軽音部の皆(主に律、唯、ムギ)の梓への歓迎の気持ちはどんどん増していっているようだ。
ひっきりなしに話題が振られ、お茶が空になればすぐになみなみ注がれる。唯がモンブランの栗をあげたことは驚天動地に値する出来事であった。
下校する際には唯の自宅付近にあるアイス屋へ連れて行き、三段アイスをご馳走(梓の分は全員でワリ勘)した。
その中で終始困惑した様子の梓を気に掛けた澪がそっとフォローしていたようだが、その戸惑いの表情がだんだんと曇っていかないかと夏音も不安であった。初後輩に色めき立つ軽音部だったが、夏音はというとその輪の一歩外でそれらを静観している立場だった。
自分の素性をどこで話すべきか、そもそも隠しておくべきなのだろうかということから始まり、律から自重を命じられていてどう振る舞えばいいか分からないといった悩みによってがんじがらめになっていたのだ。
おそらく、非常に真面目な子なのだろう。正真正銘、音楽をやりたくて。音楽に打ち込みたくて軽音部の門戸を叩いたに違いない。
聞けば、ジャズ研に入会することも候補に入れていたらしいが、悩んだ挙げ句に選んだのが軽音部だったということだ。
思い返してみれば、今の軽音部には初めから音楽に情熱を掲げて入ってきた者は皆無だ。根本的には音楽が好きで、楽器を演奏することに喜びを見出す人種なのだろうが、如何せんモチベーションが低い。
そのやる気のなさが始まった当初から発揮されていたあたり、自分達と梓を比べるのは間違いだ。夏音とて、高校の部活で真面目に音楽をやろうなどと思っていたわけではない。
引き摺られるように勢いで入部して、音楽をやってもやらなくてもどちらでもかまわないといったスタンスのまま半年過ごしたのだ。
そんな自分達とは正反対の梓にとって、この有り様を目の当たりにした時の衝撃は大きいはずである。
もちろん音楽意外の部分で大切なものもあるとはいえ、このままで良いわけがない。どこかで今後の方針を固めて、軽音部の名に背くことのない活動を開始する必要がある。
問題は、それを言い出す機会を夏音は一歩退いた状態で窺っていることだ。自分がうだうだと迷っている間に深刻な事態にならなければいいが、もしもの場合は後悔だけが残ってしまう。
(そろそろ、みんなに練習するように促さないと)
小さな決意を胸に秘め、今日も夏音は口数を減らしてばかりいた。
「ちゃんと活動計画を立てた方がいいんじゃないか?」
先に言われてしまった。新入部員がやって来たというのに、いつまでもダラダラとやるのはまずいのではないかと澪が切り出したのだ。澪もほとんど夏音と同じような立ち位置から彼女達の様子を見ていたので、似たような懸念を抱いたらしい。
この、のんびりとした空気が馴染まないという人間もいるのだ。今のところは大人しく受け入れている梓だが、澪はその本質をこの数日間にじっくり観察していた。
「このままじゃ梓やめてしまうかもしれないぞ」
その発言はまるで予想外だったのだろう。他三人の顔が青ざめる。
「そ、そんな~!? あずにゃんがいなくなるのはやだ!」
泣きそうな顔の唯が悲鳴を上げる横で、深刻な顔つきの律は差し迫った様子で立ち上がった。
「くっ。何か梓の弱味でも握らないと!」
何に使うのか、デジカメを取り出して今すぐにでも部室を飛び出していきそうな律の背後に回った澪が拳骨を落とす。
「計画ねえ」
夏音がふと呟く。ほとんど行き当たりばったりで日々を過ごす軽音部にとっては一年の計画を立てることほど難しいことはないだろう。皆、首をひねって自分達の活動方針に考えをめぐらしていた。
「あ、じゃあさ!」
痛みから素早く回復した律は天啓が降りたとばかりに自信満々に言った。
「明日は梓の歓迎会をするか!」
「お、いいねえ~!」
「楽しそ~」
澪が止める間もなく、話が固められていく。夏音が自分も何か言うべきだったのではと気付いた時には既に口を挟む隙間は与えられていなかった。
★ ★
翌日、学校近くの公園に揃って集まった軽音部一同は中野梓歓迎会と称して思う存分遊ぶことになった。
文字通り、遊ぶだけである。休日の公園には家族連れも多く、犬の散歩に訪れる人などで溢れかえっていた。芝生の上を駆け回る女子高生の集団はそんな風景の中に紛れ込み、よもや彼女達が高校の軽音部で、これが部活の一環だとは誰も思わないだろう。
梓は自分の歓迎会という名目に恐縮してばかりいて、先輩達が次々と出してくる遊び道具に目を回していた。少なくとも、全力で楽しんでいるようには見えなかった。
小一時間ほど公園をかけずり回った後、ムギが用意してきたランチボックスを広げて昼食を摂る。
それらの遊びにも参加せず、沈黙を守っていた澪がついにキレた。
「こ~ら~!!」
しっかりとその手元には食べ終えたケーキのフィルムがあったのはご愛敬だ。
「結局、いつもと変わんないだろう!」
しかし、そんな澪の訴えは後輩に夢中の少女達の耳には入っていなかった。皆、初孫を可愛がる祖父母のように手を休めることなく梓に構い尽くしている。次から次へと手ずからお菓子を与える様子は餌付けに見えなくもない。
鯛焼きを頬張り、まんざらでもない様子の梓に澪はしおしおと怒気を治めた。
(……まんざらでもない?)
