F-9 生き残った恐竜ジェシカは走った。祭りの終わりに沈むトリスタニアをひたすら走った。自分の気持ちを打ち消すように、ただ全力で走った。――もう、つらいや。彼女は妖精亭まであと百メイルというところでつまずいた。雪駄の鼻緒が切れている。少しそれを見つめた後、壁に背をつけて息を整えようとした。荒い呼吸音が路地に響いた。「ばかだな、あたし」ジェシカは悟ってしまった。才人は別に彼女のことを好いているわけではない、と。キスした瞬間、才人の顔には驚きしかなかった。元々人の機微に敏い彼女は、好意や歓びなどはまったくなかったことに気付いた。――浮かれて、惚れて、勘違いで。がっくりとジェシカは肩を落とす。今は誰にも会いたくない気分だった。それでも家には帰らないといけない、魅惑の妖精亭に向かってとぼとぼ歩く。足取りは重かった。――背中押してくれたパパと、シエスタにあわせる顔がないや。シエスタが優越感たっぷりに笑ったのはジェシカの背中を押すためだ。彼女はなんだかんだ言って公平を好む人間だ。だからまだステージにも上がれていないジェシカの手を引いた。正々堂々、才人を奪い合う戦場に連れ込もうとしたのだ。ジェシカは頭に血が上ってそのフィールドに立ち入ったが、すぐリタイアしてしまった。彼の好意が自分に向いていないことを知って、自分が傷つくのが怖くて。ただそれだけの話。シエスタの精いっぱいの思いやりを無駄にしてしまった、とジェシカはさらに落ち込む。――あー、どんな顔して会えばいいのよホント。魅惑の妖精亭の明かりが目に入る。すとんと視界が暗転した。*「やれやれ、運が良かったか」闇に閉ざされたトリスタニア、青年は屋根の上を駆ける。その肩には気を失ったジェシカを担いでいる。――まったく、無茶を言う司祭だ。パレードの日に決行するというのはまだいい終了後なら衛兵の気も緩んでいるだろう。だがなぜあの少年の隣に立っていたのをわざわざ。今回の誘拐がうまくいったのは、青年たちにとって幸運だった。才人がジェシカを魅惑の妖精亭まで送り届けていれば不可能だったに違いない。今夜街を離れる青年と司祭にとってはラストチャンスをうまく生かした形になった。そもそも、才人のお気に入りということならターゲットを変えた方が安全だ。彼のお気に入りということはヴァリエール公爵、アンリエッタ女王にもつながっている可能性がある。青年は勿論そのことを司祭に指摘した。だが司祭はそんなことに無頓着だった。『所詮平民だ、誰も気にすまい』敬虔なブリミル教司祭にとって始祖の血をひいていない平民にはいくらの価値もない。ジェシカに狙いを定めたのも、黒髪が珍しいから高く売れるだろう、という安易かつある種無駄のない理由からだ。ふと足を止めて空を見上げる。先ほどまでの花火の明るさが嘘みたいなほど、黒々と沈んでいた。青年が耳を澄ましても金属音はしない。鎧を装備した衛兵が走り回っているということはなさそうだった。街を見下ろしても夜警の灯りは遠くをちらほら動いているだけだ。――そこら中に火でもかけてやろうか。青年は燃える街を想像する。――それもいいかもしれないな。身を翻して屋根の上を疾駆する。藍色の甚平が風にたなびく。雪駄と屋根が掠れる音が闇に溶ける。彼が修練を積んでいたフライを瞬間的に発動させる移動法の調子は上々だ。常識では考えられないスピードで屋根の上を移動する。青年は考える。あんな別れ際だから少年は追いかけるはずがない、と。少年が追いかけない以上失踪が判明するのは翌日以降だ、と。来るはずのない少年がアルビオンで駆けつけたことも忘れて。*「くっそ、どこいったんだよジェシカ!!」才人はあらゆる路地を駆け抜ける。デルフリンガー片手にルーンの力を使ってまで走り続けている。あのあと妖精亭で待機していた銃士隊員に事情を説明して、彼は噴水広場まで戻った。別れ際に緊急時用の発煙弾だけは受け取っておく。ジェシカが消えたのは間違いなく噴水広場から妖精亭までの短距離だ。少しでも手がかりがないか地面をはいずるように探し求めた。それでも一向にそれらしきものは見つからなかった。仕方なく近くの裏路地を探し回っているが影も形も見当たらない。急に足を止めた。「落ち着け、落ち着けよ俺……」今は一刻を争う事態だ。しかし、彼はあえて考える。普段は抜けてると言われる頭脳をフル稼働して考えを巡らせる。――とにかく闇雲に探しても意味がないんだ。深呼吸をして自分を落ち着かせる。その時天啓が下った。――そうだ、屋根から街を見下ろせば!実際のところ屋根に上がった程度では街の隅々を見渡すことはできない。それでもこの時は選択肢がなかった。ガンダールヴの力を発揮して二階建ての家に飛び上がる。そこで闇に沈むトリスタニアを見回した。――ダメだ、こんなんじゃ全然わからねぇ。だが幸運の神は才人に微笑んだ。――今、誰か屋根の上から降りた?ふつーこんな真夜中に屋根にのぼるか、俺みたいな事情がないと……。いや、とにかく行ってみよう。記憶を頼りに才人は走った。階下の迷惑など顧みず、屋根から屋根へと飛び移る。五分もしないうちに問題の家屋についた。寂れた裏通りらしく、人の気配はない。遠くから馬車の音だけが聞こえている。少し足を止めて息を整える。誰かが降りたように見えた家は、ドアが開いていた。――なんかおかしい。なんでこんな時間にドアが開きっぱなしになってるんだ。「すいません!」声をかけて様子を見る。一分ほど待っても返事はなかった。意を決して才人は家の中に飛び込んだ。*「あのバカは何をやっていたんだ!」「隊長、それよりも検問と魔法衛士隊に援護を」「わかっている、手際から見て相手はメイジだ」深夜の王宮に怒号が響き渡る。銃士隊が慌ただしく装備を整えはじめる。今から戦争がはじまるかのように感じられた。「ターゲットを見失ったのは?」「噴水広場から妖精亭まで、五百メイルもありません」「ヒラガ殿は噴水広場で一分ほど硬直したのち、すぐ走って追いかけたとのことです」「本当にアイツは何をやってたんだ……!」ぐしゃっとアニエスが城下街地図を握りつぶした。なかば八つ当たりだということは彼女もわかっている。たとえ才人が送ると言ってもその監視はつけるべきだったのだ。それを怠ったせいで誘拐を許す、銃士隊の失態だ。「発生からは何分たっている」「もうすぐ三十分たつ頃かと」「初動が少し遅れたか、とにかく急いでド・ゼッサール殿に報告しろ。体裁にこだわっている場合じゃない!」アニエスは心の中で才人をボッコボコにしたうえ子供っぽい悪口を言いまくった。それで今は心を押し鎮める、上に立つものが極度の動揺を見せるのは良くない。――くっ、まさかパレード直後とは、泥を塗られたも同然ではないか!!ジェシカがただの平民ならここまで焦りはしなかった。しかし彼女は英雄の隣に立った女なのだ。今やトリスタニア一顔が知られた平民と言っても過言ではない。それが翌日にはもういない。どんな噂が駆け巡るかわかったもんじゃなかった。「とりあえず検問を各所に、街からは誰も出すな!」「はっ!」ミシェルと隊員が慌ただしくかけていく。入れ替わるようにタバサが現れた。青のドレスに身を纏い王杖を携えている。後ろにカステルモールを従え、アニエスへ一直線に近づいてきた。アニエスはこの忙しいときに、と内心苦く思いながらも片膝をつき丁寧に対応する。「シャルロット女王陛下、ここでは貴女をもてなすことはできません」「手伝う」簡潔なタバサの言葉にアニエスは目を丸くした。