「つまり、どういうことなんですか?」
「あのね。山田くんにばかりこんなことを頼むのは申し訳ないんだけど……ね?」
「いや……ね? じゃなくて。何で僕がそんな役目を? 香坂先輩とか適任じゃないですか」
「うーん。本当はその予定だったんだけどね。あの子、今年の夏はご家族で海外旅行らしいの」
七海は即座に「ちきしょうあのブルジョワがーっ」と心の内で叫んだ。もちろんそのような烈しい嫉妬に満ちた内心はおくびにも出さない。
狭量な男だと思われたくないから。このように涼しげな態度を心がけながら、実際にはそこまでクールになりきれていない男が山田七海という男であった。
現に両手を小さく合わせて小首をかしげる曾我部めぐみの憎いくらいの可愛らしさといったら。七海の口許は知らずのうちに緩んでしまっている。
普段は可愛らしい、というより美人な女性の先輩だが、ふとした時に可愛くなれるという強力な武器を持っている。火力は言うまでもない。
「………わかりました」
「ホント? ありがとー。やっぱり男の子って頼りになるわね!」
破顔一笑、きらびやかな笑顔で七海に礼を言ってくる先輩に小さく息をついた。
「あぁ……また過剰労働の日々」
最後に惚れ惚れするくらい艶やかな笑みを七海に向けて、さっさと自分の座席に座ってしまった先輩を見送った七海は再びだだ漏れそうになった溜め息を寸で噛み殺した。
ただでさえ七海は女子生徒の人口が多い桜高の中でも、さらに女密度の高い組織に所属している。その名は生徒会といって、あろうことか唯一の男子生徒にアレコレを押しつけてくる素敵な先輩方が生息している。
唯一の男子。
ふざけるな、と七海は憤然と主張する。それはこの環境を俗にハーレムだと称する者がいるからだ。ハーレムとは漫画や小説だと主人公の特権のように扱われるシチュエーションだ。まさに聖域にも等しい選ばれし者の空間のはず。
だとしても、やはり七海はモブキャラなのだ。自分にとって正しい現実は「男だから」という理由で言い様にこき使われている毎日。
力仕事は七海の出番だと期待の目線を送られる。最近では当然のように扱われている。
頼りにされていると考えたら嬉しくなくもないが、それにも限度がある。同じ学年の同期達はそろって七海に同情の視線を送ってくるが、先輩が率先して七海に仕事を頼むものだから年功序列に従う彼女達には何もすることができない。
ただ時折、お茶を机にさし置いてくれたりして七海はちょっぴり涙するのだ。
そして今も仕事を押しつけられてしまった。
ソフトボール部の応援、らしい。公式試合でかなり良いところまでいったソフトボール部の決勝の応援に生徒会からの代表が馳せ参じなくてはならないらしい。
どの部活に限らず、生徒会はこのように部活動応援などに借り出されることが多い。何の形式か知らないが、そういうことになっているらしい。
他にも、他校の行事に借り出される時はことごとく生徒会から選ばれる。加えて、その犠牲は最近では七海が主に受けているのである。一昨日など、吹奏楽部の演奏会にどこだかのホールまで東京まで向かい、観客席から一緒にスィングするハメになった。
七海はいつまでこんな状況が続くのだろうと不安になった。生徒会の仕事はこんなに過密なものだろうか。聞くところによると、他校では生徒会の役割など学校祭の準備くらいのものだという。
今はもうすぐ夏休みという遊び盛りの高校生にとってこれ以上ないドキドキわくわくの時間である。
あーどこに行こうか。あれもこれも、それもあなたもと予定を立ててはしゃいでも罪はないはず。
だが現実は浮かれた七海を打ちのめすかのように残酷なストレートを放ってきた。
夏休みにまで生徒会の仕事が入っているなど、聞いていない。それも秋から始まる学校祭の準備などに休日出勤(この場合祭日出勤)を強いられる日々だそうだ。
何故、どうして、ホワイ。自分ばかりがこのような外れクジをひかなければならないのだろう。
(僕は書記だぞ書記! もう書記の役割とか超えてるだろう!)
