「これが最後の機会だぞ夏音。いいのか……? ほんとにやっちゃって」
こんなに重苦しい声を律が出すのは珍しかった。ぴりぴりとした緊張感が漂うその場には、軽音部の面々が固唾をのんでその様子を見守っていた。
「うん、やって」
「でも! もし失敗したら!」
演技がかった口調で律が言う。傍らには唯が「むむむ……」といつになく真剣な表情で唸っていた。
「いいんだ! 早くやってくれ! どうなっても文句は言わないし、いざとなればその時さ!」
「……わかった。じゃあ、いくぞ……」
律はごくりと唾を飲み込み、えいやと夏音の髪をつかんだ。
「……っ!! ッッッカァーーー!! 塗っちまったよーんー!! もうわたしゃ知らんからなー!」
吹っ切れたように、プラスチックの皿の上に盛られたカラー剤の山にブラシを突っ込んだ。
それを夏音の長い髪に塗りつける。その繰り返しであった。
「どうせなら美容院でやってもらえばいいのに……」
唯がぼんやりと作業を見ながら言った。
「なんだか、もったいない気がしてならないです」
梓が残念そうな声を落とす。その隣で頬に手をあてたムギがため息をついた。
「学校で何か言われないかしら?」
「でも、元の色に戻すだけなんだから大丈夫じゃないかな」
「一回色を抜かなきゃいけないし、大変そう」
背後で他人事のようにそんな会話を繰り広げる仲間たちの方へ振り向いた律が、たまらず叫んだ。
「暢気に話してないで、手伝え~!」
うっすらと涙目なのは、ブリーチの刺激臭のせいである。立花家の風呂場にこの面子が揃うことは初めてだ。
事の発端は夏音が、「頼みがあるんだけど」ともの申したことがきっかけだ。一同はその頼みとやらに「また、何か突拍子のないことだろう」と考えを浮かべたが、まさに当たっていた。
休日に夏音の自宅に呼び寄せられた少女達は、「これこれ!」と並べられた道具に目を奪われた。
それは、少女達の目からしても何を行うために必要な道具かは一目瞭然だった。
ゴム手袋、アームカバー、ケープ、ヘアクリップ、コーム、ブラシ、イヤーカバーにラップ。浅いプラスチックの皿が重ねられ、何よりも存在感を醸し出すチューブ容器。
「はぁ……なーにをさせられんでございましょ」
気の抜けた声を出した律の肩越しに、それらの道具をのぞき込んだ唯が「イメチェンでもするの?」と質問をした。
夏音は唯を見つめ、しかりと頷いた。
「イメチェン、というのが正しいのか知らないけど。カノン・マクレーン・カムバックキャンペーンの一環です」
沈黙しか生まれなかった。流石に五人分の苦笑を返された夏音は、気まずく目をそらす。
「調子乗ったっス。俺、髪の色を元に戻そうと思ったの」
「まあ!」
ムギがぽんと手を叩いた。何かを閃いた時の輝きが瞳に宿っている。にこにこと微笑んで、夏音を見つめた彼女に視線が集う。
「それで、カムバック! なのね?」
「……ハハ」
乾いた笑いが左右で起き、夏音の顔が真っ赤に染まった。
「自分で言ったけど、恥ずかしい……」
流れたはずの傷手を抉られた気分だった。流石、天然。おそるべし天然、などと思われていることに気づかないムギは「?」と周りの反応に首を傾げていた。
「ようするにカラー手伝えってことだろ? めんど」
ばっさりと切り捨てる律の反応は想定内だ。そして、夏音は彼女たちの扱いを心得ていた。
「ただとは言わない。ただより怖いものはないっていうだろ?」
「まあ……頼む側が使う言葉じゃないけど」
「冷蔵庫に、ケーキが1ホール入っている。どこのケーキか、気になるだろ?」
「ど、どこのか……聞いてあげよう」
ごくりと唾を飲み込んだ唯に、夏音は厳かに言い放った。
「TAKAーMAーGAHARA」
それは魔法使いが放つ幻惑の魔法のような響きを少女達にもたらした。
「我ら一同、お引き受け申し上げるゥゥゥ!!」
