ステイルはインデックスとともに中庭を一望できるオープンテラスにめいめい腰掛けて、お茶会の準備が整うのを待っていた。十年ほど前、オルソラ=アクィナス奪還の任務を当時の最大主教から拝命したのもこの場所だったな、とステイルは意味もなく懐古に浸った。
「申し訳ありません、ステイル。宮殿からの連絡を受けて、少し目を離した隙に……!」
「別に゛構わないよ。慣れ゛てるがらね」
「……本当に、毎度毎度申し訳ありません」
縮こまって急須を両手で抱えた火織を、ステイルは覇気のない表情で観察していた。木目のプリントされた茶缶から丁寧に葉を掻き出す程度の些細な仕草にまで、礼儀作法が行き届いた見事な手際である。惜しむらくは西洋建築と湯のみの組み合わせが醸し出す、そこはかとないミスマッチか。この典型的大和撫子、自家製の梅干しを浸けるほどに和食には一家言あるのだが、こと洋食となると残念の一言に尽きた。
「最大主教も、ご迷惑をおかけします。我が身内のことながらお恥ずかしい」
「超気にしなひで、かほり。いと慣れてるのよな」
「……すいません、ステイル。手ごろな穴を掘ってもらえませんか」
「日本のごとわざにあ゛ったね。『穴があったら入りたい』ってや゛づかい?」
「むしろ『恥を隠すなら穴に隠せ、穴がなければ作ればいいじゃない』かも」
「ある種、そんな感じですかね」
(慣用句とことわざと名言が融合したまったく新しい何かが誕生してしまった)
さて、火織の隠したい『恥』はといえば、今まさに聖ジョージ大聖堂の中庭に連座して正座させられている真っ最中だった。全身に穴ぼこを空けられずに済んだのは、彼らにとって僥倖以外の何物でもないだろう。角を二本どころか五、六本は生やして立腹中の美しい鬼が、『恥』を前に何事かまくし立ててさえいなければ、だが。
「まったくあなたたちときたら! 私と女教皇様をオモチャにするだけでは飽き足らず、最大主教にまで手を出すなんて!」
鬼の正体。それはやや灰色がかった黒髪を、肩口にかかるまで伸ばした素朴な美女だった。スレンダーながら出るとこ出ている肢体は、つぶさに観察しなければわからないよう、目に付かない筋肉のみが鍛え上げられている。鈍く輝く巨大なスピアさえ右手に掲げられていなければ、市井の専業主婦だと紹介されても誰も疑うまい。それにつけても元々がおっとりした顔だちだけに、目を三角にして角を生やす形相の凄絶さが際立っていた。
「五和五和、そう目くじら立てるなって。こんなんいつものことじゃねーか」
「牛深さん、反省の色なし。後で対馬さんと私と女教皇の拷も……尋問を受けてもらいますね」
「我々の味方は我々です! よって望むところ! っつーかどう考えてもご褒美です本当にありがとうございました」
何を言っているのかよく意味がわからないが、本人が幸せそうだからそれでいいのだろう。
ステイルは深く考えるのを止めた。
「野母崎さん、今回のことは奥さんに言っておきますからね!」
「そ、それだけはご勘弁を! 嫁の耳にこんなことが入ったら『チジョクノオリデアイニムセビナクの刑』に処されちゃうんだよ俺ぇぇえぇえ!!」
「なんですかそれ」
野母崎の悲痛な叫びがテラスのステイルたちにも届く。
「……ちょっと興味があるかも」
「……私も、少し」
(……悔しいが、僕もだ)
そもそもなぜそこはかとなく『昭和の電報』臭が漂っているのか。『チチキトク スグカエレ』的な。
「香焼。浦上には『香焼は最大主教のわがままボディに夢中』と伝えておきますね」
「!? なっ、え!? あれ!?」
「女社会を舐めちゃダメです。そういう話はすぐに尾ひれ背ひれ胸びれ腹びれ足びれオマケにフィンと水かきまでついてコミュニティ内を泳ぎ回るんですよ」
「どんだけ余計なひれ付いちゃってんすか!?」
「詳しく聞きたいですか? あなたと浦上がこの間朝帰りした時なんて」
「すいません聞きたくないです」
どうやら香焼青年は、ステイルより一足早く大人の階段を駆け抜けているらしかった。悔しくはない。わずかな瑕疵もない完璧な職務の遂行こそが現在のステイルの生きがいである。悔しくなんかない。全然ない。
「私はすこぶる興味があるにゃーん」
「私も、かなり」
(…………悔しいが、僕もだ)
だが興味はあった。確かに悔しいが、この「悔しい」は香焼に先を行かれた「悔しい」ではない。断じてない。
「諫早さん……はいませんね。あれ? 最初からでしたっけ?」
(((クソッ、逃げやがった!!)))