ご満悦といった梓の笑顔に少しだけ癒された澪は、本人がそれでいいのならと黙り込んだ。ふとして隣で同じく黙々と食べ物を口に運び続けている夏音を見た。
「なんだかずっと大人しいな夏音」
時には誰よりも騒ぎまくる男が大人しい様子に違和感を覚える。ひっそり控えめで前に出ることのない夏音はただの深窓のお嬢様みたいである。
「いま失礼なことを考えなかった?」
「べ、別になにも」
澪は変な部分で鋭い夏音に慌てた。はむはむと何かしら咀嚼し続けている夏音に再び何かを話しかけようと思ったが、何故だか躊躇われた。絶妙にタイミングを外されたような気がして、澪は釈然としないまま自身も口を閉ざした。
昼食を摂った後にまた遊びを再開した律、唯、ムギだったが、梓は少し疲れたからとそれを断った。木陰で休む澪と夏音のそばに体育座りのまま、フリスビーに戯れる三人をぼうっと見詰めていた。
澪は持参した雑誌に目を落としながら、どうにも居心地の悪い時間を過ごしていた。時折、梓の方をちらりと窺っては夏音の方へと視線をずらす。
両者ともその表情から読めるものはなく、何を考えているか分からない。沈黙を守る二人を気にしながらも、澪は亀のような速度で雑誌を読み進めていた。
「あの、夏音先輩は外でバンドやったりしないんですか?」
ふいに沈黙を破ったのは梓だった。木陰でごろりと寝転びだした夏音に遠慮がちに話しかけると、夏音はすっとその青い瞳を梓に向ける。
「しないね。俺はここでは他にバンドをやるつもりはないな」
その答えに、澪は自分の心臓の鼓動がぐんと跳ね上がるのを確かに聞いた。迷いもなく放たれた言葉にどきどきとしてしまう。
あまりにはっきりと答えられたせいか、梓はその理由を訊こうとしなかった。面食らったように口を開けて夏音の顔を窺っていたが、すっとその視線が澪に移る。
「澪先輩は、どうなんですか?」
「わ、私? んんー、外バンも面白そうだけど……私も外でやるつもりはないかな」
少し考えたが、結局考えは夏音と一緒であった。今さら全く知らない他人とバンドを組むつもりもないし、今いちやる気のない部員ばかりということ以外は不満はない。
梓は澪と夏音の答えを聞いて、何か喉に物がつっかかるような表情をした。腑に落ちないと言いたいのが目に見えたので、澪は向こうで遊び呆けている者達のフォローをしてやるかと口を開いた。
「普段はあんなんだけど、やる時はやるから」
「…………なんか、説得力が」
言っておいて、澪もこの言い草はまるで「やればできる子」と一緒ではないかと思った。目に映る現実が澪の言葉を軽々と叩きつぶしてしまうのだ。
「だ、大丈夫だよ。そろそろ、きちんと活動するから」
そう言うのが澪の精一杯である。梓は疑わしげな顔のままだったが「わかりました」と頷いた。
「ボートのりたいなー」
するとその時、身体を起こした夏音が出し抜けに言った言葉に澪と梓は揃って目を瞬かせた。
夏音の視線の先には、公園の池にのんびりと浮かぶボートがあった。
「乗ろう!」
ばっと立ち上がった夏音は二人を交互に見ると、微笑を浮かべて言った。
「何でボート?」
思わず疑問が澪の口から出た。
「そこに、あるからさ」
「あ、あの! ボートってお金かかるんじゃ?」
梓がおずおずと訊ねたが、夏音は思い切り鼻で笑うと偉そうに言った。
「後輩が気にしない! 先輩に任せなさい」
一度決めたことにはトコトン強引な男である。二人の了承を得る前にすたすたとボート乗り場の方へと歩いていってしまう。
残された二人は顔を見合わせた。
「澪先輩はどうしますか?」
「せっかくオゴリって言ってるんだし、いいんじゃないか?」
手持ち無沙汰にしていた梓の気分転換にもなるだろうと思った。あの三人のハイテンションから遠ざかるのにも丁度良い。
二人は向こう側で騒ぐ三人に気付かれないように、さっさと先に行ってしまった夏音の後をついていった。
「ラッキーボートとボートってどう違うんだろう」
料金の案内の前で首を傾げていた夏音の言葉に澪は船着場を見た。
「あれじゃないか? 手こぎのボートと足こぎの違いだと思う」
「あ、なるほど………手こぎでいこう」
ぎらりと何か瞳に宿った夏音が即断した。先に料金を払い、係の者に案内されてボートに乗り込む。
「うっ。ちょっと狭いな」
澪は先に乗り込んでオールを握った夏音の対面に座った。そうなると自然に澪は梓と並ぶことになる。隣にちょこんと座る梓の身体を自分の身体が否応なく比較されて、テンションが下がったのは秘密である。主に尻のサイズ的な意味で。
「いよーし! 夏音、いっきまーーーす!!」
早速、ネタを口走る夏音はふん、とオールを回した。
「うぅ……意外に重いな」
ぼそりと呟かれた一言が澪の心を突き破った。
「わ、悪かったな重くて!」
「あ、違うよ。そういう意味じゃなくて」
慌てて否定するが、既に遅い。澪は、もし隣に座る軽量小型の生物だけだったならもっとすいすいと漕げたに違いないと落ち込んだ。
「大丈夫。俺、男だから。大丈夫!」
そう言って夏音はオールを回す速度をアップさせた。驚くことにぐん、とスピードが増したボートは速度自体はゆっくりでも、体感的には不思議な疾走感を感じさせた。
「すごいです!」
非力に見える夏音が意外にも力強いことに感激した様子の梓に、夏音はふん、と鼻を高くした。
(これがやりたかったのね)
男としての力強さ、先輩としての頼もしさをアピールしたかったのだろう。ここに来て、夏音の狙いを察した澪はやるせなくなった。
池の半ば程までやってきた夏音はゆったりとスピードを緩めた。周りには同じようにボートでのんびりと過ごすカップルの姿が見られた。
「………ちっ」
そんな周りを見回した夏音が舌打ちした。気持ちは分からなくはなかったが、その秀麗な顔を歪めて悪態をつく姿は見たくなかった。
「うわー。カモ可愛いです」
幸か不幸かそんな先輩の姿に気付いていない梓はボートの側に列をなして泳ぐカモの親子を見て顔をほころばせていた。親ガモの後を必死についていく小ガモの姿は確かに可愛らしい。澪はすかさずカメラを取り出してその愛らしさを写真に収めた。
「あ、ここから唯達が見える」
向こうではしゃぐ三人の姿が遠目に見えた。
「あの。皆さん、本当に練習してくれるんでしょうか」
遠くの三人を見た梓が俯きがちに漏らす。
「んー。たぶん」
曖昧に返した夏音はやけにそわそわしていた。
「私……高校ではいっぱいバンドやろうと思ったんです。私がバンドやりたいって思うきっかけになった人達がいて、あんな風に誰かにすごい! って思わせるようなバンドをって……それで皆さんの新歓ライブの演奏を聴いて、この人達とならって思ったんです」
