ユー・タッチ・ミー 2
その日は曇天だった。
クラスメイトである長谷川千雨の葬儀は、彼女の両親が住む隣街で行なわれる事となった。
電車で十分程の距離。
2年A組の生徒達は、葬儀場に整然と並べられたパイプ椅子に腰を下ろしていた。
悲哀、混乱、戸惑い。突然の訃報に、年端もいかない少女達は感情の処理が追いつかない様だった。
夕映も困惑はしていた。
身近な人間の死、ましてや長谷川千雨と言えば、夕映の隣の席の人間である。つい先日まで普通に会話し、普通に挨拶していた。
なのに、今は――。
「長谷川さん」
視線の先、正面には花束に囲まれた長谷川千雨の遺影があった。モノクロの写真、少し幼く見えるのは間違いない。
おそらく遺影に相応しい写真を探した結果、一・二年前の写真になったのだろう。
目線を少し反らすと、葬儀にやって来た人間に頭を下げる長谷川の両親の姿が見えた。
喪服の人間が増えていく中、夕映達は小豆色の制服姿であり、どこか浮いている気がした。
外にはマスコミが集い眩いくらいにフラッシュをたいていた。反面、葬儀場の中には冷たい空気が漂っている。単純な寒さだけでは無い、たやすく肌に切り傷が出来そうな、そんな雰囲気だ。
クラスメイトも同じなのだろう。何を話していいのか、何を話せばいいのか分からず、ただ口をつぐんでいた。
涙をボロボロ流す生徒もいる。皆が一様に長谷川の死を惜しんでいる様だった。
そんな中でも夕映は。
(おかしいですね。悲しまないといけないはずなのに)
涙は出ない。
心はもやもやとするものの、悲しいとまで至らない。
周囲には激しい感情が渦巻いているのに、多少の困惑はあるものの、夕映の心は静かであった。そう、自身で結論づける。
自分が寂しい時や不安な時には容易く泣けるのに、他者が死んだ時には涙が出ない。
酷く冷徹な気がして、夕映は情けなくなった。
「どうした」
隣に座る真名が小さく呟いた。夕映は顔を前に向けたまま、言葉を返す。
「涙が出ないんです。長谷川さんが死んだはずなのに、寂しい気持ちがあるのに、悲しいのか良く分からないんです」
「そうか」
葬儀は粛々と進んでいた。静かではあるが、さすがにこれだけの人数がいるだけに、小さな囁き声はそこかしこから聞こえている。
「それが、そんな自分が凄く情けなく感じます。私は普段わんわん泣くくせに、友人が死んでしまっても、泣くことすら出来ない。それが――」
「長谷川とは仲良かったのか?」
夕映の言葉を、真名が遮った。
「どうでしょうか。私は友人のつもりでした。席も隣だし、でも彼女は余り人付き合いが好きではなさそうでした」
夕映は長谷川の事を思い出すが、それはいつもの教室で自分の話に相槌を打つ姿だった。
「安っぽい話ですが、「もっと優しくしておけば」とか「もっと話しておけば」なんて思ってしまいます。後悔なのでしょうか、それとも罪悪感なのでしょうか。どちらにしろ、私は自分ばかりが可愛い、冷徹な人間な気がしてしまいます」
そうやって吐露するのも自分の事で、夕映はやはり心を沈ませてしまう。
そっと真名の手が伸び、夕映の手を掴んだ。
「そうでもないさ。人間なんて自分が可愛くてしょうがないもんだ。他人の事ばかり構えるのは聖人か、極端な博愛主義者だけだ。自分の余力を他人に割けるのは、それだけでも立派な事だよ。周囲の空気に合わせて泣くばかりが悲しさじゃない。そうやって故人を通して色々思う事も、手向け方の一つさ」
「手向け方、ですか」
「あぁ、そうだ。これは私なりの教訓さ」
そう言って真名は話を打ち切ってしまうが、手は繋がれたままだった。
長谷川の遺影をもう一度見た。