跪く勢いでいの一番に叫んだ人間が誰だったかは、想像に任されよう。
「うん! こんなところかな? 後は時間待って流すだけだな」
澪の言葉を聞いて、夏音は心底ほっとした。
先ほど、ブリーチをしている間は色々とひどかった。
あまりの痛みに耐えかねて、洗い流そうとした所を取り押さえられることから始まったのである。
そして、夏音はそれどころではなかったが、薬剤が効果を発揮するのを待つ間はまったりとお茶の時間となった。
昼のバラエティ番組を見ながら、目当てのケーキにありついた少女達はとても幸せそうだった。
うっすらと涙目の夏音が同席しようとすると、「臭いからあっちで食べて」と追い払われ、本格的に泣きそうになったりした。
肉体的にも精神的にもつらい時間が過ぎ、ようやく見事に色が抜け落ちた髪を確認できた時は歓声が上がった。
地味な作業を強いてしまったが、彼女たちにとってもこうしたカラーリングの経験は物珍しく、興味深いものだったようだ。
「すごーい! ほんとに落ちてるー!」
「ははっ。なんか、漫画のキャラクターみたいだな」
「髪痛んでるわー。トリートメントしないと」
「は~」
各員の反応、そしてしばらくおもちゃにされる時間をじっと耐え、痛みから解放されたことへの喜びを噛みしめた夏音であった。
「さ、次いこうか」
「え、もうやだ」
次の薬剤が四方から、間髪入れずに夏音の頭に塗りたくられた。
終わってみれば何ということはない。最後にトリートメントを洗い流した夏音は、風呂場を出てから、そそくさと髪を乾かした。
この長さとなれば、髪を乾かすのも一苦労である。その作業を淡々とこなす間は何も考えない。黙々と髪が乾ききるのを待つ。
視界に入ってくる自分の髪の色に、少しだけぎょっとしてしまい、苦笑する。以前は、当たり前だったのに、おかしな話だ。
髪を黒くしてから、ずいぶんと長い時間が経っていたようだ。
手触りで、だいぶ乾いたと判断した夏音は思い切って顔をあげた。
「………久しぶり、かな」
そこには、数年ぶりに出くわした自分がいた。苦笑いなのか、照れ笑いなのかよく分からない表情を浮かべて立つ少年。
たとえ、日本ですれ違った人がカノン・マクレーンを知っていたとしても、よほどのことがない限り、気づかなかっただろう。
それほど、髪が黒いのと金髪とでは印象が違う。別人と言ってもいいほど。
「夏音くん、もーういーいかい?」
唯の声が扉の向こうから聞こえた。
「もーいーよ! たぶん」
「ではでは~。お披露目ターイ……む?」
いの一番に脱衣所に飛び込んできた唯が、固まる。
「サイヤ人みたい!」
その感想に夏音はずっこけそうになる。続いて入ってきた律が物珍しそうに夏音の髪に触れる。
「へー、どれどれ。ほぉー! 思ったより綺麗に入ったなー!」
「これって夏音くんの元の髪色に近いのかしら?」
次々と髪に触れては、感嘆する少女達であった。夏音は、改めて鏡に視線をやって自分を観察する。
記憶の中の自分は、確かにこんな髪色をしていた気がする。
「うーん……上手くいった、のかな?」
「なんで疑問系?」
「ちょっと自信がなくてさ」
「あ、先輩。そういえばテーブルの上に置きっぱなしだった携帯着信がすごかったですよ」
梓が夏音の携帯を持ってきてくれたらしく、夏音に手渡す。
「誰だろう……げっ」
明らかに顔をしかめた夏音は、着信履歴に表示される人物名に寒気を感じた。
「なんか気になる反応だな。誰から?」
澪が訊ねるが、夏音は深刻な顔つきで動かない。そして、無言のまま脱衣所を出て居間へと向かう。
きょとんとした表情の少女達は黙って彼について行き、ソファに力なく腰掛ける夏音に問いたげな視線を送る。
「やっぱり……電話しなきゃだめか……」
ひどく億劫そうに呟いた夏音は、着信履歴の人物へとコールバックした。1コールが鳴るか鳴らないかのうちに、相手は電話に出た。
