恐怖、嫉妬、怨嗟、悲嘆、哀愁、憎悪。
あらゆる命の放つ負の感情は、重く淀んだ気となって大地深くへと沈んでゆく。その淀んだ負の気はどこまでも落ち続け、最後に辿り着く場所は世界の根源、龍脈である。そして負の気は龍脈に蓄積し、長い年月をかけてより濃く、より密に、より巨大になり、最後にはヘドロの如き『汚濁』となる。
『汚濁』は龍脈を浸食する。大地の気脈たる龍脈をどす黒く染め上げ、穢し、喰らい、世界に禍をもたらす。
その『汚濁』こそが、太刀川とエイジ達が祓わんとしていた龍脈の穢れである。
その『汚濁』が、世界の穢れの化身が、今まさに地上へと現出せんとしていた。それは黒典によって呼び出された龍脈の流れに乗って地上へと上昇し、己と同種の気を持つものへ迫る。
同種の気とはすなわち龍脈の鍵。そしてその鍵が収められているのは東城沙耶の胸部である。世界をも穢す『汚濁』は、たった一人の少女の乳を目がけて進んでいた。
そして、その時がやって来る。
突如として大地にどす黒いものが溢れた。地下から湧き出たそれはボコボコと蠢いたかと思うと、直ぐに無数の触手を噴き出した。汚濁の触手は目にもとまらぬ速度で沙耶へと絡みつき、悲鳴をあげる間すらも与えずにその華奢な身体を完全に包み込む。汚濁は際限なく溢れ続け、触手へと姿を変えながら沙耶を包み込む。無数の触手の群れによって形作られたそれは、次第に繭の様な形を成してゆく。
瞬きする間に、沙耶の身体は巨大な汚濁の繭の中に収められた。だが、なおも穢れの噴出は止まらない。それどころか勢いを増し、沙耶を包む巨大な繭を突きあげるように噴出する。噴出する汚濁は柱となって繭を天高く突きあげる。
そして僅か数秒で見上げるほどの巨大な柱がその場に出現した。
それは、さながら邪神を象った偶像の如き禍々しき様相だった。闇夜の天を突く巨大な闇色の柱。あるいは邪神そのものだったのかもしれない。
この世のあらゆる陰を内包したそれは、常人であれば眼にしただけで正気を失い発狂するだろう。
「チィッ、もう『穢れ』が顕現したか」
想定よりも遥かに早い時刻での『穢れ』の出現に、黒典は思わず舌打ちする。まさに最悪のタイミングだった。命を剥き出しのまま削り合うかの如き死闘を終えたばかりの今、戦いの敗者である黒典だけでなく、勝者である拳剛ですらも満足に動くことすらできない。
せめてあと一時間でも穢れの『顕現』が遅ければと悔やむも、それはあまりに遅すぎる後悔だった。黒典が拳剛との決闘を受けた時点で、こうなることは確定していたのだ。
もっとも、それを知っていたところで二人の戦いは避けることはできなかっただろうが。
「沙耶っ!!」
一方の拳剛は、そんなことを考えている暇はなかった。何故なら、拳剛の内視力は沙耶の胸部の気が徐々に弱まりつつあるのを捉えていたからだ。。
今、内視力に映る沙耶の気、すなわち龍脈の鍵の気は、普段のような太陽の如き煌めきを放っていない。それどころかゆっくりと輝きを失っていっている。高密度の気の塊である龍脈の鍵が、『穢れ』に汚染されていっているためだ。
龍脈の鍵は今や沙耶の心臓そのものである。完全に汚染されきれば沙耶の命は無い。
最早拳剛に躊躇っている余裕などは無かった。一刻も早く、穢れの化身の内に囚われた沙耶を救い出さなくてはならない。目の前にそびえ立つ天を突く汚濁の塔を目がけて拳剛は一直線に走りだす。
「待て拳剛、先走るなッ」
「時間がない、このままでは沙耶の命が持たんのだ!」
