床がびりびりと震えるほどの振動を身体に感じながら最後の音を振り切った。
「うん! いい感じだな!」
曲の締めに控えめなグリス。澪の手癖である。そして、ぴたりと音を止めた澪が白い歯を見せて言った一言に夏音が素直に頷く。
「今までの中で一番演奏が締まってた」
「あーこれがそのまま本番だったらなー」
タムにもたれかかった律が楽しげに笑う。苦笑混じりの表情を見る限り、真にそう思っているのだろう。
「りっちゃん弱気―」
「うるさーい」
「あ、そうだ。ところで本番は律のデコは出す感じなのかな」
「んー。衣装とかは特に決めてなくても、ちょっとくらいは体裁を整えておきたいかもな」
顎に手を当てて悩む澪。
「そこの二人チョイ待てーぃ! 私のデコについて方針を決めようとすんな!」
「……いや、でも。うーんカチューシャデコ出しって逆にアリなのかな」
「えー? りっちゃんはこの感じが可愛いんだよ!」
「でも私、りっちゃんが髪下ろしたのも可愛くて良いと思うわー」
「え、何か真剣に話し合いに突入したんだけど。やだ何これこわい」
本人を無視した、デコ出し議論はしばらく続く。
このように、軽音部の一大イベント当日はゆるやかな雰囲気で始まった。
軽音部ことCrazy Combination。夏音の独断によってついたバンド名だが、既に公式HPの上にも名前が載ってしまっている。バンド紹介のページに思い切り偽名を使っているヴォーカルであったり、勝手にプログレと紹介されていたりとツッコミどころ満載だったが、さらにそのHPにはこう書いてあるのだ。
一バンド目、と。
これを知った時、ほとんどの者が身震いした。何しろ、トップバッターとは荷が重い役割を担う。イベントを見に来た客がはじめに今回の爆メロの質を感じ取るのである。
あまりに肩すかしを食わせるような内容の演奏をしてしまえば、主催側にも同じ土俵に立つバンドにも申し訳ないような気がするのである。
最初と最後に演奏するバンドは色んな意味で客の注目を浴びる役目にある。どうせなら二番か三番がよかったと分かりやすく項垂れた澪に夏音は言った。
「でも一番には一番の利点があるんだよ」
正直、自分達がいわゆる「おこぼれ通過」したと思っている夏音はこの出順は妥当だと捉えていた。審査側の期待値があるとすれば、その期待値が高いバンドほど後ろに持ってくるのは当然の選択である。
そもそも、本気で優勝にこだわっているわけではないので、出順に執着する必要は全くないのだ。
「逆リハだから転換の時が楽だよね!」
ずこーっと崩れ落ちる音が複数。
「んなこたわかってるわ! もっと経験豊富な人間としてのアレがあるだろ!」
「んー。なんだろう……後のライブをゆっくり観れること?」
「発言内容が地味すぎる……」
「うるさいなー。でも、お客さんもスタッフもみんな序盤だから元気いっぱいだよ!」
「はぁ……」
「いやいや何その溜め息!? これは真面目な話だから! ああいうイベントってオープニングのテンションがすごいだろう。何バンドも立ちっぱなしで見ているうちに疲れてくるじゃん? そうなったらお客さんのテンションも少し落ちるわけで。それに歴代の優勝バンドでプロになった人達がオープニングアクトをやるっていう話だよ。おそらく、俺達が演奏する前に彼らが充分に会場を温めてくれると思うから、むしろやりやすいんじゃない?」
爆メロでは、毎年恒例でオープニングアクトをプロのバンドが勤めることになっているらしい。これもどこぞの大会からのパクリという噂もあるそうだが。
「あ、モノクロボンボヤージュだっけ?」
「違う。モノラルボンバーイェイだ」
唯と律が私のが合ってると主張し始める。
「二人とも違う! モノグロット・ボンバストだ!」
「バンド名、意味わかんないね」
「ねー」
見事に間違えた二名は顔を見合わせてバンド名を批難する。
「意味はわかるけど、語呂が悪いね。明らかに辞書引いて決めましたーって感じのバンド名。だっさ」
日本人が英語を使うとこうなる場合が多い。
さらっと毒を吐いた夏音は、おもむろに席を立ってキッチンに向かった。スタジオリハも済み、既に朝食も摂った。後は出発の時間まで自由だが、食器を洗って片付けなくてはならない。
意外にマメな性格である。
「あ、夏音―。私やっちゃうよ」
すぐに後を追いかけてきた律が袖をまくって流し台の前に立つ。それからスポンジに水をふくませ、洗剤を数滴垂らす。しっかり泡立てた後、水に浸けていた食器を洗い始めた。
夏音が遠慮する暇もないくらいに自然な動作で、驚くほど手際がよい。これは普段からやり慣れている証拠であり、家庭では家事を担うこともある彼女のことを知っていた夏音だったが、やはり先入観というものは恐ろしい。平常時の彼女のイメージに慣れているせいか、せっせとてきぱき家事をこなす律というのはとても違和感がある。
「ん? 何ぼーっと見てんの?」
「あ、いや。何というか……ご、ご苦労さんです」
「え? あ、……はい」
律はぽかんと目を見開いたまま、曖昧な返事をした。何か失敗したような気がした夏音は居たたまれなくなった。完全に自分のせいだと分かっていたが、よろしくと律に一声残してその場を離れた。
リビングに戻り、そこでテレビを見ながらくつろいでいる他の面々は本番当日の緊張の影が見られない。先ほどスタジオリハをやった効果もあるのかもしれないが、テレビで流れるニュースにとぼけた反応を示す唯や冷静に突っ込む澪。そんな二人をにこにこと見守るムギ。肩の力が抜けており、平常運行といった様子だ。
キッチンでは律が皿を洗っている。
夏音は深く息を吐いて微笑んだ。きっと大丈夫。今日は良い一日になる。そんな確信を得て、三人の会話に混じった。
「ではではみなさま。出発しますが、よろしいですか!」
「おー!」
「出発進行ー!」
機材も積み終わり、準備万端となったところで気合いを入れて車を走らせる。以前と同じ道を快調に飛ばして自分達の曲を流した。澄み切った青空が気持ち良く、窓を全開にしてスピードを出すと風が車内に激しく入り込んだ。
途中で唯がせっかくセットした髪がぐしゃぐしゃになったと喚き、律が「カチューシャにすればいいんだ」と鼻で笑った。
「りっちゃんは本番で髪を下ろさなくちゃだめなのです」
「お前さっきこの髪型が可愛いって言ってただろーが!」
突如として始まったデコ会話に夏音が加わる。
「おっ。じゃあ律はデコを封印する方向で」
「方向とかっ! お前は! 私の何なんだっつの」
「でも髪下ろしてドラム叩くと格好いいと思うけどな。こう……ふとした時に髪が翻って荒々しい感じとか」
澪が真面目な口調で言うと、ムギが手を叩いて喜ぶ。
「わーっ。荒ぶるりっちゃんも格好いいかも!」
「いやー。ぶっちゃけ髪がチクチク刺さってうざったい」
それに前が見えなくなるし、と呟く。