「手伝う、とは」「その事件の解決ガリアが、わたしが手を貸す」ここで少しでも恩を返して補償を有利に進める気だろうか、とアニエスは思い巡らす。だがタバサの目はそんな利益など考えていないようにも感じられた。むしろ純粋な瞳だ。――そうか、サイトの瞳に似ている。アニエスは悩む。ここで手を借りていいか、彼女の手には余る問題だ。ガリアが警護のため連れてきた東花壇騎士団二十名、大きな戦力だった。「シャルロット女王のお力添え、感謝いたしますわ」アンリエッタだ。この騒動を聞きつけてやってきたようだった。タバサはこっくり頷いて部屋をすぐに出ていく。カステルモールも勿論後についていく。後にはアンリエッタとアニエスだけが残された。「陛下、よろしかったのでしょうか」立ち上がったアニエスが問いかけた。「かまいません」「それはなぜ?」アンリエッタは穏やかな笑みを浮かべた。「わたくしも出ますから」「は?」この人は何を言ってるんだろう、とアニエスは混乱した。「ですから、わたくしも出ます」有無を言わさぬ強い言葉だ。アンリエッタは続けて言った。「たまにはいいところを見せないといけませんし。わたくしの大事な大事なお友達にね」*「とめないの?」廊下をしばらく歩いて、タバサはカステルモールに向き直った。警護の責任者である彼からすれば今回の件は本来見送らなければならない。それがアニエスとの会話中一切口を挟んでこなかったのだ。「陛下」カステルモールは涼しげな笑みを浮かべた。娘を見守る親のように優しげな眼差しに、タバサはちょっぴり警戒する。この青年貴族は少しどころかすごく過保護なのだ。才人を手伝いたいタバサを妨害してくる可能性の方がはるかに高い。「陛下は私が邪魔することを望んでおられるのですか?」「それは、違う」彼はあくまでタバサの意思を尊重する、という立場をにおわせた。それがやっぱり彼女の理解の範囲外だ。自分が同じような立場になればどうしただろう、と自問する。きっと諌めて部屋に放り込んで軟禁状態にする、と結論が出た。「本当にいいの?」じっとカステルモールの瞳を見つめる。嘘は許さない、正直にしゃべれと威圧を込めて見つめる。それに対してもカステルモールは笑顔を崩さない。「勿論ですとも、陛下の望むままに東花壇騎士団は動きます」におわせるだけでなく、口約束までした。彼は実直な男だ、約束をたがえることは今までしたことがなかった。考えが分からない、とタバサは少し困った顔になった。それすらも見透かしてカステルモールは言葉を続ける。「娘の望みを叶えたい、というのは親として当然でしょう」――あ、彼はダメなヒトだった。タバサはがっくり肩を落とした。ガリアはこんなばっかりだ。「それに」だがカステルモールはなおも言葉をつなぐ。「シュヴァリエ・ド・ヒラガ殿は陛下を妹と呼びました」む、とタバサは少し不機嫌になる。それは許してはいけない考えなのだ。しかし彼はそれを意に介さず、茶目っ気たっぷりに言ってのけた。「なら彼は我が息子ということになります。息子に力を貸して娘の願いを叶える。いったいどこに問題があるでしょうか?」カステルモールはこんな言葉で遊ぶような人間じゃなかった気がする、とタバサは考える。でもそれは今はどうでもいい問題だ、と切り捨てた。再び廊下を歩き出す。ありがとう、という言葉は宮廷の壁に染みこんだ。F-10 ROBOTMENさっきから少し街が騒がしい気がする。深夜だというのにどこか慌ただしい空気。そんな中噴水の縁に座って、わたしはサイトが来るのを待っていた。――はやくこないかな。脚をぷらぷらさせてみる。なかなかの脚線美だと自分では思っている。サイトはまだ来ない。――さっきもあーんな人がいるところで「すきだ」なんて。もーあのバカ犬ったらぁ!!何もせずに待っているのも暇だから、王宮でのことを思い出してみた。幸せな気分になった。うふふと笑いがこみあげてくる。喧騒が城の方から近づいてきてる。――なにかあったのかしら。まぁ今のわたしには関係ないわ。遠くからの音なんてすっぱり頭から消し去って考えにふける。このあと、サイトはどんな情熱的なアプローチをしてくれるのか。――ひょっとしたら、この前の月の話をまたしたりして。頬を紅潮させていたサイトを思い出す。すごく幸せで顔の力がふにゃふにゃしてくる。――キュルケに頼んでホントに良かったわ。彼女に頼まなかったらどうなってたか、なんて考えたくもない。お祭りの後のどこか寂しくて、でもロマンチックな空気の中愛を囁き合うなんてできなかったに違いない。喧騒がとうとう近くにやってくる。「もう、うるさいわね」不機嫌になりながらわたしは騒音のもとを睨みつけた。すると意外な集団を目にした。「ルイズ!?」「ギーシュじゃない、どうしたのよ?」サイト以外の水精霊騎士隊揃い踏みだった。モンモランシーまでおまけにいる。わたしの問いかけは若干不機嫌だったかもしれない。そもそもなんでこいつらはここにいるんだろう。あのあと飲みにいったんじゃないのか。「丁度いい、君もついてきてくれ」言うなりレイナールはわたしの腕をつかんだ。明らかに焦った様子の彼は思いのほか力が強くて握られた腕が痛い。勿論わたしは抵抗した。「やめて!」「レイナールよすんだ」「そうだ、落ち着けよ」ギムリとマリコルヌも間に割って入りながら彼を諌める。そうすると少しは落ち着きを取り戻したみたいだ。「す、すまないルイズ。焦りすぎていたようだ」「わかったならいいけど……」事態がさっぱりわからなかった。水精霊騎士隊は明らかにシラフだ。お酒も飲んでないのに冷静なレイナールがこんな暴挙に走るのは考えにくい。「僕からも謝るよルイズ。でも君の力がいるかもしれないんだ。良ければついてきてくれないか?」「わたしの力?」ギーシュの提案にも首をかしげる。わたし個人の持つ力と言えば、虚無の魔法か女王陛下の女官である証、この二つだ。こんな街中で必要とされると言えばきっと後者だろう。「……強い権限が必要なの?」「聡明で助かるよ、どうやら誘拐事件らしい」息をのんだ。トリスタニアで起きていることはキュルケを通して聞いている。ということは、被害者は。「……察したみたいね、ジェシカがさらわれたわ」モンモランシーの言葉に背筋が粟立った。「そういうことなんだ。馬を徴発するにしろ情報を得るにしろ、権限が強いにこしたことはない」「わかった、ついていくわ」水精霊騎士隊は功績をあげた。でも所詮お坊ちゃま部隊と侮る衛士は多いらしい。ことをスムーズに進めるためにはわたしがついていくのが一番だ、きっと。「サイトは?」「単独行動中だ、彼も焦ってる」二つの気持ちが心の中でもやもやと混じりあっている。一つはサイトを心配する気持ち。すぐそばにいたのにジェシカを助けられなかった、サイトなら自分を責めるに違いない。もう一つはジェシカを妬む気持ち。今夜わたしが噴水広場でロマンチックに過ごすはずだったのに。ジェシカは事件に巻き込まれてサイトはわたしをほったらかし。ぷるぷる頭を振って気持ちを切り替える。個人的な感情でもたつくわけにはいかない。「いきましょ」「ああ」一度だけ広場を振り返る。あたりは暗くて、噴水も動いてなかった。*才人が忍び込んだ家からは人の気配というものがしなかった。一階の居間、書斎、台所、地下への階段、誰もいない。二階に上がって寝室を確認しても人は見当たらなかった。「……どうなってんだ?」最初は極力音を立てないよう、明かりを使わぬよう努力していた才人だが、途中からはおかまいなしに家を探った。生活をしていた感じはするのだが、うちすてられたあとのような気がした。