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No.33445の一覧
[0] 【完結】蝉だって転生すれば竜になる(ミンミンゼミ→竜・異世界転生最強モノ)[あぶさん](2014/07/11 00:39)
[1] 第二話 竜は真の慈愛を知る[あぶさん](2014/07/11 00:08)
[2] 第三話 孤独な竜はつがいを求める[あぶさん](2014/07/11 00:09)
[3] 第四話 竜はやがて巣立ちを迎える[あぶさん](2014/07/11 00:17)
[4] 第五話 竜の闘争[あぶさん](2014/07/11 00:22)
[5] 第六話 竜と少女の夏休み[あぶさん](2014/07/11 00:29)
[6] 第七話 蝉の声は世界に響く[あぶさん](2014/07/11 00:35)
[7] 幕間[あぶさん](2014/07/11 00:37)
[8] エピローグ 蝉だって転生すれば竜になる[あぶさん](2014/07/11 00:39)
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[33445] 第六話 竜と少女の夏休み
Name: あぶさん◆5d9fd2e7 ID:de479454 前を表示する / 次を表示する
Date: 2014/07/11 00:29




この瞳を、どうして濁してよいものか (壺井栄)




幼さとは可能性と共に在る

純粋、無垢、無邪気

幼き者を表す形容詞には様々なものがあるが、

そのどれもが、憧れと、郷愁と、ほんの僅かな嫉妬を含んでいる気がする。

幼きものを映す我らの瞳は、もう一人の自分の自分の姿を映しているのやもしれぬ。


なればこそ、幼き者を愛せよ。

大人の都合やくだらぬ事情で、その未来を汚してはならぬ。

勝手に灰色に染めてはならぬ。

幼きもの達がぐんぐんと、まっすぐに伸びていくその様を、

我らは柔らかな太陽となり、優しい雨となり、見守って行くべきなのだ。

そうすれば、我らはもっと自分の事を愛せるようになるだろうから。


幼きものは愛らしい。

心の臓をとくんと揺らす温かき感情は、春を迎える喜びにも似ている。

春を愛することが出来る心は、春がいまだ我らが内に残っている事を証明しているのではないだろうか。


ああ、春よ。大きく育て、大きく繁れ。いつか来る夏の為に、未来の為に。


そして、夏を終え、秋を越え、あるいは冬を迎えた我らの心にも、きっと春は宿っているのだ。

幼き者の存在は、我らにそれを教えてくれる。


私は、こちらに背を向けたままの幼きものにそろりと近づいていく。

よほど腹が減っているのだろう、幼きものは私のことなど気にもとめず、一心不乱に食を喰んでいた。


愛おしさのあまり、その者をそっと撫でた。


真っ白い肌はぷっくりと膨れ、僅かに湿ったような。柔らかな感触がある。

私の手のひらほどの大きさしか無い幼き者の素肌を、壊さぬように、傷つけぬように、

二度、三度、項(うなじ)から背中にかけての稜線をなぞってみた。




「モキュッ?」




うむ。やはり愛らしいものだな。幼虫というものは。


これ以上、オオイセカイカナブンの幼体の食事の邪魔をせぬように、私は静かにその場を立ち去った。










「お帰りなさい、同居人さん。…如何でしたか?」


巣へと帰った私を、いつものようにユグドラシルが迎えてくれた。

しかし、いつもと違って幾分声音が堅い。

本来の彼女の声とは、芽吹いたばかりの若葉のように優しく柔らかなものであるであるはずなのだが、今日に限っては、硬い繊維が口に残ってしまうような、確かな緊張が伺えた。


「心配には及ばぬ。やはりあの船には他に誰もいなかったよ。良くないものも何一つなかった」


「よかった…。私本当に、心配してしまったのです」


ユグドラシルの声がいつもの彼女の物へと戻った。心優しき彼女のことだ。島の生き物達のことを酷く心配していたに違いない。


「うむ、安心してくれ。戦いに巻き込まれたり、怪我をした者なども誰もいなかったよ」


「同居人さんが大怪我をしたではありませんか! ‥本当にもう、お体は宜しいのですか?」


「ああ、何度も言っているように、貴方の樹液のお陰なのだよ。ユグドラシル。」


少女との戦いの後、巣へと帰った私を待っていたのは、普段は落ち着いた彼女からは想像もつかないほどに、取り乱してしまっていたユグドラシルだった。
その変化たるや、静かだと思っていた湖面からいきなり幾重もの高波が現れ、ぶつかり合って飛沫をまき散らしているような激情であった。

私が古代兵器に胸を貫かれる所を見ていたユグドラシルは、心配のし過ぎでこのまま枯れてしまうのではないかと錯覚してしまうほどに、私の身を何度も何度も、繰り返し案じ続けた。
優しき彼女にこれほどの悲しみと憂いを与えてしまった自分を、私は恥じた。


「あの少女は?」


「まだ眠っています。時折苦しそうな声をあげますが、生命の炎は少しづつ強くなって来ています。古き神々というのは‥、本当に、残酷なことを…」


件の少女は今、ユグドラシルの虚(うろ)の中で眠っている。


大丈夫だと何度繰り返しても、私の身を痛ましいほどに案じていたユグドラシルは、私がいつものように力強い歌声を聞かせることで、ようやく私の無事を信じてくれた。
しかしユグドラシルはそれで落ち着くことはなく、今度は私が抱えてきた少女に対し、葉を震わせながら、怒りの感情を見せた。

初めて見せたユグドラシルの怒りに私は大いに戸惑ったが、古代兵器の事と、彼女にはなんの罪もないことを語ると、ユグドラシルは少女への怒りを、同じ大きさの慈愛へと変えた。

私は少女を世界樹の虚の中に横たえた後、私も休んだほうが良いというユグドラシルの申し出を、先にやるべきことがあるからと固辞した。


やるべき事とは、少女が現れた船とその周辺の探索である。

あの少女以外に何者かが上陸していないとも限らない。あの船が毒や呪いを撒き散らしていないとも限らない。

もはや不死身に近い私にとっては何の障害にも成りはしないが、この島の他の生き物達にとってはそれは別の話である。

私は少女をユグドラシルに預けると、日が暮れるまで島を探索し続けた。

少女以外に誰かが訪れたような痕跡もなく、あの船の中にも少女が入っていた棺桶のような箱以外には何もなかった。


呪いも毒も、錨も櫂も、食料どころか水すらもなかった。

空っぽの何もない船、それに乗ってやって来た心と未来を奪われた少女。

竜の生贄に擬態していた少女は、本当は人の生贄であったのやもしれぬ。

人という生き物は、時にはどんな生き物よりも残酷になれるものなのだから。




「で、では同居人さん! お、お仕事も終わりましたし…、その…、そろそろお食事になさいませんか?」


ユグドラシルの声が、私の思考を遮った。ユグドラシルの控えめな提案。彼女の樹皮の割れ目からは既に樹液がじっとりと染みだしていた。


「喜んで馳走になろう、ユグドラシルよ。‥しかしその前に、あの少女にも食事を与えてやらねばな」


私は島の探索中に見つけた、枯れたオオウツボカズラの葉を取り出した。
オオウツボカズラの葉は、トックリのような形をしている。
コップや水筒代わりにこの島の亜人達に重宝されている植物である。


-ジョボボボボ-


私はそれに向けエリクシールを生成する。オオウツボカズラは大きい。私のエリクシールを余すところなくしっかりと受け止めてくれた。


「ええっと‥、それがエリクシールですか? 同居人さん?」


「うむ、これがエリクシールだよ。ユグドラシル。」


虚の中に入ると。瞼を閉じたままの少女が、重く、苦しそうな声をあげていた。


-憐れな-


私は魘されている少女の頭を小指のつめ先でそっと持ち上げると、その口元へとエリクシールを運んだ。


「ミーンミンミンミン(訳・さあ、飲みなさい)」


気を失ったままの少女の喉に、精製したばかりののエリクシールを流し込んだが、少女はコフッ、コフッと咽て、口に入った液体を吐き出してしまった。

眉根には皺が集まり、少女の愛らしい顔がクルミのように歪んでしまっていた。



私は彼女の額に指をあて、眠る脳に直接語った。


-安心しなさい。何も心配することはない。さあ、口を開けなさい、そしてしっかりと飲みなさい-

彼女の呼吸に合わせ、私はゆっくりとエリクシールを流し込んでいく。

少女は飲む度に咳き込んで、半分ほどがこぼれ落ちてしまった。

しかし、オオウツボカズラの葉は大きい。十分な量のエリクシールを、彼女の喉へと流しこむ事ができた。

エリクシールが正しく作用しているのだろう、少女の肌にみるみると赤みがさし、内から生命の輝きが湧き上がっていくのが私にもわかった。


未だ魘されてはいたが、その呼吸は徐々に穏やかな物へと変わっていった。


少女が良き夢を見れるようにと、心から願った。







その日は虚(うろ)の寝床が少女の物となった故、私はユグドラシルの幹に身を預けて眠ることにした。


「星がよく見えるな、ユグドラシル」


「ええ、今日は空気がとても澄んでいますもの。いつもは見えない小さな星まで、あんなに輝いて‥」


私達の見上げる空には、一面の星の海が広がっていた。
月のない夜に、星たちは誰にも何も遠慮をする必要がないと、思う存分その存在を主張していた。

私とユグドラシルは特に言葉を交わすこと無く、ただただ星を見ていた。


名も無き流星がつっと落ちた。


「ユグドラシルよ。星座という物を知っているか?」


私はふと思いたち、ユグドラシルに尋ねてみた。


「星座ですか? 私はそういうことは、あまり…。同居人さんはご存知なのですか?」


「ああ、受け継いだ知識の中にな。面白いものだぞ。星が集まって形を作り、それぞれに物語があるのだよ。」


「私には母も父も、先生もいませんでしたから。…その、もしもよろしければ、私にも星座を教えて下さいませんか?」


ユグドラシルは、控えめに私にそう頼んだ。私の返事など決まっている。


「もちろんだとも、ユグドラシル。」


私は星座を一つ一つ指さしながら、それに纏わる物語をユグドラシルに語っていった。

白鳥の翼のような形で空に大きく広がる星の線と、浮気症な神の物語や、
英雄を毒で屠り、天へと登ってしまった孤独で小さな蠍の話に、
その蠍の心臓を、弓を大きく構えて狙いをつける賢き人馬の事など…。