「あ、鈴木さん? 電話してくれたみたいだけど―――」
『鈴木って呼ばないで! ちょっっとォッ! もうやっちゃったんでしょ? きっとやっちゃったに違いないんでしょ!? あれだけ言ったのに……さっさと写メ送りなさいよ!』
電話を三十センチ離しても聞こえてくる大声に、夏音は眉を下げる。どうにもこの電話の相手は得意になれないのだ。
「写メ、ね。分かった……ちょうど色を確認してもらいたかったし、ちょっと電話切るね」
相手の返答も待たず、夏音は電話を切った。そして、何が何やら訳が分からないと目線で訴える少女達に向けて言う。
「ごめん、ちょっと写真撮ってくれないか」
「写メって言ってたやつ? その人に送るの?」
唯が夏音から携帯を受け取り、カメラを起動する。撮った写真を夏音が確認して、そのままメールを送ってから数十秒後。
『ちょっと! 全然違うじゃないの! 何なのよ、もう……だから言ったのに。私に任せなさいって……ひどい! ひどすぎるわ!』
電話越しの声から、相手が泣いていることが分かった。夏音は、うんざりとした表情で天を仰いだ。
何せ、電話から響いてくる声は、
『てめぇ、そんな頭で表れてみろよ! タダじゃおかねぇからなァッ!!』
野太い、男性の声なのだから。
いつの間にか近くで耳をそばだてていた少女達は、電話から漏れた怒声に飛び上がった。
『あら、そこに誰かいるわね? もしかして、あなたの髪を染めた奴? 前に話してた女子高生ね!?』
電話越しの空気だけで、何故そこまで分かるのか。彼(彼女?)の超能力めいた空間察知能力に、夏音はびくりと肩を揺らした。
『ちょっとかわってちょうだい! 小娘どもにあなたの地毛がどれほど繊細な色をしているか説いてやるわ!』
「あー、彼女たちはさっき帰ったよ。今度寄るから、その時にね。バイ」
一方的に電話を切った夏音はすっきりとした顔で少女達に向き直った。
「お疲れさんです」
その何とも言えない表情に、少女達は黙って頷くしかなかった。この世には、少女達の知らない世界がまだまだ息を潜めているらしい。
★ ★
「あら、良い色入ってるじゃない」
顧問であるさわ子が夏音の髪を見た時の反応は、意外にもあっさりとしたものだった。
「あなたの場合、地毛だから心配ないんじゃないかしら? うるさく言う先生方も、流石に地毛にまでどうこう言うわけにはいかないしね」
学校的には問題はないようだが、実際に夏音の変貌っぷりに色めいたのは生徒達であった。
「うわー夏音くんどうしたの!? 反抗期!?」
「誰かに振られたの?」
「うん、似合ってる似合ってる!」
「私も染めよっかなあ」
「おい、夏音。それってあっちの毛までぐふぅっ!?(殴打)」
教室は朝、登校してきた夏音の姿を目にした途端に騒然となった。次々に近寄ってきたクラスメートが物珍しげに夏音に声をかけてきて、口々に好き勝手な感想を述べていく。
「へえー。地毛なんだー」
夏音が、これが本来の色であることを説明すると皆は納得した。
「そういえば、まつげとか金色だったよね」
逆に、周りの人間がどうして気づかなかったのかが不思議なくらいであった。
クラスにとびっきりの話題をもたらした夏音であったが、放課後までには生徒達の目にも慣れてしまったらしい。
珍しい動物でも見るかのような好機の視線もおさまり、これまた一段落と思っていた矢先。
また騒動が向こう側からやってきた。
「夏音さん……夏音さん……うふふ」
背筋が凍る瞬間とはこういう感覚を表すのだと夏音は知った。軽音部の部室へと続く階段。その途中で、一度見たら忘れない縦巻きロールをひっさげた堂島めぐみが、怪しい眼光を放ちながら夏音を待ち受けていた。
「や、やあ。久しぶりだね」
「おひさしぶりですぅー」
一段一段を踏みしめるように下りてくる彼女の姿は、魔王のような邪悪な光が纏わり付いているように見えた。
