夏音は自分がアメリカの土を最後に踏んだのはいつだったかと思い返す。彼が日本にやって来てから既に一年以上が経つ。随分と遠い国に来たものである。人生の九割以上を過ごした場所から遙か遠くに位置する小さな島国。些細な事からその生活に不安を感じることもある。
習慣、文化間のギャップ。人によっては異国間の些細な違いが時には多大なストレスになることもあるという。
しかし、彼にとっては些末ごとに過ぎない。そんなことはどうでもいいのだ。
彼が日本で暮らす中で悩ましい事と言えば、今でもこちらの時差を考えずに電話を入れてくるエージェントに他ならない。
あまりにしつこいので辟易としてしまい、電話がかかる度にぺらぺらと言葉をまくしたてて、煙に巻かなくてはならない。口ばかりが上手くなってどうするのだろうか。
さらに新生活とか節目の時期には多くの変化が巻き起こる。夏音が私立・桜ケ丘高等学校に入学してから一週間と数日が経ったところである問題が発生した。
まず、両親が出て行った。
別に家庭崩壊という危ういキーワードはここでは出てこないので安心して欲しい。
ある日、珍しく全員がそろった夕食の席での事だ。
「夏音も日本にはだいぶ慣れたよな。また、仕事の方を以前の量に戻していこうと思うんだ」
から揚げを頬張っていた夏音の父、譲二がふと真剣な表情で箸を置いてそう切り出すと、母のアルヴィがにこやかにこう添えた。
「ママもいっしょ」
夫大好き人間の彼女のことだ。
「うん、大丈夫。俺は心配ないからどーぞいってらっしゃい」
夏音は別に両親がいつ出て行こうが大して慌てる必要もないので、冷静に切り返した。そもそも、日本に来て家族で一緒に過ごした時間も多いとは言えない。もともと仕事の関係上、一般の家庭比べて家族団らんの時間は限られる。そんな家庭だった。
今さら断るような話でもない。
家族の暗黙の了解なので、二人にとってもこれはただの報告でしかないのだ。
夏音に流れる血の本家大本の両親が音楽無しに生きていけるはずがない。自分にも言えることだが、彼らの場合は次元が違う。
彼らは仕事としてではない、いわば趣味の域などでおさまるような類の人間ではない。趣味の範囲で出会えるような人々では満足たり得ないのだ。
やはりあのステージに。限られた者がのぼることのできるあのステージにいなくてはならない。
だから、ここで彼らを引き留めるという行為ほど無駄なことはないのだ。
加えるなら夏音はいつでも一人暮らしを開始できておつりがくる程度の家事を叩き込まれているので、衣食住にいたっての心配も皆無だった。
それでも唯一の気がかりといえば。
「じゃあさ。あのドラムとか持っていったりするかな?」
「いーや、あれはお前が好きに使っていいよ」
なら、問題はなかった。夏音は家族共有のスタジオに設置されてあるドラムセットがお気に入りだった。
翌朝、夫婦は文字通り飛び立っていった。
「アディオス、息子よ!」
「元気でねー! 電話するからねー」
よく晴れた爽やかな早朝に、いつもエネルギー全開の両親の声が閑静な住宅街に響いた。
寝巻き姿で、寝ぼけ眼のままそれを見送る夏音。
「アーーチュ!!」
くしゃみをしても一人。
何より問題は二つ目だ。友達ができない。
夏音は人間、第一印象が大事なのだということを誰よりも深く肝に銘じていたはずだった。過去の痛い経験も新しい未来へ進むための定石となれば良い。
頑張って、友達をつくるぞ。
そんな決意を新たに踏み入れた高校生活アゲイン。
入学式の自己紹介を終えて以降、日本語があまり話せない帰国子女という位置に落ち着いてしまった夏音は、クラスでも浮いた存在になってしまった。孤立ともいう。
「俺って奴は……また、やっちゃったのか」
クラスメートはこちらが挨拶をすれば、しっかり同じように返してくれる。最初の方は好奇心もあってか、数人で夏音を取り囲むこともあった。
