海鳴の海岸はその日も平和だった。
ゆるりとした潮騒の音に、遠くに時々聞こえる車の走行音。太陽は頂点よりもやや西に傾いており
現在が昼をいくらか回った時刻であることを示している。
そんな中アリスはトボトボと、正に疲労困憊であるとでも言った様相で、海岸横に伸びる道路を歩いていた。
肩あたりで適当に揃えられた癖の掛かった少し薄い金髪に、人形の様に白い肌。可愛らしい花柄のワンピースに
カーディガンを纏った少女である。深窓の美少女と言っても通じそうなその容貌ではあるが
現在はその顔に凄まじい程の疲れを浮かべ、乗り物酔いでもしたかのようにフラフラとしている。
<<やりましたね、ロストロギア回収成功です。予想よりは時間が掛かってしまいましたが>>
「ひどすぎた」
そう、酷すぎた。朝から捜索を続けて、時計の長い針五週分は捜索しただろうか、正確な所要時間は……
オラクルに聞けばコンマの単位まで嬉々として教えてくれるだろうが、それをわざわざ聞くほど
彼女の心はマゾヒズムに満ちてはいなかった。
<<途中お昼休憩を挟みましたからね、そう考えると楽勝の部類でしょう>>
「場所が悪かった」
これが陸地であればここまで精神疲労を負わなかったのだろうに。忌々しげにアリスは吐き捨てるが、
ともあれ無事回収出来た事については素直に喜びたい。
今日はさっさと帰宅して私の心臓をブチ抜いてくれたロストロギアをじっくりと解析しよう。
そう、アリスは思っていたのだが……
<<マスター……>>
「分かってる」
タイミングが良いのやら悪いのやら、人の接近を伝えてくるオラクルに対して緊張と僅かに漏れた嘆息で答える。
自分とはまだ多少距離があるが、あの橙色の服装には見覚えがある。まさかその服しか持ってない訳ではないだろうから
見間違えという可能性も無きにしも非ず、だが背丈や雰囲気からしても、そして何よりオラクルがわざわざ
伝えてきた事からもあの少女に間違いないのだろう。あの強大な魔力を持った白い魔導師に。
<<どうしますか?>>
「目標は達してる。接触しよう」
<<セットアップは如何しますか?>>
「刺激したくないから、しないで良い」
<<了解しました>>
そうは言いつつも、オラクルにいつでもバリアジャケットを展開できるように準備だけはさせておく。
あの少女の魔力は脅威だが、彼女自体から邪なものを感じるかと言えばそんな事はない。
やはり問題はあのイタチ姿の魔導師だろう。考え過ぎならば良いのだが、もし管理外世界の少女を
惑わす不届きな魔導師ならば管理局に代わって成敗せねばなるまい。
「我が家の家訓その一、変身魔法を使う魔導師を信用してはいけない。」
<<そんな家訓ないでしょう。それはマスターの私怨です>>
「あるある」
<<家訓がですか? 私怨がですか?>>
「どっちも」
アリスが極端に変身魔法を警戒するのは、昔、身内に散々ソレでしてやられたという理由が
あるからなのだが……それを今言ったところで詮無い事だ。
「ふつふつとこみ上げるものが」
<<やめてください……砂浜に降りるようですよ>>
海岸から伸びる階段の中腹あたり、白い魔導師が砂浜へと降りていく様子を確認して、動く。
早足で、しかし音を極力出さないようにして階段を降り、白い魔導師に近づいていく。
あと5歩……相手に変わった動きはない。ジャリ。靴からアスファルトと砂が擦れる音がするが、気づかない。
あと3歩……白い魔導師のうなじを確認出来る程に近づく。気づかない。
あと1歩……今。
「止まって」
「えっ?」
「私は管理局執務官、アリス・グラハム」
<<デバイスのオラクルです>>
短く、驚きの声を発してこちらへと振り向く彼女にしれっと偽名を使い、捲し立てるようにして言い放つ。
昔から彼女が良くやっていた手管だ。不意を突き、流れるように畳み掛け相手の言質を素早く取る。
「貴方達が関与していると思しきロストロギアについて話を聞きたい」
「えっ? ええっ?」
<<任意の事情聴取と考えてください。害意はありませんよ>>
「ええぇ、し、しつむかん? かんりきょく……って……?」
白い魔導師はこちらの言う事を瞬時には理解出来なかったのか、いや、理解できなくて当たり前だ。
彼女はつい先日まで魔法とは無関係の世界で生きてきた少女だ。
