陶器の擦れる音が豪奢な室内に響く中、ステイル=マグヌスは優雅に、そしてジェントリーな所作で紅茶を口へ運ぶ。とびきり美味い。それも当然といえば当然のことだった。ここはイギリス王家の住処にして一国家の中枢、バッキンガム宮殿。『人徳』の王妹ヴィリアンが客人を通すこの部屋で、もてなされる紅茶が最上級のものでないはずがない。
「いやいや、茶葉の質がどうということではない。ヴィリアンが手ずから入れた紅茶は極上、と相場が決まっているのである」
ステイルの独言を聞きつけたのか、ウィリアムが重々しく否定の言葉を放つ。かつてはローマ正教秘密諮問機関『神の右席』の一員、後方のアックアと名乗り――――そして現在では英国王室第二王妹、ヴィリアンの夫となった男である。
「それは私への当てつけか、貴様? 我が妻とて魚を捌かせれば一級品だ」
やっかみ半分で噛みついたのは英国三派閥の一つ、騎士派のトップに君臨する男、騎士団長。最近の悩みは、妻以外に本名を呼んでもらう機会がないことらしい。
……なかなかに深刻な問題ではあるが、こればかりは神様でもない限りどうにもしてあげられない。あるいは創造主の裁量次第か。とするなら、ますます絶望的な状況なわけだが。
「そのような含みはない。すべてお前の被害妄想である」
「そうですね、捌くところまでは一級品ですね」
ツッコミを入れたステイルも、なにを隠すこともなく清教派は最高権力者、最大主教インデックスの側近中の側近である。要するにこのテーブルで交わされている会話は事実上、英国三派閥のトップ会合とイコールであると考えて差し支えない。
だがその内容はといえば、
「なんだお前たち、他人事のように!」
「この件に関して僕と神裂は他人です。それはもう完膚なきまでに一切人生において接点の存在しえない赤の他人フォーエバーです。下手にフォローして毒物混入容疑でしょっ引かれるのはもう御免ですからね」
「まあ、彼女には十年前の一件で借りも負い目も大いにあるが……すまんな、我が友。リアル犯罪者は勘弁なのである」
「畜生、畜生!! 上はやかましいババアと年増どもに無理難題を押し付けられ、下は若い連中に突き上げられ、自宅に帰って妻の笑顔に束の間の安らぎを得たかと思えば、食卓でプラスマイナス――――ゼロになる! この状況で私を見捨てるのか、貴様らァ!!」
繰り返すが、これはイギリスで最も権威ある野郎どものやりとりである。我がことながら、そこらの居酒屋で紅茶をビールに替えて巻かれる管と大差ない、とステイルは評価せざるを得ない。中でも派閥の長であるはずの騎士団長の中間管理職じみた嘆きは、(微妙に惚気に聞こえなくもないが)ことに悲哀の色が濃い。こちらに関しては他人事とも思えないステイルは、さすがになにかしらフォローを入れるべきかと言葉を探る。
が、現実は非情だった。
「……………ほぉう。常々そんな風に考えていらっしゃったのですか、我が良人殿」
「!? かかかか、火織、聞いていたのか!? まっ、待て待て! ノーカウント! 今のはノーカウントで頼む!」
チャキン。
「 あ な た ? 」
「おい、マジかよ、夢なら覚め」
覚めない。現実は非情である。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
肝心要のカーテナブースト抜きでは、イギリス最強ペアの演じる夫婦喧嘩は妻に軍配が上がるらしかった。哀れ、三枚に下ろされてしまった騎士団長の切り身を眺めながらステイルは変わらず優雅に紅茶を啜る。
(この人も、なかなかに不幸な御仁だな……)
ちょっぴり結婚願望が薄れた、すているくんにじゅうよんさいの秋の一日であった。まる。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
Passage3
バッキンガム狂想曲
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「……ふん! まったく、あなたという人は」
