昼下がりのロンドン市ランベス特別区、聖ジョージ大聖堂。その中庭で神父服の男が紫煙を燻らせていた。
「はぁ……」
煙と共に大きく息を吐く長身赤髪の神父。名を、ステイル=マグヌスという。その無駄にデカイ図体に向けて、彼の目の前に立つ女が腰に手を当てながら口を尖らせていた。
「なぜにそのような溜め息をついたる、ステイル? 私の護衛がさように気の重くなりぬる仕事と言うの?」
背にかかるほどの豊かなアッシュブルーが右に左に揺れる。ステイルに人差し指を突きつけている女性は、絶世と言って差し支えない美女であった。神々しささえ醸し出す美貌にそぐわぬ稚い仕草は、ステイルの心臓の拍動を速めるに十分な効果がある……あるにはある、のだが。
女の美貌は現実逃避の受け皿としては悪くなかった。だが、そうも言ってばかりはいられない。この状況には一つ、ステイルにとって無視しがたい問題が介在していた。
「はぁぁぁ…………」
問いかけには一切いらえを返さず、ステイルは先ほどよりさらに長く呼気を吐き出す。これ見よがしに、である。
ステイルの様を見て取った女は眦を軽く上げ、
「言いたき儀があるのならはっきり申せばいいと思うにつき!」
餅のような弾力にあふれる頬を、可愛らしく膨らませた。対するステイルはいま一度煙草の煙を、女から顔を逸らしながら青空へと逃がす。それでもなお、鬱屈とした気の塞ぎは霧散してはくれなかった。
目の前の女性の存在そのものに関して、ステイルに否やなどあるはずもない。なぜなら彼女はステイルにとって、世界の何物と天秤にかけても傾く、絶対的な守護の対象であるからだ。ただ、どうにも世間知らずというか、有事が身に迫っていない際の警戒心の薄さに定評があって困る。
その女性の名を――――
「ならば一つ質問をよろしいでしょうか、最大主教」
「なにかしら?」
「…………その馬鹿げきった馬鹿な口調は、もしや土御門の差し金によるものですか」
Index-Librorum-Prohibitorum、と言った。
「え? ローラが言うには『最大主教たるもの格式に則った話法で各国との協議に臨むべし』って……」
「(元)最大主教ゥゥーーーッ!!! あの女狐またやらかしてくれたなぁぁっっ!!!」
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
1st Chapter
とある神父と英国清教
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プロローグ
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
イギリス清教第零聖堂区、通称『必要悪の教会』。存在しないはずの零番目の教区を司る彼らの存在理念は、一文でもって言い表すことができる。
すなわち、日本で言うところの『毒をもって毒を制す』。聖職とは対極に位置する魔術師という名の異端者を狩るべく、主敵と同じ魔道に身を染めることを許された集団。異質にして異常な空気を纏う清教派の嫌われ者。しかし独裁者であった前最高権力者の裁量により、事実上イギリス清教の中核を担っている戦争屋。
ステイル=マグヌスが在籍しているのは、そんな薄汚れた人殺し集団だった。
「内にも外にも問題児が多すぎるわ! こんなイギリス清教に誰がした!?」
「むむ! 心配は無用なりてよステイル! 私が最大主教となったからにはしかと改革を推し進めて」
「それ以前に貴女の食費が財政を圧迫しているんですよ! 修道会に属する身としてそれでいいのか!」
「う……わ、我らの父は食物を粗末にしたることを第一の罪として定めておってね」
「教義を揺らしかねない問題発言は控えていただきたい! 貴女の何気ない一言で世界情勢が動くかもしれないんですよ!」
しかしここ最近、ステイルの周辺の世界はすこぶる平和だった。こうして下らない四方山話に興じているこの状況が良い証拠だ。
『必要悪の教会』所属魔術師の任務は多岐に渡る。世界各国でよからぬ陰謀を企てる『わるいまじゅつしさんたち』を掃討する遊撃手もいれば、特定の地域に依って『わるいまじゅつしさんたち』から信徒を守る守護者もいる。そしてステイル=マグヌスの現在の任務は、一人の女性の身辺警護であった。任務というよりは責務である、と言い換えた方が正確であるかもしれない。
最大主教筆頭護衛官。
神職の人間にはまったく不釣り合いの物騒な肩書が、今のステイルと“彼女”の立場を如実に象徴していた。
「エンゲル係数で揺れるパワーバランス……それはちょっとイヤかも」
「僕だってイヤですよそんな世界!」
イギリス清教最大主教、Index-Librorum-Prohibitorum。
