何事も中庸が大切である。辛すぎても甘すぎてもダメ。賢すぎても愚かすぎてもダメ。
そして、暑すぎず寒すぎない季節。
それは秋。
日本の四季は実に色彩豊かだ。夏音は通学途中に通りかかるイチョウ並木が紅く燃えている様子を見てそう思った。
聞くところによるとこのイチョウはもう少しすると黄色くなり、やがて銀杏拾いが季節の風物詩となるそうだ。四季の中にも確かな変化がある。そして四季ごとにまるまる表情が変わる魅力がこの国にはある。
まだまだ奥が深いな、と感心するのはこういう瞬間だ。
思えば夏音が日本に来てからこの方、季節の味わいを感じる暇などなかった。いや、暇はあったにせよ心の余裕がなかったというべきだが。
夏音にとって引き籠もり期間と言えば基本的に家にいることを指していたものの、もちろん外出することも度々あった。とはいえ、それでもすっかり腰が重くなってしまった彼は落ち着いた気候を狙って外出することが多く、少しでも暑かったり寒かったりした場合は家を出ない。まるでハムスターのようなものぐさを身につけて、すっかりアウトドアへの憧憬を失っていた。
だが、それも去年までのこと。
ふと空を見上げる。空が高い。中国のことわざに、天高く馬肥ゆる秋というのがあるらしい。夏音に詳しい意味は分からないが、食べ物がおいしいこの季節に馬が肥るということだろうか。
馬も肥るのだから、人間だって体重が増えてもおかしくはない。
「だから、気にしすぎだよねー体重なんて」
世の女性を敵にまわす発言である。
「秋といえば食欲の秋って言うよねー。最近、食べ物が美味しすぎて気が付いたら食べてばっかりだよー」
本日のお茶菓子である紫いものタルトをつつきながら唯がふとそんなことを口にした。相も変わらず気の抜けた顔である。常に幸せそうだなーと感心しながら夏音もそれに同意して頷いた。
「日本の秋の味覚はどれも絶品だよね。俺もスーパーに出かける度に秋の食材に負けちゃってさ。作りたいものばっかりだよ」
あーわかるなそれー、と律も会話に加わり、一気にグルメトークに華が咲いた。それはこの時期の新米が楽しみだとか、その際の水分量の調整が~などという通の議題にまでのぼった。
一同がキャイキャイと玄人じみた食の話で盛り上がる中、ふと律は先ほどからまったく会話に加わる素振りを見せない澪が気になった。こと食べ物の話題が出ているというのに、強張った面持ちで何かに堪えるようにじっとしている幼なじみの姿は律にとって違和感しかない。いつもの調子でからかってみた。
「澪なんてすぐ誘惑に負けそうだよなー。毎年この時期に体重が体重が~って泣いてさー」
なんだかその姿がすごく想像しやすかったのでくすくすと笑い合う一同は、澪の眼がだんだんと昏い影を帯びていく様子をとらえることができなかった。
「おいおい、どうしたんだよ澪? さっきから黙っちゃってさ。あれ……タルトも手つけてないじゃん?」
澪の様子を不思議に思った夏音がしごく軽い気持ちでそんな言葉を口にした途端。
ガタンッを椅子を蹴倒して澪が立ち上がった。
「うるっさーーーーーいっ! 私の気持ちがわかってたまるか!!」
あまりの剣幕に誰もが顔をひきつらせて口を閉ざした。唯など唖然として口を半開きのまま固まってしまっている。
「私だって気にしてるんだよ……ついつい口にする食べ物のカロリーとか、その代わりに夕飯を減らしてみたりとか………それなのに人が食いしん坊の卑しん坊みたいに!!」
「い、いや誰も澪をそんな風に言ったりしてない」
「言っただろー!?」
「律さん、あなたのせいだ」
「なっ! 私が何を言ったって!?」
澪の剣幕に怖れをなした夏音が間髪いれずに律を糾弾する。どちらにつくべきかを一瞬で判断できるのは夏音的に世渡り術だった。