ここ最近で一番でかい仕事は、タイだかフィリピンだかバングラデッシュだかのストリートチルドレンを救うための活動に必要な金集めの企画のリーダーにされたことだ。
井戸を掘るのに必要なお金を集めるための方法って高校生に三十万円も集められるかという給与区の無茶ぶり企画だった。今どきの芸人でさえ、こんな企画はまわされないだろうに。
七海、集めた。
生徒会主催のチャリティーフリーマーケットに加え、残った品物をせどりをしたり、古物商との交渉をしている内に、品物の中にとんだ値打ち物が紛れ込んでいたことが判明した。するとどうだろう。三十万どころではない金額が生まれ、呆然としたことは言うまでもない。
しかしだ。企画を進めたのは一年の七海であった。企画書を深夜かけて作成して、多方面へと走りまくった。
それが事もあろうに、七海があまりの金額にぼーっとしている内にもっとも憎き副会長・香坂成美がその手柄をまるごと掻っ攫っていった。
あの時ほど殺意が湧いたこともない。
いつか見返してやる、と復讐の炎を燻らせているのは秘密である。唯一不安なのが、燻ったままこの炎が消化してしまわないかというくらい。七海はあまり意志が強くないのだ。
(よし!)
秋が過ぎると生徒会も引き継ぎである。現在の最高権力である曾我部先輩と副会長である香坂がいなくなれば、この悪政もましになるはず。
その時こそ、自分の時代だと七海は密かに生徒会を牛耳ろうと目論んでいる。
こんなに働いている自分が後任を任されないはずがない。そして、事あるごとに仕事をしない副会長をやり玉にあげて後輩に伝えていくのだ。
七海は知らず顔をにやけさせていた。もしかしたら声も出ていたかもしれない。
「ちょっとななみー。気味悪い笑顔を浮かべてないで、暇ならコーヒーおかわりお願いできるー?」
「はい、ただいまよろこんでー!」
そう。今は我慢の時なのだ山田七海っ! と必死に自分に言い聞かせた。
「山田くん。明日、八時に駅前に集合でいいかしら?」
「へ?」
時は夏休み。生徒会室にて七海が少なくとも三つ以上の仕事の資料をまとめていたところ、隣の席にいた真鍋和が何の気なしに話しかけてきた。
「なにが?」
「なにがって……明日、ソフト部の応援に行くんじゃない」
確かに、そんな予定が入っているが。
「え? あれって僕ひとりで行くんじゃなかったの?」
「山田くん一人じゃ心許ないから、一緒にいけって」
「こ、心許ないって……」
「香坂先輩が」
「あの女っ!!」
自分は優雅に海外へと避暑するくせに、後輩に尻ぬぐいをさせる負い目を感じないのか。
「先輩をあの女なんて呼んだらだめじゃない。あ、ちなみに伝言で『大変遺憾ではあるけど、これにかこつけてオオカミになったらだめよ』だって。オオカミってどういうことかしら?」
さらにとんでもねー伝言を残していったものだ。これがそのまま遺言になればいいのに、と七海は舌打ちした。
「あの人の妄言は気にしちゃだめだよ。きっと頭ぶっ飛んでるんだから」
「ちょっ、山田くんっ!」
「ていうか思い切り体力バカで体育会系なのに、海外へ避暑って。去年はヴェネツィア行ったって聞くし。今年はどこだっけ、北欧? フィンランド? ストックホルム? ベルギー、オーストリア? あの人の場合オーストラリアで岩昇りしてる方が想像できるよね」
「山田……くん…………」
和の声がか細くかすれる。彼女の場合、香坂先輩に可愛がられているから先輩の悪口のようなものを聞いて気分を悪くしたのかもしれない。確かに自分でも陰口みたいになって情けないな、と七海は気まずい空気を誤魔化すように咳払いをした。
「ま、まあ。任された仕事だからね。一人より心強いし、助かるよ」