しかし、夏音がしょっちゅう言葉に詰まったり、すぐ英語で問い返したりするようになると、相手はきまって「あわわわわ……」と狼狽えてから、おぼつかない英語で「パードン」か「ソーリー」ばかりだ。すごくバツの悪そうな表情で言うものだから、夏音の方こそ罪悪感マックスである。
しかし、夏音には何よりも不可思議な点がある。会話する時、じーっと相手の目を見詰めると大抵の相手は顔をそらす。夏音は皆が何で自分と目を合わせてくれないのか不思議だった。
前の学校でも。道行く人でさえも。会話する相手に対して失礼な話である。
もちろん中には非常に気立てがよく、いわゆるノリがよい者もいてむちゃくちゃな英単語の羅列を駆使して会話を成り立たせてくれる者もいた。
加えて大方の教師陣は授業中に夏音を指名するのを避けているようなのだ。「あ、その問題わかるぞ」と夏音の瞳がきらりと光ると、存在を無視される。揃いも揃ってそれが暗黙の了解のように。
それだけなら、まだいい。
そんな孤立した学校生活のなかでも、際立ってランチタイムが厳しい。
日本の生徒は、与えられた自分たちの教室内で机をくっつけ合い、グループを形成して弁当を食べる習慣があるようだ。
もちろん夏音はその輪の中に入ることができず、かといってぽつんと教室の隅で一人さびしく弁当をつっつくしかない。はっと思い立ち、アニメなどで必ず出てくる憧れの屋上はどうだと向かうと、施錠されており立入禁止であった。屋上は孤立した生徒の味方ではなかったと現実を知った。
そんな馬鹿な。こんなの予想外である。自分は何一つ悪い事はしていないはずなのに。
「友達作る才能がないのかな……」
その前に根本的な部分に気付くべきなのだが、彼がそこに気付くことはなかった。
アニメや漫画のようにはいかない現実の難しさを身に染みて痛感した夏音であった。
そんな中、夏音は周りの生徒たちの多くが部活動という単語を話題に出しているのを耳に挟んだ。そういえば、と思い出す。
スポ根ものに代表されるように、日本の学生生活では部活動が割と重要な部分を占めるらしい。どこの学校も強制ではないが、生徒に何らかの部活をやることを勧めており、学校によっては強制的に部活に入らなければならない所もあるそうだ。
「ねえ、姫ちゃんどの部活はいったー?」
「一応ソフト部に仮入部した」
「えーマッジー? きつそー!」
などという会話が端々で発生している。夏音は耳をダンボにしてそれらの会話をとらえた。
部活動。そこでは、クラスとは別の集団が形成されている。
つまり、また一から自分を出していける機会がそこにはあるということだ。
「部活か……。やっぱり入ってみようかな」
そういえば、夏音は入学式に大量に配られたプリントの中に小冊子になって文科系、体育会系の全部活動の紹介が載ってあるものがあったのを思い出した。そして、いらないプリントと一緒に燃えるごみの日に出してしまったことも。
「ちゃんと確認しないで捨てちゃったからな。職員室にいけば、くれないかな」
善は急げという。夏音は職員室に出向くことにした。決して狭くはないが、全教員が一つの部屋に詰まっているという職員室。くさい。コーヒーの匂いが充満している室内に入ってクラスの担任の姿を探す。
夏音がきょろきょろしていると、メガネをかけた女性の教師が話しかけてきた。
「あら、誰かに用事かしら?」
こちらを警戒させない柔らかい笑みを向けられ、夏音はこの人でも良いかと用件を話した。
「部活紹介の冊子が欲しくて」
「なくしちゃったの?」
「……捨てちゃいました。あ、きちんと資源ゴミですよ」
決まりが悪そうに言うと、その女性はくすりと笑ってすぐにプリントを探してくれた。
「よかったわー余っていたみたい。はい、これでいい?」
「あ、それです。ありがとうございます。あ~、Ms.名前は?」
「山中さわ子よ。主に音楽を教えているの。ちなみに吹奏楽部の顧問をやっているから、興味があったら見学に来てちょうだいね?」
「ええ、ぜひ」
