アルビオン亡命政府を訪れたという、若い神官の特徴とも一致するな。『使い魔は主人の目となり、耳となる』とは、よく言ったものだ」 深い深い溜め息の後、サンドリオン王は同席していたマザリーニに訊ねた。「ロマリアという国をいちばんよく知っているのは、卿だ。オールド・オスマンが持ち込んだ情報について、忌憚のない意見を聞かせて欲しい」 指名されたマザリーニは軽く咳払いをした後、処刑場へ向かう罪人のような顔で答えた。「まずは、わたしの読みが浅過ぎたことに対する謝罪を。この二十年ほどの間、かの国は混迷を極めておりました。新教徒の台頭による争乱、神官たちの汚職、理想郷を求めて他国から流入する難民と、現地の住民同士の諍い。それらへの対処に手一杯で、他国に余計な手出しをする余裕などないと、たかをくくっていたのです」 枢機卿は立ち上がり、深々を頭を下げた。「その混乱こそが、呼び水であったのかもしれません」「王室に大きな危機が迫ったとき、虚無が目覚める。聖エイジス三十二世が担い手のひとりとして覚醒したのは、ロマリアに滅亡の危機が迫っていたからだと?」 マザリーニは頷いた。「あくまで推測の域を出ませんが。しかし、そう考えれば納得できることも多いのです」「ふむ、具体的には?」「近年、混乱の只中にあったロマリアが沈静化しつつあります。『始祖』の意志を継ぐ虚無の担い手が頂点に立ち、信仰を語れば――ブリミル教の信徒を束ねるべき神官たちは、表向きだけでも世俗に対する欲を抑えねばなりません」「なるほど。担い手たる教皇を否定するということは……これすなわち『始祖』の御言葉をないがしろにするということであり、ブリミル教の根幹、いや、神官としての立場そのものを揺るがしかねない、と」 王の言葉に、宰相は同意した。「さらに、教皇聖下が操るという〝記録〟なる虚無魔法です。どこまで視えるのかは情報が少な過ぎて判断がつきかねますが……競争相手を蹴落とす材料蒐集という点において、絶大な効果が見込めるものと思われます」「神官たちの迂闊な行動を抑止できるという訳だな」「はい。とはいえ、かの魔法は本来切り札とも呼べるもの。存在を公にしているとは考えにくうございます。おそらく、他にも虚無の証明を成す手札があるのではないかと」「そうですね。現時点でおちび……いえ、ルイズも三つの虚無魔法を会得しています。わたくしも卿の考えを支持しますわ。何も無いと断定するよりも、あると仮定して動いたほうがよいかと」 エレオノールはマザリーニの意見を肯定した後、ルイズに向き直った。「そういう訳だから、おちび。祈祷書を開いてみなさい」「え?」「え? じゃないわよ! もしかしたら、あなたも〝記録〟という魔法を身に付けることができるかもしれないでしょう? そうすれば、ロマリアに対抗できるかもしれないわ!」「えええええ!」 と、慌てふためくルイズの後押しをしたのはデルフリンガーだった。「冴えてるな、金髪の嬢ちゃん。確かに、今ならいけるかもしれねぇ」「どういうこと!?」 カチカチと鍔を鳴らしながら、デルフリンガーは説明した。「前にも言ったろ? ブリミルの奴は、担い手が心から必要としている呪文を用意してるんだ。嬢ちゃんはこの国を守りたいし、ロマリアのやり口が気に入らない。だろ?」 コクリと頷くルイズ。「なら、読める可能性は高いぜ? おまけに、絶対にあるってわかってる呪文なんだ。あるかどうかわからねー『扉』よりも、迷いなく探せるはずだ」「う……」 ここ最近、ルイズは夜眠る前に必ず始祖の祈祷書を開いていた。広い王宮の中で一人きりになれる場所と時間がそれしかないからとも言えるが、その度に溜め息をついている。彼女が目指す『扉』の魔法が、未だページ上に現れてくれないからだ。 けれど、デルフリンガーに指摘されたルイズははたと気付いた。確かに、彼女の心の内には「もしも扉の魔法がなかったらどうしよう」という迷いがあった。しかし、この〝記録〟という虚無魔法に関しては違う。 ルイズは、ちらと父の顔を見た。娘の視線を受け止めたサンドリオン王は、右手親指に填めていた王権の指輪を外すと、ルイズに手渡した。「呪文が見つからなくても、焦ることはない。そもそも、この件はおまえの虚無だけに頼るような事柄ではない。