(手向け方。人との縁なんていつか切れるものなのですね。私は久しくそれを忘れていました)
夕映は孤独を極端に嫌う。きっとそれは病気のせいもあるのだろう。
(いつか大事な人との別れが来る。私はその時、ちゃんと別れる事が出来るのでしょうか)
幼稚な死生観が夕映の心を巡った。死の意味を、夕映は祖父の急逝で知ったのだ。あの日も確か寒い日だったはずだ。祖父に抱きついた時の、あの独特の匂いは、今でも夕映は思い出せた。
あの時はまだ夕映は別れ方を知らなかった。ただただ泣き叫び、両親に怒りをぶつけるばかりだった。幼児がデパートのおもちゃコーナーで駄々をこねる様に、夕映も祖父の死に駄々をこねたのだ。絶対に実らない嘆願、祖父との別れ方は時間が過ぎるのみに頼ったやり方だった。
遠く、窓の先の曇天を見つめた。そこに黒煙が混じる。どうやら同じ葬儀場で火葬が始まった様だ。
灰色の雲を黒い煙が覆っていく。寒さも手伝ったのだろう、夕映は無性に寂しくなり、繋いだ手を強く握り締めたのだった。
◆
葬儀から一ヶ月程経った、十二月のある日の数学の時間だった。
床の冷気は上履きを通り足先を覆う。ブルリと体を震わせた時、夕映は妙な感覚に襲われ、隣の席――長谷川の席を見た。彼女の席には献花が飾られている。
いつも通りだ。何の違和感もないはず。そう思い、夕映は黒板に視線を戻した。
その時、肩口にチクリと些細な違和感が走った。
何も見えない、ならば危険では無いのだろうと思い、慌てず真名の方向を見た。どうやら彼女も何かに気付いたようで、こくりと頷きで返された。
心に緊張感が走った時、ガラリと音がした。誰かが入ってきたのか、と皆が一斉に音の方向、教室の後ろのドアを振り返った。
そこには誰もいなかった。足音も特に無い。
ただほんの少しだけ開かれたドアがあっただけだった。ほんの少し、細身の中学生がやっと通れるくらいの隙間だ。
「え、何? 今の音」
「何でドア開いてるの」
ガヤガヤと騒がしくなる生徒達を制したのは、数学教師の声だった。
「おいおい、誰だ誰だ、ドアを開けた奴は」
どんなイタズラをしたんだ、と言わんばかりの顔だった。事実、この2-Aの生徒は、教師にイタズラを何度も仕掛けている。
されど、その言葉に明確に返事をする者はいない。喧騒はやがて一つの懸念に行き着き、視線は夕映の隣の席――長谷川の席に集まった。
「ま、まさか……」
「いや、でも……」
生徒達の言葉を教師が一喝する中、夕映はやはり真名を見つめていた。なぜなら彼女の瞳はほのかに光り、ずっと教室のドアに向いていたから。
◆
「長谷川だった」
寒空の屋上に他の人間の姿は無い。真名は特に声量も落とさず、堂々と喋れた。
「――。やはり長谷川さんだったんですか。でも私には見えませんでしたよ」
「かなり希薄だった。縁が強く、なおかつ素養がある人間くらいしか見る事は出来ない程、薄い。恨みつらみで霊となっているなら夕映にも見えていただろう。むしろ何故自分が死んだのかすら理解していない様子だったな」
真名は先刻の状況を、しっかりとその瞳で見ていた一人だった。
「理解していない……」
その様子を思い浮かべると背中が凍りつくようだった。周りの人物が自分を認識出来なく、その上自分が実は存在していない。死んでいる、そう宣告された時、自分はどうするだろうか。
奇しくも長谷川の状況は夕映の病気に似ていた。
「でもなんで一ヶ月も経ってから現れたんでしょう。それに幾つかの霊を見てきましたが、霊は『死んだ場所に現れる事が多い』気がしました」