置いてあったカンテラで隅々まで照らし出すが特におかしなものは見つからない。「あとは、地下か」いかにも、という空気が流れていた。階段を下りると頑丈な鉄の扉がぽっかり口を開けていた。――なんかやばそうな気がする。地下から流れ出る空気は微かに臭った。鉄製の扉は一切音を通しそうにない。才人は暗闇に向けて声をかけてみたが不気味にこだまするだけで、人が反応した様子は感じられなかった。扉が勝手に閉まらないことを確認する。意を決して地下室に足を踏み入れた。「ち、地下牢って、まじかよ……」目にしたのは鉄格子だった。詰所のそれよりはほんの少しマシな備え付けのベッド。置いてある壺からは排せつ物の臭いがした。そんな部屋が左右に五つずつ。どの部屋にも血のあとが見当たらなかったのは救いだった。いずれも扉は開いていたが、近くにかけられていた錠前は新しかった。――つい最近までここは使われてた。背中をびっしょりと冷や汗が濡らしていた。才人の感覚はまだ現代人のものだ。それも平和な日本社会の一高校生にすぎない。拉致監禁なんてモノは想像の中にしかなかった。――こんな連中にジェシカはさらわれたのかよ!己の不甲斐なさに壁を殴る。才人は少しの間だけ目をつぶって考え込んだ。――ここにはもう誰もいない。でも誘拐犯の家ってのはビンゴだ。じゃあジェシカはどこにいったんだ。そもそもなんのために誘拐をしたんだ。答えは出そうになかった。ただここにいても進展はない、ということだけがわかった。一度外に出て夜空を見上げる。雲の流れは早かったが、月は顔を見せなかった。「あ、そうか」才人は単純な答えに思い当たった。――馬車だ。こんな深夜に馬車を使うものは普通いない。あるとすればよっぽど急な用があるときだけだ。そうでなければ日中に移動した方が馬も疲れないし、安全だ。――馬車で誘拐した女の子を運んだんだ!馬の声はどっちから聞こえた、思い出せ思い出せ思い出せ!!必死に脳みそに活を入れる。ここで選択肢を誤ればジェシカはきっと帰ってこない。人をあんな風に扱う連中の手からもう戻ってこれない。あの気安い笑顔が二度と見れない。才人はそんなのいやだった。何としても彼女を取り返そうと記憶を掘り返した。――南、だった気がする。心細くはあったが今は座り込んで考えるよりも移動した方がいい、と才人は再び屋根に駆けあがった。丁度そのとき、南で光が閃いた。偶然屋根に上っていなければ見落としていた。――あの光、見たことある気がする。それにやっぱり南だ。ぐっと足に力を込めて跳躍する。月はまだ雲に隠れている。*「不自然ですな」「どうしたかね?」馬車がピタリととまった。馬の嘶きと犬の遠吠えしか聞こえない。しかし青年は司祭が拾えない音を耳にしていた。「検問です、まだ完全ではありませんが」さきほどから鎧を着込んだ人間が動くような、がちゃがちゃという金属音がそこかしこから響いているのだ。このまま通りをまっすぐいけば確実に突き当たるだろう。「検問? バカな、我々の動きが筒抜けだというのか」司祭はこと情報の扱いに対して慎重だ。少女たちを捕獲するときは青年のみを使い、捕獲後の世話も青年と二人で行っていた。そんな情報を密閉した中漏れるとは考えにくい、と青年も思っている。「あるいは、他の事件が起きたのかもしれません」「そちらの方が疑わしいな」二人は結局同じ結論に至った。しかしそこからは意見が割れた。「一度身を潜めた方が良いのでは?」「このまま検問を突破する」青年は巧遅を提案し、司祭は拙速を求めた。無論司祭の方が立場は強いので検問を突破することになった。「混乱を招きたいな、偏在は出せるかね?」「……温存を考えるなら二体が限度でしょうな」「十分だ、北と東の検問を軽く痛めつけてくれ」二人の脱出口は南だ。あえて西を放置することで相手の疑念を誘発する。謀略に長けたロマリア司祭らしい考え方だった。「ユビキタス・デル・ウインデ」風が流れ、新たに二人の青年がそこには佇んでいた。「その服はなんとかならんのかね」「存外気に入ってましてね。マントで隠せば問題ないでしょう」青年は藍色の甚平を着ていた。足元は雪駄、才人の故郷の夏祭りを満喫したのかもしれない。「それならいいが……」司祭はあまり良くなさそうな顔だったが時間がもったいないと感じたのだろう。再び馬に鞭を入れて馬車を進める。青年はくだらないものを見るような目で馬車を見送った。三人、同じ顔でやれやれと肩を竦める。そして二体の偏在はそれぞれ路地裏に駆け込み、東と北へ向かった。――果たして僕はマトモに戻れるのだろうか。自問自答するが答えは出ない。そもそも自分がマトモだったのはいつだったか、それすら思い出せそうになかった。複雑な心中を誤魔化すように一度無表情をつくる。「さて、銃士隊とやらのお手並み拝見といこうか」ひどく楽しげに、寂しげに青年は呟いた。少しして、トリスタニアに雷光が迸った。F-11 RUSH RUSH RUSHラ・ロシェールへと続く道、荷馬車がゴトゴト進んでいく。苛立ちをぶつけるかのように司祭は強く鞭を打った。検問は青年の活躍で突破できた。見張りについていた銃士もまだ気絶しているか、運が悪ければ死んでいることだろう。陽動も成功したので事は順調に推移している。――いかんな、何か気にかかる。イヤな予感を司祭は感じ取っていた。ここまで気づかれることなく進めてきた計画が何らかの形で破綻している、と彼の第六勘が囁く。青年をラ・ロシェールまで先行させるか、それとも予定通りトリスタニアで陽動を行わせるか、決めあぐねている。しかし青年は司祭の懊悩に気づいた素振りは見せなかった。――何も問題はない、誘拐が明るみに出ることはない。流石に今自分は犯罪に手を染めている、という自覚はある。発覚すれば危ういということも。だがそれは人道的な観点というよりも、家畜を盗めばどうなるか、といった見方からだった。それに今の彼にはリスクよりも金が必要だ。――金さえ積めば司教位が。自らが手にする栄光を幻視して司祭の心は高揚した。あたりはまだ月明かりがさしていない。馬車は街道を逸れると近くの林に入っていく。ギリギリ馬車が通れるような林道が整備されていた。しばらく道沿いを進むとカンテラの灯りが目に入る。馬車はそれを目指して進んでいた。「お待ちしていました」「うむ、では積荷を竜籠へ移せ」年若い助祭が司祭を出迎えた。この神経質そうな若者は司祭がどうやって積荷を手に入れたか知らないし、知る必要もないと思っている。ただ始祖ブリミルへの信仰心と、恩を受けた司祭のことだけが大切だった。「では、手筈通り僕は戻りましょう」「ああ、任せた」結局、司祭は予定に沿うことに、流されることにした。青年はトリスタニアに戻ってさらなる攪乱を行い、司祭と助祭は積荷を移し替えてから竜籠で向かう。それが間違いとも知らずに。*「あーどうしてこうなっちゃったのかなぁ」声は響かなかった。今あたしは馬車の中、さらに檻の中にいる。檻の中には魔法がかけられてるようだ。泣けど喚けど外には聞こえない。まわりの娘たちはみなぐったりとうなだれている。あたしは遠慮なく大きな独り言をつぶやくことにした。「やっぱあたしが悪かったのかなー」手枷をぶんぶん振り回しても金属音は鳴らない。一緒の檻の中にいる子たちは、平民に見える。共通点は見た目がいいくらい。一人浴衣を着ている自分が浮いているような気もした。ふと、ついさっきまでのことを思い出す。――キス、しちゃったんだ。唇にそっと手を当てる。まだしっとりと感覚が残っている気がした。