城の庭はペンキを塗ったばかりのように、陽光を受けて光り輝いていた。雲ひとつない空が、光を乱反射している滑らかな湖に映し出されている。若緑色の艶やかな芝生が、優しいそよ風に時折さざ波を立てている。思わず、うたた寝をしたくなる6月。
しかし、私達5年生には、のほほんと寝ている暇なんてない。眼と鼻の先に迫った『OWL試験』が迫っているからだ。
どの先生方も、もう宿題をだすことはなくなった……が、代わりに最も出題されそうな予想問題の練習に時間を費やした。特にスネイプ先生は、私達…スリザリン生に『闇の魔術に対する防衛術』の実技補習をしてくれた。もちろん、アンブリッジの許可を取って…だが。
『いきなり試験本番で呪文を初めて使うということは、さすがに不味い。少しは練習させるべきだ』とスネイプ先生がアンブリッジに言ったところ、納得してくれたみたいだ。…迫る試験の勉強に誰もが打ち込む。だから、精神集中、頭の回転、眠気覚ましに役立つ物の闇取引が大繁盛していた。
例として挙げると……ゴイルとミリセントは、レイブンクローの6年生…エディ・カーマイケルが売り込んだ『バルフィオの脳活性秘薬』に相当惹かれていた。1年前…自分が試験で9科目『O―優』を取れたのは、この秘薬のお蔭だと請け合い、半リットル瓶1本を、たったの12ガリオンで売るというのだ。
…だが、ゴイルとミリセントが購入しようと財布を取り出したところで、たまたま現場を目撃したダフネが『カーマイケルは胡散臭い品を売りつけてくる上級生』だと恋人(テリー)から教えてもらったこと思い出し、交渉を中断させようとした。実際に瓶の中身を見てみると、『ブボチューバー』。触れると皮膚が物凄くかぶれる魔法植物から搾り取った汁の原液だった。……つまり、脳を活性させる薬だというのは、真っ赤な嘘。
怒り狂ったゴイルとミリセントが今にもエディに殴り掛かりそうだったので、私が仲裁しないといけなくなってしまった。私が『監督生』としての特権を使い、瓶をエディから没収し、彼の寮監…フリットウィック先生に報告する、ということで落ち着いた。
…つまり、そんな怪しげな薬に手を出す誘惑に駆られるほど……5年生はせっぱつまっている状況だった。
誰もが夜遅くまで目を真っ赤に充血させて談話室で勉強し、5年生にはピリピリと緊張した空気が漂っていた。それは試験が近づくにつれて酷くなり、試験の日の朝、ピークを迎えた。
口数が少なく、食べなれているはずのオニオンスープの味を感じない。パンジーは小声で呪文の練習をし、目の前の塩入れをピクピク動かしていた。ノットは『基礎呪文集』を読み直しながら食事をしている。ダフネは緊張のあまり、ナイフとフォークを落としてばかりだった。
朝食が終わると、生徒はみんな教室に行ったが、5・7年生は玄関ホールに屯してうろうろしていた。9時半になるとクラスごとに呼ばれ、再び大広間に入る。見慣れた4つの寮のテーブルが片付けられ、代わりに個人用の小さな机がたくさん、奥の教職員テーブルの方を向いて並んでいた。その最奥にはマクゴナガル先生が生徒と向かい合う形で立っている。全員机に着席すると、マクゴナガル先生の「始めてよろしい」の声とともに、皆一斉に試験用紙をひっくり返した。先生は自分の机に置かれた巨大な砂時計をひっくり返す。これが残り時間を示しているのだろう。
(a) 物体を飛ばすために必要な呪文を述べよ。
(b) さらにそのための杖の動きを記述せよ。
私は口元に、ふっと笑みを浮かべた。この呪文は1年生レベルじゃないか。もっと難しいレベルの内容を聞かれると思った。私は少しホッと胸を下ろして羽ペンを解答用紙の上で走らせた。
「やった――!これで解放されたわ!」
手を空高く上げて、大きく万歳をするミリセント。その隣ではぐったりとした様子のパンジーが呆れた顔をしてミリセントを見上げた。
「あのねぇ……まだ試験はあるでしょ?」
「でも、残っているのは『天文学』と『魔法史』だけじゃない!どっちも捨てた科目だし~将来に関係ないし!」
さぁ、寝るぞ!といって寮へ脇目も振らずに走っていくミリセント。眼の下にクマを作ったパンジーも、たしかに……と言いながら、ふらふらと後を追う。
「いいなぁ、2人は。私は、まだ天文学があるから寝れないよ」
目をこすりながら、疲れきった声でつぶやくダフネ。充血した眼の下にはハッキリとクマを作っていた。私は、その肩をポンポンと優しく叩く。
「少しは寝たらどうだ?今日の夜には大事な『天文学』の実技だ。その途中で寝たらおしまいだぞ」
「うん………そうかも。私も少し寝てくるね」
ダフネは大きな欠伸をすると、パンジー達の後を追いかけた。私もそのあとを追おうとしたが、視界の端に、蕪のイヤリングをつけた色素の薄い髪の少女が映ったので足を止めた。…ルーナ・ラグブッドだ。何か書かれた紙を掲示板に張り出している。