「無意識か。長谷川にとって印象の強い場所だったのかもな、教室は。それに地縛霊や怨霊になるのに時間は関係無い。死んでから数分、時には数百年かかる事もある。だが今回は異常だ。本来あの程度の希薄さなら、地脈に吸収されるか、自然と浄化するはずだ」
「でも、ならどうして長谷川さんは霊になったんでしょう」
「考えられる可能性は三つ程ある。一つは内的要因、長谷川自身に特殊な素養があったり、もしくは強い怨念や意志があったりした場合だ。今回の状況を見る限り、その可能性は無さそうだが。二つ目は外的要因。誰かが長谷川に何かをした、という状況だ」
「何か……ですか。それは降霊術とかそういう類の?」
夕映は寒風に体を震わせながら、先程買った缶コーヒーをそっと飲んだ。
「まぁそういう事だ。呼びつける術は沢山ある。悪魔の召喚――いや、よそう。この場合こっくりさんでもかまわんさ。浄化されるはずだった長谷川が呼び出された、という可能性だ。この場合、意図的か、そうでないかで状況は変わってくるな。本来この手の術法は対価や代償が伴う。仮にそうだとした場合、素人がやったとは思いたくないな。そして三つ目は……」
「三つ目は何なんですか?」
真名は表情を変えなかったが、どこかためらいがちだ。
「三つ目は状況的要因、とでも言うかな。先刻話した世界樹の話は覚えているか?」
「はい……つまり龍宮さんは、世界樹が原因の淀みが、長谷川さんを霊にしてしまったと考えているんですね」
夕映は一呼吸置き、真名の言いたい事を推察した。
「その通りだ。正直ここまで酷い状況だとは思わなかった。ましてや、魔法使いが管理する都市が、これほど霊的に荒れるとはな。最近協会の方が慌しい理由が分かったよ」
「そう言えば高畑先生も出張が多いですね」
夕映は、担任教師が病気を含めて色々気にかけてくれてる事を知っている。そこからおそらく、彼が魔法に何かしら関係しているだろう、と推察していた。
「綾瀬は知らないだろうが、一応うちの担任は業界で中々顔を利かせている有名人でね。おそらく世界樹の事で色々飛び回ってるんだろうさ」
屋上の欄干から世界樹を見る。緑は消え、枝だけが空を突かんばかりに伸びている。他の木々と同じ姿なのに、どこか寒々しい印象を強く抱かせた。
「状況は最悪だ。特に綾瀬、君とってな」
「……はい」
病気のため夕映は幽霊などに対し敏感だ。触れてしまえばその思いが流れ込み、最悪の場合、心すら壊れてしまう。
夕映は状況を良く理解している。
世界樹の状況が改善されない限り、淀みは増え続け、夕映にとっての環境は悪化していく。ましてや今麻帆良には殺人鬼までいるのだ。もし長谷川の霊化と殺人鬼に繋がりがあるのなら、容易に状況が好転しないのは明白であった。
「私としては転校を進めたい。魔法診療を受けるだけなら他の場所でも出来る。発作が起きたなら、連絡があれば私が――」
「嫌です」
そんな言葉を、夕映は最後まで聞きたくなかった。
「龍宮さん、私邪魔ですか? 迷惑をかけているのは知ってます。だけど、龍宮さんは私がいなくて――」
その瞬間、頭頂部にポンと手が置かれた。寒空の中、冷え切った真名の手が夕映の髪をゴシゴシと撫でた。
「よしよし。悪かったな綾瀬。なーに、これでも神社の巫女もやってるからな、雑霊の百や二百から君を守るくらいは出来るさ」
「う……うーッ! 子供みたいな扱いは止めてください! 私達は同い年ですよ!」
夕映は両手を挙げてブンブンと振る。同い年、とは言うものの夕映と真名ではかなりの身長差があり、姉妹と言っても通用するくらいだ。もちろん妹役が夕映である。
「はは、いやすまないね。どうにも綾瀬の頭は手が置きやすくてな」
