俺たちが背を向けた頃には、もうアパートを侵食する炎は手がつけられない勢いにまでなっていた。跡形もなく燃え尽きるのも、そう遠くないだろう。
美影の荷物が入ったバッグを背負って、薄暗い夜道を進む。このあたりに民家はなく、近くに工業地帯があるだけなので、人っ子一人どころか猫一匹すら満足に見当たらない。もうすこし向こうに行けば表通りに出るが、ここらは比較的、人が少ない場所だ。
「……冴木さんや渡辺さん、大丈夫かな」
あの人たち自身に被害はなかったとしても、彼らの家であるアパートが燃えてしまったという意味では、やはりそれは火災に巻き込まれたと言えるだろう。
美影はどうでもよさそうにつぶやく。
「心配いらない。あいつら、きっと殺しても死なないタイプ」
「……確かにそうかもしれないな。まあ俺に心配されるほどヤワな人たちでもないか」
気落ちしそうになる自分を励ますためにも、無理して苦笑してみた。
それからしばらく歩いた俺たちは、見知った人物と望まぬ再会をすることになった。月明かりも満足に届かぬ建物の陰に、一人の成人男性が倒れている。安っぽいジャージとニット帽。赤黒い血溜りのなかに横たわる彼は、まず間違いなくアパート『住めば都』の住人、渡辺さんだった。
首元の肉はぱっくりと裂けており、左胸のあたりにも刃物か何かで抉られた跡が見られる。顔面には大きなナイフが突き立っており、それが渡辺さんの顔を地面に縫いつけていた。脈を取るまでもなく、俺たちは渡辺さんが死亡していることを理解した。
「…………」
言葉が出てこない。
嘘だろ、とか、なんだよこれ、とか本当は言いたかったのに、喉は固まったように動いてくれない。
はっきり言って俺は、渡辺さんのことがあまり好きじゃなかった。だって彼は明らかに美影を性的な目で見ていたし、俺のことを嫌悪していたような素振りもあったから。それでも、それが渡辺さんの死んでいい理由にはならない。
以前にも一度、死体を見たことがあるせいか、あるいは最近、非常識な体験ばかりしてきたせいか、俺の頭のなかは不気味なぐらい冷静だった。
俺は遺体のそばにしゃがみこんだ。かつて本で読んだ知識を頼りに、死後硬直、血液の凝固、死斑などから大まかな死亡推定時刻を割り出す。
「……たぶんだけど、渡辺さんが亡くなってから、そう時間は経ってないな」
「私も同意見。きっと殺されたのは、日が沈んでから」
「殺された、か……やっぱりこれは他殺なんだろうな。考えたくないけど」
見たところ渡辺さんの死因は、刃物によっていくつかの生命器官を破壊されたことと、それに伴う出血多量だ。俺のような素人が確認しただけでも顔、喉、心臓の三箇所が抉られていることが分かる。
陰鬱な雰囲気が流れる。俺と美影は何をするわけでもなく、ただ黙って渡辺さんの遺体を見つめていた。
「やあ、探したよ。こんなところにいたのかい」
沈黙を打破したのは俺でも美影でもない、第三者だった。同時に振り向いた俺たちの先には、よれよれの背広に身を包んだ男性が立っていた。無造作に伸びた黒髪と無精ひげ。左肩から先のない、隻腕。うだつの上がらないサラリーマンのような風貌をしている。
「冴木さん?」
「冴木」
予想していなかった人物の登場に、俺たちは間の抜けた声を上げてしまう。どこかいつもとは違う笑みを浮かべながら、彼はこちらに近づいてくる。その顔にはびっしりと汗が浮かび、顔色もかなり悪いように見えた。
「びっくりしたよ。アパートが燃えていたからね。美影ちゃんと萩原くんの身に何かあったんじゃないかって心配してたんだ」
「それを言うなら俺だって心配してましたけど……」
かすかな、違和感。
頭のなかに警鐘が鳴り始める。
このままではいけない。
自分でも何がおかしいのかは分からないけれど、このままではいけない。
それは危機感というより、違和感。
俺は美影に歩み寄ろうとする冴木さんの前に立ちはだかった。彼は、意外そうな顔をするわけでもなく、ただ微笑む。
