「んっんっんー♪ メイドさんの恋しい季節になってきたにゃー」
どこの国の何処とも知れぬ、陰惨とした路地裏の暗がり。雰囲気にそぐわないアロハシャツを血腥い風になびかせて、一人の男が鼻歌など響かせていた。オツムのどうかしてるとしか思えない世迷言に向かって、「お前にメイドさんを恋しがらない季節なんぞないだろうが」とツッコミを入れる者もなく、男は悠々と人気のない裏路地を闊歩する。
その時、アロハシャツの胸ポケットからブゥンと唸り声が上がった。携帯電話を手に取った男は画面に表示された着信先を確かめてニヤリと笑い、それを耳許へと運ぶ。
「もっしもーし」
『私メリーさん。今すぐに背後をとってあなたを消し炭にしてあげたいの』
「おいおい、俺のバックにはイギリス清教がついてるんだぞ? それがどういうことかわかってるんだろうな……戦争だろうがッ……!」
『僕のバックにだってバッチリついてるよ! むしろ君より僕の方が地位が上だろうがッ!!』
「やーんステイルくんったら、バックをとるとかとらないとか、そういうお話はハッテン場のお兄さんたちとしてほしいにゃー」
『死ね』
驚くなかれ、これは男と電話相手の間では日常の挨拶にも等しいやりとりである。根っこが生真面目な青年をからかうのは、同僚である男にとって数年来のライフワークですらあった。青年の日頃の苦労が窺い知れるというものである。
会話相手が眼前にいるわけでもないのにオーバーに肩をすくめ、男は悪戯の成功した稚児のように白い歯を浮かべた。
「……さて。それで今日は、この土御門元春に何の御用かな?」
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
Passage1
贖罪者の右腕
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「ぶっ、だはははははっ!!! インデックスに、あの馬鹿女の馬鹿口調が遷ったぁ!? そりゃー傑作だぜい! で、オレからのプレゼントの方はお気に召したかにゃー?」
『やかましい! 君とあの婆のせいでこの忙しい時期にいらん苦労を背負いこんでるんだぞ僕は!!』
相も変わらず金髪の女狐に振り回されている様子の青年を思い浮かべて、土御門元春は軽快に爆笑した。耳元から携帯電話を遠ざけて怒鳴り声に対処すると、その姿勢のままくつと笑い、電話相手の烈火のごとき怒りを意にも介さずのたまう。
「そいつは残念。十年前とはあらゆる意味で比べ物にならないほど成長したインデックスのボンキュッボンな肢体に、あのサイズ小さめに見積もったメイド服はさぞかし」
『OK、現在地を教えろ。ピンポイントでルーンを郵送してやる』
「なんだ、着せなかったのか?」
『着せるも着せないもあるか! 僕と最大主教の関係は上司と部下以外の何物でもないッ!!』
「飽きもせずにまだグダグダ言ってんのかお前ら。まったくじれったい連中だな」
『ほっとけ! ……で? 実際のところ、今どこにいるんだい』
都合の悪い話になった途端に逃げやがったな。
胸中で小さく毒づきつつ、いまやイギリス清教のブレーンを務める男は薄暗い路地を抜け、人気の多い雑踏へ出る。土御門の現在のねぐらはそう遠くなかった。
「俺のお仕事、わかってるのかにゃー? 秘匿回線とはいえおいそれと喋ってやるわけにはいかないぜよ」
『……つまり、だ。ローマの使者が到着するまでにロンドンに戻ってくる、ということはないんだな』
声のトーンが一段下がる。こちらが本題なのだろうと土御門は察した。察したというなら、着信相手を確かめた時点でとっくのとうにお見通しではあったのだが口には出さない。言わぬが仏、沈黙は金。土御門の郷里の諺にもそうある。
現在イギリス清教は最大主教の交代という難しい局面を迎えていた。そこにいち早く“祝賀”の使節を送りこんできたのがよりにもよってローマ正教と聞き、ステイルはきな臭いものを感じとったのだろう。なにせほんの数年前まで、ローマ正教とイギリス清教は半ば公然と敵対していた、不倶戴天の間柄なのだから。
現ローマ教皇ペテロ=ヨグディスがどのような思惑を抱えているにしても、土御門も本来その場に同席すべきだった。現行体制の中心メンバーで政治手腕に最も長けているのは土御門である。
しかし当の土御門は、現在イギリスからはるか大西洋を越えた地に潜伏している真っ最中。よって、というわけでもないが、此度の一件に関わる気はさらさらなかった。
「ま、深刻な事態になることはないと思うから、そう気張らずにいることだ」
『クソッ。何か掴んでるな、土御門?』
「にゃっははは」