しかし、何の身に覚えのない問責に律は慌てるしかなかった。何たって幼なじみがキレてる理由が意味不明だ。
「焼き芋。ブドウ、柿、カボチャ系、さんま、栗、キノコーーーアハハハハッ!!?」
ありのままの欲望を述懐する澪は涙を浮かべて立ち上がった。と思いきや、ざざっと床に崩れ落ちた。
「卑しい私が悪いんですーー!!」
うわーーと泣き崩れる澪はあまりに痛々しかった。
誰もが視線を交わし、そらす。
夏音も例外ではなく、なんといった言葉を彼女にかけてやればいいか思い当たらなかった。それにいくら探したところで、今の不安定な澪には逆効果な気もしたのである。
反動、というものだろうか。酷暑が続いた夏は人間の体力を削り、余分なお肉さえも削り取ってしまう。事実、夏に痩せてしまう者は多く、澪も例外ではなかったのかもしれない。
普段、ダイエットを意識している故にアイスや冷たい物の魅力をはねのけ、食べることを躊躇する。
すると、必要な栄養がまわらずにこじれにこじれて夏バテを起こしたりする。そして何とか季節を乗り越え、秋を過ぎるあたりにはいつの間にか帳尻があっていたりするのだ。
そういえば夏の終わりごろに澪が体調を壊していたのを思い出す。
夏休みの初めに会った時と比べ、かなりやせ細っていて心配した記憶があるが、なるほど現在の澪はその時の記憶の彼女よりもいくらかふっくらとして―――否、ふくよか感が増している。
「何をそんなに気にしているか知らないけど、ガリガリに痩せているよりかは健康的でいいと思うけどな」
統計だと多くの男はふっくらめの女が好きという。
夏音がふと漏らしてしまった一言に澪を除く女子がまずい! という表情をした。
遅かった。
澪はゆったりと立ち上がる。怨嗟のオーラが彼女の周りを渦巻いており、その姿は誰が見ても日本のホラーの1シーンであった。
「Oh, my…」
その異様な威圧感に夏音も一歩下がる。正確には椅子に座っていたので、気持ち的に下がる。
「ニクイ」
「み、澪?」
「憎い! そのスタイルが憎い! 贅肉ひとつないし! 贅肉に悩まされたことなんて一度もありませんってか? その余裕の表情が憎い! 憎さあまってかわいさ百倍!」
褒め言葉である。それ、逆だよ……とは誰も言えず。
夏音に詰め寄った澪は、ガシィっと夏音の顔をつかむ。そのまま握りつぶすのではない
かというくらい力をこめ「いだィ!」それから憎しみ対象の身体の検分に移る。
「ヘ、ヘイ!! 何をするっ!?」
「み、澪ちゃんそれはまずいわ!」
ムギが悲鳴まじりに叫ぶが、何となく嬉しそう。
制服のボタンは神速で外され、気づけば半裸人になりかけていた。
「男のくせにこの身体………うらやましいっ! いや、うらめしい!」
血を吐くような叫喚。実に自分の気持ちに正直な告白であった。確かに夏音の身体に贅肉らしきものは見当たらない。ガリではないのに、スラっとしてまるで芍薬の花のよう。
「それ以上は洒落にならないって!」
女子生徒にひん剥かれそうな男。なんて凄絶な光景だろうか。夏音は振り払おうとするが、澪の力が強すぎてなかなか実行できないでいた。
底力というやつなのだろうが、使う場所を選ぶべきだと夏音は思った。
「澪ちゃんっ! 私は澪ちゃんの気持ちわかるよ!」
間に割り込んできた声の主はムギだった。夏音は、その姿が暴走する王蟲を止めるナウシカのごとく。何にせよ助かったと安堵した。
「私も………○キロ……増えたから」
本人の名誉のために伏せ字でお送りした数値に澪の瞳が大きく開かれる。夏音は、ポカン顔で「たったそれっぽっちの数値の変動」だけに女子は命をかけるのかとガチ驚愕。なんにせよ自分の被害と加減しても納得できない。
