17-1 オクレ兄さん「うぅむ、そちらはどうだ」「はい、やはり間違いないようです」あと二時間もすれば陽が沈むであろう時間。こちらトリステイン王国財務省の執務室。家具がなければ非常に広い部屋だが、日本の一般的なデスクの三倍ほどもある机が並んでおり、パッと見は狭く見える。机の上には数々の羊皮紙、書簡、書類が山と積まれていた。部屋の窓際には大きな鳥かごがあり、伝書鳩部隊が出番を待っている。時間にゆとりがある時なら職員だけでなく、デムリ財務卿も鳩がくるっぽーと喉を鳴らしたりうろうろしたりするのを鑑賞して楽しむ。が、今はまったくゆとりがなかった。金銭的な意味で。「「「「お金がない」」」」三名の幹部とともにデムリ財務卿はため息をつく。さきほどから皆で収支の計算を行い、あまりに低い収入に驚き再計算し、ついでにもう一度計算した。その結果、ほぼ同じ値が得られている。「やはりアルビオンでの敗戦が問題か……」トリステインはアルビオンに勝利した。それが公的な見解ではあったが、人の口に城壁はたてられない。ましてや兵の慰撫のため大勢の商人が城の大陸に渡ったのだ。そこで見た光景は、お世辞を重ねに重ねてもう一つオマケしても大敗だった。アルビオンの英雄、シュヴァリエ・ド・ヒラガがいなければどれだけの命が失われたか。それを理解した大商人は、半年に一度の税の納付を渋った。貴族が偉いのはなぜか、万が一の時には肉の壁になるからだ。その義務がアルビオン戦ではほとんど果たされなかった。これは国内にいても貴族がいざとなればトンズラかますのではないか、と疑念を抱いた国内有数の大商人たちは遠回しな抗議を決意する。あれこれ理由を並べて納付期間が過ぎても税金を滞納している。「一ヶ月以内に納められなければ、下級貴族の年金が払えんぞ」幹部たちも困ったように顔を見合わせた。しかも具合の悪いことに諸侯から納められるべき税金すら届いていない。皆戦争で台所事情は火の車、待ってもらえるならいくらでも待ってほしいのだ。大商人の税金さえ納められればギリギリの線で持ちこたえられる。最悪中の最悪はクルデンホルフに頼ることだが、これ以上貸しを作るのは危うかった。「どうしましょうか、財務卿」「儂に言われても困る」う~ん、と男四人で顔を突き合わせる。ふと、商人事情に明るい幹部が閃いた。「商人に便宜を図ってはいかがでしょうか」「便宜、と?」「はい、今回の納付遅れは明らかに貴族の義務を果たさなかった、逃げ腰の男色趣味のくそったれ武官どもが悪いです」彼はナチュラルに毒を吐きまくる。まわりは当然気にも留めない。どこの世も武官と文官は仲が悪かった。「そこで、商人がうまく利用すれば稼げるような法案を通すのです」「それはいかん。悪しき前例となってしまう」言っていることは一理ある、一理あるが危険すぎた。次もまた同じように納付を渋られる可能性が跳ね上がってしまう。「そうですね……私からは他の案が出ません」「そうか」むむむ、と再び唸る男四人。今度は、平民事情に明るい男が声を上げた。「パレードですよ!」「パレード?」「そうです、一応ガリア戦役も終わりました。でも国を挙げての公式行事はまだ行っていません。祭りとなれば民の財布も緩みます」「ふむ……機会はやるから勝手に稼げ、というわけか」ギリギリのラインだった。大商人の顔を立てつつもそこまで譲っているわけではない。デムリは「それしかあるまい」と頷いた。「では儂はこの件を女王陛下に上奏した後帰宅する。諸君らも、今日はもう休みたまえ」「「「はっ」」」「女王陛下に財務省の案件で上奏に来た。今は、問題あるかね?」「いえ、ありません、どうぞ」アンリエッタの部屋の前に控える二人の衛士隊隊員が大きな黒樫の扉をノックし、「ド・デムリ財務卿閣下、ご入室!」と声を張り上げる。デムリはドアノブに手をかけ、部屋に入った。アンリエッタは寝室と執務室を兼用している。