その言葉の裏にある気持ちは聞かなくとも分かった。
「がっかり……させちゃったのかな」
澪は核心に触れてみた。今も澪は梓の内心を想像でしか捉えておらず、実際に彼女が思うところがどんなものかを本人の口から聞いてみたかったのだ。
意外なことに、梓はふるふると首を横に振った。
「皆さん、本当はすごいんだなって思うんです。けど、私ばっかりが気負っているのがおかしいのかなって思い始めてしまって」
「ううん。梓の態度が本当はあるべき姿なんだと思うよ」
どことなく、スタンス的に共通点があると思った。澪はいつも放っておくとだらける部員の尻を叩いて練習に向かわせる役割を担っていた。時には、いい加減にしろと怒鳴りたくなる瞬間もある。この一年でそのさじ加減を少しは覚えたつもりではあるが。
「皆さんが私のこと考えてくれてるのは分かるんですけど、流石にずっとこのままじゃ……」
そう言った梓の顔が曇る。澪は正面の夏音に視線を向けて、何か言葉を待った。夏音はオールをゆったりと動かしながら、真剣な表情で梓を見詰めていた。何か言いたげで、それでも口に物が挟まってじりじりするような表情。
「今は――」
ぼそりと呟く夏音の声に梓が顔を上げる。
「今は分からないと思うけど……大丈夫」
根拠のない台詞なのに、どこか説得力がある。梓は夏音の言葉をじっと聞いていた。
「ちゃんとしたこと言えないけど、きっと梓はこの部活を好きになる」
「…………」
梓は根拠のない「大丈夫」を口にする夏音からさっと視線を外した。揺れる水面に視線を落とした彼女はひどく不安そうだった。
しばらくして夏音が疲れたと言うので、ボートは早々に終了となった。それでも、三十分くらいは経ったはずである。
残してきた三人の元に戻ると、いつの間にかさわ子がやって来ていた。
「梓ちゃーん」
良い笑顔で衣装ケースを構えている担任に梓の顔はさっと青ざめていた。
★ ★
昨日の歓迎会の最後に他の部員達の態度に抑えきれなくなったのか、澪が絶対練習宣言をした。本気で怒った彼女の様子に呆気にとられながら三人はぶんぶんと光速で頷いていた。
「忘れてると思うけど、うちは軽音部だから!」
「いや忘れてないから」
昨日の今日で澪の台詞を完パクした律はきりっとした態度で皆を集めてこう宣言した。澪はそんな図太い神経の幼なじみに呆れていたが、これで練習をやっと再開するのだと言葉を呑み込んだようだ。
「長かったな……」
梓が入部してから二週間にもなる。話すべきことが山積みだったというのに、それすらも怠っていたので、まずは今後の活動について話し合うことになった。
「梓はギターだから……すでに二人もギターがいるからなあ」
首をひねる律の言葉に唯がはっと顔を青ざめた。
「も、もしかしてクビとか……」
自身について危惧するところがある唯の発言に夏音は笑った。
「それはないよ。ギター三本となればバンドの音がかなり変わる。今後の音楽の方向性にも関わるから、みんなとしっかり話し合いたかったんだけど……なあ?」
ちらりと視線を向けられた三人の少女はびくりと反応した。話し合いたくても遊びまくっていた自分達のせいで土壇場で悩むハメになっているのだ。三人が氷の視線にびくびくと縮こまっていると、澪が提案を述べる。
「とりあえず、何曲か一緒に演奏してもらえばいいんじゃないか?」
「おお、そうだな。だとしたら梓には唯のパートを弾いてもらうか」
「はうっ!? りっちゃん! 私、やっぱりクビなの!?」
わなわなと口許を震わす唯に律は声を立てずに笑った。
「ちがうちがう。ひとまず練習の時だけピンヴォーカルで歌ってもらうだけだから。ライブの時どうするかは置いといて、まずは練習する必要があるってことだろ?」
「律の言う通りだよ。アレンジで何とかなる曲もあるし、まずは梓に今ある曲を覚えてもらわないとね」
「まあ、夏音が歌うってのもアリだけど。梓、リード弾ける?」
「い、いえ! 先輩のパートはちょっと荷が重いです」
「と、いうことだ。だから梓にはまず唯のパートを覚えてもらおうぜ」
律の説明に唯はほっと息をついた。同時に他を見回した律は誰も反論の声が上がらないのを確認すると、威勢良く叫んだ。
「よーし! じゃあやるぞー!」
「ごめんね。この曲はライブの音源しかなくって」
最初に覚える曲を梓に聴かせることになり、カノンはラジカセにセットしたCDを再生する。
流れてきたのは、ふわふわ時間である。この曲のギターは難易度が低い上、アレンジの幅も大きく残されている。手始めにコピーするにはもってこいだろう。
「いけるかい?」
CDを止めた夏音がじっと耳を澄ませていた梓に問う。
「はい。これなら大丈夫です」
梓は満面の笑みで答えた。
「頼もしいね。他には、これなんかはどうかな?」
後輩の頼もしさについ笑顔が零れた夏音が続きを再生する。イントロのベースが流れてきた瞬間、梓の表情が大きく変化した。
「え……あれ……これ」
「どうかした?」
「いや、ちょっと聴いたことあるような気がして……すごく最近のことだったと思うんですけど」
「俺達のライブで聴いたんじゃないかな? 二曲目にやったんだよ」
「いえ。私、ちょうど三曲目が終わる瞬間に行ったので」
それは、おかしい。この曲は去年のと併せて学校祭の音源しか存在していないはずである。後は、一般の手に渡るはずがないが爆メロでの―――、
「梓。もしかして、君は―――」
夏音が続きを口にしようとした時である。
「このギターは……ちょっと難しいです」
ギターのソロの掛け合いに差し掛かり、梓の眉間に皺が寄る。
「ああ、ここね。大丈夫たいしたことしてないから」
その日は梓に曲を覚えさせる作業を延々と夏音が担った。飲み込みがよく、彼女はすぐに覚えていくので一日で二曲をモノにしてしまった。
結局、今日はバンドとしての練習はなしだった。ムギが家の用事があると早退することになり、律も弟の買い物に付き合うとのことで同じく先に帰っていった。
そんな中、残された唯は梓と夏音がギターを構えて向き合う様子を横目で眺めており、どこか居心地が悪そうだった。実力のある後輩というのは彼女にとって予想外だったのだろう。
唯もこの一年で実力を挙げていることは間違いないが、基礎が梓と比べるとまだまだである。未だ感覚的に弾いている唯と違い、梓は理論をきっちりと頭に入れた上での演奏が巧みなのだ。
だが、どちらも悪いことではない。この違いが後々に良い結果となって現れてくれることを今は願うばかりである。
「あの、夏音先輩。今日はありがとうございました」