夏音は笑顔で冊子を受け取ると、さわ子が「あら?」と夏音の手をじっと見て口を開いた。
「もしかして、あなた楽器とかやってる?」
「はい? やっていますよ。わかりますか?」
「まあ、手を見ればねぇ……ハッキリしてるしあなたの場合。ね、ひょっとしてベースとか?」
夏音は面食らった。手を見ただけで、楽器まで見抜かれてしまうとは。確かに分かる人にはその人の手を見ただけで察してしまう人もいるかもしれない。
「ご名答です。山中先生も何か楽器を?」
「え、ええまあ。それじゃ、私は仕事があるから」
「お時間とらせました。失礼します」
やけに焦った様子の彼女を不思議に思いながら職員室を出ようとした時、ちょうど職員室に入ってきた生徒が目に入った。同じクラスの女子である。
夏音は思わぬところで遭遇したことに目を丸くした。向こうも同じように目を丸くして瞬かせた。
双方が黙ったまま、しばらく見つめ合う。
「ハイ」
夏音はとりあえず挨拶した。
「ハ、ハイーー!!?」
「オイ澪、テンパりすぎ」
髪が長い方の泡を食ったような反応に片方がつっこむ。
「失礼」
夏音は軽く頭を下げて、少女達を横切って職員室を後にした。
「あのハーフくん。何の用だったんだろうなー」
「さあな……あ、律。今はダブルって言った方がいいんだぞ」
「ふーん」
少女達はまだ話したこともないクラスメートの後ろ姿を目で追っていたが、彼が扉の向こうに姿を消すと本来の用事を済ますことにした。
「え……廃部……した?」
カチューシャをつけた利発そうな少女――田井中律はたった今告げられた事実に愕然とした。
「正確には、廃部寸前ね。昨年度までいた部員はみんな卒業しちゃって。今月中に五人入部しないと廃部になっちゃうの」
おっとりとした雰囲気を崩さず、さわ子は気の毒そうに言った。
「だから誰もいなかったんだ、音楽室~」
ひどく落胆した様子の律の悲痛な声が地面に落ちる。さわ子は彼女にかけるべき言葉を口に出しかけたところで、自分を呼びにきた生徒に気付いて時計を見た。
「ごめんね。次、音楽の授業あるから……」
そう言って席をたつと、最後に思い出したように二人の方を振り返った。
「そういえばさっき話していた綺麗な子、知り合いかしら?」
「え。あのダブルの人ですか?」
先ほどから興味なさそうに後ろで立っていた長髪の生徒―――秋山澪―――が咄嗟に反応した。
「そう。彼、楽器をやってるみたいよ。校内で見かけたら誘ってみればいいんじゃないかしら。それじゃあ頑張ってね、軽音部!」
残された二人は思わず顔を見合わせた。
職員室を出た後、興奮した口調で律が澪の肩を揺する。
「あの人も楽器やってるんだってさー。何の楽器やってるんだろうな」
「でも、数にいれても二人足りないだろ……よし、やっぱり廃部ならしかたないな。私は文芸部に入ると――」
澪がほっと胸を撫で下ろした様子で親友を置いていこうとした瞬間、律が澪の首に強引に手をかけた。
「な、なあ澪。いま部員が一人もいないってことは、私が部長……? 澪は副部長かなー?」
澪は「悪くないわねーふふ」などと調子に乗っている友人にたまらなく悪い予感がした。
大抵、こういう目つきをした彼女の側にいると良い結果にならない。主に自分が。
「だ、だから私はまだ入ると言っていないぞ!」
そして、えいやと律の手を外して逃げた。すぐに追いつかれたが。
その日、授業がすべて終わってからすぐに帰宅した夏音は、自宅の居間のソファでくつろぎながら受け取った小冊子のページをめくっていた。
どうやら文科系、体育会系と様々な部活動、同好会が桜高にはあるようだ。
漫画研究会、オカルト研究会、ミステリー研究会。
茶道部、華道部。
テニス部、ソフトボール部。
合唱部、アコースティック同好会、ジャズ研究会、軽音部……。
「ん……けいおんぶ…? なんだろこれ」
軽い音楽……。
「light musicのことか?」
中でも、引っかかった見慣れない言葉。