「こんにちは」
私が見ているのに気が付いたルーナが、ぼんやりとした挨拶をかけてきた。
「試験はどうですか?」
「あぁ、あと2科目」
試験前はあれだけ長く感じた時間も、いざ試験が始まると、あっという間に過ぎていく。
想像していたより簡単で、圧力(プレッシャー)も三校対抗試合の時に感じたものよりずっと軽い。比較的落ち着いた気持ちで試験に臨んでいた。
「それよりも、そのリストは?」
「あのさ、あたし、持ち物をほとんどなくしちゃったんだ」
のんびりと貼り付けたリストを見ながら言うルーナ。
「みんなが持って行って隠しちゃうんだもン。でも、そろそろ返してほしいんだ。
だから掲示をあちこちにだしたんだ」
私もリストを見る。そこには無くなった本やら洋服やらのリストと、返してくださいというお願いが貼ってあった。私は、つい眉を寄せた。
「どうしてルーナの物が隠されるんだ?」
「あぁ…。うん……みんな、あたしがちょっと変だって思ってるみたい。実際、あたしのことを『変人(ルーニー)・ラグブット』って呼ぶ人もいるもンね」
肩をすくめて答えるルーナ。
「酷い話だな。先生は知っているのか?」
ルーナは頭を横に振る。
「知らないと思うよ。でも、これは私の問題だからいいンだ。いつも最後には返ってくるし」
前向きな笑みを浮かべるルーナ。物を取られたというのに、怒っている雰囲気ではない。濁っていない瞳を私に向けるルーナが、私には不思議に思えた。復讐しよう、とかそういった気持ちにはならないのだろうか?
「そういえば、この間ありがとう」
突然ルーナの口から飛び出した感謝の言葉に、私は戸惑ってしまった。何か最近、感謝されるようなことをしただろうか?しいていうなら、双子の悪戯グッズ開発費用を知らず知らずのうちに出していたことくらいだ。
「何か私がしたか?」
そういうと、ルーナは信じられないという風に頭を振った。
「ほら、セレネでしょ?守護霊で警告してくれたの」
「…あれか」
そういえば、ルーナもDAに参加していた。あの私がとっさに発した警告で、アンブリッジの魔の手から彼女は逃げられたのだろう。
「DAにね、セレネがいなくて寂しかったな」
淡々と話すルーナ。
「なんかね、DAって友達が出来たみたいで楽しかったンだ。セレネもDAいたらいいのにって思った」
少しだけ、ルーナの瞳に何かを…たぶんDAを…懐かしむ色が加わった。私は曖昧な笑みを浮かべて、他の話題を探した。…あまりDAについて考えたくない。だが、私が口を開く前にルーナが口を開いた。
「セレネ、あんたさ、…何か辛いことするの?」
世界が止まった気がした。
ルーナの言うとおりだ。試験が終わった後に、しなければいけないことがある。だが、アレについてはヴォルデモートとの契約内容を知っているドラコすら話していない。なんで情報が漏れたのだろう?いったい、どこで…
私は、無理やり笑みを浮かべてルーナを笑った。
「確かに試験の後は、家に帰らないといけないから、寂しいかもしれないけど……だが、辛いってことはない」
「でも、なんか辛そうな目をしてる」
私は予想外の展開に驚いてしまった。ルーナのことは、空想的でマイペースな後輩だと思っていた。でも、私は彼女がレイブンクロー生だということを忘れていた。レイブンクローに入るということは、賢いということ。目の前にいる少女は…もしかしたら、誰よりも観察眼が優れているのかもしれない。
さて、どう言い訳しようか。
この計画を漏らすことは出来ないし、漏らしたら絶対にルーナはハリーにこの話を告げるに違いない。そしたら、元も子もない。計画が破たんする。それを阻止しないと……
その時、次の時間を知らせるチャイムが鳴り響いた。私は次の予定はないが、ルーナは違ったらしい。チャイムの音を聞くと、本当に少しだけ驚いた顔になった。
「あっ、次の授業が始まる音だ。私、行くね」
ルーナが去っていく。だが、階段を半分ほど登った時に、私の方を振り返った。
「辛い時はね、笑えばいいンだよって、お母さんが言ってた。だから、セレネも笑いなよ」
そういったルーナは、少し微笑を浮かべると、再びいそいそと階段を上り、上の階へと消えて行った。
笑えばいい、か。予想以上に心の底まで、その言葉が響いた気がした。笑ったことならたくさんある。自分の考えを隠す笑顔……相手を安心させる笑顔……つまり、作った笑顔をしたことなら、何度もある。でも……辛い時だからこそ笑顔を作るという考えは今までになかった。
それと同時に、私が心の底から笑ったのは何回あるのだろうか、と思った。最後に『私』が笑ったのは、いつだろう?
頬に冷たい何かが流れていることに気がつくまで……私はずっと、その場所で佇んでいた。