男たちが胸に秘めた呪詛の叫びが、ステイルにははっきりと聞こえた。某シスコン軍曹を彷彿とさせる逃げ足の速さである。速さが足りすぎである。しばしば若い衆と一緒になって馬鹿をやっているにも関わらず、諫早老人が五和らから説教を喰らっている姿など、ステイルは一度たりとも見たことがない。亀の甲より年の功とはよく言ったものである。
「まあいいでしょう。さて……教皇代理?」
「まあいいでしょう」の一言でお仕置きを免れたジジイの処遇に、香焼らは世の理不尽を嘆くようにかぶりを振った。が、それを口に出す勇気のある者はいない。誰しも命は惜しい。
それはさておき、五和の矛先――比喩でもなんでもないスピアの矛先――が今日最大の怒気と殺気を孕んで振りかぶられた。いよいよラスボスとのご対面である。
「より正確に言えば、“元”教皇代理なのよな」
「揚げ足を取らないでください! 反省してるんですか!?」
ラスボスとは他でもない。後ろ手を固く縛られながらも、どかりと芝生に座りこんで余裕の表情を崩さない、“元”教皇代理こと建宮斎字その人である。
「おうおうどうしたのよ五和? 可愛い顔が台無しなのよな」
建宮の先制攻撃。
「そ、ん……そんなこと言っても誤魔化されません!! いい年していつまでもメイド服メイド服って、恥を知ってください、恥を! 日本の文化でしょう!?」
しかし五和これをガード。
「我らは女教皇の御心に従い、いまや身も心もロンドン市民なのよ」
フットワークの軽さが持ち味の建宮、続けて左フック。
「い゛や、『身』は無理だろう゛。人種はどうにもな゛らないし」
「些細なムジュンも見逃さない、その鋭い眼光とツッコミ……ステイル、あなた意外と弁護士なんて向いてるかもしれませんよ」
「むむ……『逆転宗教裁判~神父弁護士はガリレオの無罪と地動説を証明できるか~』……これは超流行るかも!」
「ゲーム化できないか企画開発部にかけあってみましょう」
「パクリじゃないか。そして有罪確定じゃないか」
閑話休題。
「上げ足とりがご趣味なんですね建宮さんは!」
「『上げ』じゃなくて『揚げ』だぜ、五和ちゃん。『上げ足』だと株式用語になっちまう」
「あーもー! ああ言えばこう言うんですから!!」
五和は顔を真っ赤にして興奮している。
「……勘違いしちゃいけねえぜ、五和。俺が愛してるのはあくまでメイド服の中身。そう、これはお前さんや女教皇様に対する、迸らんばかりの愛から出た行いなのよな」
「へ? あ、あっ、愛!? わ、私のことを愛し……っ!?」
「いつの日か見たお前の大精霊コス。今でも瞼に焼き付いて離れてくれねえのさ」
「~~~~っ!! ほ、本当に……? 本当に建宮さん、私のこと……?」
よろめいたところに強烈なコークスクリュー。
五和は顔を真っ赤にして動揺している。
あと一押し、あと一押しでK.O.間違いなし――――
「そうよそうなのよそうなのよな三段活用! だぁーからそんな怖い顔してないでこの! 『帰ってきた超精霊チラメイド2』をぜひ」
「あの死兆星が見えますか建宮さん」
「おいおいまだ昼間……」
きゅぴーん。てーれってー。
「ふぇいたるけえおおおおおおおお!?!?!?」
「「「あーあー……」」」
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
芝生の上に積み上げられた死屍を特段哀れに思うわけでもなく、ステイルはシケモクをふかした。
吸う。肺いっぱいに広がる潤沢なニコチン色の吐息。
吐く。霧の街の空に融けゆく一条の白煙。
「ざまあ゛みろ、馬鹿どもが……こほっ、がほ」
吐き出されたのは煙だけではなかった。裁きを受けた愚者への追悼と、ひどくしわがれた空咳も同時に飛び出す。
テーブルを離れて二メートルほどの位置に、ステイルは一人寂しく佇立していた。そうまでして矮小な一服の時間にこだわろうとする愛煙家の涙ぐましい努力を、二人の女性が半ば呆れたような表情で見つめてくる。
「必要最低限の分煙意識を身に付けたのは結構ですが。そのしゃがれ声、常日頃のヘビースモーカーぶりと無関係とも思えませんよ?」
「これを機に禁煙したるなら、応援しちまうのよ」
「余計なお世話でず、だれ゛のせいだど思って………………神裂」