思わず一歩下がってしまった夏音である。
「生中継みてましたー。素敵すぎて、もう……永久保存です」
「そ、そう」
最近では、割と大人しくなってきたと思っていた彼女であった。例の一件以来、彼女への見方が変わり、案外まともな人だと分かって以降、彼女との仲は非常に良好だった。
彼女率いるファンクラブとやらとも上手くつきあっていたつもりだった。
「夏音さんが何だか素敵に吹っ切れたオーラを感じましてね。私も何となくほっとしたんですー……って、なんで後ずさってるんです?」
「い、いや何となく」
いつの間にか壁際まで後退していた夏音はごまかし笑いを浮かべる。彼女はきょとんとした表情になったが、すぐに続けた。
「うちの子たちも、夏音さんの今後益々のご活躍をお祈り申し上げる次第なんですよ」
「ちょっと、企業活動でもしてんの君たち?」
大袈裟すぎて、もはや手に負えない団体になっていないか不安になる。めぐみは、不安な顔つきを隠さない夏音を見て、ぷっと吹き出した。
「やだやだ。冗談ですよ! 夏音さんの活動について知らなかった子たちも、本当に心から感心してました。たぶんですけど、本格的にファンになっちゃった子も少なくないですよ?」
それは嬉しい報告に違いないのだが、素直に喜べないのは何故だろうと夏音は想った。それよりも、どうしてめぐみが部活に向かう夏音を待ち伏せていたのかが気になった。
「それで、夏音さんにちょっとお願いごとがあったんです」
「お願い?」
「ええ。立ち話でお願いするようなお話じゃないので、すごく恐縮なんですけど」
「あ、それなら部室で話そうよ。立ち話もなんだし」
部室への鍵は夏音が持っていた。ということは、今は部室に誰もいないということである。
一番乗りで準備室へと入った夏音は、鞄を置いて彼女を机へと案内した。
「あ、お茶でも淹れようか」
「いいえ、お構いなく。他の子が来る前に済ませたいので」
「そう? じゃあ、さっそくだけど」
夏音はめぐみに向かい合う形で腰掛け、彼女の話を聞くことにした。
「髪、元に戻されたんですね」
「そうなんだ。色々と心境が変わってさ」
「やっぱり、夏音さんはそちらの方がお似合いです。でも、正直に言うと早く本当の色を取り戻してもらいたいですね」
めぐみの素直な感想に夏音はやや苦い笑みを浮かべる。
「しょうがないよ。黒いのからいきなりこんな風に染めたんだから」
「そうですね。すみません、変なこと言って」
目をそらしてはにかんだめぐみは、コホンと咳払いをした。
「では、本題の方に移りますね。クラブの子のお父様が幾つかバーを経営されているそうなんです。それで、来月のアタマに新店がオープンするらしく、そこで誰かプロの演奏家を呼んで演奏してもうらおうと考えているそうなんです」
「ああ、つまり……俺にやってもらえないかってことだね?」
深く考えるまでもない。要するに、新店のこけら落しの役目を担って欲しいということである。
「それは、かまわないよ。ちょっと予定を確認してみないと正式に答えることはできないけど、たぶん大丈夫だと思う」
夏音が色よい返事を返すと、彼女の顔がぱあっと明るくなる。
「ありがとうございます! きっとあの子も喜びます!」
何度も頭を下げて、心底嬉しそうに笑う彼女に夏音も微笑んだ。なんだかんだと、問題が多いように見えるめぐみだが、実際には面倒見の良い人間である。
後輩や同級生からも慕われているようだし、真面目な部分も多く見える。出会いこそ素っ頓狂なものだったが、彼女とも「なあなあ」で済ませておける関係とは言えなくなっていた。
「ところで、言ってなかったけど」
そう言い置いて、夏音は背筋を伸ばす。夏音が真面目な話をしようとしていると感づいた彼女もまた、すっと姿勢を正した。
「俺、プロの活動をまた再開することにしたんだ」
つかの間、沈黙があった後、目の前で満面の笑みが広がっていく。