「どうしたんだい、萩原くん。そんなに怖い顔をして」
締まりのない、へらへらとした笑み。すこし前までは心を温かくしてくれた彼の微笑が、いまでは腕のいい道化師のそれに見えた。
「……冴木さんは、いままでどこにいたんですか?」
「僕かい? ちょっと街のほうに出てたのさ。それで難を逃れたんだよ」
冴木さんの全身を、俺は冷静に観察した。頭髪、顔、肩、腕、胸、腹部、腰、太もも、足首……そのなかに一つだけ、以前の冴木さんとは違う箇所があった。それを見つけた瞬間、疑惑は確信に変わった。
俺が疑っていることを察したのか、冴木さんは困ったようにはにかんだ。
「まあ火災に巻き込まれかけたんだ、萩原くんの危機意識が強くなるのも分かるけどね。でもいまは一刻も早く逃げることが先決じゃないかい?」
「逃げる? 誰からですか?」
冴木さんの笑顔に小さな亀裂が入る。
「もうアパートからはじゅうぶん離れていますよね。ここなら消防署の人たちに見つかることも、駆けつけてきた警察に事情聴取されることもありません。もしかして冴木さんは、俺と美影が誰かに狙われてるってことを知ってるんですか?」
「…………」
「それに俺は、最初からずっと気になってたんです。どうして冴木さんは」
俺たちのすぐそばに横たわっている遺体を、大きな血だまりのなかに倒れる渡辺さんの身体を、見つめる。
「渡辺さんの死には、一言も触れないんですか?」
暖かな光を宿していた冴木さんの瞳の奥に、冷たい炎が灯ったように見えた。
「仮にも同じアパートの住人です。それに冴木さんはアパートを出入りする人たちにいつも挨拶を交わしていました。だから冴木さんは少なくとも、俺よりは渡辺さんのことを知っているはずです。そんなあなたが、渡辺さんのことについて一言も触れないのはおかしい。いや、もっと言えば、誰かの死を見ても無反応なのが俺には異常に思えたんです。俺にはあなたが、人の死に慣れているように見えます」
「……ふむ」
「あるいは、冴木さんはここで渡辺さんが死んでいることをあらかじめ知っていた、という可能性も考えられます」
「ハハハ、なるほどね。つまり君は、僕が渡辺くんを殺したと言いたいわけだ」
「そうですね、否定はしません。冴木さんのズボンの足首に、血の手形があるかぎりは」
まるで死に逝く誰かが――この場合は渡辺さんか――遺したダイイングメッセージのようだ。きっと殺される寸前、文字通りわらをも掴む思いで、冴木さんの足首に縋りついたのだろう。
「……やれやれ」
身構える俺とは裏腹に、彼はどことなく嬉しそうな顔をしていた。
「本当に萩原くんは頭の回転が早いね。勘もいい。この薄暗い視界のなかで、そこまで気が付くのは大したもんだよ」
「理由を聞かせてもらってもいいですか?」
「いいよ、と言いたいところだけど」
彼はふところから拳銃を取り出すと、それを躊躇いもなく俺たちのほうに向け、
「もう時間切れだ」
静かにトリガーを引いた。
なんの警告もない発砲に、大きな音に対する準備のなされていなかった鼓膜がひどく痛んだ。廃墟が連なった薄暗いなかにマズルフラッシュが明滅。
「――っ!」
俺と美影は咄嗟に身をひねり、銃弾をかわした。ちょうど俺たちの中間をすり抜けた銃弾は、大気を焼きながら闇のなかに飲まれていった。
でも冴木さんの攻撃をかわした俺がまず思ったことは安堵ではなく、さらなる違和感だった。
……おかしい。
いまのは不意の一撃だったのに、俺たちはあまりにも簡単に避けることができた。暴力団の連中は拳銃の平均射程距離よりも遠くから撃ってきたので銃弾を防ぐこともかわすこともできたが、俺たちと冴木さんの距離は五メートルもないのだ。
これほどの近距離ならば、《悪魔》の血を引く俺でも、優れた運動能力を持つ美影でも、まず完全に回避することはできないはずなのに。
もしかして冴木さんには、初めから当てる気がなかった……?