暗に身長差の事を言っている様な気がして、夕映はふくれっ面をした。
「さぁ、秘密の話はお終いだ。寒いからいい加減校舎に戻って、帰る支度をしようじゃないか」
欄干の下ではぞろぞろと人が集まり、授業後に帰寮する『帰宅組』の集団下校が始まろうとしている。
「あ、急がなくちゃいけませんね」
慌てて屋上の入り口に向かう夕映に、真名が声をかけた。
「――綾瀬、長谷川の事は忘れろ」
夕映の足がピタリと止まった。
「長谷川さんを、ですか」
「あぁそうだ。君が長谷川に対し、引け目を感じているのは知っている。心の底では思ってるんじゃないか、幽霊となった長谷川を哀れみつつ、〝助けたい〟と」
「――ッ」
どこかそういう思いがあった。今日の数学の時間、夕映は肩にほんの少しの違和感があったのだ。おそらくあれは長谷川が触れるか何かしたものだろうと思う。
真名の言葉を聞く限り、周囲の人間は長谷川が触れても感じる事すら出来ないだろう。
長谷川の孤独を救えるのは、魔眼を持つ真名と、霊に敏感な自分しかいないのでは、と夕映は思っていた。
「やめておけ。きっとお互いが不幸になる。今は自分の事だけを考えるんだ。いいな」
「……はい」
真名の言葉は夕映を心配するが故だ。そのため無碍にも出来ず、夕映は納得出来ないまま頷くしか無かった。
◆
「し、失礼します」
「いらっしゃい、とでも言えばいいのかな」
その日の夜、夕映は寮の真名の部屋にお邪魔していた。
手には着替えや生活用品が入ったバッグ。肩には宿題のノートを含め、明日の授業のための用意が入ったトートバッグを下げている。
部屋はシンプルな装いだった。物は全て棚に収納され、最低限の小物しか視界に入らない。本好きのルームメイトと、創作活動が好きなルームメイトのせいで、雑然としている自室とは大違いであった。
「まぁそこらで楽にしててくれ。飲み物でも持って来よう」
「はぁ」
夕映は部屋の中央に置かれたテーブルの端にちょこんと座り、きょろきょろと部屋を見回す。部屋の大きさやベッドの位置は同じだが、真名達は三人部屋を二人で使っているせいか、空間が広く感じられる。
夕映の前にことんと緑茶が置かれた。
「ありがとうございます……そういえば桜咲さんは?」
「ん、刹那か。彼女はちょっと所用でね。今夜は帰ってこないよ」
刹那――桜咲刹那とは真名のルームメイトである少女だ。小柄ながら稟としており、武道に秀でているらしい。
真名と刹那は二人でこの三人部屋に住んでいる。以前聞いた話によれば、どうやらそれにも色々と理由があるらしい。
「刹那、か……」
真名の刹那への親しい呼び方を聞き、夕映の口から呟きが自然と漏れていた。
「ん、何か言ったか?」
「い、いえ。何でもありません!」
慌てて否定し、どうにか話を逸らそうと、思案を巡らせた。
「そ、そういえば良いんでしょうか。その、私が龍宮さんの部屋にお泊りなんてして」
「当分の処置さ。今となってはこの寮も安全圏では無いからな、とりあえず何かしらの対策が立てられるまでは、ここで寝泊りしてもらう。学校側にも連絡は入れてある。寮監に予備の寝具も用意してもらったしな」
と、真名が視線で示した先には、真新しいシーツが掛けられているベッドがある。
「少し不便だとは思うが、我慢してくれ」
「が、我慢だなんてそんな」
真名の要請により、夕映は当分この部屋で寝起きを共にする事になったのだ。ちなみに夕映は自分の部屋から荷物を持って出て行く時、嫌にニコニコとしたハルナに見送られている。
(う、う~。なんか緊張しますね)
