「……はぁ…はぁ……」
生垣に寄りかかって、荒い息を整える。第三の課題が始まってから、初めて立ち止まった瞬間だったかもしれない。
…同点1位のハリーやセドリックと一緒に、この迷路の中に入って別れてからずっと、5メートルの高さはある生垣で作られた、果てしなく続く迷路を進んでいた。尋常じゃない数の怪物や魔法のトラップを潜り抜けながら。腕時計を片目で確認する。『第三の課題』が始まってから、まだ10分。その短期間に、タランチュラなんて比ではない、通路をふさぐ程の大蜘蛛に5回は遭遇し、踏み入れた瞬間に目の前で爆発が起こったこと4回。世界が逆転する霧が発生した回数が6回。
その上、全長3メートルほどに成長したハグリットが所有する最凶の生物『尻尾爆発スクリュート』に3回は遭遇している。私の知る限り、生き残っているスクリュートの数は5匹。何度もスクリュートと戦いたくないので、『眼』を使って足を切り落として行動不能にしている。さすがのスクリュートでも足を切り落とされたら動けない。
もし、この『眼』が無かったら、すでに脱落していたかもしれない。
運がいいと思うべきなのか。それとも、不運だと恨むべきなのか。
「キ…キャァァァアア!!」
深閑としている空間を、引き裂くような甲高い叫び声が耳に響く。数秒間、叫び声が迷路中に響き渡ったが、ピタリ……と声が止んだ後は、不気味に思うくらいの静寂があたりを包む。
……確かあの声は、フラーの声だった。唐突に止まった叫び声から察するに、あれは最悪な事態を切り抜けたというより、最悪な事態を避けられなかった…ということだろうか?いずれにしろ、彼女は脱落したに違いない。
空は、すっかり漆黒の闇で覆われている。今日は新月なので気味が悪くなる程の数の星が瞬いていた。大量の星が、いまにも落ちてきそうな錯覚に陥る。そろそろ移動しないと、ここも安全ではない。私は深呼吸をして再び息を整えると、慎重に歩き始めた。杖明かりが波打ち、生垣に映った自分の影が揺れている。
「…また会ったな」
角を曲がったところで、私はため息を漏らしそうになった。
またスクリュートに出会ってしまった。
先程までに出会った3匹と同様デカい。巨大な蠍にそっくりな奴は、鋏でカチカチと音を立てながら、近づいてくる。長い棘を背中の方に丸め込んでいる。杖明かりを向けると、青白い光で分厚い甲殻が怪しげに光った。
「…仕方ない」
使い慣れた刃渡り6寸のナイフの柄を逆手に握り直す。スクリュートの足目掛けて走り出した。スクリュートが巨大な鋏を振り上げてきた。攻撃パターンは先程の奴らと同じだ。鋏が私にぶつかる寸前で、転がるようにして横に避ける。巨大な鋏は、先程まで私の居た地面にめり込んで大穴を開けていた。そのまま地面にめり込んだままの鋏に目掛けて、ナイフを振り下ろした。鋼鉄の強度を誇る鋏でも、この眼の前では無力な紙切れ同然だ。スクリュートの自慢の鋏は、あっという間に粉々になった。
鋏さえ無くなったら此方のものだ。あとは尻尾の爆発だけ注意すればいい。私は地面を思いっきり蹴って走り出した。自慢の鋏を失ったスクリュートは、私目掛けて突進してくる。…尻尾を持ち上げたところから察するに、このまま尻尾を爆発させることを狙っているのかもしれない。
その様子を見た私は、軽く舌打ちをした。
「その尻尾を殺すか」
徐々に赤味を帯びていく尻尾に近づく。スクリュートが威嚇するように低い唸り声を上げた。私は、地面を思いっきり蹴って一気に跳躍する。そして、分厚い甲羅の上に乗ると、目の前に持ち上げられた真っ赤になって爆発する寸前の尻尾を切り落とす。
痛みで叫び声に近い悲鳴を上げながら、よろめくスクリュート。揺れて安定しない分厚い甲殻から降り、私はスクリュートの背後に着地する。今も『眼』に映っている『線』を切れば、スクリュートを殺すことはたやすい。
…だが、私の目的は、スクリュートを殺すことではない。生きて……無事に第三の課題を終了させることだ。もう攻撃手段が残っていないスクリュートに、これ以上かまっていても体力の無駄になるだけ。