それはどうなのだろう、とデムリは思うが、彼女が主張するには移動時間の短縮らしい。扉をくぐった彼は、立ち込める香に顔をしかめた。その香を彼はよく知っている、年ごろの娘の部屋で焚くようなものではない。天蓋付きベッド以外には色んなモノが積み上げられた机しかない殺風景な部屋。デムリはベッドで俯せに倒れている意外を通り越してありえない人物を見て、仰天した。「マザリーニ枢機卿!?」デムリよりもおそらくアンリエッタのスーパーサポーターとして働いている男、それがマザリーニ枢機卿だ。彼はただひたすらトリステインに忠誠を誓い、あらゆる手段を国家のために尽くしてきた。その功績はデムリもよく知るところだ。働きすぎて頬がこけ、白髪も増え、たまにぷるぷるしている。実年齢が40過ぎであるにもかかわらず、見た目は60を越えようかという老人に見えるともっぱらの評判だ。それが女王陛下のベッドで寝ている。――まさか、マザリーニ枢機卿はロリコンだったのか!だから可愛らしいアンリエッタ姫をサポートしていた。そしてとうとう我慢できなくなったのか!!なんという聖職者だ!うらやましい……いやいや、けしからん!!デムリは憤慨した。マザリーニはたまに「姫様やめてやめてやめてそれ以上無理」と寝言でうなされている。お世辞にも幸せな寝顔とは言えず、拷問を受けながら眠りにつきましたー、と言われたら納得できるほど苦悶に満ちている。――そんなにもヤッたのか!?女王陛下のお姿はここ五日間ほど見ていない。まさかその間ずっと……儂もそんなことされたい!!冷静に考えれば、衛士が通した以上そんな艶々した出来事はあるはずがない。しかし、デムリ財務卿は疲れていた。何度も何度も計算しまくって疲れていた。その時、机に積み上げられた書類の一角が崩れた。「うふ、うふふ、うふふふふ……」「女王陛下ーーー!!?」なにかトリップしてらっしゃるー!!ガビーン、とデムリは衝撃を受けた。――まさか枢機卿とのプレイで精神に異常を!?いや、寝言的には女王陛下の方が積極的だったはず。いいなぁ、若くて積極的な女性は。儂もアンアン女王とぬちゃぬちゃしたい。彼はそろそろ不敬罪で首チョンパされてもいい。心の中だけのことなので彼を罰することはおそらく彼以外誰にもできないが。「あら、デムリ財務卿。なにかありまして?」「いえ、その、マザリーニ枢機卿は、何を?」思わずデムリは「すいませんごめんなさいでした」と謝りそうになった。今のアンリエッタはすごい。まず顔色すごい、もう土気色、いつ死んでもおかしくない。そして隈、化粧でがんばって隠してるかもしれないが、控えめにいってパンダみたい。そして今デムリと喋りながらふらふらしてる、首が座ってない。あと視線、視線が一定してない、普通の人には見えない何かを追いかけてそうに見える。それにこうして話している間にもどんどん机の上の書類をとっては目を通してサインをしている。有体に言ってしまえば、デスマーチだった。部屋に立ち込める香は強壮効果をもたらすものだし、机の上には水の秘薬の空き瓶がエノキ茸のように立ち並んでいる。「彼はだらしないわね。まだ仕事徹夜四日目だというのに朝食前にいきなり倒れたりして。仕方ないから衛士に頼んでベッドに放り込んでおいたわ」「それは、また……」ナニこの女王こわい、とデムリは思った。流石の彼も三日間徹夜すれば倒れるどころか、死んでしまいそうだ。それを彼より、見た目的にも体の中身的にも、遥かに老いているマザリーニはがんばったのだ。朝から今まで、ということは十三時間近くは眠り続けている計算になる。心の中で黙とうした。さて、なぜアンアン女王陛下はこんなにもがんばっているのか。それはきっと、彼女がある意味幼いところからきている。彼女は信頼できる部下を求めている。中でも実力、物言い、まっすぐさから、親友であるルイズ嬢の使い魔、平賀才人はピカイチの物件だ、と目をつけていた。