私の語った星座の名を、ユグドラシルは「決して忘れたくないのです」と何度も反芻しながら、それらが持つ物語にひとつひとつ、驚きや共感を示していった。


私が持つ星座の知識は、竜がまだ人と仲が良かった頃、あのエリクシールの精製法を見つけた青年から聞かされたものだった。

無数の星に名前をつけ、物語まで与えてしまうなど、人という種族の夢想の力は計り知れない物がある。


空の姿は数千年前と何一つ変わらない。星々の寿命の中では、数千年という時間も、僅かな瞬き程度の時間なのだろうから。


…いや、一つだけ私の記憶と違う物がそこにあった。


「…ふむ、あれは何だ?」


「あれ、とは?」


「いや、空に私が知らぬ星があったのだよ。夏の大三角形のちょうど真ん中に、小さな赤い星が見えるだろう。あれは何かと思ってな。知っているか? ユグドラシルよ。」



星の名を知らぬと言っていた彼女に、私は何を訪ねているのだろうか。
ユグドラシルは何も答えなかった。








少女が思い出せる最初の記憶は、赤い土と、赤い太陽だった。


血のような赤、という訳ではなかったが、乾ききった、ジリジリと肌を焼くような赤は、血などよりもよほど死の匂いを放っていた。


飢饉。だったのだろう。骨が浮き出るほどに痩せた牧羊犬が、連れ去られる少女を見つめていた。
少女の像をぼんやりと移す、黒くヤニに塗れた目は、それがもうじき死ぬのだと幼い少女に教えた。少女と犬、どちらが死ぬ運命に在るのかは、少女には解らなかったが。


故郷のことは、それ以外には思い出せない。
父と母の顔も覚えてはいない。兄妹もいたような気がするが、それだけだ。

自分が売られたのだと理解するのは、もっとずっと後のこと。

少女が覚えているのは、一面の赤と、死神のような犬の目と、

大きくて、固く、青白い手だった。


青白い手は、少女を引き摺るように歩いていた。

その男の事は解る。これから彼女を連れて行く魔導師の男だ。


男の手に引かれながら、少女は赤い大地を必死に歩いた。少女の短い歩幅では、男の倍程の数は足を動かさねばならなかった。

骨の浮き出た頼りない足がなんどももつれ合い、その度に転んでしまいそうになったが耐え続けた。

少女のことを一瞥もせずに前へと進む男に必死で付いていった。

足を止めてしまえば殺されてしまうような気がした。


太陽の熱と乾いた砂埃に喉をやられながらも、少女は命の限界の早足で歩き続けた。

少女はここ数日、まともな水分も食事もとっていなかった。
もはや汗など出ず、どうやって足を動かしているかも解らなかった。


そんな状態で、大人の足にどうしてついていけるだろうか。ついに少女は躓いた。

転んだ時に、これで自分は死ぬのだと思った。目をぎゅっとつぶった。


しかし少女は転んではいなかった。恐る恐る目を開ければ、少女の体は男の青白い手にぶら下がる形で救われていた。

男はようやく少女の方を振り返ると、黒いローブの下から、低い、冷たい声でこう言った。


「すまんな」


男が少女にあやまったのは、今までに2度しかない。その一度目だ。

男は革の水筒を取り出すと。少女に無言で突き出した。


少女は水筒に飛びついた。生ぬるい、腐りかけの、喉がべたつくような不味い水だったが、少女はまるで老いたラクダのように、喉を鳴らしながら飲んだ。


水筒の水を全て飲み干した時に、取り返しのつかぬことをしてしまったと思った。


ハーデスに攫われたペルセポネーは、冥界に生えるザクロを食べて、その身を死の国に縛り付けてしまったと言うが、その事に気付いた時の女神の表情は、きっと少女と同じ顔をしていたのではないだろうか。

男が父に幾らの金を払ったのかは、少女はあずかり知らぬことであるし、それは少女の問題ではない。

少女は水を飲んでしまった対価に、自分が男の物になったのだと、そう思った。



男は空になった水筒を受け取ると、再び無言で少女の手を引いて歩き出した。


それが少女が思い出せる始まりだった。


竜を殺すための兵器として買われ、育てられた少女の最初の記憶だった。もう、7年も前の話になる。


「…夢?」


目を覚ました時、少女は洞(ほら)の中にいた。
苔で作られた柔らかいベッドの上に、少女は小さな体を横たえていた。

ここがどこなのかも、今がいつなのかも、少女には解らなかった。
確かな重みがある自分という存在が、そこが夢の続きでは無いということだけは教えてくれた。


少女は記憶をたぐり寄せる。自分の思い出せる最後の記憶を。
最後の記憶は何時のものだったろうか。


何度も倒れては、その度に髪を掴んで起こされる。魔導師による執拗で執念深い訓練だったろうか…、いや、これではない。

食の喜びとは程遠い、魔力を増やす事だけが目的の不味い食事だったろうか…、いや、これでもない

眠る時だけが唯一の安らぎで、しかし、朝が来るのに怯えていた薄い布団だったろうか…、いや、これでもない。

朝起きれば、小さな部屋にある小さな小さな祭壇に祈りを捧げ、自分が世界樹を救うのだと言い聞かせて、再び過酷な訓練へと身を投げ出す覚悟を決める日々だったろうか…、いや、これでもない。


そうだ、最後の記憶は灰色の塊だ。

灰色の塊から灰色の無数の血管ような物が飛び出してきて、自分の右腕に喰らいついたのだ。

体に何かが侵入していくおぞましき感触と、自分という個がバラバラに引き裂かれる感覚があった。

五感の全てが何者かに奪われる、その最後の瞬間に。


「すまんな」


と言う男の声が聞こえた。

そこで記憶は途切れている。

男の二度目の謝罪が、少女の最後の記憶だった。


悔しさか、安堵か、あるいは恐怖か。記憶の残照が少女に嗚咽と涙を溢れさせた。


こぼれ落ちる涙を、ぐいと服の裾で拭おうとして


「…尿臭い…。」


少女は“本当の最後の記憶”を思い出した。


最後の自分の記憶は泣いていた。

子供のように泣いている自分を、どこか遠くからみつめているような、そんな記憶だった。
魔導師による、厳しいという言葉では言い尽くせない訓練の日々にも、少女は声を上げて泣くようなことは一度もしなかった。
鉛の玉を飲み込むように、泣き声を飲み込んでいた7年間。


それ以来、少女は初めて声を上げて泣いたのだ。

あの時の子供のような少女の泣き声は、7年前から少女が忘れていた泣き声だった。


思い出した本当の最後の記憶は、生ぬるくてツンとした匂いの、何故か僅かに甘い液体の味だった。

そして少女を勝ち誇ったように見下ろすぶくぶくと太った悪しき竜。

忌まわしき竜が無力な人をあざ笑うかのように、自分へと放った侮辱と嘲りの液体。

喉を腐った蛆が這いまわるような、激しい嫌悪感が少女を襲った。


少女は洞穴の壁面まで向かうと、飲んでしまったソレをどうにか吐き出そうと試みたが、既に体に吸収しつくされていた液体を吐き出すことは叶わなかった。
透明な唾液を、口元から垂らす事しかできなかった。



少女は何度か咳き込んだ後に洞穴の壁面に身を預けた。
足りなくなった空気を補おうと、胸骨を大きくを上下させた。胸骨の下ではドクドクと心臓が鳴っていた。

確かな鼓動の音に、少女はふとあることに気が付いた。


「私、なんでまだ生きてるんだろう…」


少女の疑問には二つの意味があった。一つは竜に敗北し、なぜ生かされているかということ。彼女が聞いていた話では、竜は人肉を何よりも好むはずである。

気を失っていた自分をなぜあの竜は喰らわなかったのだろうか。あんなにもでっぷりと、血を吸った後のダニのように肥えていた筈なのに。


巫女の予言通りなら、竜が生まれてからは20日も経っていないはずだった。
あれほどの体になるまで、一体どれだけの血と肉をその口に流し込んできたというのだろうか。

自分のような小さな生き物など、あっさりと飲み込めた筈だろうに。

全てを喰らうと予言されている悪しき竜が、何故自分を殺さず生かしておいたのか、少女には分からなかった。



「それに私、ヴァルキュリアの槍と融合した筈なのに‥」


古代兵器との融合、それによって自分が死ぬという事は少女も解っていた。
心を無くし、魔力と命を吸い尽くされるだけの燃料となることは理解していた。

理解した上で、ヴァルキュリアの槍から逃げ出そうと思わなかったのは、世界樹への信仰心と、逃げ出した所で他の生き方など思いつかなかった故にだ。


少女は7年間。竜を殺すために、古代兵器の使い手となるためだけだけに、育てられてきた。

それ以外の生き方も、記憶も存在しない。

7年後に兵器として羽ばたく為に積み重ねた昏い時間。その一瞬の後に死ぬべき運命。


少女の生は、7年間地の中で暗闇と共に生きる蝉の生とよく似ているのかもしれなかったが、それよりも遥かに哀しいものだった。


その彼女が何故、今もなお生きているのか、自分という個が蘇っているのか。

少女の呟きに答える者は誰もいなかった。洞(ほら)の中には誰も居ない。



そこは大きな洞の中。聖都の大聖堂よりも遥かに大きな半球状の空間。

そこにいる自分が大きな生き物の中にいるように、少女には感じられた。

しかし不快感などはなく、只々、優しい空気に満ち満ちていた。


“聖なる”という空気は、本当はこういう事を言うのかもしれないと、彼女は思った。

美しいステンドグラスの模様や、精緻な装飾に満ちた華やかな聖都の大聖堂とは、質の全く違う聖の在り方だった。
柔らかく暖かなその空間は、まるで誰かに抱かれているような気持ちになり、少女の目からぽろぽろと涙が零れた。


今度は涙を拭う気にはならなかった。洞に満ちる安心感が、泣いて良いのだと、教えてくれているような気がした。


壁面から伝わる静かな温かみ、そして外から染み入ってくる桃色の朝の光。

大きな出口は、少女の体の何十倍も大きく、眩しかった。少女はなんとなく、そちらへ向かうべきだと思った。

洞窟から出て、広い、光あふれる世界へと向かわなければと、向かって良いのだと、少女は思った。

生きて良いと言われた気がした。殻を破り、新たに生まれ変われと言われた気がした。


今の少女にはその事を知る由もないが、少女の“本当の最後の記憶”は、実は“始まりの記憶”だった。

大きく泣いたあの声は、新たに生まれ変わった少女の産声であった。



少女は左手で壁面をなぞりながら洞窟を出た。

恐る恐る、一歩一歩。赤ん坊が初めて歩み出すように。

新たな世界を知るために、生まれ変わった新たな自分と出会うために。




「ミーンミンミンミン!! ミーンミンミンミン!!(訳・もっと、もっとだユグドラシル!)