痛みで苦しみ…這いずり回るスクリュートを尻目に、私は、その場を走り去った。
そのあとは、不気味なくらい障害物にぶつからなかった。まさか、全ての罠を攻略してしまったとは考えにくい。ガランとした迷路を歩く私の足音だけが響き渡る。まるで、どこかに誘いこまれているような。
一旦立ち止まって、辺りを見渡す。先程と何の変哲もない生垣に囲まれている。…同じところを何回も何回も廻っているのではないかという錯覚に陥った。だが、通過してきたところに残してきた『印』を目にしていない。
私は、左手に持っている杖を生垣に向けた。
「『フラグレート‐焼印』」
呪文を唱えて、杖で空中に『×』を描く。すると生垣に燃えるように赤い『×』が印された。この焼印は、時間がたてば消えてしまうが…最低でも1時間はもつ。迷路に入ってから30分も経っているが、まだ焼印が消える時間ではないはずだ。だから、同じ道を何回も繰り返し通っているという可能性は極めて低い。
『印』をつけたので、その場を去ろうとした時、空に赤い花火が打ち上げられた。火花が空中に漂っている。あの火花は確か、救援を求める時に打ち上げる火花だ。…これで誰か1人が脱落した。先程、悲鳴を上げていたフラーが打ち上げたという可能性もあるが、それにしては間が空きすぎている。プライドの高いハリーが打ち上げるとは思えない。考えられるのは、セドリックかクラム。
火花が打ち上げられた方向は、私の少し前方だ。つまり、代表選手が、目の前に輝いている『賞金』と『名誉』を捨ててもいいから、迷路から抜け出したいという程の脅威が、この先に待ち構えているということ。私は再び歩き始める。先程よりも神経を張りつめながら……慎重に一歩一歩進んでいく。
だが、一向に何も起きない。一体どういうことだ?迷路に入った当初は、角を曲がるたびに怪物や罠に遭遇したのに、先程から怪物の気配も罠が仕掛けられている様子もない。だからといって、同じところを廻っているわけでもなさそうだ。
……不自然なくらいの静寂……
もしかしたら、誰かが故意に障害物を取り除いているのかもしれない。だとしたら、説明がつく。
私の推論だと、今…この迷路の外側を巡回している先生方…マクゴナガル先生、フリットウィック先生、ムーディ先生のうちの誰かが、ポリジュース薬で入れ替わった『死喰い人』。そいつが、こっそり障害物を取り除いているのだとしたら。
いや、でも普通に考えたら、それは不可能だ。その偽教師が、私の進む道の障害物を取り除いているのなら、私が何処を進んでいるかを把握しておかないといけない。生垣を透視でもしない限り、私の場所が分かるはずない。透視しない……限り………?
「……まさか……」
その時、私の中で全てのパズルのピースが埋まった。思わず立ち止まりそうになったが、この様子も『偽教師』に見られているかもしれないので、何食わぬ顔で足を動かし続ける。
たぶん、誰が『死喰い人』なのかは想像がついた。だが、解せない。……なんで、私の行く手の障害物を取り除く必要がある?そのまま迷路内で数々の障害物を効率よく使えば、私を事故に見せかけて殺す、もしくは重症にさせることができるはずだ。事実、最初と同じ頻度で怪物や罠に遭遇していたら、疲労がかなり蓄積され、下手をすれば死に直結するような重症を負ってしまっていたかもしれないのに。
思考を続けながら角を曲がる。すると、杖明りで数歩先しか見ることが出来ないくらい闇に包まれている迷路の前方に、青白い光が燈っているのが見えた。三校対抗試合の優勝杯が150メートル程先で、怪しげに輝いている。それを目指して全速力で走るセドリックとハリーの姿も目に入った。彼らは私の存在には気が付いていないみたいだ。彼らの目は、優勝杯だけを見ている。ハリーの方が先に見つけたらしく、先を走っている。でもセドリックの方が、いい体格をしている。この分で行くと、セドリックがハリーを追い抜き優勝杯に触れるだろう。