彼女がとある事情から五年の間生活していた学園都市を離れ、このロンドンで聖職者としてキャリアを重ねるようになってから早いもので五年が経つ。合わせて実に十年。時間はステイルを二十四歳の精悍な青年へと――身長はほとんど伸びなかったが――成長させ、インデックスを戸籍謄本に芳紀二十五、と年輪を刻まれておかしくないだけのれっきとした女性へと変貌させた。
それほどの月日が、いつのまにか二人の上に、そして世界に流れていた。
「ふぅ、はあ……」
「ぜぇ……はぁ、と、とにかく、近日中にはローマから就任祝いの使節が到着します。その前でこんな間抜けな訛りを丸出しにされては貴女の面目……じゃなかった、清教派の沽券に関わるんですよ」
散々言いあった結果、矢継ぎ早に文句をぶちまけてきたインデックスの呼吸が束の間乱れた。その隙を見逃さずに言うべきを伝えるステイル。基本的に仕事に対しては生真面目な男であった。サラリーマン気質、ともいう。
本心では大事にしたくてしょうがない相手であっても、公人としては厳しく接しようと心がけたゆえの言動。ステイルのインデックスに対する甘さをよく知る面々からすれば、驚天動地の事態であろう。
「やっぱりステイルも、私には無理だと思いけるの?」
「……ッ!? い、いや、違うんだそうじゃなくてだね」
……いや、やっぱり甘々なのかもしれない。
目尻に涙粒を浮かべた女を目の当たりにして、ステイルは途端におたおたし始めた。身体を小刻みに震わすインデックスへ、肩に手を置くという最低限の気遣いにも踏み切れない。実に情けない男である。ヘタレ、ともいう。というより、ステイル=マグヌスの名はこの界隈でヘタレの代名詞として十二分に通じてしまっているのが現実である。
「無理しなくてよきよ。うすうす、自分でも身の丈に合わぬこととは」
しかしインデックスの発言が自虐じみたそれへと変わった瞬間、ステイルの相貌も同時に、激しく豹変した。
「違うッ!!」
張り上げられた力強い雄叫びに、びくりと跳ねる女の背中。一つ二つ深呼吸をしてから、ステイルはうってかわって静かな声を発した。真摯な眼差しを真っ直ぐに向けて、諭すように滔々と。
「君は……貴女は、神を愛し、神に愛される高潔な聖職者だ。多くの民草が疑いようもなく、貴女によって救われているのだから…………この、僕だって」
当のインデックス自身を救うことができたのは、この世でただ一人だけだったが。
そう、自嘲気味に微笑みながら。
「す、すている、恥ずかしいよ」
神父の熱弁に、聖女の丸みを帯びた頬がかすかに赤らむ。ステイルはその表情を見て我にかえった。唇を軽く噛み、反射的にインデックスに背を向ける。
「……失礼。差し出がましい口を利きました」
「……そういうことじゃ、ないのに」
ポツリ、寂しげな声。期待と寂寥の綯い交ぜになった視線を広い背中で受け流しつつ、ステイルは咳払いをした。
「んっ、んん! とにかく、だ。少なくとも『必要悪の教会』の面々は皆、貴女の器を認めている。ご自分をあまり過度に卑下なされると、彼らも悲しみます」
「そっ、か。うん、わかったんだよ」
「口調の方はまあ、おいおい直していけばいいでしょう。今はローマ正教との会談について詰めなければ。テレビカメラの立ち入りは先方が拒否してきたんだったかな……」
誤魔化すようにわかりきったことを口に出しながら、ステイルは内心でインデックスの前任者の顔を思い浮かべる。ステイルは激怒していた。必ず、かの邪智暴虐の魔女を遠隔操作魔術で塵にせねばならぬと決意していた。懐のルーンの貯蔵は十分だったかと確かめつつ、ステイルは神父服の内ポケットから分厚い革の手帳を取り出し、今後の予定を確かめるふりをする。
最大主教のスケジュール管理は別部署の仕事だが、専属SPのような立場にあるステイルは当然四六時中彼女の傍に付き従うこととなる。要するにインデックスのスケジュールイコール、ステイルのスケジュールだ。びっしりと書き込みがなされたページとにらめっこをしていると、いきなりインデックスが大声を上げた。
「あっ!」
「っ、今度はなんですか?」
すわ不審者か、と身構えるステイルを尻目に、インデックスが聖堂の中へ駆けていく。慌ててステイルが後を追おうとすると、五秒とせずに彼女は、幅三〇センチほどの紙袋を携えて戻ってきた。
「明日のことで思い出したる! もとはるが公式の場ではこの……」
嫌な予感がする。マジすげー嫌な予感がパないんですけど。
脳裏で誰かが囁いた。きっと世に第六感とか呼ばれる便利な概念だ、とステイルは他人事のように思った。
ごそごそと紙袋をまさぐって取り出されたのは――――
「『神にご奉仕☆メイド風あーくびしょっぷ』を着るべし! と」
ふざけた露出度の修道衣風コスだった。そのスジの店でうら若い娘が着用するようないかがわしさ全開の代物だった。
こめかみからブチッ、という音が聞こえた気がした。
「土御門ォォォーーーーーッ!!!!!」
大聖堂に本日二度目の絶叫が響き渡る。
すっかり『必要悪の教会』の、いやイギリス清教のメインツッコミに定着したすているくんにじゅうよんさいの行く末やいかに。