管理局にも、ましてや執務官という役職の持つ意味など分かるはずもないだろう。
だが、彼女の肩に乗ってこちらをポカンと見つめるイタチはその言葉の意味を知っているはずだ、知らないハズがない。
「教えて」
<<変身魔法を使っている様子ですが、管理外世界では魔法の使用及び布教は禁じられているはずです。
貴方は何者で、何の目的があってここにいるのですか?>>
「へ、変身魔法って、えっ? えっ?」
「ん」
そう短く頷き、少女の肩に乗っているイタチに視線を送る。イタチは相変わらず硬直しているようだが
だんだんと事態を飲み込んできたのか、その表情が変わっていく。
それは想定していたものとは違った、まるで落ち着いた、いや、安心したとでも言ったようなポジティブな表情で……
「よ……」
「よ?」
イタチは言葉を切り、歓喜に打ち震える。そんな様子でアリス向かって叫び返す。
その声には明らかな感謝の意が込められていた。
「よかった! 来てくれたんですね!」
「え?」
「え?」
<<え?>>
二人と一機の声が絶妙にハモる。
イタチの様子は正に助けが来たのを知った被害者のようで、後ろめたい事などあるはずもない。
そう言いたげな……声質から言って男性だろうか? の姿勢から、アリスは自分が警戒しすぎていたと言う事を
なんとなくだが、感じ取っていた。
<<なるほど、それでこの世界に散らばったロストロギア……ジュエルシードを回収していたのですね>>
「はい、僕ではこの世界から管理局に連絡する手立てがなくて……」
イタチの魔導師は――いやユーノ・スクライアと名乗ったか。
アリスは彼からひと通りの説明を受けて、大きく息を吐いた。まぁ話していたのはもっぱら彼女のデバイスである
オラクルなのだが。アリスは殆ど頷くか先を促すか、しかしていない。
彼が言うには、輸送中のロストロギアが突如爆発。この第97管理外世界に降り注いでしまったと言う。
その数21個。21……想像以上の数に驚愕を覚えるアリス。
そして同じくこの世界に漂着した彼は責任を感じてロストロギアを独断で回収していた、とあらましはこんなところだ。
<<確かに一関係者として貴方の行動は評価されるでしょう、しかし同時に……>>
「無謀」
<<とも言えますね。実際無関係の少女に助力を頼んでしまった訳ですから>>
「うっ、それは……反省しています……」
イタチの格好で器用に肩を落とし、申し訳なさそうな動きをする彼に微笑ましいものを感じてしまう
アリスだったが、同情ばかりもしていられない。彼女は感情の篭らない呟くような声で
ユーノ・スクライアに宣告する。
「覚悟しておいて」
<<そうですね、今回は管理局の不手際もありますし情状酌量の余地が多分にありますが
それでも魔法使用、特に布教に関しては罰があると思われます>>
「はい……」
「罰って、そんな!」
今までは何の事かちんぷんかんぷん。とばかりに置物になっていた少女がそれを聞いた途端に
眼を見開き大きな反応を見せる。彼女の顔には、何故この世界の為に頑張っている彼が罰せられなくてはならないのか
理解が出来ないといった、そんな感情がありありと浮かんでいる。
「名前」
「えっ?」
<<名前を伺ってもよろしいでしょうか?>>
「あ! はい! わたしなのはって言います、高町なのは……」
「高町、不満?」
「ふ、不満というか……その、納得できなくて……」
彼女自身、なんと言っていいのか良くわからないのだろう。少女高町なのはは口篭る。
彼、ユーノが犯した罪。それを全てを理解出来た訳ではないが……それでも良くない事をしたのだろと言う理屈は解る。
だが頭で理解しつつも、しかし納得出来ない何かがある、それは彼の頑張りであったり、自分の見聞してきた
この世界の現状であったり。
「納得出来ないなら、それでいい」
「えっ?」
<<マスター?>>
「それが貴方の選択になるから」
無理に納得させたところで、そんなものに何の意味があるのだろうか。
理解出来ない者には、教える。だが理解できて尚、納得出来ないと言う者に掛ける言葉は存在しない。
それは諦めてる訳でも見放している訳でもなく、それがその人の選択、と言うことだから。少なくともそう彼女は思っている。
「法は完璧ではないし、個人も同じ事」
「で、でもそれじゃ、その法でユーノ君は罪に問われちゃう……問われてしまうんですか?」