「ななみ~~~~~アウト~~~~~」
「えっ……」
間違っても和の声ではない。彼女はこんな地獄の三丁目あたりから響いてきそうな恐ろしい声ではない。幻聴でないならば。七海は今すぐ死ぬことになる。
目の前の和は盛大に顔を引き攣らせている。その目線の向かう先にはそれはそれは恐ろしいナニカがあるのだろう。七海は滝のように噴き出した汗がYシャツを濡らしていくのを感じ、おそるおそる後ろを振り向いた。
「なーなーみーくーん。今、可愛い後輩から耳を塞ぎたくなるような暴言が吐かれたような気がしたんだけどー気のせいかなー」
「ひ、ひ、ヒィヤーーッ」
「どうもー。北欧が似合わない体力馬鹿女ですぅー。こんにちはー」
こんにちは、の時点で七海の顔面はよほど女子には似つかわしくないほどの握力を備えた手に覆われていた。万力のような強力で無情な力がぎりぎりと七海の顔の形を変えようとしている。
「ろ、ろうひてこうひゃかせんぴゃいがぅおっ!?」
七海は「噂をすればなんとやら」ということわざの意味をその身でもって体感していた。そういえば英語では「悪魔について話せば悪魔がやってくる」という言葉だったはずだ。
この場合は「ゴリラいついて」本当にゴリラがやってきた。
「あれー言ってなかったけー。今日、夕方からのフライトなのよー。時差が違うからねーお昼に出てお昼に着くわけじゃないの」
そろそろメガネが壊れそうである。思えばこの相手には何度もメガネを破壊されかけるレベルの暴力を頂戴していた。形状記憶という現代技術の恩恵がなければ、七海のメガネが壊れたであろう回数は計り知れない。
次第に七海は自分の足が地面を離れようとしている感覚を得た。顔だけを支点に持ち上げられている。どれだけ馬鹿力なのだ。
「いたひいたひいたひ~~メガネこわれっ!」
「今ね。ツボを押してるの。太陽穴といって視力回復に良いんですってー。これでメガネが壊れても大丈夫でしょ」
何という暴力理論。噂ではなく林檎を握りつぶせるその握力がさらに開放されていく。
「いやぁーーーーーっ」
山田七海、魂のシャウトは生徒会室を駆け巡る。あまりに凄惨な光景に悲鳴を噛み殺していた和が慌てて割って入った。
「せ、先輩っ。それはやりすぎだと思います」
その瞬間、七海を締め付けていた力が消えた。解放されると、七海は地面にバタンと倒れ伏した。和の慈悲に心から感謝した。
七海を締め殺しかけた犯人はふん、と鼻をならすと少し柔らかい口調になった。
「まー可愛い和に言われたら仕方がないわね。あ、その角度から上を見上げたら踏みつぶすわよ」
あんまりである。七海は床と熱くキスをしながらそんな思いでいっぱいだった。確かにこの角度から上を向いたら素敵な光景と相まみえることになるが、そんなのはこちらからお断りであった。
命をベットして得られるほど良いもんじゃない。
よろよろと立ち上がった七海は、きっと目の前に立つ女を睨んだ。
「ここに何用ですか!」
にっこりと微笑む香坂成美。花が咲いたようなという表現が似つかわしい麗しい笑顔。
何といってもこの少女はゴリラ並の膂力を有した桜高生徒会の副会長その人である。
身長は女子としては高く、モデル体型といって差し支えない。現に街中でスカウトされたことも数度あるらしい。腰まで伸ばされた栗色の髪は毛先にゆるいウェーブがかかり、その髪全体からとんでもなく甘い匂いを放っている。
その容姿はむしろ深窓のお嬢様に類しても過言ではないほどの華やかさを持っているのだが、七海は彼女が未来から来た殺人ロボットだと言われても納得できる。
「おや、まあ」