小さい頭のてっぺんがこちらを向いていた。夏音は自分が頭を下げられていると気付くのが遅れ、ふっと笑うと手を振った。
「大したことじゃないよ。そんなに丁寧にならないで」
「はい!」
学校からの帰り道はいつもの顔ぶれではなかった。そそくさと帰っていった唯とは違って澪は部室でそのまま自主練習を続けており、夏音と梓と澪の三人での下校となった。
「どうだ、梓? やっと軽音部らしい活動ができたな」
澪が梓に話しかけた。
「なんか、ここまで道のりが長かった気がします」
「確かにな。でも、これから梓も曲を覚えてみんなでバンドできるぞ?」
「はい! あの方々がやってくれるかが問題ですけど……」
思い浮かぶのはキャーキャーと騒ぐ三人組の姿。おそらく、彼女の中では律と唯とムギの三人のイメージは相当浮ついたものになっているだろう。
「だ、大丈夫! 私がちゃんと言って聞かせるから!」
自信満々とは程遠く、苦し紛れのような形で澪が強く言った。夏音は彼女がその役目をこなせた機会が幾つあっただろうかと記憶を探ったが、むなしくなってやめた。
「あの……こないだと似たような質問になってしまうんですけど。お二人はどうして軽音部にいらっしゃるんですか?」
夏音は隣を歩く澪と素早く視線を合わせた。その言葉の端から伝わる梓の気持ちを同時に感じたのだ。
「お二人の実力なら、どこのバンドだろうと引っ張りだこじゃないですか。高校の軽音部にこだわる理由がわからなくて……こんな質問、すごく失礼だってわかってるんですけど。やっぱり気になってしまって」
どう答えたら良いのか分からない様子の澪は言葉を詰まらせている。歩く速度を緩めず、夏音は紫がかった空を見上げて考えた。
「どう答えたらいいのかなー」
何気なく、考えているうちに自然と言葉が口から滑り落ちる。
「俺も何回も答えを見つけようとしたけど、いつの間にかどうでもよくなってたりするんだ。それで……どうでもよくなってる時って、たぶんすごく満足してるんだよね。考え出したらキリがないことって、考えないでいる時の方が楽しいよね」
「は、はあ?」
夏音の返答に困惑の声を返す梓だった。夏音は深く息を吐くと、前髪を払った。
「そうだねえ。わかんないや……コレだ! って答えが見つからない。だけど、これだけは言えるよ。今は軽音部のままがいい」
ぱっと後ろを振り返って、そのまま歩き続ける夏音。梓はやはり納得した様子はないが、その表情を見て夏音は嬉しそうに笑った。
「君にもきっとわかるよ。ていうか、分かってほしいな」
夏音の笑顔を真っ正面で受けた梓は思いがけず言葉を失ったようだ。
「私……憧れてるバンドがある……って前にも話したと思うんですけど」
二人は何か意を決したように顔を上げた梓の言葉を黙って聞いた。
「憧れてるっていうか……純粋にすごいなって思うバンドなんですけど。年も近いのに、あんなに圧倒されたの初めてで。なんか、やんなきゃ! って思わされたんです。あんな風に堂々と大勢の人の前で音楽をやりたいって。いてもたってもいられないってあんな感じなんですね。だから、高校では絶対にバンドやりたいと思ったんです」
徐々に梓の語り口調に熱が帯びる。瞳を輝かせて、語るそのバンドに如何に影響を受けたのか。二人の前でそれを話す梓はそれを語る目的も忘れたようにバンドについて話し続けた。
しかし。語られるうちに出てくる「爆メロ」「途中で終わった」という単語にはっと顔色を変えた澪と夏音は視線を交差させた。
「あ、あのさ……そのバンドの名前ってなに?」
おそるおそる澪が尋ねると、
「Crazy Combinationっていうバンドです」
返ってきた答えに、澪と夏音は青ざめた。
「で、緊急会議ってなんじゃい?」
翌朝、軽音部に皆を集めた夏音と澪に他三名の代表として律が尋ねた。朝早く集められたことへの不満が顔に滲み出ている。
「梓はとあるバンドに影響されたことで軽音部に入ったらしい」
重々しく、夏音が口を開く。
「そのバンドに憧れてるといってもいい。自分もあんな風にバンドやりたいなって思っているらしいんだ」
夏音の説明を黙って聞く三人。まだ話をつかめていない様子で、曖昧な表情で頷いた。
「そのバンドは年が近くて、最近大きな舞台でライブをやったバンドだ」
小出しに情報を出す夏音に焦れたような表情を見せた律は、ある瞬間に「え?」と何かに気付いた様子で、
「ま、まさかだよな」
半ば確信に近い問いかけを夏音にぶつけた。その視線を受けた夏音はそっと首を縦に動かした。
「そのバンドの名前、Crazy Combinationっていうんだってー」
どこか他人事のように響いた夏音の言葉に悲鳴が起こった。
「み、見られてたのか!?」
「あずにゃんが私たちのファン!?」
「まあまあまあ」
三者三様の反応に対して夏音は隣で気難しい顔の澪に視線を送った。その視線に気付いた澪は困ったように眉を顰め、口を噤んでいた。
「律、見られてたっていうけど、まるで悪いことみたいに言うなよ」
「そういうつもりじゃないけどさ。なんか、全然信じられなくて。私らが呼んだ人以外に知り合いが見てたなんて思ってもいなかったじゃん」
あれだけの人が集まっていたのだ。知り合いがいてもおかしくはないのだが、彼女達はあのイベントのことは完全に外での話だという意識だった。自分たちの外の世界での出来事として捉えていただけに、あの場にいた人間がほぼ全て他人だと思っていたとしても不思議ではない。
「もしかして、他にもあの場にいた人がいるかもしれないね。でも、考えてみたらそれこそありえない話ではないよ。ていうか、今は誰が俺達を見ていたかじゃなくて、梓が俺達のバンドに対して思ってることなんだけど」
問題は、そこである。興奮を抑えきれないまま、三人はとりあえず口を閉ざした。夏音と澪はわざわざこれだけの話に皆を集めた訳ではないのだ。
「俺達、軽音部と一致してないんだよ。彼女の好きなバンドとさ」
「え、それって……」
その事実に与えられた衝撃の大きさは夏音にとっても並のものではなかった。純粋に喜んでよいものか迷う事態である。夏音に告げられたことに三人は戸惑いを隠せない様子であった。
「私達の演奏、聴いてたんじゃないの?」
一体、どうしてそんな事態に陥るというのか。純粋に疑問を浮かべた唯に夏音は昨日梓から詳しく聞いたことを説明する。
「周りの人間が大きすぎてステージが見えなかったんだってさ。あの小さい身体で人波をかきわけて、何とか前列まで辿り着いた時には俺達のステージが終わる寸前だったそうだよ。ダイブまでして姿を確認しようとしたらしいんだけど、床に落ちてだめだったらしい……ウケるんですけど~」