今、我々がこうして集まっているのは、皆でより良い知恵を出し合うためでもあるのだよ」「……ありがとう、父さま」 わたしは幸せ者だとルイズは思った。虚無という名の重荷を、家族や仲間たちが共に背負おうとしてくれている。使命感に押し潰されそうになっていた彼女にとって、それは何よりも得難い救いであった。 懐から始祖の祈祷書を取り出して、指に水のルビーを填める。それから、そっとページをめくると……指輪と祈祷書が淡い光を放った。「おお……!」 感嘆の声を上げるマザリーニ。無理もない、聖職者として『始祖』の御言葉を賜る場に立ち会えるなど、これ以上ない幸せである。「あの時と同じだわ。さ、早く読んでみなさい!」 瞳を輝かせながら、妹を急かすエレオノール。〝記録〟という魔法の存在を知った瞬間、彼女はそれをルイズに覚えさせた上で、是非とも実行させたい案を思いついたのだ。「は、はい」 静まりかえった部屋の中で、ぱらりぱらりと本のページをめくる音だけが響く。それが止んだ直後。ルイズの口から鈴を鳴らしたような声が発せられた。「〝記録〟。『空間』と『支柱』の二乗。此、物質に込められし強き記憶と想いを担い手と、担い手に選ばれし者の脳裏に映し出す呪文なり。以下に、発動に必要な魔法語を記す……って、たぶんこれに間違いないと……」 ルイズが最後まで言い終える前に、エレオノールが猛烈な勢いで割り込んできた。「よろしい! なら、次はその魔法を始祖の祈祷書にかけなさい」「は?」「あなた、言ったじゃない! その〝記録〟という魔法は、物質に込められた強い記憶や想いを、担い手や担い手が選んだ者に見せるものだって!」「ええ、い、言いましたが、何か?」 姉の勢いにたじたじとなりながらも、どうにかルイズが訊ねると。「ああもう、どうしてわからないの! つまり! その魔法を使えば『始祖』ブリミルが、実際に祈祷書へ呪文を記す御姿を拝見できる可能性が高い、ってことよ!」 ルイズの目が大きく見開かれた。「と、ととと、ということは……」「そうよ、やっと気付いたのね! うまくいけば、祈祷書に記された呪文を全部知ることができるかもしれないわ! 教皇聖下も、そうやって他の虚無魔法を覚えたんじゃないかしら」 ルイズの顔が、ぱっと輝く。「さすがはエレ姉さま! わたし、そんなこと思いつきもしなかったわ!」「ふふん、アカデミー主席研究員の肩書きは伊達じゃないのよ」 尊敬のまなざしを向けてくる妹に対し、鼻高々のエレオノール。と、そこへマザリーニが割り込んできた。普段は泰然自若としている彼が、そわそわと妙に落ち着かない様子で。「担い手に選ばれし者、ということは……もしも、エレオノール王女殿下の案が実現可能であるならば、わたしにも是非『始祖』のご尊顔を拝謁する栄誉を授けていただきたいのですが」「わし、いや余もだ」「わたくしも」「わたしも、いいかしら?」「できれば、わしも見てみたいのう」「ま、待ってください! そんな、いきなり言われても!!」 参加者のほとんどが、立ち上がってルイズに注目している。才人とデルフリンガーは蚊帳の外、というよりも。単に才人はハルケギニアの住民ほど『始祖』とやらに興味がないから傍観しているだけであり、デルフリンガーのほうはというと、珍しく口を挟まず、静かなままでいる。 それから、彼らは「同行者」の選定に入った。未だ呪文を試していないため、対象として選択できる最大人数やルイズにかかる〝精神力〟の負担がどれほどのものか不明であるからだ。「それじゃあ、最優先はエレ姉さまで、次が学院長先生。その次にマザリーニ枢機卿、父さま、母さま、ちい姉さまの順で決まりですね?」 ルイズの確認に、全員が首を縦に振った。エレオノールも、マザリーニも、これまで見たこともない程に興奮し、目を輝かせている。「サイトとデルフは……」「ああ、俺は別にいいよ。魔法のこととかよくわかんねーし、後で話だけ聞かせてくれれば」「俺っちも同じく」 ふたりの返答に頷くルイズ。「それじゃ、始めるわ」 虚無の調べが隠し部屋の中に反響する。フルキャストで約二分ほどかかる、長い呪文だ。そしてルイズが半ば程まで詠唱を続けていた、その時。突然、彼女の意識は暗転し――。○●「で、なんでかこんな場所にいたと」「え、ええ。