大急ぎで家を出た二人は、沙耶は自転車で、拳剛はその鍛え抜かれた両脚で、学校へ向け疾走していた。
必死で自転車を漕ぎながら沙耶は腕の時計に目をやる。
「あっちゃー、まずいよ拳剛。このままじゃ遅刻しちゃう!」
時計は8時10分を示していた。
タイムリミット、すなわちクラスのホームルーム開始は8時30分。一方沙耶たちの通う八雲第一高校までは、自転車でもまだ40分くらいかかる。単純に計算しても20分ほど足が出た。
去年の4月に入学してから今まで無遅刻無欠席を通してきた沙耶としては、今更遅刻はしたくない。
「うーむ、仕方あるまい」
拳剛が急に立ち止まる。
そのまま拳剛が両手を合わせ瞑目すると、彼の巨体からうっすらと淡い光の粒が立ち上った。人間の全身を巡るエネルギーの道、すなわち気脈を操作することで身体能力の活性化を行っているのだ。東城流の基本技術である。
幼い頃に道場を辞めた沙耶はその仕組みまではよく知らないが、その効果は良く知っていた。この男の変態的とも言える身体能力は、本人の鍛え抜かれた筋肉にだけでなく、この技法に因るところも大きいのだ。
「あ、よっこいしょっと」
気を練り終えた拳剛はしゃがみこむと、その大きな両肩に沙耶と沙耶の自転車を担ぎ上げる。
「え、ちょ、拳剛!?」
予想外の行動に沙耶は思わずあわてるが、この図体のでかい幼馴染はまったく気にした様子も無い。
「沙耶の自転車に合わせるよりは、全部担いで俺が走ったほうが速いのでな」
沙耶の体重は(自称)50kg。この男は、50kg以上の重りをつけて、それでも尚自転車よりも速いと言う。常軌を逸した物言いであるが、そういう人間が実際にいるのを沙耶も知っていたので、それに突っ込むことはしない。
人間の枠から外れた力を持つというのであれば、例えば彼女の祖父 東城源五郎がそうであったし、『尻派(シリーズ)』・大番町も当てはまる。そういう人たちは確かに、(どういう理屈かは知らないが)この程度はやってのけることができるのだ。
とはいえ。自転車も自分も持たせるのは、拳剛とは知らぬ仲ではない沙耶でも、なんだかとても悪い気がした。
「お、重くない?」
沙耶が肩越しに覗き込むと、しかし拳剛は豪快に笑う。
「この程度軽い軽い!特に沙耶は胸にも尻にも肉が無いかr」
「目潰しなら拳剛にも効くかな………?」
申し訳なさは一瞬にして霧散した。
無表情でピースサインを作る沙耶に、拳剛は冷や汗を浮かべる。
「さ、さぁ行くぞ!しっかり捕まっていろよ!!」
その言葉と共に、拳剛は一気に走り出した。
景色が流線型に変形し、後ろへと流れていく。風圧で体ごと吹き飛びそうになる。とんでも無いスピードだ。
沙耶は拳剛の肩に必死で捕まりながら、ペシペシと力なく拳剛の頭をはたいた
「拳剛!速い速い速すぎ!」
「はっはっは、そうはしゃぐな!」
「違うわ!速すぎて眼が痛いの!スピード落とせ馬鹿ぁ!!」
ノーヘルでバイク乗っているようなものである。
バイクと違うのはトラックとぶつかっても大丈夫で、むしろトラックのほうがスクラップに成りかねない所くらいか。
「後、ナチュラルに車と併走すんな!目立つだろ!!」
「成程、つまり裏道へ行けということだな!人目に付かなければ本気で走っても問題なしと言うわけかッ!!」
――――――普通の人間は手ぶらの時だって車と同じスピードなんて出せないんだよ。
――――――だからちょっと速度を落としてね。
沙耶はそういう意味で言ったのだが。何をどう曲解したのか、お馬鹿はルートを変更して細い路地裏へ突入した。
「違っ!?スピードを落してって…………わ、わぁーーーッ!?」
「さぁーあ行くぞ!!」
音も置き去りにするのでは。そう錯覚するほどの超加速。もはや眼も開けていられない。拳剛がその豪腕でしっかりホールドしていなかったら、小さくて軽い沙耶など風圧で彼方まで飛んで行っただろう。
「ひ、人にぶつかったりしないでよ!」
あまりの速度に恐怖を覚える。と言っても自身の身を心配しているわけではない。拳剛が間違えて誰か、もしくは何かにぶつかることを恐れているのだ。こんなスピードで衝突事故など起こせば、大惨事になることは間違いない。
だが拳剛はそんな沙耶の心配はどこ吹く風で、いつも通り豪快に笑う。
「安心しろ、今走っているのは民家の塀の上だ!」
「いや、どこ走ってんのさ拳剛!!?」
「はっはっは!!細かいことは気にするな!俺にも、一応考えがあるのだ!