「はい‥っ、はいっ…!! ‥ふぅっ‥あっ…、…んんっ!!‥そこっ、…だめっ!」



新たな世界は、少女には幾分難解すぎた。











「同居人さん、同居人さん」


腹が満ち、ゆるりと腰を落ち着けようとした私に、ユグドラシルが呼びかけた。


-どうした?-と尋ねる前に、生まれたばかりの山猫のような、高く、震えた声が投げつけられた。


「な、な、何をしているのですか! 悪しき竜よ!」


声の方を振り向けば、兵器にその身を侵されていたはずの、あの少女が立っていた。


気丈な言葉とは裏腹に、少女の体は小刻みに震えていた。無理もない。竜と相対して、怯えぬものなどいるわけがない。

それでも精一杯の胆力で、こちらを屹(きっ)と睨んでくる姿には、見た目の年齢にそぐわぬ芯の強さが伺えた。

目の光は兵器に取り憑かれていた時の何も映さぬ灰色ではなかった。

人本来が持つ、潤った、生きた目をしていた。


「ミーンミンミンミン?(訳・ふむ、体はもうよいのかね? 人の子よ。)」


「‥えっ? なにっ?? この言葉?」


「ミーンミンミンミン(訳・まさか竜が言語を持たぬなどと、思っていたのかね? だとすればそなたの勉強不足か、人間の不遜な思い上がりというものだよ。)」


少女は自分の耳を触りながら、こちらを得心のいかぬ顔で見つめていた。

人は自分の見たいものしか見ないとは言うが、それは耳も同じことらしい。竜が言葉を操るという事実を、少女は信じようとはしなかった。


「(同居人さん、同居人さん。貴方の鳴き声にびっくりしているのではないでしょうか)」


ユグドラシルが私にこっそりと、葉が擦れ合う程度の囁きで教えてくれた。

なるほど、そういうことかと私は理解した。

竜の言葉は言霊を持つ故に、わざわざ人語を話す必要などないのだが、聞きなれぬ竜の言語と、頭に入ってくる内容の齟齬に少女は戸惑っていたのやもしれなかった。

ここはユグドラシルの言うとおり、人の流儀に合わせてみるか…。


「‥ふむ、ではこれで良いかな? 人の子よ。」


受け継いだ知識の中から人の言葉を選んで話すと、少女はホッと息をついた。
私に対する警戒までは解くことはなかったが。


「さて、まずはそなたの質問に答えようか。何をしていたと問われたならば、食事を摂っていたとしか答えられぬよ。」


少女は“食事”という言葉にビクリと肩を震わせた。少女の青い瞳は、私の大きな牙を捉えると、畏れの色を浮かべた。


「安ずるな。そなたを喰らおうなどとは思っていない。そもそも私は血と肉を好まぬのだよ」


「りゅ、竜が人肉を好まぬなど、見え透いた嘘を! 悪しき竜よ!」


少女を安心させようと語った言葉は、逆に少女に一層の警戒を与えてしまったようだ。体を堅くし、少女は私からジリッと後ずさった。


「嘘ではないのだがな‥。そなたがまだ生きている事が、一番の証だとは思わぬか?」


少女の瞳が揺れた。自分の言葉と起きている現実との齟齬に気付いたのであろう。
少女は何かを言い出そうとして、しかし口を噤んだ。


「さて、人の子よ。こちらからも質問をしてもよいかな? 悪しき竜とはどういうことかね? 私はそなた達人間を害した覚えなどはないし、これからもそんなつもりはないのだが。」


この生においてなんら恥じる生き方をした覚えのない私は、堂々と少女の目を見ながらはっきりと告げた。

少女は怯んでいた。
真のある言葉というのは時にどんな武器よりも鋭くなる。少女の狼狽が私には手に取る用にわかった。

少女は何かに祈るように、頭と心臓と臍の三点を三本の指で結んだ。

ふむ…、あれは確か世界樹に加護を求めるまじないであったか。

300年前の人と先代の竜との大戦では、人族は皆そのように祈りながら海の藻屑と消えていったことが、受け継いだ記憶に残っていた。


「貴方の言葉には惑わされません! 竜は悪しき者だと決まっています! 先代の竜も、生贄を、毎年七人も! それに刻詠みの巫女様が…」


「人間さん、今代の竜はとても優しいお方ですよ。悪しき竜だなんてとんでもない」


私の言葉を決して聞き入れようとはしない少女に、どうすればよいものかと手を焼いていると、ユグドラシルが少女の言葉を斬る形で、助太刀をしてくれた。
助かったぞユグドラシルよ。‥しかし優しい等と、照れるではないか。


「えっ‥? さっきの声の人? 頭に響いてくる‥、何処から…?」


少女は辺りを見渡しながら声の主を探していた。その様は、まるでユグドラシルと初めて出会った時の私そのものだった。


「ここですよ、小さな人間さん。」


少女はなおも首を左右後ろへと振っていた。

うむうむ。ここだと言われても、最初はわからぬものだ。一向に気付く様子の無い少女に、ここは一つ“先輩”として教えてやってもよいだろう。


「人の子よ、そなたの左手が今触れているであろう? この世界で最も美しく、気高き存在にな。人や竜とて言葉を操るのだ、我らよりも遥かに偉大な彼女が、言葉を解さぬ道理などないだろう?」


「もう、大げさですよ同居人さん。そんなに褒められても、私は樹液しか出せませんから」


「何を言う。その樹液こそが私にとっては、何よりの宝なのだよ」


我らのやりとりを伺っていた少女は、ようやくその声の主が何者であるかに気付いたようだ。-まさか-と言って、自分が触れているものに、自分に声をかけたものを見上げた。



「初めまして、小さな人間さん。私はユグドラシルです」










「ハーピーよ、そこいるか?」


ゲルの中から、何かがガラガラと転がる音と、水が零れる音が聞こえてきた。

暫くして二つの布が合わさる入口から、ハーピーが亀のように頭だけをだした。彼女は私の姿を認めるとぱっと笑顔になった。青い髪からはぽたぽたと水が滴り落ちていた。


‥ふむ、また湯浴みの最中であったか。私はどうにも間が悪い。


テントから覗く頭に指を差し出すと、ハーピーはぐっと頭を私の方へと伸ばしてきた。
丸いゲルから首だけを懸命に伸ばすその姿は、やはり亀によく似ていて、愛らしかった。


-おはようございます。竜さん! 遊びに来てくれたのですか?-


-いや、今日は少々頼みがあってな。この少女に服を貸してやって欲しいのだ。-


-誰にですか…? うぇっ!? に、人間!?-


私の影から出てきた少女に、ハーピーは酷く驚いていた。

無理もない、この地に訪れる人間といえば、無謀で野蛮な冒険者か、先代の竜の生贄のみなのだから。


-案ずるな。そなたに危害は加えぬようにしっかりと見張っておく。できれば湯浴みもしたいそうなのだが、頼めるか?-


-あ、は、はいっ! もちろんです! …で、でも見張っちゃ駄目です! 竜さんは外で待っていて下さい!-


言われて私ははたりと気づいた。見張ってしまっては婦女子の着替えを覗くような不埒な出歯亀になってしまうな、と。

私は少女の方に向き直ると、ハーピーの家に入るようにと促した。


「服を貸してくれるそうだ。決してハーピーに危害を加えてはならぬぞ。ニュージュよ。」


ニュージュは黙ったまま、おずおずとハーピーの前まで進み出た。

ハーピーもびくびくとニュージュを見ていた。小柄な2人は、並んでみるとちょうど同じぐらいの背丈であった。



私を襲ったヒトの少女の名はニュージュと言った。









「せ、世界樹様であられますか! わ、私は貴方の忠実なる下僕、ニュージュと申します!」


ニュージュはそう言って地に両膝をつき、祈りの形で両手を前に突き出しながら、額を地面に擦り付けた。
必然的に丸まった背中は、私にはまるでダンゴムシのように見えた。

先程私に見せた世界樹の加護を求める祈りといい、彼女は世界樹教の熱心な信徒なのだろう。


世界樹教とはこの世界に置いてもっとも力のある宗教である。


一神教の宗教形態が他国を支配する大義名分に調度良かったのだろう。1000年以上前の事、帝国は世界樹教を国教とし、その他の宗教を布教という形で弾圧した。そして瞬く間に人の住む大陸の西半分を支配に置いたと。私に残された知識が語ってくれた。

自分への信仰が、戦争の道具として使われているなどとは、優しいユグドラシルには決して教えられぬことではあるが。


ともかく、世界樹教は信者を集めた。

ミクロ的な視点で見れば、清らかで正しい心をもった世界樹教の信者も沢山いるのだから、決して悪いものではないのだろう。
宗教と国を動かすのは極一部の権利階級ではあるが、その宗教を信じるのは、慎ましく誠実に生きている民草なのだから。


しかし、少女のソレは“狂信”とでも言うべきだろうか。


大地に額をぐりぐりと擦りつけながら心を示すその姿には、私は感動よりも痛ましさを覚えた。


「顔を上げて下さい、ニュージュさん。私は只の樹(き)。誰よりも長く生きてきただけが取り柄の、無力な樹なのですから」


「そんな…ッ。無力だなどと‥、全能なる聖樹様! ああっ! 私の如き小さな存在にお声を与えてくださるなどと、勿体無うございます!」


ニュージュの言葉は私にはどこか滑稽に思えた。彼女は世界樹が自分に語りかけているという事実に、哀れなほどに歓喜していた。

これがまだ幼い少女が捧げる信仰の形なのだろうか?