それ以外はまだ夢うつつ。今とらわれているのも夢の中のように感じていた。「ていうかなんでつかまってるのよ」実のところ、あたしは理解していた。いい年ごろの娘が捕まる理由と言えばそんな多くない。みんな見た目もいいし平民ということを考えればさらに限られる。これからあたしたちはきっと売り払われるんだろうな。娼館か、貴族の奴隷か違いはあるだろうけど。幸せの絶頂から少し落ちて、さらにはどん底だ。「ついてないわねー」あはは、と笑ってみた。むなしいだけだった。それに周りの娘たちが暗い顔をしているから、あたしは余計に辛くなってきた。「ほんと、なんでこうなったんだろ……」今頃パパは心配してるかな。シエスタも妖精亭で待ってるかな。他の妖精さんは上手いことやって、とでも思ってるのかな。気持ちがどんどん沈んでくる。馬車の中をカンテラが照らした。男が二人、ロマリア風の服を着ている。――出ろ――口には出さなかったけど、あたしは杖の仕草だけで悟った。檻の扉が開く。皆のろのろと立ち上がって歩く。「なんで……」急に現実感がわきあがってきた。怖い、すごく怖い。みんな食って掛かる様子もなく出ていく。それがまた、たまらなく怖い。とうとう檻の中にはあたし一人だけ。若い方の男が入ってきてひっぱりだそうとしてくる。「いや! 放してよ!!」つかまれた腕をふりほどこうと暴れる。でも力ではかなわなかった。男の表情が豹変した。「痛ッ!?」あたしは思いっきりはたかれた。ほっぺたがじんじん熱くなってくる。悔しくて涙がこぼれた。「やめて……」無理やりひっぱりおこされる。馬車の檻から無理やり引きずり出された目の前には竜籠。とんでもなく遠いところへ連れ去られるってことだけはわかった。「助けてよ……」ざわざわと木が囁いてる。サイトのことを思い出した。好きになった。本気になった。キスをした。あきらめた。でもまだ彼の顔がちらついてる。まだ、救いを求めてる。「助けてサイト!!!」「いい加減にしろ!」もう一度はたかれて地面にころがった。痛い。ぽろぽろ涙がこぼれてくる。「まったく、手こずらせるんじゃない」英雄なんかじゃなくていい。好きになった男の子に助けてもらいたかった。無理だとわかっていたけど、叫びたかった。最後にもう一度だけつぶやいた。「助けて……」ずどん、と爆発にも似た音が響いた。広い背中が目に入る。さっきとは違う意味で涙があふれてくる。あたしは思い出した。お芝居や物語のおやくそく。「ごめん、ジェシカ」ヒーローはいつだって、ギリギリ間に合うのだ。*才人は走っていた。目についた雷光の下へ駆けつけると、検問を張っていた銃士隊が倒れていた。助け起こして事情を聴けば、襲撃があったという。そこを離れて彼は南の街道を一直線に下っていった。林の中に進む馬車が見えたのは幸運か、始祖の導きに違いなかった。「あれか」先ほどから身体を酷使している。ガンダールヴのルーンは常に輝き、駆ける脚は止まらない。ただ一心にジェシカの身を案じていた。――俺が目を離さなければなにもなかったんだ。だから、俺は絶対ジェシカを助けなきゃいけない。林の中を突き進む。カンテラの灯りが目に入った。光源から身を隠すように大木に背をつけた。距離は三十メイルほど。少しだけ足を止め、息を整えた。「相棒」「なんだよデルフ」ひそひそと声を潜めながらデルフリンガーが話しかける。「今回は酒場の嬢ちゃんを助けることだけに集中しな。他にも多分さらわれてるだろうけどよ、相棒が全部片づける必要はねぇぜ」「……わかった、うん。見ちゃったらどうなるかわかんねぇけど、心にはきっととめておく」「それに相棒が全部片づけたら他の奴らが文句言うぜ、手柄よこせってよ」違いない、と才人は笑った。ジェシカがさらわれた負い目から強い精神的圧迫感をおぼえていたはずだった。それがデルフリンガーとの会話でかなり軽くなった。「さんきゅ、デルフ」「なんでぇいきなり」「んにゃ、なんでもないさ」ぐっと力をこめてデルフリンガーを握りしめる。大木に隠れながらカンテラ付近の様子を伺う。「助けてサイト!」ジェシカの叫び声。続いてにぶい、何かを殴るような音がした。飛び出て確認すると、ジェシカは地に倒れていた。才人は激怒した。ルーンが強く発光する。「てめぇら」一歩踏み出す。驚異的な脚力で才人は風よりも早く走りよった。ぐんぐん明かりに近づいていく。「ジェシカを……!」それ以上は声にならない。踏み込みはさらに強く、下草に覆われた地面が抉れた。最後に全力で水平方向に跳躍する。ジェシカと男の間で力強く足を振り下ろした。――ズドン!!――林中に音が響き渡る。眠っていた鳥が羽ばたくほどの轟音だった。「ごめん、ジェシカ」目を離して。怖い思いをさせて。才人は不甲斐なさと申し訳なさでいっぱいだった。でも今は切り替える。ジェシカに背を向けて、敵を前にして、才人はデルフリンガーを構える。「司祭、お逃げを!」助祭は才人の正体に気が付いたようだ。カンテラの灯りしかないとはいえ、だんだら羽織は良く目立つ。司祭は年齢を感じさせないほど身軽な動きで竜に飛び乗った。「相棒!!」デルフリンガーの言葉に才人は身構えなおした。逃げようとする司祭に意識を取られていた。「フレイム・ボール!」助祭は密かに詠唱を終えていた。その顔が攻撃的な色に染まっている。直径五十サント程の火球、受ければただではすまないだろう。才人の後ろにはジェシカがいる、よけるわけにはいかない。「死ねッ!!」火球が迫る。助祭は勝利を確信していた。今からどうあがこうと魔法を使えぬ剣士には対抗できない、と。それが勘違いとも知らずに。「ほっと」「は?」しゅぽん、といささか情けない音をたてて炎は消え去った。助祭の顔にはまったく理解の色が浮かんでいない。「てい」首筋に手刀一閃、あっさりとカタはついた。地面に崩れ落ちる助祭、だが司祭はすでに竜を飛ばしていた。「はっ!」力強く手綱を打って夜空へ舞い上がる。ガンダールヴの脚力をもってしても届かぬ高さだ。才人はふと、煙弾の存在に思い至った。懐からごそごそと取り出す。それを握りしめ、思いっきり竜籠に投げつけた。竜籠は煙をひきながら南へ飛んで行った。「お、案外うまくいったな」「サイト?」ジェシカは不安げな目で才人を見上げた。目じりにはまだ涙のあとが残っている。才人は振り向くと、返そうと思って懐にいれていた赤いハンカチで、彼女の目元をぬぐった。そしてジェシカを引っ張り起こす。「ジェシカ、ごめん。それと無事でよかった」「……ッ」ジェシカは思わず才人に抱き着いた。その身は震え、嗚咽をもらしている。才人もこの時ばかりは抱きしめ返した。女の子が売り払われる恐怖なんて才人には想像することすらできなかった。背中をポンポン叩いてジェシカが落ち着くのを待った。林の中に微かな月明かりがさしこみはじめていた。五分ほどたって、ようやく彼女は落ち着いた。「サイト、ありがとう」目じりにはまだ涙が浮かんでいる。それでもジェシカは笑っていた、心底ほっとしたように笑っていた。才人はなんとなく照れくさくなってそっぽを向いた。はっとジェシカは真剣な顔に戻った。「ほかの子たちが……」「だいじょーぶ」才人はニッと笑い返した。丁度その時、ジェシカたちの頭上を竜騎士の編隊が通り越していった。少し遅れてグリフォン部隊が追随していく。ざざっと強い風が起きて二人は思わず目を閉じた。向かう先は、ラ・ロシェールだ。才人は木々の間から飛行部隊を見送った。「頼りになるヤツらが行ったことだし」くるっとジェシカに向き直り。「トリスタニアに帰ろう」その手を差し出した。