憂国隠衆 VS 太刀川。暗闇の中での攻防は続く。
達人と呼んで差し支えない実力を有する太刀川ではあるが、視界の効かないこの状況では、その実力を十全に発揮することができない。
その上沙耶と拳剛(爆睡中)の二つのお荷物を守りながらの戦闘である。ハンデにしても少々重すぎるだろう。
加えて言うならば、敵・憂国隠衆の目的はあくまで拳剛の持つ『鍵』だ。別に無理に太刀川を倒す必要はない。
極論言えば、ちょろっと近づいて拳剛の懐から物だけ抜き取れればいいのだ。拳剛本人はぶっ倒れているから、近づきさえしてしまえばそれは容易である。
故に太刀川は360度より迫る敵を一人残らず近づけないようにしなくてはならず、そのうえここから脱出するためには結界張っている術者倒すために、敵を片っ端からド突き倒していかなくてはならない。
敵の勝利条件が緩いのに対して、太刀川の勝利条件はあまりに厳しい。
激烈なる攻防の中で、既に彼女の右腕はへし折れ使い物にならなくなっていた。今は左腕一本でなんとか抑えているが、このままでは押し切られるのは目に見えている。
となればこの状況を切り抜ける方法は一つ。
すなわち、薄井エイジの幻術によって眠っている等々力拳剛を叩き起こすしかない。
太刀川は攻撃防ぎつつ、拳剛を目覚めさせんと奮闘する沙耶に問う。
「東城さん! 等々力は!?」
「駄目、まだ目を覚まさない!!」
必死で声をかけ続け、ぺしぺしと拳剛を叩く沙耶であるが、それでも拳剛は一向に目を覚ます様子はない。
「急いで下さい、こちらはもう持ちそうにない……!! 」
「う、うん! 」
太刀川の様子に沙耶も焦る。
とはいえ、ゆすっても叩いても叫んでも踏みつけても一向に起きないのだ。一体どうやればいいというのか。沙耶は思わず唸る。
「……斜め35度から叩いてみるとか?」
「いや、昔のテレビじゃないんですからっ!!?」
どうにも抜けた発言をする沙耶に、太刀川の額にたらりと冷や汗が流れる。その脳裏に“任務失敗”の四文字が浮かんだのも、まぁ仕方のないことだろう。
無論、沙耶自身阿呆なことを言っているのは分かっている。しかし他に方法も思いつかない。
よって沙耶は高々と腕を振り上げ、
「てやっ!!」
拳剛の額斜め約35度からペシリと手刀を叩きこんだ。
そしてわずかな沈黙の後、拳剛は
「がっ……アアアアアアァァァァァァァアアアアア!!!!!!? 」
絶叫と共に全身から血を噴き出した。
微妙な沈黙が辺りを支配する。
「………や、やりすぎたッ!? 」
鮮血が宙を舞う。状況はまさしくオールレッドであった。
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幻術空間内。
青々と広がる大空の下に、無数の乳が集っていた。
地平線までも埋め尽くすほどの人の群れ。
古今東西、ありとあらゆる人種の、ありとあらゆる年齢層の、ありとあらゆるサイズの、ありとあらゆる形状のおっぱいが、一人の男を囲っている。
その男。等々力拳剛は、全身血まみれで地に伏せながら、八割ほど死にかけた身体で静かに考えていた。
乳を愛する者ならば、死ぬまでに地上に在る全ての乳をその目に焼き付けたいと思うのは至極当然のことだ。
だがそれを成そうとするには人の一生は驚くほど短い。普通は80年、長くても100年経たないうちに、大抵の人間はその生涯を終える。
仮に一日一回新たな乳との出逢いが有るとして、一生のうちに目にできる乳の数は高々数万程度だ。一日十回と考えても、数十万。内視力を用いればあるいは一日百回も可能かもしれないが、そこまでしても数百万にしかならない。
この地上に生ける数十億のおっぱいと比べれば、それはあまりに微々たるものだと言わざるを得ないだろう。
人の身に生まれた故に乳を求めたというのに、人の身で有るが故に限界を突き付けられるとは、何たる皮肉だろうか。
だが、と拳剛は考える。
だがここならばその制約を振り切って、それを叶えることが可能だ。
拳剛は馬鹿ではあるが愚かではない。この乳の世界が現実でないことは薄々気づいている。
だがそれがどうしたというのか。
ここは理想郷だ。願えば願うだけ乳と出逢うことができる。
寿命という枷から解放され、望むだけの乳を目にすることができる。
その代償が自身の死であるというのならば、拳剛はそれを受け入れるつもりだった。乳の求道者としての本懐を遂げて死ぬことができるのならば、それは本望であった。