おや、まあじゃねえよ。七海は決して口に出すことが憚られる暴言を心に落とした。人の顔面の形を強制的に整形しかけといて、すっとぼけたものだった。
「遺憾ね。夏休みなのに学校で働く可愛い後輩達の顔を見にきたらだめなのかしら?」
「ダメではないですけど………じゃ、もう見ましたよね。ほら、けっこう忙しい感じなんで、仕事に戻ります」
「どうしましょう可愛い後輩ににべもなくされちゃった」
全く気にしていない様子でよく言ったものである。七海は宣言通りに机に向かって座り直し、作成していた資料を端から見直す。
「てい」
横合いから入ってきた腕に資料が吹き飛ばされた。見覚えのある腕だ。
「なんなんですかっ!! 馬鹿野郎!」
「野郎じゃないわ」
「女郎め!」
「よく知ってたわね、女郎なんて」
七海の返しに目を見開いて驚いてみせた彼女はにやっと笑い、七海の頭をがっしり掴んだ。目が笑ってなかった。
「でも、女性に言って許される言葉じゃないわ。訂正しなさい」
「お馬鹿さま」
「ふふ、まあいいけど」
傍から見ていた和は「いいんだ……」と驚きを露わにしていた。この二人のやり取りは今期の生徒会が発足して以来の名物となっていた。
いわゆる戯れというやつで、本気で人が傷ついたりしていないので、基本的に傍観の姿勢がとられる。たまに肉体的に七海が傷つくこともあるが。
「まあ、せっかくだから聞いてよ。私、これから北欧に行くわけなんだけど」
やけに北欧、の部分を強調した香坂はうきうきと続けた。
「私の代わりに応援に行ってくれる後輩ちゃんのためにお土産を買ってこようと思うの。それで、二人は何がいいかなーって」
もしかして、そのために来たのだろうか。七海は目を丸くしてぱちくりさせた。
前から思っていたが、この先輩はどこか律儀な部分がある。もちろんメールや電話で済ませてしまえばいいことなのだが、少なくとも自分だけ遊びに行くことへの負い目があった訳だ。
「うーん。北欧って言っても、何があるんですか」
ピンと来ない。これがディズニーランド、とかであれば七海もすんなり頼めるはずなのだが。
「何だ。人に北欧似合わないとか言うくせに、何の教養もないんじゃないの」
ここぞと不敵な笑みを浮かべて七海を見下すような態度の香坂に七海はむっとした。悔しいが、その通り。
「私はムーミンのグッズとか売っていたら欲しいですかね」
「あっさすが和っ。わかってるー。ムーミンね! とっても可愛いの探してくるわ!」
すらりと答えた和にとびきりの笑顔を向けた香坂はいまだに答えあぐねている七海の方をじっと見て、溜め息をついた。
「あぁーあー。これだからダメなのよね、七海は」
「今、考え中なんです!」
何だムーミンとは。日本のアニメじゃなかったのか。七海は和がすんなりご当地の品を答えたことに度肝を抜かれていた。
北欧。何が有名だろう。サウナ、白夜、フィヨルド、ノルウェイの森。いや、お金にできないプライスレスな知識ばかりが頭をめぐってしまう。シュールストレミング……は死んでもイヤだ。
「キ、キシリトール! ガンム!」
若干かんだ。しばし悩んだ挙げ句、ぽんっと出たのがこれである。七海は口にした途端、羞恥心にもだえた。
よりによってキシリトールガムとは。いや、これでも向こうにちなんだ物の名前が出ただけで褒めていただきいのだ。
「え? そんなのでいいの? 日本にたくさん売ってるじゃない」
香坂はかなり怪訝な表情で七海を見詰めた。絶対に変な奴だと思われているに違いない。
「い、いやー。本場のキシリトールで健康な歯になりたくて」
「えー。あなた頑丈そうな歯じゃない」