焦って言い直す彼女に、ゆっくりと、だが深く言い聞かせるようにアリスは話しだす。
「管理局法はあくまで基礎。異を受け付けない訳じゃない」
「じゃあ! あの、どうすればユーノ君は許されるんですか……?」
「い、良いよ! なのは僕は……」
なのはは解らない。この自分を取り巻く、黒く暗い、何かを晴らすにはどうすればいいのか。
だから聞く。聞く事しか出来ない。もしこれが第97管理外世界で成人した男性ならば、少しは自分で考えろと
叱責されてしまうかもしれない、そんな縋るような問い。
だがアリスはそんな問いに一言で返答する。まるでそれが当たり前の事であるかのように。
「かっこ良くなればいい」
「か、かっこよく……ですか?」
「そう。かっこ悪い人の話は、誰も聞かないから」
だからかっこ良くなりなさい。アリスはそう語る。どんな意味でも良い。かっこ良さをどう捉えても良い。
かっこ良い人には自然と人が集まり、話も聞かれ、尊敬もされ、そして尊重もされる。
だが、かっこ悪い人間には、何もない。何も出来ない。誰も動かす事は出来ない。
「かっこよく……」
「どんなかっこ良さでもいい。自分が思う自分らしい、かっこいい自分になって」
「今からでも……間に合いますか?」
「大丈夫」
かっこ良くなる。それが、管理世界で生きていく為には重要だと、アリスはそう考えている。
管理世界と言うのは実力社会だ、力を出せない者には酷く色のない冷たい世界。
悪い言い方のようだが、逆に実力を示しさえすれば色鮮やかな世界が待っていると言って良いだろう。
「スクライアは知ってると思うけど」
「ユーノ君?」
「えっ!? あ、いや……格好良いかどうかは解らないけど、能力の無い人間に優しいって事は、ない、かな?」
言い辛そうに発言するユーノだが、彼はアリスの言っている事に共感を覚えていた。
発掘集団であるスクライアは、やはりその手腕でもって発言力が決められる実力社会だ。
知識も無く、発掘も出来ない人間に発言権等あろうはずもなく、そう言った者は末端として使い捨てられてしまう。
その結果スクライアは、自然と知的探求心が強く自らの成長に強い意欲を持った者が集まる、そう言った集団になったのだ。
まぁ、いささか強すぎるその知識欲は、管理局に危惧されるレベルの物になってしまってはいるのだが……。
「言い分を聞かせたいなら、まず力を示す。そういう世界」
「力を示してから……お話……」
「な、なのは? なんかバイオレンスな匂いがするけど、別に力って言っても色んなものがあって……」
何故だかユーノは、言いようのない不安に苛まれていた。
このままではなのはが何か違う道を突き進んでしまうのではないかと言った漠然とした不安だ。
そこには自分が見出した彼女を、最初の弟子と言っても良い存在を、誰かに取られてしまう。そんな危機感があったのかもしれない。
「力を見せて…力を…」
「ん」
「いや、なのは? そんなに反芻するような事じゃ……」
その後、目標を得たとばかりに瞳を輝かせやる気を滾らせる彼女とは対照的に、濁った瞳で空笑いなんかを浮かべながら
彼は、ユーノ・スクライアは、こう思わざるを得なかった。どうしてこうなった? と。
海が、静かな風を運んでくる。
昼が過ぎ少し肌寒くなってきた海岸は、太陽の加減で多少その顔を変じたものの、それでも静かな佇まいには変わりがなかった。
海鳴、なるほど海鳴だろう。これ程にまで名前に合った土地はなかなか無いのではないかと、情緒たっぷりにアリスは思う。
……二人、いや一人と一匹が去ってからどれ程時間が経ったか、半刻か、一刻ほどかもしれない。
なんとなく、そう、ただなんとなく帰る期を逃してしまった。そんな面持ちでアリスはちょこんと階段に座っていた。
<<――良いんですか? あんな事言ってしまって>>
「ん?」
<<色々ですよ>>
オラクルはあえて具体名を出さずにそんな事を彼女に聞く。
若干の批難が含まれたその口調に彼女は答える事なく、ただ頷くだけで返す。
良かったのか? と聞かれれば、良くはないだろう。そう答えるしかない、が……彼女はある程度の確信があった。
「管理世界で生きるなら早く知っておいたほうがいい事」
<<管理世界に移住するとは限らないのでは?>>
「する。きっとする。」