「全然ウケない!」
ぽつりとクラスの女子の真似をした夏音に律はかっと目を見開いて突っ込んだ。
「あぁ~。なんかすっごい飛んでた子がいたけど、もしかしてアレかな」
「たしかにすっごい飛んでたわね~」
一瞬のことなのに、ステージから眺めていた一同の記憶にしっかり刻み込まれていた。最後の曲にとんでもない高さまで飛んだ人の姿。
「でも、曲とか聴いて分からないもんかねー」
腕を組んだ律が唇を尖らせた。仮にも、姿を見られなかったとはいえ、曲はしっかりと聴いて
いたはずである。
「新歓ライブはセットリストもだいぶ変えたし、まず俺達の構成が違うでしょ」
ヴォーカルが別の人間になるだけで、かなり曲の印象は変わる。爆メロと同じ曲は二つしかやっていないだけでなく、彼女は最後の曲しか耳にしていない。
「クマさんの音源を聴かせた時は何か引っ掛かった様子だったけどね。でも、音源と実際に聴くのとじゃ印象も違うし……何より、気付く要素がないんじゃないか」
最後に触れた部分こそ、夏音が議題にしたいことだ。
「純粋に憧れてるバンドがさ。まさか、こんなゆるーい人間ばかりだなんて、思いたくないだろう」
息を詰まらせる三人に、ようやく澪が口を開いた。
「みんな、どうするつもりなんだ。梓、もう軽音部から心が離れかけてると思う」
「え?」
「少しも自覚なかったのか? みんながちゃんと練習しないから、梓も呆れっぱなしだぞ」
そう口にする澪の口調にも若干呆れかえっているようなニュアンスが含まれていた。
「もし、本当のこと聞いたらショックかも」
その言葉に言い返せる者はいなかった。澪自身も他人事ではなく、悔いているのだ。現状は、皆の責任である。
「で、でもさ。先輩方が憧れのバンドだったなんて! ってなるかもしれないだろ?」
楽観的な意見が律から出ても、賛同の声は上がらない。おそらく口にした本人も、それはないと気付いていた。
「ていうか、何で爆メロに出たことを誰も言っていなかったんだろう」
ふと口に出した夏音。
「俺達、あの子に隠してばかりじゃないか」
「そ、それは……もっと軽音部に馴染んでから、色々明かしていこうって話し合ったじゃん」
「話し合ったけど、なんでそれで納得しちゃったんだろうって……今さら思ったんだ」
立派なバンドとしての実績である。誇るべき点しかなく、隠すべき理由など本来はないのだ。
「それは……あの時のバンドのことで騒がれるのはいやだねって」
「俺のこともあるし、へたに声かかったりしないようにって、そう決めた。でも、それって梓のことを最初から信用してないってことなんだよね」
夏音は顔を曇らせ、俯いた。
「俺のことだって……隠してばかりだ」
沈黙。
「歓迎してるつもりで、仲間にしようとしてないじゃないか」
沈黙は続く。痛々しく肌に触れるような沈黙を、少女達は打ち破る術がなかった。それぞれの胸に最近の出来事が鮮明に蘇る。
歓迎と称して、梓を振り回して楽しんでいてばかりだったこと。楽しく、早く打ち解ければ良いとやっていたことが、梓にとってどんな仕打ちだったのかを思い返す。
誰もが無言でいた中、顔を上げた唯がこんな提案を口にした。
「あのね、それなら―――」
唯の提案を聞いた一同は、少しだけ明るい顔に戻り、力強くその提案に賛同した。
★ ★
「はぁ」
手を休めた途端に口から漏れる溜め息は梓の気力ごと床に落ちていったような気がした。赤いボディの相棒をスタンドに立てかけ、梓は力無くソファに埋もれた。
今日、夏音から教わった曲の復習をするためにギターに触れていたが、どうにも力が入らない。
これからのことを考えると、どうにも気力が湧かないのだ。
梓にとって幸運だったのは、立花夏音と秋山澪。その二人の先輩が自分を音楽をやる部活に所属していることをきちんと自覚させてくれること。つい、うっかりすると目的を見失ってしまいそうな現状で、自分の立ち位置に楔を打ち込んでくれる。
軽音部に入部して二週間に届くこの時分、ここが潮時かという思考が膨らむのをずっと抑えている。あの部活で嫌いな人はいない。ただ、仲が良いだけでは音楽は続かないのだ。そもそも、音楽でつながった試しが未だにない。
「あ、そういえば音源貰ったんだ」
新歓ライブの時に録音した音源を家でも聴けるようにと夏音が手渡してくれたCDがある。
実際にコードやテンポを思い出しながら弾くよりは数倍も効率が良いに決まっている。そうと決まれば、鞄から無機質なCD―Rを取り出した。
部屋にあるオーディオ機器はどれも洗練されたデザインのハイエンドな物が取りそろっている。完全に親の趣味によって増えた機材が梓にお下がりという形となって所有するきっかけとなったのだが、お下がりとはいえ十分高級機材である。
シュイン、と音を立てたこれまた細部にまで洗練された造りのコンポがトレイを開いて待つ。
全てで五つのトラックが収録されてあるが、全ての曲をきちんと聴いたことがない。これも良い機会だと、ソファにゆったりもたれながら梓は流れてきた曲に耳を集中させた。
「え……?」
もう一度、曲を確かめる。確認作業。しかし、間違いはなかった。
「うそ……やっぱり。先輩達が、あのバンドの曲……を!?」
梓は何度も自分の間違いではないかと、祈るような気持ちで曲を聴き直し続けた。
「どういうことですかっ!?」
全員が揃い、梓を待っていたところであった。お茶を囲み、会話も少なめに構えていた一同は部室に現れて開口一番でCDをテーブルに叩きつけた梓に瞠目した。
「あ、梓? どうしたのかな、そんなに荒れちゃって」
そっと尋ねた夏音をきっと睨んだ梓は猛然と噛みついた。
「先輩、わかってたんですよね! 私が好きなバンドの話したもん! これ、先輩達なんですよね!」
すかさず、額を手で覆った夏音の反応に梓は「やっぱり」と何かを確信した様子だった。
「こんなのって……こんなの、ひどいです……私、先輩達の演奏に憧れて軽音部に入ろうと思ったのに……」
「あ、梓ちゃん?」
ぎゅっと拳を握りしめ、震えだした梓の肩にムギが手を置こうとするが、梓は勢いよく振り払った。
「もっと、真剣に音楽やってる人達なんだって思ったのに! 追いつくためにもっと頑張らなきゃって思った私の決意がバカみたいじゃないですか!」
「………………」
誰一人として梓の決意に対して返す言葉がなかった。
「とにかく落ち着け、な? そのことについてはちゃんとこれから話そうと思って梓を待ってたんだ」
「私が……私が全然ダメだから、バカにしてたんですか。先輩達のバンドに入れないくらい下手だから、わざと練習もしないで……」