至福の一時に無粋な横槍が入る。煙草を両唇の間に咥えたまま、器用に頬肉を引きつらせてステイルは反論――――しようとして、途中で言葉を切った。
「……ええ。インデックス、『ということは』と言ってみてください」
ステイルの語調が著しく緊張したのを素早く察して、火織が『検査』を実施する。ステイルの考えが正しければ、ヨウ素液を滴下したデンプンさながら明確な、いやいっそ致命的な反応が現れるはずだ。
「ってぇこたぁ」
「……『大根』」
「でーこん」
「…………『何を言っているんですか』」
「てやんでぇ」
無。
そうとしか表現しようのない空虚な時間が、ひたすら未来に向かって無為に、滔々と流れていく。五和が天草式女性陣の手を借りて粗大ごみの処理を指揮する声も、どこか遠くの世界の出来事のようだった。
「こ、このイタイほどの超静けさはなんなんですかい?」
「胃と頭の他に腹まで痛ぐなってきまじたよ、僕は。いつの゛間にあの江戸っ子シスターど接触してたん゛ですか」
「そもそもアニェーゼの下町言葉は、ここまで極端ではなかったと思うのですが……」
「何やら超ごちゃ混ぜになっちまってコ・ン・ラ・ンしてきたのよな」
「「こっちの台詞ですッ!!」」
混迷を深める最大主教の脳内情勢に頭を抱えながら、それでもステイルは次善策の模索を止めない。あるいはそれは、事態の推移を眺める脚本家からすれば、ピエロの余興に等しい足掻きなのかもしれなかった。
「……ともあれ、ここで一度状況を整理してお゛こうか。ごのままでは僕らまで頭がおかじくなって死ぬ」
「おかしくなってるのに死んでない人もいますけどね……」
「? 何の話なのかな?」
「あなたは気にしなくていいんですよ、インデックス」
「はぁ」
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
・超教皇級の馬鹿:馬鹿な馬鹿口調
・建宮:「~なのよな」
・浜面夫人:「応援できない」
・???:「ブチコロシ」「にゃーん」
・???:「超~」
・アニェーゼ:江戸っ子
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「……こんなどころか」
羊皮紙に書き出した奇怪な口調の羅列を、ステイルは胡乱な目でさっと見直した。大真面目にペン先を走らせている最中、「いったい僕は何をやっているんだろう」とちょっと首を括りたい衝動に駆られたのは秘密である。
「こうして改めて眺めてみると……まこと、脳内事情は複雑怪奇というべきでしょうか」
「まっだくだ。二〇世紀初頭の列強勢力図にも劣ら゛ぬ、異常な゛惨状だよ」
「人の頭の超中身を指して、いくらなんでもその言い草は酷いと思うかも! そんなステイルとかおりは応援できないんだよ!」
湯気を出して頬を膨らます、幼子のごとく稚い聖女。反論する気力すら湧かなかった。苦笑しながら宥める火織との微笑ましいやりとりを横目で一瞥しながら、ステイルは温くなった緑茶を一口すする。湯気の消えかけた水面の発する熱が、ほどよく舌上の温点を刺激し、心持ちを落ち着けてくれた。
「失礼します、女教皇様。あの肉塊の最終的な処理ですが、いかがいたしますか」
胃に優しい味わいを楽しんでいるところに、肩で息をした五和が額の汗を拭いながら現れる。
「いつも通り、テムズ川に流しておけば問題ないでしょう」
「了解しました」
……実に手慣れたものである。これもまた生物が生まれながらに有する、環境への適応能力なのだろうか。
「申し訳ありませんでした、最大主教にステイルくんも。……はぁ。それにしても、建宮さんは本当に成長がないんだから」
折り目正しく頭を四五度下げた五和。面を上げると頬に手を当て嘆息する。ステイルとしては実に親近感の湧くため息だった。
しかしその吐息に含まれる色に、単純な憂鬱以外の絵具が混ざっているのをステイルは見逃さなかった。薄く紅を差した唇の端からこぼれる、どこか艶めかしくすらある愁いの芳香。ひとたび強敵と対峙すれば一振りの名槍と化す、凛とした女戦士の面影はそこにはない。秋の柳にも似た純朴な佇まいと、同居する弱弱しさが男心をくすぐる。
「いやいや、楽しき時間だったにゃーん! ……ふふ、いつわもたまには、超さいじの期待に答えちまってもよきことよー?」
「別に、貴女があの男の言動に責任を取るいわれ゛などないだろ゛う?」