ニュージュはまるで地面を掘りだしてしまいそうなほどに、更に深く頭を地に擦り付けようとしていた。

ユグドラシルから戸惑いの感情が私に伝わってきた。


「ニュージュさん。私を信じてくださっているのなら、私の言葉も信じていただけないでしょうか? 今代の竜は私が知る誰よりも優しくて、強い心を持ったお方なのですよ」


「ユグドラシルよ、それはあまりにも物言いが大げさ過ぎるという物だ」


「いいえ、大袈裟な事など何もございません。私は心に思ったことをそのまま述べているだけですもの」


「ならばそれは勘違いというものだ。貴方こそが誰よりも優しく、強い心を持っているのだから」


「あら? だったらそれこそ同居人さんの勘違いですわ」


クスクスと笑い合う私とユグドラシルを、気がつけばニュージュが愕然と見つめていた。

大切なモノを取り上げられた子供ような…、いや、母に捨てられた子供のような。そんな目だった。


大きく開かれた青い瞳から涙が一粒零れた。
開けっ放しであった口が、その形のまま、空気を大きく吸い込んだ。



「わ、私は!! 世界樹様の為にいままで生きてきたのです!!!」


そして突然、少女が声を荒らげた。


「悪しき竜を倒して! 世界樹様を救えと! その為に! その為だけに生きてきたのです!!」


それは未だ幼い少女の口から紡がれるには、苛烈な言葉だった。


「死んでも竜を倒せと! 悪しき竜を倒せと! その為だけにこれまで生きてきたのです!」


これが未だ幼き少女の在り方なのかと思うと、胸が痛んだ。
歳の頃は11か12か、今までどのような生き方をしてきたと言うのだろう。


「竜を倒せと! 世界樹様を救えと! そう…、言われて来たのです…」


洗脳。という言葉が近いか。
幾つの頃からそう言われてきたのかは解らぬが、子供の柔らかくて幼い脳は、洗い流して、別の色に染め上げるのは簡単なことだったろう。

何故、私を倒すことがユグドラシルを救うことになるのかは解らなかったが、少女にとってはそれが唯一の真実となったに違いない。


「竜は悪い生き物なのです…。狡猾で、強大で、残忍で、ヴァルキューレの槍でしか滅ぼせないと…、だから、私は‥」


だから、古代兵器にその身を差し出したか…。

私は少女が無理やり古代兵器と融合させられた物だと考えていたが、実際はもっと残酷な話であったようだ。
幼い子どもに、自ら命を捨てさせる決断をさせるなどと、これ以上に酷(むご)い話があるものか。


「それなのに…、それなのに…。何故世界樹様はそのような事をおっしゃられるのですか?」


少女は泣いていた。

過酷な生の中で、ユグドラシルへの信仰だけが少女を支えて続けてきたことは、私にも容易に想像ができた。

家出する母親に縋りつくように少女は泣いていた。


少女の狂気のような信仰を目の当たりにして、ユグドラシルを纏う空気と大地が、悲しみの感情に染められた。
暫くの無言の後、ユグドラシルは優しい声で少女に話しかけた。


「ニュージュさん…。あなたにお願いがあります」


“お願い”という言葉に、少女は目を剥いて頷いた。「はいっ! はいっ!!」と。
飢えた犬が必死で尻尾をふるように、次の言葉を待った。


「同居人さんと…、今代の竜と、今日一日一緒に過ごしてはもらえませんか? 一日共に過ごせば、きっと貴方も同居人さんが悪い竜ではないと解ってくれると思うのです」


少女の瞳が、再び愕然となった。
絶望を宿した眼差しで私を見た後に、もう一度縋りつくようにユグドラシルに視線を向けた。


「私のお願い…、聞いてもらえませんか?」


敬虔なニュージュには頷く以外の選択肢はないだろう。


頷いた時に、涙の雫が地を濡らすのが見えた。
頷きは俯きに代わり、少女は顔を上げる事はしなかった。


「(同居人さん、勝手に話を進めて申し訳ありません。できれば‥、この少女のことを…)」


ユグドラシルが私に囁きかけた。


「(ああ、任されよう。ユグドラシルよ)」


ユグドラシルの言わんとする事は理解できる。
私もこの哀れな少女のことを放っておく事などできはしない。


どうにか、この少女の涙を止めることはできぬか。
どうか、この少女に笑ってもらえぬか。


「ニュージュよ。空を飛ぶ魔法は使えるか?」


ニュージュは俯いた頭を更に下へと落とすことで肯定を示した。


「私は特に急ぐ用事はないのでな。どこか行ってみたい場所はあるか?」


私の言葉に一度は首を横に振りかけた少女ではあるが。その後、


「水場に行きたい。体と服を洗いたいから」


と、震えた低い声で答えた。


「ふむ…、それは構わんが‥」


考える。少女は着替えなど持ってはいない筈だ。
今は夏ではあるが河の水は冷たい。そもそも、洗った後の服はどうするつもりだろうか?


うつむく小さな少女を見て、そういえば我が友のハーピーもこのくらいの大きさであったな。と、思い出した。


「そうだな、私の友人に服を借りると良いか」


「友人‥?」


そこで少女は初めて顔を上げた。眉根を寄せて、訝しげに私を見た。


「竜に友人がいてはおかしいかね? 人の子よ、そなたにも友人位いるだろう?」


私の問には、少女は答えなかった。


…なるほど、やはり少女はこれまで余程苛烈な生き方をしてきたようだ。
さもなくば、この歳で古代兵器の使い手には選ばれぬか…。

ユグドラシルへの痛ましい程の狂信ぶりも、他に支えてくれる者がいなかった故の必然であったのかもしれぬ。


「では案内しよう。付いて来るがよい」


こうして私は少女を連れて、ハーピーの元へとやって来たのだ。



少女がハーピーのゲルの中へと消えてから既に二時間近くが経過していた。

私はゲルに背を向けながらも、ずっと聞き耳を立てていた。

時折物音と、稀にニュージュの声が聞こえる以外は、争う様子もなく、緩やかに時間はすぎていった。


そしてバサリと、ゲルの入口が翻る音が聞こえた。振り返ればハーピーとニュージュが並んで立っていた。


「ふむ…、よく似合っているではないか」


ニュージュの着る服はハーピーの種族に伝わる民族模様に彩られていたが、戦闘服などよりもこちらのほうがずっと少女らしかった。

ハーピーと人間。種族は違うが、同じぐらいの背丈でよく似た服を着る2人はまるで姉妹のようにも見えた。


-手間をかけさせたな、ハーピーよ。何も問題はなかったか?-

-うん、竜さん! 服の大きさはニュージュちゃんにピッタリだったよ!-


私の尋ねた“問題”とは、そういう意味ではなかったのだが、ハーピーの笑顔を見ればそれをわざわざ尋ね直す必要もないだろうなと、そう思った。

ニュージュの方は、きょろきょろと落ち着かなさげに目線を彷徨わせていたが、ハーピーとの距離は近かった。
ハーピーに対して、悪い感情を持ってはいないことが推測できた。


「では、お礼に今日も空へと行こうか、ハーピーよ」


二度目ともなれば勝手もわかる。ハーピーは翼をはためかせ飛び上がると、私の首にしっかりとしがみついてきた。


「さて、私と彼女はしばし空の散歩に行こうと思うのだが、共にゆかぬか? ニュージュよ」


ニュージュは私とハーピーの間で何度か視線を彷徨わせた後に、首を横に振った。


「…そうか、では暫くそこで待っていてくれぬか?」


無理強いするものでもないだろう。彼女にとって私はきっと未だ「悪しき竜」なのだろうから。

翼を広げ、空へと飛び立とうとした時に、私の首からふっと重さが消えた。


「あっ…」


少女の前に、白い翼が舞い降りた。ハーピーはそろりと手を伸ばした後、口をパクパクと開いた。

声にはならない筈の言葉が、私にも確かに聞こえたような気がした。


-行こう-


ニュージュもそろりと手を伸ばした。掠る程度に指先同士が触れ合った後、2人はしっかりとその手を握り合った。

ゲルの中での二時間、会話も成り立たぬ2人がどのように過ごしたのかは私にはわからなかったが。…なるほど、確かに「何も問題はなかった」ようだ。


「では行こうか、三人で」



私は首に二人分の重みを感じながら空に舞った。私の首にしがみつくハーピーと、そのハーピーにしがみつく人の子と。


ニュージュよ、知っているか?


そなたが今手にしているもの。その両手で確りと握り締めている者の名前を、


人はそれを、友達と呼ぶのだよ。




・・・・・・・・・・・


・・・・・・・・・・・


・・・・・・・・・・・




ハーピーと別れた後、私は狩りへと向かうことにした。

「これから狩りに行く」と言った私を、ニュージュは「血と肉は好まないのではなかったのですか?」と睨んできた。


「ああ、私は食べはせんよ。強き母と、その子供の為にだ」


そう言った私を、ニュージュは訝しげに睨みつづけていた。


「まあ、付いて来れば解るさ」


そう言って私は空へと昇った。空からは獲物の姿がよく見える。前回ラミアの為に狩った巨牛の姿も目に止まったが、同じものばかりでは芸もない。
私は目を凝らしながら地上を眺めた。竜の卓越した視力は、雑草の種類や木々の葉っぱまで見分けられる。

小さな野池の水面に、不釣り合いな程の大物の魚影が写った。


…ふむ、確かラミアという種族は魚も好んで食べるという話であったか。

私は空高くから狙いを定めると、池の中へと飛び込んだ。

大きな魚影の正体は、人間の大人よりも大きな特大のオオナマズであった。
獲物としては十分であろう。私はオオナマズを肩に担ぐと身重なラミアの住む岩場へと向かった。

ニュージュは、自分の数倍はある巨大なナマズに目を丸くしていたが、私が名を呼ぶと、慌ててついてきた。


「壮健か? ラミアよ」


「竜のお方! 貴方様のお陰で何一つ不自由なく過ごしておりました」


ラミアの言葉は、彼女の姿が証明していた。

前回彼女に与えた巨牛は彼女の体に確りと肉をつけていた。彼女の腹も前回会った時よりも、更に大きくなっていた。

竜の縄張りの中にいることで外敵に怯える必要も無かったのだろう。
彼女の釣り目がちだった目尻は穏やかに下がっており、一週間前に会った時よりも、随分柔らかい印象を受けた。
紫色の長い髪は美しく梳かれてあり、彼女の本来の艶と輝きを取り戻していているように思えた。


「竜のお方…、そちらの人間は‥?」


ラミアは私の隣にいたニュージュに気づくと油断なく構えた。
魔法にも長けているラミアの事だ。少女の内からあふれる魔力を感じ取ったのだろう。


「ラミアよ、案ずるな。彼女は悪い人間ではない。貴方にも、貴方の子にも、害を加えるようなマネはせんよ」


「そうですか、貴方様がそう仰られるのであれば安心でございます」


そう言うと、ラミアは警戒を緩めた。私への義理立てか、それとも本心からそう思っているのかは、私には解らなかったが。
とりあえず、ここに来た目的を果たしておこうか。


「さてラミアよ。ナマズは好きか?」


私は背中に背負ったオオナマズをラミアへと差し出すと、彼女は恥ずかしげに俯きながら、「はい」と答えた。

喜んでくれたようで私も嬉しい。
用事も終わった事だし「では、また来る」と立ち去ろうとしたが、ラミアに呼び止められた。
今からナマズを焼くから、昼食を共にしないかと言うのだ。


樹液によって潤っている私はナマズ等には興味はない。丁重にラミアの申し出を断ろうとしたが、そこでふと思い立った。


「私は良いから、この少女に馳走してやってくれぬか?」




・・・・・・・・


・・・・・・・・





「はいどうぞ、人間さん」


ラミアはそう言って、串にさした大きな一切れをニュージュへと差し出した。岩塩と胡椒の実と香草で味付けされたそれを、少女はおずおずと受け取った。


ラミアの料理は見事であった。黒曜石のナイフで手際よくナマズを三枚に下ろすと串に次々と刺していった。ナマズは寄生虫がつくことが在るらしく、生で食べるのは良くないらしい。
ラミアは魔法でさっと火をおこすと。串に刺したナマズの肉を円形に並べていぶすように焼き上げていった。