鞘が刀身を滑らせ、鍔とかち合って甲高い音を立てた。部屋の反対側に設けられた女人ばかりのテーブルに向けて、天誅を下し終えた仕置人が帰還する。その後ろ姿に声をかけることも、あるいは床に転がるかつて騎士団長だった物体に視線を落とすことも、ステイルにはできそうもなかった。誰しも命は惜しい。
ましてや相手は聖人だ。そう思いながらステイルは隣をちらと見やる。百年前からその場所に鎮座ましましていた木石のような重々しさを醸し出す武人が、親友の惨状に目をくれることもなく黙々と紅茶を嗜んでいる。彼が二重聖人としての特性を失った今となっては、火織はイギリス最強の使い手だった。逆らっていいことなどあるわけがない。
「あれ? あっちは大丈夫につき? あれー?」
向かいのテーブルでは、ステイルの護衛対象が暢気に首を傾げている。無論ステイルとしては、彼女から注意を逸らすわけにはいかない。よって女たちの秘密の会話に耳を傾けることも、職務上仕方のないことなのである。
「ほらもう。よそ見しないでください、インデックス」
「うう……ヴィリアンは超意外にスパルタ教育であるのよな」
「そろそろ二時間ほどですね。進捗状況はいかがでしょうか、ヴィリアン殿下」
きびきびした動作で椅子を引いた火織が、無数の日本古典文学に関する教本を見較べている女性に声をかけた。糊の利いたドレスシャツに丈の長いニットスカートを合わせた、温和を全身で体現したかのような高貴なる気品に満ちた女性。英国王室が一員にして最大主教の友人、『人徳』のヴィリアンだった。
畏れ多いことに、記念すべき『第一回チキチキ! ロンドンの愉快な仲間たち大集合! お騒がせ最大主教インデックスの口調矯正講座!』の講師として白羽の矢が立ったのが、よりにもよって彼女だったのだ。馬鹿らしさここに極まれり、な依頼にも笑って快諾してくれたヴィリアンの懐の広さには、ステイルも汗顔の思いである。
「とりあえず、ローラ様の口調はあんいんすとーるできたと思うのですけれど……」
文明の利器にいっそ致命的なまでに弱い火織は、ちんぷんかんぷんな顔で首をひねる。彼女とは裏腹に、ステイルは心の中で拍手喝采した。今後の矯正のモデルケースともなる初回の講座。彼女に任せたのは大正解だったようだ。
「ああ、えっと、つまりですね。ローラ様に似たお言葉遣いが治った、ということです」
「おお! さすがはヴィリアン殿下!」
「あまり実感がわかねーにゃーん」
そりゃあ、その口調では無理もあるまい。
「こら! せっかく殿下が貴重なお時間を割いて下さったのに、あなたという子は失礼な口を!」
「ま、まぁまぁ火織さん。私も楽しい時間を過ごせたのですから、そう目くじらを立てないでください」
……なんというか、さすがはグレートブリテン屈指の人格者である。遠巻きに見守るステイルにすら、世の人々が褒め称える人となりがひしひしと伝わってきた。上司に一人欲しい人材である、切に。
とにもかくにもステイルも、安堵と感謝の念からヴィリアンに礼を述べようと立ち上がった。
「うう……結局、かおりの方が超恐ろしいってわけよ」
インデックスの一言で空気さんがお亡くなりになったのは、そんな時だった。
「…………」
「…………」
「…………」
何やらまた増えていた。しかも今回のそれは、まったくもって接触した覚えもなければ伝聞形で又聞きしたことすらない、謎の第三者の謎口調。どうにも、不吉なものが肩に乗ってきたよう気がしてならなかった。あえて例えるなら、上半身と下半身が破局してサヨナラグッバイしちゃった亡霊さん的な。
「よくわかんない方角からビビビと、信号が来たのよな。方角っていうか方向っていうか、あえて例えるなら……地獄の一丁目の方角?」
「……はぁぁ。いったい何時になったら収拾つくんでしょうか、これ」
火織ががくりと項垂れたが、それはまさしくステイルの言うべき台詞だった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
・超教皇級の馬鹿:馬鹿な馬鹿口調
・建宮:「~なのよな」
・浜面夫人:「応援できない」
・???:「ブチコロシ」「にゃーん」
・???:「超~」
・アニェーゼ:江戸っ子
・???:「結局~ってわけよ」←New!