「生温かい目で見ないでください! 別に私は、その、そんな……ただ建宮さんがあんまり子供っぽいから」
日頃温厚な五和がここ数年、“ある男”と面を合わせるたびに感情を剥き出しにしていることは、『必要悪の教会』の構成員なら誰もが知るところであった。
「……ん? どちらかと言えば建宮の野放図の責任は、私が取ってしかるべきでしょうけどね」
ただ一人、この能天気で朴念仁な聖人を除いての話だが。
「えっ!? そ、そんな、女教皇様にはすでにご家庭があるじゃないですか!」
「な、なにをそんなに焦ることがあるのですか、五和? まああの男も教皇代理の肩書きから解放されて、元からどこか緩かったタガがさらに抜けてしまった感はありますね」
「でで、でも! 昔から建宮さん、決めるときにはちゃんと決めてくれますし!」
「はあ、いえ、それは私もよく知ってますが……あの、五和? さっきから少し様子がおかしいですよ?」
おかしいのは君だ。
歯列の裏側まで出かかっていたツッコミを、ステイルはすんでのところで嚥下し直す。
「……あっ、いえその、別に他意は」
怪訝そうに表情を歪めた火織にあいまいな笑みを送って、五和は事態の鎮静化を図る。上条当麻にすら匹敵する天然記念物クラスの鈍感女が相手ならば、すこぶる正しい戦局判断である。
「『昔から建宮さん、決めるときにはちゃんと決めてくれますし!』」
そう。相手が一人ならば、正しかった。
「ちょっとステイルくん!? 何を人の声で遊んで」
「『ああ……アックア戦以前のカッコイイ建宮さんはどこにいっちゃったんでしょう』」
「最大主教まで! っていうか私そんなこと言ってません!」
「いやいや。暮れの忘年会の席上で君、酒に酔ってポロリとこぼしてたよ」
「もとはるがしっかりばっちり超抜け目なく録音しといてくれたのよな。聞く?」
「うわぁぁぁぁあああぁあ!!! 不幸ですーっ!!」
西の果てで暮れかけている太陽に向かって、五和は一目散に駆け出していった。容姿端麗、温厚篤実、料理上手と三拍子揃ったパーフェクト大和撫子二十代後半。いまだ独身である。プッツンした際のタガの外れっぷりが、男運に災いしてるともっぱらの噂だった。
「…………? 五和はいったい、どうしたのですか?」
「君の頭がいったいどうなってるのか、という命題の方が僕には気になる」
「私もなんだよ」
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
親友と戦友の白眼視にもまるで気付かないまま、火織は五和が駆け抜けた明日への旅路をなんとなしに眺めていた。本当に、五和はいったいどうしたのだろうか。天草式の内部で人間関係がもつれているとすれば、その綻びを解くのは教皇たる己が役目である。
構成員に聞き取り調査でも実施しようかと考えていたその時、火織は気が付いた。網膜を刺激する斜光が燦々たる萌黄色から、酸素を喰らって燃え上がる、蝋燭の炎のような橙に変わりつつある。
「おや、もうこんな時間ですか」
「あ、そろそろ五時だね」
「ん、本当だ。最大主教、そろそろ公邸に戻るお時間です」
インデックスとステイルが、各々愛用の懐中時計を開いて時刻を確かめる。素材や全体の色合い、細部の装飾に至るまで実に酷似した品だった。それもそのはず、二人が使っている銀時計はまごうことなき――――『お揃い』の一品なのだから。
「なんだい神裂。気持ち悪いほど朗らかにニコニコしているが」
「いえ、お気になさらず。仲良く帰ってくださいね」
「その面を見て気にならないわけがあるか! ……ぐ、ごほっ」
ようやく治りかけた喉を再び酷使しようとしたツケか、ステイルが二度三度と派手に咳こむ。インデックスが無言で背中に回って優しくさすり上げる様が、また一段と火織の表情を緩めた。
「この際だからはっきり言いますが、あなたは根を詰め過ぎです、ステイル。今の地位に就いて以降、ロクに休みも取っていないそうですね」
「………………仕事なんだ、仕方ないだろ」
口をもごもごさせて目を背けるその姿は、思いの外幼いものだった。こういうところは昔から変わっていない。ステイル=マグヌスという少年はその成熟しきった外見に反して、時たま実に子供っぽい仕草を見せたものだった。
「何もかも、僕が自分自身で選んだことなんだ。他の誰かに放り投げていいようなものじゃない」