「おめでとうございます!」
「あ、ありがとう」
あまりに素直な反応である。彼女のことだから、どんな過激なリアクションを取ってくれるものかと期待していた面もあり、かえってこちらが面食らってしまった。
「本当に……おめでとうございます。それは、いつになるのか聞いてもいいですか?」
「まだ正式じゃないけど、再来年か、それより前か……昔やってたバンドに再加入することになってね。その前に合わせて個人の活動も再開する予定なんだけど、バンドの方は再来年の夏とか、それくらいになるだろうって言われてるから……三学期の途中か、年明けくらいだろうね」
「そうですかあ。じゃあ、私が卒業するまでは在学されるんですね」
「うん。そうだね」
「そっかあ……」
彼女は笑顔を抑えきれないといった様子で、そんな反応に対して夏音は恥ずかしさを覚えた。
まるで自分のことのように喜ぶめぐみは、本当に自分を応援してくれているのである。改めて、彼女の気持ちに感謝の念が沸いた。
「君は来年で卒業だね。進路はもう決まってるの?」
「私ですか? そうですね。普通に進学するつもりですけど、ちょっと興味がある分野が絞れなくて」
「へー。やりたいことがたくさんあるって素敵じゃないか」
「そうは言っても、本当にやりたいことがやれるかは別ですけどね。ただ、これでも成績は悪くないですし、推薦も狙えるって先生が言ってくれて」
成績優秀で素行も悪くなく、バトン部の部長。さらにファン倶楽部の長を務める彼女のキャパシティはとことん広いのだろう。
何となく、彼女は上手く進んでいく気がした。物事に絶対はないが、彼女が受験に失敗する姿が想像できない。
「それで、私が卒業したらファン倶楽部も解散すると思います」
「え? そうなの?」
「はい。もともと私が勝手に始めたものですし、それに私ほど上手くやれる子はいないと思うんです」
彼女が何をどう上手くやってきたのかは定かではないが、彼女なりに苦心してきた部分があるということだろうか。
しかし、夏音はファン倶楽部の休止という自体が思った以上にショックを受けていることに驚いた。
「それに、最初から分かっていましたけど。あなたはとっくに私達のものなんかじゃないんよね。すでに世界中の人々から大切にされているんですもの。ファン倶楽部だって比べようもないほど大きなものがありますし」
「それはそうだけど、でも……」
「大丈夫です。なくなったって、あなたを応援する気持ちはなくなりません。形が少し変わるだけです」
「そうなのかな。ごめん、何と言っていいか……」
「とっても幸せですよ、わたし。ずっと憧れていた夏音さんとこんなにもお近づきになれて、あなたを待ちわびてるファンから恨み殺されるんじゃないかって思いますもん」
思い出を一つ一つ噛みしめるように言うめぐみが、どこか儚く見えた。こういう風に何かを振り返る人間は、きっと次の階段に足をかけている。
少ない人生経験上、決まって過去を振り返るタイミングとはそういうものだった。
「もう夏休みが来て、その間は夏期講習で。夏が過ぎたら全て最後のイベントが怒濤のように押し寄せてきて、その一つ一つにいちいち寂しくなって、気がついたら卒業……なんだと思います。部活もこないだの大会で引退ですし、ホント後は受験生に徹するだけですよ」
「受験……」
夏音は受験というものを実感値を参考に推し量ることはできない。高校三年生という短い時間のほとんどを受験に奪われると聞いているだけである。
「受験戦争ってやつです。私は推薦狙う分、他の人とは違う苦労をするかもしれませんが、やっぱり半端なことはできません。だから、すっぱりとファン倶楽部の活動はやめるつもりです」
瞳は雄弁に語る。彼女の意志は固い。もともと夏音がどうこう口を挟む問題ではないのかもしれないが、彼女の決断を揺るがすものは何もないのだと理解した。