「澪の言う通り律はもっと上半身を振り乱しちゃいなよ。かっけーよ。やっちゃいなよ」
「ナオみたいでいいかもな。似合わないけど」
「澪は賛成なのか反対なのかどっちなんですかー?」
いつもデコ一つに対して仲間からの一斉射撃が行われる律はいい加減に辟易した様子で押し黙った。しかし、その手はカチューシャのあたりを弄くっている。
「でもうちらのバンドって夏音くらいしか動く人がいないよな」
「なら澪が動けばいいじゃん」
「わ、私はそういう感じのじゃないからっ」
即座に夏音から指摘され、墓穴を掘ったと後悔した澪は慌てて否定する。
「逆にさ。俺はヴォーカルだけど動けるところで動いてるのに、みんなが大人しいと浮いちゃうんだよ。こればかりは慣れだから言わないでおいたけど」
「んー。動くって言われても……どうすればいいのかわかんないよ」
そう言って困ったように眉を寄せる唯などは、演奏中は楽しそうに体を揺らすことはあるが激しく動き回ることはない。あくまで自然に体が動くだけで、パフォーマンスやスタイルとしての動きというのは意識していないのだ。
「フロントの二人がステージの上で大人しいのもステージ映えしないからさ。いつかそういうのも気を遣って欲しいと思ってたんだよね、実は」
「むーー。よくわからないなー」
匙を投げた唯の隣でムギがおずおずと口を開いた。
「わ、私も動いた方がいいですか?」
「ムギは……そうだなー。動くに越したことはないけど。わざわざ動く必要もないというか……非常に難しい問題なんだよ」
「夏音くんは有名な人でこういう人の動きがいい! っていうのはないの?」
「例えば……キース・エマーソンとか?」
極端な例を出したか、と夏音は思い直した。
「俺、日本のJポップも少しは知ってるんだけどさ。昔の小室哲哉とか、すっごい動いてるよね」
「小室さん?」
「え、小室知らないのかムギ!?」
夏音でさえ知っているのに、と驚愕の声を上げた律に首を傾げるムギ。
「はぁー。これがジェネレーションギャップってやつかぁー」
「同い年だろ。そもそもお前も世代からちょっとズレてるんじゃないか?」
「澪だって知ってるだろ? ていうか知らない人って珍しいくらいだって」
「ごめんなさい……私、勉強不足で」
「ほら! ムギがしょんぼりしちゃっただろう!」
肩を落としてしょげたムギを見て澪が目を吊り上げる。
「わ、悪かったよー怒鳴って。あんまりびっくりしちゃったからさー」
「俺は日本にいなかったから律の気持ちはよく分からないけど、知っておいた方がいい人だと思うよ」
周りの反応を受けて相当ショックだったのか、ムギは何度もこくこくと首を振った。
「いきなり今日やれって言うのも無理だから、今後は意識していけばいいさ」
無難にまとめた夏音に一同は素直に頷いたのであった。
ライブハウスには午後一時を少し過ぎたところで到着した。以前と同じように駐車場に車を停め、機材を積んだ荷車を押しながらペニーマーラーの裏口に入る。一度来た場所なので、行くべき場所まではすいすいと進んでいけた。ステージの裏まで行くと、ちょうど前のバンドのリハーサルが行われていた。そこに控えていたスタッフが機材を持って現れた軽音部の面々に気付き、先頭に構えていた夏音に顔を寄せる。下心があるわけではなく、あまりに音がうるさいのでこうして耳元で叫ばないと声が聞き取りづらいのである。
「おはようございます! 今このバンド始まったばっかなんですよね。リハ終わるまでかなり時間あると思うんで、機材だけ下ろして控え室行っててください!」
なんと前のバンドはリハを始めたばかりだったらしい。このように車で来ると時間の調整が難しい。道の混み具合も分からない上、余裕を持って到着しようと心懸けていたので、予定の集合時間よりだいぶ早く到着してしまったようだ。
夏音が同じことを彼女達に伝えると、一同は以前も控え室として使われていた会議室へと向かった。
控え室にはバンドの世話をするスタッフが一名だけいるだけで、他のバンドの姿はない。何とも贅沢なことに、今回は五バンド分の控え室があるらしい。ちなみに、この会議室は正式な控え室ではなく、軽音部は四つある控え室に割り当てる時に抽選で外れてしまったそうだ。
「ふぃー。なんか前の時を思い出して胃が痛くなってきた」
椅子に腰を下ろしたところで律が強張った笑みを浮かべて言った。
「確かにあんまり良い思い出じゃないもんねー」
と言う割には落ち着き払った様子の唯。
「あーきんちょーしてきた」
「なんか白々しい響きを感じたわけだけど」
やはり、その発言の割にはこれとして緊張した素振りもない唯に夏音は首を傾げる。
「えーそんなことないよー? 手とか震えて、もう。ほら……」
ばーんと広げて見せた両手に異変は見られない。
「………そう?」
「ほんとほんと! もーやだなー。本番どうしよー」
ここまで来れば、誰しもがおかしいと思った。確かに前回ここに訪れた時の唯は誰もが分かるほどガチガチに固まっていた。それは他の面々も同様であったが、今の彼女は余裕すら感じるほどに気楽な笑みを湛えている。
「熱でもあんのか唯ー?」
訝しげに眉を顰めた律が唯の額に手をあてようとする。その手をひらりと避けた唯がけらけら笑った。
「そんなことないよ。もーりっちゃん無礼者ー!」
語彙もどこかおかしい。同じようなことを思ったのか、一同はいよいよ不気味そうに唯を凝視した。
「なんか気持ちわるい!」
歯に物着せぬ物言いは夏音の特権のようなものである。その表情には気味が悪いとありありと浮かんでいる。
「へへ。夏音くんも言うねー」
「いや、言うねーじゃないから! さっきまでこんなんじゃなかったのにどうした!?」
愕然とした律が頭を抱えて叫んだ。
「りっちゃんは元気良いのがとりえだよね」
「あぁん!?」
「ヤバイ。唯が本格的に不思議の世界の住人に。ここに来て、この急激な路線変更はいったい!?」
「いや、路線的には真っ直ぐだと思うけど……何段階も飛んでしまったような?」
取り乱しかけた夏音へ冷静に応える澪だったが、自身も首をひねって唯をじっと見詰めた。
「ムギ。今日の朝って何か変な物食べたか?」
「普通だったと思うけど……」
「おいっ! 人が作った物にケチつけないでくれ!」
憤慨する夏音。まず疑われるのが自分の提供した物というのがカチンと来たようだ。
「みんな何言ってんの? 変なの」
「変なのはお前だーーっ!!!」
急に難しい顔をして話合いを始めた周りを不思議に思ったらしい。唯は多くのツッコミを気にした様子もなく、ふんふんと鼻歌をすさび始めた。
奇天烈な鼻歌の旋律だけが響く控え室。
頭が沸いてしまったのだろうか。軽音部きってのリードギター(という名のサイドギター)の態度の急変に残された者は厳しい表情を作った。目を見合わせてこのメルヘン少女の対処を試みたのである。
(なんかヤバくない?)