F-12 虹の騎士団「Capitane、最大望遠で煙を確認。若いのが一発カマしたみたいですよ!」「方角は!」「南、ラ・ロシェールへ向かってます!!」「よし、後ろのグリフォン隊への直接伝令に一騎まわせ。我ら空中装甲騎士団、このまま敵を追跡する!」「東薔薇騎士団も遅れをとるな!」夜空を猛スピードで突っ走る集団がいた。空中装甲騎士団、魔法衛士隊、東薔薇騎士団と三つの国籍を持つ混成騎士団百名だ。「シルフィードさんといったかしら。シャルロット女王の使い魔さんは速いわね」「騎士団には負けない」「あらあら」「わたしの空中装甲騎士団の方も負けていませんよ!」その中でのんきにお喋りする二国のトップ+アルファ。タバサ、アンリエッタ、ベアトリスの三人とオマケのアニエスだ。前者二名とオマケはまだいい、自主的なものだ。しかしベアトリスは半ば無理やり騎士団代表に引き摺られてきた。主君に対する扱いとは思えない。「はぁ、このような場合でなければクビにするところだわ」「どうかしまして?」「いえなにもありません」とはいえ二国の女王が出ているのにベアトリスだけ留守番、というわけにもいかなかった。だが彼女にとってなかなかしんどい状態だ。なんせ二人とも自分より身分が上。アンリエッタは幼少から面識があるからまだしも、タバサのことはほとんど知らない。学院では無口な人だなあ、と思っていたら「このたびガリア女王になりましたー、てへっ☆」という始末だ。どう振舞っていいのかわからない。そんな彼女の心配をよそに追撃部隊は声を張り上げる。「煙弾誘導切れました!進路はラ・ロシェールでほぼ確定です!!」「竜の識別は!」「最大望遠でしたが問題ありません、特徴的な斑をもった若い風竜です」「でかしたぞ!」シルフィードの前方では騎士団が音声とハンドシグナルで連絡をとりあっている。三十分もしないうちにラ・ロシェールに着くだろう。だが青い風竜の上の二人は至ってのんびりしていた。「では、そういう方向でいきましょうか」「委細承知」「うふふ、楽しみだわ」流石にちょっとした事件だから不謹慎ではないかなぁ、とベアトリスが声をかけた。「その、アンリエッタ女王陛下。もう少し緊張感を……」「大丈夫よ」そんな言葉もアンリエッタはどこ吹く風、にこやかに微笑んでこう言った。「三つの国が力を合わせているんですもの。失敗するはずないわ」「それにトップが過度の緊張を見せるのはよくない」「あら、先に言われてしまいましたわ」「早い者勝ち」ころころ笑うアンリエッタと満足げなタバサ。本当に大丈夫かなぁ、とベアトリスはちょっぴり途方に暮れた。*「今確認したが、混成飛行部隊が南の方に飛び立ったって」「南って、もしかしてラ・ロシェールとかじゃ……」「ラ・ロシェールじゃ馬で二日もかかるぞ、俺らじゃどうあがいても追いつけないじゃないか」「追いかけるだけでもしといたほうがいいと思う、流石に動かなかった、はマズい」その頃水精霊騎士隊はトリスタニアで途方に暮れていた。事件の中心が完全に移動してしまったらしい。竜騎士なんていない学生騎士隊には打つ手がなかった。「変に追いかけるより負傷者の治療にあたったほうがいいだろ」「そうだね、ギムリの意見を採用しよう」「それなら班編成を行って街の警邏にもまわそう。誘拐犯一味の一部がトリスタニアに残っているかもしれない」「ぼくは班編成指示を出してくるよ」しかし彼らなりにすべきことを見つけ出すと一斉に動き出した。これもきっと海兵隊式訓練の賜物だ。一方ルイズはそんな彼らにいらいらしていた。「ちょっと! なんでサイトのことをほっといてるのよ!!」「いや、それは四天王であたるけど」「じゃあ急ぎなさいよ、サイトが心配じゃないの!?」「そうだけど、指示を出す時間くらいいいだろ」むむむ、とルイズは唸る。水精霊騎士隊は才人のことを心配しているが、同時に信頼もしている。あの英雄はきっと自分たちが着くまでなんとか切り抜けるということを。だがルイズは少しも時間を無駄にはしたくなかった。心が焦っていた。「もういいわ、あんたらには頼らない」「ルイズ?」ルイズは決意する、つい数日前に取得したルーンを詠唱する。――ウリュ・ハガラース・ベオークン・イル――忽然とルイズは姿を消した。「な……ルイズを探せ!」騎士隊は数瞬呆気にとられたあと、大急ぎで班編成を終えて街の探索に出た。当のルイズはトリスタニア南部の門に立っていた。「思ったより跳べないわね」詠唱を続け、瞬間移動を繰り返す。ただひたすらラ・ロシェールを目指していた。それを見ていた影がいるとも気づかずに……。「彼女が出たのか、これは陽動をしてももう意味がないかな」影は身を翻してトリスタニアの闇に溶け込んだ。*「くそっ、どうしてこうなった!」竜籠は煙を従えて空を翔る。司祭は籠の中の発煙弾に気付いてないようだ。月明かりに照らされた形相は悪鬼のように歪んでおり、聖職者と言われても信じられないだろう。――計画に漏れはなかった。ならば何故あの平民が現れたのだ!?始祖の貴き血をひいていない家畜風情めが……私の計画を邪魔したというのか!苛立ちを腹の中におさめて考えをまとめる。「アルビオンにさえいければ……」現在アルビオンの治安は悪化している。幾度となく戦火にさらされた街はぼろぼろで、畑にもロクな実りは期待できない。生活苦から盗賊に身を落とす平民が数えきれないほどいて、さらに人身売買が横行している。そして人身売買が行われる闇マーケットを目当てにしたやんごとなき各国の人々も多数訪れていた。だがアルビオンの闇マーケットの質はあまり良くない。民が餓えているのだから当然だ。そこで司祭が考えたのは良質なトリスタニア平民をさらってアルビオンで売りさばく、というプランだ。風石は高くつくが十分儲けは出る、と踏んでいたのだ。それがこのザマだ。「こんなところでは終わらんぞ……ッ」ラ・ロシェールの光が目に入る。彼の目のようにギラついた灯りだ。助祭の手引きにより係留されていた快速船に、竜籠を下ろした。年若い助祭を待つことはしない。籠だけを取り外して再び竜にまたがり空へはばたく。数分も飛ばずに一つの建物の前に降り立った。「傭兵はいるか!!」司祭が次に現れたのは、ガラの悪い酔っ払いがたむろしている平民向けの酒場だった。夜も遅いとはいえ朝まで飲んだくれている傭兵は珍しくない。しかもアルビオン戦役が終わって、大地の上で盗賊稼業にでも戻るか、いやその前に飲むか! という輩がラ・ロシェールにたまっている。その中で比較的マシな髭を生やした皮鎧姿の酔っ払いが彼に声をかけた。「そりゃいるが、おたくはなんでぇ?」「ここにある分で雇おう、相手は奇妙な服装の平民一人だ。不足はあるまいな?」司祭は重い革袋をテーブルの上に叩きつけた。中には新金貨がどっさり入っている。男は驚きをあらわにした。――多少の出費はやむをえまい。それよりもあやつの足止めだ、ヤツさえいなければ無事アルビオンまでたどり着ける。「野郎ども! 仕事だとっとと動け動け!!」「急な話っすねお頭、明日にしてもらいましょーよ」「ばっきゃろう! お客様はブリミル様だ!」ガハハハ、と笑いあう傭兵を横目に司祭は苦い顔をした。平時ならこのような連中相手にしない。あの青年と出会ってからすべてが悪い方向に向かっているという気がした。「相手は北から来るはずだ。来なければそれでもかまわん、殺しても問題はない。むしろ好ましいか」「りょーかいでさ。行くぞくそったれ野郎ども!!」バン! とウェスタンドアを蹴り開けて意気揚々と酒場を出たお頭。