「―――――ああ。いい人生だった、後悔はない」
誰に言うとでもなく、拳剛はつぶやく。
内視力の暴走によって、その身体はもはや限界に来ていた。全身のいたるところで血管が破裂し、流れ出た血液はトクトクと大地に滴り落ちていく。強制的に叩きこまれる乳の情報で脳味噌もパンク寸前だ。
もはや一刻も持たぬことは本人も承知していた。
今はただこの乳の海に包まれて眠ることだけが望み。拳剛は静かにまぶたを閉じた。
その時だった。
『本当にそれでいいのですか?』
さながら春のそよ風のように優しい音が、拳剛の耳を撫ぜた。
どこかで聞いたことのある声だ。だが拳剛にはそれが一体誰の物なのか思い出すことができなかった。
何故か牛乳とまな板が連想されたが、その理由は分からない。
『どうか起きて下さい等々力拳剛。
貴方には守らなくてはならない人が、迎えに行かなくてはならない人がいるのでしょう?』
たしなめる様でもあり、励ます様でもある、その柔らかな言葉が引き金となり、突如として拳剛の脳内に一人の少女の姿がフラッシュバックした。
ショートカットの黒髪、少し太めの眉にぱっちりの二重瞼。そして何より拳剛の“眼”を惹く、爛々と輝くその胸部。
もっとも長く拳剛と共に居た、家族同然の少女。東城沙耶の姿だった。
トクンと、死にかけの拳剛の身体が鼓動を刻む。
(俺は、大馬鹿か。俺はまだ――――――沙耶の生乳を見ていないッ!!!)
地面にぎりりと爪を立てる。砕けるくらいに歯を食いしばる。拳剛は己のあまりの滑稽さに怒りすら覚えた。
なにが求道者か。なにが大明神か。名前負けもいいところだ。
拳剛は十数年間ずっと傍らにいた少女の乳すら知らない。
色も匂いも黒子の位置も、そのサイズですら、拳剛は理解していないのだ。
「ああ、そうだ。まだ死ぬわけにはいかん………!! 」
もはや動くはずのない身体が、たった一つの執念に突き動かされ、甦る。
全身の筋肉の筋繊維の一本までもをギリギリと収縮させ無理やりに出血を止めると、拳剛は二本の足で大地を踏みしめ立ち上がった。
握りしめられた拳を、拳剛は天高く振り上げる。
「この眼に、沙耶の生乳を焼き付けるまではッ!!! 」
絶叫と共に拳剛は大地へと拳を叩きつける。
空間に亀裂が走り、虚構の世界は音を立てて砕け散った。
******************
「ぬっ……がああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁっ!!!!」
暗がりの工場の中に、獣じみた咆哮が響き渡る。
物理的な衝撃波をも伴う大轟音。沙耶も太刀川も憂国隠衆も、その場にいた全員が思わず耳を塞ぎ、眼を見開いた。
数十の視線が闇の中の一点に注がれる。降り注ぐ無数の視線の中心で、むせるような熱気を放ちながら、その男は立っていた。
『なんだとっ!?』
闇の中で、薄井エイジが瞠目し。
「来たかッ!!」
太刀川が笑みを浮かべ。
「ちょっ、拳剛声おっきい!!」
沙耶が苦言を呈する。
「――――――待たせたな」
そして、拳剛はニッと笑った。
『……まさか自力で“まやかし”を破るとはね。驚いたよ』
暗闇から薄井エイジの声が響く。その声色にはわずかながらも確かに驚愕の色が残っていた。
だが、続く言葉は嘲笑だ。
『まぁ、所詮は死にぞこないだけどね』
エイジがそう言い終わるのと、場が動いたのは同時だった。エイジ以外の全ての黒子が、拳剛に向け飛びかかる。
咄嗟に援護しようとする太刀川を、しかし拳剛は手で制した。
「おいっ等々力!? 」
「大丈夫だ、見ていろ」
数多の刃が獲物を抉らんと迫る。
その凶刃がまさに拳剛の身体を貫こうとしたまさにその瞬間、拳剛の上半身がぶれた。続いて、乾いた音が断続して響き渡る。
その音が、音速の壁をぶち破った拳撃によるものだと、気付けた者は一体その場で何人いたのか。
顎、鳩尾、人中、そして金的。一人頭平均4発。人外の怪力で以て人体の急所をしたたかに殴打され、飛びかかった憂国隠衆は一人残らず吹っ飛ばされた。
ある者は壁にめり込み、ある者は地面に埋まり、またある者は頭から天井に突っ込んでいる。
僅か一瞬。文字通り瞬く間に、薄井エイジ以外の敵が戦闘不能となった。
とはいえ吹っ飛ばされた側も、皆辛うじて息が有るのは流石と言ったところか。
