「いやいや、そこはそう訳さないでしょう。日本じゃ英語はこうやって習うの?」
「んー、私は特に教えられた通りに訳したつもりだけど」
「間違ってはないんだけど……ただニュアンスがちぐはぐな感じかなー。海外に住む時がきたら、こういう些細な違いが大恥につながるんじゃないかな」
「将来、か……使うことになるのかな」
「それは澪の進む道次第だけど、小さなことでも正しく覚えておいて損はないよ」
音楽準備室―――またの名を軽音部部室―――では、恒例となったティータイムのお時間となっていた。
今はこうして机の上には菓子とお茶の他に勉強道具が広げられている。というのも、律と澪が本日出された英語の宿題の手伝いを夏音に頼んだのだ。自他共にバイリンガルと豪語している夏音にとってはお安い御用で、快く引き受けた。
ちなみに律は早々に離脱して、勉強とはまったく関係のない話題でムギと会話に華を咲かせている。
唯一、真剣に夏音の話を聞いているのは澪のみであった。
「ふん……ん、んーdon`t despair? なんかこの教科書、ブリティッシュとアメリカンがごちゃ混ぜだな。俺なら普通don`t worryって言うね、つまり――」
「あーなるほど!」
そんな夏音と澪を横目に律は頬に手をあてて二人を茶化す。
「ずいぶんと仲がよろしおすことねー!」
その瞬間、俊敏なガゼルのようなしなやかさで律に肉薄した澪の拳固が律の頭蓋に抉り込まれる。
「お前もちゃんと聞いとけ! どうせ後で泣きついてくるだろうが!」
「い、いたひ……最近ひねりが入ってきてヤバイ……ま、終わった後に全部見せてもらおうと……じょ、冗談だよ!」
怒髪天をついている澪による二発目を回避すべく律は椅子からのけぞった。
夏音は「仲睦まじいねー」と笑った。このコンビのどつき漫才も早くも恒例と化したやりとりであった。そんなぎゃーぎゃーと騒々しい部室を訪ねてきた人がいた。
「こんにちはー」
ニコニコと部室に入ってきたのは音楽の担任の山中さわ子であった。
この女性教師は夏音や他の部員とも面識のある人物であった。軽音部の四人も元気よく彼女に挨拶を返す。譜面代を借りに来たと言ったさわ子はふと夏音に視線を向けて微笑んだ。
「あら、あなたやっぱり軽音部に入ったのね」
以前、夏音が楽器経験者であることを的中させた彼女は、実は澪や律に彼のことを紹介して、軽音部の部員獲得に一役買っていた影の立役者であった。
「はい、とっても楽しいですよ」
「そう、よかったわ。じゃ、そんなあなた達に朗報よ」
優雅にほほ笑んでテーブルの上に一枚の紙を置き、一言。
「入部希望者がいたわよー」
なんと、待望の新入部員。果報を寝て待つ訳ではないが、ただお茶をしていただけで訪れた良い報せに一同はわっと沸き立った。
「よかったねー」
夏音も軽音部の部員として、安堵した。これで廃部を逃れることができる訳である。
「それと、素敵なティーセットだけど飲み終わったらちゃんと片付けてね」
最後に教師の顔で優しく注意すると、山中先生は部室を出て行った。
「よっしゃーー!! 廃部じゃなくなるーー!」
律が入部届を手に椅子の上で跳ねる。その際にがたりとテーブルが揺れて紅茶がこぼれたので、澪が非難の目線を送ったが当人は気にもしない。
一同は、そろりと椅子に座った律を囲んで顔を寄せ合ってその紙を覗き込んだ。
「どれどれ……平沢唯……なんか名前からすごそうだぞ。なんだろこのデジャヴ」
「やっぱギターだよな」
「ギターかねー」
「どんな方が来るか楽しみですねー」
ただ、皆浮き足だっていた。
無理もない。夏音自身も新しい部員が来るということに胸が高鳴っている。
それは新しい友達、仲間が増えるということなのだから。
ああもうこれでリア充への道は近いやったぜと密かに胸を高鳴らせる夏音であった。
最近の夏音は放課後を楽しみに学校に来ているようなものだ。つまり、その放課後の時間が削られるのは、如何ともし難く耐えがたいことなのだ。
