「――――そ……そ、んな」
その言葉に、全身の血の気がさっと引いていくのがはっきりと分かる。
どうしようもない悪寒と共に、立ち眩みにもよく似た目眩が私の思考を奪い去った。
夕凪にかけていた指先が冷たさを感じ、ダラリと落ちる。
力が入らないどころではない。
指先一つすら動かせない。
「……ちょ、ちょっと何言ってるのよシロ兄。そんな冗談面白く無いわよ?」
「せ、せやでシロ兄やん? そないな事言うても誰も笑われへんよ?」
誰も言葉を発せない中、お嬢様と明日菜さんの言葉が妙にその場に響いた。
しかしその声は震え、焦りに似た感情がどうしようもなく抑えきれずに漏れ出していた。
「…………」
しかし、当の士郎さんはその声にすら一瞥もくれず、ただただ視線を油断なく回し続けるのみ。
その視線を受けて、周囲を取り囲んだ人間からは高い警戒心が湧き上がる。
「これは……」
そんな中、高畑先生が声を上げる。
その声は感情を滲ませず、まるで普段のような声色だった。
「これは即ち……そういう事と捉えていいのかな、士郎くん?」
「判断はそちらに任せますよ、タカミチさん。俺は別に弁解する気もありませんから」
「彼女がこれから起こすであろう出来事の結果をしっかりと踏まえての行動なんだね?」
「勿論」
「……そうかい」
高畑先生はそう言うと、スラックスのポケットに手を入れ、臨戦態勢を取った。
「おおー、怖い怖イ。では私はそろそろ帰らせて貰う事にするヨ。衛宮さん後は任せてもよろしいカ?」
「ああ。そうしてくれれば俺も帰れる」
いつもの飄々とした態度で超が戯けるように言うと、士郎さんは何でもないかのようにそう言った。
超は余裕とも言える態度で背を向けると、焦る様子を微塵も見せずに悠々と歩き去る。
それに誰よりも早く反応したのもまた高畑先生だった。
「……ッ、行かせはしないよ!」
その叫びと共に、常人では目視すら不可能な速度でスラックスから拳を抜き放つと、見えない拳圧が超の無防備な背後を襲う。
そう、思われた瞬間だった。
「――させませんよ」
パァンっと。
限界まで膨らんだ風船が破裂したかのような激しい音が響き渡った。
そして、いつの間にか士郎さんの左手には黒い刀身の剣が握られており、それを振り払ったような姿勢で去ろうとする超の背を守っていた。
一体いつその剣を取り出したのか、それすら確認できなかった。それこそ、突然虚空から出現したようにも見えた程の唐突さだ。
超はその様子を視線だけ飛ばして確認すると、不敵にふっと口の端を持ち上げた。
これに驚愕したのが高畑先生だ。
まさか今の一撃がこうも容易く防がれるとは思いもしなかったのだろう、少なくない驚きの表情を浮かべ、更に追撃を放つ。
瞬きの間に放った拳はその数10。
「させないと言った」
幾重にも連続して響く破裂音。
それすらも士郎さんは片手に持った剣だけで全て叩き落とす。
……馬鹿げている。これは一体何の冗談だ。
高畑先生の放ったものは拳圧……つまりは完全な不可視。さらにその速度とて極めて高速だ。
その悉くを防ぎ切ったという事は、高畑先生の攻撃を全て見切っているという事ではないか。
「――ではネ、魔法使いの諸君。約束の時間にまた会える事を祈ているヨ。まあ、その時間に生きていられればだけどネ……再見」
そう言い残して、超は今度こそ振り返ることもなく再び歩みを再開した。
本来なら止めるべきだろう。
なんとしても彼女をこの場に釘付けにするべきなのだろう。
しかし、そのための一歩を誰もが踏み出せない。
それと言うのも、
「……士郎さん」
……そう、その場に彼が立ち塞がっている限り、それは叶わない。
私はただ呆然とその名を呟く事しか出来なかった。
ゆらり、と。
立ち塞がるように進み出てくる赤い外套を纏ったその姿を見ても現実味が沸かない。
まるで質の悪い白昼夢でも無理矢理見せられている気分だ。
……そして、そうであったならどれほどの救いだっただろうか。
「……士郎くん……やはり、本気なんだね?」
「冗談や何かでこんな事しませんよ」
高畑先生が士郎さんから視線を外さないまま言った。
「……追わないんですか?」
「ああ。僕も君を前にして余所見をするほど愚かじゃないつもりだよ」
高畑先生は油断無く士郎さんを見たまま、スッと、ポケットに入れたままの手に力を入れた。
