十月も半ばに入っていた。
天高く、馬肥ゆる秋。食欲という名の魔物に誰もが魅入られるこの季節を指して、日本ではそう称するらしい。ならば今自分の目の前にいる人物は、頭の中身が年中春ならぬ年中秋なのかもしれない。ステイル=マグヌスは鼻孔をくすぐる芳醇な薫りを堪能しながら、そんなことを考えていた。
「まっだであっるか♪ まっだであっるか♪」
「その口調で軽快に跳ねないでくださいお願いですから」
ナイフとフォークを握り締めて上機嫌の筋骨隆々マッチョマンを想像してしまいそうになる。暴食の化身に魂を売った魔性の聖女の鼻歌を聞き流し、ステイルは嘆息する。するともう一方の耳には、どんより沈みきったため息が飛び込んできた。
「お行儀が、悪いですよ、インデックス……あぁ、はぁあああ…………」
可愛らしいクマさんエプロンを身に付け、三角巾で長髪を覆った「食堂のおばちゃん」スタイルの(旧姓)神裂火織さんにじゅうはっさいだった。彼女が調理場に立つ食堂のお世話になるなど、たとえ餓死寸前でも御免被るが。本人にもその点については自覚があるのだろう、心なしかどころの話ではなく、お説教にもいつものキレがまるでなかった。
ここはロンドン市ランベス区の一画に設けられた、男たちの夢にして女たちの花園、必要悪の教会女子寮。別名出番の終わった脇役専用収容所。普段は寮住まいの者が交代で腕を振るっているこの大食堂で、ステイルとインデックスはうな垂れる火織と共にテーブルに着いていた。
女子寮はまごうことなき男子禁制禁断の園であるが、ステイルは最大主教の護衛という名目で特別に立ち入りを許可されている。必要悪の教会でもトップクラスの権力者であるステイルがロンドン市内で自由に出入りできない場所など、ここかバッキンガム宮殿くらいのものだ。男どもには羨望と嫉妬の眼差しで睨まれているステイルだが、言うほど羨ましい境遇でもない、と自分では思っていた。なにせ主たる寮生であるアニェーゼ部隊の面々からは、ごく一部を除いて廊下ですれ違うたびに、洗ってないドブ犬を見る目で蔑まれるのである。これのどこに妬まれる要素があるというのか、ステイルは切実に問いたい。小一時間問いたい。そういう趣味の持ち主ならば話は別だが。
「さあ出来たぞ、召し上がれー」
「待ってたんだよまいかー!!」
インデックスが飛び上がらんばかりに全身で喜びを表現した。厨房からトレイを片手に姿を現したのは、上から下まで完全無欠のプロフェッショナル意識で固めたプロ中のプロメイド、土御門舞夏だった。そこらのメイド喫茶でお目にかかれる、「ご主人様」に媚びた一山いくらのウエイトレスもどきとは、失礼ながらモノが違う。親しみやすい美人という意味でもそうなのだが、それ以前に舞夏はまごうことなき「ホンモノ」なのである。
「ああ、天にまします我らが主よ、迷える我らはここにいっただきまーす!!」
祈るなら最後までやれ最後まで。いちいちつっこむのもいい加減にアホらしくなってきたステイル、職務を放棄してスプーンを握る。ところどころをわざと半熟状態に保った、金粉のごとき輝きを放つ卵黄の塊。デミグラスソースの濃厚な香りが嗅覚を、卵の上を滑る際のとろみが視覚を、それぞれ猛烈に刺激してくる。
「い、いただきます……」
「おう、どんどん食べろー」
最後に火織がおずおずと、日本式作法に従って手を合わせる。視線の先には盆から下ろされた、特大の洋皿一枚と小ぶりな二枚。誰の前にどれが置かれたかについては、あえてここで説明する必要もないだろう。
「この量でこの質……相変らず絶品だね、ミセス土御門」
「ふふん、まいかは超! 名門『綾乱家政女』出のプロメイドさんであるのだから、これぐらいは朝飯前なのよな! 超!」
「もしかして『超』気に入ったんですか」
口いっぱいに皿上の料理を詰め込みながらインデックスが胸を張った。ゆったりした修道服の内側だというのに、よくまあ揺れること……じゃなくて、あんないやしんぼのハムスターみたいな口でよくまあ上手に喋れるものである。第一なぜに、インデックスが自慢げなのだろう。
