「《かくして、セレネ・ゴーントは18年と言う短い人生にピリオドを打った。
彼女の杖を奪った闇の帝王は、ハリー・ポッターと最後の対決に出る。その先に何が起こったのか、ここで書き記さなくても良いだろう。
帝王はポッターの一撃で死に、ついにサラザール・スリザリンの血筋は絶えた。
その事実には変わりがない。だが、『帝王の目的』にだけは、諸説さまざまある。
帝王が求めた事象は、全てのマグルを根絶やしにすることだと書き記すモノが多い。自分が魔法界の頂点に立とうとした、と記す書物も多い。だが、著者はそれに「否」と唱える。
帝王は、ただ「死にたくない」だけだったのだ。「死」と言う絶対的な運命を回避するため、さまざまな行動を起こした。そう、方法こそ違えど、それはセレネ・ゴーントと同じ願いである。両者ともに「死」を回避すべく行動した。帝王は来るべき「死」を回避のために「分霊箱」を選び、セレネは回避のために「偽る」ことを選んだ。
帝王は生きるために直接人を殺したが、セレネは生きるために間接的に人を殺した。
では、どちらが正しいのか?それとも、どちらも悪いのか?これは、ここまで読み進めてきた読者に任せたいと思う。
ただ1つ――ハッキリとしている事実がある。
それは『歴史は単純な想いによって、乱されていく』ということだ。今回の騒動――魔法史で永遠と語り継がれていくこの騒動の発端は、ただ『死にたくない』という極めて人間らしい魔法使いの単純かつ素朴な願いだった。そのことを、読者諸君の心に留めておいてほしい。帝王は、最初から世間一般に言われるサイコパスだったわけではないのである。
さて、興味深い後日談を紹介した後――筆をおくことにしよう。
「ベラトリックス・レストレンジ」は死に、「アントニオ・ドロホフ」、「ワルデン・マクネア」「ヤックスリー」といった死喰い人は終身刑が言い渡された。一方、「セドリック・ディゴリー」や「セブルス・スネイプ」など功績を認められ社会復帰を果たした『死喰い人』も僅かながら存在する。
しかし、それ以外の選択―――つまり、姿を隠した死喰い人も多い。
まず、死喰い人幹部の「シルバー・ウィルクス」が行方をくらました。最終決戦の混乱の最中、彼を視た者は少ない。数少ない目撃者によれば、あの激闘の最中、同じく行方が分からなくなっている「レストレンジ兄弟」「ソーフィン・ロウル」といった有名な死喰い人を連れて、笑いながら場を脱出したらしい。
彼らの動向について、さまざまな説が入り乱れている。現在、最も有力視されている説では、彼らは南米に潜伏しており、着々と行動を移す準備の最中だという。
しかし、多数の『闇払い』やフリーの魔法使い・魔女が彼らを探しているが、19年経過した今でも足取りは完全につかめていない。
いつの日にか、また運命は大きく動き出すのか?
第二の帝王が現れる。それは、――そう遠くない未来の出来事かもしれない》――っと」
羽ペンを置く。
ようやく書き終えた。
最後の一行を記した時、肩から力が抜ける。達成感とともに訪れたのは言葉にしがたい虚脱。仕事の合間を縫うように書き上げた作品は、これで終わりを迎えた。カーテンの隙間からは、朝日が差し込んでいる。
眩しくて、つい目を細めてしまった。結局、徹夜してしまったらしい。
そのまま寝具に包まろうとし、ハッと我に返る。
「まずい、朝飯作らないと」
やっとの思いで勝ち取った非番は、このまま寝入るためのものではない。
慌てて身支度を整え、扉を開ける。そのまま階段を駆け下りようとする俺の前に、小さな娘が立っていた。
「父様、ずいぶんと遅い朝ですね」
真新しい制服に身を包んだ11歳の愛娘は、少しムッとした顔で立っていた。
「私――怒っていませんから。だけど、せめて朝ご飯の時間には起きてくださいね」
「朝飯――って、もう10時か?」
まずい。
非常に不味い。あと1時間後には、娘を送り出さなければならないのに、まだ何もしていないではないか。
普段から大人びている愛娘の瞳には、明らかに苛立ちが刻まれていた。
「久し振りに帰ってきたと思ったのに、いつまでたっても部屋から出てこないなんて――薄情な父様」
「わ、悪かった、悪かった」
「でも、仕事の方が大切だって知っていますから。なにも怒っていませんよ」
つんっと言い放つ娘。
罪悪感が、胸をしめていく。
母親は不在で、俺自身も癒者という多忙な職業を選択しているせいで、老体の父さんに娘の世話はまかせっきりにしていた。心なしか、娘のペットのフクロウまで俺を睨んでいるように思えてくる。