『へぇ、やるね』
だがエイジは態度を崩さない。その言葉から感じられるのは恐怖や怯えではなく、確かな余裕だ。
人質を奪還され、更には自分一人にになってなお、目的を達成するだけの自信が薄井エイジにはあるらしかった。
一方拳剛はといえば、残心しつつも周囲を観察していた。
(結界は解除されない、か)
薄井エイジ以外の敵は倒したものの、結界はいまだ健在。工場は相変わらず暗闇に包まれたままだ。
太刀川の言によれば結界は術者を倒せば解除されるとのことだったはず。つまり、術者は薄井エイジと見て間違いないだろう。
拳剛の目的はあくまで沙耶の救出、そしてその身柄は既に確保している。あわよくばこのまま逃げようとも思ったが、しかし結界が残っている以上そういうわけにも行かない。
拳剛はやれやれとため息をついた。
「仕方あるまい、もう一仕事するとしようか」
「手伝おう」
太刀川が動く方の手で刀を構える。が、拳剛はそれを制した
「いや、どうも俺のヘマで随分と足を引っ張ったようだからな。後は任せて休んでいてくれ。」
「やれるのか」
「ああ、問題ない。後は奴だけだからな」
そう言って暗闇の一点見やると、拳剛は拳をゴキリとならした。
「さぁどうする薄井エイジ、残るはお前だけだ。尻尾巻いて逃げ帰るなら今しかないぞ」
『ははっ、言ってくれるね。そんなぼろぼろの身体でさ』
「それは認めよう。正直俺も立っているのがやっとというところだ」
事実だ。幻術内での内視力の暴走は、現実の拳剛の肉体もがっつり蝕んでいた。
出血こそ気合いと根性で止めたものの、その体躯は実のところ満身創痍。至る所で血管は破裂し、皮膚は破れ、筋肉は裂けている。既に流れ出た血液の量も半端なものではない。
その上さっき黒子をまとめて吹っ飛ばすために少々無茶をしている。いつ倒れてもおかしくない状況だ。
「あのわずかな交錯で我が内視力の弱点を見抜くとは流石だな。危うく死にかけたぞ」
自分は死にかけなのに相手は仲間こそやられたもののまったくの無傷。
正直拳剛としてもここまで一方的に追いつめられるのは初めてだった。思わず口から賞賛が漏れるのも仕方のないことと言えよう。
『え、あぁ、うん?こっちもまさかただの幻で死にかけるとは思わなかったけどね?』
もっとも薄井エイジにそんな意図があったのかと言えばそんなことはまったくないわけであるが。
「だが最早俺には通じん。沙耶の生乳を拝むまでは、如何なまやかしも俺を惑わすことはできんぞ」
『あ、ああ、そう……』
(この筋肉くたばった方がよかったかもしれない)
真剣なはずなのにどこか間の抜けた会話に、沙耶は思わず顔を覆う。真っ赤な顔には青筋が浮かんでいた。
「退かぬというならば、いいだろう。決着と行こう薄井エイジ。来るが良い」
『おや、さっきなんの反応もできずに俺に眠らされたことをもう忘れたのかい?次は眠るだけじゃ済まないよ』
「やってみなくては分かるまい」
『……やれやれ、喧嘩は好きじゃないんだけどね』
薄井エイジのその言葉を最後に、静寂がその場を支配した。緊張した空気が肌を刺す。
拳剛は動かない。両の拳を構えたまま、ただ静かに立っている。
そして。音もなく、匂いもなく、熱もなく、影もなく、空気の震えすら伴わずに、薄井エイジが拳剛の背後に現れる。
彼我の距離僅かに数メートル。沙耶も太刀川も拳剛本人すらも、反応することはない。
結界の闇と彼本人の卓越した穏行術は、薄井エイジの存在をその場から完全に消し去っていた。
エイジは歪んだ笑みを浮かべると、手に携えたナイフを拳剛の腎臓に向けまっすぐに突きだす。
だが、その刃が拳剛に届くことはなかった。代わりに拳剛の裏拳が鈍い音を立てて薄井エイジの顔面にめり込む。
「な……あ゛っ!?」
拳剛の剛拳により、華奢なエイジの身体が宙を舞う。
殴り飛ばされたエイジを困惑が支配した。穏行は完璧だった、気づかれなかったはずだ、と。ならば何故自分はぶっ飛ばされているのか。
動揺するエイジ。そのとき、エイジの視線が拳剛それと交錯した。
「“視えて”いるぞ」
「ちぃいっ!!? 」
拳剛は確かにエイジを見据えていた。先ほど幻術にかけたときとは違う。完全にエイジの位置を見きっている。
エイジは実のところ、戦闘そのものは得意ではない。だが穏行・潜伏に関してだけ言えば彼は他の追随をゆるさぬ実力を有しており、本人もそれを理解していた。