夕映と真名の付き合いは二年に及ぶが、そのくせお互いの部屋を行き来したりはしていない。メールの交換などは頻繁にしていたが、それでもあまりお互いの領域に踏み込まなかったのだ。
周囲が驚くほどベタベタしたのはここ一ヶ月だ。もっとも本人達にすれば、必要に駆られて、という事になるが。
夕食も済んでいる時間帯とあり、二人は他愛無い会話をした後に就寝する事となった。
暗闇の中、夕映は真新しいシーツに包まり、慣れない枕に後頭部を静めながら、ぼーっと天井を見ていた。
(なんか不思議な感じがしますね。目が冴えて、眠れそうにありません)
そっと視線を横に向ければ、真名が寝ているベッドのふくらみがある。
「龍宮さん……」
「何だ?」
小さな呟きを即座に返され、夕映はビクリと肩をすくめた。
「起きてたんですね」
「昔の職業柄、眠りは浅いほうなんだ」
「そうなんですか」
夕映はこの部屋にあるもう一つのベッド、刹那のベッドを見た。どうやら本当に刹那は今夜帰って来ないらしい。
「桜咲さんもやっぱり、関係者なんでしょうか」
「あぁそうだ。刹那も色々あってね、複雑なんだよ」
また〝刹那〟だ、と夕映は内心ぼやく。
「龍宮さんは、桜咲さんと親しいのですね」
「そうだな。中学に入ってからの付き合いだが、お互い似ていてね。どこか親近感が沸くんだ」
「似ている? お二人がですか?」
真名と刹那、凛々しい雰囲気を二人とも持ってるが、他に似ているような共通点を夕映は見いだせなかった。
「……そうだな。綾瀬は『みにくいアヒルの子』を知っているか?」
「はい。アヒルの群れに紛れた一羽のひな鳥が醜い姿のためにイジメられ、逃げた先、白鳥の群れで自分が美しい白鳥だと気付く話ですよね」
「そのひな鳥は白鳥の群れに行けて幸せだったのかな。イジメられても、ひなが育ったのはやはりアヒルの群れだったはずだ。共に大きくなっていったアヒルと共に、ひなは生きたかったんじゃないかな」
人は産まれる環境を選べない。それでも産まれた土地には、環境には郷愁を持ってしまう。
「そうかもしれませんね。同じ姿の白鳥の群れに辿り着いた時、ひな鳥は安堵したかもしれません。でも、やはり悔恨はあったはずです」
「――そういう事だ。私も刹那も難儀なものでね。色々とその郷愁ってやつがあるのさ」
真名はそう言って話を打ち切った。夕映は何となく察した。真名の肌の色は日本人のそれと明らかに違う褐色。そして魔眼、どうやらあの力を持つ人間は稀な様である。
そういう種々の事から推察すれば、真名の言いたい事が分かった気がした。
それでも――。
(龍宮さんはそういう苦しみを、桜咲さんと共有しているのですね)
チクリと胸が痛んだ。
その痛みを、夕映はこの時吐露すべきだったが、静謐な空気漂う部屋の中で口を開く事が出来なかった。
夕映は後々まで、その事を後悔する事となる。
◆
次の日からは二人きりという事は無く、刹那を含めた三人での共同生活が始まった。
教室にいる時は常にクールな印象を抱かせる刹那だったが、部屋で真名と共にいる時はくだけた物言いもする、打ち解けた雰囲気を醸し出していた。
夕映も表面上はいつも通りに対応していたが、どこか心にもやもやするものが溜まっていった。
それを吐き出す機会は訪れず、夕映が一方的に距離感を感じ続けたまま、運命の日は訪れた。
集団下校での帰り道。日が短くなった最近では、この時間でも薄暗くなってしまう。
真名と刹那が談笑する後ろで、夕映は口数少なくくっ付いていた。
どうにも二人の会話に入っていく気が起こらず、夕映は気を紛らわすように視線を遠くに向けた。
(あれは――)
路地裏を走り抜けていく人影。その横顔を夕映は知っていた。
(長谷川さんッ!)