だというのに度々自分をつけ狙ってくる英語の先生につかまってしまった。この教師に捕まると、何故か英語で世間話をするハメになる。
ひどい発音でぺらぺらと喋る先生にいつも辟易させられてしまう。
廊下でばったり会ってしまい、「Shit」と小さく漏らしたが、相手は明らかに迷惑そうな夏音の表情などお構いなしに駆け寄ってきた。
自分を発見した際のその教師の顔といえば、大好きなご主人さまの姿を視界に捉えた犬のよう。こんな可愛くない犬はいらん、と思った。
十数分のぐだぐだな会話を終え、何とか解放されたところで急ぎ足で部室へ向かう。
「おや?」
廊下を歩く途中からどこからか楽器の演奏の音が漂ってきた。もしや、と階段にさしかかると、明らかに上の階から聞こえるようだった。
階段を上りつつ耳をすませていると、曲が止まる。何だか少し前にも似たような経験をした覚えがあった。
「珍しく練習しているのか?」
雨か槍でも降るかな、と三段飛ばしで残る階段をすいすいのぼっていった。
「お疲れ様です!」
夏音は抜けの良い透き通った声を共に入室した。
そこに軽音部のいつもの反応はなく。
ぽかんと固まる見覚えのない少女がいた。
「……知らない子」
夏音は物珍しそうにその少女に近づいた。
その少女も、突然謎の大声をあげて部室に入ってきた人物に驚いた様子で目を丸くしていた。
これといって特徴はないが、ムギとは違う意味でほわーんと独特の丸い雰囲気を醸し出している少女であった。
「遅かったな」
澪が遅れてやってきた夏音に目を軽く目を尖らせた。
「いや、英語の先生に捕まってたんだ察して。それより、そちらさんは?」
夏音は新入部員の人ではないかと、半ば確信的に尋ねた。
「ああ、この人が平沢唯さんだよ。たったいま軽音部に残ってくれることになったんだ!」
「ん? 残るってどういう事?」
「平沢さん、本当は楽器の経験がなくてやめようと思ってここに来たらしいんだ」
澪が苦笑を浮かべながらそう説明した。
「そうだったのかい?」
目を丸くした夏音に問われると、彼女はびくりと肩を揺らして赤くなった。
「お、お恥ずかしながら……でも、今演奏を聴いてみて、とっても楽しそうだなって。だから、軽音部続けてみることにしたんです!」
そう言った彼女の口調は力強かった。
「楽しそうだよね。俺もそう思うよ」
うんうんと頷きながら夏音は平沢の肩に手を置いた。
「軽音部へようこそ!!」
「……っはい!!」
「はーい! それなら、軽音部活動記念にーー!!」
律が澪のカメラを勝手に取り出してきた。夏音は「またか」と苦笑した。
もちろん大歓迎だ。
「もっと寄って寄ってー」
流石に、自分撮りで五人はきつかった。
「いっくよーん!」
隣で上気する呼吸音とシャッター音が過ぎ去った。
後日、できあがった写真は律のおでこから上までしか写っていなかった。それを見た夏音に大爆笑された腹いせに見事なボディーブローが決まったという。
人間の基本は挨拶、自己紹介から始まる。
「唯でいいよー」
「よろしく、唯」
「実は私、学校で夏音君のこと見かけた時、本物の外人さんだって思ったんだー。何で男子の制服着てんのこの人って!」
「はははー! やっぱり……やっぱりそうなんだ…………」
言葉がナイフのように心を刻むこともある。
という感じに唯を五人目に据えた軽音部はこれにて廃部を回避することと相成った。
今のところ唯は何一つ楽器の経験がないそうなので、この機会にギターを始めることにするらしい。初心者が一番とっつきやすいという理由もあった。
「ところで、結局夏音は何をやるつもりなの?」
律が保留していた夏音のパートの件を指摘する。
「そうだな。ギターは二本あっていいだろうから、ギターかな」
それに対して、まあそうだろうと意見が一致した。しかし、夏音がそこでぽつりと言い添えた。
「でも、ベースもやりたいんだなあ」