制止する黒典を振り切り拳剛は駆ける。師が託した願いを叶えなくてはならない。なんとしてでも沙耶を救わなくてはならない。今の拳剛はただ盲目に、その思いだけに支配されていた。
黒典は逸る拳剛を助けに入ろうとするが、しかし身体が動かなかった。龍脈の力の一部を『黒』で喰らい、超人を越える超人となったとはいえ、黒典が拳剛から受けた傷はあまりにも深い。動けるほどに回復するにはいま少しの時間が必要だった。
そしてその少しの時間ですら今の拳剛には待っている暇は無い。そびえ立つ穢れの柱へ向け一直線に駆け抜ける。目指すは柱の天頂に座す汚濁の繭だ。
拳剛が汚濁の柱の足元まで到達しようとするその瞬間、柱がうごめいた。表面をボコボコと泡立たせたかと思うと、そこから無数の触手を放つ。触手は放射状に拡散し、弾丸の様な速度で敵を串刺しにせんと迫る。実体をもつほどの超高密度の気の塊だ。その汚濁の槍に当たれば、拳剛の身体ですらひとたまりもないだろう。
だが拳剛は止まらない。
「邪魔を、するなッ!!!」
間断なく襲い来る無数の触手。拳剛はそれら全てをいなし、かわし、そして打点をそらして迎撃する。圧倒的突進力を誇る触手を、正面からではなくその横面を叩くように拳を打ち込み、破壊する。全てを見切る『内視力』と衝撃を自在に操る『通し』を全力発動している今、拳剛の拳に粉砕できない物は無い。迫りくる触手の猛攻を退けて巨大な柱の根元まで辿りつくと、拳剛は天頂へ向けてその柱をよじ登り始めた。
触手を掻きわけて巨大な黒の柱を昇る。汚濁に爪立て昇る。触手を握りつぶし昇る。時に、柱から沸いて出た触手が拳剛を叩き殺さんと振り下ろされるが、それすらも足場にして拳剛は昇る。沙耶のいる汚濁の柱の天頂を目指して、拳剛はひたすらに進み続ける。
そして猿のように軽妙な動きで一気に柱を昇り切り、拳剛は沙耶のいる柱の天頂まで辿りついた。そこでは汚濁で形作られた巨大な繭が鎮座し、沙耶を完全に包み込んでいる。
後一歩。あと一歩で全てが終わる。拳剛は握る拳にしっかりと力を込めた。そして直径100mはあるであろうその巨大な汚濁の繭に向け、大きく拳を振りかぶる。
その時、繭に変化が起こった。それはまるで拳剛の敵意に反応したかのようだった。突如として汚濁の繭は泡立ち、膨張し、爆発したのだ。いや、実際にはそれは爆発ではなかった。爆発の如く見えたそれは、実際は繭が無限にも思えるほどの数の触手を一気に噴き出した姿だった。
先ほどまでとは比較にならない量の触手が、拳剛を迎撃する。圧倒的な数の暴力。攻撃が己の肉体をかすめるだけで、砲弾の爆発に巻き込まれた様な激痛がはしる。肉が爆ぜ骨が砕ける。龍脈の超高密度の気の攻撃は、今まで体感したどんなものよりも速く、堅く、鋭く、重い。直撃などしようものならば拳剛の肉体は爆発四散し、塵も残らないだろう。
「おおおおおおおおおっ!!!!」
だが拳剛は一歩とて退くことはない。圧倒的な物量と質量と速度で以て迫りくる触手。その全てを、内視力と通しをフル稼働し凌ぎ切る。己に向けられた攻撃を余すことなく粉砕し、沙耶へ向けて前進する。
僅か数秒にて無限にも思える触手を打ち砕き、そして拳剛は最後の一歩を踏み出した。
「今、助けるぞ」
そう言って、拳剛は繭に向けて拳を大きく振りかぶる。
瞬間。
まばゆい光が辺りを包んだ。煌めきが拳剛の視界を僅かに阻む。よく見ればそれは、いつのまにか繭から頭を覗かせていた触手が、その先端から放った光であることがわかった。
