コツコツ、じゃない。ミシミシ、でもない。
木造の建物を歩く音というのは何とも不思議な響きだ。合成樹脂の床材を塗りたくられた他校にはない温かみがあって、律にとってこの学校を選んで良かったと思えることの一つであった。
人の気配が少ない廊下は全ての窓が開け放されてあり、放課後のチャイムが鳴ると同時にグラウンドに繰り出した運動部の喧噪が流れこんでくる。
それと同時にじめっとした生ぬるい風も侵入してきて、そいつが頬を撫でる感触が煩わしい。
古い校舎は趣があって良いとはいえ、やはりこうしてエアコンの一つも入っていないこの施設は少しばかり近代化の風を取り入れてもいいのではないかと思うのだ。いや、これは切実に全生徒が願っているはずだ。
一方、職員室に入った途端に涼やかな人工風を感じた瞬間など、殺意が芽生えなくもない。
この時期、どうとでもない用事をつくり出して職員室に向かう生徒が増えるのはそういった理由だ。
全身が湿った不快感を振り払うような早歩きで律は木造廊下を進んでいた。
部室までの階段に苛々しながら何とか上り、勢いよく部室の扉を開ける。
足を踏み入れた瞬間、目に止まった人物に律は辟易としてしまった。
面倒くさい臭いがぷんぷんと漂ってくる。
立花夏音が何だか腑抜けていた。
★ ★
「おぃーっす」
目下のところ華やかな少女達の集団にはそぐわないオーラを発する人物を無視して、律は既に揃っていた仲間たちに声をかける。
「あ、りっちゃん。今日は芋羊羹だよ」
第一声が食べ物のこととは、唯は外さないなと感心した。荷物をベンチに放り投げ、いつもの座席に座って携帯を取り出す。
ムギがすぐに冷茶と切り分けた羊羹を小皿に置いて差し出してくれる。
あまりに自然で、かいがいしさ満点のムギに「サンキュー」と礼を言う。
うふふ、とお嬢様スマイルで返してくれる彼女を嫁にできる男は世界一幸せ者であるに違いない。
「ふぅ~」
「律、なんかジジくさい」
澪が薄く笑ってそんなことを言ってくれた。ここでババくさい、と言わないあたりがツッコミ所なのだが、律はあえて何も言わなかった。
「はぁ~。生き返る~」
「ほんっと暑いよね~」
うんうん、と共感するように頷いた唯がパタパタと胸元を仰ぐ。仮にも男の前であるが、ソレの存在は眼中にないらしい。
「Tシャツに着替えちゃおっかな」
「ソレ、体育で着たやつじゃないのかー?」
「うん。今日は家に持って帰ろうかなって」
「ってオイ。今日はってどういうことだ? 普通、体育ある日は持って帰るもんだろ?」
聞き捨てならない唯の発言に、つい律はだれていた身を起こして反論した。
「え? だってそんなに汗かかなかった日とかは、もったいないでしょ?」
「はぁ!? じゃあ、お前は今まで一度汗かいたTシャツをもう一度着ながら体育やってたってのかい!」
「別に一日くらい平気だよ~。あ、もしかして臭うかな?」
そう言ってくんくんと自分の体臭を気にする唯であったが、もはやそれ以前の問題である。
「お、お前なぁ。仮にも女子なんだから、そのへん気を遣えよ~?」
唯とて体臭には気を遣う立派な女子である。デオドラント用品常備は当たり前。馬鹿な男子からは「なんか女の子って甘い匂いがするよね~」等と思わせる程度には女の子をしている。
しかし、脇が甘いのだ。
仮にも男子の前で、平然と口にするあたり。
いや、と律は冷静に考え直した。
これは唯が無頓着なだけではない。もう一つの理由があるではないか。
「そういえば、コレ。さっきからどうしたの?」
律はさらりと存在を無視していた人物を指摘してみた。
「あ、夏音くん。そういえば、いたんだね」
ここまで鮮やかな手並みで空気を固まらせる人間もそういまい。
皆、故意に夏音に関わらないでいたというのに、彼女だけは本当に彼の存在を忘れ去っていたというのだ。
「………夏音、思い切って聞くけど。どうした?」