自然と足がその方向へ向いていた。
幸か不幸か、真名に悟られる事も無く、夕映の体はスルリと路地裏に滑り込んだ。
真名も完全な人間ではない。この数日、夕映は常に共にいた。そのため自分の近くにいる事を当たり前だと認識していたため、夕映そのものへの警戒が緩んでいたのだ。
真名がその事に気づいたのは、ほんの数分後。しかしその数分こそが、取り返しのつかない事態を呼び込んだのだ。
◆
息を荒くしながら路地裏を走る。
普段の夕映だったらしない様な無謀な行いだったが、今の彼女は冷静さを欠いていた。
吐く息は白く、冷気が喉元をキリキリと締め付けるようだった。
長谷川の姿はもう見えない。
しかし、夕映は確かに見たのだ。彼女を追いかける事は、寂しさに、孤独に打ち震える自分を助けるような代償行為だったのかもしれない。
やがて足は重くなり、止まってしまう。
「はぁ……はぁ……」
鞄を地面に置き、手を壁に付いて息を整える。
薄暗い路地裏には表通りの街灯の明りは届かない。頭上に見える狭い空の色は青から紺へと変わっていた。
「何をやっているのでしょう、私は……」
馬鹿馬鹿しさが心に沸き起こる。長谷川を見た時の咄嗟の衝動、それは真名に戒められていた事のはずだ。
「怒られてしまいますね。それとも愛想を尽かされてしまうのでしょうか」
愛想を尽かされる。その想像をした時、夕映の体を強い悪寒が走る。
孤独、不安、恐怖、それらが無い混ぜになった感情が溢れてくる。
(まさか――だって発作はこの前――)
発作の感覚は数ヶ月から半年。前回の発作からまだ一ヶ月しか経っていない。
夕映は発作の衝動を感知し、ドクドクと脈打つ自分の心臓の音を聞いた。極度の緊張感から震える手で、携帯を取り出そうとする。
「は、はやく連絡を――」
その時、携帯に着信が入った。着信音から真名だと判断出来た。
「龍み――」
着信ボタンを押すまでに至らず、夕映の『幽霊病』は、体の幽体化を始めてしまう。
ほんの一瞬であった。夕映の体も、服も、手に持っていた携帯ですら、瞬時に空間から消えうせ、ただそこには夕映の意識だけが残留した。
剥き出しになった心が、負の感情によりないまぜになっていく。吹雪の中に裸で立っている様な、嵐の海で何の目印も無く船を進めるような、そんな恐怖が夕映を覆いつくす。
声は出ない。
こうなったら夕映はもう待ち続けるしかないのだ。
何秒、何分、何時間経ったのか。
それでも、彼女は来てくれた。
いつかの様に息を切らしながら、必死になって自分を探してくれたのだ。
「――ふぅ、まったく。君にはいつも困るな」
路地裏に立つ真名は、地面に置かれた夕映の鞄を確認し、夕映が居るだろう方向へ視線を向ける。
「いなくなった矢先にまた発作か。だから私の傍にいろと言ったのにな。まぁ、いい。お説教は帰ってからにしよう」
そう言いながら真名は微笑んだ。
真名の安堵は、剥き出しになった夕映の心へも伝わる。じんわりと温もりが広がり、夕映を落ち着かせた。
「さぁ、帰ろう」
真名の瞳が淡い光を灯し、彼女の手がそっと夕映へ向けて伸ばされる。
存在しないはずの夕映の肌に触れ、彼女は言葉を紡ごうとした。
「綾――」
黒いもやが、真名の背後で瞬時に男性の形を作った。手にはナイフ。薄闇の中、ナイフが創り出す光の軌跡が、真名の右手首を切断する。
吹き出る鮮血。
「ぐぅッ! なッ――!」
真名は慌てて振り向く。至近距離に立つ男。戦場を長く経験していた真名にとっては、ありえない失態。
男の顔は暗闇に包まれて分からない。
激痛を押し殺す。真名は無事な左手を懐に入れ、拳銃を取り出した。同時に魔眼で男の正体を見極めようとするものの――。
(何だコイツはッ!)