数秒遅れて、拳剛は自分の身体が大きく揺らぐのを感じた。脇腹が焼けるように熱い。咄嗟にそこに触れた手が、鮮血で真っ赤に染まる。腹部に直径数センチの風穴があいていた。触手が放ったまばゆい光は、レーザーの如き光線となって拳剛の肉を焼き切り貫いていたのだ。内視力の先読みを以ってしても、攻撃に気付くことすらできなかった。
「ぐ……ぅッ………!」
拳剛はがくりと膝を突く。立ちあがろうとするが、だが力が入らない。
僅かに一撃。たった一撃。ただそれだけで、拳剛の肉体は立ちあがることすらできなかった。度重なる戦いの果てに、拳剛の肉体は命を繋ぎとめることすら困難なほどに、深く傷ついていた。
「くそ、くそっ、くそ……ぉッ……!!!」
あと一歩、たった一歩。だがその一歩が届かない。拳剛はあらん限りの怒りを篭め、怨嗟の表情を繭に向けた。
だが触手はその怒りにも何ら反応を示すことなく、ただ無慈悲に拳剛へと砲口を向ける。
「沙耶…………ッ!!!」
幾条もの光線が放たれる。反応することすら許さずに拳剛の肉体に無数の穴を穿つ。その身体は宙を舞い、柱の天頂からはじき出され、そして遥か下の地面に向けまっさかさまに落下した。
全ての希望を失い、男は絶望へと堕ちてゆく。
そしてそれきり、地に堕ちたその男が立ちあがることはなかった。
****************
無数の光の筋に貫かれ地へと落ちた拳剛。そこへ止めを刺すかのように、汚濁の塔が蠢いた。無数の触手を生成し射出する。おびただしい量の触手の槍が無抵抗の拳剛へと迫る。
「拳剛っ!!!」
即座、黒典は脱兎の如く駆けだした。拳剛が龍脈の穢れと拳を交えている間、その短い間で、黒典の身体は戦闘可能なレベルまで回復を完了していた。拭いきれぬ鈍い痛みは全身に残るが、今はそれよりも拳剛の命を救うことが先決である。拳剛の力がこれからの戦いに必要となると、黒典は理解していたのだ。
(拳剛を失う訳にはいかん。奴の技は絶対に必要だ、東城沙耶を救うためには……!)
龍脈の穢れを祓うだけならば、それは護国衛士や憂国隠衆でも可能である。衛士達の任務は元来、そういった魑魅魍魎を相手取るものだからだ。
あるいはその衛士・隠衆連合軍を上回る戦力を有する巨乳党であっても、同様に龍脈の穢れを滅ぼすことは適うだろう。
そう、単に滅ぼすだけならばそれは不可能なことではない。
だが東城沙耶を助けようとするならば話は別だ。
龍脈の穢れを祓い、かつその穢れの核となった少女を救うことは、衛士にも隠衆にも巨乳党にも、あるいは黒典自身にすら不可能だ。
それができるのは、『今』の東城流の技を修めた者のみ。そして先代当主である東城源五郎がこの世を去った今、この世で唯一人、等々力拳剛のみが東城沙耶を救い得る。
黒典は最早東城沙耶を犠牲にするつもりはない。あるいは決闘の勝者となっていたのならば、黒典は沙耶を見捨てて己が悲願を果たしていただろう。しかし今は違う。黒典は負け、その歪んだ信念は拳剛の拳によって粉砕された。
故に今の黒典に願いがあるとするならば唯一つ。等々力拳剛の行く末を見届ける。ただそれだけである。そしてそのとき拳剛の隣には、彼が命懸けで守り抜いた少女がいなくてはならない。拳剛が勝ち取った命をこのような形で失うことを、黒典は認めるつもりはないのだ。
故に、今ここで等々力拳剛を失う訳にはいかない。わずか一息の間に黒典は拳剛の元へと辿りつき、迫りくる触手の前に立ちはだかった。
「掃き溜めのゴキブリ風情が、舐めるなよ」
黒典は『黒』を発動し、迫りくる触手を喰らう。ありとあらゆる気脈を浸食する黒典の能力の前に、気の塊である触手は僅か一合で喰いつくされた。