それは絶対に違う、と誰もが即座に心に浮かべたものの、じわじわと梓の目に溜まっていく涙に息を呑んだ。
「最初から相手にされてなかったんですか……私なんか……っ!」
誰が何を言う間もなく、梓はその小柄な身体を俊敏に動かして、
「梓っ!」
部室を飛び出していった。
「あずにゃーーんっ!!!」
床にぺたりと倒れ伏して必死に両手を伸ばす唯の叫びは虚しく響いた。
★ ★
「はあ。勢いで飛び出してきちゃった」
梓は学校を出てから勢いのまま、帰り道とは違う方向に歩いていた。ふと冷静になってしまえば、取り乱して喚き散らした自分が恥ずかしくなる。
「もう顔出せないよ……」
部を辞めるにしろ、あんな風な態度をとってしまえば後味が非常に悪い。もう少し理性的に話を切り出すべきだったと梓は後悔していた。
梓は勢いのまま歩いていたものの、ふと思いついてとある場所を目指していた。学校からしばらく歩いて、パチンコ屋の隣に突然現れるライブハウス。梓の友人がよく出演しているハコで、割とプロ志向のバンドが集まると聞いている。
ライブハウスの前に置かれた看板に、今日のブッキングが書かれており、どのバンドも知らなかったが、梓は自然とその中に吸い込まれるように入っていった。
出演者でもないのにギターを背負った少女が浮いてしまわないか不安だったが、誰も気にする様子がないどころか、同じように楽器を背負った人間の姿が見られた。
当日チケットは前売りより少し高くなる上、ワンドリンクのお金も合わされば、決して安いとは言えない。しかし、そんなものは気にもならなかった。
梓は、一つの決意を胸にこの場所を訪れたのだ。
外のバンドでやるということに対して、淡い覚悟しか抱いていなかった。やはり部活動としてやった方が身動きも取りやすいし、時間が多く取れる。外でやることの難しさも考えれば、軽音部というのは都合が良かったのだ。
それでも、その軽音部がだめならば。選択肢は一つしかない。
(外なら、私を受け入れてくれるバンドが一つでもあるかもしれない)
その前に、外バンの空気というものを味わってみたいと思ったのだ。
最前列に陣取った梓は、一つ目のバンドが始まると、ぐっと眉間に皺を寄せ、食い入るようにその演奏を見詰めた。
「ちがう……」
二つ目のバンドも、その次のバンドも演奏レベルは高い。演奏のテクニックは、個人レベルでは軽音部の人間を上回っている人もいる。
それでも、何も感じなかった。あの時、自分を呑み込んだ凄絶な音の感触がない。この人達は何も与えてくれない。
「上手いのに、何で……」
周りの人間との温度差が違うことに気付く。すると、自分はこの場においてひどく場違いな存在なのではないかとぞっとした。
演奏の途中なのに、逃げるようにライブハウスから出た梓はふらふらとした足取りで家に帰った。
それから三日後。この数日、梓は放課後が近づくにつれて気分がどんどん憂鬱になっていた。軽音部に顔を出さなくなってからの間、部室に行くか行かないかの選択肢の間でふらふらと気持ちが揺れているのだ。その二つがどちらにせよ自分の意志表示となってしまうことは分かっていたのだが、梓は黙ってサボることを選んだ。
このままけじめをつけずに自然消滅するという方法は考えていない。
それでも、
「このまま逃げちゃうってのも、いいかな」
梓は知れず零れていた自分の声に驚いてしまった。ふと頭をよぎっただけの考えを実際に口にすると、後ろめたさが噴き出てきたのだ。
「(でも、このままじゃいけないのは分かってる)」
物事に白黒つけなくては気が済まない。自分の性格は自分が一番理解している。やはり、自分が軽音部を去ることになったとしても、退部届は先輩方に直接渡すべきだと思う。それに登下校の最中や移動教室の度に先輩と顔を合わせないかどきまぎする生活は精神的によくない。
「でも、今日はちょっと……」
さらっと部活に顔を出せるほど面の皮が厚くはない。
とりあえず今日も先輩にメールして休むことにしよう。そんな風に納得して、教室を出た時である。
「確保~~~~っ!」
「お攫い御免っ!」
聞き覚えのある声と共に梓の体はひょいと担がれる。
「え、え!? キャーーーッ!!」
二人がかりで梓を江戸時代の駕籠かきよろしく、えんやこらと運ぶ犯人の予想はつくが、現在進行形で拉致られている身としては天井と向かい合って運ばれている状態は恐ろしい。
視界の端に見える同級生の驚いた顔を置き去りにして、びゅんびゅんと移動する犯人達がどこに自分を連れていこうとしているのか。
考える間もなく理解した梓は目を閉じて、大人しく運ばれていった。
「到着! 梓が軽くてよかったー」
やっと下ろされたことで、そっと目を開けた梓。自分が部室の風景を前にしていることがどこか非現実的であった。気まずさもあってしばらく拝むことはないだろうと思っていた景色だ。
実際にはそんな気持ちなど感じる暇も与えられないまま、運ばれてきたわけだが。
「梓っ!」
ぽかんとしている梓の名を呼んだのは、まさに自分をここまで運んできた夏音だった。
「最近、体調が優れないみたいだけど元気だった?」
その質問を聞いて何て白々しいのだろうかと梓は呆れてしまった。誰がどう見ても仮病だと分かるメールの文面を頭から信じているとでも言うのだろうか。
「は、はい……すみません」
そんな夏音と目を合わせることができず、顔を逸らして答えた梓に夏音は満足そうに「そっか!」と笑った。
「あのね! あずにゃんのためにムギちゃんが専用マグカップ買ってきてくれたんだよ!」
横から唯が弾むような口調で声をかけてくる。ぎこちない笑みを浮かべて梓がようやく顔を上げると、心から嬉しそうに目を細める五人の顔が目に入ってきた。
まだ嫌われたわけじゃない。その笑顔にほっとする反面、三日前の出来事が頭をよぎってしまう。
「あ、あの……」
自分から何かを言い出さなくてはならない。梓がもごもごと言葉を探していると、ぽんと肩に手を置かれた。
「あずにゃんもう部室に来てくれないのかと思ったよ~」
以前と変わらず抱きついてくる唯の言葉に、強引に連れてきた張本人のくせにと思ったが、その温もりが何だか懐かしくなってしまい、何か言おうと思っていた言葉が引っ込んだ。
「そうだぞー? あれからちゃんとバンドの練習するってとこだったのに」
「本当だけど、律が言うとすごく嘘っぽく聞こえるな。でも、あれから私達も気が引き締まったっていうか、気合いを入れ直されたっていうか」
「キアーイって俺達ほど似合わないバンドもないけど、おおむねそんな感じかな」
絡みついていた腕を解き、唯が梓の瞳をぐっと覗き込んできた。