夏音の言葉に澪がぎくりとした。律は「まあ、あれだけ弾けるんだし」と納得したが、同時に首をひねった。
「曲によってベースを変えるのもアリ、かな? Fullarmorみたいにツインベースとかやっちゃう!?」
「ツインベースか……できないことはないけど……いや、面白いかも」
(そうなると、六弦フレットレスの出番かな)
するとおずおずと澪が口を開いた。
「夏音がベースをやりたいなら、そういうのもいいと私は思う」
「ま、いきなりツインベースはやり過ぎだとしても。例えば俺がベースをやる時は澪がヴォーカルとか」
「ヴォーカルっ!?」
夏音がそう提案すると、澪が例の如く顔がゆでダコ状態になった。
「そう。何か問題ある?」
「は、恥ずかしい……っ」
「じゃあ、澪がヴォーカルで」
「え、やだ!!」
恥ずかしがる澪をついからかいたくなってしまう夏音であったが、あまりに拒否反応を起こすので何がそんなにいやなのだろうかと真面目に首をかしげた。
「別にそこまで嫌がることかなー。歌に自信ない?」
「人前で歌ったりしなきゃいけないだろ!?」
「それは、これからのことだからよく分からないけど」
「これからライブとかあるだろうし……たくさん人の前で歌うなんて私にはとても……男の人もいっぱいいるだろうし」
「俺も男だ」
延々と続きそうなやりとりにしびれを切らしたのか、ムギが澪に助け舟を出す形となった。
「まあまあ。無理に歌って貰う事もないんじゃないかしら? とりあえず夏音くんはギターを弾けばいいと思います。それに、せっかくだから平沢さんに教えてあげたらどうかしら?」
もっともな意見だと皆うなずいた。
「ああ、そうだね。俺でよければギター教えようか?」
「ほんとー!? ありがとう!」
「じゃあ、まずギター買わないとね」
「え、レンタルとかしてくれないの?」
と、彼女は目をパチクリさせた。
「貸せるギターはもちろんあるけど、それは唯のためにならないよ。自分で選んだ楽器を使わないとね」
「そういうもの?」
「そういうもの!」
そういうものなのであった。
唯はまだ両手で数えられるくらいしか足を向けた事がない階段をゆっくり、一段ずつ上がっていた。
人生十余年と生きてきた中で部活動などに所属した経験がない彼女であったが、高校生になってついに部活動に籍を置くことになった。しかも、自分が関わることはないだろうなと思っていたバンド。人生、何があるか分からないものだ。
部活も、音楽をやるのもすべて初めての経験。
これから踏み入れるのは真っ白な世界だ。
どんなものが自分を待っているのか。そう考えた時の浮き立つ気持ちを、抑えることができなくなる事がある。
授業中や、ふと夜に部屋でごろごろしている時など。新しくできた仲間の顔が浮かんできたり、あれやこれやと想像しているだけで足がじたばた動いてしまう。
そう。今までの人生とは、違う。
幼稚園の時も、小学生の時も。中学生になっても、ずっとぼーっと生きてきた。
でも、今の唯には確かに新たな世界の扉が開かれたのだ。
「今日のお菓子はなんだろうなーっ」
わくわくが止まらない。胸とか胃とか。
「こんにちはー」
唯が部室の扉を開けて中に入ると、もう唯以外の全員が揃っていた。座席をくっつけて座っている三人、とお茶を立ち振舞っている一人。
この四人が唯の軽音部の仲間である。
唯が近づいていくと、長い黒髪の少女が片手をあげて片笑んできた。
ベース担当の秋山澪。
唯の中では背が高くて、格好いい大人の女性という印象の子であった。それと同時に唯が一番かわいらしいな、思う人だ。彼女は見た目のクールさとは裏腹に意外な一面も持ち合わせている。
ふと唯が、何故ギターではなくベースを始めてのかという質問をすると。
「だ、だってギターは……は、恥ずかしいっ」
ぽっと顔を赤らめて言うのであった。
「は、恥ずかしいの?」
何が恥ずかしいのだろうと唯は驚いて聞き返したのだが、