その時だった。巨大なシルエットが、全力疾走をする彼らの左手側の生垣の上に構えているのを、目にした。彼らの行く手と交差する道に沿って、急速に動いている。このままでは、ハリーもセドリックもあれに衝突してしまう。
「ハリー!セドリック!左を見ろ!!」
私は叫んだ。セドリックとハリーは、ほぼ同時に左を見る。そして間一髪で身を翻し、衝突を避けた。しかし、慌てたのだろう。足がもつれて2人は転んだ。ハリーの杖もセドリックの杖も、手から離れて飛ぶ。
闇の中でも輝く8つの黒い目と、カミソリのような鋏を持った巨大蜘蛛。先程まで遭遇した蜘蛛達より、1回り大きい。巨大な蜘蛛が行く手の道に現れ、地面に転がっているハリーとセドリックに伸し掛かろうとした。私はナイフを左手に、杖を右手に持ち直すと、まっすぐ杖の先を蜘蛛の最も防御率が低そうな部分、下腹に狙いを定める。
「『ステューピファイ‐麻痺せよ』!」
暗闇を貫く紅い閃光が蜘蛛の下腹に直撃する。ハリーたちに襲い掛かろうとしていた蜘蛛は、ゴロンと横倒しになり、側の生垣を押しつぶした。毛むくじゃらの脚をバタつかせ、必死に起き上がろうともがいていた。だが、身体が痺れているためだろう……なかなか上手く動かせないらしく、一向に元の体勢に戻れないみたいだ。
「セレネ!」
杖を拾ったハリーが近づいてくる。その後ろからセドリックも私の方に近づいてきた。思わず眉間に皺を寄せてしまった。
「さっさとハリーかセドリックが優勝杯を取ったらどうだ?」
「いや、君が取りなよ」
セドリックが言う。彼の背後で優勝杯が輝いている。
「君は僕の命を救ってくれたし、第一の課題の時に前もって教えてくれた。あれがなかったら……第一の課題の時点で、落伍していた」
「僕だって、第二の課題の時……セレネがいなかったら今頃、僕はここにいなかった」
ハリーもセドリックも、どうやら私に優勝杯を取ってほしいみたいだ。セドリックは断固とした表情で、腕組みをしている。一体何を馬鹿なことを考えているのだろう?私は思わず、ため息をついてしまった。
「それはそれ、これはこれだ。私は目立ちたくない。さっさと生きてこの迷路から抜け出したいだけだから、名誉だの金などに興味がない。優勝なんて……」
「なら、3人同時に、ていうのはどうかな?」
ハリーが言った。セドリックが驚きのあまり、目を大きく見開いている。
「3人一緒に取ろうよ。ホグワーツの優勝には変わりない。3人引き分けだ」
「君―――君たちはそれでいいのか?」
セドリックが組んでいた腕をほどいた。彼はハリーをじっと見た。
「ああ、僕たち3人ともここまで辿り着いた。一緒に取ろう。セレネもそう思うよね?」
セドリックから目を離したハリーが、今度は私の方を向く。
ハリーの瞳を覗き込んでいる時に、ふと思ったことがあった。それは、復活に必要な『敵の血』。自分を破滅させたハリーの血を、たぶんヴォルデモートは欲しているということ。この迷路のどこかに、ハリーをヴォルデモート復活の儀式が整っている何処かへ飛ばす術式が用意されている可能性が高いと思っていたのだが、ハリーの様子から察するに、そのようなことは起こらなかったみたいだ。
私の考えすぎだったのだろうか。
「ほら、セレネ!」
黙っているのを勝手に『了承した』と受け取ったのだろう。私の腕を、左手で引っ張るハリー。ハリーの右手は優勝杯の輝く取っ手に伸ばされている。セドリックの右手も、取っ手に伸ばされていた。
「…分かった」
注目度は3分の1。その3人の中で、1番影が薄いのは私だから、1番目立たない。それなら、別に優勝しても構わないかもしれないと思った。私もセドリックも優勝したから、ミリセントの賭けも円満に終わりそうだし。ナイフをローブの内側にしまうと、右手を取っ手に伸ばす。
「じゃあ、3つ数えて。1……2………3!」
3人で同時に、青白く輝く取っ手をつかむ。とたんに、私はヘソの内側のあたりがグイッと見えない力で引っ張られたように感じた。両足が地面を離れる。優勝杯の取っ手から手が外れない。風の唸り、色の渦の中を、優勝杯は私を何処かへと引っ張っていく。
…ハリーやセドリックも一緒に…