その考えに俺が達したのと同時に、キィン、と《悪魔》が異能を使ったとき特有の耳鳴りがした。
背後から、禍々しい、殺気。
「後ろだ! 萩原くん!」
拳銃を構えたまま冴木さんが声を張り上げる。俺は反応することすらできず、ただ呆然と突っ立っているだけだった。冴木さんは姿勢を低くしながら駆け寄ってきて、俺の身体を突き飛ばした。足を踏ん張っていなかったせいで、ごろごろと地面を転がってしまう。急いで立ち上がり、冴木さんと美影の無事を確認すると、ほっと胸を撫で下ろした。
「ようやく追いつきましたよ。その傷ついた体で崇高な僕から逃れたのは賞賛に値しますが、しかし、終幕を引き伸ばす道化師ほど滑稽なものはありません」
安心したのも束の間、耳に覚えのある芝居がかった口調が聞こえてきた。
仄暗い闇のなかから人影が浮かび上がる。成人男性の平均を超える身長と骨格。金色の髪と、不気味なまでに細い糸目と、嘘くさい神父服。いつかの夜、俺たちのまえに現れたソロモンの大悪魔が、そこにいた。
冴木さんは汗がびっしりと浮かんだ顔で、自嘲気味に笑った。
「……巻いたと思ったんだけどね。僕としたことが、泳がされていたというわけか」
「いえいえ、そう悲観することはありませんよ。この崇高な僕の手から一時とはいえ逃れたのですから、もっと誇ったらどうです?」
「ちっ――」
思考する暇も、逡巡する時間も、俺たちには与えられていない。ダンタリオンは怪物じみた身体能力を駆使し、混乱と困惑の渦中にある俺たちを畳み掛けてきた。
「どうしました? 息が上がっていますよ?」
「……っ」
冴木さんはダンタリオンの一撃を身を引いてかわし、ほとんど照準もせずに発砲した。機械のように的確な軌道をたどる鉛弾は、俺たちに近づこうとするダンタリオンを牽制する。
研ぎ澄まされた体捌きと、相手の動きを読む勘と、卓越した銃の腕前と、理屈では説明できない危機回避能力。
そこには俺の知る冴木さんからは想像もできない、驚異的な腕前を持った戦士がいた。
もしかしたら冴木さん一人でダンタリオンを牽制し続けることは可能かもしれなかったが、しかし、すぐに拮抗は崩れた。
時間が経つごとに、冴木さんの動きが鈍くなるのが目に見えて分かった。おそらく彼は、人体の重要な部分を負傷している。目立った外傷がなく、手や足もきちんと動いているところから見るに、もしかしたら肋骨か内臓にダメージを負っているのかもしれない。
さらに追い討ちをかけるように、冴木さんの銃から弾が切れた。右腕しかない彼にはマガジンを交換するだけのこともできない。
それを好機と見たのか、ダンタリオンが大きく踏み込んだ――ように見えた。
「――っ!?」
だが冴木さんの前にいたはずのダンタリオンは、その場から姿を消していた。動きが速いとか、そういう次元の話じゃない。この場にいる俺と美影と冴木さんの知覚を掻い潜れるだけの、なにか特別なチカラが働いている。
どこをどう見渡しても、ダンタリオンの姿はない。
一体、ヤツはどこに消えた……?
「美影ちゃん!」
困惑を破ったのは、冴木さんの大きな声だった。
冴木さんは必死の形相で、悲痛なまでの叫び声で、美影に注意を呼びかける。その声に従って美影のほうを見ると、小柄な背中のうしろに、ダンタリオンが回りこんでいた。
でも当の本人は気付くのが数瞬、遅かった。
さすがの美影も、冴木さんと戦っていたはずのダンタリオンがいつの間にか自分の背後に移動しているなんて、想像はできても想定はできないだろう。気を抜くのも、索敵を怠るのも、それは人間なら仕方のないことだった。