しかし気持ちはわからないでもなかった。別段食通というわけでもないステイルだが、舞夏の料理に唸らされるものがあるのは間違いない。舌に触れた瞬間溶けてしまったのかと錯覚するほど、上品で滑らかな卵黄の食感。金箔を覆うソースのジューシーな味わいと、膜の内側に隠された朱色の粒のさっぱりした下味を、これまた卵が絶妙に繋いでいるのである。絶品。月並みな表現だが、他に言葉は思い付かなかった。
必要悪の教会女子寮といえばオルソラの厨房担当日には食堂に大行列ができることで有名だが、そのオルソラ料理と較べても遜色あるまい。これで最大主教公邸の家事全般も一人でこなしているというのだから頭が下がる。他のメイドを雇うほど金庫に余裕がないイギリス清教としては、本当に舞夏には頭が上がらなかった。
「そ、そんなに褒められるとさすがに照れるなー」
「謙遜することねーんだよ!」
「その通りだね。さすが、イギリスにもその名が轟くメイド養成学校を首席で卒業しただけはある」
「おお! 超毒舌と超嫌味でその名を轟かすステイルの口からそんな台詞が出るにゃーんて。天変地異の前触れなのよなってわけである」
「天変地異ならたった今僕の目の前で起こっている最中なんですが、主に貴女のお口のあたりで」
「や、やだ。あんまり顔をじろじろ見ないで欲しいんだよ……」
「照れるな! そして頬を染めるなっ!!」
それはともかく、とステイルは先ほどから一言も発しようとしない聖人をちらと見た。「それはともかく」で済むあたり、ステイルも状況に適応すべく精神構造が変革されつつあるのかもしれない。ただ胃は痛い。すこぶる痛い。
「そっちの冥土送り確定判決喰らったみたいなしけた面。何か言うことはないのかな」
“それはともかく”今日の主役のしみったれた面である。
「どうだー火織? それが洋食の基本、オムライスだぞー?」
「お、美味しいです。オムライスがこんな、こんなにも」
滂沱、といって大げさでない量の涙をしくしくと垂れ流しながら、(旧姓)神裂火織はオムライスを口に流し込んでいた。正直気味の悪い光景だ。背筋が寒くなる。
「この間君の作ったオムライスときたら、対味覚兵器もかくやという代物だったからね。なにあれ、産廃?」
「結局、完全に産廃になっちゃう前に私が平らげたってわけだにゃーん」
「oh……ご愁傷さまだなー」
いつかの日の『宇宙胃袋』は健在だったか、とステイルはしみじみ振り返った。
「うっ、うぇぇぇえええええええんん!!」
三十路も近いというのにみっともなく火織が喚きはじめた。色々と限界に達してしまったらしい。正直居心地の悪くなる光景だ。背中が痒くなる。
「私だって頑張った! 頑張ったんですよ!! 慣れない洋食を! あの人に喜んでもらいたくて!!」
「愛情は料理の一番のスパイス! 間違ってないぞ、火織ー!」
結果、騎士団長殿は塗炭の苦しみを味わっているようだったが。そう思ったが口には出さない。円滑な組織運営のためには高度なエアリーディング能力が必須なのである。
「うぅ。つ、つまりそれは私の愛情が足りていないということなのでしょうか……?」
「……励ますつもりがきっちり追いうちになっちゃったなー」
「な、泣かねーで、かおりー」
泣きじゃくる女と、その背中をさする舞夏、頭をなでるインデックス。ステイルは大げさにため息をついた。世話の焼けることだが、構成員のメンタルケアも上役の務めである。
「やれやれ。神裂、そう嘆くことはない。僕が見るに君が犯した失敗はただ一つだ」
「ステイル……それは、それはいったい」
ポン、と肩を叩いてやる。親指を立てて、白い歯を見せて力強く笑いかけて、
「洋食を作ってしまったことさ」
「すごく根の深い問題じゃないですかうわああん!!」
「ステイル! 今のは同じ女の子として許せねーんだよ! ……まあ、否定はできないけど」
「乙女心をわかってないなーステイルは。そんなんだから彼女できないんだぞ? ……まあ、否定はしないけどな」