塀の上を走れば、間違って誰かを轢くことも無………」
拳剛が全て言い終わるよりも早く。
結構な衝撃が沙耶を襲った。
眼を開けると沙耶の目の前で、竹刀袋を持った制服の少女が空高く吹っ飛んでいた。推定高度10メートル。ふくよかな胸が宙で揺れる。少女は空中で二、三回クルクルと回ると、重力に逆らった奇妙な軌道で下に落ちていった。
「…………まあ、時にはあるかもしれんな」
大惨事である。
「えええっ!!?拳剛、は、早く救急車呼ばないと!?」
「いや、彼女は無事だ」
「何言ってるんだよ、そんなわけないでしょ!?」
120㎏(拳剛)+50㎏(沙耶)+α(自転車、カバン、etc)で重量およそ170㎏ちょい。スピードは最低でも時速60km以上は出ていた。要するに少女は車と正面衝突したようなものなのだ。無事どころか、下手をすれば生存しているかも怪しい。
「いや、大丈夫です。お気になさらず」
が、どういうわけか。
たった今空中をぶっ飛んでいたはずの女の子は、全くの無傷で沙耶と拳剛の目の前に立っていた。
拳剛がぺこりと頭を下げる。
「うむ、やはり無事だったか。いきなりぶつかって申し訳ない」
「いえ、こちらこそ不注意でした。まさか自分以外に塀の上など走る者が居るとは思わなかった」
少女も静かに頭を下げる。一方沙耶はといえば、目の前の展開に頭が着いていけなかった。
「……あのさ、今あなた拳剛とぶつかって十メートル位空に吹っ飛んでたよね?私の見間違いかな」
「いえ、見間違いではありません。ですが大丈夫、受身は取りましたから。ダメージはありません。」
受身で緩和できるレベルじゃないだろと思わず口から出かかるが耐える。どうやらこの少女は拳剛や祖父と同じ類の人間の様子だ。突っ込んだら負けである。
拳剛は少女の言葉に感心したように頷いた。
「うむ、見事な着地だった。そして見事なおっぱいの軌跡だった。あれならダンプに突っ込まれても無傷だろう」
「は、はぁ」
「乳は関係ないだろ、ナチュラルにセクハラすんな」
ガツリと拳剛のわき腹に肘鉄を叩き込む。下心が無い分、この男の下ネタ(本人は普通に会話しているつもりだろうが)は性質が悪い。
ふと、拳剛は女生徒の顔を覗き込んだ。そして顎に手を当て、一時何かを思い出そうとうんうんと唸った後、少女に尋ねた。
「……なぁお前さん、もしかして前にどこかで会ったことはないか?」
「え?」
「あれ拳剛、知り合い?」
拳剛の言葉を聞いて、沙耶も少女を観察する。
身長は女子の平均よりは少し高い位。ストレートの黒髪は後ろで一つに束ねて、腰までも長さのあるポニーテールにしている。切れ目が印象的な美人さんだ。
制服から同じ学校であることが分かるが、しかし沙耶はこんな美少女は見覚えが無かった。
じーっと覗きこむ二人に、切れ目の少女はびくりと震える。
「た、多分勘違いでしょう。では私は急いでいるので、これにて御免」
「む、ちょっと待……!」
拳剛が引き止めるのも聞かず、少女は脱兎のごとく駆け出した。拳剛に勝るとも劣らない速さで駆けて行き、その姿はあっという間に見えなくなる。
完全に少女が行ってしまったところで、拳剛は改めて首を傾げた
「うーむ、確かにどこかで会った気がするのだがな」
「気のせいじゃない?同じ学年じゃ見たことないし、上級生か下級生か。もしかしたら転校生かもしれないよ」
とはいえ今は4月が始まったばかり。転校生の線は薄いだろう。
「そうか?まぁそうかもしれんな
しかしそれにしても………いいデッパイ(※デッカイおっぱい)だった」
「目潰しっ」
「目が!?目がぁっ!!?」
沙耶と自転車を担ぎ上げた拳剛は、再び塀の上を疾走していた。思わぬところで時間を喰ったので急がねばならない
「もう間違ってぶつかったりしないでよ」
「大丈夫だ。今はちゃんと内視力を使っている。ぶつかる前に回避行動を取れるぞ!」
拳剛が笑顔でサムズアップする。とりあえず軽くチョップしておく。
「お馬鹿、できるなら最初からやってよ」
そう言って沙耶が頬を膨らますと、拳剛は申し訳なさそうに頭を垂れた。どうやら本気で反省しているようだ。
「うーむ、いやすまん。まさか犬猫以外に塀の上を走る者がいるとは思わなかったのだ、正直油断していた。
その上あの少女中々に気配を消すのが上手くてなぁ。
だが今は内視力で気脈から人間を探っているからな、滅多なことがない限り問題はない」
「滅多なことって、たとえば?」
「そうだな、例えば『俺やさっきの少女位の使い手が本気で気配を消して移動などして』いたら、接近に気付かず吹っ飛ばしてしまうかもしれないな。
しかしまぁ、そんなことは万が一にも無いだろうよ」
「そっか、それじゃ大丈夫だね」
更に拳剛は説明を続ける。
「後はそうだな。沙耶のように特殊な気脈の持ち主の場合、内視力が正常に動作しないこともある。
俺がお前の攻撃を全く避けられないのも、実はそのせいだしな」
「へ?それって、一体どういう……」
今、何か気になることを言った気がする。そう思った丁度その時、再びかなりの衝撃が沙耶を襲った。
だが周りを見渡しても、先ほどのように無残に吹っ飛んだ人間は見つからない。
「………あれ、今なんかぶつからなかった?」
「むむむっ?いや、気のせいではないか?俺の内視力には特になにも引っかからなかったぞ
もしぶつかっていたとしたら、それは相当な使い手だろうな。是非手合わせ願いたい。」
「……そう?じゃあ気のせいか」
沙耶も拳剛の眼力の凄まじさは知っている。
1km先からでも女性のバストサイズを言い当て、更には胸の黒子の位置まで見透かすその瞳は、乳関連だけに役に立つわけではないのだ。その拳剛がなにも無かったと言うなら、それは事実なのだろう。
だがしかし。
その背後で、拳剛たちとのすれ違いざまに吹っ飛ばされた小物臭い金髪のイケメンが居たことは、―――――皮肉にも彼の気配遮断スキルが高すぎた故に――――二人が知ることはない。