「そうなんだ……月並みで申し訳ないけど、今までありがとう。最初は戸惑ったけど、こんな風に俺のことを応援してくれる人がそばにいたことは、支えになったよ。かつて君が俺の音で救われたというのなら、俺がこの世に存在して、音楽を続けることには意味がある。そう思えるようになった。君のおかげだ。だから、ありがとう」
「どういたしまして。こちらこそ、です」
潤んだ瞳を隠すように目を細めためぐみの表情は満足そうに見えて、夏音はこの少女との思い出も、きっと自分の中で大切なものとして抱えていこうと強く思った。
★ ★
「うーん、やっぱりパサパサするんだよねえ」
染めたばかりの髪をいじりながら、夏音がティータイムの話題を提供する。もともと染色を繰り返していた上、だいたんに脱色までしてしまった夏音の髪はお世辞にも綺麗な髪とは言い難い。
間近で見ると枝毛が目立つし、何より髪にコシや艶といったものがない。
「髪が相当傷んじゃってるみたい」
夏音の髪を触らせてもらったムギが太い眉を寄せて診断した結果を口にした。そして、髪を一房持ち上げて目を眇める。
「特に先のほうね。これって切れ毛もすごいんじゃない?」
「そうなんだよね。枕元に毛が落ちてたりするし、シャンプーの時にも毛がたくさん流れていっちゃってすごいんだよ」
おまけにカラーがシャワーで流れ、色々とひどい。自分の思いつきの結果なのだが、もう少し慎重になるべきだったかと軽く後悔を感じ始めていた。
「それなら、ついでに髪も切ればいいんじゃないかな」
唯がそんなことを言い出して、夏音の方へと身を乗り出す。
「私、切ってあげる!」
「唯があ?」
ものすごく不審な物を見るような目つきになった夏音。他の者も唯を胡乱気に見つめていた。
「先輩に任せるのって、ちょっと勇気がいるような……」
後輩としては勇気のいる発言であったが、最近の梓は唯に対しては割と遠慮が薄れてきている。しかし、そんなことを気にする唯ではなかった。
疑惑の目を向けられていることに対し、唯は胸を張って言った。
「こう見えても、前髪とかは自分でやってるんだよ! ほとんど、お母さんか憂に頼むんだけど」
後半に登場した憂ならば、何でも器用にこなしてしまいそうだが、本人の口から言われてもいまいち信用がない。
その場にいる女性陣は、短い付き合いなりに唯の女子としてのスキルを大体把握していたので、どうせ夏音が遠慮するだろうと誰もが思ったところだった。
「うーん。じゃあ、せっかくだしお願いしてみようかなあ」
「!!?」
思わず姿勢を正して夏音を凝視してしまった一同。そして、同時に思った。
とち狂ったのか、と。
「いいよー。じゃ、ハサミもってくるね」
唯は鞄から工作用の鋏を取り出して、シャキシャキと鈍い音を鳴らした。
「こ、工作用のかい!」
たまらず叫んだ律に、唯は首を傾げた。
「だって他にないんだもん」
よく見ると、「ひらさわ ゆい」と消えかけている名前が書いてある。小学生からの愛用の物だと予想できる。
しかし、「今、この場」で切るとは頼んだ張本人である夏音ですら思っていなかっただろう。案の定、夏音は顔を強ばらせて冷や汗をかき始めていた。
「あ、どうしようかな……やっぱ、いいかも。俺も母さんにやってもらうか、自分でやったりしてたし、ね」
今さら危機感を抱いたのか、夏音は唯に任せるという浅はかな選択を撤回しようとしていた。
「えー? 大丈夫だよ。先っぽちょっと揃えるだけだし。後ろとかは自分じゃやりづらいと思う」
「俺も最初はそう思ったから、なんだけど。俺の中で非常に危険だと何かが囁いているんだ」
「何ソレ、意味わかんないよー。だーいじょうぶだってば」
その大丈夫は信頼に値しないのである。好意からの行動なので、思い切って否定することも憚られる。
中途半端にお人好しな夏音は、助けを求めて視線をさまよわせた。
