追憶の長谷川千雨 3
ぽやぽやとぼやけた意識を振り払う。
なんだかいつの間にか寝ていた様だ、と千雨は思い出す。
どうにも記憶が曖昧だった。なにか恐ろしい『夢』を見たような気がする。
(いや、今はそれどころじゃないな)
なにせ授業中だ。
さすがに板書もせずにしていたら、教師から大目玉を喰らうだろう。
「あれ?」
そう思い、黒板を見て違和感に気付く。
(あんな公式やったっけ)
数学の時間、黒板には見覚えの無い公式が書かれていた。前回やった授業とは大分違う。
(おかしいなー、もしかして教師がページ間違えてるんじゃ)
周囲を見渡すが、クラスメイトの誰もが普通に板書をしていた。こういう時に率先して教師に質問をする雪広あやかも、平然と授業を受けている。
(え? もしかしてあたしって遅れてるのか? もうすぐ期末だってのに、得意な数学すら付いていけないなんて――)
思わずショックを受ける。
そこで更に衝撃的な事に気づいた。
黒板の端に書かれている日にち、それは――。
「じゅうにがつ……」
十二月。窓の外は曇天模様で、まさに冬といった様相をしていた。
(いや、だって昨日まで十一月だったろ、なんでもう十二月。それにこの日にちじゃ期末なん
て終わってるし。あたしは期末を受けた記憶なんて――)
自分のノートを確認しようと、机を見た。だが、そこにノートなど無い。
あるのは花瓶と、花瓶に挿されている一輪の菊の花だけだ。
「えっ――」
千雨は言葉を失う。思考すら固まった。
周囲のカリカリというノートとシャープペンが擦れる音と、教師のボソボソと喋る声だけが響く。
「おい! これは何だよ!」
千雨は立ち上がり叫んだ。だが、周囲は無言。千雨の声にも一顧だにしない。
「くっ――」
その反応に、千雨は恐怖する。まるで周囲の人間には自分が見えてない様な――。
「おい、綾瀬。これはどんないたずらなんだよ、悪趣味すぎるぞ!」
隣の席の綾瀬夕映の肩を強く揺する。しかし、小柄なはずの綾瀬だが、まるで岩の様に硬く、微かにしか体は揺れなかった。
「なんか言えよ、頼むからさぁ!」
綾瀬を諦め、周囲の人間に呼びかけるも無言。
「くそ! くそ! どうなってるんだ!」
千雨は教室を飛び出すために、後ろのドアを開けようとするが。
「くっ、堅い」
まるで引き戸が接着剤で固定されている様だった。
だが全身の力を振り絞り、体重を掛ける事で、引き戸が少しだけ開いた。
「よし!」
どうにかその隙間に身を滑らせ、千雨は廊下に飛び出した。
◆
綾瀬はピクリと体を震わせる。違和感、それはここ最近無かった感覚だった。
驚きを隠しながら、綾瀬はクラスメイトである少女に視線を送る。褐色の肌に黒い瞳。
その彼女がコクリと頷いた時――。
ガラリ、という音。ドアが開かれた音だった。
クラス全員が後ろを振り返る。
「え、何? 今の音」
「何でドア開いてるの」
「おいおい、誰だ誰だ、ドアを開けた奴は」
クラスの喧騒を、教師がピシャリと押し留めた。クラス内を見渡すが、誰一人欠席はいないし、教室を出て行った生徒もいない。
だが、教室の後ろのドアは少しだけ開いていた。
引き戸とはいえ、風で動くような代物では無いだろう。
「お、おい。誰がやったんだ。今言えば先生は怒らないぞ」
廊下に人影も無い。足音もしなかった。ただドアだけが動いたのだ。
「嘘! マジでドアだけ動いたの」
「だって誰も席から離れなかったじゃん」
「も、もしかして――」
クラスメイトの視線が一つの席に向けられた。
花瓶が置かれた席、そこは先日殺人事件に巻き込まれた少女の席だった。
「ま、まさかー」
「いや、でもそれくらいしか」
「お喋りはそれくらいにしろ! 先生はこういうイタズラは嫌いだぞ! やった者はさっさと白状なさい」
教師の言葉に再び皆が黙り込む。
ドアが開いた時、クラスの全員が前方の黒板を見ていた。ただ二人を除いて――。
そのうちの一人は、無言ながらもその現象に内心驚いていた。
だが、周囲に話す事はしない。なぜなら、彼女には確信があったのだ――。
◆
千雨はどうにか学校を抜け出し、街中に来ていた。
あの場所にいたら気が狂いそうだったからだ。
「なんなんだ。本当にわけわかんねぇ」
