5
梅雨晴れの朝だった。
六月も半ばを過ぎた季節、紺碧に彩られた空に浮かぶ初夏の太陽が、強い陽射しを容赦なく降り注いだ。
生温い風が行きかう通行人の肌を撫で、毛穴から汗がどっと噴き出す──といえば、少しはカッコよく聞こえるかもしれないが、要するに蒸し暑かった。
それもただの暑さではない。なにしろ頭が茹で上がってしまいそうなくらい、クソ暑いのだ。
年寄りなら脱水症状を起こして脳梗塞になりかねない。
暑い。それにしたって暑すぎる。みんなこの暑さにはうんざりしていた。
あと一ヶ月ちょっとで夏休みというこの時期に竜宮寺留美はある小学校に赴任してきた。
留美は今年二十二歳になる新米の教師である。
長い睫に目鼻立ちの整った端正な顔をしており、肩まで伸びたロングヘアの美人だった。
「おう、先生、おはようさん」
追い越しざまに留美の肩をポンと叩き、顔見知った相手が横切っていく。
見慣れた黒いダボシャツに雪駄履きの姿──五年三組の山崎次郎だった。
「先生、いそがねえと遅刻するぜェ」
口端に咥えた鉄製の喧嘩煙管をくるくると器用に回し、次郎が留美を急かす。留美は何も言わなかった。
言わなかったというよりも、かける言葉が見つからなかった。
次郎が浅黒い苦み走った横顔を教師に向け、そんなぼんやりしてちゃ、世の中生きていけないぞと忠告する。
口調といい容貌といい、次郎は若き日の高倉健……というよりも菅原文太にソックリだった。
雰囲気は『仁義なき戦い』よりもむしろ『まむしの兄弟』に主演していた時の菅原文太に近い。
小学校の正門に突っ立っていた体育教師の田代が次郎を見るなり「文太さん、おはようございますっ」と、
さながら付き人かマネージャーの如く九十度の姿勢でお辞儀をする。
次郎が「おう、おはようさん。止せよ、俺は文太じゃねえよ」と苦笑いを浮かべて挨拶を返した。
田代は菅原文太の大ファンだった。
どれくらい好きかといえば、素っ裸になって菅原文太と抱き合い、
無法松の一生を歌いながら日本海の荒波に飛び込めれば、そのまま地獄に落ちてもいいと思っているほどだ。
そう、田代はホモだった。
ちなみに職員室では、次郎が菅原文太の血縁、ないし隠し子ではないのかという憶測が飛び交っている。
「次郎、おはよう」
「おう、良太か、おはようさん」
正門の近くにいた良太が、手を上げて次郎に挨拶を交わす。そんな仲の良さそうなふたりの姿に田代が腰をくねらせ、身悶えた。
田代は良い男が大好きだった。留美が軽蔑の視線を田代に突き刺す。
坂本良太──これもかなりの二枚目だった。次郎が菅原文太なら、こちらは松田優作である。
それも『野獣死すべし』ではなく『蘇る金狼』バージョンの松田優作だ。
菅原文太も色男だが、こちらは情熱的で愛嬌のある雰囲気がある。
それに対して松田優作は無感動で冷酷な、ちょっと気取ったペダントリックな言い方をすれば、ニルアドミラリ的なハンサムだ。
留美のタイプは松田優作だった。
菅原文太も決して嫌いではないが、やはりどちらか選べと言われれば、真っ先に松田優作と答えるだろう。
もしも良太に好きだと告白されたら──留美はその告白を断る自信がなかった。
──良い身体をしているな、先生。
良太の掌が女教師の太腿をストッキングの上から撫で回す。官能的で繊細な手つきだった。
──だ、駄目よ……良太君、いけないわ……
良太の腕を弱々しく掴み、留美が何度もこんな事いけないわと抗う。
──何がいけないっていうんだ?