「本当にごめん、その代り――最後まで見送るから、な?」
水で濡れたような滑らかな髪を触る。
娘はまだふて腐れたままだったが、少しばかり機嫌を持ち直したようだ。
「それでは、出かけますよ父様!スコーピウスたちと、同じコンパートメントに座る約束をしているのです」
「了解」
スコーピウスというのは、ドラコ・マルフォイとアステリアの息子だ。
いや、アステリアと入れ替えられたダフネ・グリーングラス、と言った方が正しいか。
「父様、早く!」
「分かった、分かった」
娘の声に急かされ、俺は白い腕を手に取った。
パチンっという音と共に『姿くらまし』をすれば、既に紅色のホグワーツ特急が停車している。白い煙を吐きだしているので、辺りが見えにくい。
「これに乗ってホグワーツに行けるんですね!!」
どこか興奮した口調で、娘が尋ねてきた。
俺は、トランクを持ち上げながら頷く。徹夜明けで眠くてたまらないが、娘の晴れ舞台におちおちしていられない。ぴょっこぴょっこ跳ねるように、されども凛とした気品を漂わせながら歩く娘の後に続く。
娘は紅色の蒸気機関車を興味深げにしげしげと見つめた、かと思えば人混みの中へ目を向け、次の瞬間には己のペットに囁きかけている。なんとまぁ、忙しいことだろうか。
「誰に似たんだ、いったい?」
独り言をつぶやいた瞬間、パッと娘が振り返る。
娘はこの話題には敏感だ。『自分は確実に両親の血を受け継いでいる』と怒った口調で、軽く30分以上も語り続けるのだ。
つい呟いてしまった独り言を、また聞かれてしまっただろうか――と、つい身構えてしまう。だけど、それは杞憂に終わった。
「父様!あれは、マルフォイおじさまですよね?」
娘には、今の言葉が聞こえなかったらしい。
さきほどまでの不機嫌を思わせない無邪気な顔で、人混みの中を指さしていた。
娘の指先を辿ってみる。そこには、懐かしい旧友の姿があった。
ボタンを喉元まできっちり止めた黒いコートを着たドラコ・マルフォイは、息子の晴れ舞台だというのに気難しい顔をしている。
――まぁ、いつもの光景。
「こんにちは、マルフォイおじさま、おばさま」
「あら、エルザ……久しぶり、少し背が伸びたかしら?」
ダフネが娘――エルザに笑いかける。
エルザが、ふふんっと自慢げに胸を張って
「はい、おばさま。この調子でスコーピウスを抜かすつもりです!」
と、宣言をすれば
「女のお前なんかに、負けてたまるか!」
ドラコそっくりな息子のスコーピウスが、エルザに詰め寄った。
だけど、エルザは気にも留めない。平然と余裕たっぷりの表情で、なにやらスコーピウスに言い返している。それを聞いたスコーピウスは青筋を立て言い返し、あっという間に口喧嘩へと発展してしまった。
ダフネが、困ったように笑いながら二人の仲裁に入る。場には、俺とドラコだけが残された。
「あいつら、誰に似たんだ?」
俺は、疲れたように囁いた。
仲が良いのか悪いのか、2人は仲よく遊んでいたと思うと次の瞬間、口論しているのだ。だけど、止める前に仲直りしている。俺もエルザの母親も、マルフォイ夫婦も口達者ではないのに、どこから遺伝してきたのだろうか?
「さぁな。まぁ、どうせすぐおさまるだろ。
それよりも、知ってるか?今年、ポッターやウィーズリーのとこの子どもも入学するんだと」
ドラコは、吐き捨てるように言い放つ。
視線の先を凝らしてみると、確かにポッターらしき人物が視えた。本当に魔法界の英雄となったポッターとウィーズリー兄妹、そしてグレンジャーは、たくさんの子どもに囲まれている。どことなく面影は各々の少年・少女時代を沸騰させ、まるで昔のアイツらを見ているかのようだった。誰もが幸せそうに笑っている。なんとなく、胸の中に郷愁が広がり始めた。
「なんか、不思議な巡り合わせだな」
ぽつり、と言葉が零れる。
「そうだな」
白煙の向こうに見えるポッター達は、何も変わっていないように思えた。
富も名声も得ているが、嫌味っぽい雰囲気はなく、子どものときみたいに笑っている。
俺もドラコも――名前こそ変わってしまったが、ダフネも本質は変わっていない、と思う。何年経って次第に変わってしまうものもあるが、変わらないものもある。だから、受け継がれていかないものもあれば、受け継がれているモノもあるのは当然だろう。
……俺や彼女の母親からエルザに受け継がれたモノは、何かあるのだろうか?