律は話題の中心になっているにも関わらず、いまだに焦点が定まっていない夏音に問いかけた。
「え?」
ぼけっとした声で律に顔を向けてきた夏音に律は眉をひそめた。気が抜けきっているどころか、魂までどこかにお出かけしているようだ。
「だから。さっきからぼーっとして、どうかしたかって聞いたんだよ」
「ああ、ごめんよ。ちょっと考え事をね」
「そりゃー考え事してたんだろうけどさ。悩みでもあんの?」
「何でもない」
律は珍しく優しい態度で接していたのだが、かえってきた反応は素っ気ない。それどころか、ぷいっとそっぽを向かれる始末だ。
律の額に青筋が浮かぶ。
「あー煮え切らないなあ! なんかお前の周りだけ空気が重いんだよ! 無駄に顔の出来がいいんだから、なんかこえーの!」
後半は半分やっかみである。だが事実、無駄に整った顔が彼の放つどんよりオーラに拍車をかけている。
「昨日、仕事だったんだろ?」
昨夜、軽音部で梓の友達のライブを観に行く予定だったのを、この男は仕事を理由にキャンセルした。
仕事が長引いたということは分かるが、その内容まで想像に及ぶはずがない。
何かあったと考えるのが妥当であった。
律だけではない。他の者も気に掛けていたのだ。全員の視線に負けたのか、夏音はぽつぽつと語り出した。
「ちょっとね。自信をなくしたっていうか」
頬を掻きながら、野暮ったい口調で言った彼に驚きの感情がその場に流れる。
何せ、常に自信に満ち溢れているこの男が自信をなくしたと口にしたのだ。
律は何か重たいものがずしりとお腹に沈んだ気がした。周りの反応を気にせず、彼は続ける。
「普通に打ち合わせだったんだけどさ。ちょっと今回一緒に組むことになったドラムの人とね、遊び半分でセッションすることになったんだ」
それから彼が語ったのはこういうことだ。
都内の某スタジオに入り、朗らかな雰囲気でセッションを開始したところまではよかった。
互いに上機嫌で、特に相手のドラマーは大ベテラン。夏音は彼のことをまるで知らなかったが、向こうはこちらをよく知っていたという。
楽しみだと口にする彼に好感を持ち、自身もわくわくしながら音を合わせていったのだが。
どうにも、絡みづらい。たった十二小節進んだだけで、そんな風に感じたのだそうだ。
互いのノリを見極め、呼吸を合わせるように進んでいくはずのものが、夏音を否定するようにゴリ押される展開に夏音は不快感を隠せなかった。
遊び心のある人で、咄嗟の変拍子などは慣れっこである。思いもよらないことを仕掛けたり、そのまた逆があってこそセッションは面白い。
しかし、これは違うと夏音は確信していた。
夏音が合わせようとすると、相手はすかさず逃げるようにリズムを変えていく。こちらが差し出した手を振り払うような態度。
こちらを見る眼が豹変して、悪意が伝わる。
彼が逃げる時の僅かな隙間は、埋めようのない隔たりに感じるのだ。
喧嘩のようなセッションならのぞむところだ。
だが、それは喧嘩などではない。正々堂々なんて言葉が入る余地もない全否定。
夏音は動揺もしたが、それ以前に自分が何か彼に嫌われるようなことをしたのかということを疑った。
自分の考えやスタイルが誰かとぶつかることがないとは思わない。
先程までの打ち合わせでは、これといった諍いもなかった。
それだけに、相対する彼が自分に向ける嫌悪の正体が分からなかったのだ。
敵意で相手を削ぐようなセッションは三十分ほど続き、終わりは唐突だった。
彼が「あー疲れた」と言って、スティックを放り投げたのだ。夏音は流石にそんな終わり方になるとは予想もしておらず、面食らったまま動けなかった。
固まっている夏音に対して、悪辣な態度で彼は言った。
「こんなもんかよ。あんだけ騒がれた天才くんも大したことねーな」
セッションする前とは人が変わった様子に夏音は息を呑んだ。剣呑な瞳に敵意や侮蔑が浮かび上がっており、こちらを見ている。