たしかに以前、正拳を頂戴した時にも折れなかった自慢の歯である。だが、ここは男の意地というものがある。一度言ってしまったものを撤回するのは七海的にちと恥ずかしい。曖昧に笑っていると、先輩は腑に落ちない様子だったが、ややあって頷いた。
「じゃ、キシリトールね。詰め合わせとか売ってたらそれにするわ」
晴れやかに笑ってから先輩は「じゃ! 行ってくるわね!」と言って教室を出て行った。
止める間もなかった。
「本当にそれ訊きにきただけ……?」
「さあ……」
七海は嵐のように過ぎ去っていった先輩を思ってしばし和と顔を見合わせた。
それからの日々は猛烈に忙しかった。過密日程の中を仕事に明け暮れ、夏休みらしいことをする暇もないくらい。きちんと和と二人でソフト部の応援にも行ったし、ボランティアにも参加した。
桜高を代表してパネルディスカッションに曾我部先輩と二人で参加したことはひと時の安らぎだったが、その他校内の雑用が生徒会に押しつけられた。
もちろん男手の有効活用は忘れず、資料室の整備や倉庫の大掃除などもやらされた。
その中で七海にとっては副会長の姿がないと肉体的にも精神的にも楽だという発見があった。
彼女の姿がないだけでこれだけ変わるものか、と驚いたものだ。普段から肉体言語を七海に解き放ってくる香坂は淑やかな容姿を全力で裏切る男っぽい絡み方をしてくるのだ。
七海としては常に腰が引けた状態で言いなりになる他ない。断ってもいいのだが、首を横に振った時の自らの末路を想像すると恐ろしい。
七海としては他の女の先輩方もそれはそれで恐ろしいのだが、香坂は別格だった。
ああ楽だ。この世の春だ、と七海は浮かれていた。部活動で鬼コーチがいない時の練習ってこんな感じなんだろうな、と顧問不在時にやけにテンションがあがるバスケ部の気持ちを知った。
そんな夏休みが半分ほど過ぎた中、そろそろ休み明けに入る生徒会最大行事である学校祭の準備のため、生徒会の者は例外なく生徒会室に集まるようになっていた。
そして、香坂成美が帰ってきた。
一番の繁忙期に悠々と海外でいる訳にはいかない、という理由で一人だけ旅行先から帰国したのだそうだ。何とも責任感あふれる行動である。もっと普段に活かして欲しい、と七海は思う。
「あ、ななみー。まだ残ってたの?」
下校時刻が過ぎて久しい時刻。生徒会役員は準備のために校内に残ることを許されていて、たいていの生徒はそのまま生徒会室に缶詰状態であったが、ここまで遅い時間に残る者はいない。七海を除いて。
「持ち帰りの仕事とかあまりしたくないんで、片付けちゃおうかなって」
少なくとも高校生の台詞ではない。これではワーカーホリックな会社員さながらである。
「ふーん。よし、もう帰るわよ」
「え、帰るわよって。今言ったこと無視!?」
しかもその物言いでは、自分と彼女が一緒に帰るみたいではないか。
「あのね。一人でも生徒が残っていたら先生方も帰れないんだからね。そこらへん、ちょっと考えなさい」
その言葉にはっとする。確かに、時刻は八時を迎えようとしていた。いつもこのくらいの時間まで学校に残る先生は数人いるから、あまり気にしなかったが、確かに七海が帰らないために残っている先生もいるかもしれない。
「わかりました。もう終わりにします」
しかり、と七海は素直に香坂の言葉を受け入れ、資料を急いでしまい始めた。七海が机の上に乱雑になっていた資料をかき集めるのに苦戦していると、背後で呆れたような溜め息が聞こえた。
「はぁー。何でもっと綺麗にできないのかしら」
その言葉にむっとしても七海は手を止めない。
「資料の数が多すぎるんですよ。パソコンとか使わせてくれたらもっと楽なのに」