街を歩く人達は皆厚着をしている。そんな中、千雨だけはブレザーにスカートといういつも通りの制服だ。しかし、不思議と寒さは感じなかった。
通りすがりの人物は、千雨の姿を見ても不思議に思わない。いや、まるで視界にすら入ってないかの様に。
「おい、まさか。嘘だろ」
試しに近くの人間に話しかけてみる。
「なぁ、おばさん。あたしが見えるよな! なぁ!」
買い物をしに着たのだろう、手にエコバッグを持っている中年の女性は、千雨の声に一切反応しない。それどころか顔の前で手を振っているのに、瞬きすら自然なままだった。
「は、ははは。どうなってんだよ……お父さん、お母さん、助けてよ」
弱気になって呟き、気付く。そうだ、両親に連絡をしよう。
「携帯電話、携帯……」
スカートのポケットに〝右手〟を突っ込む。
「は……」
何故今まで気付かなかったのだろう。右腕の先、ブレザーの裾から先には〝何も無かった〟。
文字通り、右手首から先が、綺麗に切断されていた。
そうだ、綾瀬の肩を揺すった時にも、教室のドアを開けた時にも、右手は使っていなかった。
「う……あ……」
混乱。グルグルと思考が逆流し、記憶を刺激する。千雨の網膜に、あの時の出来事がまざまざと蘇った。
「そうだ、あたしはあの時――」
逆光の中の男性、体を巡る激痛、黒猫、血、大振りのナイフ、刃の光、口に詰められた布、骨が削られる音。
「あたしは、死んでいるのか――」
体から力が抜ける。
千雨は地べたに座り込んだ。冬にも関わらず、地面の冷たさすら、今の千雨には伝わらない。
◆
千雨は通りの中央で、呆然としながら座り続けた。
猛烈な孤独感に襲われ、とても人のいない場所に行く気になれなかったからだ。
ここに居たからといって、誰かに気付いてもらえるわけではない。それでも、人波に埋まる事で、少しだけ渇きが癒えた気がする。
あの時の光景がフラッシュバックする度に、恐怖が蘇ってくるのだが、不思議と恐怖は少しずつ和らいできた。
座りながら自分の持ち物を確認するが、ポケットの中には何も入っていなかった。
右手が無くて不便だったが、体中探したものの、携帯電話も財布も寮の鍵も無い。
「どうしよう」
「自分が幽霊だ」という想像も、現状を省みれば信じざるを得ない。そしてそれを自覚すると、誰かの携帯電話を使えばいいのではという結論に行き着く。
「そうだ、緊急事態なんだ。多少我慢してもらおう」
とにかく両親の声が聞きたかった。
近くを歩いている不良の様な男子高校生を見つける。不貞の輩なら、多少罪悪感も紛れると思い、彼の後ろポケットからはみ出る携帯電話を取ろうとした。
「悪いが、借りるぜ」
携帯電話を手で掴むも、その堅さにビックリした。まるでポケットに完全に固定されている様だ。
「ちょ、どうなってやがる! この、くそ!」
携帯電話を掴んだまま、千雨は男子高校生にずるずると引っ張られる形となる。
そして地面に盛大に転んだ。
「う、嘘だろ」
男子高校生は普通に歩いており、千雨が携帯電話に触れた事すら気付いてなさそうだ。
「クソ、クソ。どうすれば良いんだよ」
帰りたい、そういう気持ちが沸く。そして、自分の寮の部屋が気になりだす。
「そうだ! あたしの部屋!」
千雨は寮を目指して走る。
いつの間にか日は沈み、周囲は薄闇に覆われていた。
まるであの日の様だ。とは言っても、千雨にとってはつい先ほどの様に感じられるが。
あの時とは違う、安全な道筋を進みながら、女子寮へとやってくる。
エントランスは自動ドアだ。案の定、千雨には反応しない。
「……待つか」
千雨は誰かが通るのを待った。五分ほど経ち、ちょっと買い物にでも行くのだろうか、財布を持った二人組みの女子が、内側から自動ドアを開けた。
「今だ!」
二人とすれ違う形で、千雨は女子寮へと潜りこんだ。
ずんずんと廊下を進みながら、自分の部屋へと向かう。
見慣れたドアの前で、千雨はとりあえずドアノブを回してみた。だが、堅くてピクリとも動かない。
部屋の鍵も無い。
「どうしよう」
インターフォンを押せるか分からないが、どうせ中には誰もいないだろう。
千雨は苛立ちを隠そうともせず、ドアを蹴った。