ジャズ研と分けられているくらいだ。どんな音楽をやる部なのだろうか。
「バンドか・・・・・・友達とバンドをやるって、どんな感じなんだろう」
いつも大人たちに囲まれていたから、夏音はその感覚を知らない。
学校の友達同士で気軽に楽しく音楽に興じるということ。金銭も、評価も、しがらみも関係なく純粋の音楽を楽しめるというのだろうか。
そんなことを考えていると、少しばかり罪悪感が生まれる。
色々なものを振り切ってプロとしての活動を自粛している自分が暢気に音楽クラブなどに所属してもよいのだろうか。
何をやっているのだと、向こうで共に育った友人に怒られないだろうか。これでベースの腕がなまった等とブチギレられると目も当てられない。
その心配はないと思いたいが。いかなる状況にあってもベースを弾かなかった日はない。ひきこもり中も。
むしろテクニックだけは磨きがかかったと言ってもいいくらいだ。
複雑な気持ちに胸がもやもやしてきだしたが、
「でも、気になる」
ぱたりと小冊子を閉じる。
「週があけたら見学にでも行ってみるかな」
そのころ、軽音部。
軽音部を復活させようと活動していた二人は新たな仲間を獲得していた。合唱部に入ろうとふらっと音楽室へ迷い込んだ琴吹紬をくわえ込む事に成功したのだ。
「あと二人集めれば……いよーーし、やったるぞーー!!」
「けど……あと二週間で集まるかな」
「この際、楽器経験者でなくてもよいのでは? ボーカル、という形でもいいのですし」
「まー、とりあえず部員はそろってないけど部としての活動はやってもいいよな!」
友人の言葉に、澪もうなずいた。
「そうだな! そうとなると、月曜日までに機材を持ってこようか」
にこにこと会話を聞いていた琴吹紬――通称ムギ――が疑問を呈した。
「あ、でも二人ともそんな重いもの学校まで運んでこれる?」
「あー……台車とかに積めば……でも学校まではきついかー」
「あ、私もアンプも持ってくるとなれば少しな……」
「あの~。もしよろしかったら明日、私の家の方で車を出しましょうか?」
「い、いいのですか紬さま!?」
「もちろんです」
にっこり微笑んだ琴吹紬の笑顔にときめいた二人だったが、まだ彼女たちはこの麗しい少女のスケールの恐ろしさを知らなかった。
翌日、それぞれの自宅に迎えにきた長い長い異次元の車を見た二人が青ざめたのは別の話。
夏音は少し憂鬱気味であった。
週があけた。相も変わらず仲の良い友達はできない。
「立花君、あーー……この問題、解けるかなー? いや、解けるよな、うん。じゃぁ、田井中ーこの問題解いてみろー」
代わりに、夏音の横にいる女子生徒が当てられた。
(ごめんなさい田井中さん)
一部の授業中にパターン化してきたこの流れに夏音は頭を悩ませていた。
英文朗読の時のように迷いなく指名してくれる教師が少ないのだ。学校側がどのような認識を教師陣に広めているかは知らないが、言語の壁を必要としない教科にまで影響が出ている。
ちなみに、今の授業は数学である。
さすがに呆れたが、どうにもままならないようだ。
「えーー!? 何で私ですか?!」
そう言って、理不尽をくらった彼女が夏音を睨む。
(俺のせいじゃない俺のせいじゃない。にらまれても困る)
恨みがこもった眼差しはかなり居心地が悪く、夏音はすっくと立ち上がる。
そのままクラスが見守る中、黒板に書かれた問題をすらすら解き、そのまま黙って席に戻った。
「せ、正解だ……正解だぞ立花!!!」
数学教師は丁寧に拍手までつけてきた。
(俺は、猿か何かとでも思われてるのだろうか)
憮然とした顔で席に戻った夏音は自分を睨んでいた少女の様子を窺った。彼女は少し意外そうな顔で夏音を見つめてきた。
夏音は名前を知ったばかりの彼女にふっと微笑みかけた。
ぴくりと跳ねる彼女の眉毛。その表情はお世辞にも好意がこもっているとは言い難く、激しく不興を買ってしまったようだ。
夏音には、いったいぜんたいどうして彼女が気を悪くしたのか理解できなかった。