「ギターってバンドの中心って感じでさ。先頭に立って演奏しなきゃいけないし……観客の目も自然に集まるだろ? 自分がその立場になるって考えただけで……」
そこまで言うと、彼女の頭から見えないはずの蒸気が噴き出る。まるでピナッツヴォ火山みたいに。
「うおぅ!?」
エネルギーが抜けたようにしおれる澪の肩を抱いて介抱するのはキーボード担当の琴吹紬。本人曰く、「ムギって呼んでね」とのこと。彼女を表す言葉としてはおっとりポヤポヤ。これまた可愛らしい人である。
「ムギちゃんはキーボードうまいよね。キーボード歴長いの?」
「私、四歳のころからピアノを習っていて。コンクールで賞を貰ったこともあるのよ?」
微笑みながらしれっと言ったムギに、唯は何故軽音部にいるのだろうと疑問を抱いた。
彼女に関しては疑問が深まるばかりだった。
「最近の高校ってこんな感じなのかなー」
とやけに物が揃っている部室を一望して唯が感心していると、
「あぁー、それは私の家から持ってきたのよー」
と微笑むムギは何者なのだろう。どこかのご令嬢という線が深い。
唯には初めて接するタイプであることは間違いなかった。
感心しながら、唯はお茶を一口すする。
そしてふと隣に目を向けた。
唯の隣に座るドラム担当の田井中律。軽音部の現部長で元気いっぱいの明るい女の子という感じが全身にあふれ出ている。
「律っちゃんはドラム~っって感じだよね!」
「なぁっ!? わ、私にもれっきとした理由が! そう。聞けば誰もが感動する理由があるんだぞ!」
「へー、どんな?」
「…………か、かっこいいカラ……」
「そ、そこ!?」
「だ、だって! ギターとかベースとかキーボードとか! ぬぁーー」
すると彼女は突然、頭を抱えて悶絶しだした。
「ど、どしたの?」
「チマチマチマっチマ! 指でそんな動き想像するだけで……ぬがぁーっ! って……なる!!」
強引な理由だ。
「そ、そうなんだー」
深くは踏み込むまいと思った。さらに、唯は視線を横にずらす。
窓から差す斜陽に照らされながら優雅にお茶を飲むのは、結局楽器は何をやっているのかはっきりしない立花夏音。
彼は軽音部でただ一人の男の子で、ずっとアメリカに住んでいたいわゆる帰国子女というやつである。
母親がアメリカ人で、夏音はダブルなのだそうだ。
現実にお目にかかった事がないくらい綺麗な男の子で、唯は初めて彼を目撃した時には本当にこんな美人がいるものだと感動した。物語のお姫様がそのまま飛び出てきたみたいな容姿で、硝子細工みたいに繊細な印象の彼はまるっきり女の子に見えてしまう。堂々と女みたい、って言うと彼は変な顔をする。だから、唯はあまり言わないように気をつけることにした。
何より彼は音楽に関してはすごい一面を持っているらしい。
「夏音君はどんな楽器でも弾けるんだよね?」
唯が尋ねると彼はカチャリとお茶を置き、唯の目をじっと見た。
誰かと話す時に、真っ直ぐに相手の目を見詰める彼は本当に綺麗な青い目をしていて、おまけに目力が凄くて慣れないとつらい。ムギもよく見れば瞳の色素が薄いけど、夏音の場合はハッキリと青く見える。
「何でも、はできないよ。ギターにベース、ドラムにサックスに……あとピアノとか」
さらっとウインクをまじえて語ってしまうのも凄い。流石アメリカ育ち。こんなに全てがアメリカンな彼だが、びっくりするくらいに日本語がぺらぺらなのだ。
本当は日本語もしっかりできるのに、その顔が原因であまり周囲のクラスメートと馴染めないのだと夏音は悲しそうに言っていた。
「それでもすごいよーー!! いつから楽器を弾いているの?」
「そりゃあ、小さい頃からだよ」
「え、一歳くらい?」
唯が聞き返そうとしたら、ムギがおかわりをすすめてくれたので話が中断された。
「そういえば平沢さん、もうギターは買ったの?」
澪が唯の名を呼ぶ。
「唯、でいいよ! 私もすでに澪ちゃんのこと、澪ちゃんってもう呼んじゃっているし!」