そのくせ、責任だけは一端の大人ぶって一人で背負いこんでしまう。付き合いの長い火織は、当然ステイルのそういう性質を承知していた。こうなったステイルが容易には意見を翻さないことも含めて、承知の上で語りかけていた。
「自分一人でできないことは他人に任せる。それも、あなたの仕事の一部でしょうに」
「だから僕は、『自分一人でできること』をこなしているにすぎないと言ってるんだ」
「……ふう。あなたという人は、本当にもう」
はっきり言って火織は、弁の立つ方ではない。困ったら真っ先に手が出るタイプの人種だ。言葉で彼の心を動かすことは、やはり自分には土台無理だったのだろう。
「……すているは、頑張りすぎなんだよ。少しは、自分の体のことも考えてほしいかも」
「っ!」
その時だった。手をこまねいているばかりだったインデックスの両の瞳が、気遣わしげな光とともにステイルを真っ直ぐ射抜いていた。その視線のあまりのまぶしさに、ステイルはたじろいで肩を震わせた。弾かれたように振り向いたかと思うと、中庭を横切って門前へと歩き去ってしまう。
「…………だよ」
聖人の常人離れした聴力でしか拾えないような微細なつぶやきが、二人に背を晒すステイルの口許から漏れた。
「それじゃあ、駄目なんだよ。他の奴らと同じことをしてるようじゃ、駄目なんだ。君を守るためには、こんな程度の強さで、足踏みしているわけにはいかないんだよ……っ!」
悲痛だった。そして、痛切な力への渇望だった。幼い時分から『聖人』と『禁書目録』の二人に挟まれて育った、ステイルの抱く劣等感。火織とて、まったく想像したことがないわけではなかった。
ステイル=マグヌスは決して弱くはない。どころか、現在では疑いようもなく『必要悪の教会』で一、二を争う使い手といっていい。そこに至るまでの道程にどれほどの苦悶が在ったのかも知らずに、人はステイルを天才と呼ぶ。古今東西の書物をそれこそ血が滲むほど読み漁ったことも、高濃度魔力生成のために身体機能の一部を犠牲にしていることも知らずに。すべてはたった一人の少女を守るため。寝食を忘れ、血反吐を吐き、魂を削るような修錬の果てに、教皇級と称されるほどの力を手に入れ、そして――――
「少なくとも、『奴』を越えない限り、僕は、僕は……」
――――失敗、したのである。救いたい人を、その手で救うことができなかったのだ。
「私はすているのこと、もう信じてるのに」
彼の背中を見つめるインデックスのつぶやきもまた、痛切なものだった。互いが互いを想う言葉は互いの耳には届かず、第三者にすぎない聖人の鼓膜だけを叩いて消える。火織には、二人にかける言葉が見つからなかった。消沈した足取りでステイルの後を追うインデックスをも、徒に見送ることしかできなかった。
「……それでは二人とも、また明日」
門をくぐる男と女に向けて、火織は手を小さく振った。
「……うん! また明日ね、かおり!」
「……ああ。また明日会おう」
お互い手を振り、また明日。
それは今まで夢の中にしか存在しない世界だった。しかし夢と現実は違う。当然のように世界は遷ろっている。男と女の関係も、少年と少女のそれとはまるで違うものに変わり果てた。
「さて、帰りましょうか。最大主教」
「まいかがきっと、腕に超よりをかけた夕餉を作りて待ってるんだよ」
地平線にかかって揺らめく夕陽。まぶしさと同化する男女の後ろ姿に、火織の視界で遠い日の記憶が映写フィルムのように重なる。
『おっ。あれは神裂じゃないかな、インデックス』
『かおりー! 今晩はどんなごはんを用意してくれたのかな!』
もう二度と戻らない、あの日の追憶。少女に腕を引かれた少年が、少年を引っ張り回す少女が、こちらに顔を向けて無邪気に笑っていた、あまりにも遠すぎるあの日。
「……今でも引きずっているんですね、あなたたちは」
稜線に霞む友たちに、火織の声は無論届かない。いつかの日より伸びた二つの影が、並んでロンドンの街路に落ちる。かつてはゼロだった二人の距離。今では一人分、無限よりも遠い『一』という距離を隔てて、ぽっかりと開かれていた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
Passage2
神父と聖女と聖人と
END