「父様っ、スコーピウスったら酷いんですよ!」
物思いに耽っていると、ふいにエルザの呼ぶ声が聞こえてきた。
ぷくぅっと顔を膨らませたエルザは、俺のシャツをつかんだまま放さない。心なしか涙ぐんでいるようにも見えた。
「お前の頭だと、ハッフルパフだなんていうのです!私は、父様たちと同じスリザリンですよね?むしろ、スコーピウスの方がハッフルパフです!」
「スコーピウス、お前はそんなことを言ったのか」
ドラコが呆れたようにため息をついた。
スコーピウスはバツが悪そうに、それでも自分は悪くないという風に立っている。
「あのな、2人とも……そもそも『ハッフルパフ=頭が悪い』というわけではないっての。
新設された『魔法裁判所』の最高裁判長……セドリック・ディゴリーは『ハッフルパフ』だ」
まぁ……確かに『落ちこぼれ』が集まっている目立たない寮と言うイメージはあるが、嘘を教えてはいけない。ハッフルパフからも、優秀な人材が出るのだから。
「安心しろ、お前たち」
ドラコも励ますように口を開く。いや、鼓舞する様にというのか。一指し指をピンっと立て、どことなく自信を持った声色で2人に告げる。
「スコーピウスもエルザも優れた血を受け継いでいる。ほぼ間違いなく、スリザリンに入ることが出来るはずだ。それよりも、僕が言いたいのは――」
その指を、ついっとホームの向こう側――ポッターとウィーズリー一家がいる場所へ向けた。そして声を低めて、こう言った。
「あそこにいる赤毛の女の子、ローズ・ウィーズリーに負けるな。試験は全科目でアイツに勝て、いいな?」
「ど、ドラコさん!反目させるのはいけないと思いますよ」
ダフネが慌てて2人の間に立つ。しかし、ドラコは素知らぬ顔だ。
「反目なんてさせるか。ただ、倒さねばならぬ敵を教えただけだ」
「敵って――そんなことないですよ、ねぇ?」
ダフネの縋るような――助けを求める視線が俺に向けられる。
いや、俺に助けを振られても、正直困る。俺は少し悩んだような仕草をした後、まだ涙目なエルザの頭をポンッと叩いた。
「エルザ、お前はホグワーツでどのように過ごしたい?」
「私は――」
エルザは真一文字に口を結ぶと、凛っと背筋を伸ばした。
大人びた瞳に、どことなく心配そうな俺の姿が映っている。送り出す側がこんな心配顔だと、安心して汽車に乗れないな――と内心苦笑いをこぼした。
「余裕をもって優雅に平穏な学校生活を送りたいです!そのためには、試験でも全科目1位になります!」
「よし、その意気だ、エルザ」
「ドラコさん!!まったくもう、あ、あれ?あれはルーピン先生?」
ダフネの声に気がついたのだろう。
すっかり白くなった頭をきょろきょろっと動かし、ぴたりっと俺達の方を向いた。にっこりとした会釈と共に、こちらに手を振る。
「父様、あの人はお知り合いですか?」
「ん?あぁ――『闇の魔術に対する防衛術』の先生だ」
リーマス・ルーピンは、『闇の魔術に対する防衛術』として教鞭をとっている。
人狼としての醜聞もあるが、それでも子供受けはイイらしい。ちょっと見ているだけでも、ホグワーツ在学中だと思われる子どもたちが、我先にと駆け寄っていく。
「あっ、思い出しました。
確かスネイプ校長先生と同期の方でしたよね?」
ポンッとエルザは拳を叩いた。
どうやら、以前――スネイプ校長を招いたときに話した内容を覚えていたらしい。
肝心なことは覚えていないくせに、くだらないことは、よく覚えているモノだ。
「そうだな、校長先生の同期生だ。くれぐれも粗相のないように」
「分かっていますよ、父様」
思えば、あのスネイプ先生が校長だと信じられない。
マクゴナガル先生が何年か勤めた後、副校長に就任したスネイプ先生が校長となってホグワーツを仕切っている。ちなみに、今の副校長が『落ちこぼれ』のネビル・ロングボトムだというのだから、いろいろと驚きだ。人間、どんな道を歩くか分からないものだ。
「誰がどうなるのか、分からないものだ」
ぽろりっと、言葉が零れ落ちてしまう。
それをエルザは聞き逃さない。
「父様、じじ臭いです」
「そうか?――ほら、そろそろ11時だから、さっさと汽車に乗った方がいいぞ」