ぜひ、フランクに呼び合いたいものであった。唯がそう言うと、澪は気恥ずかしそうに逡巡してから上目遣いにこちらを見て――、
「ゆ……ゆいっ」
「はぅあーっ!!」
おそらく天然だろう、こういう子がモテるんだろうなと思った。唯のハートにメガヒットした。
「で、唯~。ギターは?」
律が話題を戻す。
「ギター? あ、そーだった! 私、ギターやるんだっけ!?」
完全に唯は忘れていた。毎日のようにお茶をする部活だと思いかけていたくらいである。
他の四人はそんな唯に苦笑するしかなかった。
「軽音部は喫茶店じゃないぞー?」
澪が少しきつい口調で唯を叱る。
「ごめんねー。ギターってどれくらいするの?」
これは楽器初心者の唯には見当もつかない話であった。すると面倒見が良いのか、澪は顎に手をあててすぐに首肯する。
「安いのは一万円台からあるけど、あんまり安すぎるのは良くないからなー……五万円くらいがいいかも!」
「ご、五万円かー。私のお小遣い十か月分……っ!!」
そこにすかさず、澪が補足した。
「高いのは十万円以上するのもあるよ」
「千万円以上するのもあるよー」
そこに夏音がのんびりとした口調で補足した。
「せ、せんっ……それはもう考えられないです……でも五万かぁー。ほい律っちゃん!」
「なに?」
「うふふ、部費で落ちませんか?」
「アハハー落・ち・ま・せ・ん」
おとといきやがれ、と言うことか。唯はがっくりと肩を落とした。
「どっちにしろ楽器がないと何も始まらないぞ?」
夏音が大皿からブルーベリータルトを一つ取りながら言う。
「よーし!」
律が立ち上がり注目を集める。
「今度の休みにギター見に行こうぜ!!」
唯は楽しみが増えたと喜ぶ内心で、貯金箱の中身を想像して胃が重たくなったのであった。
まわりまわって夏音である。
だだっ広いバスルーム、両足を伸ばして裕に余る浴槽に浸かっていた。髪を頭上でまとめて濡らさないようにして、ふんふんと鼻歌を歌う。
翌日に控えた予定に興奮を収められなかった。時折、バシャバシャーと子供のように足を跳ねさせる。
風呂場に備え付けた防水仕様のスピーカーから流れるBGMに身を委ねながら、うきうきと頭を揺らす。メガデスのHoly Wars。
明日は軽音部の皆と初めてショッピングに行くことになっている。これでは、まるで本当にリア充そのものではないか。
いいのだろうか。自分が、いいのだろうかと何度も反芻した。
「うー…………ビバノンノンってかーーーっ!!!」
心は半分、日本人。
当日。このように女の子とお出掛けというのは初めての経験であった夏音は何を着ていくか非常に迷った。
小さい頃から夏音の洋服をトータルプロデュースしてきた母は不在。服装について聞ける兄弟もいないので、自分だけが頼りだった。おそらく歩くだろうし、カジュアルな格好が好ましいかと考えたが生憎洗濯をため込みすぎて着ることはできない。
仕方なくタンクトップを二枚重ねた上に、襟が広くて肩出しに近いニットのセーター。ピタッとしたパンツという組み合わせになった。
集合の場所に着くと律、澪、ムギの三人が集まっており何やら歓談していた。
「お待たせ!」
夏音が声をかけると、彼女たちはじっと夏音を見詰めてきた。上から下まで視線が這って居心地が悪い。
「ほ、ほら! やっぱりちゃんとした格好だろう」
「これ、ちゃんとしてるか? どう見ても女物まじってないか?」
「Yシャツメガネが……」
自分の服装についての話題だったようだ。
「………なかなか気分を悪くする話をされているぞ」
しっかり三人のひそひそ話が漏れていたのを聞きとっていた夏音。全然声が潜まってないもの。
するとバツの悪そうな顔をして律が笑った。
「いやー。夏音がどんな格好してくるか予想してみようって盛り上がっちゃってさー」
「別に気にしてないケドさ。この格好って変?」
「いえ、とっても似合ってますよー」