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
一同は一つのテーブルを囲み直した。元より王宮備え付けの家具である。当然といえば当然だが、五人や六人程度の客人を招待してなお空席の方が多い。先ほどまで二つのテーブルに別れていたのは、日頃の溜まり溜まった鬱憤をぶちまけたい男衆が、男女別テーブルを希望したからにすぎない。
「んぐんぐんぐんぐ。ごくごくごくごく。もぐもぐもぐもぎゅもぎゅ……ぷはー! やっぱりヴィリアンが振る舞ってくれるお菓子は超☆最☆高ってわけなのよなー!」
「ごめんなさい、やはり私では力不足だったようで……」
インデックスが猛スピードでお茶菓子を掻っ込む横で、ヴィリアンが伏し目がちに声を潤ませる。愛国心など人並み程度にも持ち合わせていないステイルだが、さすがにこれには目頭が熱くなった。なんと可憐で健気な淑女なのだろうか。隣の淑女(笑)の健啖さとの間に生じた、鮮やかすぎるコントラストに泣きたくなったわけではない。断じてない。
「そのようなことは断じてない!」
ステイルの胸中を読みとったわけでもないだろうが、ウィリアムが身を乗り出して大声を張った。急に「ぬっ」と出てこられると、最高に心臓に悪い強面である。
「ウィリアム……?」
「ヴィリアン、己を過度に卑下するものではない。それで悲しむ男が、少なくともここに一人いるのであるからな」
「ウィ、ウィリアム……!」
「ヴィリアン!」
「ウィリアム!」
がば、と美女と野獣が真正面から相身互いに固く抱き合った。
「……見てられないな」
「……見てられないかも」
白けきった視線が二対、抱擁を続ける男女に突き刺さる。この二人、ヴィリアンの姉や母らに半強制的に婚姻を結ばされてからそろそろ十年にはなるはずなのだが。三人の子宝に恵まれておきながら、万年新婚夫婦とは彼ら(と学園都市一著名なとある夫婦)のためにあるような言葉だった。あの土御門ですら倦怠期に悩まされているというのに、お盛んなことで羨ましい限りである。
「くっ。さすがだな、我が友」
それをやや羨ましげに凝視しながら、死に体で這いずるようにテーブルに着いたのは騎士団長だった。
「貴方、さっきまで切り身状態じゃなかったですか?」
「私は騎士だ。騎士の報国心にかかれば、甲冑姿で大西洋横断も切り身状態から奇跡の復活も、『忠義』の二文字でこの通り。な、簡単だろう?」
「その勧誘文句で騎士になりたいと思う若者はある意味将来有望ですよ。僕には無理です」
苦労して泳いで横断した先で、出会い頭に痴女みたいな恰好をした聖人に斬られたくはないし。
「『第四子懐妊も時間の問題』、この大本営発表を持ってすればクソバ……先代女王陛下のご機嫌取りには事欠かないだろう。あー嬉しいなー」
イギリスが誇る元祖苦労人の十年間まったく変わらぬ姿に、ステイルは同情の涙を禁じえなかった。明日は我が身かと思うと……というよりとっくのとうに、『今日の我が身』だけれども。
「こうもあっさり起き上がられるとかなりショックですね……まったく、あなたという人は。私を叩きのめした十年前のあの日と、何も変わっていません」
ステイルや騎士団長の向かいに座る火織が、これ見よがしに眉をひそめた。ティーカップを口許に運びながらステイルはさりげなく、剣呑な空気に包まれた夫婦を見較べる。そう、夫婦。夫婦なのである、この二人は。
そこな王妹夫妻とあらゆる意味で対照的な夫婦。ステイルも詳しいことは知らないが、二人の馴れ初めは火織が日本を離れてロンドンに渡った時期にまで遡るという。以来十を優に超える年月の間、『報国』を座右の銘に掲げる稀代の堅物男は、同じく『救民』という至上目的に邁進する堅物女にアプローチを続けてきた。数多の障害と妨害(主犯:天草式男衆)を乗り越えて女が男の求愛を受け入れたのは、男が四十路も半ばに突入する間際のことだったという。
(まあ、神裂も『ヤツ』の被害者の一人だったからな)