そのわずか一合の間に汚濁の塔は黒典の危険性を認知する。気の浸食の力。放置すれば自身の消滅を招くやもしれない。それを本能的に理解した龍脈の穢れは、死にかけの拳剛から、その前に立ちはだかる黒典へと標的を変更した。
黒典は右腕を天に掲げる。掲げた腕から漆黒の粒子が立ちのぼり、一つに収束し天を突く巨大な刃となる。それは超圧縮された『黒』の粒子の集合体だった。直接的な殺傷能力は無いが、その長大な刀身は触れるだけであらゆる気脈の力を一瞬で浸食し、貪る。
「黒に呑まれよ」
言葉と共に黒典は右腕を龍脈の穢れめがけて振り下ろす。本体に近づけまいと、汚濁の柱はおびただしい量の触手を放出し迎撃に回る。だがそれらは全て、黒典の『黒』の刀身に切り裂かれ、浸食され、消滅する。
そして黒典の振るう巨大な刃は易々と汚濁の柱にめり込んだ。
だがそこで黒典は顔色を変える。振り下ろした黒の刃は、汚濁の柱にめり込みはしたものの、それ以上はまったく喰い込まなかったのだ。
汚濁の放つ触手を尽く切り裂いたその刃も、汚濁の本体を傷つけることは適わなかった。龍脈の穢れの本体は、枝葉末節の触手とは比べ物にならない密度の気によって形作られていたのだ。
その密度の高さに『黒』を以ってしても浸食ができないのである。
「『黒』を以ってしても喰らいきれぬだと……!?」
黒典の表情が驚愕に染まる。龍脈の穢れの力は黒典の予想をも遥かに超えていた。
だが退くわけにはいかない。ここで退くことはすなわち、東城沙耶の死を意味する。それはすなわち、拳剛と黒典の決闘の意味を無にすることに他ならない。
黒典は咄嗟にもう片方の腕からも『黒』を放出する。そして右腕同様に巨大な漆黒の刃を生成し、汚濁の柱にむけて一閃する。だが『黒』が汚濁の柱を浸食することはない。渾身の力を込めても、穢れの化身に僅かの傷すらも付ける事はできなかった。
「ぐッ……」
全身全霊の『黒』すら通用しない。八方ふさがりの状況に、黒典は思わず歯噛みする。
一方黒典の攻撃を完全に耐えきった龍脈の穢れは、目の前の敵が攻撃の手を緩めるのを見逃さなかった。
その巨体を一様に蠢かせ、次の瞬間全身から触手を放つ。気の遠くなるような量の触手たちは、矢の如き速度で黒典へと迫る。
「ちぃッ!」
黒典は咄嗟に両腕の『黒』の剣を解除する。長大な二本の刃が消えさり、それによって生まれた余剰の『黒』が黒典の周囲に渦巻いた。『黒』の粒子の竜巻は、迫りくる触手を余すことなく浸食し、攻撃を完全に遮断する。
完全に攻撃が遮断されてなおも、龍脈の穢れは攻撃の手を緩めない。刃のように研ぎ澄まされた触腕で喉元を狙い、あるいは巨大な触手を生成し押しつぶさんとし、またあるいは糸のように細くなった触手で締め千切らんとする。
そのいずれもを、黒典の『黒』は防ぎきった。
そして突如として、龍脈の穢れは攻撃を止めた。
(攻撃をやめた……?一体何故だ)
突然の事態に黒典は一瞬当惑するが、すぐにその理由を理解した。
すなわち。龍脈の穢れは、自らに対して有効な攻撃手段を持たない黒典を、脅威にならないと判断したのだ。無論、龍脈の穢れの方も黒典に有効打を与えることはできない。しかし黒典がどう足掻いても自身を傷つけることができない以上、放置しても問題ないと判断されたのである。
取るに足らない存在と断じられた。怒りと屈辱に黒典の拳が震える。
だが彼我の戦力差は認めざるを得ない。本来ならば、龍脈の穢れは黒典一人で十分祓える筈だった。だが負傷しているとはいえ『黒』でも触手程度しか喰らいきれない。