話題を逸らすために、時計に目をやる。
エルザもスコーピウスも俺の時計を覗き込み、不安げに顔を曇らせた。
「もう行く時間ですね、それでは父様、マルフォイおじさま、おばさま、ごきげんよう」
優雅に一礼すると、そのままスコーピウスの腕を引っ張って汽車に飛び乗った。
紅蓮色の汽車から顔を出したエルザとスコーピウスは、さっそく見つけたコンパートメントから、ひょっこりと顔を出す。ダフネは蒸気で霞んだ人を押しのけ、車窓から顔を出す2人に駆けだしている。俺もドラコも後に続けと、歩き始めた。その時、ふと思い出したように、ドラコが囁いた。
「それで、エルザの母親は?」
ドラコが意地悪い質問をしてくる。
言わなくても答えは分かりきっているはずなのに。俺は、ゆっくりと首を横に振った。
「さあな。連絡がつかない。どうせ、南米辺りをうろついているんだろ?」
エルザと俺は、戸籍上の血のつながりはない。
諸事情により、私生児として生まれたエルザを、俺が養子にしたという建前なのだ。
エルザの母親は、海外で仕事をしているので滅多に帰宅しない。最後に顔を合わせたのは、もう3年も前だ。もちろん時折、グリンゴッツの口座に大量のガリオン金貨が振り込まれていることから、ちゃんと無事に生きていることは分かる。だけど、それだけなのだ。フリーランスの傭兵として、世界各国の戦場を飛び回りつつ――消えた死喰い人の行方を追うのだから、いつ命が絶えてもおかしくはない。送金が途絶えた瞬間、それが母親の死を意味しているなんて、寂しいにも程がある。
それがアイツらしいといえばアイツらしいのだが、娘の旅立ちの日にまで帰ってこないなんて、ちょっと薄情な奴だと思ってしまうのだ。
「はぁ……誰が、南米辺りをうろついているだって?」
秋の空のように澄んだ声が、俺の耳に飛び込んできた。
帽子を深くかぶり顔は見えないのに、凛っとした空気を纏った姿恰好だけで、俺には輝いて見えた。
「お前っ、こんなところに来ていいのか!?仕事は!?」
「気にしている人なんていないさ。それに、ここに立ち寄ったのは仕事のついでだ」
エルザの母親は、ゆっくりと蒸気の中を歩いて行く。母親がエルザに手を挙げる。それをいち早く視止めたエルザの不安げな顔色に、ぱぁぁっと嬉しそうな安堵の色が広がっていく。
エルザそっくりな黒髪からは、のっそりと瞼を閉じた蛇が顔をのぞかした。その蛇を嬉しそうに頬ずりし、エルザは蛇に何かを囁いている。
するりするりと母親の首からエルザの首へ移る蛇に、スコーピウスは気持ち悪げな視線を向ける。
……まぁ、当然の反応だろう。
俺だって、いまだに蛇に慣れることが出来ない。
あのヌメッとしたような肌や、ちろちろっと口から出る赤い舌がどうしても苦手だ。
どうしてエルザもアイツの母親も、あんな爬虫類を愛でる気になるのか分からん。
そんなことを考えていると、エルザの母親はくるりっと汽車に背を向けこちらへ歩いてくる。その首には、いつも通り蛇が………いない。俺は、慌てて彼女に駆け寄った。
「って、本当にあの蛇を渡していいのか?」
「別にかまわないだろ。もともとホグワーツに住んでた奴だし」
「いや、そうかもしれないけどな」
エルザの母親の持つ蛇は、何を隠そうバジリスクだ。
エルザの母親の懐刀として、日夜暗躍していたバジリスクを、まさか娘に渡すなんて正気の沙汰ではない。エルザが悪い遊びを覚えてしまったら――いや、使い道を誤って人を殺してしまってからだと、何もかも遅いのだ。
「エルザは人殺しをしないよ」
黒い髪をたなびかせた彼女は、そう断言する。
「なぜ?」
「さぁな」
明確な根拠がないのに、黒い瞳は、声は、確信をもった色を携えている。
エルザは人殺しなんてするわけない、と。
まぁ、それは育てた俺自身もよく分かっている事実だけどな。
「それで、奴らの足取りはつかめたのか、セレ――」
そこまで言いかけて、慌てて口を閉ざす。
彼女は夜色の瞳を禍禍しい紫色に染め、じろっと俺を睨みあげてきた。
だけど、桜色の唇は全く動かない。きりっと結ばれたまま、文句を口にすることもなく、ただ黙って殺気をにじませた視線を向けられる。