この数をアナログで片付ける時代はとうの昔に終わったはず。わざわざパソコン室まで出向き、往復するのは手間以外の何物でもないのだ。
「それなら前に予算通ったから、もう少し待ってちょうだいよ」
「あれ、通りましたっけ」
「ええ。私とめぐみで田代先生を押しきってね」
七海は机に向かったままで見えないが、背後の香坂が最上級の悪い笑顔をしているに違いないと思った。何だかんだと生徒会の重要事項は会長と二人のコンビでもぎとってきたのである。どんな手腕を持っているのかは甚だ怪しいが。
「あぁーもう苛々するわねー。男ってみんなこうなのかしら」
待ちくたびれたのか、好き勝手言いたい放題の相手に七海はかちんときた。
「別に待ってなくていいですよ。僕、わりと最後に出るんで慣れてますし」
「あほたれー。後輩残して帰る先輩がいるかい」
「普通、先輩が先にあがるものじゃないですか? 逆は気を遣うけど」
「いいから! ほら、もっとてきぱき手を動かすの!」
見かねた香坂が七海の斜め横からぬんと身を乗り出して資料を片付け始める。何故か彼女は七海をかすめるようにカットインしてきたのだ。肘がこめかみをかすった。彼女はナチュラルに七海にダメージを与えるのが趣味なのだろうか。
(うわ……この匂いは……あふん)
見た目は麗しく、性格は乱暴がさつに近いのにやっぱり女の子でふわふわ良い匂いがする。七海の苦手分野である。
女の人の匂いの不思議は不肖・山田七海の十六年の歳月をもってしても解き明かされていない。
七海が手を伸ばしたままの姿勢で硬直している間に、香坂の手は動き続けてあっという間に資料はまとめられていしまった。お互いの腕がふれて、「あっ……もじもじ」という空気は一切起こらなかった。むしろ動かない七海の腕を邪魔とばかりにばしばしと叩いてよけさせられていたのだが。
「は、はやっ!」
「ふふー。副会長をなめないでよ」
得意気に笑う香坂が七海を見下ろした。こういう時に彼女がどういう言葉を欲しいか七海は知っていた。
「おみそれいたしました」
少し大げさに頭を垂れる。すると偉そうに鼻を上機嫌に鳴らした彼女のできあがり。
どれだけ敬われたいのだ、と七海は俯いたまま軽く舌打ちをした。
そんな七海の不遜な態度には気付かない香坂はまた打ったように明るい声を響かせた。
「さ、とっとと出るわよ」
全ての電気を消し、鍵をかけると職員室によって教職員に挨拶をする。この時間だととっくに正面玄関は施錠されているので、職員用の出入り口から校外へ出た。
「流石にもう日は落ちたわねー」
「あぁー、そうですね」
七海の三歩ほど先をずかずか歩く香坂成美。結局、一緒に帰ることになった訳であるが。
(どうして、こうなった)
この先輩といると何をされるか予測不能なのである。というよりどのような攻撃が加えられるかが未知数、七海に蓄積する防御パターンも限りがある。
「ななみは家どこなの」
「本田町ですけど」
「あれ? もしかしてご近所さんだったの!?」
「近所って……もしかしなくても先輩はあの豪邸が建ち並ぶ……」
高級住宅街である。七海の自宅までは豪邸と称すべき家が軒を連ねている住宅街を通過する必要がある。
「そうよ」
お嬢様だということは判っていたが、本当にそうらしい。
「でも通学途中とかに遭ったことないわね」
「まあ、たまたまじゃないですかね」
「ふーん。あんた朝早かったっけ?」
「いえ、これといって普通ですけど」
「ふーん」
自分からふっといて「ふーん」しか言われないのも悲しい。怒りというより悲しい。
(ていうか、あそこまで同じ道ということか)
気が重くなって沈黙していると、些細なところも見逃さない香坂であった。
「なんか急に大人しくなったわね。私と帰るのがいやなの?」