「よかったー。俺、あまり自分で服装決めないから悩んじゃったよ」
「じゃ、いつもは誰が決めてるんだよ?」
「母さんが俺の服選ぶの好きなんだ。今までは母さんが寄越してくるやつを言われた通りに着てました」
「ま、マザコンかよ……」
律が「うっ」と身を引いた。幸いにもそれが夏音の耳にとまることはなく、むしろ上機嫌で笑っていた。
「そっかー。俺のセンスでも案外イケるんだなー。気分がいいからみんなに冷たいものでもオゴっちゃおうかなー」
「素敵よ夏音ちゃまーん……おっ唯だ」
態度を180度ほど急変させた律が尻尾を振っていると、横断歩道の先に唯の姿を発見した。
自分以外が既にお揃いであることに気がついた唯は急いで横断歩道を渡ってくる。はずだった。
通行人とぶつかる。
犬と戯れる。
百円を見つける。
「あと数メートルなのに……なぜ辿りつかない!?」
全員の心が一致した。
五人集まったところで、さっそく商店街の中を歩いて楽器屋へ向かうことになった。
聞くところによると、唯は母親にお小遣いの前借りをしてもらって、何とか五万円を用意する事ができたそうだ。
「これからは計画的に使わなきゃ!」
それは厳しい戦いになるだろう。それでも唯はうきうきしながらむん、と意気込んだ。
これから使えるお金が少なくなるとしても、もうすぐギターが買えるのだ。
まさに前途洋々の気分なのだろう。
「……使わなきゃ……いけないんだけどさ……今ならこれ買えるっ……」
唯は商店街の洋服屋のウィンドウの中の服の目の前に張り付いた。
「これじゃ前途多難ってやつだね」
夏音はふっと溜息をついた。律がこーらとたしなめるも「少し見るだけだからっ」と言い置いて唯は店内へ走っていってしまった。その後を律が仕方なく追う。
夏音は肩をすくめて、澪と視線を合わせた。夏音が先にいこうか、と言いかけたところで。
「しょうがないな……私たちも入るか」
「そうねー」
「え、そうなの?」
当然のように澪が言うもので度肝を抜かれた。
(俺が、この店に?)
見るからに女の子の洋服屋さん。ファンシーな外装。
澪たちはさっさと入店していった。独りで残されるのも嫌だったので、夏音もしぶしぶ店へ入ることになった。ふりっふりできゃぴきゃぴな世界の中を迷子になりかけた中で、自分が普段着ているような物がレディースとして売っている事に瞠目した。
「へー。女の子も着るんだー」
新作のワンピースを本気で店員に勧められた時は、涙しそうになった。
精神をがっつり削られて、やっと店から出たと思いきや、次は雑貨屋。デパートの地下と寄り道は続く。
途中に寄ったゲームセンターで夏音のテンションが上がったせいで、長く時間を潰した後、一同は喫茶店でひと息ついていた。
「ひひー買っちったー」
律も買い物をして満足。あー楽しかったまた来ようね、とその場に共通の充足感が満ちた時。
「でも、何か忘れているような……」
唯がそう言った瞬間、夏音はついに叫んだ。
「楽器屋だよっ!!!」
「あっ、しまった!!」
一同は当初の目的をすっかり忘れていたことに震撼して、ばっと席を立ち上がった。
ちなみに、そこのお茶代は夏音がすべて出した。颯爽と伝票をもって会計をすませてきた夏音に四人の女子の評価がぐんと上がる。
「10GIA」
ここのビルの地下に目当ての楽器屋があるという。一行はエスカレーターで下の階におりて楽器屋に入った。
店内に入ると、静かなBGMやギターが試奏されている音が耳に入った。
唯には壁一面にかけてあるギターやベース、弦やシールドにエフェクターなどの光景が真新しく映っているようだ。
「すごーい! ギターいっぱい!」
新鮮な反応に夏音の頬もゆるんだ。
「ねえねえ夏音君。このギターって……」
「それはヤメトキナ。ジミー・ペイジになりたいの?」
初心者にはまずおすすめできるものではない。
夏音もビリー・シーンを真似てツインネックベースをオーダーメイドさせた過去があるのであったが……今ではあまり使わない。