瞬時に麻帆良を騒がせている殺人鬼が思い浮かんだ。
男に肉体は存在してなかった。怨霊に近い。概念とも呼ぶべきものが寄り集まり、人の姿をかたどっているだけである。
(ki……ller? キラー? 名前なのか?)
男の体内を魔眼で見た真名には、その概念の中心に浮かぶ幾つものアルファベットを見つけた。
ためらい無く引き金をひく。放たれた弾丸には破邪の効果もある。男に命中したが、弾丸は全てすり抜けるように背後の壁に突き刺さった。
男は真名の右手首を広い、体にスルリと飲み込んだ。空洞の様な目が笑っている。ギュルリと視線を真名の瞳に合わせて、更に笑みを強めた。
「ちぃッ!」
ズキズキとした痛みが、真名を冷静にさせてくれた。
背後には動けないたゆたう夕映がいる。ただ呆然と成り行きを見詰めるしかない夕映は、恐慌を起こしていた。
この場を動くわけにはいかない。それが真名の決断だった。
なぜならば、目の前の男は夕映をもチラチラと見ているのだから。魔眼を持ってしてやっと見える夕映の幽体を、男を見ることが出来ている。
本来機敏な機動力を活かしながら、間合いを取って攻撃するのが真名の戦闘スタイルである。それが封じられていた。
男は顔を真名の鼻先にまで近づけ、空洞の瞳でジロジロと彼女の瞳を見つめた。
「違ウ。コレジャナイ、コレはあのヒカリじゃ――」
男の口元から、ブツブツと声が漏れた。
興味を失った男は、今度は夕映を見つめた。存在しないはずの夕映にしっかりと焦点を合わし、ニタリと微笑みながら、手のナイフを振り上げた。
振り下ろされたナイフは肉を抉る。
虚空に抱きついた真名は、自らの背中で夕映を守ったのだ。
じょぶじょぶと肉を掻き分けるナイフ。黒いもやが真名の体へと入っていく。
「がぁぁぁぁぁあああああ!!」
真名の絶叫。
夕映の恐慌は極限に達し、存在しない瞳は恐怖一色に染まった。
男の顔が夕映の視界いっぱいに広がる。空洞がつまらないものを見たように興味を失った。
「違ウ違ウ。コレモ」
その時、男は驚いた様に首をすくめ、キョロキョロと周囲を見回した。
「見ツケタ」
どこか遠くを見つめた後、男は喜びを露にしたたままもやになって消えた。
静寂が路地裏に戻ってくる。
――静寂では無い。
真名の荒い息遣いだけが残っていた。それは命の吐息だ。
夕映はただ視界で息絶えようとしている真名を見つめるばかりだ。
彼女の背からは血が溢れ、背骨すら剥き出しになっている。
いや、剥き出しの骨も消えていた。真名の背中にキラキラと小さな光の粒子が舞う。
真名の体がゆっくりと、光の粒子に変わっていく。
ピクリ、と指が動いた。
「……はは、参ったな。あの殺人鬼、只者じゃないよ。まさか私の魂まで喰らうとはね」
魂。それは真名にとって核だった。心臓よりも大事な、彼女自身を証明する存在。
口から血が溢れる。地面を這うようにして、夕映へ近づく。
「それでも、君が無事で良かった」
背中だけでは無い。足先も消え始めている。
光の粒子は風に乗り、淀みきった麻帆良中へと散らばっていく。
真名は存在しないはずの夕映の頬に手を添えた。
「私はね、きっと、君が、羨ましかったんだ。所詮、私は、醜いアヒルのなんたら、ってヤツでね――」
声はか細く途切れ途切れだ。
「でも、君と共にいたいという思いは、きっと、そんな事とは、関係なかったのだろうね」
真名の額と、夕映の額が重なる。