ポトポトと脂が落ち、その度に火が激しく燃え上がるが、それも計算の内なのだろう。
カラリと焼けた表面が火で炙られる度に香ばしい匂いを放つと、私の鼻をくすぐった。


ラミアの料理がコレほどのものとは思わなかった。いつか私も、馳走になりたいものだと素直に思った。

今は樹液のみで生きている私ではあるが、いつまでも赤子のようにソレばかりを飲んでいるわけにもいかぬだろう。
今はもう少しユグドラシルの樹液に甘えて置きたい所だが、少しづつ乳離れをせねばならぬとは私とて思っていることだ。


ナマズの串焼きを受け取った少女は、串の両端を手で持つ形で、最初は小さな小さな一口を、その後は夢中でナマズを食べ続けた。
余程腹が空いていたのか? と思ったが、どうやらそういうわけでは無いらしい。


少女の瞳からはポロポロと涙が溢れ落ちていた。

あっという間に串を丸裸にしてしまった少女に、ラミアは無言で、串焼きをもう一本手渡した。
無言ではあったが、母だけが持つ事ができる優しい目をしていた。


「美味しいか? ニュージュよ」


私の質問に、ニュージュはぶんぶんと首を上下に振って、


「おいしい…、おいしいよぉ…」


と泣いた。

その様は、まるでこれが美味しいという言葉の意味なのだと、初めて理解しているようにも見えた。

彼女が今までどんな食事を摂ってきたのかは私にはわからぬが、食の喜びとは縁遠いシロモノばかり食べて来たのであろうことは、容易に想像ができた。

ニュージュが二本目の串を食べ終わった頃を見計らい、私はラミアに尋ねた。


「ラミアよ、腹の子は元気か?」


「はい、おかげさまですくすくと育っております。あと一週間もすれば産まれるのではないかと」


「ほう! ほう! それは素晴らしい! 赤子が楽しみであるな!」


ラミアは卵を産んだ後、それを膣の中で育てる卵胎生の生き物である。
生まれてくる子供は親と同じ姿で生まれてくる。彼女の子供であれば、きっとかわいい子供が産まれるであろう。


「…赤ちゃん?」


ニュージュは私とラミアを見比べながらそう言った。…ふむ、どうやら勘違いをしてしまっているようだ。私が否定しようとすると、その前にラミアが口を開いた。


「残念ながら、竜のお方の子供ではありません。もしそうであったならばもっと幸せになれたでしょうにと、そう思ったことは何度かありますが」


ラミアはそう言いながら私に微笑みかけた。妖しい唇の端を僅かに持ち上げながら。
ラミアの冗談は、私には少し過激すぎた。


「赤ちゃん、ここにいるの?」


ニュージュの目はラミアの腹に釘付けになっていた。ラミアの大きく膨らんだ腹に。


「触ってみますか? 人間さん?」


「えっ? …い‥、いいの?」


ラミアは微笑みながら頷いた。子供とは言え人間の子に腹を触らせるなど、ラミアは既にニュージュのことを確りと信頼しているようだ。


ニュージュは恐る恐ると、脆いガラスでも触るかのように、ラミアの腹をなでた。
球状に膨れたラミアの腹は、安い言葉ではあるが生命の神秘を感じさせた。


「あっ、今ドンって」


「ふふふっ、最近よく蹴るのですよ。以前はその元気も無かったのですけどね。優しい方のお陰なのです。…竜のお方も、よろしければ是非触ってくださいまし」


私はニュージュの手の平の反対側から、人差し指の指先だけでラミアの腹に触れた。
-トンッ-という、軽い振動が私の指にも伝わった。


なるほど、確かに元気な子だ。


「あっ‥、また、ドンって」


少女を見下ろすラミアの瞳は、まるでもう一人の娘を慈しんでいるような、母の瞳だった。



・・・・・・・・・・


・・・・・・・・・・



「ねえ、友達、多いの?」


ラミアの所を辞した私に、ニュージュがそう切り出してきた。彼女の方から何かを尋ねてきたことに私は内心驚いたが、それを表に出すことはしなかった。


「うむ。友には恵まれているという自覚はあるな」


「そう‥、なんだ」


ニュージュはそれきり黙ってしまった。
会話とは、存外難しいものかもしれなかった。


さて‥、次は何をしようか‥、トーテムポールの制作の続きを行っても良いのだが、もう少しこの少女に何かしらの経験をしてもらいたいとも思った。


そう思ってふと気が付いた。私はどうやらこの少女のことを気に入っているらしい。
私がこの島で出会った人や出来事、色々なことを彼女にも知ってもらいたいと思うほどには。

私が悩んでいたちょうどその時、空の彼方からよく聞き知った鳴き声が聞こえてきた。


「くっくっく‥、次の用事が決まったな」


「次の用事‥?」


「ああ、強敵(とも)からの誘いだよ」


強敵(とも)という言葉に、ニュージュは首をかしげていたが、私の心臓は既に踊り始めていた。


「付いて来い! ニュージュよ!」


私は遙かなる友の呼び声に向かって、大きく羽ばたいた。




・・・・・・・・


・・・・・・・・



そこは荒野だった。


広い荒野の真ん中に、巨体の私と同じぐらい大きさの、ライバルが待っていた。


「ゲコゲコッ?」


「怖気づいたかと思っただと? バカを言うな。連れがいたのでゆっくりと飛ばねばならなかっただけさ」


「ゲコッ?」


「ああ、彼女とは昨日知り合ってな。審判には調度良いとは思わぬか?」


「ゲーコゲコゲコ」


「くっくっく、判定のいらぬ決定的な負けを教えてやるだと? 見縊るなよ、例え肥え過ぎで咆哮の力が失われても、私のメロディーと音感は健在だぞ?」


「ゲーコゲコゲコゲコ」


「ああ、真剣勝負はこちらとて望むところよ! では行くぞゲーコよ! ニュージュ! 判定は頼んだぞ!」


-ミーンミンミンミン ミーンミンミンミン-


最初は、軽いジャブのような前奏曲、小手調べであるが、しかし手抜きではない。軽快で歯切れのよい音とメロディーを、私はゲーコにぶつけた。

さあどうだ? 今度はお前の鳴き声を聞かせてみろ?


しかし、ゲーコは鳴かなかった。
それどころか大きく息を吸い込むと、口を確りと閉じ、ぷくーっと喉を河豚のように膨らませた。


-ゲーコめ、何を考えている?-


私は疑問に思いながらも、歌を続けた。


口を閉じているはずのゲーコから、異常なプレッシャーを感じた。

歌を、止めてはならぬ。

あの体制からゲーコが何をする気なのか、私には想像はできなかったが、油断をすれ、一気にやられる。そんなジリジリとした焦りと予感があった。


-ミーンミンミンミン ミーンミンミンミン-


もはや私に余裕などは無い。来るべきゲーコの攻撃にそなえて全力で歌った。
ゲーコはそんな私を見てニヤリと笑った後に、両手を膨らませた喉に押し当てた。


-真逆!?-


ここに来て私は、ようやくゲーコが何をなすつもりなのかを理解した。


ポンッ ポンッ ポンッ


ゲーコが両手で交互に、限界まで膨らませた喉を叩き始めた。


これは‥、ドラムかッ!!


なんとゲーコは私の鳴き声に合わせて、しかし私の鳴き声を喰う程の勢いとリズムで、自分の喉と頬袋をドラムに見立てて叩き始めたのだ。


ポンッ ポコンッ ポコンッ   ポココココ 

ポンッ ポコンッ ポコンッ   ポココココ 


それは只のドラムではなかった。

ゲーコの作り出す音は大地への祈りをそのまま音にしたようなリズムと、人をトランス状態へと誘う、だんだんと早くなっていく繰り返される旋律が特徴的であった。

その音に、私の深い竜の知識は心当たりがあった。


「ゲーコ貴様!! ジャンベだとッ!?」


ゲーコは私の問には答えずニヤリと笑うと、更なるスピードで頬袋のジャンベを鳴らした。頬から顎下にかけて、まるでピアノでも鳴らすように、位置をかえながら打ち鳴らしていった。

音階に乏しいはずの太鼓が、自由自在に音とリズムを変えていく。
私の単調な鳴き声は、ゲーコのパフォーマンスに瞬く間に押されていった。


ジャンベとは、竜が住む島から遥か東南の大陸にあるドラムの一種である。


バチを使わず両手で太鼓を叩く奏法の、原住民達の民族音楽である。

太鼓の皮の部分だけでなく、胴の部分も使い、全身でリズムと音を刻む。南の大陸の原住民達は、祭りの日にはその音楽に合わせて一晩中踊り続けるのだ。

音階の表現には乏しいが、リズムで聴衆を巻き込んでいく。
観客が聞き惚れるための“お行儀”のよい歌とは違い、心臓の鼓動に直接働きかけるような音楽。
打楽器のなかではこれほど厄介な相手もいないだろう。


太陽と荒野に生きる原住民達の生き様を具現化したような音とソウルが大地を轟かせる。

ゲーコがジャンベの使い手だとは、私は全くしらなかった。


そして悟った。


私は今までゲーコに手加減されていたのだと。

鳴き声だけの相手だと思っていたが、ゲーコの引き出しは私の想像を遥かに上回っていた事に。


一対一の戦いに置いては手札の数こそがモノを言う。特に実力が均衡している者達の戦いにおいては。


手札を変えて、相手のペースを乱しながらいかに自分のペースに巻き込んでいくか、それが一対一の音楽対決における勝利の方程式である。

ゲーコは私にジャンベを見せたことはなかった。真逆この時のために、ゲーコはジャンベを温存していたのだろうか。


私に切り札を見せぬ為に。

ゲーコのソウルが私のソウルに喰らいついて、噛み砕く様を幻視した。


「ミーンミンミンミン!!!(訳・舐めるなぁッ!!!)」


私は大声で叫んでいた。

竜に対して手加減をしていただなどと、愚かな思い上がりだったと教えてやろう!!

世界最強の竜として、全身全霊を持って貴様を迎え撃ってやることでな!

ゲーコよ、体を楽器の一部にできるのが自分だけとは思うなよ?