呪文を間違えた訳でもないのに、どうしてこんな……」 大樹の根に腰掛けながら、才人とルイズは頭を抱えていた。「せめてデルフが一緒なら、何かわかったかもしれねーのにな」 ルイズが魔法学院の制服姿になっていたのと同じように、何故か才人も愛用の青いパーカーにスラックス、指抜きグローブと運動靴という元のスタイルに変化していた。直前まで、アルビオン王党派貴族の格好をしていたはずなのに、だ。「〝記録〟だっけ? その魔法を解除する方法、わからねえのか?」 ルイズはふるふると首を横に振った。「〝瞬間移動〟とか〝幻影〟は、詠唱を進めていくうちに魔法の詳しい効果とかが頭の中に浮かんでくるんだけど、今回は何かが掴めそうになった途端、こうなっちゃって……」「んじゃ、途中で精神力が足りなくなったとか?」「それはないと思うわ。魔法が発動した直後にくる、独特の脱力感がないもの」「てことは、消耗自体は大したことないんだな」「ええ」「なら、魔法が暴走して知らない場所に飛ばされた、とかもなさそうだな」「そうね。単に空間を跳躍しただけなら、疲れてなきゃおかしいわ。それに……」「どうした?」 途中で口を閉ざしてしまったルイズに、訝しげな視線を向ける才人。「向こうから来るの、何かしら?」 才人は、ルイズが指を差した方向を見た。彼女の言う通り、何者かが近付いてくる。「人間っぽいけど、誰だ?」「もしかして、姉さまたちかしら」「それならいいんだけどな」 頼れる相棒は、背中にない。才人はぎゅっと拳を握り締め、庇うようにルイズの前に出た。 しかし、こちらへ近付いてくる人物に害意はないようだ。というよりも、こちらに気付いてすらいない様子で、のんびりと歩いている。「女のひとみたい、だけど……」「エレオノールさん、ではないよな」 問題の人物が近付いてくるにつれ、輪郭がはっきりしてきた。草色のローブを身に纏い、フードで頭を隠しているため、顔はよく見えない。しかし、ほっそりとして丸みを帯びた身体のラインからして、女性であることは間違いなさそうだ。 そのまま十メイルほど近くまで来た女性は、ふたりに声をかけてきた。「先客がいたのね。わたしも、ここで休ませてもらっていいかしら?」 そう言って、女性はフードの前を軽く上げた。それを見た才人は息が止まりそうになった。何故なら、件の人物がとてつもない美人だったからだ。金色の髪に、宝石のように煌めく翠瞳。切れ長ではあるけれど、垂れ気味な目元のせいで、眠たそうな印象を受けはするが。「ど、どうぞ」「ありがと。ごめんなさいね、お邪魔しちゃったかしら」「い、いえ」 才人の態度に、(何よ! わたしのこと、すす、好きだって言ったくせに、デレデレしちゃって!) と、背後から怨念の籠もった視線を向けていたルイズだったが、女性の優しげな態度に慌てて首を振った。 ルイズの姉・カトレアよりも少し若いくらいだろうか。大人びた雰囲気の中に、愛らしさと茶目っ気を感じさせる風貌だ。 女性は微笑みを浮かべると、ふたりに革袋を手渡した。「水よ。この日差しだもの、喉が渇いたでしょ?」「あ、ありがとう」「いいのよ、わたしの手持ちはまだ余裕があるし」 素直に好意を受け取ったふたりは、ごくごくと中身を飲み干した。水は程よく冷えていて、美味しかった。 ふたりが一息ついたところで、女性は不思議そうな声で言った。「わたしはサーシャ。あなたたちの名前は? どこから来たの? 旅人にしては、荷物を持っていないようだけど」「サ……ソードと言います。旅をしていた訳じゃないんですが……」 本名を名乗りそうになった才人だったが、慌てて暗号名を出した。彼ひとりならばともかく、今はルイズがいるのである。一国の王女が見知らぬ場にいるなんてことが知られたら、何が起きるかわからない。 ……これまでの経験上、彼も多少は用心深くなっているのだ。 そんな才人の様子を見たルイズもすぐに現状を思い出し、彼に倣った。「わたしはコメット。気がついたら、ここにいて……ここがどこなのか、そもそも、どうしてここにいるのかわからないの」「ふうん……」 女性はルイズと才人を観察するように、交互に見つめた。「見かけない格好ね。マギ族にしては上質過ぎるけど、ヴァリヤーグって訳でもなさそう」「マギ?」