「ムギ! ムギはどう? 器用なんだし、こういうのイケるんじゃない?」
「私? ごめんなさい。全部やってもらってるから……」
「じゃあ、律。前髪とか、いっつも絶妙に整えてるんでしょ?」
「いや、ふつーに美容院いってるけど」
「梓」
「私、そこまで器用じゃないんで」
「澪!?」
「そこまで嫌なら美容院いけばいいだろうに」
縋りつく勢いの夏音に若干ひきながら、澪はもっともな科白を吐いた。そこで機嫌を大いに損ねたのが唯である。
「みんなひどくない? 私だってやる時はやるんだよ。じゃあ、ちょっと試しに切らせてよ」
「試しにって何なんだよ!? 怖いよ、やだよ」
「夏音くん男の子なのに男らしくないなー」
「……何だって?」
唯が呟いた自分勝手な言葉が夏音の心の琴線に触れた。いや、それは心の琴線というより触れてはいけない部分だったのかもしれない。
「そこまで言うならやってもらおうじゃないか。俺は男だから」
「なんか、全く持って意味不明だぞー。ていうか、聞いちゃいねー」
傍から冷静に観察していた律が口を挟むが、夏音の耳には入っていない。夏音がどっしりと腕を組んで「さあ! Do it!!」と唯を睨む。
唯は目の前の男が唐突に態度を変えた理由に疑問を浮かべたが、特に気にせず、ただ鋏をシャキリと鳴らした。
新聞紙を床に敷き、ポリ袋に切り込みを入れてクロスがわりにした夏音は、戦国武将のようにどっしりと構えた。
一同が息を呑んで様子を見守っているうちに、唯は準備が整ったことに満足そうに頷いた。
「ふんす!」と鼻を鳴らし、注目の一刀を入れる。
はらり、と髪が床に落ちる。静まりかえった部室は異様な緊張感に包まれていた。
抑えた呼吸がやけに響く。チョキ、チョキ、と軽快とはほど遠い不規則な音が続く中、視線が自分に集まっていることに夏音は嫌な汗をかいた。
自分は「男なのに」とか「男だったら」というワードに弱いことは承知していた。すぐに頭に血がのぼってしまい、判断を誤ってしまうことは今までもしばしばあった。
そして、今回はわりかしすぐに冷静さを取り戻してしまった。
鏡を見ながらではないので、自分の髪がどうなっているか確認することができない。
言うなれば、自分のヘアースタイルを唯に握られているわけである。恐ろしくないはずがなかった。
何故か全員がぎらぎらとした目を向けている分、言葉を発することもできずにいたが、無言でいることにも限界がきた。
この重苦しい空気を少しでも和らげたいという気持ちもあったのだろう。
夏音は、フラグを立てるということがどんなに恐ろしいことか、身をもって体験することになった。
「ね、ねえ。今どんな感じ?」
「え……す、すごい感じ」
律がどこか落ち着かない口調で夏音に返すが、その一言が余計に不安に陥れてくる。すごい感じ、とはどんな感じなのだろうか。
「ゆい……? そんなに切らなくていいよ?」
「ああっ! ちょっと喋らないで。集中してるんだから」
「今、どこをどんな感じにしてるのかなって気になって」
「うーん……よくわかんない」
「切ってる本人がどういうことソレ!?」
激昂しかけた夏音だが、激しく頭を動かす失態は犯さなかった。唯のことだ。手元が狂ってしまっても、夏音に文句をぶつけてくるのだろう。
「いや、いいんだ。もう好きにやってくれ……」
口では言うものの、絶対に美容院へ行こう、と夏音はこの時すでに心に決めていた。だから、ちょっとくらい彼女が失敗してもいい、という寛容の精神が働いたのである。
ついでに気が緩んでしまったのがいけない。
「あ、これってよくアニメとかでもあるよね。切ってる人がくしゃみとかして、それでバッサリ髪を切っちゃうやつ」
「お、おい。そんな恐ろしいこと言ったら……」
よもや切られている張本人からそんな科白が出てくるとは思っていなかったのか、澪が顔を蒼くする。その隣では、反対に律がくすりと笑った。