(ヤバイも何も……っていうか、お前らこっち来い!)
軽音部お得意のアイコンタクトをもどかしく思ったのか、律が唯を除くメンバーを隅の方まで引っ張っていった。
「なんかよく分かんねーけどさ。このまま本番を迎えるのだけはまずい気がする」
「うん。私も律の言葉に全面的賛成だ」
「澪ちゃんはさっき変な食べ物が原因じゃないかって言ってたわよね? なんだかいつもの唯ちゃんが割り増しになった感じが……」
ムギの言葉を聞いて、皆が唯の方に視線を向ける。
割り増し唯。確かに、周囲に飛んでいる少女漫画的なふわふわはいつもの数倍の量である。自分ワールドの扉をオープンしているのもいつものことだが、未だかつて無いほどその扉が全開になっているのだ。
「嫌な予感がこう、ひしひしと」
弱々しく呟いた夏音の声が、一同の不安をいっそう掻き立てる。
「と、とにかく。唯がどれだけまともなのか確かめないと!」
びしっと指を立てた律が鬼気迫る形相で言った。それもそうだ、と一同はそろって言い出しっぺの律に行くように促した。何で自分が、と唇を尖らせた律だったが、このままでは拉致があかない上にリハの時間が迫っていることもあって唯に近づいていった。
「なぁー唯ー? リハ前に本番の流れとか確認しておかないかー」
「うん、いいよりっちゃん。どんとこいだよー」
「えっと、一曲目は何だっけ」
「とりびゅーでしょ?」
「そ、そうだな。MCはどこに挟むんだっけ!?」
「二曲目が終わってチューニング変えるからそこでやるんだよね?」
「そ、その通りだ。ううむ……そうなんだけど……」
「なんだかりっちゃんおかしいよ? 緊張してるなら飴ちゃんあるよ」
「い、いやそうではない。そうではないんだ……が……」
存外、まともな受け答えをする唯に対して逆に律が狼狽えてしまった。助けを求める視線に返ってくる気配はない。薄情者、と内心で吐き捨てた律は孤軍奮闘を決意する。
「そうだな、唯。リハとはいえ、しっかりやるに越したことはない。だから、ギターのチェックでもしとけ」
「あ、うん。そだねー」
素直に頷いた唯はケースを置いた場所までのそのそと歩いて行った。
「おいっ。超まともじゃん!?」
「うん。ていうより今の会話だけ抜き取れば本当にバンドの人みたい……」
「みたい、もなにもバンドやってるんだけど!」
散々な評価も受けながら、すごすご戻ってきた律は怪訝な表情を崩さない。
「でもなーんかチガウ。違和感の塊しかねー」
「確かにそんな印象を受けたね」
うーん、と長々とうなった面々はそれからしばらく、愛おしげにボディを撫で撫でする唯を揃って眺めていた。
その後、曲のフレーズを幾度もチェックする唯を見守るように固唾を呑んでいた四人であった。控え室が良く分からない緊張と生温さが混ざり合う空気に包まれていた中、「はい次準備よろしくお願いします」と言って現れたスタッフの言葉に、澪はびくりと肩を跳ね上げさせた。
「ほ、ほ、ほ、本番だな!」
「いや、まだリハだけど」
緊張するから、と人という漢字を飲み下しまくっていた澪。足取りはどこか危なげだが、よく見ればそれは他も同じようなものであった。ふにゃふにゃとまるでタコのようにぐねぐねと歩いていて、傍から見れば滑稽な集団である。
楽しもう。そんな風に気概を示してみたとして、言葉ではどうと言えようが、緊張を完全に消し去るのは誰とて難しい。
先頭をすたすたと歩く夏音でさえ、じんわりとお腹のあたりが引き締まるような感覚を覚えている。後続の軟体生物たちほどのレベルではないが。
ステージに向かう際、前のバンドとすれ違うようなことはなかった。既に捌け終えていた前のバンドは反対側の出口から出て行ったらしく、会場の注目は完全に軽音部に絞られていた。
聞くところによると、このようなコンテストにおいて、これだけ入念なリハーサルを用意してくれる所はないらしい。破格の扱い、とまで評価されるだけあって大抵の出場バンドは本番で自分達の鳴らす音に満足して演奏に集中できるそうだ。
これも全て主催側のはからいによるものである。他のように贅沢な賞金、賞品を用意することもできない上、規模も小さい。せめてバンドが全力で力を出せるようにと、自分達でかけられる手間は目一杯かけてやろう、ということだ。
一時間使えるリハーサル。逆リハなので、自分達が最後である。
周りに構えているスタッフはテキパキと動き続けている。贅沢なことに、各パートの者に対して最低一人は面倒を見てくれるスタッフがいる。皆が持ち込んだ機材を所定の位置にセッティングし、しきりにPAとインカムで連絡を取り合っている。
前回のようなドタバタコントが発生することはなかったが、互いを見渡すような余裕もなかった。
それぞれが自分のセッティングに勤しみ、自分についてくれているスタッフと必要なだけの会話をこなしているだけだった。
やはり最初に音を出すのはドラムである。律の手探りのセッティングがステージの上に響き渡る。
律のドコドコとバスドラを蹴る音の後ろからベースの重低音が現れた。澪は弦楽器隊の中で一番機材の少ない。チューナー、ディストーション、コーラス、イコライザー二つ。チューナーの前には限界まで改造したA/Bボックスを置き、音痩せ対策としている。
アンプのゲインとマスターを上げる。イコライザーをいじり、自分の音を確かめていく。スタジオでのセッティングは、こんなにも広いライブハウスでは通用しない。実際にこのステージの上で響く音を聴き、他の楽器と合わせていく必要があるのだ。
澪が音を出し始めたのと同時くらいに、ムギのオルガンが飛び出てくる。
ギター組は足下のセッティングに手間取るので、一番遅い。
夏音は着実に、肩の力が抜けた状態でテキパキとセッティングをこなしていく。ギターに弦の滑りを良くするスムーサーを吹きかけると、夏音のストラトがギラリと眩い光の音を出した。どこまでも伸びていきそうなサスティーンに思わず目を向けるスタッフが数人いた。艶やかな音がマーシャルのスピーカーから滑り出してくると、夏音が微調整を加え、エフェクトの具合を確かめていく。
この時点で、四名のセッティングはバンドとしての微調整といった具合まで進んだ。彼女達はお互いが顔を見合わす余裕もできたところで、ようやく先ほどまで抱いていた不安が形になって現れたような予感を覚えていた