が、すぐさま引き返してきた。「あの……相手はホントに一人で?」「? 何を言っている、当然だ!」司祭は声を荒げて答えたが、お頭はドアの外を人差し指で示すだけだった。不審に思った下っ端どもが顔を出せばすぐさまドアの内側にひっこむ。「相手、平民ですかい?」「言っただろう、奇妙な服装の平民だと」お頭と下っ端は顔を見合わせた。「じゃあアレは無関係っすね」「大丈夫だ、問題ねぇ」「いくぜぇぇえええ!!!」気勢の声をあげて二十人ほどの傭兵たちは酒場を再び飛び出していった。司祭はこれだから平民は、と不機嫌になりながら酒場を歩み出た。しかし酒場のすぐ外で傭兵たちはまた立ち止まっていた。「何をしている、たかが変な服を着た平民一人さっさと殺しに行け!!」傭兵たちを怒鳴り散らしながら竜にまたがる。そして固まった。脳が理解を拒否してしまった。「な、どうして……」ざっと足音が響く。傭兵も司祭もかたずをのんで見守るしかなかった。「あなたの所業は始祖が見破った」「誘拐された町娘は別働隊が解放している頃でしょう」こんなところにいるはずのない二人だ。「大人しくお縄につけば多少の温情は与えましょう」「はむかうなら容赦しない」白いドレスのアンリエッタ・ド・トリステイン。青いドレスのシャルロット・エレーヌ・オルレアン。――二国の女王が何故ここに……。司祭の疑問に答えられるものはいなかった。ただ心の平静を取り戻すため司祭は見苦しく喚いた。「じ、女王がこのような場にいるはずがあるまい。奴らは偽物だ、殺してしまえ!!」「え、ま、マジでやるんですかい……?」「お客様は……ぶりみるさまって言ってもこりゃぁ」傭兵は司祭の叱咤にも反応せずひたすら尻込みしている。だが彼の言葉は確実にアンリエッタとタバサに届いた。二人は顔を見合わせ、にっこり笑いあった。「ステさん」「ここに」カステルモールが暗闇から東薔薇騎士団二十名を引き連れ姿を現す。「アニさん」「はっ!」アニエスが魔法衛士隊二十名とともに通りの逆側から姿を現した。アンリエッタとタバサは一息吸いこんで。「懲らしめてやりなさい!!」命令を下した。平民の傭兵なら同時に五人程度楽々こなせる騎士が四十名。対する酔っぱらった傭兵は二十名。勝負ははじめからついていた。『ぎゃぁぁあああああ!!!!!』それはまさしく蹂躙だった。特にアニエスは普段たまりにたまった鬱憤をここぞとばかりに晴らしまくった。他の騎士たちも過度の傷は与えないよう抑えながら傭兵たちを制圧していった。すぐに乱闘の影響か、あたりは土煙に覆われた。しかし、ラ・ロシェールでこれほど砂埃がたつことはない。気づいた騎士がウィンドで薙ぎ払うとすでに司祭と風竜はいなかった。かわりに地面にはぽっかりと大穴があいていた。「くっ、楽しみすぎたか」すごく良い笑顔で傭兵を殴っていたアニエスさんは悔しそうに歯ぎしりした。その肩をアンリエッタがポン、と叩く。「大丈夫ですよ、すでに追跡は出しています」「陛下、しかし」「わざとだからいい」タバサも近寄って小さな声で囁く。「ロマリア上層部と繋がりがあるか確かめる必要があります」「尋問より少し泳がせた方が効率的」「そういうことなら、了解しました」アニエスは姿勢を改めて敬礼した。騎士団は傭兵をロープでぐるぐる縛っている。「俺ら、何かしたか?」「わかんねっす」「陛下、彼らはどうしましょうか?不敬罪ということで死罪でもよろしいかと」疑問でいっぱいだった傭兵たちはさっと顔を青くした。暴れまわって全身にまわっていたアルコールも吹っ飛んだようだ。「そうですね」アンリエッタは可愛らしく人差し指を顎にあてて考えた。傭兵からすれば命がかかっているからむしろ恐怖を感じた。「今日のところは不問としましょう。ですが、盗賊行為などに走った場合は……」どす黒いオーラがアンリエッタから立ち上った。少なくとも傭兵たちにはそう見えた。必死でコクコク頷くとアンリエッタはにっこり笑う。「さて、では誘拐された人たちの前に行きましょう」アンリエッタとタバサは騎士団を従えて世界樹をくりぬいた桟橋へ歩き出した。――アニエス、サイト殿の活躍もあって平民蔑視が少しはやわらいできてる。ですが、ここはまだ途中、もっともっと、垣根を取り払わないと。わたくしが変えてみせます、きっと変えてみせます。この世界を、という呟きは夜闇にとけた。F-13 ストロングカメレオン ラ・ロシェール近郊の草原に大穴があいていた。勿論天然のものではなく、今日掘られたばかりの新鮮な穴だった。そこから這いずりだす男女二人と風竜がいた。「よっと」「げほっ! ごほっ!」フーケと司祭、それに風竜だ。彼らはみっともなく土にまみれていたが、それは些細な問題だった。司祭は一息ついた後、フーケに向き直った「恩に着るよ、ミス・サウスゴーダ」「その名で呼んでほしくないんだけどね」「ではミス・フーケと。貴女の協力は忘れない」む、とフーケはわからない程度に眉をひそめた。この司祭はメイジに対してはこのように礼節を忘れない。ただ始祖の血をひいていないというだけで平民に辛くあたり、今回のような誘拐を行ってしまった。「あたしはもういくよ」「ああ」フーケはそれだけ言うと、再び穴の中に身を躍らせた。司祭はそれを見送って疲れ果てている風竜の背にまたがる。空はまだ飛べそうだった。「私たちもいこう」トリスタニア目指して竜は飛ぶ。国境にはすでに非常線が張られている可能性が高い。ラインメイジである司祭程度では突破できないだろう。それにアレだけの軍勢を繰り出したのだ、王都は手薄になっているに違いない。低空飛行を心がけて発見を防げばなんとかトリスタニアに戻れるかもしれない。スクウェアメイジである青年と合流できればトリステインからの逃亡はかないそうだった。ガクンと風竜が体勢をくずし、速度が落ちる。疲れのせいか、と司祭は考えるが手綱を打って叱咤する。今はスピード勝負だ。のろのろしていてはすべてが手遅れになってしまう。「シュヴァリエ・ド・ヒラガといったか、死よりも辛い目にあわせてやる……」才人がガンダールヴだという話は一介の司祭である彼には届いていない。彼がそれを知っていれば話は変わっただろう。もしくはここで喋らなければ。「へぇ、どういうこと?」「な!?」司祭が振り返るとそこには少女が佇んでいた。ピンクブロンドの髪をなびかせる巫女姿の美少女。彼は勿論彼女の名前を知っていた。「み、ミス・ヴァリエール。ここは風竜の上ですぞ」「それよりもさっきのこと、どういう意味?」司祭は息を詰まらせる思いで言い放つ。それを意に介さず、幼い子供のように首を傾げてルイズは問う。だがその身から放たれる威圧感は仕草ほど可愛らしいものではなかった。彼女はラ・ロシェールを目指している途中、目についた風竜が気になって瞬間移動で飛び乗った。さらに司祭の独り言を聞いてしまった。「あなた、誘拐犯ね」「っ!」司祭は思わずたじろき、生唾をのんでしまった。否定の言葉は出せなかった。ルイズはそれを肯定ととった。「そう、あなたのせいで、ね」ふふふ、と顔をうつむかせてルイズは笑い、そして決意した。この上なく不気味な気配に司祭は戦慄した。「わたしはサイトが好き」「は?」ルイズの言葉に司祭は目を見張った。「サイトといるのが好き」朗々と彼女は歌い上げる。「思えば、サイトが来るまでこの世界はほとんどがキライなものだったわ」月明かりの下で、風竜の上で。「決めたの」強風に髪をなびかせながら。「サイトがハルケギニアにとって異物だってことはわかってるから」月を見上げながら。