想像以上に穢れが濃く、そして多すぎる。人知を越えた力を持つ黒典ですら、一人ではこの世界の汚濁には到底敵わぬだろう。
戦力が必要だった。この状況を打開するためには、強い力が必要だ。それも一つではなく、多くの力が。
だが今それはこの場所にはない。黒典は、一人で戦わなくてはならないのだった。
そして、龍脈の穢れは次なる行動に移る。己の障害となる者は既に排除した。故に、次に龍脈の穢れが取る行動は一つ。世界の汚濁が取る行動は一つ。己が身を構成するありとあらゆる負の想念に従い、穢れが遂行するのは。
『破壊』である。
龍脈の穢れの本体である汚濁の柱が、その頭頂部を大きく蠢かせた。蠢いた頭頂部は徐々に肥大化し、そして枝分かれして成長する。
瞬く間に、汚濁の柱の頂点に3本の巨大な角が生成された。
そしてその角の先端に、ゆっくりと光が収束していく。
「まさか」
その光景を目にした黒典は、汚濁のしようとしている事を理解し背筋を凍らせた。
龍脈の穢れは光線を放つつもりだ。先刻拳剛を貫いた、あのおぞましくも圧倒的な破壊力を誇る光線を。だがその規模は先ほどとは比べ物にならない。先ほど拳剛を貫いた光は、稚児の腕ほどの太さの触手から放たれた。だが今、光が収束しているのは鉄塔の如き巨大な砲台だ。それが放つ光線は街一つを容易に消し飛ばすだろう。
「させんっ!!」
巨大な汚濁の柱からのびる角に向け、黒典は『黒』を放つ。
だが汚濁の角はあまりに大きくあまりに密であり、触手のように簡単には消え去らない。
もてる全ての気力を費やす黒典。一本、二本、汚濁の柱から生えた角が砂のように崩れ去り、黒典の力として還元される。
だが足りない。汚濁の角の最後の一本は健在のまま、その時が訪れた。
汚濁の柱からのびる角が爛々と輝く。それは高密度に圧縮された気が放つ閃光だった。太刀川にもエイジにもクレアにも黒典にも、そして拳剛すら。どのような人間にも放つことはできない、強い光。目もつぶれる様な輝きは、絶望そのものだった。
その絶望が収束し、そして放たれた。黒典の『黒』は間に合わない。耳をつんざくかのような轟音と激震と共に、濁った光の一閃が奔る。方角は八雲町。拳剛達の街へ死の光が迫る。
だがその光が街に届くことはなかった。
汚濁の放った光線は、突如出現した光の壁により、辛うじて防がれたのだ。黒典は眼を見開く
「結界!?まさか」
龍脈の穢れの一撃を、瞬間的にとはいえ防ぎきるほどの堅固な結界。そんな術を扱える者はそうはいない。だが黒典には、そんな並はずれた者達に心当たりがあった。
黒典が背後より気配を感じると同時、そこから黒典も見知った人物達が現れた。
「間に合ったか!」
「いや、手遅れだろこれェ」
太刀川怜、薄井エイジ、そして衛士と隠衆の連合軍だ。どうやら龍脈が解放されることを見越して駆けつけたらしい。
だが数は黒典と戦った時と比べて半減している。治療を施した上で動ける者だけが来たようだ。
太刀川は状況を確認すると、即座に連合軍に指示を飛ばす。連合軍のメンバーを配置させ、穢れの化身の攻撃に備える。
「あーあ、穢れが『顕現』したか」
一方その横でエイジは頬を引きつらせていた。
龍脈の穢れ。その圧倒的な陰の気が一所に凝縮し、物質世界に実体を持って出現すること、それを以って穢れの『顕現』と称する。『顕現』した穢れの力はまさしく天災に等しく、放置すれば国を滅ぼすほどであるという。
隠衆は、この怪物と戦わないために龍脈の鍵を手に入れんとしていたのだった。龍脈の穢れは一点から現出させれば『顕現』してしまい、天災として猛威を奮う。しかし国中に張り巡らされた龍脈を伝い、各地で分散して穢れを放出させれば、穢れを顕現させることなく祓うことができたのだ。もっともその場合、穢れは放出された各地で大なり小なりの禍を呼び寄せただろうが。