そこには、きっと誤解があるはず。
しかし、視線のやり取りだけで弁明などできるはずもない。
「はい、次この問題解いてみろー田井中ー」
「って結局当たるのかよっ!?」
彼女の解答は不正解だった。
夏音は肩を落として廊下を歩いていた。
結局、その後も田井中という少女に話しかけるタイミングは訪れなかった。
近寄ると肉食動物のような鋭い威嚇の目線を浴びせられるので、話しかけることはおろか近づくこともできなかった。
「またあんな流れはやだな」
悪い予感しかしない。
それでも気を取り直して放課後は気になった部活を訪ねてみたりしたのだが、どうもピンとくるものがなかった。話が合うかもと訪れたジャズ研究会も本日は活動を行っていないという始末。
夏音は残された一つ。軽音部の部室へと足を向けていた。
軽音部の活動の場は音楽室横の準備室らしい。校舎の最上階にあるらしく、一番階段を上らなくてはならない移動教室の一つだ。夏音は階段の手すりにある亀やウサギのレリーフを撫でながら、こつこつと階段を上っていた。
「おや?」
階段の途中で、音が聞こえた。
誰かが演奏している。
夏音は急いで階段をのぼりきり、扉の向こうから聞こえてくる音楽に耳を傾けてみた。
どこかで聞き覚えのある旋律。キーボードのぎこちないメロディラインとちぐはぐに絡み合ったベースとドラム。
「………硬い」
全てが。なんだか恥ずかしくなってくる。初々しいぎこちなさは、決して悪い気分にはならない。
胸の奥をくすぐられているような、どこか懐かしい香りがした。
夏音が目を閉じて音を聴いていると、音が止んだ。
演奏が終わったらしい。
「失礼します」
すると突然入ってきた夏音に視線が集まる。
「あ」
「ああっ!」
そこに待ち構えていた人物に、夏音は息をのんだ。
先程まで夏音の悩みの種そのものであった田井中がそこにいたのである。
ドラムセットの椅子の上坐しているのを見る限り、今の怪しさ抜群のドラムは彼女が叩いていたようだ。
「や、やるか!?」
「何をだよ」
「いや、何となくだけど」
よく分からないやり取りを交わした少女達は、明らかに部室に現れた夏音に困惑している。
涙がこぼれそうになった。夏音には、彼女が今も敵意の視線でこちらを睨んでいるように思えたのだ。
しかし、少女達の表情は戸惑いや驚きが大きい。
「ここ、軽音部なう。アンダースタンド?」
「!?」
「あ、伝わってない? シッダウン!」
「ええっ!!?」
『Shit Down(糞しやがれ)』と言われ、度肝を抜かれる夏音であった。こんな少女が口汚く罵ってくるとは思えなかったのだ。
「おい、律! いきなりそれは失礼だろ!」
ベースを肩から提げた少女がいさめる。夏音は黒い長髪に切りそろえた前髪を揺らしている方にも見覚えがあった。
(お、この子は……)
レフティのフェンダージャズベースを構えているその子は、クラスメートでもあり、入学式の時に窓から顔を出していた夏音と目が合った瞬間、とても機敏な動きで校舎に消えていった子であった。
あまりに俊敏だったので、記憶に残っていた。
「あの~。見学の方でしょうか?」
続けてキーボードの前に立った柔和な雰囲気を持った少女が夏音に話しかけてくる。夏音は彼女の外見を見て、目を瞠った。自分に似た色素の瞳、薄い髪の毛。何となく親近感がわいてしまった。
「ハイ……あー、ここは軽音部で合ってますか?」
「おい、ムギ! この人、あんまり言葉が……」
「え、でも日本語しゃべって・・・・・・」
外人キャラという先入観は人の認識まで障害してしまうらしい。
夏音の目が虚ろになりかけたところで、田井中が咳払いをこぼす。
「か、過去は水に流すもの。私をあざ笑った屈辱はとっておこう・・・・・・だが、入部希望者かもしれない、と。とりあえず……」
三人は顔を見合わせた。
「う、ウェルカム。ウィ、ウィッチ、イズ、ティーオアコーヒーアーユー?」
「……は?」
(お茶かコーヒー?)