唯のギターがいつまでも聞こえてこないのだ。
自分のセッティングから意識を離した途端、その異常事態に気付くことになる。皆、何かのトラブルかと唯の方を見るが、彼女はシールドを既にアンプに挿した状態で、肩から提げたレスポールにそっと手をやったまま直立していた。
どこを見るでもなく。ぼーっと中空に目を向けて、佇んでいる。他の誰にも見えない何かに目を奪われているかのように。
「唯!」
夏音が唯に近づき、肩を叩く。心ここにあらずといった彼女はゆっくりと夏音の方を向いた。
「スタッフの人が困ってるよ。みんなセッティング終わって、あとは唯だけだよ?」
「あ……あーごめんごめん。今やるねー」
ふにゃんと笑った唯に夏音はホッと息をついた。その瞬間の唯はいつもの唯のように見えたのだ。
夏音は他の者を安心させるように振り返って肩をすくめる。それに対して一同は、すぐに唯がアンプのセッティングを始めたのを見て、不安を隠すようにぎこちなく笑うのであった。
リハーサルはどこのバンドも同じ流れだ。それぞれの音量を調節して、確かめていく。学校祭で一度経験していただけに、一同はPAの指示に従って淡々とこなしていく。
夏音はこのライブハウスのスピーカーを高評価していたので、安心して外音をPAに任せることができた。夏音は自分のギターはスピーカーが歪まないギリギリの音量を保つようにお願いして幾つかのエフェクトのかかり具合を調整して終わった。
やはり最後に音を合わせる唯の時は少しだけ全員の心に不安が奔ったが、音合わせは難なく終了した。
「じゃ、曲でやろっか」
ステージの中央に立つ夏音が後ろを振り向く。まるで指揮者のように注目が集まったところで、彼は周りを見渡した。
「トリビュートから。1コーラス」
全員がその言葉にうなずく。リハーサルで確認しておくべきことも事前に話し合っている。何をすべきかあらかじめ頭に入っているならば、それに集中することができる。
1コーラスを終えた時点で律がモニターの要望をPAに伝えた。ベースの音量がどうも大きすぎたらしい。
その後、一曲を通したあたりで中音も万全の状態に整えられた。後は照明効果などの確認もあるので、構成を見せるだけである。
変拍子が目白押しの曲などはしっかりと照明と合わされば相乗効果を得られるが、細かい打ち合わせもしていないので、基本的にスタッフにお任せだ。
「じゃあ本番と同じように始めようか」
「うわー入るトコロしくりそー」
緊張が度を超えたのかは定かではないが、むしろ楽しげに笑いながら律が言う。そんな律に小さく笑いを返してそれぞれが楽器を構える。曲の最初はギター二人のフィードバックが空間を包み込むように広がっていくところから始まる。ディレイ、リバーブを通してふくよかに巨大化していく音の波が最高潮にまで達するまで、そのままアンビエントが続く。良い感じになったところで律のバスドラが鼓動する。和音で鳴らすベースとドラムがそこで密かにビートを作り上げておき、一斉にブレイク。ドラムのフィルインからイントロのフレーズが始まるという構成である。
夏音はギターとアンプの最適な位置に陣取り、弦をそっと撫でるように音を押し広げていった。
その時、夏音は妙な気配を感じた。スピーカーから自分の音が流れた瞬間に身体中に奔った奇妙な違和感。
それは数秒のこと。自分の音しか流れていないことは明確だった。
驚いて唯の方を見ると、彼女は膝をついてステージにうずくまっていた。
「唯っ!?」
ボリュームを切った夏音はすぐさま唯に駆けよった。不協和音が流れないように、しっかりとネックを握り込んでいるが、どう見ても尋常じゃない様子が分かる。
「唯、大丈夫? さっきからおかしかったけど、具合悪いの?」
「ご、ごめんねー。ちょっと目眩しちゃって……」
トラブルかと察したのか、ステージの上の照明が全て点けられた。明るみで確認した唯は熱に浮かされたようにうなっている。
「立てる? とりあえずギターを置こう。まずは落ち着いて、深呼吸して、落ち着いていこう」
「お前が落ち着け」
すぐに駆けよってきた澪が冷静に突っ込む。こういう事態には女性の方が強いのかもしれない。
「唯、いつからだ?」
「ん、と………起きてから?」
目の前で始まった会話に夏音はついどぎまぎしてしまった。
「そ、そんなストレートな話はちょっと……男子の前でさ」
「はぁ? 夏音こそ何を言ってるんだ?」
もじもじと視線をさまよわせる夏音。盛大に眉を顰めた澪が少し語気を荒げて夏音を見詰める。
「え、だって、つまり……女の子の、そういう日の話では」
「違う! いつから具合が悪かったか聞いてるんだバカ!」
流石に余裕のない状態で澪の口も悪くなる。勝手に勘違いをしていた夏音は顔から火が出る勢いで赤面した。
「申し訳ない……」
しゅんと肩を落とした夏音を放って、澪が唯の肩に手をやる。
「どうして言わなかったんだ?」
「だって、今日が本番だし心配かけると思って……」
「こうしてギリギリになって倒れる方が問題だろう!」
厳しい口調の澪は、ふと溜め息をつくと打って変わって気遣わしげな表情になる。
「熱はあるのか?」
「んーちょっと熱っぽいくらい」
そう言って笑った唯額に手をあてた。
「…………」
「澪、どうなの?」
「すごい熱だ。こんなのちょっとどころじゃないだろ!」
澪の言葉に夏音は頭を抱えた。よりによってこのタイミングでこういったトラブルが起こるとは想定していなかったのだ。
「お、おいおい。マジでヤバイんじゃないのか?」
「私、薬持ってきてるよ?」
律とムギがハラハラした様子で唯に声をかける。スタッフも集まってきており、既にリハーサルを続行する空気ではなかった。
夏音は、自分達に与えられた時間がこうしている間にも減っていくのを感じていた。いつまでも迷っていても仕方がない。バンマスとして、即座の決断が必要だと判断した。
「よし。とりあえず唯はギター置いて。律、水とって」
夏音が出した指示にすぐに反応した律はアンプの上に置いてあった唯の水を手にとった。
「ほら唯。とりあえずこれ飲め」