しかし隠衆の思惑がどうであれ、事態は既に引き返すことのできない域まで達していた。最早ここにきては、衛士と協力して龍脈の穢れを討つほかない。
エイジは大きくため息をついて思考を切り替えると、今度は黒典へと目をやった。
「しかも黒瀧黒典が等々力を守ってる?どういう状況だいこれは」
「話は後だ、ぼさっとするな!第二射が来るぞッ!」
黒典は首をかしげるエイジに檄を飛ばす。エイジが状況をわからないのも無理はないが、今は説明をしている暇はなかった。増援は来たものの、今回の穢れの化身に対してはおそらく焼け石に水だ。ここで時を浪費しているような余裕はない。
一方その隙に、龍脈の穢れの本体である汚濁の塔は次なる行動に移っていた。
黒典の『黒』による浸食によって崩壊した2本の角を再生成し、再び3つの巨大な砲台を形成する。
そして柱を中心に、ヘリのプロペラのように3本の角を回転させ始めた。超高速で回転しながら、汚濁の角は歪んだ黒い光を貯めてゆく。
龍脈の穢れのその行動を見て、その場にいた全員が顔色を変えた。
「おいおい冗談だろっ、見境なしにやるつもりか!?」
汚濁の塔は先ほどの光線を無差別に放つつもりだ。おそらく先ほどの一撃を連合軍の結界に阻まれたからだろう。一点集中ではなく全方位に砲撃をばらまくことにより、光線が結界に防がれる確率を下げるつもりだ。
「ドーム状に結界を張れ!」
「無理だ!あれほどの出力の攻撃を全方位で防ぐような結界は張れん!!」
黒典の咄嗟の言葉を太刀川が否定する。
結界を張る下準備も十分な時間もなく、更には黒典との戦闘によってその戦力を半減させた衛士と隠衆達。そのような状態では、世界そのものの気脈である龍脈の穢れを封じ込めるほどの強固な結界を張ることは到底不可能である。
首尾よく行っても、穢れの攻撃のタイミングに合わせて一方向に結界を張る事位しかできないだろう。
太刀川の返答から、黒典は現状の戦力を把握する。
「ならば一つでいい、あの角を破壊しろ!他は私がカバーするッ!!」
龍脈の穢れが光線を放つにはチャージが必要だ。黒典の『黒』ならばそのチャージの間に砲台である汚濁の角を2本までは削ることができる。それでも角の一本は残るが、それは連合軍に任せるほかない。
汚濁の塔の巨大な砲台を削るべく、黒典は『黒』を発動しようとする。だがその時、黒典の視界がぐらりと揺れた。
(ちぃ、まだダメージが……)
拳剛との戦いの傷は未だ癒えきってはいない上に、更にはその状態で『黒』を幾度となく全力発動したために、黒典の肉体は再び限界を迎えようとしていた。
ふらつく身体を気力で以て制し、黒典は『黒』を汚濁の角へと走らせる。だが限界の近づくその身体では、『黒』の出力は思うように上がらない。
黒典の『黒』が汚濁の角の一本目を浸食し破壊する。ついで太刀川の刃が2本目の角を破壊し、そして最後の一本へ向けて黒典の『黒』が放たれる。
だが黒典の『黒』が汚濁へ浸食を開始するよりも速く、既に汚濁の柱はチャージを終えていた。出力の落ちた『黒』では、汚濁の角を完全に浸食するには至らなかったのだ。あるいは黒典が万全の体調であったならば3本の角をまとめて喰らい尽くすことができたのかもしれないが、それは無意味な想定であった。
汚濁の角の最後の一本に、歪んだ光が収束される。網膜を焼き切るほどの強い光が一点に集中し、そして解き放たれた。