「とにかく、見学に来たんだよな!? ムギ、お茶の準備お願い!」
「は、はいっ!」
いきなり、お茶を振舞われてしまった。
とりあえず、コーヒーは苦くて嫌いだったのでほっとした。
『じーーーーー』
そんな擬音が目に見えそうなくらい凝視されていた。変な汗をかいた。顔に穴があくのではないか。
彼の目の前には高級そうな白磁のティーカップ、その中になみなみと紅茶が注がれていた。
とりあえず、彼は出されたケーキに目をやる。自然とフォークを持つ手がぷるぷる震えてしまう。
異性に一挙動を注目されながら食べるケーキ、初めて。
何とかしてケーキを口に運んだところ。
「wow......I love it!!」
あまりの美味しさに素で驚いてしまった。小指をたてないように気を配り、紅茶の方も一口すする。これが、渋みが強くて見事にケーキに合うのであった。
「あ、お、おいしいっどす」
夏音がそう呟くと、お茶を淹れてくれた柔らかい雰囲気の少女が目を細めた。
しかし、視線をずらすと田井中は夏音をじっと瞬ぎもせずに眺めている。夏音の胃に穴があくまで見詰める作戦だろうかと夏音の背中をつぃ、と冷や汗が伝った。
「あの、さ……立花さん!」
そんな空気の中、長髪の少女が夏音の名を呼ぶ。
「立花さんは何か楽器とか……あの、その…………ご、ごめんなさーーーーい!!」
そのままテーブルを割らん勢いで頭を下げた。
(あ、謝られた!!?)
何もしていないのに謝られた。
謝罪の文化とはいえ、それは行き過ぎではないか。
謝られるいわれもないし、それを説明するのにこのままではならない。夏音は腹を括った。
「夏音。そう読んでください……父が日本人で、日本語は支障ない程度には話せます。できれば、普通にお願いします」
「……ッしゃべれんのかい!!」
先ほどから夏音を睨めつけていた田井中が目を剥いた。
「何で片言だったの?」
「いや、なんといいますか……なんとなく? 緊張もしてたし」
夏音は詰め寄ってきた田井中の剣幕にたじろぎ、おたおたと言葉を絞りだした。
彼女はふらふらと下がってから、カッと目を開いた。
「疲れるやつ」
「すいません……」
その場の張りつめていた空気は針をさしたように、一気に抜けていった。
「なんだよ……無駄に緊張した私らが馬鹿じゃんかよー」
律がぐったりと椅子に座って深いため息をついた。
「で、でもうちのクラスではあまり話さないような……」
「それは……ただの誤解で、しゃべることはできます。誤解が誤解を生んだというか、目論んだ失敗というか……ははは?」
「ははは、じゃねー」
「すいません」
「はー。よくわかんないけど、改めるしかないか。とりあえず自己紹介。私、田井中律。軽音部の部長」
それに倣うように、黒髪美少女の子も気恥ずかしそうに口を開いた。
「私も知ってる……かも、しれないけど……秋山澪。パートはベースなんかをやっている…です」
「はい……存じております」
最後に先ほどから紅茶やケーキをかいがいしく振る舞ってくれていた少女がお辞儀をする。
「琴吹紬と申します。キーボードをやっています」
「は、はい」
三人の自己紹介が終わると、何かを促す空気になった。「あ、俺もか」と立ち上がった夏音は気恥ずかしそうに頭を下げた。
「立花夏音です。ずっとアメリカにいましたが、日本語はある程度できます。楽器は色々やってます」
実に簡素な紹介だが、淀みない日本語で夏音が改めて自己紹介をすると、小さく拍手が起こった。
ここに来て、やっと認められた気がした。
うっすら目尻に浮かんだ涙を拭って彼女たちの歓迎に頭を下げた。
「そういえば私たちの演奏終わってすぐ入ってきたけど、もしかして聞いてたりするの?」
「はい。演奏途中に入るのも悪いと思ったので」
「そうかー。で、で。感想は?」
期待の眼差しを向けてくる律には悪いが、彼女を喜ばせるような言葉を送ることはできない。
「ああ、はい」
「はい、じゃなくてかんそー」
「懐かしい記憶がよみがえりました」
「うんうん」
「あれは三歳くらいの頃。あんな風にぎこちない演奏してたな、って」