「お前のベースじゃドラムは叩けねーわな」
ぼりぼりと頭をかきながら、彼はそのままスタジオを出て行ってしまった。
取り残された夏音は呆然と突っ立っているしかなかったそうだ。
「それで? 今の話からすると、悪いのって相手の方なんじゃないか?」
話を聞き終えた途端、澪が瞼をひくつかせながら夏音に問うた。律には彼女が表面上は平静を装っているが、内心ではらわたが煮えくり返っているだろうこと分かった。
「うん……そうなんだけどさ」
意外なことに、あっさりと認めた夏音であった。
「じゃあ、何が問題なんだよ? 暴言吐かれたからか?」
「いや、それもちょっと違うんだ」
「だったら何でよ?」
わずかに語気が荒くなっていく澪がヒートアップしていることに気付いたのか、夏音は慌てて取り繕うように返した。
「俺、ああいう感じの久しぶりだったからさ」
「久しぶりって?」
きょとんと目を丸くした澪がそのまま聞き返す。
「ほんと一握りだったんだけどね。音楽家にも意地悪な人がいてさ。似たようなことされたんだ。昨日みたいに露骨ではなかったけどね」
さらりと出てきた内容にその場にいた者は身を強張らせた。
出る杭は打たれる。アメリカにいた頃の夏音はまさにそれを体現するような出来事に遭っていたという話は聞いていた。こうして改めて本人の口から聞かされると、また生々しい印象をもたらされるのだ。
「彼もプロには違いないんだけど。やっぱり何で今さらこんな若造と組まされるんだろうって腹立たしかったのかもしれない。それに、俺が彼のことを知らなかったっていうのもプライドを傷つけたのかな?」
淡々とした口調で語る彼はそのこと事態にはさして気にしているわけではなさそうだった。
「彼は本当に上手かったよ。彼が気持ちよく叩く時は、そりゃあ周りも気持ちよいんだろうさ。けど……何か気が抜けちゃったっていうか。調子に乗るなよって言われてるみたいで、それで改めて自分の立場を思い知らされた感じなのかな。ごめんねなんか腑抜けちゃってさ。色々考えて眠れなかったってのもあるんだけど。それより、昨日のライブの話を聞かせてよ」
夏音が強引に話題を変えようとしたのが分かった。むしろ、そのやり方が下手すぎて気付かなかった者はいないだろう。
それでも、誰もがこの話題を続けることが得策だと思えなかったのだ。
一度固まってしまった空気はなかなかほぐれなかったが、その後はそれぞれが興奮気味に語るライブの話に放課後の時間は費やされていった。
★ ★
「というわけで。外でやるのも、結構いいかなって思ったんだ」
夏音は向かい合って座る澪の話をじっと聞いていたのだが、「というわけで」の一言でまとめられて呆れるように笑った。
「なるほどね。そんなに感動したんだね、そのライブ」
基本的に目の前の少女は物事に影響されやすいことは短い付き合いの中で分かってきた。それは軽音部の他の面子にも同じことが言える。
同年代の少年少女たちの活動に心を動かされてしまったのだろう。あの時は周りを見渡す余裕がなかったものの、爆メロの時も大概が三つか四つも年が離れていない人間が同じステージに立っていたのだ。
普段、自分がいる世界とは離れた場所で与えられる刺激というのはまた格別である。良くも悪くも、自分の世界では得られない刺激に満ちている。
そこに憧れることがあってもおかしくはない。
「それで、その意見は澪だけのもの?」
夏音は練習を遮ってまで長話を繰り広げた澪に対して含みを持たせながら、訊ねた。何故か自分を除いて部の仲間から意見がある時は、代表して澪が伝えてくることがある。
「いや。これは私が個人的にそう思ってるだけで、みんなが同じように考えてるかは分からない」
その言葉を額面通りに信じるのであれば、ここで話は終わりなのだが。
「でも、澪がそう思うってことはみんなもそうなんじゃないかい?」