「滅相もございません」
イエス! とは言えない物騒な雰囲気を醸し出しながら言われても困る。とはいえ、気が重くはあるが嫌悪するまででもない。ノーでもないけど。
「ていうか、いつもあんな時間まで残ってるの」
「今さらですか。あれだけの仕事量なんで普通に帰ってたら終わんないですよ」
「むー。そっか……悪いことしたわね」
「え?」
この先輩にしてはずいぶんと殊勝な物言いである。言葉だけでなく、心からすまなそうな態度をとる香坂に七海は狼狽えた。
「なんか仕事押しつけまくっちゃってさ。あんたもほいほい請け負うからつい、てやつ?」
「はぁ。つい、ですか」
「それに私、この学校入って二年間も男の後輩なんていなかったからさ。どうも加減というか、調子がわかんなくて」
「まあ、女子校だったわけですしね」
「そうなの。まさか共学になるなんてねー。予想外もいいとこ」
「だから扱き使ってしまったと?」
それが理由だとしたら、何ともやるせない。つい、で過労死でもしたら末代まで祟ってやると心に誓っていると、前を歩く香坂がぴたっと足を止めた。
「あなた、聞くけど」
「……ハイ」
七海は真剣な表情でこちらを振り返った香坂に、ごくりとツバを飲み込んだ。
「マゾではないの?」
「んな訳あるかっ!」
敬語も吹っ飛ぶくらい反射的に叫んでしまった。幸いにも「生意気なっ」と拳が飛んでくることはなかった。七海の言葉を受け取った彼女は「ふーむ」と思案する様子を見せる。
「後輩に押しつけてばかりじゃダメな先輩よね。よし! これからはほどほどにするわ!」
腕を組みながら言う台詞ではないが。そしてあくまで尊大な態度は崩れないのだなぁといっそ惚れ惚れするくらいの潔さに七海はしばしぼーっと見とれた。
「そうしてくれると非常にありがたいですが」
「そうでしょう。ま、というわけでハイッ」
どう前の文脈からつながるか分からないが「というわけ」で香坂は鞄から小さな袋を出して手渡してきた。
「え、何ですかこれ?」
「北欧のお土産よ。北欧が似合わない女からの、でよければ受け取りなさい」
「ああ……キシリトール」
そういえば旅行前にそんな事を頼んだ覚えがあった。本当に欲しかった訳じゃなかったので、忘れかけていたが。
「いいからっ! それで毎朝毎晩スッキリしてることね」
ぐいっと両腕に押しつけられた袋は予想していたより重みがあった。
「あと、ついでに蚤の市でよさげな小物があったからおまけを同封してあげといたわ」
「おまけ?」
何にせよ、と中身を確認しようと七海が袋に手をかけたのだが「アウト~!」という怒声に阻まれた。
「普通、この場で空けるかい! ななみよ。チェリーボーイよ!」
うるせえよ、と七海は毒づいた。もちろん心の中で。
「そういうのは笑顔で『あざっしたー』って言って帰ってから空けるものよ。礼儀よ。マナーよ!」
「あぁーわかりましたよ! 香坂先輩、ありがとうございました!」
「どういたしまして!」
どこかやけくそになった二人はその後、沈黙のまま帰路を突き進むことになった。会話らしい会話はなかったが「お腹すいたー」「今晩、なんだろ」「買い食い、はまずいか生徒会だし」という短い応答が続いた。
何と香坂宅に至るまでの通学路はほとんど一緒という事が現実に判ったところで、彼女の自宅に到着した。
その豪邸の様相を細かく描写した瞬間、山田七海という人間の何かが壊れそうになるので割愛。
「さて、お別れだけど」
門の前で仁王立ちをきめた香坂が神妙に切り出した。
「あんたは見た目、かなりダサイ。気を遣わなさすぎよね」
「別れ際に思春期の男の子を傷つけるのが仕様ですか?」