ソレはまるで居合いを構える剣士のよう。
幾ら士郎さんと言えども、あの高畑先生を前にしては余裕は無い筈だ。
士郎さんは高畑先生の言葉を聞いて、そうですかと呟いた。
「それは光栄ですね。タカミチさんみたいに強い人からそこまで評価してもらえるとは思っても見ませんでした。でもそれは買い被り過ぎってモンですよ」
「君はいつも謙遜するね。――君は強い。間違いなくね」
士郎さんは高畑先生の言葉を聞いてバツが悪いように苦笑した。
「だから、それが買いかぶり過ぎだって言うんですよ。……でも」
士郎さんはそう言って言葉を途中で区切ると表情を消し、剣を握っていない方の手を水平にゆっくりと伸ばした。
その姿は何も存在しない空間を掴もうとしているかのようだ。
私はその姿に何とも言えない既視感を覚えた。
……何だ、この感覚は。
うなじの辺りが静電気でも感じているようにピリピリする。
指先は無意識のうちに意味もなく戦慄き、この得体の知れない感覚の正体を探ろうとしていた。
まるで未知の感覚……いや、違う。私はこの感覚をどこかで味わっていると本能が告げている。
しかし何処で……。
私はふと、士郎さんの左手に握られた剣を見た。
その剣を見たのは京都の事件以来だ。
黒い刀身を持つ肉厚の刀剣。刀身に亀甲柄に走る赤い線が特徴で、幅は広く鍔の様な物はない。
改めて見るそれは、まるで初めて士郎さんと手合わせをした時のような大型のナイフのようで――。
「……待て」
私は今、自分で何と感じた?
――”初めて手合わせをした時のような大型のナイフ”のようだと?
そんな感想を切っ掛けに、呆然としていた思考が高速で回転を始めた。
待て、待て、待て。
今私は何か重要な事を思い出そうとしている。
あの時。
士郎さんと初めて手合わせをした時の体験。
京都で初めて見た士郎さんの持つその剣。
その類似点と相違点だ。
黒い刀身の剣。
大型のナイフ。
京都での事件。
士郎さんの戦闘スタイル。
それらが導き出す結果に思考を必死に回すと、ある一つの結果に思い至り、それが示唆する結果に身体がゾワリと泡立つのを感じた。
それは、
「――――もう一本の剣は何処に?」
遂に私はその考えに至った。至ってしまった。
そして、
「―――今は余所見しないと死にますよ?」
士郎さんは最後通告のようにそう告げた。
「全員今すぐその場から退避しろーーーーッ!」
私は半ば反射的にそう叫んでいた。
それと同時に、何処からか高速で飛来した白い刀身の剣が、士郎さんの水平に掲げた右手に飛び込み、握られた。
次の瞬間。
前後左右、あらゆる方向から銀閃が殺到した。
視界を埋め尽くさんばかりの矢、矢、矢。
それが雨の如き密度で降り注ぐ。
「お嬢様ッ!!」
私は叫んだのとほぼ同時に隣にいたお嬢様を含む、明日菜さん、ネギ先生に体当たりをするような勢いでその場に引き引きずり倒した。
頭上では止む事のない風切り音が無数に飛び交う。
……いや、それも少し違う。
私は伏せていた顔を上げた。
私達の近くに飛び交う矢はそのことごとくが撃ち落とされているのだ。
その原因は高畑先生の力によるもの。彼は近くにいた私たちを守るように、高速でその拳を放ち続け、飛来してくる矢を迎撃していた。
しかし、高畑先生程の実力者であっても、この猛威の中で守りきれるのは半径2メートル程度なのだろう。その証拠にその表情に余裕など微塵もなく、焦りの感情が浮かんでいる。
そして私はそこで奇妙な物を見た。
高畑先生の拳圧に矢が触れた瞬間、ブワッと黒い球体が出現しているのだ。
直径でおそらく一メートルにも満たないであろうソレは、現れた次の瞬間にはすぐさま消滅している。
現れては消え、現れては消え。
それを幾度も幾度も繰り返しているせいで、視界は黒い球体で埋め尽くされていた。
そんな息を付く暇もない嵐の中微かな隙間の向こう側で、私は――ソレを見てしまった。
一人の魔法使いにその矢が接触した瞬間、
「なッ!?」
消えた。跡形もなく消えた。
黒い球体に引き摺り込まれるように、人が消えた。
そんな光景があちこちで起こっている。
あの黒い球体は一体何だ。
一見泡のようだが、あのような魔法は見たことも聞いたことも無い。
消えた人物は何処へ行ったのか?