「あのね。あずにゃんが私達のバンドを好きだって思ってくれてたの、すっごく嬉しかったんだ
よ。だから、私達の演奏を聴いて欲しいの」
「え?」
「いや、かな?」
「いやでも無理矢理きかす! 部長命令で梓はそこに座れーい!」
律の威勢の良い声に梓はびくりと肩を揺らした。返事をする暇もなく、ふらふらとベンチに座らされた梓は先輩方が既に楽器のセッティングが済んだ状態であることに気が付いた。
梓が息を呑み、ヴォーカルマイクの前に立つ夏音に視線を吸い寄せられた。
「(あれ、夏音先輩がヴォーカル……?)」
ふと思い返す。軽音部が自分の知るバンドだったなら、あの時聴いたヴォーカルの声が唯のものではないことは確かだ。ということは、本来のヴォーカルは夏音だったということなのだ。
また新たな事実だと純粋に梓は驚いた。
アンプはいつも無造作に置かれている配置ではなく、まるで誰かに向けて音を飛ばすように、梓が座るベンチの方へと揃って向けられていた。
頷き合い、一斉にこちらに視線を送ってきた五人の姿に梓は言いしれぬ高揚感を感じた。されるがままにこの場に連れてこられ、言われるがままに大人しく座っているわけだが、これから始まる演奏にドキドキと心臓が高鳴るのがわかる。
あの演奏が、目の前で。この自分だけのために。
しんとなる。
五人の間に何か、目に見えない繋がりができた気配。アンプに近づいた夏音と唯が音を、滑り出すように生まれてきた音が膨らんで、音の圧が窓をびりびりと震わせる。
ごくりと唾を呑み込んだ梓は改めて至近距離で感じる音の実体に驚いた。ライブハウスのスピーカー越しの爆音とはまた違って、目の前で生まれたギターの音はこの狭い空間でダイレクトに梓へと伝わる。
考える前に感じているとはこういうことを示すのだろう。凄い、や上手い、をびゅんと後に置き去りにして、ただ一つだけ。
これがいい。
ああ、これがいいんだと梓は納得した。外のライブハウスで見たオリジナルバンド。彼らに足りなかった物の正体はまだ分からないが、はっきりと言えるのは、この人達の演奏は確かに自分を惹き付け、今も尚こうして梓を音の虜にしている。
律のドラムや唯のギターはその辺のライブハウスにはもっと上手い人はいるし、澪のベースもよく聴けば、ミスをしている部分もある。だが、そういった一つ一つから彼女達が放つ演奏の生の息遣いに触れているようだ。
真っ直ぐと梓を見据えて歌う夏音の鮮烈な輝きが梓の目に映える。宙に翻る長い髪、逆光の中で舞うようにギターを弾き、その力強い声であの広い空間を切り裂いていた。イメージが蘇る。ステージで梓が束の間とらえた人の正体が分かった。
今まではっきりとした姿が見えていなかった。今こそ、梓は自分の好きなバンドを、その全貌を目撃しているのだ。
聴いていて、雄大なのにどこか切なくなる。自分の中にある感情のどこかをちくちくと刺すような痛みを包み込む音。
全てを包み込んで、その気になれば梓を押し潰してしまいそうな、そんな音。
伝わる。音のはどこまでも広がっていくのに、気持ちは直線上の動きでクる。
ああ、この曲はこういう進行だったのか。何ていう曲なんだろう。何をテーマに歌っているのだろう。誰が作曲したのだろう。
訊きたいことが、たくさん溢れてくる。
ソロを弾く唯の姿はぽわんとした得体の知れない不思議系女子の面影を潜め、梓の目線を釘付けにした。
それを見て、悔しさが沸き上がる。自信が無いような態度を見せておいて、こんなギターを弾くなんて。梓が持っていないものを持っているではないか。
リズム隊は突っ込み気味な律を抑える澪とのコンビネーションが絶妙で、曲のグルーヴを支えている。キーボードは全ての音を包み込むように荘厳。
アウトロが終わり、揺らぐギターの残響がまだ頭に残る。
演奏を終えた五人が梓を見る。
「あ、ああああああ梓?」
途端に泡を食ったように梓の名を呼ぶ夏音に梓は首をかしげた。
「大丈夫!? どこか調子悪いの?」
「え、いえ。調子なんて……」
思わず頬に手を当てて、硬直した。
「え?」
頬が濡れている。思えば視界がぼんやりとしていて、瞬きをするとぽろりと涙が零れた。
「も、もしかして私達の演奏が泣くほど気にくわなかったとか?」
不安を口にする律がドラムセットから出てきて梓の前でしゃがみ込む。
「あ、そうじゃなくて……その、演奏、ありがとうございます」
頭がこんがらがって、梓は今の演奏に対して惜しみない拍手を送った。
一同は顔を見合わせ、晴れない顔をする。
「も、もしかして辞めるとか言わないよな?」
青ざめた顔の律にどよめく場。
「あ、あのッですね!」
まずい、何か言わねばと梓は口を開く。何かを、言うのだ。
「わ、私感動して……これ、そういう涙です。多分」
涙を拭って鼻水声のまま、梓は語り出した。
「私、分からなくなって……ここ数日どうして軽音部入ったんだろうって……どうして新歓ライブであんなに感動したんだろうって………しばらく一緒に居てみればきっとわかると思って一緒にやってきたけど……」
その「けど」の後に続くだろう言葉に五人は顔を落とした。しかし、梓は四人の予測を裏切って全く別の話を始めた。
「外のライブハウスで外バン観たり、こんな自分でも受け入れてくれて、ちゃんと練習してるような………でも、だめなんです。私、軽音部じゃなきゃだめなんです! 先輩達の演奏に一目惚れしちゃったんです! ダメダメだけど、それでも! 一緒に音楽やるなら先輩達とじゃなきゃ……やです」
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を真っ赤にして、梓は本当の気持ちを明らかにした。梓自身、まとまりがつかない複雑な気持ちを持て余していたのに、先ほどの演奏は梓にそれらの感情を固めさせたのだった。
「梓ちゃん……」
ムギがティッシュとハンカチを駆使して梓の顔を拭っていく。「ずびばぜん」と大人しくなった梓を呆然と見詰めていた一同は、自然に溢れてきた笑顔で万歳と抱き合った。
「梓が帰ってきてくれたぞー!」
「よがっだよ~~~よがっだ~~あずにゃん」
「やっぱり、やればできると思ってたよ私は」
「調子に乗るな!」
そうして笑い合うその風景を横目に見た梓は、ほんのり微笑んだ。こういう空気はあまり得意じゃなかったけど、これからずっと付き合っていくもの。先輩方のやりとりが微笑ましく感じてきたのだ。
「あ、それはそうと。この件はひとまず一件落着、ってことで」
急に平静に戻った律が切り出すと、側にいた夏音が頷く。夏音はごそごそとベースアンプを前に出してきて、いそいそと動き回りだした。