「どうせ私服も地味なんでしょうよ。だから、あなたはありがたく思った方がいいわ」
「流石に僕でも泣きますよ。いいんですか、自宅前で後輩を泣かせても。わんわん泣きますよ」
ただでさえ「差」というものに打ちひしがれかけているというのに、この追い打ち。流石の七海も涙を禁じ得ない。
「あー、ちがくてっ。もー何て言ったらいいのかな……とりあえず、とりあえず帰ってお土産を見なさい。優しい先輩からの心遣いを知ることでしょう」
「はぁ……よくわかりませんが、了解しました」
七海が首を振ると香坂は「また明日!」と家の門をくぐって行ってしまった。訝しげな顔をしたまま、しばらくその場に突っ立っていた七海は肩をすくめると歩き出した。
「ふーん。意外にぎっしりだなぁ」
自宅に帰り、夕飯を食べて風呂に入り、テレビ番組を適当に流し見していた後にお土産をついに開封することにした。まずは一番大きく目立つ箱はキシリトールのガム。向こうのよくわからない言葉で成分表示などがされているが、空けてみるとなかなかの量だ。一口食べてみると目が覚めるような涼しい味わいが舌に広がって美味しかった。
「ん、これかな。おまけ」
ガムとは別に小さな袋があった。中をおそるおそる開けてみると、出てきたのはブローチだった。最近では男がつけてもおかしくないのだろうか。だが、デザインは悪くない。
色は白に近いピンクで花弁をイメージしているだろう形をしたデザインで、ところどころアクセントに使われている青色の材質はもしかして。
「宝石? じゃないよな」
あの先輩がこんな高価なものをくれるだろうか。でも、金銭感覚が狂っているとすればその辺の宝石など軽い出費ということもありえる。
「ま、なんかのパワーストーンってとこかな」
とはいえ、何ともセンスのある一品である。派手すぎず、かといってシンプルなセンスが漂って七海がつけても不自然ではない。洋服につけてもいいし、鞄につけてもいいかもしれない。
「成る程。これを機にお洒落にはげめよってことか」
そんなんじゃいつまでたってもチェリーボーイだ、と言いたいわけか。
「まあ、ありがたく受け取っておきますかね」
七海は、あんな先輩でも自分に優しい一面を見せてくれただけでよしとした。
もちろん七海は宝石に興味がない日本の男子高校生であったし、その宝石の名前も宝石の持つ意味など知るよしもなかった。後々、これが痛い目に合う布石であることは神のみぞ知る。
後日、会長にこんなことを言われた。
「あ、山田くん。そのブローチ素敵ね」
「え? これですか?」
「うん。成美のと似てるのねー。私、あれ見てから欲しくなったから、似たようなの探してるんだけど、なかなか見つからなくてね」
「へ、へーそうなんですか」
「成美のは黒っぽかったけど、なんか対になってるみたい。いいなー私も欲しいなー。ね、山田くん。卒業祝いに私がそれ欲しいって言ったらどうする?」
悪戯っぽい口調だが、割と目が真剣と書いてマジと読む感じだ。
「す、すみません。これはちょっと差し上げるわけにはいかないんです」
「そ。ざーんねん」
名残惜しそうに七海のブローチを撫でていた先輩がにっこり笑って七海に言った。
「大切にしてね」
だが返事を聞かないで彼女は行ってしまった。七海はやっぱり女性にも評判が良いブローチなんだと鼻高々になった。
「もちろん大切にしますとも」
※すみません。次回予告を盛ったくせに、なんだコレはと。
箸休め的にちょっと短編をと思ったのです。某所で意外に人気が出た七海の短編です。ぶっちゃけ見ても見なくてもいいお話だったりしますが、作者自身もこの子はお気に入りだったりしますので、どうぞご容赦を。