あの魔法の正体は?
そして士郎さんは何故今までこの魔法をひた隠しにしてきたのか?
私はそんな疑問を、高畑先生に守られながら考えていた。
そして、あれほど降り止まないと思っていた矢の嵐が、やがて止んだ。
私は顔を上げて辺りを見回してーー愕然とした。
「……そんな」
視界の端に、いつか見たような極わずかな光の輝きを捉えた。
十中八九、士郎さんが例の糸による罠を作動させたのだと理解した。
罠を一つだけ作動させた。
それだけでこの損害である。
50人以上は確実にいた魔法使い達。
それが今は半数以下……20人程度しか立っていない。
しかも、残っている魔法使い達の殆どが、実力でこの場に残っているのではなく、消えた他の人が皮肉にも盾の役割となって『偶然』残ることができただけのようだ。
その証拠に残った大多数の魔法使いは、その場で頭を抱えしゃがみこんでしまっている。
けれど、彼ら、彼女らを責める気には私はなれない。
目の前で人が唐突に消えたのだ。
その時の混乱と言ったら語り尽くせぬものがあるだろう。
「……士郎くん、今の魔法は……」
高畑先生が肩で息をしながら士郎さんに問いかけた。
「ああ、魔法なんかじゃありませんよ――種明かしは、コレです」
士郎さんはそう言うと、ひとつの弾丸を取り出した。
「――強制時間跳躍弾。チャオから譲り受けたものですけどね。これを受けたモノはその周囲の空間ごと数時間先に飛ばされる銃弾です。これを矢の先端に取り付けて使用しただけですよ」
「数時間先だって……? そんな小さな弾丸に込められる魔力だけでそんな事が出来るわけが……」
「出来ますよ。この弾丸は世界樹の力を利用しているんですから」
世界樹の魔力を利用しただって?
それは即ち、前回の発光現象から長い年月をかけて溜まりに溜まった魔力を超の技術力によって横かすめしているという事なのだろうか?
それが事実なら恐ろしいことだが……、
「世界樹の魔力を利用してだって……? 馬鹿な、彼女にはそこまでの技術力があると言うのか……?」
「さあ? 本当のところは俺にも分からないですけど、重要なのはそこじゃない。そんなのはどうだっていい事なんです。本当にどうだっていいんです。重要なのは――これで効率的に邪魔者を排除できるという一点だけですから」
「……ッ」
高畑先生がその言葉に歯噛みするようにその表情を歪めた。
……この人は本当にあの士郎さんなのだろうか?