「あのな、梓。もう一つ私らから重大な発表というか、告白があるんだ。とある男の正体についてなんだけど」
「へ? 何の話ですか?」
全く話についていけない梓は困惑する。
「本人も、私らもさ。本当はもっと前から教えようと思ってたんだけど、タイミングっていうのがさー。わかってくれるよなー梓なら」
「は? え、ええ、まあ?」
全く分からない。言っていることの半分以上も分からない。とりあえず肯定しておいたものの、それより梓はベースを構えてセッティングをしている夏音が気になって仕方がなかった。
「Good」
と一言呟いてアンプをいじり終えた夏音が梓の方を向く。気が付けば、狭いベンチには他の四人が押し合いへし合いで座っていて律などは「待ってましたー」などと声援を送っている。
一体、何が始まるのだろうかと梓はそわそわした。流れから推察すると、これから夏音がベースを弾くということなのだが。
「では、1stアルバムの一曲目から。Blue Shows」
一発目の音を聴いた瞬間、梓は顎を落としかねない勢いで口を開けて固まった。
何だこれは。
急にこの部室が別次元に引っ張り込まれてしまったような錯覚。音の吸引力が梓の聴覚をぐいぐいと引っ張っていく。もっとよく聴かせろと脳みそが耳から飛び出してしまいそうになる。
何より。
この曲を梓は知っている。どこで聴いたか思い出そうとすると、父の顔が浮かんだ。はて何故だろうと記憶を辿ると、父が持つレコードにこんな曲が入っていたような気がするのだ。
あと少しのところまで出かかって、思い出せない。だが、梓は確かにこの曲を覚えているし、もっと重大な何かを思い出そうとしている。
しかし、そんな思考も演奏に気を取られて引っ込んでしまう。
ダイナミクスの付け方が人間離れしている。電気を通しているのに、こんなにも伝わる音。音の粒一つ一つの表情がここまでハッキリと聞き分けられる演奏など、聴いたことがない。
テクニックなどは言わずもがな。ベースとは、こんな音も出せたのかと驚愕させられるばかりで驚きすぎて一転して冷静に演奏に集中することができるようになった。
「(夏音先輩、ベースもやるって言ってたけどここまでなんて……夏音先輩は……あれ? カノン……)」
「えっ!?」
つい、声が漏れた。
先ほどから頭の中でバラバラに蠢いていた思考が急につながったのだ。
「うそ……カノン・マクレーン……何で?」
思い当たる人物はただ一人しかいなかった。カノン・マクレーンという名のベーシスト。アメリカで活躍していたプロのミュージシャンの名だ。
もはや確信だった。梓は夏音の顔をじっと眺めて、過去に映像で観た人物と相違ないことを確認した。
「(完全に本人~!?)」
思えば、何故気付かなかったのだろうか。名前も一緒で、ただ苗字が立花という日本のものだったというのもある。
名前が違う。髪の色が違う。日本語を喋るとは思っていなかった。そもそも日本で学生をやっているなどと思ってもいなかった。
だが、一番の理由は、
「女の子じゃなかったのー!?」
たまらず叫んだ梓の台詞に夏音はぴくりと反応したが、そのまま演奏を続けた。少し演奏が荒くなったのは気のせいだろうか。
演奏が終わり、四人分の拍手が鳴り響く。夏音はぺこりと頭を下げ、ずっと立ったまま自分の演奏を聴いていた梓の方を見たのだが。
「あ、あぅ、あぁ……」
奇妙な呻き声を漏らしながらガクガクと震える姿があった。
「あ、梓?」
予想していた反応と異なり、困惑した夏音はそっと彼女に近づいた。そんな彼女の様子を不思議に思ったのか、律が声をかけた。
「あのな、梓。こいつは実は―――」
「あ、あのっ!」
律の声を遮って駆けよってきた梓に夏音は「は、はい!」と声が上擦る。
「ほ、本物だッ!! 本物だ本物だ!! 何でどうしてカノンが!?」
「はあ!?」
その後数分間、部室は騒然となりパニックに陥った梓はそんな彼女達を置き去りにして大層喋った。
「あ、違うんです! あのサインください!」「いや、私じゃなくて父が!」「ていうか何で!?」「これで男性だったなんて!」などと連射砲のごとく繰り返していた梓だったが、深呼吸をして落ち着かされてから、ようやくゆっくりと語り出した。
「私、気付きませんでした!」
否、いまだに興奮は冷めやらぬ状態だったが。くりくりとした大きな瞳を輝かせて、じっと自分を凝視してくる梓に夏音はとりあえず落ち着くよう再度促した。
「と、取り乱してごめんなさい。あの、夏音先輩は、カノン・マクレーン……さんで間違いないんですよね?」
「そうだよ。もしかして梓なら知っているんだろうなって思ったんだけど、なかなか言い出せなくて」
「いいいいいえ! いいんです! 私こそ気付かなくってごめんなさい! あの、先輩のことは父がファンで。前に付き合いでレコード聴いたり、DVD観たりしてたのに、いざ現実に目の前にいるなんて思ってもいなくて」
そりゃそうだろうなーと同じような経験のある澪がうんうんと頷いた。
「私、まだ年の近い女の子が凄いことやってるんだなって思ってて。純粋にすごいし、曲も大好きだし、憧れてっていうか刺激になってて」
つっかえながら話す梓の言葉はきちんとまとまりきっていないが、その思いはよく伝わってきた。
「でも、女の子だと思ってたし! まして自分の学校にいるなんて考えてもいなくて! とにかく好きなんです! 尊敬してます!」
十分すぎるほどに、伝わる。言ってから顔を真っ赤にして恥じらう梓の手を取った夏音はそれをぐっと握りしめた。
「ありがとう。とっても嬉しいよ」
「はぁ~」
梓は握りしめられた手の感触に恍惚の笑みを浮かべている。まるで憧れの人物と出会った時のリアクションそのもので、夏音としてはやっぱりこういうリアクションを見るのは久しぶりなので悪い気はしない。
時折、道ばたなどで自分を知る人と出会うことはあるが、ここまで熱烈なのは久しい。
「とにかく、梓。何で外でバンドやらないのかって前に俺と澪に訊いたよね? 俺が何でこの場所で音楽をやるのか。きっと梓にも分かってくると思う」
その特殊な立場の人間が、あえてこの高校の部活動に身を置くことの意味。普通に考えて梓には信じられない話であった。しかし、夏音の話を聞くと不思議と納得できそうになる。
まだ梓がつかめていないものの正体を、彼は知っているのだろう。
「もっと俺達、向き合おうよ。いっぱい音楽やって、楽しく過ごしてさ。そうやって軽音部、やっていかないかな」
その一言がとどめだった。
「ば、ばいぃ」
再び梓の涙腺は決壊した。
※年末年始と忙しくてPCに触れる暇がありまえんでした。定期更新目指してまた今年も頑張ります。