-ギーーーーーーーーッ-



ゲーコのジャンベの狭間を、長い音が突き破った。

雑音の集合で生まれた音は、しかし独特の風合を持って辺りに響いた。


-ギーーーーーーーーッ-


もう一度。右手の後は左手だ。
鎖骨から股下へと私の巨体の長い音源を、竜の爪が凹凸に震えながら駆け巡った。
鱗が生み出す溝を爪がなぞることで音が生まれた。



「ゲコォッ!!!?」


「‥知っていたかね? 流石は我がライバルだ。そう、これはギロだよ」



ギロ、という楽器がある。


竜のいる島から遥か南西の大陸に生きる部族に伝わる楽器である。

ギザギザが彫りが刻まれた瓢箪や木の筒を細い棒でこすり合わせて音を出す楽器だ。
棒が溝を叩く時の、「ガリッ」という雑音が集合して全く別の音を作る趣深い楽器である。

早く擦れば高いチャッという音がなり、ゆっくりと擦れば低く長いギーーッという音がなる。

音の高低の表現には向いていないが、軽快なリズムで聴衆の体と脳に直接響くような音を作り出す、ドラムとはまた別種の打楽器である。


肥えてしまった私の体では、音の反響は作り出すことが出来ないが、強い魔力を宿した硬い竜の鱗と爪を強く擦り合わせることで、本物のギロをも凌ぐ力強い音を創りだした。

並の竜の爪とうろこでは、この激しい摩擦に耐えきれぬだろうが、私は真なる竜である。


真竜の鱗と爪を舐めるなよ。


ゲーコに汗が浮かんでいた。


民族音楽には民族音楽を

ゲーコが遥か東南の大陸の音を使うなら、私は遥か西南の大陸の音を選んだ。


人間で言えば乳首とアバラにかける部分の鱗を、私はギターのように5本の爪でかき鳴らす。

両手を交互に、上下に動かしながら、
時には長く、時には短く。
魔力を宿した竜のギロが荒野に力強く響いていく。


ギーーーーーーー   チャッ  チャッ  チャ


ギーーーーーーー   チャッ  チャッ  チャ



しかしゲーコとてそれに簡単に屈するような使い手ではない。
私のギロに対して渾身のジャンベで挑んできた。


ポンッ ポコンッ ポコンッ   ポココココ


ポンッ ポコンッ ポコンッ   ポココココ



私とゲーコはステップを踏みながら、音楽にあわせて、三拍子のリズムで移動していく。

右前、左前、後ろ    左前、右前、後ろ

一歩半進んで一歩下がるステップは、私とゲーコとの距離を除々に近づけていった。


テンポはどんどんと上がっていく。

私は胸を、ゲーコは喉を。両手をほぼ同時に、しかし確実に交互に動かしながらリズムと音を刻んでいく。




ギーーーーーーー   チャッ  チャッ  チャ

ポンッ ポコンッ ポコンッ   ポココココ 


どんどんと上がるテンポに、奏者である我ら二人が共にトランスへと入っていく


ギーーーーーーー   チャッ  チャッ  チャ

ポンッ ポコンッ ポコンッ   ポココココ 


音と音がぶつかり合い、塊をなし、もはや私の出した音なのか。ゲーコの作った音なのか判別がつかなかった。
もうこれ以上の速さは無理だと、両腕の筋肉が悲鳴を上げた時、ステップを踏みながら、前へ前へと移動していた私とゲーコが互いにぶつかり合っていた。

気がつけば我らは、お互いが触れ合う程の距離まで互いに前進していたのだ。


ふむ、どうやらここまでのようだな。

私は両手の爪で最後の長い一掻きを生み出す。


ギーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!!


ポココココココココココココココココココココッ!!!!!


ゲーコも私の意図するところを正確に読み取った。


チャッ! チャッ! チャッ!
ポンッ! ポコッ! ポンッ!


同時に重なった終わりを示す三音。


そして荒野には再び静けさが蘇った。

私とゲーコは右手でパンッとハイタッチをした後に、しっかりと互いの手を握り合った。


勝負の後の互いの健闘を称える一瞬の融和。


しかし勝負とは、勝ちと負けが決せられるもの。

私とゲーコは審判役のニュージュの方を同時に振り向いた。




「ニュージュよ! どっちの勝ちだッ!?」

「ゲコォッ!?」



審判役を頼んていたはずのニュージュは、何故か両手で耳を塞いだまま、膝で頭を抱えるような格好の体育座りで俯いていた。



・・・・・・・・・

・・・・・・・・・



「な‥、何だったの? アレ?」


少女は塞いでいた耳から、手を恐恐(こわごわ)と離しながらそう言った。

ふむ、トランスミュージックは少々彼女には早すぎたか…。


芸術とはしばしば難解である。

芸術とは“ウケル物”を創れば良いというわけではないからだ。

芸術とは作り手と受け取る側が共に歩んでいくものである。

新しい作品は、観客に新しい世界を発見させる。
新しい世界は、さらに新しい作品を産む。

作り手と受け取り手が、絡み合って転がるように進んでいく。それが芸術の在り方なのだから。


「あれが音楽という物だよ。ニュージュよ。」


「お、音楽…???」


可哀想に、今まで音楽も知らずに育ってきたのだな。

ならば彼女に教えよう。音楽というものがどういうものかを。

芸術の世界では“アフタートーク”や解説も含めて作品なのだから。
私とゲーコは、二人がかりでニュージュに音楽とは何かを教える事にした。


「いいかね、まずは音楽の始まりから語るとだね…」

「ゲーコゲコゲコゲコ」

「…そして楽譜の発明により、音楽は一層の発展を迎えるわけだが…」

「ゲーコゲコゲコゲコ」

「…しかし楽譜のない伝承音楽というものも世界には存在していて…」

「ゲーコゲコゲコゲコ」

「…つまり帝国の支配地が広がれば広がる程、音楽も交じり合い、新たに生まれるわけなのだが…」

「ゲーコゲコゲコゲコ」

「…そもそも世界には何百種類という楽器があり…」

「ゲーコゲコゲコゲコ」

「…以上が音楽というものだよ。わかったかね?」

「ゲーコゲコ?」




「わ‥、わかりません!!!」




私とゲーコの音楽史講座は、少女には難し過ぎたようだ。

‥ふむ、困ったな。音楽を知ってもらうための授業が既に難しいとは、一体どうやって彼女に音楽を教えようか。
私が考えあぐねていると、ゲーコが任せろというジェスチャーで自分の胸を強く打った。