「――くっ」
美影は遅ればせながらも素晴らしい反応を見せたが、それでもやはり、遅すぎた。
ダンタリオンの腕が上がる。糸目と唇が、三日月の上弦と下弦のごとき歪みを見せる。
そのときは、呆気なく訪れた。
美影の背から腹にかけてを貫くようにしてダンタリオンの腕が突き出される。鮮やかな血飛沫が中空を舞い、柔らかな肌と肉に風穴が開いた。
「……え?」
目を覆いたくなるような光景を、俺と冴木さんは――否。
その光景を。
俺と美影は――ただ黙って見つめていた。
「ぐぅっ、はっ……」
「やはりこの少女のためですか。どうです、これで満足でしょう? この崇高な僕が、わざわざ感動的な演出を用意してさしあげたんですから」
よれよれの背広から、冴木さんの腹部から――ダンタリオンの腕が生えていた。そこは真っ赤に濡れていて、いまもなお夥しい量の血液を垂れ流している。
冴木さんは、美影を庇ったのだ。
その代償は決して安いものじゃなかった。人間は、腹部に風穴が開いて活動できるようには作られていない。
「さえ、き……?」
美影は尻もちをついたまま、ぽかんとした顔で冴木さんを見上げていた。
「……ハ、ハハ……そう、か……ぶ、じ……だったんだね……美影ちゃん」
あろうことか、冴木さんは笑った。青白くなった顔を微笑ませて、まるで美影のことを気遣うかのように、笑った。それは友人でも隣人でもなく、もっと近しく親しい相手に向けるような笑顔に見えた。
「……だ、いじょ、ぶ……僕、が……まもって、あげる、から……」
最後の力を振り絞るような微笑み。
冴木さんは美影に負い目を感じさせないためだけに、圧倒的な激痛を堪えて笑っているのだ。
ダンタリオンが腕を引き抜く。それと同時に、冴木さんはその場にくずおれた。
冷たいコンクリートのうえに、渡辺さんのときよりも大きな血だまりが広がっていく。まだ幾許かの時間は残されているだろうが、それでも彼の命が風前の灯なのは火を見るよりも明らかだった。
「冴木さん……!」
居ても立ってもいられず、俺は冴木さんに駆け寄った。
ここにきて俺の頭のなかは後悔で満たされていた。初めに拳銃を向けたとき、冴木さんが狙っていたのは俺たちじゃなくて、俺たちの背後にいたダンタリオンだったのだ。
最初から最後まで冴木さんを信じることができていれば、もっと違う結末があったかもしれない。過ぎ去った過去を、悔やまずにはいられなかった。
「……萩原くん」
いまにも消え入りそうな声。
「美影ちゃんを、連れて……逃げてくれ」
「そんな、冴木さんは――!」
「僕は、いいんだ……それより、美影ちゃんを……護って、やってくれ……」
「なんでそこまでして美影のことを?」
「……決まってるだろう? 僕が、美影ちゃんの、ファンだからさ」
人懐っこい笑み。
どこまでも優しい、父親のような笑み。
このまま、この人をここで死なせてしまってもいいのか?
俺の《ハウリング》は血液にも作用するという特性上、治療にも用いることができる。ただし、それにも制限や限界がある。Dマイクロ波の馴染んだ自分の体ならともかく、血の繋がりもない他人の体を癒すことは難しい。せいぜい止血が限度だろう。
ここで俺が異能を使えば、冴木さんの命を数十分は長引かせることができるはずだ。でも、冴木さんに異能を使ってしまうと、ダンタリオンを相手にするだけの力がなくなってしまう――
「……くそっ!」
自分に腹が立って、コンクリートを思いきり殴りつけた。誰かが苦しんでいるときに、こんな小賢しい計算をするなんて、俺はいつからそんなクズになった?