「唯ー何買うか決めたー?」
律が急かすように唯に問うが、ぱっと決められるものでもないだろうと夏音は呆れた。
「うーん……なんか選ぶ基準とかあるのかなぁ?」
当然の疑問である。
「まあ音色はもちろん。ネックの太さや重さ、フォルムなんかもたくさんあるからね。ただ、その予算で決めるのであれば見た目を重視した方がよいかもしれない。あとはフィーリングで」
すらすらと説明した夏音をよそに、唯は思いがけない代物に目をつけてそちらに気を取られていた。
「聞いてないですね唯さん」
顔をひきつらせた夏音であったが、唯が夢中になっているギターを見て、目を軽く見開いた。
「へえ。レスポールか……またすごいのに目をつけたねえ。その予算じゃ到底買えないよ」
「このギターかわいい~」
「あくまで聞かないねえー唯さん」
さすがに肩を落とした夏音であった。
「そのギター25万もするぞ?」
律が値札を見てたまげた。
「ほ、本当だーっ。これはさすがに手が出ないや~」
(やっと気づいてくれたか唯よ……)
律が別の場所に安価なギターがあると指摘したが、唯はそこを頑なに離れようとしなかった。
よっぽどそのレスポールに惚れてしまったのだろう。
ただ、夏音は初心者がいきなりギブソンというのもどうだろうと思った。はじめから良すぎるギターを使うのもどうかと思うし、良いギターでいえばストラトの方が扱いやすい。それにレスポールは折れやすいし曲がりやすい。やはり、初心者が扱うのには少し難儀する代物なのである。
「唯、このギターはもう少し唯がギターを続けてからにしない?」
「え、なんで?」
「まあ、いろいろと難しいギターなんだよ。丁寧に扱わないといけないし、いきなりこんな高いギターを買わなくてもいいと思うんだ」
「ええー、でもこれが気に入ったんだモン……」
あくまで引き下がらない唯に夏音も微妙な表情になる。
(フィーリングが大事なのもわかるけど……金銭的になぁ)
そんな唯を見て何か思うところがあったのか、澪が「そういえば……」と自分が今のベースを買った時の話をした。澪も今のベースを買った時に悩みに悩んだそうだ。レフティは数が少なく、種類も多く選べない。ピンからキリまで値段があるとしても、ちょうど良い価格帯で探すことは難しいのだ。
ちなみに律がYAMAHAのヒップギグを買った「値切り」話はいっそ感心するくらいであった。それを唯に求めるのは無理な話だが。
「とりあえず、試奏でもしてみたら?」
夏音がそう提案すると、唯はきょとんとした。
「しそー、って何するの?」
思わずこけそうになった夏音。何とか踏ん張って、目の前のほんわか娘に説明した。
「実際にこのギターを弾かせてもらうんだよ。実際に弾いてみないと分からない事もたくさんあるだろう?」
「で、でも私ギターまだ弾けないし……」
「あ、そうだったよね……なら、俺がちょっと試しに弾くよ。確認したいこともあるし」
と夏音は店員を呼んで試奏をさせてもらうことにした。防犯用のタグを外した店員がレスポールを片手に夏音に聞いた。
「アンプはどれ使いたいとかありますか?」
「あ、ならそのマーシャルで」
店員はアンプのところまで夏音を案内した。そのまま近くにあった椅子を引き寄せてセッティングをしようとしたが、あとは自分でやるので、と断った。
夏音を囲むように軽音部のメンバーが立ち、てきぱきとセッティングする夏音を眺めていた。近くにあったシールドをジャックに差し、アンプの電源を入れてつまみをすべてフラットにする。チューニングを手早く済ませてアンプをいじった。
唯はその一挙動を頬を赤く上気させて見守っている。
セッティングが整い、夏音はピックを振り下ろした。純正なレスポール・スタンダードの音色が響く。
「おおーーっ!!」
唯が歓声をあげる。
そのまま夏音は試奏を続ける。
「イントロ当てゲーム!」
ふふふ、と笑ってブルージーな曲調に変えた。