「ヴァ……なんです?」 ふたりの疑問に答える前に、サーシャと名乗った女性はフードを取った。そこから飛び出したモノを見たルイズは「ひっ」と小さな悲鳴を上げ、才人の背中にしがみついた。「エ、エルフ……!」 ハルケギニア人の天敵。異教の徒。サーシャは邪悪な先住魔法を使うとされるエルフだった。「あら? あなた、エルフを知っているの?」 ルイズは怯えて何も答えられない。代わりに返事をしたのは才人だった。「ええ、まあ。俺は話で聞いたことがあるだけですけど」「そう。珍しいわね」 才人は思い人を背後に庇いながらも、目の前の女性を怖がってはいなかった。いきなり攻撃してきた訳でもないし、親切にも水をわけてくれた。何より、彼女からは敵意が感じられない。 それ以上に、気になることがあるのだ。「エルフを知ってる人間が珍しいって、どういうことですか?」 そう、サーシャの言葉はおかしい。少なくとも、ハルケギニアでエルフを知らない人間などいないだろう。世間と隔絶された場所に住んでいる等の、特別な事情を抱えた者を除けば。 が、目の前のエルフ女性から戻ってきた答えは、あっさりとしたものだった。「さあ?」「さあ、って……」 呆れたような声を出した才人に対し、サーシャは不満げにぷくっと頬を膨らませた。緊張していてしかるべき場面であるはずなのに、才人には彼女が可愛らしく思える。「だって、わたしが出会った蛮人は、みんな揃ってわたしのことを珍しい、エルフなんて種族は知らないって言うんだもの。ほんと、どこの田舎者なのよ! ってね」「蛮人?」「蛮人は蛮人に決まってるでしょ? あなたたちは少し違うみたいだけど」「あの、ここはハルケギニアじゃないんですか?」「ハルケギニア? 何それ?」 その発言に才人だけでなく、背後にいたルイズも仰天した。「ハルケギニアを知らない? 冗談でしょ!?」「知らないものは知らないわ。だいたい、初対面のあなたたちにそんな嘘ついてどうするのよ」 肩をすくめるサーシャ。彼女は本当にハルケギニアという名前を知らないようだ。しかし……。(もしかして、エルフと人間で土地の呼び方が違うだけなんじゃ? 日本だってそうだし) そう考えた才人は、質問を変えてみることにした。事あるごとに語ってきただけあって、その名称は彼の記憶にしっかりと根付いていた。「なら、ここはロバ・アル・カリイエでしょうか?」「さあ? そんなの聞いたことがないわ」「じゃあ、ここはどこなんです!?」「あいつが言うには〝イグジスタンセア〟って場所みたいよ。ついさっきまで、わたしはニダベリールっていう村にいたんだけどね……」 振り返ってルイズを見ると、彼女はぶんぶんと首を横に振った。どうやら知らないらしい。「どうなってんだ……」 どうやらここは、ハルケギニアではない。それは間違いなさそうだ。才人はルイズと共に、遠いのか、近いのかすらわからない異郷の地に放り出されてしまったのである。 ルイズが唱えた魔法が暴走したのか、それとも他に何か原因があるのか。その場で立ち尽くす才人の心を反映したかのように、いつしか空に暗雲が立ち込めていた――。○● ぽつり、ぽつりと降り出した雨を避けるために、三人は木陰に隠れた。 それまで黙り込んでいたルイズが、小声で呟く。「父さまたち、心配しているでしょうね……」「そうだな」 突然、目の前から消えてしまったのだ。家族が動揺するのも無理はない。「大切なお話の途中だったのに……」「そっちかよ!」 思わずツッコミを入れる才人。ルイズの生真面目さは、こんな時でも健在だった。「大切な話ってなあに?」 サーシャの問いかけに、才人は戸惑う。「いや、その」「ああ、話せないなら無理に言わなくてもいいのよ」 やはり、話に聞いたエルフとはずいぶんと違うようだ。少なくとも、隣の根に腰掛けているサーシャという女性は相手を気遣うことのできる、優しいひとだ。そもそも、彼女はハルケギニアのエルフではない可能性もある。 才人は嘘をついたことにはならず、本来交わしていた言葉とは似て異なる内容を話し始めた。「もしかしたら、なんですけど。俺たちの住んでる場所が、戦争に巻き込まれるかもしれなくて。それで、みんなで集まって、いろいろ話をしなきゃいけなくて……なのに、その途中で訳のわからないうちに知らない土地に放り出されて。