冷酷とも言えるような言葉を口にするその姿が、今までの士郎さんのイメージから余りにもかけ離れてしまっているように感じる。
「でもまあ、あくまで弾丸を当てるっていうプロセスを含む分、俺にはイマイチ扱いづらい代物だったんですけどね」
士郎さんはそう言って、弾丸を親指でピンっとコイントスをするように弾くと、
「だから正直言って、さっきの罠も効果はそんなに期待していなかったんですが……」
落ちてきた弾丸を受け止め、落胆したような視線を周囲に巡らせた。
そして、
「思ったより効果があったみたいだ……魔法使いってのは存外だらし無い連中なんですね。……所詮、この程度か」
感情を乗せず、ただ事実を確認するかのように呟いた。
その声に、私が未だ組み伏せたままの状態だった明日菜さんの身体がピクリと反応した。
「…………どう、して」
明日菜さんは何かを耐えるように、何かを堪えるように、全身をカタカタと震わせ、拳を血が滲む程キツく握りしめたまま――顔を上げ、叫んだ。
「――――どうしてッ! どうしてこんな事するのよシロ兄ッッ!?」
それは絶叫と言うより、まるで悲鳴のような叫び。
そして、それが心からの叫びだ。
目からは涙が止めど無く溢れ、潤んだままの瞳で士郎さんをキツく睨みつけている。
「…………どうして?」
しかし、士郎さんはそんな言葉を受け取ったにも関わらず、明日菜さんの言葉の意味がまるで考えもしなかった事でもあるかのように、心底分からないといった表情で、首をキョトンと傾げた。
「……どうして、どうして、どうして、か。 ……本当、どうしてなんだろうな。俺はこんな事がしたかった訳でもないのに。本当、どうしてなんだろうな……?」
「し、士郎さん?」
何処か虚ろな表情でそう言うと、士郎さんは最後に自嘲的な笑いを零した。
その言葉の意味が余りにも不可解で。
その態度が余りにも不可解で。
――私はただ、恐ろしいと感じた。
「なあネギ君、君は先生なんだろ? だったら俺にも教えてくれよ。……守りたい守りたいと思っていてもそれがどんどん内側から壊されて行っちまうんだ。傷付いて欲しくないと願っていても、関係のない人達も巻き込んで危険に近づいて行っちまうんだ」
士郎さんは両手を握り締める。
それはまるで、手のひらに握った一握の砂のようだ。
――零れ落ちて行く。
握り締めた指の隙間からポロポロと。
強く、強く。
大事にしようと強く握り締めた砂粒は、強く握れば握るほどその力強さで指の隙間からこぼれ落ちていく。
そして再び開いた手の平の上には何も残ってなどいない。
それはどれ程の恐怖だろう。
それはどれ程の虚無感だろう。
気持ちが強ければ強い程、こぼれ落ちていく。
失くした物ばかかりが多すぎて、再びその手の平を開く事にすら絶望が付きまとう。
そんな恐怖……私には想像すら出来ない。
「……なあ、俺は一体どうするべきなんだ? このまま指をくわえて事態の成り行きを見守っていればいいのか? それとも底なし沼のようなこの状況で足掻き続ければいいのか? …………わからないんだ」
士郎さんの表情が苦悶に歪んだ。
体は小刻みに戦慄き、噛み締めた歯がその強さに耐え切れずバキリと鳴る。
そして、
「――――わっかんねェんだよッ! なあ、俺は何の為にここに居る!? 何だっていつまでもこんな茶番を続けていなくちゃいけないんだッ!? 俺のすることは全て無駄だって言うのか!! 答えてくれよ――ッ!!」
初めて聞いた士郎さんの叫び。
喉が張り裂けそうなほど。
心が張り裂けてしまいそうな程の慟哭だった。
「そ、それは……」
感情を爆発させたかのような士郎さんの叫びに、ネギ先生は答えられない。
……無理もないだろう。
士郎さんの言葉にある問題は、即ち元々魔法に関係のない人達が魔法に関わり危険と隣り合わせになる事に対する言葉だ。
そして少なからず……いや、飾らずに言ってしまえば、大元と言って差し支えない程の原因を作っていたのが他ならぬネギ先生なのは、言い逃れの出来ない事実なのだ。
思い起こされるの宮崎さんや綾瀬さん、元々『こちら』とは一切無関係だった人達の事だ。
答えらない。
答えられる筈がない。
改めて突き付けられた事実に向き合うだけの覚悟が、彼にはまだないのだ。
突然の士郎さんの叫びに声も出せない程驚いている明日菜さん、お嬢様……それに私自身。
士郎さんの問いに答えることの出来ないネギ先生。
そんな私達を見て士郎さんは、折れた歯をプッと吐き出した。
「……いいさ、どうせ答えを得られるなんて最初から思っちゃいない。けどな、これがさっきのアスナの質問の答えでもある。……俺はな、もう待つのに疲れたんだよ。元には戻せない出来事の後始末だなんてもうまっぴらだ。だからこそ超の考えに賛同したまで」
「……士郎さん、貴方ともあろう御方が何故そのような事を……本当に超鈴音が成そうとしている事を理解してのお言葉ですか!?」
「当たり前だろう刹那。経験の浅いお前にはまだ理解が及ばないかもしれないが、魔法が公然のモノとなる事による益は確実にあるのさ」
「魔法が世界に知られるということが、どれほどの混乱を巻き起こすとは考えないのですか!?」
「考えた。でもな、それすらもチャオは想定済みだ。その対応策もある。そして俺はそれが実現可能だと判断した……問題に対する回答がある。ほら、こうやって考えれば問題なんて何もないだろ?」
「士郎さん、それは余りにも暴論です!」
「違うさ刹那、確かに滅茶苦茶に聞こえるかもしれないけど、暴論ではなくあくまで極論だ。極端だけど理は通っているのさ。俺の中でメリットとデメリットの計算が不等号でメリットに傾いた。ねえ、タカミチさん。貴方ならこの言葉の意味……わかりますよね?」
「…………」
高畑先生は無言を通す。
沈黙。
それは口に出していないだけで、決して異を唱えていないという時点で肯定と同意だ。
士郎さんはそれを確認してから視線を私に戻した。
「――それにな、俺に拒否権なんて始めから無いようなもんなんだ」
「拒否権が……無い?」
それは一体どういう意味の言葉だろうか。
言葉を表面通りに受け止めれば、何か弱みを握られて強制的に従わされていると聞こえなくもないが、しかし士郎さんは先ほど自分の意思で従ったと口にした。
だとすればその言葉の真意は一体なんだと言うのだろうか……?