一夫多妻制を採用している国でもない限り、人は普通、男女の別なく失恋の一度や二度は経験するものである。神裂火織がまさにそうだったし、五和やオルソラ、アニェーゼにその他ステイルが名も知らぬ幾多の女性も例外ではない。そして失恋が人の世において大した椿事ではない以上、そこから立ち直ることとて、ごく自然な人間の営みの一部にすぎない。
故に。そんな当たり前のことを数年、あるいは十数年も引きずったままみっともなく生き続けている人間がいるとすれば――――それは異常なことに違いなかった。
「ん! んっ、ん……ああ、その、か……火織」
ぼんやり思索にふけっていたステイルは、騎士団長のわざとらしい咳払いに数度目を瞬かせて現実に帰った。
(四十男がなにを恥じらってるのやら)
胸中で呆れたようにつぶやきながら、その緊張に凝り固まった表情を一瞥する。
「なんですか?」
夫に視線を注ぐ恐妻の双眸は、いまだ冷ややかに細められたままだった。結婚して一年も経っていないわりにはご覧の有様である。結婚などするものではない、とステイルはいっそう確信を深めた。する気もないが。というか、したくともできやしないが。
「ババ、いやエリザード様への献上話だが、もう一つぐらい、その」
「もう一つ?」
「だから、だな。もう一つ、その、えー…………け、慶事が! あると、より効果が上がると、思うのだ」
「…………はい?」
刑事、けいじ、ケージ――――慶事。
火織の頭の上にくるくる回る疑問符を見た気がした。
「慶事。祝賀すべきこと。喜びや祝いを表するべき、めでたき事柄。慶するべき事。実用日本語表現辞典より」
「要するに、結婚や出産などに代表されるお祝いごとだね。日本ではそういう時、オセキハンとやらを炊くんじゃなかったかい?」
ようやく腹ごしらえに一区切りつけたらしいインデックスが、ニヤケ笑いを浮かべながら辞書の記述を暗誦した。肩をすくめたステイルがそれに続くと、火織の顔面が出来そこないの理科の実験のごとく突沸する。
「っ、な、ななななっ!? しゅ、しゅ、しゅしゅしゅ」
「ん、むう、まあ……言葉に出してしまえば、そういうことにはなるが」
「あ、うぅ」
「駄目か、火織。私はそろそろ、お前との子が欲しい」
「ひゃ、え? ここ、子供? いわゆるひとつの、ベビーれすか?」
火織の表情は、それはそれは悲惨なことになっていた。上から下までもぎたてのトマトよろしく真っ赤っか。ちょっと肩をつつけばポロリと首から上が落ちてきそうな勢いで、呂律すら回っていない。いい加減に新婚さん気分も薄れてくる時分だろうに、夜の営みをしっかりこなしているのかこの夫婦は。ステイルが不安になるほどだった。
いや待てよ。そもそも聖人の処女性に関する問題がある以上、まさかいまだに貫通工事すら終えていないのではなかろうか。……いやいやいくらなんでもそれは。第一あれは、どちらかと言えば『聖母』の象徴に係る話だ。結婚から半年を過ぎた夫婦に向かって「まさかまだベッドインも済ませてないんですか」、なんて。なんぼなんでもそりゃあない。
「ほ、本当に、あなたという人は、まったく! まったく!!」
「ははは。お前の照れ隠しは、いつも少々、暴力て、き、ぐふ、がっ!?」
「……付き合いきれないな」
「……付き合いきれねーんだよ」
ステイルはインデックスとどちらからともなく顔を見合わせて、同時にやれやれと首を振った。仲良きことは美しき哉、である。
「まったく! す、ステイルやインデックスが聞いているところで、こんな! は、恥ずかしいではないですかぁ!」
「はは、は……あの、ちょ、火織? 火織さん? ごっ、がぁぁぁぁぁぁあっ!?」
がしっ、ぼかっ、めりっ、ごきゅっ、ぶちっ。
諸々の破砕音を意識的に耳の外に追いやる。ステイルは最大主教様の侵略からわずかに生き残った茶菓子に手を伸ばしつつ、祈った。
「ヴィリアン……!」
「ウィリアム……!」
「もう! もう!! 私だってちょうど赤ちゃんが欲しいと思ってたところなんですからね! 別にあなたのためじゃないんですからね!」
「……………………か、ふ、ぐふ」
――――結婚という名の人生の墓場に身を投じた偉大な勇者たちに、幸あれ。
「結局、結婚なんてしないに超限るってわけにゃーん」
「まあ、僕にも貴女にもできやしませんがね」