もう、どうしたらいいのか……」「奇遇ね。わたしも同じよ」 サーシャは、大きな溜め息をついた。「今、わたしたちの部族は敵の軍勢に飲み込まれそうなの。それなのに、あいつってば……」「あいつ?」 才人が問いかけるも、返事はなかった。サーシャは黙り込んだまま顔を真っ赤にして、ぷるぷると身体を震わせている。どうやら「あいつ」とやらに相当な憤りを感じているらしい。 いっぽう、ルイズは才人に抱き付くような体勢のまま、サーシャを見つめていた。(さ、最悪の場合、エルフと敵対しなきゃいけないんだもの。今のうちに調べておかなきゃ) さんざん話に聞いてはいるが、実際にエルフを見るのが始めてだったルイズは、才人から伝わる熱で恐怖を無理矢理抑え込みながら、じっくりとサーシャを観察する。 耳を除いた顔の造形自体は、人間と大差ない。最初に出会った時のように耳を隠していたら、エルフだと気付かないだろう。少なくとも、怖ろしい化け物のようには見えない。 しなやかな肢体はどこか中性的で、年上の女性とは思えない程、すとんとしていた。このサーシャと名乗るエルフに奇妙な親近感を感じつつあるのは、体型のせいではない。たぶん。きっと。 ――それからしばらくして。 降りしきる雨を見つめながら、サーシャがぽつりと呟いた。「わたしね、実は結構人見知りするのよ」「そうなんですか?」 才人は驚いた。これまでの態度を見る限り、そんな風には感じられなかったからだ。「ええ。なのに、あなたたちとは普通に話せるの。おかしいわよね、初めて会ったはずなのに……どうしてかそう思えない。なんでかしら?」「そう言われましても……」 戸惑う才人。そこへ、サーシャの正体が判明して以降、無言を貫いてきたルイズが突然割り込んできた。「実は、わたしもなのよ」「へ?」「その、さっきまでは確かに怖かったんだけど……あなたたちが話しているのを見てたら、どこかでこんなことがあった、そんな気がして……」 そう言われると、何故か才人もそういう気持ちになってきた。(こういうの吊り橋効果って言うんだっけ? いや、違うか? けど、確かに……) 見たこともない場所。会ったことのないはずのエルフに親近感を覚える。エルフに忌避感がない才人はまだしも、ルイズがそう感じるだけの理由があるのではないだろうか。 ルイズと才人が考え込んでいると、突然サーシャが立ち上がった。先程までとは異なり、厳しい顔つきで草原の向こう側を見つめている。細く長い耳が、小さく揺れている。「どうかしましたか?」「しっ、下がって」 言われるままふたりが後方へ下がると、藪の中から灰色の獣がひょいと顔を出した。「狼!」 ルイズは小さく悲鳴を上げた。「狼? 犬みたいだけど」「んもう、暢気なものね! あいつら、わたしたちを獲物にするつもりなのよ」 緊張感のない才人の声に、サーシャは苛立たしげに応える。 実物の狼を見るのが初めてだった彼は、改めて問題の獣を見た。金色に光る細い目が、油断なくこちらの様子を伺っている。警察犬よりもずっと怖ろしい雰囲気を身に纏っていた。 そうこうしているうちに、狼たちは数を増やしてゆく。「体勢を低くして、草の間を抜けてきたみたいね」「なるほど、だから気付けなかったのか」「そういうこと」 狼の群れは、円を描くように三人の周りをぐるぐると取り囲んだ。唸り声ひとつ上げず、徐々に近付いてくる様は、彼らが熟練の狩人であることを伺わせる。「そ、ソード」「わかってる。ちょっと追い払ってくるよ」 そう告げて拳を握り込んだ才人を、サーシャが止めた。「わたしに任せて。武器の扱いには自身があるの。あなたは後ろの子を守ってあげなさい」 サーシャは懐から短剣を取り出した。それから左手で握り締め、狼たちを牽制するように構えて見せた。次の瞬間、ルイズと才人はあまりのことに呆然とした。 短剣を構えたサーシャの左手が光っている。いや、正確には手の甲の一部が輝いているのだ。そこには、見覚えのある文字が刻まれていた。「が、が、ガガガガガガ」「ガンダールヴ!」 見間違えるはずもない。サーシャの左手に刻まれていたのは、彼らにとっても馴染み深い〝ガンダールヴ〟のルーンだったのだから――。