ある種予感じみたものアリスはあの少女、高町なのはに感じていた。
管理局時代にあの瞳を見たことがある。一度や二度ではない。羨望のような、憧れのようなそんな瞳の輝き。
あれは……あの輝きは、魅せられた者の瞳だ。魔法に魅せられてしまった者の。
<<勘ですか?>>
「経験則」
視線を上向かせる。変わらぬ、少し雲を纏った青空。その普遍とも言える空の先に、彼女は過去を見ていた。
魔法とは、魔力とは、文字通り"魔"なのだろう。触れたものを魅了し、掴んで離さない。
一度その奇蹟に触れてしまった者は、いつしかその奇蹟が当たり前の事になり、そしてより深い奇蹟を求める。
……"あの時"はきっとそんな心を利用してしまったんだと思う。
私は安易な選択をしていたのかもしれない。その場凌ぎだったのかもしれない。だが後悔は、しない。
<<……また感傷ですか?>>
「ん」
<<物思いに耽るロリマスター、これは流行りますよ>>
「……」
<<冗談です。しかし執務官を騙るだなんて、バレたら怒られるどころじゃ済まないですよ?>>
「探索隊が来るまでまだ少し猶予があるはず。その前に元の体に戻ればいい」
そう、スクライアから聞いた話では、ロストロギア・ジュエルシードの移送には本局武装隊が護衛に当たっていたと言う。
ならば今頃血眼になって探しているのだろうが、しかし管理外世界のさらに一地域にまで探索場所を絞るとなると
如何な管理局とは言えども相当な労力と時間が掛かる事だろう。
「特別な要因が無い限り、まだ暫く辿りつけないはず」
<<そうですね、その間に先程確保したジュエルシードを解析してみましょう>>
封印したロストロギアをオラクルから取り出し、手の中で弄びながら、頷く。
碌な設備がないこの管理外世界ではどこまで出来るか不明瞭だが、それでもスクライアからトリガーワード
に関しては聞くことが出来た。ワードと言って良いものか、それは酷く曖昧なトリガーだった。
願いを叶えるロストロギア。それがジュエルシードという強力な魔力体の正体であるらしい。
しかし生物の思考を正しく読み取る事が出来ず、穿った形でその再現をしてしまう、そんなはた迷惑な代物だった。
そういえば前に、オラクルが曖昧すぎて良くわからないなどと言っていたが、今ならば納得だな。とアリスは嘆息した。
私の場合は、死にたくない……それが、死ぬ前に戻りたい……と言う事にでもなったのだろうか?
あの時の事は、咄嗟の事だったので良くは覚えていない。死にたくないと思ったのは確かだったはずだが。
「あの……」
「ん?」
深く思案していたからだろうか、油断していた、と言えばその通りなのだろう。
白い魔導師、そしてスクライアとの邂逅を経て不安材料が一気に減ったというのもあっただろうし
単純に色々あって疲れていた、というのもある。不意を付かれた彼女は、図らずも先ほど自分が行った手管を
今度は自分で味わう事になってしまっていた。
「それは、私達の大事な物なんです。だから、渡して下さい」
「……」
アリスは驚きに声がでない。いや、驚きというレベルを遥かに越えた、硬直である。
目の前の少女を観察する、長い金髪をツインテールに結んでおり、瞳は赤い。歳の頃は十歳前後と言った
ところだろうか、運動でもしていたのか少し汗ばんだ様子で、右手にビニールで出来た野球ボールを持ち
着ている黒いシャツを湿らせている。その黒いシャツには大きな白い文字でinnocent starterと書かれているが
それはどうでも良い事だ。
「あの……お願いします……」
「……」
魔力を感じない事から害意はないのだろう、だがジュエルシードを欲しているというその確かな意思は感じる。
だが、そんな事で硬直している訳ではない。ブランクがあるとは言えアリスは元執務官だ。そんな事で気圧されなどしない。
しきりに警戒を知らせるオラクルの声を無視し、彼女はまるで少女を瞳の中に入れようと言わんばかりに見開き、凝視する。
あり得ない。あり得ないはずだ。自分は夢を見ているのか、最近良く見るようになった"あの時"の初めて選択した時の――夢を。
早まる心臓の鼓動、全身から吹き出る汗、震える身体、瞳は少女以外のものを無視するように視界に捉えず頭に入って来ない。
そんな中で、アリスはその名前を、少女の名前を、絞り出すようにして、口にした。
「アリ……シア……?」