「この! クソ! なんで! あたしが! こんな目に! 遭うんだよ!」
蹴りながら、目に涙が溜まっていった。
だが、千雨が全力で蹴ったせいか、ドアが少しだけ動いた。カチカチと金属が擦れる音がした。
そして、内側からガチャリという音が聞こえる。
「え?」
鍵を開ける音。まさか住人がいるのか、と目を見張れば。
開けられたドアの先には、千雨の寮での相方――同居人が立っていた。
どうせ見えまい、とタカをくくり、ドアの隙間から内側に入ろうとするも。
ガツン、と見えない壁の様なモノに千雨はぶつかり、痛みにうずくまってしまう。
「な、なんだこれ」
ペタペタと触る。ドアは開いているのに、ドアを境に透明な壁が存在していた。
そして、千雨の同居人がそんな〝千雨を見ていた〟。
「え?」
千雨は同居人の視線に気付く。
「お前、まさかあたしが見えるのか」
千雨は自分を指差し、相手に呼びかける。同居人はコクンと頷いた後、ドアを開いて千雨を招き入れた。
――《寮の部屋の入室許可》を入手しました。
◆
千雨は部屋に入り同居人――ザジ・レイニーデイを見つめた。
彼女は今日、初めて千雨と視線を合わせた人物だった。
「お前、本当にあたしが見えるんだな。良かった、良かったよぉ」
うわぁ~ん、と涙を流しながら、千雨はザジに抱きつく。
ザジは千雨の背中をぽんぽんと擦った。
熱を今まで感じなかった千雨だが、ザジの体の暖かさだけは感じられた。その暖かさは、千雨の存在そのものを包み込んだ。
十分ほど達、千雨はザジから離れた。
「うぐ、すまねぇ。でもあたし嬉しくてさ」
涙を流しながらも、千雨の顔には苦笑いが浮かんでいた。
「なぁザジ、あたしはどうなったんだ。あたしが死んだのはわかったんだが、それから今まで何があったんだ」
千雨は口早に質問するも、ザジは首を傾けるばかりだ。
「おい、何とか言ってくれよ!」
また不安が過ぎる。
「おいってば!」
「ごめん。聞こえない」
ポツリ、とザジが言葉を漏らした。
「え、聞こえない?」
千雨は自らの口元を指差す。そうするとザジはコクコクと頷く。
「あ、あたしの姿は見えるが、声は聞こえないっていうのかよ……」
せっかく光明が見えたと思ったが、反動で再び落ち込む。
「で、でも。だったら――」
部屋を見渡した。だが、部屋の中に物は少ない。
本来、千雨の私物が大量にあるはずなのだが、千雨の物だけ綺麗に無くなっている。おそらくこの一ヶ月の空白の間に片されたのだろう。ザジの私物が少し置いてあるばかりだ。
ザジは普段、麻帆良に常設されているサーカス団で寝起きをしている。一応学園の規則上、寮生活を送っている形になっているが、学園から特別許可を貰い、あちらでの生活を主としているのだ。
そのためザジの私物は少ない。幾つかの着替えに、部屋に最初から置かれている勉強机とベッドの上に、幾つかの小物が載るばかり。
千雨はザジの机の上に目当てのものを見つけた。
ボールペンとメモ帳だ。
「ちょっと借りるぜ」
千雨はボールペンを掴むが、とんでもなく重い。
「な、なんて重さだ」
力を振り絞り、どうにか持ちながら、メモ帳に何かを書こうとする。されど、インクはまったく出なかった。
「ふ、不良品かよ!」
ザジが横からポイ、っと千雨の持っているボールペンを取った。メモ帳にペンを走らせれば、さらさらとインクの跡が残る。
「あ、あれ。普通だな」
千雨は腕を組んだ。一体どうなっているんだろう。
「このボールペン、あげる」
「え?」
ザジにボールペンを手渡しされた。そうしたら、先ほどまで重かったボールペンは、普通と同じように片手で悠々と持てていた。
――《ザジのボールペン》を入手しました。
「おぉ、今度は書ける」
幸い千雨は左利きだ。右手がないために紙は押さえられないものの、ザジが協力してくれた。
さらさらとボールペンで書ける事を確認した後、千雨は筆談でザジに聞ける事を片っ端から聞いていく。
千雨が殺された後、麻帆良はやはり大騒ぎになったらしい。
一週間ほど学校は休校となり、部活禁止令も出された。
その間に、千雨の告別式も隣の市で行なわれ、クラスメイト全員が参加してくれた様だ。