いまはダンタリオンのことなんてどうでもいいじゃねえか。俺は冴木さんが好きなんだ。この人に少しでも長く生きてほしいんだ。だから――
「……いいんだ、萩原くん」
震える俺の拳に、冴木さんはそっと手を重ねた。
「きみは……本当に優しいね……」
「俺のことなんかどうでもいい! もう喋らないでください!」
「うん、そうだ、ね」
冴木さんが口から大量の血液を吐き出す。俺は着ていた上着を脱いで、彼の腹部に押し当てた。尻もちをついたまま呆然としている美影が、珍しくおろおろしながら、つぶやく。
「……さ、冴木……あの」
「美影ちゃん、怪我は……ないかい?」
「う、うん。でも」
「これは珍しい、ことも……あるもんだね……まさか、美影ちゃんに、心配されるなんて」
精一杯の強がりなのだろう、冴木さんは目元を柔らげた。その心温かい横顔を見て、俺は一つの決意を固めた。立ち上がり、こちらを興味深そうな目で見つめていたダンタリオンと対峙する。
「おや、もう今生の別れは済ませたのですか? もっと見せてくださいよ、安っぽい人間愛を」
「……余裕だな、てめえ」
「それほどでもありません。それは崇高な僕にとっても面白い見世物ですしねえ」
瀕死の冴木さんを顎で指し、ダンタリオンはクックックと癪に障る笑いを漏らした。この絶好の機会にダンタリオンが傍観に徹しているのは、死に喘ぐ冴木さんを見るのが愉しいからだと言うのだ。
もちろん怒りもあったが、それ以上に、いまの俺には成すべきことがあった。
「ダンタリオン。取り引きをしねえか?」
「これはこれは。貴方様に名を憶えていただけていたとは光栄ですねえ。して、取り引きとは?」
「冴木さんを最寄の病院に連れていく。そのあいだの時間をくれ」
「ふむ、想定範囲内の答えだ。仮にですが、こちらがその条件を呑んだとして、君は何をしてくれるのですか?」
「おまえを殺してやる」
「……はい?」
ダンタリオンの顔から笑みが消える。この強大な威圧感をまとった男とは思えないほどの、きょとんとした顔。
俺は分かりやすいように、もう一度だけ説明することにした。
「だから、冴木さんを病院に連れていく猶予を与えてくれたら、おまえに生まれてきたことを後悔させてやるって言ったんだよ、ダンタリオン」
「…………」
居心地の悪い沈黙が続く。この最中にも、俺とダンタリオンの脳内では、ありとあらゆる情報を加味したシミュレートが始まっている。
「くっ――」
やがて、笑う。
「はははははははは――!」
ダンタリオンは腹を抱えて、夜空に哄笑をこぼした。
「これはいい! さすがは我らが偉大なる《バアル》の血を受け継ぐだけのことはある! 何を言い出すかと思えば、この大悪魔と謳われた我が身を滅ぼすだと? ……くっくくく、はははははははは!」
よほど可笑しかったのか、ダンタリオンは体をくの字に曲げて、心の底から笑っていた。ひとしきり馬鹿笑いをかましたあと、今度は打って変わって不気味な冷笑を浮かべる。
「クッ――いいでしょう。どうぞ、貴方様の自由になさってください」
「ずいぶんと簡単に許すんだな」
「ええ、それはもう。ゴミはゴミ箱に捨てたほうが自然環境には優しいでしょう?」
「…………」
「それにこう見えても崇高な僕は、《バアル》に一定以上の敬意を払っています。ですから、彼の血筋に免じて、あと一度だけ君に幾許かの猶予を与えましょう」
次の瞬間には、ダンタリオンの姿が消えていた。当然のように別れの挨拶はなかった。だが以前とは違い、今回のインターバルは短い。冴木さんを最寄の病院――ちょうど近くには田辺医院がある――に届けたら、すぐにでもダンタリオンとの殺し合いが始まる。
俺は冴木さんの体を背負うと、美影とともに走り出した。もう残された時間は、ない。
深夜ということもあり、田辺医院には田辺さん一人しかいなかった。辻風さんは無事に勤務を終えて、数時間前に帰宅したらしい。
血まみれの冴木さんを見ただけで、田辺さんはおおよその事情を察してくれた。
診察室の奥にある手術室は、この清潔とはいえない病院のなかでも比較的綺麗な場所だった。設備もそれなりに最新のものを導入していて、大掛かりな手術を行うことも想定しているように見えた。
しかし、どんなに設備の整った病院でも、どんなに腕の優れた名医でも、冴木さんの命を繋ぐことは不可能だろう。
俺たちはいま、手術室にいた。ベッドの上には冴木さんが寝かされていて、そのかたわらでは田辺さんが忙しなく治療を進めているところだった。
「……美影、ちゃん」
いまにも崩れそうな笑みを浮かべながら、冴木さんは美影に手を伸ばす。身を挺して自分を庇ってくれた冴木さんにどんな顔をすればいいのか分からないらしく、美影はびくっと身を竦めた。
「……君が、負い目を感じることはないよ。僕がしたくてしたことだから」
鎮痛剤が効いてきたのか、あるいは何らかの峠を越えたのか、冴木さんの声には力が戻っていた。
「……冴木。私のこと、嫌いになった」