「だから、わたしがハルケギニアを変える」童女のように笑い。「サイトが傷つかなくてもいいように変えてみせる」口元を邪悪に釣り上げた。「それを邪魔するあなたは敵ね」司祭は心臓を鷲掴みにされたような悪寒におそわれ、口をきくことができなかった。そしてルイズの目を見て、目の前が真っ暗になった。虚無の瞳だ。――歴史から消えなさい――虚無の光が夜空を満たした。*「おーおー、派手にやったなー」「もしかしてアレ、ルイズ?」「そ、すっげー魔法。アレ花火にしてもよかったな」魅惑の妖精亭まであと少しというところ、夜空に産まれた太陽に二人は振り返った。夏祭りでのどんな花火よりもド派手だった。「ホントに入り口まででいいの?」「そうしないとサイト、パパに殴られた後に感謝のキスされちゃうわよ」「殴られるの良いけどキスはやだな……」才人はスカロンに頭を下げなければならない、と息巻いていたがジェシカはそれを拒否した。道中すべての事情を聴いた彼女は才人が悪いところはどこもない、と判断していたのだ。「ほら、もう店も見えたし今度こそだいじょーぶよ」「む~せめて今度菓子折りもっていくわ」「カシオリ? なによそれ」くすくすジェシカは笑う。才人は頭をぽりぽりかくしかなかった。「あ、あとね」ちょいちょい、とジェシカは手招きした。才人は特に深くは考えず彼女に近づいた。「……」「なんだよ?」じっと才人の黒目を見つめたままジェシカは喋らない。流石に彼も不審に思って彼女に問いかけた。「あのね」「ん」ちょっと顔が近いなぁ、と才人は思っていた。「好き」「へ?」――ちゅ――今度は触れるようなキスではなかった。才人は硬直して動けない。ジェシカは唇を強く押しつけて動かない。たっぷり十秒、二人の影は重なっていた。「あは」とん、と噴水広場のときをなぞるようにジェシカは距離をとった。そのまま笑顔で才人に宣言する。「シエスタやルイズには負けないからね! おやすみ!!」言いたいことを言ってジェシカは魅惑の妖精亭に飛び込んでいった。すぐにスカロンらしき野太い泣き声が響き渡る。才人は呆然としながら唇に手をやった。「お、女心ってわかんねぇ……」頭を抱えてうずくまる。――け、結局ジェシカは俺のこと好きだったのか?なんでなんでどうしてだよ、キモイって言われたのに理解できねぇぇえ!!才人はうんうん唸った。そして、その視界のギリギリ端っこに見覚えのある顔が映った気がした。「え?」思わず立ち上がり暗い路地裏を覗き込む。甚平姿の男が音もなく角を曲がっていた。「まさか……」念のためデルフリンガーを鞘から抜きはらい、後をつける。そして二人は邂逅した。F-F 月明かりに見た幻 ―HYBRID RAINBOW after FIREWORK―「なんで、テメェがここにいる」「おや、見つかってしまったか」月下で向き合う狼二人。「なんで、って聞いてんだろうが。こたえろワルドォォ!!」「ふっ」途端、石畳が爆発した。ガンダールヴの脚力は路面を砕き、才人は一瞬でワルドへ殺到した。しかし、『閃光』の二つ名は伊達でつくものではない。甲高い金属音とともに青白い光が散った。互いに動きながら剣を重ねる様は、遠くから見れば火花が駆けるようだった。幾度目かの刃の応酬で二人は剣を噛み合わせる。「アルビオン以来だな、ガンダールヴ。左腕の雪辱を晴らさせてもらおうか」「上等!!」鍔迫り合いから一度距離をとり、再び互いに疾駆する。闇夜に散る火花は、先刻の花火よりも激しく辺りを照らした。「流石だな!ゲルマニアで鍛えた業物すら折られそうだ!!」「貴族様がまっとうな剣を使ってんじゃねぇよ!!」ワルドの右手には月明かりに輝くサーベルが、左の義腕にはワンドが握られている。彼はウィンドのスペルで大きく後退した。「なに、いつもの杖剣では貴様に斬られると思ってな。パートナーを頼って上等な剣を手に入れたまでだ。平民の牙たる剣術も最近修めたが、バカにできたものではない」「エリート様は違うよなぁ!」三度才人が跳躍した。五メイルはあろうかという間合いを刹那で詰める。ワルドはガンダールヴの怪力による強力無比な剣撃をいなし、蹴りを見舞った。「がっ!?」「そら、格闘は平民の得意技だろう?貴族様とやらにやられてどうするんだ、ガンダールヴ」――強い、アルビオンのときとは次元が違う。しかもワルドはまだ魔法を使ってねぇ。表情もまだまだ余裕に溢れてやがる。肩で息をする才人。一方のワルドも、涼しい見た目ほど余裕があるわけではなかった。――やはり、強い。膂力では明らかに負けている。爆発力も化け物じみているし、剣速、踏み込みも速い。出し惜しみは一切できんな。ワルドは獰猛な笑みを浮かべる。「素晴らしい。流石、神の左手ガンダールヴだ」「お褒めの言葉どーも。全っ然嬉しくないけどな!!」才人も釣られて歯を剥き出しにする。月明かりにくっきり浮かぶ二人の顔は人狼のように恐ろしい。「賞賛は素直に受け取っておきたまえ。シュヴァリエとは言え、貴族だろう?だが僕を相手にするには力不足のようだな」「はっ! まだ半分も力を出してねーよ!!」今度はワルドが仕掛ける。ウィンドを利用した移動方法は、通常とは加速の仕方が違う。「振れ相棒!!」その奇妙な動きに才人は振り遅れた。デルフの声に慌てて振り下ろすも、皮一枚斬られて血がにじんだ。そのまま追撃を受け、鍔迫り合いに縺れ込む。「おや、英雄の顔に傷をつけてしまったか」ワルドはからかうように言う。飄々とした物言いは戦闘がはじまってから変化がない。「俺の、顔なんざ、どうでもいいッ!」ルーンが力強く輝く。バカ力に任せて才人はデルフを振り切った。反動を利用してワルドは後方に跳ぶ。月に雲がかかり、周囲が暗くなる。「雪辱を晴らすといったが、撤回しよう。僕もまだ死ぬわけには行かないからな。どうだい、お互いこのあたりで手打ちといかないか?それに、できれば聖地奪還のためその力を役立てて欲しい」余裕たっぷりの笑みでワルドは言った。「断る」肩で息をしながら才人は答える。「それはまた、どうしてだ?」ワルドは一層笑みを深くした。目だけがギラギラと輝いている。「お前はルイズを泣かせた」才人の肩がピタリととまった。「そうだ、気に喰わないとか、いけ好かないとかどうでもいい。お前が国を裏切ったのだって、正直どうでもいいんだ。ロマリアが言う聖地の大事さも知ったこっちゃねぇ」下段に構えていたデルフを突きつける。「お前はルイズを泣かせた。だから許せない。それだけで十分だ」左手のルーンがより一層強い光を放った。ワルドのぎらついた目が、笑みが、消える。一拍置いて、ワルドの高笑いが路地に響いた。「はっはっはっはっは!!そうか! それが貴様の答えか!!」「そうだ、それが俺の答えだ!」ワルドもゆっくりとサーベルを突きつけた。「ならば、決着をつけようか」ワルドが殺到する。正眼にかまえた才人は迎撃を試みるが、ワルドの姿が消失した。「上だ!!」デルフの声。藍の布地がたなびく。頭上から現れたワルドはサーベルを振り下ろし、再度鍔迫り合いの格好になった。「偏在か!」「ご名答、そして詰みだ」左手のワンドが雷光を蓄えていた。才人は体勢を気にせず全力で後ろに跳び、デルフを構えた。一瞬送れてライトニング・クラウドが迸る。視界が白く染まった。――おかしい。首筋にチリ、と痛みを感じた。才人は右手を懐に突っ込み、青銅の串を手に取り、背後に投擲した。雷撃が終わると同時にさらに後ろへ跳躍した。「……後ろに目でもついているのか、ガンダールヴ」「やっぱり、偏在か」度重なる生死の狭間でしか身に着けられない能力、熟練の兵士が感じる死の予感。