──だって、あなたと私は教師と生徒なのよ。それに十歳以上の年の差が……。
──そんなもん関係あるか。
胸や脇腹を巧みに触りながら、突然良太が留美の唇を己の唇で奪った。男の舌先が女教師の歯茎を繊細にまさぐる。
──んっ、んんっ。
自然と互いの舌が絡み合った。ぐったりとなった留美が男の胸に身体を預ける。
頭の中で理性が止め続けるが、留美の女としての性が激しく男を求めた。
留美が濡れた瞳で男を見上げ──そこで始業のベルが鳴り、留美は妄想から現実の世界へと引き戻された。
6
コレステロールがたっぷりと詰まった成人病患者まっしぐらの三段腹を揺すり、
教師の松岡が重度の歯槽膿漏を患った口から腐敗臭を吐き出した。コンセントを連想させる垂直にせり上がった松岡の豚鼻がひくつく。
教室はクーラーが効いているはずだった。だが、松岡の腋下はべっちょりと汗に濡れ、酸っぱい臭気を発散させていた。
「こ、こんな問題がわからないっていうのぉ」
黒板に書いた問題が解けず、おろおろしている女生徒を見下しながら、松岡が暗い悦びに浸る。
松岡は激しいコンプレックスをかかえた男だった。キムタクとまではいかなくても、せめて人並みの容姿を持って生まれたかった。
小学校、中学校、高校、大学までの青春時代──松岡は周囲にいじめられながら、何一つ良い思い出を作る事無く過ごしてきた。
それもこれも全ては自分の容貌が醜いせいだと、松岡は鬱屈を抱いたまま今日まで生きてきた。
根暗で不細工な太った少年はコンプレックスを克服することができずに大人になったのだ。
給料が上がらないのも異性にもてないのもストレスで髪の毛も抜け落ちるのも暴飲暴食をしてしまうのも全部この見た目のせいだ。
神は平等だとほざく宗教信者を見ると顔面をぶっ飛ばしたくなってくる。
もっともそう思うことはあっても、実際に殴ることはしなかった。松岡にはそんな度胸はないからだ。
これらに関する事柄は松岡の容貌というより、性格に起因する割合がかなり大きかったが、本人は決してそれを認めない。
もしも認めてしまえば、最後の心の拠り所を失うことになる。つまり完全な自己否定だ。
それだけはなんとしても避けたかった。松岡とはそんな男だった。
腕力も顔も知性も学歴も根性も人より劣る松岡、対人恐怖症気味で異性の眼をまともに見ることもできず、年下にも馬鹿にされる松岡。
松岡が教職に受かったのも奇跡なら、今までクビにならずに済んだのもまた奇跡だった。
そんな僥倖に気づきもせず、松岡は今日も生徒いびりに精を出す。
大人には全く手も足も出ない松岡は、子供をいじめる事でしか自己のストレスを発散できないからだ。
今日もまだ小学校では習わない問題をわざと出して目をつけた生徒をいじめる。
生徒達がつけた松岡の渾名は変態豚だ。変態豚──それは恐ろしく的確な渾名だった。
涙を浮かべた生徒の表情──松岡は性的興奮に極みにあった。
だがその時、松岡のお楽しみを邪魔するかのように教室のドアが開かれた。
教室に踏み込んできたのはクラスの問題児である蛇田黒一だった。通称は城崎小のローワン・アトキンソンだ。
「また生徒をいじめてるのか、松岡」
松岡は黒一が苦手だった。身長百六十センチもない自分と身長百八十センチ以上ある黒一。
顔はローワン・アトキンソンなのでそれほどハンサムではなく、むしろ老け顔なのだが、黒一は話術が巧みだった。
「何々、和解に関する民法の規約について、1から5の中から正しいものを選び、その理由を述べよ。こんなもん小学校で習うのか」
黒板の問題を眺めていた黒一が松岡のほうを振り向く。
「これは2の公序良俗違反を基礎にする和解契約だな。
公序良俗違反、強行規定違反は無効であり、それを元にした和解契約も当然無効になるからだ。
所で松岡、いい加減にしないと懲戒免職されるぞ。それともお前はクビにでもなりたいのか。クビになってニートになりたいのか。
まあ、お前の場合はニートよりもむしろミートだがな」
蛇田黒一は毒舌だ。同じローワン・アトキンソンでも彼は『Mr. ビーン』ではなく『ブラックアダー』だった。
黒一の投げつける辛辣な言葉に何も言い返せず、松岡が涙ぐむ。
それはまさに蛇に睨まれた蛙ならぬ、蛇に睨まれた豚だった。
「人生とは有限だ、松岡。私はお前の退屈な授業を受ける気は更々ない。
お前の授業を受けるくらいなら私はその限りある時間を使ってリラダンの論文を書くか、エイズの検査を受けるだろう」
そして松岡の尻を蹴っ飛ばして教室から追い出し、自ら教鞭をとると黒一は授業を再開した。
「それでは先週出した宿題についてだが、みんなやってきたかな」
生徒の一人が手を上げた。
「アナーキズムっていうのは、結局の所、人間の性善説を支持する考え方なんだよね。
みんな暴力的で攻撃的な荒廃したテロリストを思い浮かべるだろうけど。
でも、アナーキズムの理論は人間の内にある道徳的精神は法律の拘束がなくても、秩序を保てるって言う話が前提にあって、
性悪説を唱えた荀子やホッブズ、マキャベリの考えとは対立して、むしろこれは性善説をとったロックやルソーに通じるものがあるよ」
「よく勉強してるな。それじゃあ、今日はドストエフスキーの『罪と罰』を朗読したいと思う。
昨日の続きからだから七十四ページを開いてほしい」
そして黒一が咳払いをすると、森本レオばりに滔々(とうとう)と読み上げていく。
「憎悪がラスコリニコフの身内にますます激しく燃え滾っていた……」
松岡が学校を罷免されないのはひとえに黒一のおかげといっても過言ではない。
黒一がきちんと授業を受け持っているおかげで、松岡の受け持つクラスは学力が高いと評判だった。