そして、士郎さんはその言葉を口にした。
諦めたような口調で。
疲れ切った老人のような口調で。
「――――俺はな、チャオの願いを叶えるためだけに、世界樹の力で異世界からこの世界に喚ばれた存在なんだよ」
と、その言葉を口にした。
「――――は?」
「俺はこの時の為に喚ばれたと言った。世界樹はの力は元々、恋愛成就なんて些細な事を叶えるためにあるんじゃない。アレはただ純粋で強烈な想いを強制的に叶えるだけの願望機に他ならない。そこに願いの貴賎なんか存在しない、善悪すらもな。『純粋』でさえあればいいんだ。……だから誰よりも強力な超の願いに反応した。アイツの願いが何よりも純粋で強かったからこそ、世界樹はその願いを叶えようとした。……けど、このままだとその願いは叶えられないと分かったんだろうな、何がしかの妨害で。だから、その足りない部分を補うための存在を補填しようとし、適当な人材をありとあらゆる世界から探し、そして喚び出した存在……それが俺だ」
「……い、いえ。あの?」
「喚ばれた時期の多少の時期の差は世界樹の生きる時間軸を考えれば誤差のようなもんだ。たかだか数ヶ月、千年を優に超える寿命を持つ世界樹の時間で考えれば……その数ヶ月で俺が積み上げた全てですら誤差であるようにな」
「――――ぁ……」
私はその言葉に、そんな気の抜けた声を上げる事しか出来なかった。
士郎さんは……一体何を言っているんだ?
……異世界から喚ばれた――だって? そのような事、いくら士郎さんの言葉であろうとも信じられるわけがない。
いや、しかしそれは……。
「……それは、魔法世界からこちらの世界に来たという意味ではないのですか?」
「全く違うさ。読んで字のごとく異なる世界……魔法世界みたいな隣あった世界とは根本から違う。この世界とは異なる法則の世界から来た人間……それが俺の正体だ」
「しょ、正体って……それがなんだと言うのです! 貴方は実際に目の前にいて、私達と変わらない姿で存在しています! 士郎さんは士郎さんではないですか!?」
「……じゃあ聞くけどな刹那。お前は絵画に描かれている人間を自分と同じ存在だと認識できるのか? 小説の中の文字だけの登場人物が現実に飛び出してきたとしても、自分と同じ存在だと本当に言えるのか?」
「そ、それは……」
それは……どうなのだろう。
私は本当に自分で言ったように、そんな風に自分と同じ存在だと認める事ができるのだろうか?
本の中の登場人物がこちらを認識できないように、私達は向こう側を正確には認識できていない。
わかるのは一方的な理解のみ。相互理解など考えられもしない。
……即ちはそういう事だ。分かったつもりになるだけだ。
私はその答えにたどり着きしかし、努めて首を横に振った。
「い、いえッ! 例え仮にそうであったとしたら、既に超の願いは成就される事が確定しているという事なのですかッ!?」
そう、仮に士郎さんの言う事が仮に真実だとすならば、彼がここにいる時点で超の願いは叶うことが確定してしまっているのではないか?