「うわああぁぁあああぁああんんんん!!!!」
席に戻り、姦しい女どもの叫喚を聞き流して、一人黙々とスプーンを口に運ぶ。ステイルは思った。
――――ロンドンは今日も平和である。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
Passage4
刃は懐に仕舞われた
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「……申し訳ありません。お見苦しいところを」
「かおりは しょうきに もどった!」
「戻ってないフラグじゃないですか」
すんすん、と泣き虫の聖人が鼻を鳴らす音をBGMに、空になった皿が厨房へと逆戻りしていく。舞夏が目にも止まらぬ速さで手早く洗い物を終えた頃、ようやく火織は正気に戻った。多分。
「だいたい、なんで洋食にこだわるんだー? 火織は和食はちゃんと作れるじゃないかー」
エプロンドレスの裾を払いながら舞夏が問いかける。まったくもって彼女の言うとおりだった。彼女の自宅で御相伴に預かった経験なら、ステイルにも幾度かある。自家製のウメボシやら日本からわざわざ取り寄せているらしい高級ナットウやらには、確かに閉口させられた。だがそれらを除けば、火織が丹精込めた和食は実にヘルシーで美味なものだったのだ。特に生魚をスライスしたサシミなる日本料理などは、イギリス人の食文化からすると革命的な新食感であった。
前置きが長くなったがつまるところ、火織は和食にかけては何ら問題がないのである。それだけ作っていればいいのに。もう洋食要らないんじゃないかな。
「その、それは……あの人は、根っからの洋食派ですから……」
頬を染めてうつむきながら、消え入るような声。確かに騎士団長は英国生まれの英国育ち、職務の性質上国外に出ることはあまりないだろう。
「自分の故郷の味を知ってもらうのは国際結婚の王道っていうか、醍醐味だと思うんだけどなー。お前の旦那は和食にアレルギー反応でも示すのか?」
「いえ、そういうわけでは」
むしろ拒絶反応を示しているのは洋食の体裁を保ってすらいない、謎の反物質もどきの方である。
「僕らも散々言ってやったんだがね。この頑固者はちっとも聞かなくて」
「相手の好きなものを手ずから食べさせてあげてー、っていうのは超恋愛の王道なのよな。かおりはそれくらい旦那様のことが大好きなんだよ」
「あ……うぅ……」
ますます縮こまる聖人様。瞳は潤み、リアルに「あうあう」などと漏らしている。ステイルはさりげなく目を逸らした。不覚にも「なにこの三十路間近の生き物カワイイ」とか思ったりはしていない。断じて、神に誓ってときめいたりなどしてはいない。
「ステイル」
「いかがなさいましたか、我が聖下?」
「今ちょっと、かおりを見る目が熱っぽかったんだよ」
「…………さて、何のことやら」
ないったらない。ないっつってんだろ。
「むむ、そうかそうか。それで私に洋食を教わりたい、という流れに至ったわけなんだな」
得心がいったように舞夏が大きく頷いた。正にそれこそが今回の会合の目的である。これ以上夫を苦しめたくないが、さりとてオムライスのひとつぐらいは食べさせてやりたい妻。命の危機に瀕しながらも、最後のところでは妻の意向を尊重したがる夫。双方から泣きつかれた結果、ステイルとインデックスが舞夏に頼んでこの料理教室の開催に漕ぎつけた、という経緯だった。
「そういうことなら善は急げ! さっそく始めるぞー!」
「よ、よろしくお願いします! 先生!」
「味見は任せてにゃーん」
「いいですか最大主教、口にするのは『食べ物』だけでいいんですからね。それ以外の物体が出てきた時はスルーしていいんですからね。むしろしてください、スルーパスしてください」
「食物を超粗末にするぐらいなら最大主教なんて止めちまうってわけよ、結局」
「倒置法!?」
一応事前に、医務室の手配だけは入念に済ませているステイルなのだった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