「あ、この曲は……クラプトン!」
横にいた澪が驚いた声を出す。
「次は……天国への階段、だろ! ツェッペリンかぁ」
律が弾んだ声をあげた。
「あと、……これはわからないな」
腕を組んで悩む澪に演奏を止めた夏音はにやりと笑って「スティーヴ・ヴァイのソロでしたー」と意地悪く答えた。
「せめてホワイトスネイクの曲にしろ!」
と律が文句を言った。夏音は店員を呼んでギターを渡した。
「で、試奏してみてどうだったの?」
唯が拳をにぎりしめて夏音に聞いた。
「弾いてみた限り、特になんの変哲のないレスポールだった。小まめに調整しているみたいだし、あれなら大丈夫だと思うよ」
にっこり笑って太鼓判を押した。
(それに、ちゃんとしたクラフトマンもいるみたいだし、渡す時に整備してくれるだろうしね)
「それより唯はギターの音聴いていてどうだった?」
「可愛い奴でも割とやる子って感じ!」
「そ、そう……」
唯の感性はなかなか面白いと思った。
「ていうか! 値段の問題じゃね?」
律が思い出したように二人の間に割って入った。
「あ、そうだった……」
再びしょぼんとなる唯であったが、律が思わぬ提案を出した。
「よぉーーしっ! 皆でバイトしよう!」
「ば、いと?」
夏音が耳慣れぬ言葉にぽかんとして首をかしげる。
「うん! 唯の楽器を買うために!」
「えぇーっ!? そんな悪いよっ!」
律の発言に誰しもが面食らったが、唯が一番色を失っていた。
「これも軽音部の活動の一環だって!」
「り、りっちゃん……っ」
「私やってみたいです!」
ムギは拳をにぎって顔を輝かせた。
「そうか! うっしゃーーっ!! やぁーるぞーおーーっ!」
律が拳を振り上げると、ノリノリで従うムギ。
「ばいとって何?」
「仕事のことだよ……私、どうしよ」
横で呆れたような目をしていた澪が補足してくれた。
「仕事……か」
彼女たちは、唯のために労働しようと言っているらしい。
「俺、そういう仕事って初めてかも……やってみようかな」
「えぇー夏音も!?」
全員、澪が浮かない顔をしていたのは見ないふりをした。
その夜のこと。
リビングで独り夕食をとっていると、電話が鳴った。
「Hi? あ、じゃなかった。もしもし立花です」
『俺だよ夏音!!』
「その声は父さん?」
『元気にしていたか?』
「まあね。そっちはどう?」
『何も変わらず、最高さ! 俺にはアルヴィとお前と音楽と……この手羽先があればいい!』
「てばさ…? まあ元気そうでよかったよ」
『夏音。何か変わったことはあったか?』
「………俺、軽音部に入ったんだ」
『ほう……軽音部になー』
「楽しいよ。でも、まだ始まったばかり…………俺は自分のフィーリングが間違っていないと信じているし。心配しないで」
『そうか。なら、安心したよ……夏音。そろそろジョンの奴が可哀想になってきたから、たまには奴の要望にも応えてやれよ。俺の方にうるさくてかなわない』
「まあ、向こうが時間を合わせてくれるなら……」
『まあ、お前にはお前の時間がある。大切にするんだよ』
「うん、あ……そういえば俺アルバイトってやつをすることになった!」
『アルバイト? また、何で?』
「うん、いろいろとね! 想像つかないだろ!? とにかく楽しくやっているよ」
『……そうか。母さんにも代わってやりたかったんだが、あいにく今は外しててな。俺もそろそろ行かないといけない。とにかく元気にしているようで安心したよ夏音』
「うん。母さんにもそう伝えておいて。忙しいならもう切るよ。じゃあね、父さんおやすみ!」
『ああ、誕生日やイースターの時に帰れなくてすまなかったな。愛しているよ、おやすみ』
「俺もだよ。プレゼントは最高だったし、何も気にしていないよ。バイ」
電話を切った夏音はまた食卓についてからあることを父親に言いそびれたことを思い出した。
「こっちでも友達ができたんだ」
それが全員異性だとは言えなかった。