「ムギも……?」
「澪ちゃんも辛いのはわかるわ。けど、夏音くんを私たちのエゴに巻き込んだらいけないと思うの」
「うん……うん……」
何故だかムギに後光が差している気がした。慈愛に満ちた彼女の言葉に、夏音を掴み挙げている腕の力が抜けていく。
「まるで犯罪者を説得するネゴシエイターのようだ」
と、もちろん心にだけ思った夏音は解放された途端、澪の魔の手から抜け出した。
はだけた服を直しつつ、しっかり距離をとってその後のムギと彼女の会話を聞いていた。
勝手に二人だけで感動しているが、要約すると傷の舐めあいだ。
「ていうか、そんなに気になるなら運動でもすればいいんじゃないか?」
食べて動く。そんな簡単なサイクルで体重などいくらでも調整できるではないか。自分がそんな風にして生きてきたので何の迷いもなくそう言い放った夏音に二対の視線が突き刺さった。
「それができていたらこんなに悩むと思って?」
ムギの涼やかな微笑の先に般若の面を見た気がした。
「これだから何の苦労もしていない奴は……」
先程とは一転して思い切りこちらを見下し始めた態度をとる澪。夏音は驚いた。
情緒不安定にも程がある。
「そんな訳で女性の敵ですよ?」
「その通りだ」
なんと、夏音はたったこれだけのやり取りを経て、女性の敵に認定されてしまった。
「これ完全にあなた方のエゴに巻き込まれてるよね」
「周りにいる人を巻き込むもやむなし、それが私のエゴです」
「エゴとか言ったら格好がつくと思うなよ」
「それにしても夏音くんはデリカシーがなさすぎよ」
「それは………女心に疎いっていうのは言い訳だけどさ。そこまで怒ることじゃないでしょう?」
夏音としても自分が責められるいわれはない。ムキになるのも大人げないと思い、理性的にもっていこうとしたのだが。
「はぁ~~」
と対する二名が同時に数年分溜め込んでいたのではないかというくらい重い溜め息をつかれた。タイミングもぴったりシンクロ。
「いつか刺されるといい」
「言うに事欠いてひどくない!?」
「私たちは1キロの目盛りに左右されながら生きているのよ。少しでも気を抜いたら大事件なのよ。身体中の脂肪が反乱を起こすの」
ひどい圧政でもしいているのだろうか。
「その割には毎日お菓子食べてんじゃ……」
「ムギの持ってくるお菓子はきちんとカロリー抑えめのものを選んでいるんだ」
「そうだったの?」
どの辺がどう抑えられているのだろうと首をひねった。前に砂糖のかたまりみたいなのを出されたこともある。
「え、ええ……も、もちろん低カロリーを基準に選んでおりますとも!」
「なんかどもってない?」
「とにかく! 夏音くんは今後の発言に気を付けるように!」
指をつきつけられるのは久しぶりである。何かさらっと誤魔化された感がしないでもないが、やはり反論しても意味がないと悟った夏音は大人しく引き下がった。
「わかったよ。気を付けますよ」
「わ、わかればいいのよ?」
一件落着、誰もがほっとした瞬間であった。
口は災いの元、というがまさにその通りだと夏音は痛感した。
しかし、口を開かずとも災いが降りかかることもあるのが人生である。
その場合はどうしろと? ただ災いが通り過ぎるのをじっとこらえて待つしかないのだろうか。
どうも腑に落ちない。そんな面持ちの者が三名ほどお互いの反応を窺うように息を詰めていた。
果たして誰が自分たちの胸の奥につかえる疑問を口にするだろうか。ただの考えすぎというには同じことが一週間続くとそう楽観視できない。