他人より慎重な澪は何か新しいことに手をつける時は最初の一歩が遅い。何かと先に待ち構える可能性を幾つも検討してしまう癖があるのだ。
カマをかけただけなのだが、澪は夏音の問いかけに思うところがあったらしく、顔を背ける。
こういう反応は、実に彼女らしい。
隠し事が下手な部分は、夏音にとってもやりやすい。
「ふーん。そうかー……ライブハウスねー」
夏音は大きく息を吐きながら、膝に置いていたベースをギタースタンドに立てかけた。気難しげに腕を組んでみると、澪がじっと自分の挙動に意識を向けるのが分かる。
自分の動作や表情がどんな印象を与えるか、そういった手管のようなものに精通しているわけではない。
女優だった祖母がよく他人に対してやってのける言葉にしない表現というものを夏音はいつの間にかできるようになっていた。祖母のように完璧なものではないし、意識してコントロールできるわけではない。
しかし、この話の流れから夏音が取った動作はいかにも賛成しかねる、といった印象を澪に与えたことだろう。
目に見えてあわあわし始めた澪に夏音は笑いをこらえた。
「や、やっぱり夏音はライブハウス反対だもんな。や、わかってたんだけどさ。ああやって活動する場もあるんだなって感心したんだ」
「むー」
「軽音部は軽音部らしい場所でやるべきだよな!」
「軽音部らしい場所って?」
「え、それは……やっぱり講堂とか、体育館とかかな。音楽室の方でもやれるだろうし、こないだみたいにどこかの施設でっていうのも」
「そうだねえ。やっぱり学校の部活動だからね」
高校生の部活動で、ライブハウスというのは大っぴらに認められるものではないだろう。
これは夏音がライブハウスで演奏することを認める以前の話だ。仮にも酒を提供する場所である。
時間帯も夜の営業が多い。
公式に私立の高校が認めることは難しいはずだ。
少し現実の面を見せたところで、澪が一気に肩を落とす様を楽しんだ夏音は用意していた妥協案を提示してみることにした。
「ま! 反対はしないけどね! でも、それは軽音部で活動する場合だよね」
「え……どういうこと?」
「だって結局自分たちの責任下でライブするわけだよね。チケットを売って、ノルマなんかもさ。学校がそれらを面倒見てくれるはずないし、それなら軽音部じゃなくていちバンドとして出ればいいんだよ」
まさか夏音の口からこんな肯定的な意見が出てくるとは思ってもいなかったのだろう。青天の霹靂といった体で目を見開く澪はおずおずと口を開いた。
「でも、夏音はそれでいいのか?」
「いいも何も、バンドとして出るってことは軽音部じゃないってことだよ」
「うん?」
「あのさ。これは本当に申し訳ない話なんだけど……もし、ライブハウスでやることがあってさ。その時は―――」
澪はその言葉に続く台詞を予想していたのだろう。固まった表情は、その先を聞きたくないと訴えかけてくるようであった。
それでも、夏音は口にしなくてはならない。
「俺を抜かした五人で出てくれないか?」
その台詞をしっかりと耳にしてしまった澪はそっと俯いた。
★ ★
ライブハウスに出るのは、目的でもあり手段でもある。根本的にライブハウスという場所は演者がステージに立ち、観客に対しショーを提供する空間だ。
そして、演者はステージに立つことでギャラを貰う。
そのように成り立っているはずなのだ。しかし、ライブハウスで演奏する者達が必ずしもギャラを貰えるわけではない。
システムの問題である。ライブハウス側はライブ毎に演者に対してノルマを課す。チケット何枚で何万円、といった具合にそのノルマは必ず払わねばならない。
例えばバンドが全てのチケットを売り切ったとしよう。それどころか、ノルマ分のチケットを上回る集客が叶ったとしたら、その分はバンドに還元される。
そこで初めて金を貰って演奏する、という図式になる。