厨房に移動した教師と生徒。ステイルとインデックスは、キッチンにほど近いテーブルから様子を見守ることにした。
「さて。まずは私も、火織のレベルがどの程度の域にあるのか確かめさせて貰おうかな」
「うう」
「そんなに緊張しなくても、ただのスクランブルエッグだー。作り方はこちら」
1.卵をボウルに割って、よくかき混ぜろー。この時、箸で黄身を切る様に混ぜると、よく混ざるぞー。
2.薄く油をひいたフライパンを熱するんだー。熱したときに出る白い煙が消えたらもっかい油を引けー。
3.フライパンを弱火にかけて、1で作った物を入れて熱しながら混ぜれば、
「ウルトラジョウズニデキマシター!」
「なに言ってるんですか最大主教」
「なー? 簡単だろー?」
「りょ、了解です! 行きます!」
意気込みも露わに三角巾を締め直す新妻火織ちゃん。気合い十分なのは結構なことだが、どこへ行くつもりなのか。
「がんばって、かおりー!」
「インデックス……待っててください、あなたの口に美味しい炒り卵を運んでごらんに入れます!」
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
1.卵をボウルに割って、よくかき混ぜろー。この時、箸で黄身を切る様に混ぜると、よく混ざるぞー。
コン、パカ、シャカシャカシャカ。
危なげない手つきでボウルに卵が投じられる。何度挑んでも倒せない難敵を前に、緊張しきりの聖人サマは手並みのわりには汗だくだった。あの程度ならステイルでもできるのだが。
「なんだ、上手じゃないかー」
「そ、そうでしょうか?」
聖人パワー全開、ボウルの中身をかき混ぜるつもりが気が付けばボウルがただの鉄屑に……みたいな事態は、不思議と起こらないのである。そもそもだし巻き卵などで同じ過程を踏むのだから、慣れていて当然なのだが。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
2.薄く油をひいたフライパンを熱するんだぞー。熱したときに出る白い煙が消えたらもっかい油をひけー。
シューシュー、ツツツ、もっかいシュー。煙を上げるフライパンの前では、ひきつけを起こしたカエルのような面で火織がボウルを構えていた。
「普通に考えて、問題の起こり得ない工程だなー」
「プレッシャーをかけないでください!」
おそるおそる、震える手でボウルが傾けられる。重力に従って落下する黄金の液体は、その姿を変えるべく灼熱(に熱されたフライパン)に身を投じた。
「ふぁいと! かおり! あと一歩なんだよ!」
「果てしなく遠いラスト一歩だな……」
そして、運命が始まる。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
3.フライパンを弱火にかけて、1で作った物を入れて熱しながら混ぜれば
キシャーン、キシャーン、ダダッダー!
「!?」
「!?」
「!?」
「!?」
ダッシュ! ダッシュ! ダンダンダダン!
「…………」
「…………」
「…………」
ドンッ!
「さ、さあ召し上がれ!」
溶き卵と鉄板が運命の出会いを果たしたあの瞬間、いったい何が起こったのかはわからない。少なくともステイルの乏しい人生経験において、遭遇したことのない事態だった。それはステイルの真横であんぐりと口を大開きにしたインデックスにしても変わりなかったようだ。さしもの『禁書目録』にも、このような事態への対処法は記述されていないらしかった。
ただ一つ、確かなことがあるとすれば――――皿状の物体は、断じてスクランブルエッグなどではなかった。
「…………それは、スクランブルダッシュだー」
おーれーはーぐれーとー。
「うわぁぁぁぁぁぁんんんんんん!!!!!」
良い子のみんなにゃわかんねーよ。あとついでに、イギリス人にも理解されねーよ。
ステイルの声にならないツッコミは喉から鼻に抜けて、中空へと綺麗に霧散した。