そもそも、そこまで深刻な問題でもないのだが。こういう時、たいてい夏音がその役目を引き受けるのが常であった。この場合も例外ではなく、彼がふぅと吐息をもらしてから何気ない口調で口を開いた。
「最近なんか和菓子が多いよねー?」
ぴく、と律の眉がはねる。しかしそんな反応などなかったように笑顔で返す。
「んー、たしかに。嫌いじゃないけどこればかりだとなー」
「和菓子もいいけど、洋菓子もねー」
「たまには生クリームとか、ねえ? 夏音しゃん?」
「そうそう。フルーツが盛り沢山のプディングとか、ねえ? 律しゃん?」
「フィナンシェとかもいいわねー」
うふふ、と女子力を使用した会話。徐々に出力を上げていく二人。一人は明確に野郎だが。
そこにずずっと渋茶をすすっていた唯が力無く呟いた。
「和菓子あきたー」
あまりに率直すぎるが、まさに自分たちの心情を代弁する一言に夏音と律は口をつぐんだ。
そう。飽きたのだ。
この飽食の時代。舌が肥えてしまった現役高校生たちのスイーツ舌は常にフレッシュなサイクルを求めているのだ。ケーキを食ったら羊羹を。煎餅の次はプリン。ババロア。時折、パンナコッタ。ロールケーキの後にはみずみずしいゼリーを食したい。
その欲望の流れを遮断するような和菓子のヘビーローテーションはそのような純粋な物事の流れに逆らっているといってもいい。
その原因は言うまでもない。軽音部の茶菓子の提供者は琴吹紬その人しかいないのだから。
「ごめんなさい。最近、和菓子ばかりいただくの……」
しゅん。眉尻を下げ、心の底からすまなそうに謝るものだから誰も言葉を返せない。
「い、いや! ムギが謝ることなんてないさ。いつもただでご馳走になっている身だしね」
「むしろ和菓子とか低カロリーで健康的だっていうしさ! ジャパニーズスイーツって海外のセレブにも人気が………ね………」
墓穴を掘ったな馬鹿め、と夏音は蔑むような視線を固まった律に向ける。
「そうなのー。こんなに美味しいのにカロリーが低いの」
ほんわかとした口調でムギが律の言葉に嬉しそうな反応をする。既に軽音部では、カロリーという言葉が出るだけで身の毛がよだちそうな雰囲気が発生するという。
この常に準修羅場世界と化してしまったのはやはり先週の出来事のせいだろう。
「カロリーが低いから安心でしょ?」
何が安心なの、とは聞けず。
夏音、律、唯は、もしやこのままムギによる恐怖政治が始まるのではないかと、軽音部の行く末に思いを馳せては身が震える思いをしてばかりいた。
デリケートな話題であるため、指摘しづらいのも夏音たちが口を閉ざす理由の一つであった。
そもそも、この三人が共同体のようになっている理由もよくわからない。いつそんな絆芽生えた。
そして、そのまま沈黙を通して練りきりを口に運ぶ三人であった。もふもふと咀嚼する。うん、最高級なのが唯一の救い。
そして沈黙。
「ハ、ハロウィーンだ……」
「へ?」
まさに天啓だった。ふと降りてきたその単語に夏音がふるふると震えた。夏音が突然言い放った言葉に気怠く反応したのは憔悴しきった様子の律であった。
「何言ってんの」
「そうだ! 何をやっていたんだ! もうすぐハロウィーンじゃないか!」
「おいおいー。ここは日本だぞー? ハロウィーンなんてどうせお菓子会社とかが適当に盛り上げて終わりだって」
「え、本当に?」
異文化間のギャップがここにまた一つ浮き彫りになった。
「そうだよー」
そんなの認められないと夏音は俄然、勢い込んだ。
「やろうぜParty!!」
発音がネイティブなもので、もはやパーリィと聞こえる。その素敵な単語に唯の瞳が輝きつつあった。
「パ、パーリィ……その響き!! 美味しいもの食べられるの?」
「それはもう! お菓子をいやってくらい食べられるさ!」