それは才人を救い、背後の偏在を貫いた。――サンキュ、ギーシュ。友人が無理に押し付けた青銅の串がなければ終わっていた。路地の壁に突き立った串はまだ微かに震えている。「ロマリアで聞くところによれば、貴様は故郷に帰ることもかなわないそうではないか。それも、ルイズが呼んだからだ。なぜそんな彼女を守るんだ?」――まだ目がちらついてる。こいつがナニ考えてんだか知らねぇけど、時間稼ぎだ。「……ずいぶん遠くに来たと思う」才人は表面上、至って冷静に言葉を返す。だがそれは間違いなく、本心の吐露でもあった。「でもハルケギニア、ここには確かに足跡が残ってる」――男連中とはすっげー仲良くなった。よくわかんないけど、女の子には俺のファンの子もいるみたいだ。「足跡、か」「そうだ、俺は今、ここで生きてるんだ」――シエスタも、タバサも、ジェシカも。俺が転びそうになったら助けてくれた。手を貸して、助け起こしてくれたんだ。そして、ルイズ。「故郷から遠く離れたというのにか?」「そうだ、呼び出されたとか、どこで、とか関係ない」それに、と才人は続ける。「俺はルイズに惚れた。好きだって言っちまった。その言葉を嘘にはしたくねぇ。だから、俺はルイズを泣かせるヤツをぜんぶブッ飛ばす!ロマリアだか聖地だか関係ねぇ!あいつが怖がらなくてもいい世界をつくる!!」すぅ、と大きく息を吸う。「それが、理由だ。それだけが、俺の信じる大事なことだからだ!!」才人は自分でも何を言っているかわからなかった。ただ思いついたことを腹の底から精いっぱい叫んだ。ワルドは一度大きく目を見張り、穏やかな笑みを浮かべた。「ははは、素晴らしい、本当に素晴らしい。俺に娘がいれば、君の嫁にやっても惜しくない」ワルドは子どものような無邪気な顔で、才人に笑いかける。「んなもんいらねーっての」才人は油断なくデルフを構える。ワルドも思考を戦闘に集中させる。――かつて、俺は偏在を切り札としていた。だが、やはりガンダールヴ相手には手札の一つにしかならなかったか。ワルドは考える。アルビオンでの敗戦の後、彼は自分の戦い方を見つめなおし、間違っていなかったことを理解した。だがそれは常識におさまる敵を相手どった時のことでしかなかった。新たにガンダールヴ用に戦術を組みなおし、剣術を死に物狂いで修行した。いつか再び、敵対することがある、と確信をもって。ウィンドを使った緩急つけた加速歩法、偏在による隙の付き方、強力な雷撃魔法すら囮にした背後からの強襲。いずれも破られた。――背水の陣、か。これほどまでに心が澄み渡るとは。偏在、度重なる斬り合い、ウィンドによる加速、最大級のライトニング・クラウドを使った目くらましでワルドの精神力は既に尽きかけていた。これではパートナーの待つ合流地点に行くまでが精一杯だ。「魔法はもう使えない。始祖と母に誓って言う。君は知る由もないだろうが、俺にとって母に誓う、ということは非常に重い」「へいへいそーですか、と信じられると思うか?」「思わんな」笑う。そして、左手のワンドを路地の隅に放り投げた。「これほど気分が良いのははじめてだ。ところで、君の名前をもう一度聞いておきたい。俺の名前はジャン・ジャック、ただのジャン・ジャックだ」「どうでもいいけど、お前口調が変わってるぞ」「なに、大した問題ではないさ。それより名乗ってもらえないかね?」「才人、平賀才人だ」と爵位抜きに言い放った。ざぁっと風が狭い路地を吹きぬける。「サイトか、良い名前じゃないかそれでは、本当に決着だ。惜しいな、いつまでもこうしていたいくらいだ」「俺はとっととルイズのところに戻りたい」才人はハルケギニアに来てはじめて、両親からもらった名前を褒められたことに気づいた。この敵と奇妙な友情すら感じはじめていた。その心を押し殺し、デルフを大上段に構える。ジャン・ジャックは半身になってサーベルを構えた。雲が流れ、双月が路地を照らした。「おおっ!!」「来い!」仕掛けたのは才人だった。爆発的な脚力で疾駆し、気迫と共にデルフを振り抜く。武器破壊を狙ったそれは見抜かれていたのか、受け流された。両者、距離をとることもなく、裂帛の意志で剣をあわせる。才人はサーベルを打ち砕こうと一撃一撃に力を込める。時折峰を使った直接攻撃を織り交ぜ、敵の戦力を砕こうと試みる。対するジャン・ジャックはかわし、いなし、突いた。才人の膂力に適わぬことを承知の上でその場にとどまり、か細い勝機を手繰り寄せようとしている。銀閃が弧を描き、月明かりに二人の影は踊る。互いにかすり傷が増えている。遠くから響いてくる喧騒に、二人は距離をとった。濃密な斬りあいは互いの体力を極度に削り、二人は相対しているものの力が抜けかけている。「しぶ、といな……。貴族は、貴族、らしく、ひょろ、ひょろ、してやがれ」「君、こそ、らしく、ない。軍人は、からだ、が、資本だぞ」肩で息をしながらニヤリと笑いあう。出会い方が違えば友になれたのか、わからなかった。やがて呼吸音はやみ、静かに対峙する。才人は八双、ジャン・ジャックは変わらず半身。二人は合図もなく同時に飛び出した。互いの名を叫びながら、交叉した。肉を割く音と金属音が路地に鳴り響いた。「はっ、はぁっ、はぁっ、つぅっ……」「は、ははははは! また左腕か!!」才人はサーベルを砕き、その勢いのまま義腕を斬り飛ばした。ジャン・ジャックは砕かれたサーベルをもって、才人の脇腹を切り裂いた。「今回は引き分けのようだ。サイト、大丈夫かい?」「いてぇ、立てねぇ」左手で抑えている切り傷は範囲が広かった。だが内臓にまで達する傷ではなく、失血さえなければ命に別状はなさそうだった。「さて、衛士隊が近づいてきたようだし、そろそろ僕は退散しよう」ワルドは放り投げた杖を回収して、立ち上がった。そして足元を見る。「やれやれ、このセッタというヤツはどうも壊れやすいな。念のためゲタとやらも買っておいてよかったよ」ジャン・ジャックの雪駄は最後の斬り合いで鼻緒が切れていた。懐から下駄を取り出し履き替える。どこにいれてんだ、とぼやきながら才人は話しかけた。「ジャン・ジャック、知ってるか?鼻緒が、切れるってのは、縁起が悪いんだぜ」「そうなのかい?まぁロマリアは霊験あらたかな地という触れ込みだ。問題ないだろう」では身体に気をつけたまえ、とジャン・ジャックは路地に消えていった。カランコロンと下駄を鳴らし、口笛まで吹いてご機嫌だった。「くっそ、あの野郎、結局何がしたかったんだ」「サイト!!」かがり火を焚いてやってきたのは水精霊騎士団だった。先頭にいるのはやはり四天王だ。「みんな、無事で何より」「君が無事じゃなきゃ意味ないじゃないか!!」怒られた。傷口は抑えているが、結構な量の血がでたようだ。体中切り傷だらけでもある。レイナールが近づいてくる。「これは、血を失いすぎている。なるべくすぐに処置したほうが良い」水の秘薬を! という声にモンモランシーが小瓶を手渡した。「後できっちりお金払いなさいよ」「……あいよ」集中力が切れたのか、強い眠気を自覚した。「まだ寝るな! 意識をつないでろ!!」「……ぉぅ」まぶたが重い。頭がゆらゆら揺れている。最後に一度だけ月を見上げる。――なんだ、ハルケギニアの月にも、うさぎっているんじゃん。それに、虹がかかってて、キレイだ。誰かの声を聞きながら、才人は意識を落とした。To be continued after episode "Ride on our Halley's comet"