駆け出しのバンドがバックを生みだすことは到底あり得ない話であり、軽音部でライブハウスに出るようになっても、そうした状況が続くことは容易に想像できるのだ。
故に、夏音はライブハウスに出ることはあり得ないと考えていた。
彼女達と軽音部の活動をするのは良くても、これだけはダメなのだ。譲れない一線があり、夏音はそれを破ることはない。
「別に大袈裟な話にしないで欲しいんだ。澪たちはもっとライブの経験を積むべきだと思うし、外で活動するのは賛成なんだ。実際に客というのを相手にして、考えることも増えるだろうしね」
澪は夏音の考えの内を十分に把握しているつもりだった。それでも、軽音部は一人でも欠けて欲しくないという想いが彼女にあるからこそ、ショックは訪れた。
分かっていたはずなのに、この答え合わせに動揺してしまった。
澪が何も言えずにいると、夏音は続けた。
「そんな悲しそうな顔しないでよ。俺だってできることなら、って思ってるんだよ。嘘じゃない。けど、これだけは意地を張らせてもらうよ」
そう口にしながら、夏音は本当に心を痛めている様子だった。澪だって分かっている。
これは彼なりの苦渋の決断なのだと。
彼の中でもせめぎあっているのだと知れただけで、澪は少しだけ救われる。彼の出す答えとは反対の意見も、彼の中にはあるということなのだから。
「いや、夏音はそう言うと思ってたよ。これから実際に外でやるかは話し合わないと分からないけど、軽音部としての活動が疎かになるようなことはしないつもり」
「ううん。きっと、いや……絶対に君たちは外に出て行くよ」
神妙な顔つきで発せられる言葉は妙に澪の中に入り込んできた。
確信的な口ぶりに、まるでこれから観る映画のネタバレをされているような感覚を覚えた。
それは、きっと起こるだろう先の話。
誰も分かるはずのない未来をこの男は何故か自信満々に言い切ってしまう。
澪は「ああ、そうなんだ」とどこか他人事のように受け取った。ああ、そうか。自分達はこれから外のライブハウスで活動するのだな、と。
「自分の姿を見て欲しい。音を聴いて欲しい。たくさんのライトのまばゆさに、その熱に惹かれていくよ。絶対にその事実を諦めきれない。一度味わったら止められない甘露を、みんな既に味わってしまったんだから」
「何か、重みがあるな。無駄に」
「そりゃあ、経験者の言葉だもの。それなりに実が含まれてないとね」
簡単に言ってのけるのが彼のにくいところだ。しかし、それでいて嫌味ではない。
「澪の中にも、ずっと息づいているはずだよ。隠れているけど、抑えきれなくなりそうにならないか?」
何を、と聞かずとも澪は理解した。自分がこれまでにないくらいの視線に晒されているのに、それが直接肌に火をつけるように熱く押し寄せてくる感覚。それがあまりに心地良くて、いつまでも味わっていたい、あの興奮。
あの鮮烈な記憶を思い出すだけで、自分の五感が沸騰していきそうになる。
大人しいはずの自分が、そんな風になってしまうことを恥ずかしく思う気持ちがあるのだけど、どこか受け入れてしまいたい。
澪はずっとその情動を閉じ込めていたクローゼットを軽く開けられてしまったような気がしていた。
ライブハウスの空気が、澪に与えたものは決して小さいものではなかったはずなのだ。
「みんなと話してみるよ」
「うん、そうしなよ。たぶん反対するだろうけど、そこは澪が強引に押しきってね」
「そういうの、得意じゃないの知ってるくせに」
「だってこれは澪がやろうと思ったことじゃないか? なら、せめて最初の一歩は澪が踏み出さないとね」
冗談めいた口調で話すが、澪は彼が決して悪のりしているわけではないことを知っている。
立花夏音という人間は難題をふっかける時でも難しげな雰囲気は出さない。いとも簡単そうに言ってのけてしまう。
これは短いのか長いのかよく分からない付き合いの中でもはや慣れっこであった。
「分かった。話すのは私からにする」
「うん、頑張って」