士郎さんは言った、『自分は超の願いを叶えるために喚ばれた』と。
ならばその結果である士郎さんが呼ばれてしまっている時点で、それは成就される事が確定されてしまったのではないか。
「まさか。いくら世界樹の膨大な魔力があったって、確定的な未来を創り出すなんて事は出来やさないさ。未来を創り出すという事はそれだけで天地創造に匹敵する。複雑に絡み合う未来を捻じ曲げて、それでも矛盾しない世界を創るという事だからな。そこまで万能じゃない。出来るのはせいぜい確率を高めることだけ、あくまで手助けだけさ」
「……手助け」
「まあ、世界樹が使える魔力は俺が喚ばれた時点で持っていた魔力しかないからな。そんな中途半端な魔力で喚べたのは、守護者にすらなない、俺みたいな中途半端なヤツでしかなかったのは皮肉だな。……完璧な状態なら俺なんかじゃなく、それこそ本当のサーヴァントクラスだって喚べただろうに」
士郎さんの口から知らない単語が出てくるが、問題はそこなんかじゃない。
問題なのは――士郎さんが敵に回ってしまったという事実。
それが覆りそうもないという現実。
そして……士郎さんという存在の残酷性。
無理矢理喚ばれ、酷使され続けるなんてまるで奴隷ではないか。
「別に俺の正体がなんであっても構いやしないさ。俺の存在なんて大局に影響を及ぼす程じゃないだろう。――でもな、俺にだって意思はある。例えそれが偽物だろうと……そう誰かに仕組まれた感情であったとしても、自分の意思だと認識出来る想いがある」
「……その想いの結果がこの状況なのですか?」
「手段を選んでいられる身分なんかじゃないからな。最適じゃないが適当ではある。それで十分さ。手段は結果で塗り潰せるんだよ、刹那」
「…………」
……ダメだ。もう、言葉が見つからない。
士郎さんの苦悩を知ることの出来ない私には、もうそれ以上の言葉を口にすることが出来はしなかった。
士郎さんを止めるのは、もう不可能だと心のどこかで理解してしまっていたのだ。
けれど、
「……ダメです」
ここに、決して諦めることのできない少年がいた。
「そんなのダメに決まっていますよ、衛宮さんッ!」
「……何が……と、問えば、答えてくれるって言うのか? ネギ君……いや、ネギ・スプリングフィールド」
「全部がです! 魔法をバラして世界を混乱させることも! 衛宮さんがそうやって自暴自棄になることも! 結果のためには手段はどうでもいいって考えも!!」
「――へえ、随分と面白いことを言うんだな。それじゃあつまり、俺はただ手をこまねいて、こんな現状を傍観し続けろと言うのか」
「そんなんじゃありません! 確かに僕だってほかの人たちに迷惑を沢山かけてきました……でも、だからと言って全部を諦めてもいいという理由にはならないんです!! もっと何かあるはずでしょう!? 衛宮さんも諦めなくても済む答えがあるはずでしょう!?」
「……話にならん。感情で物事を語るなよ、そんなんじゃいつか理想に潰されるぞ」
ネギ先生の言葉を士郎さんは正面から切って捨てた。
冷酷とも思われるその言葉。
それにどうしようもなく悲哀を感じてしまうのは何故なのだろうか。
しかし、そんな言葉に屈するような老齢さ、もしくは賢さをネギ先生は持っていなかった。
「どうしても止めないって言うなら――僕が力ずくで止めます!!」
ネギ先生はそう言って杖を構えた。
――いや、構えてしまった。
杖の先端を士郎さんに向けるように。
絶対の敵対意思を明言するように。
「――いけないネギ先生!! 今の士郎さんに武器を向けてしまってはッ」
私がそう叫んだ瞬間だった。
「え?」
ネギ先生の何処か間の抜けた声が聞こえた。
気がつけば士郎さんは、いつの間にか右手に握った剣を天に向かって突きつけるような姿勢で立っていた。
私はその切っ先の延長線上に視線を向ける。
そこには、逆光によって黒く染められた何か細長いモノがヒュンヒュンと回転しながら空中を舞っていた。
何だと考えるより早く、それは地面にドサりと重い音を立てて落下する。
それは、木の枝のようでそうではなく、片側は五本に分かれていた。
宙を舞って落下したモノ。そう、それは――切り飛ばされたネギ先生の左手だった。