「そんなことはないよ。僕はいつだって美影ちゃんのファンさ」
「で、でも」
「美影ちゃんに心配してもらえるのは嬉しいけどね。でも僕は、いつもの美影ちゃんのほうが好きだな」
「いつもの?」
「ああ、そうだよ。そんなにおどおどしてる美影ちゃんは、美影ちゃんらしくない」
「……私、べつにおどおどしてない」
「それはどうかな。僕には美影ちゃんがおどおどしてるように見えるけどね」
「むー」
「ハハハ、その調子だよ。それでこそ僕の、美影ちゃんだ」
「私、冴木のじゃない」
「そうかも、しれないね」
とても寂しそうな笑みだった。
「……ねえ、美影ちゃん。ひとつだけ、お願いしてもいいかな?」
「うん。なに?」
冴木さんは照れくさそうに視線を泳がせてから、
「ほんの一度だけ……美影って、呼び捨てにしてもいいかな?」
「……?」
美影は意味が分からない、とでも言いたげに小首を傾げる。
「だめかな?」
「……べつにいい」
いつもどおりの茫洋とした瞳で、真っ直ぐに冴木さんを見つめながら、美影は小さく頷いた。
「ありがとう。それじゃあ――」
すうっと息を吸い込み、彼は言った。
「美影」
「うん」
冴木さんの前にちょこんと立っている美影が、反応する。
「美影」
「うん」
一度だけ、という約束を破った冴木さんを咎めることなく、美影は頷く。冴木さんは美影の頭をゆっくりと撫でた。俺に触れられると不機嫌になるはずなのに、なぜか美影が冴木さんの手を振り払うことはなかった。
「お母さんと仲良くするんだよ。親にとって娘は、かけがえのないものだからね」
「……? うん」
怪訝な顔をしたものの、美影はやはり頷いた。しばらく他愛もない話をしてから、二人は離れる。
「萩原くん」
あの、人を落ち着かせる温かな目が、俺をじっと捉えている。
「僕のような他人が頼むのもおかしいけど、君に美影ちゃんのことを任せてもいいかな?」
「……もちろん、俺にできることはしますが」
「それはよかった。君なら安心だよ。どうか美影ちゃんを護ってやってくれ」
僕の代わりに、と。
美影には聞こえない小さな声で、彼はつぶやいた。
それで俺が抱いていた疑問は、確信に変わった。
「冴木さん。もしかしてあなたは美影の……」
「そこから先を言ってはいけないよ。口に出さないほうが美しい真実もあるものさ」
「そんな……」
主語を抜いて話す俺たちの後ろで、美影だけが首を傾げていた。
「……俺たちが初めて会ったときのこと、憶えてますか?」
「ああ、うん。繁華街でぶつかっちゃったときのことだね」
「あのとき、冴木さんは言いましたよね」
僕の娘も、君ぐらい人の話を聞く子だったらよかったんだけどね。
「冴木さんがいつもアパートの階下にいたのは、その人の話を聞かない子を温かく見送ったり、優しく出迎えたりするためですよね」
「……本当に勘がいいね、萩原くんは」
苦笑する冴木さん。
「でも、その話はここまでだ。いまの君には、もっと他にやらなければならないことがあるはずだよ」
「それは……!」
「お母さんを、幸せにしてあげたいんだろう?」
冴木さんの瞳が、俺に『迷うな』と告げていた。
「……そうだ、君にはこれをあげるよ」
冴木さんは背広のふところから、どこか見覚えのあるペンダントを取り出した。それは美影の母親である壱識千鳥さんが身につけていたものと、まったく同じだった。
いまにして思えば、初めて繁華街で会ったとき、彼はこのペンダントを首にかけていたじゃないか。千鳥さんの御影石を見たとき妙な既視感があったけど、あれは菖蒲と一緒に見た理科の教科書じゃなくて、冴木さんが持っていたペンダントが原因だったんだ。
「……御影石」
「よく知ってるね。そうだよ、これは御影石っていうんだ」
冴木さんから石を手渡される。とてつもない重みを感じる。まるで冴木さんの人生が、この御影石に込められているような気がした。
「……だめですよ、これは俺には」
「もらってくれ」
石を握った俺の拳に、冴木さんが優しく手を乗せた。
「君にもらってほしいんだ。頼むよ」
どうして冴木さんが俺に御影石を託したのかは分からない。それでも彼の想いを無碍にすることは、どう自分に言い繕っても無理だった。
「……わかりました。確かに、預かりました」
「うん。君に預けるよ」
柔らかな微笑み。まるでもう思い残すことはないとでも言うような、この世の人間には見えていないものが見えているような、そんな儚い表情。
そのとき、慌しく治療を進めていた田辺さんが言った。恰幅のいい彼は、頭髪にいくらか白いものが混じっている初老の男性だ。普段着のうえに、使い古された白衣を着ている。
「おい美影。そこの坊主もだ。もうおめえらにできることはねえよ。ここからは俺の仕事だ。とっとと行っちまえ」
確かに、俺たちがここにいても邪魔になるだけだろう。それにあまり時間をかけすぎると、ダンタリオンが痺れを切らしてしまうかもしれない。でも、このまま冴木さんと美影を、離れ離れにしてしまってもいいのだろうか?