簡単にそれだけ返されて、澪はこの件に関する会話が終わったのだと気付いた。
★ ★
「何で夏音くんが出ないの!?」
その言葉が返ってくることは初めから予想できていた。そして、誰が口にするのかも。
「だって前は一緒に出たじゃん」
「前は前。今度は全く別物なんだ」
唯の反論に澪は落ち着いて、言い聞かせるように諭した。
早速、ライブハウス進出に関して澪は他の四人に提案をした。第一声で反対する者はいなかったが、やはり夏音を抜かした面子で活動するという話をした時点で表情が曇るのであった。
何故、一緒に出ることができないのか。その理由は夏音が以前にも語ったことがある。
唯も当然その際に頭に叩き込んだはずなのだが。
「せっかくなんだし、ていうか夏音くんいないと色々つらいよー」
主にどちらかのギターにかかる負担が増えるという点で。意外に打算的な動機だったもので澪はほんの少しだけ呆れて笑ったが、真面目な顔をつくり直して言った。
「それは唯が頑張ればいい話だろ。そもそも今ある曲をやらなくちゃいけないって決まりもないんだし、そんなに難しくない曲もあるだろ?」
「でもー」
唯はそう言って頬を膨らませる。彼女はまず考えるということをしないのだろうか。すぐに物事を難しく捉えて悩む自分とは違い、本能のままに感情を露わにできる唯を澪は少し羨ましくなった。
「唯先輩。夏音先輩は特殊な事情があるんですからワガママ言っちゃだめだと思います」
「おおう。後輩から痛烈な言葉が!?」
「梓は物分かりがいいなあ」
後輩からたしなめられてショックを受けた唯には触れず、夏音は何故か嬉しそうな声を出した。
澪としても、言いたいことを代弁してくれたおかげで梓の株が少し上がった。
「おほん。そういうことだから、夏音は外には出ません。それはみんな承知してると思うけど、夏音が出れないのは事情があるの」
再び説明を始めた澪の言葉に唯以外の人間は理解を示すように頷いた。しかし、その表情はどれも心の底から納得しているわけではないことを表していた。
「それは幾ら話してもしょうがない話だから、今は置いておこう。私が言いたいのは、みんなはライブハウスで演奏するってことをどう思うかってこと」
本題に戻る。澪の提案は以前からも案として出ていたものである。皆、少なからず外での活動というものに興味を持っているはずであった。
軽音部の経歴として、唯一にして最大のものはやはり爆メロのステージに立ったことだ。あれが軽音部として初めてライブハウスのステージに立った経験であり、それを最初で最後の機会とするのは納得しがたいものがあった。
いつか、また出たい。そんな気持ちが燻っていたのは、皆同じなはずであった。
「私はやりたいね。実際に友達にもライブハウスに出てる子がいるし、できないなんてことはないだろ」
仄かにぎらついた瞳になった律が澪の提案に乗っかった。澪は律であれば、まず反対することはないだろうと予想していた。
最近の彼女は以前にはなかった向上心や積極性が見られる。親友の心境の変化に気付かない澪ではなかった。
「私は最初っから出たいと思ってました!」
「私も賛成でーす」
もともと外バン嗜好の梓は言わずもがな、ムギも易々と手をあげて賛成を示した。ムギの場合、イベントごとに懸念を示した例などないから、これも想定内である。
「唯は?」
「もちろん出たいですっ!」
真っ直ぐに手を上げた唯。これで意見は揃ったわけである。
澪はすんなりと意見がまとまったことに息をついた。それと同時に、これで自分達が外バンと呼ばれる存在になるのだという事実にお腹の下あたりがぐっと重くなった。
「がんばろー」
お気楽な声を響かせた人物は、ただニコニコと彼女達に笑顔を向けていた。澪は何故かその笑顔を見ていたくなかった。
※時間が空いたワリに中途半端な場所で終わりました。きららで大学編が完結となりましたが、色々とひどかった。