「やりたい! 私、ハロウィーンパーリィやりたい!」
「そうか唯もやりたいか! そうとなったら計画を立てなきゃな!」
突然生気を取り戻した二人の様子に眩しいものを見るように目を眇めていた律であったが、本来のお祭り好き性質が魂の底から浮上してきたのか、だんだんとノリ気になってきた。アクセル全開で会話に参戦する。
「そこはやっぱりパンプキンづくしでしょ!」
「タルトにパイ、ケーキにプリン!? 作っちゃおうか!」
「いいね! 材料買い込んで盛大にやろうぜー!」
奇妙な高揚感を得て、三人は異様なテンションになりつつあった。今すぐにでも扉を蹴破って買い物に出ていってしまうくらいうきうきそわそわと落ち着かない。
「ところでハロウィーンっていつ?」
「十月の終わりの日だよ」
「ってもうすぐじゃん!」
ちなみに明後日ともいう。
「うん。家族でやろうかなって思ったんだけど、今年は二人とも無理だったんだ」
「え、毎年家族でやるものなのか?」
「俺の家はね。家族で一緒にいるようにはしていたかな」
「へー、すげーなー。改めて外国から来ているんだなって思うなー」
そんな所に感心されても、と夏音が苦笑を浮かべているとカチャン、と陶器のぶつかる音が響く。
「ムギ?」
湯飲みが足りないからとティーカップで緑茶を嗜んでいたムギが、同じく白磁のソーサーにの上に乱暴に置いた音である。中身が盛大にこぼれていた。
ムギがキレた?
誰もがそう思い戦々恐々としたが、それは杞憂に終わった。
「素敵ねーハロウィーン……私のお家、色んな催し物に招待されるけどハロウィーンパーティはないの」
いつものムギだ。何に対しても興味津々で、その瞳には常に無邪気で好奇の光を宿している麦である。
その無垢さこそがかえって心胆寒からしめるナニかを放っているという恐怖。
「かぼちゃのケーキなんてわくわくしちゃう!」
そんな反応に三人は警戒を強めた。その裏に何かしらの真意があるのではないかと勘繰ってしまうのだ。
「十月の終わりだと、今週の土曜日……あさってね」
手帳を確認して笑むムギ。一つ頷き、頬を染めた。
「よかった。何の予定もないみたい」
「む、ムギ? その日は洋菓子の祭典みたいなものですよ?」
「最高じゃないー」
クロスカウンターで返ってくる屈託のない笑顔に、これ以上は何も言えない。
「たまには洋菓子も、ねえ………。私もいいよね……ねえ……澪ちゃん?」
「……………」
得体の知れない悪寒にぶるりと身を震わせ、澪は気まずげに目をそらした。
先ほどから、一瞬たりとも会話に参加していない。それどころか、存在感が欠片も感じられなかった彼女であるが、どこか様子がおかしい。引き結んだ唇はわなわなと震え、脂汗がじんわりと額を濡らしている。病院へ行くことをオススメしたくなるくらいの様相を呈している。
しかし、その前にナニカ違和感が……。
何であろう。澪の顔がぼんやりと……なんか、違う。何が違うのか分からないが、ナニカが………。
「澪?」
おそるおそる夏音が澪の頬をつつく。
ふにん。
「っ!!?」
その瞬間に、夏音の危機回避能力的なナニカがいっせいに警鐘を鳴らした。スネークが見つかった時の比ではないレッドアラーム。その本能によって彼が全力のバックステップを決めるのにゼロコンマ一秒もかからなかった。
「お、おいどうしたんだよ夏音……」
律は唐突に飛び退いて呆然とする夏音に面喰らいつつも、その奇行の原因らしい幼なじみを一瞥する。そして、能面のように無表情の彼女におそるおそる近づき、その二の腕に触れてみた。
「ひ、ひぃっ!」
理解した、というより体内のシナプスが全速力でその情報を脳みそに叩き込んできた。