『笑いごとじゃあない! 事は清教派の浮沈にも関わりかねないんだぞ!』
「おやぁ? お前、イギリス清教の利益なんてものに興味があったのか」
『人には立場、というものがあるだろう』
「お前が重視してるのは『イギリス清教の幹部』としてじゃあなく、『インデックスの側近』としての立ち位置だろうが」
『……どちらでも同じことだよ。今となってはイギリス清教がそのままイコールで、彼女そのものなんだからね』
「素直じゃないにゃー。『インデックスのことが心配です』って本音をそのお口からくっきり吐き出せたなら、情報をやらないでもないぜい」
ステイルは黙りこくった。この期に及んで本当に素直になりきれない男だな、と土御門は呆れる。青年がシャイな少年だった時代からその性質をよく知る土御門としては、微笑ましい姿に映らないでもなかったが。
なので「死に腐れ」という小さな小さな呪詛の言葉は聞かなかったことにしてやった。
「やれやれ。繰り返すが、おまえが心配するようなことにはならない。御使者が到着してからのお楽しみってところだな」
はぁ、と電波の発信元から最近お馴染みのため息が聞こえる。苦労性というかなんというか、とある『病気』がここのところとみに顕著になってきている青年に向けて、土御門は一つ確認する。
「それから……舞夏は元気か?」
『ああ、元気さ。神裂も気をかけてくれるが、やはり立場というものがある。彼女にもかなり助けられているよ』
頬をわずかに緩めると、小さく「そうか」と返す。
土御門の元義妹にして現配偶者は、現在最大主教の世話係として学園都市から遠くロンドンへと移住していた。そして、土御門舞夏と最大主教とは十年来の付き合いである。
ここ数週間、インデックスの身辺では環境の激しい変化があった。気心の知れた仲ゆえに、心労を和らげる清涼剤としての十分に役目を果たしてくれている。そう語るステイルの口調も、幾分柔らかなものだった。
『とはいえ、そろそろ帰ってきたらどうなんだ。彼女はプロだから口には出さないが、最大主教が見るには寂しさを堪えているんだろう、ということだったぞ』
「…………まあ、いずれ、な」
やや歯切れの悪い返答だけが、重苦しい響きを帯びて空気に乗った。
土御門の現在の仕事はやや私情が絡むものだが、教会の利益につながることは間違いない、立派な裏社会絡みの代物である。中途半端に済ませた挙句、今日では清教派の本拠地で日々を営む世界一大事な女性を、万が一にも戦火に巻き込むわけにはいかなかった。
そうこうしているうちに潜伏先の一つとして寝泊まりだけを済ませている、違法建築の塊のようなバラックが視界に入った。土御門は溜まった郵便物をポストから無造作に抜き取るとドアを開ける。そしてしばらくぶりの清潔、とは言い難いが少なくとも硝煙や血痕の染み付いていない寝床にダイブした。
「じゃあそろそろ切るぜい。俺は久方ぶりの惰眠をこれから貪る。もう邪魔しないでお願い」
『ん、そうかい。わかった、それではよい夢路を』
初っ端の剣幕からは考えられないほど穏やかな声が耳に入ると、ブツッと通話が切れた。土御門は怪訝に思いつつも、会話には滲ませなかった疲労に負けて、とりあえずは睡魔に身を委ねることとした。
「ん?」
と、その時。放りだした郵便物の中に見覚えのある筆跡と名前を発見した。してしまった。
「な」
逆立つ総毛、速まる動悸。長年の日陰暮らしで身に付いた野生のカンが危機的状況の到来を告げる。
曰く、常識も国境も通用しない未元速達便――――「土御門元春様へ ステイル=マグヌスより哀をこめて」
「にゃ、なんでこの場所が」
泡を食って跳ね起きた時には遅かった。中に仕込まれた炎を意味するルーンのカードが、“土御門がギリギリ死なない程度の威力”で炸裂する。
「ふっ」
響く爆音、立ちのぼる黒煙。
「不幸だにゃぁぁぁぁああぁぁあっ!!」
遠くロンドンの地から遠隔爆撃を敢行したステイル=マグヌスに言わせれば、「自業自得だ」の一言に尽きたであろう。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「なにかありて、ステイル? いやにすがすがしい顔をしてつきにけりなのよな」
「いや、とりあえずこれで溜飲は下がっ、た…………へ?」
「どうかしたるのよな?」
「いや、なにか……おかしい。さらに、一段と、おかしくなっているような」
「おかしき!? かような馬鹿なことがありにけるのよ? 矯正はさいじが手伝ひてくれたのよな」
「建宮斎字ィィーーッ!! お前もかぁぁぁ!!」
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