その間にスタッフがギターを受け取ってスタンドに置く。ステージ上にはスタッフが集まってきており、切迫した空気が流れ始める。
「ちょっといいですか?」
スタッフの一人に声をかけられた夏音はそのままステージの袖に移動した。
「えーと。見た感じだとギターの娘、すぐに始められないみたいなんで。リハ終わりから本番までは多少の余裕があるので、このままリハを延長するって形でやりましょう」
「あー、そうしてもらえますか。本当にすいません」
「ただ、こういうのもアレなんですけど……どこかでその……判断していただく必要があってですね」
歯切れが悪いスタッフの口調に夏音は心得たように頷いた。
「うん、わかります。出場辞退も考えないと、ですね」
ハッキリと言葉にした夏音にスタッフは残念そうに眉を落とした。
「最悪、そうするしかないんですが。あとオープニングのモノグロさんのリハもあるんで、あんまり長いこと延ばすこともできないんです。三十分空けて様子を見ましょう」
「わかりました。よろしくお願いします」
話が終わり、ステージに戻った夏音は唯を囲むようにしゃがみ込むメンバーに近づいた。
「とりあえず控え室に戻ろう」
不安に満ちた表情の少女達は、こくりと頷いた。
ムギが持っていた熱冷ましの薬を飲んだ唯は控え室のソファに横になっている。すぐ側に付き添っているムギは心配そうに唯の手を握っている。一方、他の者は部屋の隅に肩を寄せ合っていた。
「唯がいないなら出場は辞退。これは変わらない」
重々しく夏音が口を開く。
「それは分かるけど、でも……」
珍しく真剣な面持ちだった律が眉間に皺を寄せる。悔しげに歯噛みする彼女は夏音の意見が正しいとは理解できるものの、気持ちの上では千載一遇のチャンスを目の前で逃すこと割り切れないといった様子だった。
「私は夏音の言ったように、全員で出られないくらいなら出るべきじゃないと想う」
夏音と律。その二人の合間に座る澪は腕を組みながら毅然と言い放った。
「仮に四人だけで演奏できる曲を選んでも、そういうことじゃないだろ」
律が合わさった拳の上に顎を乗せた状態で深く息をつく。彼女も言われるまでもなく、理解はしているのだ。それでも、心の底から腹におさめることへの抵抗が残ってしまうのは誰も責めることはできない。
「厳しいことを言うようだけど、唯がある程度回復したとしても出場は微妙なところだね。俺は前にも言ったと思うけど、ボロボロな演奏を見せることは避けたい」
三人はちらりと唯の方へ視線を向けた。浅い呼吸を繰り返す唯は誰が見ても軽い症状ではない。今回は、唯としても今までとは気合いの入り方が違った。ライブのことを慮ってついに倒れるまで不調を隠そうとしたくらいだ。だが、皆に迷惑をかけまい、としていたにも関わらず唯は演奏に向かうことができなかった。
気合いや想いでどうにかなる問題ではない。
「俺はともかく、みんなにはこういう機会がなかなかない。この一回がどうしようもなく大事なのは分かるし、それは俺も同じだけどね。今日のステージは俺達だけが満足すれば良いものではないんだ。俺達だけを見に来たお客さんばかりではないにしろ、ゼロじゃない。そういう人達を裏切ることになるのは間違いないよ」
夏音の言葉は二人にとって目から鱗だった。自分が自分のバンドのことしか考えていない中、目の前の男は客のことを考えている。それも自然に。この立花夏音という人間にとってステージとは、観客という存在が必ずセットになっているのである。
魅せることを生業にしていた者の視点。彼女達には馴染みがない考え方であった。
「そっか。そうだよな。ラジオを聴いてちょっとでも好きになってくれた人達がいるんだよな」
以前、自分が大好きな番組で自分達の曲が流れた時のことを思い返す律。
「私は………また、来たいな」
澪がぽつりと言った。
「来年、また来れるように」
語尾が震える。それでも力強い口調に夏音と律がゆっくりと首を縦に振る。
「ちょっとーーーぉ!! 何でもう終わりみたいな感じなのさ、みんな!」
「えぇっ!?」
三人の輪の中に大声を上げて割り込んできたのは、他でもない。まさしく議題の中心となっていた唯だった。
「唯、寝てろよ!」
「大丈夫! ムギちゃんの薬のおかげで良くなったもん!」
「うわー超回復ってやつ?」
「ていうかムギの薬が何だったのかが気になるところなんだが……」
「ふ、ふつうの熱冷ましだけど」
とは言いつつも、自分でも不安に思ったのかパッケージを確認するムギ。薬局でも買える市販薬だ。
「ふんす! 気合い入れてくよー!」
片手を腰に、残された手は中指と薬指で作るピースサイン。いつもの唯が戻ってきた。誰もが不審そうに唯を見詰める。だが、もの問いたげにしていたのも束の間。律が唯の頭をばんと叩いた。
「き、気合い入れてくじゃねーっつの! お前のことでこっちはなあ!」
そう続けようとした時である。
ふらり、と腰から力が抜けていくように。唯は、床に手をついて倒れた。
「お前……やっぱダメなんじゃ……」
どう見ても虚勢である。やせ我慢して元気になったように見えたのも一瞬のこと。やはり、ハッキリ聞こえるほど荒い呼吸をする唯はとてもではないがステージに立つことなどできそうになかった。
「ま、待って……大丈夫、だから。私、絶対にやれるから」
熱で潤んだ瞳を力の限り見開いて上目遣いになる。話すだけでも辛そうな体で、必死に想いを振り絞るように紡ぐ。
「ゆい……」
誰一人として、その瞳から目を逸らすことはできなかった。こんなに真摯な言葉を紡ぐ唯を見たことはなかった。根気という言葉からかけ離れた存在の彼女が、こんなにも必死に食らい付くような、人を気圧すほどの執念をこめた光を瞳に宿したことはなかった。
彼女の気持ちを振り払える者はいなかった。かといって、ギリギリまで伸ばされた手を即座に取ることができる者もいなかった。
「でも、お前がそんな状態じゃ……」
律が困惑した声で呟く。彼女は本心では、やってやりたいと叫びたいのだ。それでも自分の判断だけでどうにかなる問題ではない。この場合は全員一致が不可欠である。
だから彼女は同じように迷いあぐねているだろう仲間の顔を窺う。互いが互いの視線を感じ取り、顔を見合わせる。