「悪い、うっかりしてた」
そう言ってようやく、彼女は息を吐いた。
視線を汽車に――いや、汽車に乗車する娘へ向ける。その時には、あの紫色は影も形も残っていなかった。
目の前で娘を送る彼女は、19年前に名前を捨てた。
すでに死んだ人間として、扱われている。
ポリジュース薬で彼女に化けたミリセントが、ヴォルデモートに殺されてから―――、どこか変わった。どんなことがあっても人殺しをすることがなかったセレネが、『傭兵』として世界を駆けまわり、その業務の傍ら、逃げた死喰い人の行方を追っているのだ。
一度、何故こんなことをする必要があるのかと、問うてみたことがある。
セレネは、平穏に生きたかったはずだ。
常に、己の平穏のために、死ぬリスクが低い可能性を選んで生きていた。なのに、19年前を皮切りに代わってしまったのは何故なのか。
彼女の返答は、あっさりしたものだった。
『憧れの人に、少しでも近づくため』
それっきり、何も答えない。
黙秘を貫くか、別の話題に変えてしまうか、そのどちらかだ。まさか、そんな理由で仕事を選んだとは思えないし、そもそもその『憧れの人』がどんな人なのか聞いても教えてくれない。
だから、きっと他に理由があると思うのだが―――
「行ったな」
紅い汽車が遠ざかり、蒸気が空へ消えて行った頃――彼女が口を開いた。
そして、そのまま花弁の思わすスカートを翻し、俺に背を向けてしまう。
「お、おい!」
しかし、俺の呼びとめなんか気にも留めない。
そのまま小さな背中は人の波へと紛れてしまう。波にのまれる寸前、俺はやっとの思いで彼女の細腕をつかんだ。
「もう行くのか?」
俺は、『傭兵』が―――『殺し屋』が嫌いだ。
たとえ、聖人として崇め奉られる人であっても、どこまでも極悪非道の悪人であったとしても命は1つ。命と金銭は、決して釣り合うものではない。いや、そもそも天秤にかけていいものではないのだ。
しかし、彼女は躊躇なく仕事を実行に移す。金銭のためであり、自らの腕を磨くためであり、情報を集めるためでもあるが、それでも躊躇うことなく人を殺す。穴をあけたことは、一度もないらしい。この折れてしまいそうな白い細腕は、どれほどの血を浴びているのだろう?
人殺しは、いくら後悔しても謝罪しても、赦されることが出来ない。
そんな後戻りできない領域へ、彼女は足を踏み入れてしまっている。もう、俺の理解の範疇を超えた遠くへ行ってしまったとさえ、思えるのだ。
俺は、彼女のことを理解できない。
やっぱり気持ち悪い女だ、と思ってしまう。それでも――
「なぁ、俺と茶を飲む時間もないくらい忙しいのか?」
彼女を1人にすることは、出来なかった。
理解の範疇を超え、どんどん遠くへ去ってしまう彼女だけど、それでも一人の人間であることに変わりはない。人を殺すたびに、きっとどこか傷ついている。そんな日々を19年も送っているのだ。
ただでさえ転びそうな少女は、傷だらけの身体を引きずって歩いている。
だからこそ、傍にいようと思う。ふらふらな彼女が倒れた時に支えられるように、時間があるときは少しでも傍にいたい。
「……」
彼女は、ゆっくりと振り返る。
遠くを見透かすような黒い瞳には、俺が映し出されていた。俺も黙って彼女の瞳の中を見つめる。
しばらく無表情だった彼女は、疲れた様に息を長く吐いた。肩を下ろすと、俺がつかんだ腕を簡単に振り払う。
「15時」
「えっ?」
「だから、15時までだ」
白い頬が、ほんのりと林檎色に染まっている。
だけど、それをしっかり確認する前に、彼女はパッと俺に背を向けてしまう。
「15時までに空港へ戻ればいい。それまで、久しぶりのロンドンだから観光案内を頼む」
早口にそう呟いたか、と思うと強引に俺の腕を引っ張り歩き出した。観光案内をするのは俺の方なのに、結局のところ彼女が先導している。だけど、不思議と嫌な感じはしない。俺は頬を緩め、小さく呟いた。
「了解」
秋の青空に、最後の蒸気が消えて行く。
この19年間――すべてが平和だったわけではない。
だけど、セレネが俺の手を引くこの瞬間は、確かに平和を噛みしめていた。