「……萩原くん」
俺の迷いを読み取ったのか、冴木さんは目元を和らげた。
「美影ちゃんを、よろしくね」
「……はい」
こんなの反則だ。あんな満足そうな顔で微笑まれたら、もう余計な口を挟むこともできないじゃないか。
俺は御影石のペンダントを首にかけた。そして最後に一度だけ、冴木さんに向かって頷いてから、外に出る。きっとこれが、彼と過ごす最後の時間だと知りながら。
「……冴木」
最後に、美影は小さな声で言う。
「ありがとう。私、冴木のこと、嫌いじゃない」
それからくるりと背を向けて、てくてくと足早に手術室を出ていく。小さな背中には、長い尻尾のようになったポニーテールの黒髪が揺れている。
冴木さんは呆気に取られた顔をしてから、ゆっくりと目を閉じた。もう二度と出会うことはないだろう少女の姿を瞼の裏に焼き付けてから、ゆっくりと目を閉じた。
「ああ、行っておいで。僕の大切な……美影」
****
萩原夕貴と壱識美影が田辺医院をあとにしたのを確認してから、その女性は手術室に足を踏み入れた。
診療用のベッドには冴木が体を横たえており、そのかたわらには手持ち無沙汰な様子の田辺がいる。恐らく、もう医者である彼にできることは終わったのだろう。
「……やあ、久しぶりだね」
もう力のなくなった声を上げて、冴木は彼女を見た。
「ち、千鳥……」
「久しぶりね、田辺。それに――あなたも」
驚きに目を見開く田辺を一瞥してから、彼女――壱識千鳥は、冴木に目をやった。
千鳥は、美影をそのまま美しく成長させたような容姿である。年若い頃に娘を身篭った彼女は、いまだに若々しいルックスと優れたプロポーションを保っている。
腰の下あたりにまで伸びた長い黒髪と、透き通るような白磁の肌が特徴的な、大和撫子という言葉がよく似合う美女。
「こうして会うのは何年ぶりかしら、《音無し》さん」
「またずいぶんと古い名前を持ち出してきたね。いまの僕は”冴木”だよ」
「それこそ違うわ。あなたは」
「冴木だ」
千鳥の言葉を遮る声には、有無を言わせぬ力がある。彼が”冴木”という名前にこだわるのには一つの理由があった。
「冴木という名前は……僕が唯一、美影ちゃんからもらったものなんだよ。本当なら父親の似顔絵をもらうことが密かな夢だったんだけどね。それは贅沢というものだ。だから僕は死ぬそのときまで、”冴木”でありつづけるよ」
「…………」
どこか悲しげに目を伏せる千鳥に、冴木は告げる。
「……こう言っては何だけど、君にだけは会いたくなかったなぁ」
「そうでしょうね。あなたはずっと私たちの目から逃れ続けてきたのだから」
「美影ちゃんに手を貸さなかったのは、僕を見つけるためかい?」
「そうよ」
「ひどい母親だね、君は」
「あなたこそ、ひどい父親だわ」
千鳥は、ずっと冴木のことを探していた。
しかし身を隠すことに徹した冴木は、そう簡単にしっぽを掴ませるような男ではない。
だから美影をおとりにした。
美影に危機が迫れば、かならず冴木は姿を現す。
かつて萩原夕貴に懇願されたとき、千鳥が頑なに協力を約束しなかったのは、そうした理由があったからである。
「田辺。彼の命は、あとどのぐらい持つの?」
美影によく似た無表情で、抑揚のない口調で、千鳥は言った。
だが田辺はなにも応えなかった。その沈黙が、冴木に残された時間を物語っている。
「……そう。わかったわ」
「すまねえ、千鳥。この殺してもくたばりそうになかったクソ野郎が、まさかこんな……」
「相変わらず嫌われてるね。前から思ってたんだが、どうして田辺は僕のことが嫌いなんだ?」
「あん? そんなの決まってるだろうが。当時、俺たちにとって千鳥はどうしても抱きたい女ナンバーワンだったんだよ。それをおめえがかっさらっていったんだ」