「今日はね? 憂も、和ちゃんも、来るんだあ。二人に、私が出会った新しいものを見せたい。何やってもぱっとしなかった私がこれだけ本気になったものを見せたい……」
彼女の瞳から涙が零れる。震えながら床についた手を握りしめる唯を黙って見詰めていた者達の中で、夏音がそっと膝をつく。視線を唯に合わせて、頭に手を乗せる。
「やれるのかい?」
「やれる……っ」
「当然だけど、へろへろなギターなんか弾いたら本番中でもステージを降りるよ」
「大丈夫! みんなで最後まで演奏できるようにする!」
夏音は目を閉じて、考える。空気を伝ってくる唯の意志の強さ。いつの間に、このような屈強な精神が彼女の中で育まれてきたのだろうか。
もしかしたら、ただの火事場のなんとやらかもしれない。
それでも。
「じゃ、やるよ」
夏音は賭けてみることにした。ごちゃごちゃと巡らせていた思考は一瞬で吹き飛び、ただ目の前の少女の可能性や、この一年で自分が味わってきた全てが答えを用意したのである。
ぺしんっ、と良い音を立てて唯のおでこをはたく。
「こんな大事な時に体調崩す唯はどうしよーもない馬鹿だね」
それは満面の笑みで言うことではない、と唯は心で呟く。
「まー俺もたいがい馬鹿なんだけど。雰囲気に流されやすいっていうか……一緒に恥を掻くのも悪くない、とか思えるほどにはこのバンドにイカれてるみたい」
「が、がのんぐぅん……」
ボロボロと涙を流す唯。よもや鼻水もかくや、と駄々漏れで乙女としての体は銀河の彼方に消えている。
「ま、本名も顔もバレてないからいーんだけどね」
「そ、そういうことですか!?」
ぐしゃぐしゃになった顔で頬を膨らます唯。ひどい顔である。すると、他の三人からこらえきれなかったように笑いが起きた。
「あーもう。この集まりはなんだろうなー。シリアスなのと間が抜けたのが代わる代わるくるからなー!」
眦に涙を浮かべた律がそれを拭いながら笑み零れた。
「そうそう。どこか軽音部っぽさを外さないんだよな」
「でも、私こういうのが大好き」
その場が一気に朗らかな雰囲気に包まれる。心外だとばかりに頬を膨らませ続けていた唯もやがてつられるように笑い、夏音はニヤニヤと悪戯っぽく眉を上げる。
「さて、と。いつまでも待たせるわけにはいかないからね。行こうか」
「おー! とっととリハ終わらせよーぜ!」
三十分と経たずに戻ってきた一行をスタッフは何も言わずに受け入れてくれた。否、表情にはありありと書かれていた。
やれるのか、と。
彼らとしても不様なバンドを相手どるつもりはない。この高校生の集団は、お金を払って演奏していただくような身分ではないのだ。
「行けます。バッチリです」
口を開き、明朗に響く唯の声。それから遅れたことへの謝罪を済ませた後、軽音部はリハーサルを開始した。
「あとは本番なんだね……」
あの後、リハーサルは無事に終了した。時間がおしていることもあり、三曲だけ確認することにしたのである。軽音部の機材はステージの少し後方へずらし、彼女達は控え室に撤収した。
どっしりとソファに腰を下ろした唯が嘆息まじりに言った言葉に皆、不思議な心持ちを抱いた。
「そうみたい……だな」
首を傾げる澪。その横でそれを真似たように同じ向きに首を傾けた律が呟く。
「ぜんっぜんそんな実感がないんだけど」
夏音はそんな彼女達を見渡して、楽しげな声を出す。
「みんなびっくりするくらい肩の力が抜けてるよ。なんか頼もしいくらいだ」
「そ、そうなのか? そう言われれば、なんかそんな気も……」
「あっ! そうだよ! 澪が緊張のきの字も見せてないなんて異常事態だって!」
「澪ちゃん。すっごく楽しそうにベース弾いてたもの」
リハーサルの澪は、良い具合に力が抜けた演奏をしていた。彼女が緊張した時に現れる硬いプレイは見る影もなかった。
互いの音が行き渡り、ドラムとのコンビネーションも普段以上に冴えていた。
「もうやるしかないってとこまで来たから、逆に腹が据わったのかな。律も走ったりしなかったからやりやすかったな」
「それってアレだね! 火事場の馬鹿力ってやつだね!?」
「いや、それとはちょっと違うから」
賑やかな雰囲気はいつもの軽音部そのものだった。やはりソファに横たわる唯は具合が悪そうだったが、こうして会話に加われるくらいにはしっかりしている。演奏の方も、ぼーっとしているようで、しっかりと周りの音を捉えていた。
「本番まで少し時間があるから、気分転換に外の空気でも吸いたいね」
一同がしばらくのんびりと体を休めていると、夏音がそんな提案をした。二つ返事で応えたメンバーは揃って控え室を後にした。
屋上でもあればいいね、と零した唯の一言の後に、それらしき階段を発見した律が先導して登っていくと、本当に屋上につながっていた。
「勝手にこんな所に入って怒られないか?」
「澪ちんは心配性だなー。屋上に上って怒る奴がどこにいるよ」
友人の心配を素早くはねのけた律が扉に手をかける。あっさりと開いた扉の隙間から、オレンジの光が溢れる。
おそるおそるその光を押し広げ、完全に開け放った扉の向こう側には広大な夕焼けの空が待ち構えていた。
「うわー」
誰となく漏らした言葉は誰の声だったのか。その場にいた全員が同じことを心に浮かべた。
都会の片隅にぽつりと建つライブハウスの上に、このような景色が用意されているなどとは誰も想像すらしていなかった。
視界の端には高層ビルが建ち並ぶのに。どこまでもここから見渡せるような。
吸い込まれるような風景に圧倒されながら、何気なく端っこまで足を進める。
「し、下見てみろよ」
はっと息を呑んだ律の言葉に従って、フェンス越しに眼下の景色に目を落とした一同が目にしたもの。
オープン前だというのに、入り口付近にまばらに集まってきている観客の姿であった。
「あ、あれ全部お客さんなの?」
目下の光景に震える声を上げたムギ。その隣では、言葉もなく呆然とする澪が口を戦慄かせていた。
「す、すごい……あの人達、私達を観にきてるんだよね?」
唯の言葉にごくりと唾を呑み込む音が返る。実際に目にするまで、どこか壁一枚向こうにあったような存在が、こうして目に見える形で現れたのだ。彼女達の心が大きく揺さぶられたのは言うまでもなかった。