普段と違い人気の失せた聖ジョージ大聖堂の奥で、ステイルとインデックスは使節の到着を今か今かと待ち受けていた。インデックスは「はじめてのこうむ」に表情を硬くしている様子だったが、ステイルはといえばそれどころではない。
「くそ、結局天草式の馬鹿どもには逃げられ、馬鹿口調もまったくもって矯正できず、この日に至るまで僕にできたのはあのふざけた露出度のメイド服を片っ端から焼き捨てたことだけか……!」
最大主教公邸のクローゼットにこれでもかと納められていた土御門謹製らしき衣装の山。修道服とメイド服を足して二で割った後にいかがわしさを二乗して掛け合わせたようなコスチュームを目の当たりにした時、ステイルは反射的に炎剣をブチ込んでいた。
「まあしょうがなきにつき! それよりいよいよなのよな、お仕事」
「……あの、基本的に僕が応対しますので、なるべくなら黙っててもらえますか」
「いかにして?」
「本気で聞いてるんじゃないでしょうね」
「えへへ」
「笑って誤魔化すんじゃない!」
コンコン。
控えめなノック音に二人は口を閉じた。インデックスはヴェールがずれていないか両手を頭にやって確かめ、ステイルも神父服の襟元を正す。
「ローマ正教からのお客様の御到着です」
「お入りください」
鈴の鳴るような、という形容がぴたり当てはまる音色がステイルのすぐ隣から発された。扉の外からの声にすかさず応答したのは、ステイルではなくインデックスの方だった。普通に喋れるんじゃないかと余程つっこんでやりたかったが、状況がそれを許さない。
(土御門の口ぶりは、間違いなく使者の正体を知っている者のそれだった……さて、鬼が出るか蛇が出るか)
観音開きの大扉が徐々に開け放たれていく。薄暗い聖堂の中に佇むステイルは軽く目を細めた。逆光が眼球を刺して、入ってくる男の姿が定かでない。ただ、体格から男だとは見当がついた。全体として線は細いものの、それなり以上に鍛えられている。
コツコツ、と革靴と床の間で規則的な音を鳴らしながら、男は二人の前方五メートルほどの位置で脚を止め、尊大に腕を組む。顔を見て、ステイルは息を呑んだ。
「ごきげんよう、英国清教最大主教殿。俺様が俺様だ」
ジャイアンでももうちっとマシな自己紹介するわ。没コミュニケーションってレベルじゃねーぞ。
喉まで出かかった言葉をぐっと飲み込む。斜陽のごとくゆらゆら燃える赤髪が真っ先に目に留まった。ローマからの来訪者に対して、ステイルはインデックスを庇うように前に出る。その男に直接会うのはステイルも初めてだったが、写真なら何度も見たことがあった。
「そう警戒するな。ステイル=マグヌス、だったか」
「申し訳ないが、チェンジで」
「残念ながらホストクラブの指名ではないのだからして、そのようなシステムは実装していないな」
「一刻も早くお帰りいただきたい。さもなくば御使者の身の安全は保障しかねます」
「俺様の身に危害を加えんとする下手人が目の前にいるのだ、確かにそうかもしれんな」
ステイルはすでに懐からルーンの束を取り出していた。だが男は意に介した様子もない。二人の男の間で火花が散り、室温が心なしか上昇する。
その時、真後ろのインデックスが毅然とした声を上げた。
「ステイル、止めなさい」
「しかし、最大主教」
「止めなさい」
「……承知いたしました、我が聖下」
「そうそう、下っ端風情が公使の邪魔などするものではない。下手を打てば国際問題だぞ、ステイル=マグヌス」
インデックスとて男の顔を知らぬはずもないだろうに、とステイルは釈然としない面持ちで身を引いた。ローマ教皇直筆の公文書をヒラヒラさせて高慢な笑みを浮かべるその男とインデックスには、浅からぬ因縁があるはずだ。
「あなたを遣ひに寄こしたのは、ややもするとマタイ前聖下のはからいなの?」
「察しがいいな」
「マタイさまらしい気遣いなのよな。私も、いつかはあなたに会いたしと思うてたんだよ」
「それは、光栄なことだ」
インデックスが真珠のような光沢を放つ口唇のラインを緩めると、男は正視を避けて顔を傾げた。
インデックスと男の関係を表現するに相応しい言葉など、ステイルには一つしか思いつかない。その関係性に従えば至極当然の行動である。
しかしステイルの目は驚愕に見開かれた。この男にも罪悪感などという人間らしい情感が存在していたのか、と思わされたのである。
「ようこそ、ロンドンへ。我らが主の御心のままに、私たちはあなたの来訪を歓迎します」
彼はかつて、『右方のフィアンマ』と名乗っていた男だった。
「……感謝する、最大主教」
フィアンマとインデックスは、疑いようもなく加害者と被害者の関係にあった。