「ゲーコゲコゲコゲコ」


「なるほど、習うより慣れろ…か。確かに一理あるな。うむ、任せるぞゲーコよ」


ゲーコは少女の前へと進み出ると、顔を突き出し、先ほどのように喉をプクーっと膨らませた。


いきなり目の前に広がった巨大な白い頬袋に、ニュージュはビクッと体を縮めて、二歩ほど後ずさっていた。


「怖がるなニュージュよ。それが楽器だ。さあ、力いっぱいゲーコの喉袋を叩きなさい」


「た‥。叩く!? こ、コレを!?」


「案ずるな、ゲーコは強いぞ。そなたが思いっきり叩いた所で痛みなど微塵も感じぬよ」


ゲーコは私の言葉を力強く頷く事で肯定した。


「さあ叩け! 思いきりだ! 遠慮などするな!!」


暫くニュージュは躊躇していたが、私が「さあ! 叩け! 叩くのだ! 力いっぱい!」と繰り返すと、ニュージュは目をギュッと瞑って、右手を大きく振りかぶった。

前に向かって振り下ろした手の平が、薄く大きく引き伸ばされたゲーコの喉袋を確りと捉えた。


ポーーンンッ


高く弾むような音が響いた。



「あ、あれっ?」


ニュージュはゲーコから生まれた音に驚いていた。


「い‥、痛かったよね?」


口を閉じて喉袋を膨らませたままのゲーコは、目を細めながら首を左右に振ることで、少女の気遣いを無用の物だと教えた。


「どうだニュージュよ? 面白いものだろう? さあ、もっと叩いてみるがいい」


ニュージュは再び、今度は右手と左手で交互に打った。

-ポーンッ ポーンッ-と、今度は2つの音が生まれた。

ニュージュは自分の両手とゲーコの喉袋を目を丸くしながら見比べていた。


「叩かれるのって、もっと嫌な音がする筈なのに…」


「…うむ、ゲーコのそれは楽器だからな。嫌な音などしないさ。手という物はな、嫌な気持ちだけでなく、楽しい気持ちも作ることができるのだよ」


「叩かれた事があるのか?」などと、聞くつもりはない。辛いことを思い出させるよりも、楽しいことを知ってもらいたいのだから。


「楽しい気持ち‥?」


「さあ、もっと叩いてみなさい。自分の好きなように、思うがままに。」


ニュージュはコクリと頷くと、-ポンッ ポンッ ポーンッ ポンッ ポンッ ポーンッ-と、ゲーコの喉袋を続けて叩いた。

その音を聞きながら、今度は別の場所を別のリズムで叩く。

叩く場所を変える度に、タイミングを変える度に、変わっていく音と旋律にニュージュはただただ驚いていた。

彼女は気付いているだろうか。口元に浮かんでいる自分の笑みに。

今感じている気持ちが楽しいという気持ちなのだと言うことに。


・・・・・・・・

・・・・・・・・


一時間ほど、ニュージュは夢中になって太鼓を叩き続けていた。

しかしもはや体力が限界なのだろう。ゲーコにもたれかかるように最後の一音を打った後、ペタリと腰を地につけて、ふーっ ふーっ、と、大きく肩で息をしていた。

小さな額からは汗が大量に流れ落ちていた。


「ゲーコゲコ?」


ずっと少女の為の楽器となっていたゲーコが、口を開いた。
ゲーコの言葉が理解できぬ少女は、私の方を振り返り助け舟を求めた。


「楽しかったか? …と、聞いているのだよ」


少女はゲーコの方を振り返ると、「うんっ‥うんっ!!」と、何度も頷いた。


「ゲーコゲコゲコ」


「それは良かった。 …だ、そうだ」


頷きながら、少女の目から、もはや今日、何度目になるかも解らぬ、涙がつぎつぎとこぼれ落ちた。

良く泣く赤子は健やかに育つとは言うが、もはや赤子ではない少女にも当てはまってくれるだろうか。



少女の顔からポロポロと零れる涙と汗を見ながら、私はふと思い立った。


「喉は乾いていないか? ニュージュよ」


「あ‥、う‥、うん」


「そうか、エリクシールで良ければいつでも出せるが、飲むか?」


「エ‥エリクシール!? そんな…、エリクシールなんて、実在するわけが!」


エリクシールという言葉に、ニュージュは大きく否定の声を上げた。
まあ無理もあるまい。その製法は何千年も前に失われていたはずなのだからな。


「在るのだよエリクシールは。知らなかったか? 古代兵器から開放される唯一の手段を」


少女はハッとなって右腕を見た。自分が古代兵器に体を蝕まれていたことを、今ようやく思い出したといった様子だった。


「古代兵器に心を喰われた者を救えるのはエリクシールだけ…」


「その通り、知っていたか」


呆然と紡がれた言葉を、私は肯定した。

ニュージュは私の目を見つめてきた。
今日、今までずっと少女と共にいたが、私は彼女と今初めて目を合わすことができた。


「…さて、エリクシールとはな、世界樹の葉と真竜の生き血を使い、複雑な工程を重ねることで精製することが可能ではあるのだが…」


「あ‥、わ、私‥」


少女の目が動揺にゆれていた。悪しき竜が自分を助けたという矛盾に気付いたのだろう。


「そんな面倒臭いことをしなくても、もっと簡単な製法を見つけたのだよ」


「私‥、今まで‥、わ、悪い竜だって‥、ずっと」


「ユグドラシルの樹液に、私の体液を加える事によってな…」


「その‥、ご、ごめ…、ご‥、ご」


私は近くに生えていたオオウツボカズラをむしり取った。


―ジョボボボボ-


「さあ、これがエリクシールだ。好きなだけ飲みなさい」



「ご‥、ご、獄炎よ! 煉獄より解き放たれし黒き焔で忌まわしき世界の全てを喰らい尽くせぇっ!!!!!!」


少女の手から放たれた巨大な炎が、オオウツボカズラごと私のエリクシールを蒸発させた。




・・・・・・・・


・・・・・・・・


・・・・・・・・



少女が落ち着いた頃には、太陽は随分と西に傾いていた。
夕焼けが始まるほどではないが、斜めから降る光線は昼よりも幾分穏やかである。


「…ふむ、何が汚いのか、私にはさっぱりと理解できぬな。私は生まれてこの方ユグドラシルの樹液しか食していないのだ。ユグドラシルの樹液から生まれたエリクシールが汚いわけがなかろう」

「…その事は、もういいです‥。命を救って貰ったわけですから‥」


そう言いながらも、少女は幾分不満気だった。女心というものは中々に難しい。


「さて、最後は私の家へと案内しようか」

「家? 世界樹様のところに帰るの?」

「いや、ユグドラシルの洞の中は仮宿に過ぎんよ。今、新居を作っているのだ」


私とニュージュはゲーコに別れを告げることにした。
別れ際に奴は「ゲコー!」と鳴いた。

「『またね!』…だそうだ」

手を降るゲーコに、ニュージュも大きくその手を振り返していた。


・・・・・・・


・・・・・・・


巣の門の前には、二人の巨人がまるで門番のように立っていた。

私ほどの大きさが在る二人の大男、巨人族を見るのは初めてなのだろう。

空の上からそれを認めたニュージュは「凄く大きな人間がいる!」と声を上げた。
あちらも直ぐにこちらを見つけたようだ。


「おぉーい竜さまぁ、待っとったべぇ」

「こ・・こ、こんにちわ、りゅ・りゅ・りゅう様。…お、おや? そ、そ、その、娘っ子は、だ、誰なんだな?」


ファゾルトとファフナーの巨体と大声に、目をくるくると回していた少女を紹介した。
2人は「まるで赤子のようじゃあ、めんこいのぉ、めんこいのぉ!」と、豪快に笑った。

「めんこいって何?」と、そっと私に聞いてきた少女に。「可愛らしいということだよ」と教えると。恥ずかしくなったのか、俯いて自分の顔を隠していた。


「ところでふたりとも、今日はどうした?」


待っていた、と言う以上は何か用事があるのだろう。
ファゾルトとファフナーは、「ああ、そうだ」といい、2人で何やら巨大な四角い箱を担いできた。


「新築祝いだべぇ」


「タ・タ、タンスなんだな。りゅ・りゅ、りゅう様の財宝入れるのに、ちょ、ちょうどいいと思うんだな」


「これは…、素晴らしい!! このタンスこそが私にとっては何よりの財宝だよ! ファゾルト、ファフナー! ありがとう! ありがとう!!」


2人の運んできたタンスは、私の肩程の高さはある非常に大きな物であった。

一体どれほど大きな木から切り出したのだろう。幾重にも広がる年輪は、有機的で複雑な模様を描いており、若いニスの光沢が明るい輝きと独特の匂いを放っていた。

見た目が美しいだけではなく、非常に機能的でもあった。
合計20程の大きさも様々な引き出しが取り付けられおり、財宝を種類別に分けて整理しておくのにピッタリである。引き手のところには精緻なブロンズ細工も施されてあった。

先代の竜の残した財宝には興味はなかったが、このタンスにしまうことを考えると、何だかワクワクとしてしまった。


「これっ!? 作ったの? 巨人さんが?」


ニュージュの驚きは、もはや今日何度目のものとなるのだろうか。
とは言え、確かにこの豪快な巨人達がこれほど精巧で美しいタンスを作ったなどと、一目では信じられぬだろう。
ニュージュはタンスを見上げながら、感嘆のため息をついていた。


「中を確認させてもらってもよいかな?」


二人の巨人はもちろんだと頷いた。私は一つ一つタンスを開けて、じっくりと中まで隅々と観察した。

ニュージュがその様子を見て、「何か探してるの?」と聞いたが。「何もないことを確かめているのだよ」と答えた。


ふむ、どうやら不純物(リザードマン)は混じっていはいないようだ。
私はもう一度、二人に礼を言った。


「そういやあ竜さまぁ、トーテムポールはどうなったぁ?」


「ああ、ここ数日少々立て込んでいてな。あまり進んでいないのだ。良ければ少し見てもらえないだろうか?」


「お、お、お安いご用なんだな。」


トーテムポールの土台となるファゾルトとファフナーの像、その最後の仕上げを2人の指導の元に進めていった。

そんな私達を、ニュージュの2つの青い目がじっと見つめていた。


「やってみたいのか? ニュージュ。」


ニュージュはしばし逡巡した後、遠慮がちにコクリと頷いた。


「ふむ…、余分な木なら削りだした残りの木がいくらでもあるのだが。」


「竜様ぁ、娘っ子の爪じゃあ木は彫れんべやぁ」


私の彫刻にはノミは使っていない。竜の爪はどんなノミよりも鋭く、道具を使う必要がないからだ。
巨人たちが腰にぶら下げている仕事道具も、それぞれがニュージュの体の大きさ程は有り、彼女がソレらを扱うのは不可能である。

どうしたものかと悩んでいると、ファフナーがこんなことをいいだした。


「ね、ね、粘土なら娘っ子でも、つつ、作れると思うんだな」


二人の巨人はその場で土を掘り始めた。10分ほど掘り続けただろうか。「これだ。これだ」と言って、両手で灰色の粘土質の土を掬いあげた。

そして、ニュージュの体よりも大きい粘土の塊を、ドンと彼女の目の前に置いた。


「これなら娘っ子の手でもなんでも形が作れるべな」


「す、す、好きな物を作るといいんだな」


粘土は初めて見たようで、ニュージュは人差し指で恐る恐るとソレを触ると、その弾力と柔らかさに驚いていた。

しかしその後、彼女は粘土を前に全く動かなくなってしまった。「どうした?」と尋ねると、彼女はポツリとこう言った。


「好きな物って、何を作ればいいの?」


…ふむ。太鼓のように気の赴くままに叩けというわけには行かぬか。


竜はこの世界で最も知識のある生き物ではある。が、それはあくまで「知っている」だけに過ぎない。
閃きや機転といった“知恵”の部分に関して言えば、経験の浅い私はまだまだひよっ子なのだ。
しかしそれでもよいのだと今は思っている。そういう部分は、経験豊富な友が補ってくれる物なのだから。


「さ、さ、最初は、さ、皿やコップが、かか、簡単でいいんだな。」


「んだんだ、ろくろはねえからあんまり綺麗にはならねえべが、それもそれで味があっていいもんだべえ。」


「コップ? コップを作れるの? …これで?」


ニュージュは灰色の粘土の塊を信じられないという顔で見つめていた。
ほう、只の粘土ではなく胎土であったか。


「その土はな。焼けば硬くなって、そなたの知るようなコップや皿に変わるのだよ。そうであるな? ファゾルト、ファフナー。」


二人の巨人は頷いた。
ニュージュは粘土から拳程の大きさの塊を2つ程ちぎり取ると。眉根を寄せて真剣に何かを作り始めた。
二人の巨人は、「もっと練った方がいい。」などと、基本的な所だけを指導する以外は、全てニュージュの好きにさせていた。


ニュージュが作っていたのは、二つのコップだった。
不格好で歪なコップではあったが、なるほど確かに味わいがあった。


「二つ、作るのだな」


そう聞いた私に、少女は少し頬を染めながら、答えた。


「その…、一つはハーピーさんに、お礼。服、貸して貰ったし」


「…なるほど、きっと彼女も喜ぶだろうさ」


ニュージュが作った二つのコップを、巨人達は形を崩さぬよう、板の上にそろりと載せて持ち帰った。
乾燥させた後、窯で焼いておいてくれるらしい。素焼きが終わればまた持ってくるから何色にしたいか決めておくようにと言い残すと、二人はいつものように豪快に笑いながら工房へと帰っていった。

ニュージュは大柄の二人の姿が見えなくなるまで見送った後、ポツリとこう言った。


「友達…、一杯いるんだね」


寂しそうに言うニュージュに、私は堂々と答えた。


「うむ、少なくとも、そなたと同じ数はいるな」


ニュージュは私の言葉の意味が解らなかったのだろう。こちらをキョトンとした瞳で見上げた。


「気づかなかったのか? 今日、そなたが出会った私の友人達は、既にそなたの友人でもあるということに」


「…あっ」


「そしてニュージュ。私もそなたのことを友達だと思っているよ」


ニュージュはポロポロと泣き始めた。本当に、よく泣く子である。

しゃくりあげながら下を向いて泣いていた。


長い一日が終わり、黄昏時が近づいていた。


夏とはいえ夜は冷える。人間には幾分寒いかもしれぬ。


私はトーテムポールの削りカスや、枝を集めて火をおこした。


煙の筋が紫色の空へと昇っていった。






「予言‥、間違いだったのかな…」


座ったまま、炎をじっと見つめていたニュージュがふと、そんなことを切り出した。


「予言…とは?」


私の問いに、ニュージュは答えるべきか、答えないべきか、しばらく悩んでいたようであったが、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。


「もう、10年も前に、刻詠みの巫女様が予言なされたの。世界を滅ぼそうとする竜が現れるって」


「ふむ‥、私はこの世界が滅んで欲しいなどとは、つゆほどにも思っていないよ」


「‥それは、うん…。私にもわかったの。‥だから、…予言は間違いだったのかなって‥。全部…、間違いだったらいいなって‥。その‥、予言の続きも」


「‥ふむ。それはどんな続きだ?」


ニュージュは再び長い沈黙の後に、絞りだすようにこういった。


「…世界が滅ぶ代わりに、世界樹様が滅ぶんだって。その竜と一緒に」


「なんだと!?」


私は大声で叫んでいた。少女の言葉は決して聞き逃がせるものではなかった。
ニュージュは今なんと言った? ユグドラシルが滅ぶだと?