「私達、とは言うけど。俺達だけを観にきたわけじゃないと思うよ。むしろ、俺達なんか興味ないって人もたくさんいるかもね」
そこで、さらなる現実を知る男が口を開く。
「びっくりして、呑まれないでね。いいかな? あそこにいる人達はこれから俺達の演奏を耳にすることになる。ジャッジを下す存在だ。それでも忘れないで欲しい」
もったいつけたように言葉を途切れさせる夏音。
「俺達は音楽をやりにきただけだよ。楽しんで、楽しませて、終わればそれでいいんだ。この一年で俺達がやってきたこと以上のことはやらなくていい。俺達がここに持ってきたものは……」
夏音は隣にいる澪と律の手を強く握った。はっとした二人は少し躊躇った後、余った自分の手をその先へと繋げる。
「これだけ」
視線は下ではなく、上へ向ける。
「これだけあれば、充分じゃないか」
一つに繋がった手は互いの温もりに触れていた。その暖かさが凝り固まった緊張を解きほぐしていく。
少女達はその言葉がまるで魔法のように感じた。自分達の中心にいる人物が、いつも自分達にもたらしてくれる物を思い出して、確かに感じる温もりを離さないようにぎゅっと握り直した。
「すごいねー」
「何が?」
「一年があっという間に過ぎちゃった」
「そうだなー。もうすぐ二年になるんだもんなー」
「二年になれば律もちゃんとしてくれるといいんだけどな」
「澪のヘタレも治ればいいこと」
「…………」
「い、痛い痛い! 無言で俺の手をぐっと握りしめるな!! 俺が痛いからってお隣に伝わらないから!」
「澪ちゃんは今のままでいてね」
「ムギ、それはどういう意味合いが……」
「澪ちゃん度が下がったら悲しむ人が増えると思う」
「それって今の私が100%なのか!? もう私の人生、ここが最高潮なの!?」
「あームギちゃんの言うことわかる! 澪ちゃんは、こう……ちょっとくらいアレな感じがおいしいんだよね!」
「心が苦しくなってきた……」
「褒められてるんだよ。どっちにしろ澪がいじられキャラから脱することはできないんだしさ……痛いってば!」
「二年って言えばさ。もうすぐ後輩とかできちゃうわけだろ? 想像できねー」
「あぅっ後輩……………………………しょうがないなぁ、私が一から教えて……」
「妄想が駄々漏れてきてるよ唯」
「私、後輩って初めてだからドキドキする!」
「コーハイ………不思議な響き。アニメでしか聞いたことない」
「夏音、お前ってやつは……」
「でも、何だかんだでもう次の一年が始まるんだよなー」
「そだねー」
「そう考えるとあっという間だったけど……これからあと二年なんて想像つかないな」
「たぶん、それもあっという間じゃないかな」
「かもしれない」
「ま、その前に後から入ってくるコーハイ達に自慢できるようにしないとね」
「ハー……そろそろ本番かー」
改めて下を見ると、外に並ぶ客の数が徐々に増えてきていた。そこに並ぶ人々は、今日この場所で生まれるニューカマーを目撃しに来ている。これから先、いつまでも自分達を音楽に引っ張ってくれる可能性を信じている。
「あ、憂がもう着いたって!」
「マジで? ちょっと早くない?」
「でも、もうすぐオープンだぞ」
「げっ、もうそんな時間か!」
のんびりとした空気を仕舞い、心は準備を整え始める。少し後ずさって少女達を眺める夏音は微笑んでそれを見守っていた。
「なーにニタニタしてんだよ夏音?」
「Nothing.ちょっと嬉しいだけ」
「何が?」
「よく分かんないけど、早くみんなと音を合わせたくて仕方がないんだ」
夏音は自分でもよく理解できないうずきを抑えるのに必死だった。その気持ちの動力源だけは知っていた。
「俺、仲良くなったのがみんなでよかった」
「はぁ!? な、な、なに急に! 外人かっって……いや、外人かっ!」
「そんな白昼堂々と……恥ずかしい奴」
極端に反応した律と澪は心なしか顔が赤い。他の二人はぽかんとした表情で固まっていたが、すぐに顔をほころばせた。
「私だってみんな大好きだよ!」
「私もー!」
えへへ、と笑い合う三人を目をひくつかせながら見ていた律は呆れた顔で「感性が違いすぎる」と零した。
「言いたい時に言わないとね。減るもんじゃなし」
「そう割り切れるか!」
「わかってる。律は実は誰よりもウブなんだもんね」
「殴るっ」
「つーことで、これからもよろしくってこと!」
「こちらこそー!」
叫びつつ、がーっと襲いかかる律をひらりと躱す夏音の鬼ごっこを笑いながら見守っていた一同は、しばらくしてから屋上を後にして下に降りた。
「プロの演奏をこんな所で聴くの初めて」
「まー聴く機会なんてないよな」
会場の熱気はステージ袖にいても充分以上に伝わる。幾重にも折り重なる眩いスポットライト。客が踊り、跳ね、振動する空間。洗練されたサウンド、パフォーマンスはあまりライブというものに訪れることがない少女達には衝撃の連続だった。できるならば、客席からこの演奏を味わいたいと思うが、なんと言っても彼らのいる場所にこの後すぐに立つことになるのである。
今さらながら、信じがたいという感覚が彼女達を埋め尽くす。
「て、ていうかこんな後にやるなんて……絶対に見劣りするに決まってる」
青い顔で震える澪は完全に雰囲気に呑み込まれているようだった。意外なことに他の者は彼女ほど極端に緊張している様子はない。
「意外に平静じゃないか律?」
「ん? まあ、ここまで来たらもうやるっきゃないっていうか……逆に吹っ切れた感じかな」
「それは頼もしいね」
「夏音からしたら、この演奏はどうなんだ?」
「んー……アメリカのライブハウスに行った時、アマチュアでやってたバンドの方が数倍上手かったよ」
「ってことは、そんなに上手くない?」
「ライブ慣れしてるんだろうけど……本人達が思ってるほどやれてなさそうだね。ほら、あのベースなんてドラムの方ちらちら確認してるだろ? あんまりモニターから音取れてないんだと思う」
暴れまわるギターとは対照的に、ベースは動きたくても動けていないような印象を受ける。普段の彼らがどんなライブをするかは分からないが、夏音の目には、彼らが自分達で満足できるようなステージができているようには見えなかった。