なおかつ今は気配を消す結界の中。本来ならば、万が一にも見きられるはずはない。
自陣に在って、何故動きを悟られたのか。エイジには全く理解できなかった。
激しく動揺しつつも着地してそのまま大きく退き、闇の中へと姿を溶け込ませる。
「どうした薄井エイジ。“所詮は死にぞこない”、ではなかったのか?」
拳剛がにやりと笑いながら言う。してやったり、と言わんばかりの表情だ。
『だっ、黙れ!! ままま、まぐれ当たりで調子に乗るんじゃあないぞ!! ………ま、まぐれだよね? ねっ!?』
闇の中からエイジが応える。だがそこに今までのような余裕はない。明らかに焦ってるのが分かる声だった。
その上、微妙にヘタれている。
「いいや、まぐれではない」
そう言うと拳剛は大きく膝を曲げ、天井へ向けて跳躍した。そのまま天井の梁を掴んでぶら下がる。
「ほれ、見つけた」
言葉通り、その視線の先には確かに薄井エイジがいた。まるで蜘蛛のように、工場の天井にへばり付いている。
見つかったことを理解し、エイジの双眸が大きく見開かれた。その体中から冷たい汗が噴き出し、股間がひゅんとなる。
次の瞬間、エイジは脱兎のごとく逃げ出した。
「な、んで……なんでだっ!? さっきは反応すらできなかったのに!! 朝の時だってそうだったろう!! 」
さっきまでの余裕はどこへやら、なかば半狂乱になりながらエイジが叫ぶ。
闇の中をトビグモのごとく縦横無尽に逃走するエイジを、拳剛が追いかける。
「朝の時? 何の事を言っているのか知らんが、少なくとも今はお前はがっつり視えているのだ!!」
「だから、なんでだぁッ!!!? 」
「内視力を飛ばすのは乳への渇望。あのおっぱいの幻術がかえって仇になったな。今や俺のテンションは最ッ高ッ潮だ!!
さぁ―――――――Let's 金的 time 」
そう言って拳剛は肉食獣染みた笑みを浮かべる。そしてそれを目にした瞬間、エイジは理解した。
“潰される(玉が)”。
「ひいいいいぃぃぃぃっ!? 」
「フゥーハーハーッ!!! 」
最早涙目になりながら、エイジは高笑いする捕食者から逃げる。捕まったら終わる。何がと言わないが終わる。
未だかつてないほどの速度で、エイジは疾走する。
「見事にヘタレたねぇ」
「ヘタれましたね」
絶叫を耳にした沙耶と太刀川が、半ば他人事のようにそんなことを言っていた。
己が相棒を守るべく、エイジが叫ぶ。
「お、落ち着け!! 暴力は止そう!! 話せばわかるっ!!!」
「そうか?」
「そうだとも! 人の歴史は対話の歴史だ! 心を尽くして語れば分かり合えないことなんて無……」
「拳で語れ!! 」
「言葉で頼むよ!? 」
「だが時すでに遅し! 」
「いや、ちょっ! 待っ……」
その瞬間、拳剛の大腿筋が一気に膨張し、爆発するように間合い詰めた。
ほとんど反射的に、エイジは両手で股間をガードする。だが無駄だ。どんな盾も、鎧も、城壁も。東城流の“通し”の前では、あらゆる防御は意味を成すことはない
拳剛の、鞭のようにしなる裏手撃ちがエイジのガードした両腕に直撃する。衝撃は防御をあっさりと貫通し、金的で爆発した。
きりもみ回転をしながらエイジは吹っ飛び、工場の壁に直撃する。
術者が倒れたことにより、結界が崩壊した。
闇が、晴れた。
「帰るか沙耶」
「うん、帰ろう拳剛」
なかがき
乳列伝をご覧下さりありがとうございます。
物語の半分が終了しましたので、なかがきを掲載させて頂きたいと思います。
本作のコンセプトは、“真面目に馬鹿をやる”です。
当事者達はとても真剣、しかし傍から見ると馬鹿馬鹿しいことこの上ない。といった類の物語にしていこうと思います。
ちなみにお気づきの方もおられるようですが、主人公の能力・内視力(インサイト)は某テニス漫画の跡部王国が元ネタです。あれでおっぱいが見えたら素敵だな、というのが本作作成の根本です。
本作はコメディではありますが、構成の練習も兼ね、前半部では細か目に伏線を張っています。無理に詰め込んだ部分があるため冗長になってしまった部分が多々あると思いますが、必要な分はあらかた張り終えましたので、後半部では伏線回収に努めたいと思います。
残り10話、長くても20話以内には完結予定です。9月一杯には完結させたいと思います。
感想、批評、お待ちしております。
後半もお付き合い下さるよう、どうぞよろしくお願いします。