ちなみに千雨の両親は、麻帆良の隣の市で生活している。電車で十分もかからないだろう。だからこそ、麻帆良での幼稚舎からの一貫教育を受けさせているのだ。
寮の同居人であるザジにも、千雨の両親は挨拶に来たらしい。そして部屋の遺品の片付けも一緒にやったとか。
「だから何も無いのか。つか、あたしのパソコンにコスチュームも」
死んだ後とは言え、まさか自分の秘密の私物を両親に見られるかと思うと、羞恥が走る。
その後はいつも通りに時間は過ぎたとの事。どうやら、またもや犯人は捕まってないらしい。
「まだ、捕まってないのか」
ギリリ、と残った左拳を握り締めた。
そして異常があったのは今日だったらしい。ザジが言うには、ふと気付いたら授業中に千雨が席に座ってたらしい。
最初は驚いたものの、まるでホログラムの様に揺れ、少し経ってから形が保たれたらしい。
だが、クラスの誰もが千雨を見ない。ザジも最初は幻覚か何かと思ったが、教室のドアが開いた事で、千雨の存在を確信したらしい。そしておそらく千雨が寮の部屋に戻ってくる事も予測し、珍しくこの場所で待っていたとの事。
「そっか。お前はあたしの事見えてたのか。そりゃ教室であたしの事指摘されたら変人扱いだよな、まぁとにかくありがとう。待っててくれてさ」
ペンでさらさらとお礼の言葉を書くと、ザジはコクンと頷いた。
「でも、なんでザジだけ見えるんだ。他にも誰か――」
と思い考える。誰が自分を見てくれるのだろう、親しい人物だろうか。クラスでザジ以外に親しくした人間がいただろうか――いや、いない。大抵の場合、千雨は一人で行動していた。
そのため、週に数回だけ部屋に帰ってくるザジと、一番行動を共にしていた気がする。
「……ぼっちだったからか」
ズーン、と重い沈黙が過ぎった。声は聞こえずとも、ザジもなんとなく察したらしい。
落ち込む千雨の頭を、無言のまま撫でた。
「これからどうしよう」
千雨は考える。自分が死んだという事は、痛いほど良く分かった。
ならば、なぜ自分は幽霊などになったのだろう。そしてこれから何をすればいいのか。
ザジが気を利かせて、部屋に備え付けのテレビの電源を入れた。
映ったのはニュース番組、そして千雨の写真だった。
「あ、あたし――」
ザジがチャンネルを変えようとするのを、千雨が制した。そしてモニター画面をじっと凝視する。
ニュースキャスターが、千雨について話している。どうやら麻帆良の殺人事件の特集をやってるらしい。
件の名物学園長が映り、千雨を「優秀で社交的な生徒だった」などと言っていた。
今度は告別式の映像に切り替わり、クラスメイトが参列している。
そしてその中央には遺影を抱えた千雨の両親がいた。
「お父さん、お母さん」
また涙が溢れた。
二人は気丈に振る舞いながら、報道陣に向けて頭を下げた。
マイクを向けられると、どうにか言葉を綴って答えていたが、途中で泣き崩れてしまう。
「うぅ……うわぁぁぁぁぁ」
床に千雨の涙がぼたぼたと落ちる。だが、涙は床に触れると綺麗に消えてしまった。
ほんの数分程の映像だったが、それだけで充分だった。
泣き崩れる千雨の背中を、ザジはまた撫で続けた。ザジには千雨の嗚咽は聞こえない、だが聞こえなくても分かっていた。
ふと声が聞こえた。
――〈千雨、お前はそうやって泣き続けるのか〉
違う、このままでいられるか。
悔しい。一方的に何もかもを奪われたのが悔しい。
千雨の中にある『夢』の断片が、様々なモノを千雨に見せ始めた。その多くが理解できない。されど、その中に光るモノだけはわかった気がする。それは自分も持っていた。
「そうだ終わらせない。終わらせるか!」
唯一残った左手で、自分の胸元を強く叩いた。
目に、微かな光があった。意志、千雨が貫き通そうとする、〝光〟の断片。
自分を殺した男のシルエットが過ぎった。あの男、自分の右手を奪い去った男。
考えると、傷口がずきずきと傷んだ。
その痛みが、ぼやけそうになる思考をクリアにする。
自分は死んだ、だが存在はしている。
奇跡としか言えない可能性。それでも、まだやれる。
「あたし――いや、〝わたし〟が捕まえるんだ!」
テレビには、千雨が襲われた現場が映されていた。それを凝視する。
そう、まだ終わってはいないのだ。
了。