だが彼はまっすぐすぎる。なんとか彼に国家、もっと言えばアンリエッタに対する忠誠心を植え付けようと考えた。――普通の人なら、どうすれば忠誠を誓うかしら?やっぱり嬉しいことをされれば恩義を感じる、はずよね。でも、前に渡したお金もあんまり使ってないようだし、あんまりお金には興味がないみたい。平民、ということは爵位とか土地あげれば超喜ぶわよね。決まり! 首輪つけるためにもなんとか爵位と土地を授与しましょう。首輪……首輪もいいわね、今度ルイズに言ってサイト殿につけてもらいましょ、うふ。この女王陛下は実にダメだ。実はタニアリージュ・ロワイヤルで行われる演劇『走れエロス』を強力にプッシュしたのは彼女だ。――素敵じゃない!と、すんごい良い笑顔で通した。ウェールズ王子が没して以来、彼女は若干倒錯的な趣味を持ちはじめた、あるいは覚醒した。それはさておき、ここで問題になるのが反対勢力だ。彼女の中でも強大な敵は二人、母と枢機卿だ。実の親であるマリアンヌ太后と、第二の父といっても過言ではないマザリーニ枢機卿。この二人は絶対に、格式がどうの歴史がどうの言って反対してくる。彼女は一計を案じた。――きっと政務をがんばったら認めてくれるわ!日本の子供が母親に「次テストで100点とったらゲーム買ってよ!」というのと変わりなかった。最近政務に励んでいるとはいえ、彼女は箱入りお嬢様。あまり世間の道義だとか道理は理解してなかった。そして極端な人だった。――完徹ぶっ続けで五日間仕事すれば認めてくれる! 気がする!!付き合わされたマザリーニは、もうなんとも同情しかできない。手始めに彼女は、計画実行数日前からアニエスさんを魔法学院に追いやった。完徹なんて彼女に知られれば、ねっちねちねちねち小言を言われるに違いない。それに、よく我儘に突き合わせている隊長殿も、たまには羽を伸ばしてもらいたいと思っていた。その隊長殿は余計に苦労しているとはアンリエッタもさすがに知らない。そしてマザリーニとともに引き籠った。読みに読んで、わからないところはマザリーニに聞きまくって、ひたすら仕事をぶっ続けた。しかし、上奏されてきた案件はいくらたまっているとはいえ、四日間も缶詰になっていればかなり片付く。時折挟まれる会議の案件も終わりが近い。机の上の山は彼女の努力の成果だった。あと小一時間もすればすべてに片が付きそうだ。「さて、とはいってもわたくしも乙女。そろそろ寝ないとお肌がすぐに荒れちゃいますわ。なるべく手短にね」「はっ! 陛下、終戦パレードをお願いします」「パレード、ですか」デムリは頭がかっくんかっくん揺れているアンリエッタにきっちり説明した。大商人の税金納付が遅れている、ということには「うふふ」とヤバげな笑みを浮かべるだけだった。だが土地持ち貴族の税金納付が遅れている、ということには「……コロス」と小さく呟いた。デムリは「儂納付しといてよかった」とちびりそうになりながらも思った。「まぁ、わかりましたわ。そうですね、急な話になるけど一週間後、ブルドンネ街をわたくし自ら出ましょうか。ガリア戦役で唯一矢面に立った水精霊騎士団に連絡しておかないと。彼らならお金もかかりませんし」「陛下、お言葉ですが、ブルドンネ街を使うのは難しいかと。あそこは露店でいっぱいですし、その露店を無理やり撤去すればいらぬ反感を買います」「では、露店が引っ込む夜にしましょう。ダエグの曜日(虚無の曜日の前日)なら夜遅くても問題ないでしょう。進行など、諸々のことはよきにはからってください」「はっ、では失礼いたします。くれぐれもご自愛ください」「それができればもう寝てるわ」デムリの切実な言葉に、アンリエッタはより切実な言葉で返した。でも彼女はある意味事項自得だ。部屋を退出したデムリはよし、と頷いて、結局執務室へ戻ることにした。