「プロなら、どんな状態でも自分のパフォーマンスをできないとね」
そう言い切った夏音を、少女達は「流石プロ」と言わんばかりに見詰めるのであった。
「なんか……夏音の言うこと聞いてたらそんなものかも、って思ってしまう自分がコワイ」
「澪って意外に単純?」
「ここにもっとすごい人物がいて、その本人が大したことないって言うんだ。別にいいだろ?」
「それ、なんとなくわかるわ」
何ともよく分からない信頼を置かれているな、と夏音は苦笑した。
「ていうか夏音くん。ずっとそのサングラスつけてるの?」
「え、なんかおかしい?」
「いや、暗くない?」
「すっごく暗い。転換の時に転ばないか心配だよ」
それでも自分の正体がバレたくないという一心で、むしろ暗い部分の方が多いこの空間で演奏をするというのだ。そもそも、この男は目を瞑っていても楽器の一つや二つなど弾いてのけてしまうのだから、深刻に心配する必要もない。
「ねえ唯ちゃん、ほんとに大丈夫か?」
先ほどからふらふらと危なっかしい唯をずっと心配していたムギが声をかける。先ほどから眉を落として不安げだったのは、目前に迫ったステージより、こちらの方が原因だったらしい。
「んーちょっとぼーっとするけどダイジョブ! たぶん」
「おいおいー。すっげー不安になる一言をつけくわえんなー」
「ステージでも、りっちゃんのおでこが輝いてたら私はいける!」
「口だけは達者でいやがって!」
「あぅ」
「何だ。いつも通りじゃん」
ふふ、と笑いが零れた夏音であったが、内心では万が一の事態のことに考えを巡らせていた。
(ヤバそうになったら、帰る)
夏音は例え全曲できなくとも、そこでステージを降りるつもりだった。演奏が許容できるレベルを越えてしまえば、おしまいである。それは事前に話合いで決めてある。
リハーサルの時は、まともにできていたが、体調のことばかりは本人次第なのだ。
それでも、不安はなかった。仮に用意していた曲を披露できなくとも、それでもいいと皆が思えたのだ。
その代わり、全力。力を抜かず、全力で楽しむ。
ずっと掲げ続けてきた誓いだけを忘れずにいよう、と。
「なんか、もうそろそろ終わりっぽい」
ステージに目を向けた律の一言で、各々が小さく反応する。息を呑む澪、胸の前で手をくんだムギ、気合いを入れるように息を荒くする。
一同は自然と円陣を組んだ。
「俺が何を言うかもうわかってると思うけど」
「楽しもう、でしょ?」
「そのとーり。客の顔は見なくていいよ。俺達がこれからするのは、究極のマスターべーションさ」
「お、おまっ! お前そんな顔して何を口走ってるんだ!?」
「りっちゃん、マスターなんとかって?」
「分かってしまう自分が汚く思えてきた……」
この大事な瞬間にとんでもない単語を放り投げてきた夏音にその場は騒然となる。主に、常識に近い位置にいる律と澪の両名が慌てる。
「言葉の選択には気をつけないとね」
「しれっと言うな!」
「とにかく。最高の演奏は俺達が楽しまないとできないのさ。早く演奏して、他のバンドの演奏聴いて、とっとと帰ろう。帰ったら焼肉だ!」
「うおぉーー!! 肉!」
肉の言葉に反応した唯が息を荒くする。
「何、そのスポーツ少年団の監督が試合に勝ったら焼肉だ、とか言って子供を奮起させるみたいな感じ」
「終わったら打ち上げしないと! 何のためにライブすると思ってんのりっちゃん!?」
「言っとくが打ち上げのためではないからな!」
円陣を組んでから随分と時間が経っている。ぎゃーぎゃーとまとまらない高校生達をにやにやと見守っているスタッフの視線がそろそろ生暖かくなってきた。
「ゴホンッ。ここは部長の私が締めないとな」
不肖、田井中律が、と咳払いをする。
「けいおんぶー」
わずかな溜め。
「ファイトー!」
「え? あ、ふぁ、ふぁいとー!」
「おー」
「イェー!!」
「………………………………」
「何でこんなに締まらなすぎるんだ!?」
全員の心が一致した。
★ ★
最高潮に達した歓声と拍手を後に、モノグロのメンバーはステージ袖に帰ってくる。彼らはこれからすぐに出番を迎えることになる少女達に近づき、激励の言葉を送った。
少女達はぎこちなく笑い、周りのスタッフが慌ただしく動き始めた雰囲気に押され、ステージへと向かっていった。
転換の為に薄暗いステージの上。薄い幕が張られ、彼女達の姿は観客には見えない。もうすぐ、目が眩みそうなほどの光を浴び、未だかつて味わったことのない数の視線に曝されることになる。
それまで、幕の向こうにうごめく人の気配。熱を帯びた観客の呼吸だけが伝わってくるのだ。
既にステージから捌けた者達は、自分達がかつてその身で味わった感覚を全身で思い出していた。
今も鮮明に蘇るあの緊張感。今は自分達の物ではない。
彼らは、やがて自分達の後続となるかもしれない少女達を見詰める。
そつなくセッティングをする姿はそつがない。これから彼女達を襲う出来事に、興奮を覚える。
今日、ここでどんな化学反応が見られるのか。
それを間近で味わえる贅沢に身を震わせながら、ステージの脇で待つ。
準備を整えた少女達の合図によって、アナウンスが場内に響き渡る。歓声が膨れあがり、爆発の瞬間を待っている。
幕がステージを横切り、ステージと観客を隔てている壁を取り払う。
ヴォーカルの少女が後ろを向いて何かを言うために口を動かした。次の瞬間、照明は暗く、幻想的な色合いが重なり合う。
歓声の隙間から、微かな音が縫うように現れると、会場はしんとなる。美しい音の壁が幾重もの波となって会場全体に広がっていく。心臓の鼓動のようにバスドラが刻み始め、キーボードがそれらを丸ごと包み込むようなオルガンを奏でる。
目立たぬように支えるベースが、いつの間にかそこにいる。
中央に立つ人間のシルエットが腕を大きく広げる。まるで、そこから飛び立ってしまいそうな動作。
もったいぶったようなドラムのフィルが突き抜けてくる。気配が変わる。
くる。
そこで生まれた爆音と同時に、少女達の姿は全て光の嵐に呑まれていった。
※更新が遅すぎたくせに、変なところで終わりました。
爆メロの本番の描写は第二章に行うという構成をとりました。次話以降は、ちょろっと二年生までの閑話があってから、二章になります。