どす黒い光が360度全方位を破壊しつくさんと走る。その時、突如として天まで昇る大竜巻が出現した。
「『逆巻け』!!」
天から降る叫び声と共に、天を突く竜巻は触手の砲口を上にぶちあげる。触手から放たれた歪んだ光線はそのまま天へと放たれ、大気圏を突破し空の彼方へ消える。
「今のはッ!?」
周囲を確認する太刀川の耳に、響き渡るプロペラの旋回音が飛びこむ。空を見上げれば、いつのまにか無数のヘリが上空に現れていた。同時におびただしい数の武装した兵がパラシュートで降下を開始する。よくよく見れば、兵は全員が女性であることが分かっただろう。
この状況で来る兵力など、太刀川には一つしか思い浮かばない。
「まさか、巨乳党!?龍脈を解放したこのタイミングを狙ってきたか!」
「おいおい冗談だろ、百や二百じゃきかないぞアレ」
1000人近い兵が落下してくるのを見て、エイジは顔を青くする。衛士・隠衆連合軍の現在の戦力は三十余名。この人数でも龍脈の穢れを相手取るのにも人手が足りないというのに、この上自分達の数十倍近い敵を相手取るだけの余裕があるはずもない。仮に巨乳党と龍脈の穢れを同時に相手取ることになれば、黒瀧黒典が連合軍に加勢したところで全滅は免れないだろう。
そんなエイジの絶望的な予想を、空から降りてきた声が否定した。
「安心して下さい、私たちは味方です」
その言葉と共に、風見クレアは風に乗って天からゆっくりと降り立つ。手には長大な樫の杖を携え、黒のローブにその身を包んでいる。
「巨乳党総勢1053名、推参いたしました。穢れを討つため、微力ながらお力添えをさせていただきます」
そう言うと、クレアは壮絶な頬笑みを浮かべた。
「それでは反撃と参りましょう」
その時。まさにその瞬間。
護国衛士、憂国隠衆、巨乳党、そして黒瀧黒典。龍脈の鍵を求めた争った全ての者達の目的が一致した。
そして、反撃の狼煙は上げられる。
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拳剛は、気づけば川の前に佇んでいた。
記憶にあるのは、龍脈の穢れに全身を貫かれたところまでだ。それ以降の記憶は無く、気づけば拳剛はこの川の岸辺に居た。
一体どういう経緯で今此処に居るのかは拳剛には分からなかったが、だが痛みすら感じないというのは妙なことだった。ここはどこなのかと、拳剛は思わず周囲を見回してみる。
よくよく見れば、ところどころに船で川を渡る人影があることに拳剛は気が付いた。ただし全員が、拳剛がいる側の岸から向かい側の側の岸へと向かっている。向かい側の岸から此方の岸へ渡って来るものはいない。
その光景を見て、拳剛は自分が今置かれている状況を理解した。
(おれは、死んだのか……)
とうとう三途の川を拝むことになったかと、拳剛は他人事のように考えていた。
恐怖や哀しみよりも不思議と納得の度合いのほうが大きい。全身を光線に貫かれハチの巣にされた。生きている方がおかしいだろう。
(結局、俺は守れなかった。)
無力感に苛まれながら、拳剛は膝を抱えて座り込む。そこに、どこからともなく声がかけられた
「やれやれ、こんなに早くここにきてしまうとは。何たる師父不孝者か」
「………その、声は」
拳剛は耳を疑う。いや、ここが冥府の入り口だというのならばある意味納得はできた。だが驚愕を禁じ得ない。
声は、川の対岸に佇む人物が発したものだった。その人物は拳剛もよく知った男だった。
かくしてその男とは。拳剛の師、東城源五郎その人であった。