「急な事で、君は悲しむだろう。だからこそ、これはお礼さ――」
瞳の明りが小さくなり、代わりに夕映の中へと何かが流れ込んでいった。
「ありがとう、〝夕映〟――」
肌に触れ、名を呼ぶ。それはエイドス消失症候群と呼ばれるこの病の、唯一の特効薬。
夕映の体が徐々に構成されていく。代わりに真名の体は消えていった。
目から涙を溢れさせる夕映に対し、真名はにっこりと笑い、何かを話そうとするが――。
風が吹いた。
その小さな風が、光の粒子となった真名の輪郭を全て吹き飛ばした。
「あっ……あっ……」
笑顔は砂絵の様に消える。
夕映は愕然と膝を突いた。そして自らの顔を両手で強く掴む。爪が頬に、額に食い込み、血が溢れてくる。
「あああああああああああああああああぁぁぁぁぁ!!!」
慟哭が響く。
夕映はまるで狂ったように叫んだ。
瞳が淡く光っている。
そして夕映は流れ込んできたモノの意味を理解していく。それは記憶だった、真名の断片的な記憶。
彼女を構成していた、僅かな欠片。
「あぁぁぁぁあああああああああああ!!」
――果たして切っ掛けは何だったのだろうか。
悔恨がとめどなく責めぎたてる。周囲に溢れる血には、まだかすかな温もりが残っていた。
――そっと彼女の肌に触れた時の喜びを、どう表現すればいいのか分からない。
夕映が困った時、寂しくなった時、彼女はいつの間にかそっと手を握ってくれた。
――ただ失われていく、その温かみをすくい取る事が、今の自分に出来る最善であった。
しかし、もうその手は存在しない。
――願わくば――。
心が思いを巡らしていく。
慟哭は途切れなく続きながら、夕映は受け継いだ知識から、希望を掬い取ろうとした。
(――魔、――召喚、――禁呪、――代償、――魂)
周囲の血は冷めていった。再び温もりを得るために、夕映は心を壊していく。
慟哭はやがて笑い声へと変わっていた。
「ははははははあはああははははははは!!!!」
数分後、駆けつけた刹那が見たのは、血の海で膝を突き狂ったように笑い続ける夕映の姿だけだった。
◆
遠く、この麻帆良のネットワークからその光景を見つめる一人の少女がいた。
「アナタは、やはりどこでも不思議な目を持つのですね」
黒い髪を肩口で揃え、不気味なくらいに白い肌を持つ少女は呟く。
「そして、アナタも――」
もう一つのモニターには、栗色の髪をした少女が映っていた。受け継がれるべきものは受け継がれていた。ただ発芽が遅かっただけ。
そう、たったそれだけなのに。
少女は表情すら変えず、そっと瞳を閉じた。
ユー・タッチ・ミー 了。
●キャラ紹介
・ユーさん(夕映)
なんか良く分からない病気の人。
ラストで完治。良かったね。
・タッチミーさん(龍宮)
復活フラグが立ったよ。
・遺影の人
とにかく役に立たない。出番も無い。
・黒い髪の少女
『世界』の方が進むと分かるかも。
現時点で察しちゃう人がいたら異常。
・killerさん
手首大好き。
●あとがき
なんか書いてみました。
ついでに『追憶』の続編というのを明記しておきました。
この『追憶』関連では色々実験してるのですが、今回の話だとほぼ二人の人間の会話分だけで話を構成してみよう、というものをやってみました。
作者はどうしても地の文に頼りきりになってしまうクセがあるので、逆にセリフ量を多く意識してみました。
大体二人がダベっておしまいって感じです。