「…………はっきり言う上に嫌みとはやるな」
ずばり本音だったのだが、嫌みを返されたと受け取って落ち込んだ律をよそに、夏音はふとひっかかっていた事を澪に尋ねた。
「ところで、澪はレフティですけど、色々と大変じゃないですか?」
「え? ええ、いや、まあ……」
余所余所しい反応である。視線も合わせてくれない。訳が分からないといった表情の夏音へ律が呆れた声を出す。
「あーあ。いきなり名前なんかで呼んじゃうから……特に、うちの澪は極度の恥ずかしがり屋なんだよ」
「え? 名前で呼んだくらいでダメなんですか?」
「あ、立花さんは向こうの習慣が当たり前になっているからではないかしら?」
「向こうの習慣て……あぁ、そうか。アメリカ暮らしが長いんだったなー。なるほどなるほど」
夏音はぽんと手をついた。
「うーん。あまり同い年で敬称をつけたり、ラストネームでは呼んだりしないかなあ」
それでも、話したことがない人にはできるだけ礼儀を持って接するようにしている。
しかし、ビジネスでもない限り、互いに自己紹介を終えたら名前で呼ぶというのが夏音の基準になっていた。
「あ、そういえば日本では最初から名前で呼ぶことって礼儀知らずなんでしたっけ? すいません、秋山さん?」
自分はどうやら失礼な事をしてしまったらしい、と夏音に頭を下げられた彼女はどぎまぎと目を泳がせた。
「い、いや……澪で、いい。いきなりだったから、つい」
「うちの子、純粋仕様だからさ」
「律!」
先ほどから見ていて、彼女は律にだけは強気になれるようだった。既に何らかの絆が結ばれているようで、そういうやり取りは見ていると周りを笑顔にさせる。
拳骨を震わせる澪は夏音にじっと見られていることに気付いて、すごすごと拳を納めた。拳の脅威を逃れた律は彼女から距離をとってから、夏音に言った。
「私のことも下の名前で呼んでいいから!」
「あ、はい。律って」
「わ、私も! ぜひお願いします!」
「あ、はい。紬ですね」
「ムギと! さんはい」
「む……ムギ!」
夏音は、名前の呼び方一つでこんなやり取りが発生する事がおかしくてならなかった。
くすぐったく、新鮮なやり取りが終わっただけなのに、何かの通過儀礼が終わったような気がした。
それでも呼び方一つで一気に距離が近づいたようなように思えるのは気のせいではないはずだ。
「そういえば、夏音は何か弾ける楽器があるって?」
「あぁ、楽器ですか。ベースを主に。ギターにドラム、サックスはもうほとんどできないと思うんですけど、ピアノは母の影響で人並みには」
小さい頃から周りから与えられるおもちゃは楽器だった。何でもやらされた覚えがあるが、人前で披露できる程に定着したのはそれくらいだった。
「や、やるじゃんー」
「まるで何でも屋だな」
「器用なんですねー」
三者三様のコメントに気恥ずかしくなった夏音は慌てて手をぶんぶんと振った。
「いや、そんな大したものじゃなくて! ベース以外は、本格的にやっているわけではなくて、誇れるほどでは」
「あ、それより歌はイケる方?」
「まぁ、人に聞かせる程度には」
「それなら、ギターヴォーカルとかもイケる!?」
「ヴォーカルとギター……やれますけど」
そもそも、夏音はもはや自分が入部することを前提で話が進んでいるような気がしてならない。
あくまで見学に来ただけだということを忘れられているような。
彼の答えを聞いた途端、三人の顔がぱっとほころんだ。
「あ、それと」―――と律が切り出す。
「この部活、五人いないと廃部することになっているんだけど、誰か一人くらい心あたりはない?」
「五人……ん、五人?」
まだ見ぬ部員がもう一人、と考えるほど脳天気ではない。
そのことは後々触れるとして、律の無自覚な問いかけは夏音の心を正確に抉った。
「心あたり……友達いないから、ありえません」
突如、夏音の頭上にぶあつい暗雲がたちこめた。その反応を見て律がぱちくりと目を瞬かせると、おそるおそる尋ねた。
「……友達、いないの?」
「お、おい律そんなストレートに!」
夏音は顔をあげる。その表情を見て、全員が言葉を失った。