「なるほど。恋敵ってわけか」
「うるせえ。無駄口たたく暇があったら、奇跡でも何でも起こして生き延びてみせろ。てめえ、勝ち逃げするつもりか」
挑発するような口ぶりとは裏腹に、田辺は自分の力が及ばないことを激しく悔やんでいるようだった。
「……それ、まだ持ってたんだね」
千鳥の胸に揺れる御影石のペンダントを見つめながら、冴木はつぶやく。
「ええ。あなたは?」
「残念ながら、僕はもう持っていないよ。さっき萩原くんにあげたからね」
「どうして彼に?」
「美影ちゃんが、萩原くんに懐いているようだったからね。まさか美影ちゃんが、年頃の異性を部屋に招き入れるなんて夢にも思わなかったよ」
「あの子が……?」
母親である千鳥から見ても、それは異例のことのように思えた。
基本的に壱識美影という少女は、あまり他人と関わろうとしない。その美影が他人を、それも異性をプライベートルームに招待するなど信じがたいことだった。
「びっくりだろう? だから彼になら、美影ちゃんを任せてもいいかなって思ったんだ」
「まるで父親のような台詞ね」
「ごめん。あの子は、君の娘だったね」
嫌味のような千鳥の言い草に、冴木は苦笑する。
千鳥はしばらく視線を泳がせてから、肩から先がない冴木の左腕に注目した。
「やっぱり、その左腕……」
「ああ。むかし、君と殺しあったときにね。僕が死んだと分かる”証”として斬り捨てた」
「それも全部、美影のためにやったのかしら」
「そうだと言ったら、君は嫉妬してくれるかい?」
「……バカ」
不機嫌そうに眉を寄せる千鳥。しかしその仕草も、冴木にとっては微笑ましく映る。
すこしずつ部屋のなかに死の気配が充満していく。ここにいる三人にはそれが理屈ではなく感覚で分かっていた。
田辺は最善を尽くしたが、それでも冴木の命を繋ぐことは、やはり無理だった。むしろ生命維持に必要なための器官のいくつかを失っている彼がここまで持ちこたえたのは、純粋に田辺の腕によるところが大きい。
不思議と、冴木に苦痛はなかった。それどころか母親の胎内で眠る赤子のような心地よさを感じているほどだった。
「ねえ千鳥。お願いがあるんだ」
「なに?」
千鳥の無表情のまま首を傾げる仕草のなかに、冴木は愛する娘の面影を見た。きっと将来、美影もこのように美しく成長するに違いない。
冴木に後悔はないが、これからの娘の成長を見守れないことだけが無念だった。
「もう僕は美影ちゃんを護ることができない。だから、これからは僕の代わりに、君があの子を見守ってあげてくれ」
「……分かったわ」
「そうか――うん、ありがとう」
冴木は笑った。本当に嬉しそうに。
すでに冴木の目には何も見えていなかった。視力を失ったわけではなく、彼にはもう瞼を開くだけの力すら残っていないのだ。
「……千鳥」
耳を傾けてようやく聞き取れる程度の小さな、ひどく掠れた声で、冴木は言う。
「ずっと、ずっと、きみのことを、愛していたよ」
「知ってるわ」
「いまでも、きみのことを、愛しているよ」
「知ってるわ」
「死んでも、きみのことを、愛していくよ」
「知ってるわ」
「そうか――」
かつて《音無し》という異名で知られ、希代の殺し屋と謳われた『彼』を知る者からは想像もできない、子供のような笑み。
それから冴木が声を発することはなかった。死者は黙するのが常で、何かを語ることなどありはしない。
息を引き取った冴木を見つめて、田辺は肩を震わせていた。
「……バカね」
滑らかな白い肌のうえを透明色のしずくが伝う。それはリノリウムの床に一滴、二滴と落ちて、小さな水溜りを作った。
千鳥は静かに涙を流しながら、愛する夫の頬を撫でた。
「私のほうが、ずっと、ずっとあなたのことを愛しているわよ」