「あっ、でも、違うの! 竜って決まったわけじゃなくて。予言にも意味の分からない所があったし」


「ニュージュ! 教えろ! どんな予言だ!」


私が滅ぼうが滅ぶまいが、そんな事はどうでもいい。


ユグドラシルが滅ぶ。


その言葉が、私の頭をぐわんぐわんと打ち鳴らした。

ニュージュは「予言とは必ず的中するわけではない」と、何度も前置きしながら、こう答えた。


「世界の外より訪れし災厄、殻を破り、星の全てを喰らわんとす。されど聖樹はその運命を裏返す。星の流す血は聖樹の血となり、星の死は聖樹の死と変わる。聖樹の亡骸を肥やしとし、人は悠久の繁栄を得るであろう」


その言葉は、私にとってどれほどの衝撃となっただろうか。

みじろぎすら出来ず、呼吸することも忘れていた。


「あっ、で、でも外の世界ってところがよく解らなかったの! 刻詠みの巫女様も、意味がわからないって言ってたらしくて! ちょうど予言の年が竜の寿命と重なったから。次に産まれて来る竜に違いないって、そういう話になっただけで…。それに、さっきも言った通り、予言も絶対じゃないから!」


ニュージュはまるで自分が責められているかのように、必死になって弁明していた。


「予言は絶対ではない」ニュージュはそう言ったが、私にはその予言が真実だと、理解できた。


「間違いない。ニュージュよ、それは…、その災厄とは…」


外の世界から来たもの、その言葉の意味が解るものなどいないだろう、別の世界の存在を知っている者を除いては…。


「…その災厄とは、私だ」



・・・・・・・・


・・・・・・・・



「異世界という物があってな…、私はそこから来たのだよ。」


異世界について多くを語る必要はない。蝉の生に語るべきこともない。


「世界の外より訪れし災厄とは、異世界から来た私の事を指すのであろう。


事実だけで十分なのだから。自分がその災厄だという事実だけで。


「血と肉を食する事ができなかった私は、ユグドラシルの樹液を毎日飲んでいたのだ。こんなにも肥え太る程にな」


私は両手を広げて、ぶくぶくと太った醜い自分の姿を、ニュージュに見せた。


「その予言、私が世界樹の樹液を吸い尽くす。そういうことなのであろうな」


ニュージュの顔に絶望が浮かんだ。信仰心の強いニュージュの事だ。世界樹が滅ぶという言葉に悲嘆したのであろう。


「ニュージュよ、案ずるな。原因が分かっているのならば、元を断てば良いだけのことだ」


「元を断つって‥」


ニュージュは再び絶望の目で私を見上げた。古代兵器ですら通用しなかった生き物を滅ぼす方法など想像もできないのだろう。血がエリクシールとなっている今の私の体は不死身に近いのだから。


「なあに、首でも飛ばせば流石に私も死ぬだろうさ。世界で最も硬い竜の鱗と言えども、竜の爪ならば貫ける」


「だ‥、だめっ!!!」


ニュージュが私にすがりついた。今この場で自分の首を飛ばしてしまおうかと思っていたが。ふむ。確かにそのような事。子供の前でするべきことではないな。


「では海にでも行こう…。離れてくれぬか? ニュージュよ」


ニュージュが首を左右に振る。


何故離してくれぬのだ? 私はそなたの大切なユグドラシルを滅ぼそうとしている生き物だぞ。
そなたと私の、大切なユグドラシルを。


「お待ちください我が君よ! その予言、本当に正しいのでしょうか?」


私を止める声が聞こえた。

沢の水のような、凛とした透き通った、涼しげな声であった。


巨人達が新築祝いにと持ってきたタンス。その引き出しの一つから声が聞こえた。


「我が君よ。その予言、誤読なさっている可能性はないでしょうか?」


僅かに開いたそのタンスの隙間から。真っ白な手が生えてきた。

空っぽであったことを確認していた筈のタンス。その中から這い出てきた者を見て、私は気がついた。



なるほど…、二重底であったか。



狭い隙間からヤモリのようにぬらりと這い出てきたのはリザードマンの巫女であった。


「ニュージュさん、で宜しいですか? 話は全て伺っていましたが、その予言の信憑性は?」


ニュージュは突然現れた第三者にしばらく目を丸くしていたが、恐る恐ると答えた。


「今代の…、刻詠みの巫女様は、予言は外した事がないとは…、私は聞いています」


「では予言の誤読でしょう。我が君がユグドラシル様を滅ぼすなどと、馬鹿馬鹿しいにも程があります」


リザードマンの巫女は、そう言って人間の巫女の予言を切り捨てた。


「リザードマンの巫女よ。誤読ではない事は私が一番わかっている。あの予言の文言。あれは私そのものだ」


「ならばわかったような気になっているだけです。我が君よ、幸せの塊のような我が君が災厄などであるはずがありません」


リザードマンの巫女は、今度は私の言葉をピシャリと切り捨てた。その自信は何処から湧いてくるのだろう。金色の強い光の目が、私の眼を確りと捉えた。


「私(わたくし)には、時を読むような力はありませんが、生き物の持つ生命の力は感じることができます。我が君がこの世界に現れて以来、ユグドラシル様の生命力が衰えた気配など一向にありません。それどころか、日に日に喜びに輝いているほどです」


そういえばリザードマンの巫女にも不思議な力が宿っているのだと、ファゾルトとファフナーから聞かされていたことを思い出した。


「そもそも、いくら我が君が立派で逞しいお姿をなされていても、ユグドラシル様の大きさと比べてみれば蝉と巨木程の違いが有ります。ユグドラシル様が枯れ果てるまで樹液を飲みつくすなど、不可能だとは思いませんか?」


言われて私はようやく気付いた。ユグドラシルが滅ぶということで、随分頭が動転していたようだ。

確かに蝉がどれだけ樹液を舐めようとも、木が枯れてしまうようなことはない。
樹液とは、太陽の光と大地からの水で毎日新しく生産されるものなのだから。

私は“蝉”という言葉を使ったリザードマンの巫女を見た。生命の力を見ることができるという彼女。あるいは魂の色まで見通しているのだろうか。

私の魂が蝉の物だと知ってなお、こうも私を信頼し、信仰しているのだろうか。


「…それにしても、我が君に体液をすすられるなど…。羨ましい。羨ましい。ああ、羨ましい」


うむ‥、やはりそんなことは無いかな。


「す、すみません! リザードマンの巫女様! 貴方は予言の本当の意味に! 災厄の正体に心当たりはおありですか?」


沈黙を続けていたニュージュが声を上げた。その目には先程までの絶望はない。
何かを見出したような、希望の光が宿っていた。


「いいえ、私にはとんと想像もつきませぬ。ですが…」


そこでリザードマンの巫女は、ちらりと視線を島の中央の方角へと向けた。


「予言の真意を知っている御方には、心当たりがあります」


「本当か! リザードマンの巫女よ!! 誰だ! それは誰なのだ!?」


私の問に、彼女はふーっと長い息を吐いた。爬虫類特有の縦に大きく割れた目が、ゆっくりと伏せられた。


「我が君は…、本当に女心の解らぬ方なのですね」


そう言った彼女の声は、どこか呆れているような。あるいは何かを諦めたような、複雑な物であった。
そして彼女は急に声音を優しい物に変えると、こう言った。


「“短い間でしょうがよろしくお願いしますね。”“枯れてもなお、誰かの為にあることができるというのは、私もとても素敵なことだと思います。”“もしも、もう会うことがなくなったとしても、私のことを忘れないでいただけますか?”」


「それ‥は…」


誰の言葉かなどと尋ねる必要はない。彼女の言葉だ。

彼女の言葉を、私はいつも大切に、胸の中に仕舞ってきたのだから。


「ユグドラシル様はきっととっくの昔に気付いていらっしゃったのでしょう。あるいは、最初から宿命づけられていたのかもしれませんが…」



自分が愚かだと悟った。

ユグドラシルは私に何度もヒントを与えていたはずなのだ。

それを伝えようとしていたはずなのだ。

自分の死を、自分の運命を。


夜の帳は既に完全に落ちていた。バチリと、木の枝が焚き火の炎の中で爆ぜた。


「行きましょう我が君よ、ユグドラシル様の元へ。ユグドラシル様は全てを知っていらっしゃる筈です」


「ああ! いこう、彼女の元へ」


我ら三人は、ユグドラシルの元へと向かった。少しでも早く向かう為に、ニュージュとリザードマンを私の背に乗せて。


空には既に星が広がっていた。夏の大三角形の下を、私の翼が舞った。


そこでふと、些細な疑問が沸いた。


「そう言えばリザードマンの巫女よ。なぜそなたがユグドラシルの言葉を知っていたのだ?」


「私、潜むのは得意ですの」



…なるほど、よくわかった。

地上に振り落とそうかと考えたが。ニュージュも背中にいた事を思いだし、やめた。






私の巣からユグドラシルのいる場所まではそれほど離れてはいない。


我が背から降り立ったニュージュを見て。「良かった。二人共仲良くなられたのですね。本当に良かった」と、ユグドラシルは我が事のように喜んでいた。


貴方という方は、どこまで他の生き物に優しいのだろうか。


「ユグドラシルよ!」

「はい、何でしょう? 同居人さん」


なぜ、自分が滅ぶと解っていて、そんなに明るい声が出せるのだろう。


「ニュージュからな、予言を聞いたのだ。貴方に纏わる予言を‥」


思い当たる事があるのだろう、ユグドラシルに宿る空気がガラリと変わった。

私は刻詠みの巫女が残したという予言を、一語一句、そのまま諳んじた。


「『世界の外より訪れし災厄、殻を破り、星の全てを喰らわんとす。されど聖樹はその運命を裏返す。星の流す血は聖樹の血となり、星の死は聖樹の死と変わる。聖樹の亡骸を肥やしとし、人は悠久の繁栄を得るであろう』…ユグドラシルよ。この予言の意味が、解るか?」


それはどれほど長い沈黙だったろうか。


長い長い沈黙の中、気の早い鈴虫の鳴き声が聞こえる他は、息遣いさえも聞こえなかった。


凍ったような時間の中、ユグドラシルは小さく「はい」と答えた。


「では、災厄とは‥、何だ?」


二度目の長い沈黙のあと、


ユグドラシルは自分を滅ぼすその者の名を、私に告げた。



「星が、落ちてくるのです。赤い星が」


夜空を見上げると、夏の大三角形の中央にあったあの赤い星が、昨日よりも僅かに大きくなっていた。









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