律は、嗚呼―――と目をつぶり、そっと夏音の肩に手を置いた。
部室が優しい空気に包まれた。
気をとりなおしたように律が話題を変えた。
「ところでさ……そのしゃべり方なんとかならないの?」
「しゃべり方……だめですか?」
うっかり沈んでいた夏音であったが、思わぬ指摘にきょとんとした。
「そう。敬語、使わなくていいよ。ほら、なんか堅苦しくって」
それに同意と澪がうなずく。
「そうだな。あまり堅苦しくなるのもよくないと私も思う。これから一緒の部でやっていくんだし」
「そう? それなら、そうする。俺もどちらかというとフランクな日本語の方がしっくりくるからね。それより、ねえ律。ずっと気に病んでいたことがあるのだけど」
「ん? なんだ?」
「俺は、君に何をして怒らせてしまったのかな?」
今の今まで忘れていたらしく、「あぁっ」と思い出した律が憤慨し始めた。
「思い切り鼻で笑われたら、腹立っちゃうだろ? 『ふん、あなたはこんなのも解けないのかしら、お馬鹿さん? オホホ』って言われた気がして」
「No way!! 馬鹿になんてしていない! 誤解だ! あの僅かな間にそこまで読み取る君も大概だけど。そして、何で女言葉なのかな?」
「え、そなの?」
「そうだよ!」
ぽかんと瞠目した彼女は、ぷっと噴き出して頭をかいた。
「アハハ! 私の勘違いかよ! ごめーん」
すぐに間違いを認めた律に夏音の肩の力が抜ける。
「はぁ。誤解が解けたようでうれしいよ」
「なんかたかびーな美少女って感じで鼻についたんだよなー。外見で損してるねー」
「外見で得したことはないよ」
早々に打ち解けている。じゃれあう二人のやりとりに澪が口を挟んだ。
「で、でもずっと誤解されたままでいいの?」
「ありがと。いつかは、どうにかしないとね」
「そう」
今はどうするつもりもない、とも取れる発言に澪は納得しかねる様子であったが、今この場にある状況は夏音にとって大きな前進であった。
「あ、ところで一番大事な事を確認してなかったんだけど」
大分打ち解けた雰囲気の中、夏音が笑顔で手をあげる。
「おーなんだー? 何でも聞いてー」
「俺、軽音部に入らないとだめかな?」
夏音は自分の発言によって茫然自失となった三人の魂が帰るまで数分ほど待った。
瞳に光が戻ってきた途端、律が口を開く。
「い、いや……ていうか…………入らないの?」
先ほどから入る体で話を進めてきた一同はここで流れを断ち切るどんでん返し発言にすっかりパニック一色だ。
「てっきり入るものだとばっかり!」
「仲良くなれたと思いましたのに……」
眉尻を下げ、震える瞳で夏音を見詰めてくる彼女たちの姿は罪悪感を覚えさせるほどの威力があった。「うっ」とたじろいだ夏音は何でか自分が悪い事をした気分に陥った。
「ま、待って。入らないとは言ってないだろ?」
「じゃあ、入るの?」
「待って。そうじゃない」
「じゃあ、入らないの?」
「か、考える時間。ジャストアモーメント!」
夏音は今ここで答えを出さないと、と焦った。しかし、シンキングタイムを貰って呻吟したところで、すぐに答えは出ない。
「ほ、保留でっ!」
日本人が得意な保留。とりあえず帰ってからじっくり考えよう、と思って絶妙な答えを出したつもりだった。
「……………じゅーきゅーはーちーなーな」
「そ、そのカウントダウンは?」
目を眇めた律が数え始めた数字はゼロまで間近。
「さーんにーいーち」
「入ります!!」
その瞬間、歓声が沸く。
夏音があっと口を押さえたが、もう遅いようだ。
「前にテレビで見た心理学のやつ本当に使えるんだなー」
見事に夏音の首を縦に振らせた律がぽつりと呟いたのを聞いて、夏音は頭を抱えた。
「いいのかなー。大丈夫かなー」
「とりあえず入部記念に記念撮影―っと」
ぶつぶつと後ろ向きな言葉を呟き続ける夏音を無視して、律が嬉しそうに笑う。彼女は澪からカメラを奪うと、全員の肩を寄せ合うように指示した。
「笑って笑ってー」
後日確認した写真の夏音は、想像以上に死にそうな顔をしていて笑えなかったという。