「おいおい、夏音。それってフラグってやつだろ? ま、これでホントにそうなったら笑えるけど」
「むぅ~。ちょっとさっきからみんな失礼だよ。いくらなんでもそんなベタなことするわけないじゃん」
唯がむくれて言うが、そんなミラクルを平気で起こしてしまうのが平沢唯である。冗談半分の会話だったが、半分以上は冗談の気持ちではなかったのがその場にいる全員の本音だった。
「よっと。これで枝毛とかはだいぶなくなったけど、後はどうしようかな」
どうやら、ある程度の工程は終了したらしい。いったん手を止めた唯の言葉にほっとした夏音は、気の抜けた声で唯に言った。
「いや、もうそれくらいでいいよ。ありがとうね」
解放される喜びもあってか、素直にお礼を口にした夏音だった。しかし、その直後に襲ってくる悲劇を乗り切る術は夏音にはなかったのだった。
「うーん、もうちょっとできると思うんだけどなあ……ここを、こう切ったら……ん、ふぇっ……ふぇっ」
急に唯が珍妙な声を出した。背後に立っているので、その表情や仕草まで確認できない夏音は「ふぇ……?」と疑問符を浮かべた。
そして、正面に並んだ梓、澪、律、ムギの四人の表情が緩やかに恐怖を帯びていく様子がやけに目にとまった。
スローモーションの世界に突入してしまったかのような錯覚に、夏音は何かを口にしようと思った。
その瞬間は、ただ感じることしかできなかった。
「ぶぁっっ……クシュン!!!」
クシュン、クシュン、とリフレインが耳元で鳴り響く。一陣の風が吹いたかのような戦慄に、身体中の皮膚が粟だった。
一度に色んな感覚が襲いかかってきて、夏音はその全てを放棄した。
ジョキン、という不吉な音や、頭皮に感じた急激な痛み、今まで見たこともないくらいに口を大きく広げて固まる目の前の少女達の顔だったり、
実は全てを刹那に理解しそうになった思考回路など、諸々すべて。
蝉時雨が世界のBGMの中で最前列に飛び出してきた。虚しさを演出する、世界のはからいだろうか。
それ以外の音が止んだ部室は、時が止まったかのようであった。
その中で最初に動き出した人物も、実は何が起きたのか理解していなかった。左手に感じる微かな重みの正体を、ゆっくりと眼前まで上げていき、そこで理解した。
「は、はわわ……ふぁわわわわ」
今まで発したことのない音が口から漏れ、手がガクガクと震え出す。
唯が持ち上げた一房、にしては大きめの髪の束に、少女達は視線を吸い寄せられた。
その髪の存在だけで、何が起こったのかを少女達に正しく認識させる程の威力があった。
止まったこの空間に、現実が追いついてくる。
「ど、ど、ど、」
唯は壊れたおもちゃのような動きで自分と目が合っている仲間達に問いかけた。
「どうしよふ……」
その問いは、少女達が答えるには難題すぎた。
フラグを容易く現実のものとしてしまう少女。夏音は、平沢唯の恐ろしさを身をもって体験することになったのであった。
「ど、どうする?」
どうもできない。容疑者と被害者以外の少女達は何故か自分達が対応を迫られていると感じた。
目の前の被害者は思考が働いていないのは明白だった。真っ白に燃え尽きてそのまま灰となって飛んでいきそうな様子である。
静かに立ち上がった少女達はそのまま夏音の後ろに回り込み、小さく悲鳴を漏らす。
「おいたわしや……」
時代錯誤な科白だったが、梓が悲痛な呟きを漏らす。一掴み分ほどの髪が、肩口までの長さになっていたのだ。
「これは……揃えないと無理だな」
「夏音くん、しょ、しょーとも似合うとおもうよ?」
「どの口が言うんだアホッ!」
唯が間に入れたフォローに律が怒鳴る。流石に唯も平静ではいられないようで、涙目で「ごめんなさい~」と崩れ落ちた。
周りが騒ぐ中、被害者の瞳に光が戻ってくるのは、しばらく後だった。
※鈴木さん、その正体は後ほど分かると思います。