彼女に何があったかは定かではない。しかし、彼女の身体に物理的に起こったことはわかる。
「み、澪これッ! 軽くヤバ……ッ!?」
彼女は今の今まで自分は無であろうとしていた。しかし幼なじみの言葉を得て、いつまでも馬耳東風を貫いてもいられなくなってきた。
「う、う………………うぅぅぅぅ」
感涙に咽び泣いている訳では絶対にないだろう。その涙は悔悟、無念がたっぷり詰まっている。長い睫毛はびったりと涙に濡れ、両の瞳がカッと全開のまま顔面がグシャグシャいうひどい有様であった。
曲がりなりにもクールな美少女というカテゴリに所属している秋山澪のあまりの姿。ファンクラブ会員にはとてもじゃないが見せられない。
「み、澪……お前、いつからだ……?」
というか、何で誰も気が付かなかったのだろうか。
「分からない………ケド、ヤバイと思ったのは一昨日……」
「いや、でも、そんな、まさか…………」
「だって私たちにはいつも通りに見えたぞ………?」
そう。秋山澪は普通に見えた。細身の体躯とは言い難いが、女の子にしては身長が高い彼女はどちらかというとスレンダーな印象を他人に与える。それがちょうど一週間前に、少しふっくらしてきたかなぁーと感じたくらいで、そこまで深刻なレベルではなかったはずである。
少しだけとがった顎、すっと通った鼻梁。照りがあってなめらかな頬にかかる黒髪は和製美人を彷彿とさせ、つり目がちの瞳が顔全体をクールな装いへと引き締める。
しかし、現在の彼女をよく観察してみる。まず顔の外線がなめらかというより、ふくよかな丸みを帯びている。その双眸もふっくらな頬に押されているだけのように感じる。そして……なんか、太い。
緩慢な変化につい気づくことがなかったが―――、
「…………肥えたか」
「そんな言い方はヤメテくれ~~~~~~~~~~~」
一週間のうちにここまで身体の表面上に変化が表れるとは恐ろしい。どれだけ摂生なしに食べればここまで太れるのだろうと夏音が感心する程度のメタモルフォーゼ。そう、これはもはや変化。
「ここまで澪が体調管理できない子だったとは……」
まったく嘆かわしいと額に手をあてる夏音に同意とうなずく唯や律もその表情に悲壮めいたものを隠さない。
「私はいったいどうすればいいんだ……………」
「いや世界の終わりみたいに言うけど、痩せればいいんじゃないか?」
「それができれば苦労しないんだよ!」
先週も同じことを言われたが、今度はその口調にも力がない。むしろ、涙ながらにどガチで放たれるその言葉に切迫したものを感じられ、うっかりこちらの涙腺にきてしまいそうであった。夏音には彼女が言葉と共に喀血しているように見えた。
「そうは言うけれども。あなた痩せるための努力は?」
「……………まだです」
険しく目を眇めた夏音の詰問に、超気まずそうにしれっと視線をそらした。
「アナタ、ダメネー」
「急に外人みたいに言うなよー。肥満大国から来たくせにー」
「ほう、肥満大国とな? なら肥満大国でもないのに勝手に肥満になっている人はだーれだ?」
「うぅっ………イジワルだぁ」
「ていうか。何がどうなってこうなったのさ?」
先週の騒動後。澪とムギによってダイエット戦線が築かれていたようである(二名のみ)。その際にスイーツ条約とやらを交わし、一回のティータイムで用意できる菓子のカロリーの上限を決めていたそうだ(勝手に)。
それだけではなく、いっそのことお互い目標の体重に戻るまで洋菓子を口にしないという約束まで結んでしまったという。しかし、日頃から誰よりも甘いものを恋い慕う澪にとっては二日で地獄のストレスとなった。
やはり細胞レベルで我が身に染みつき、愛惜この上ないスイーツたち。その焦がれる想いは彼女を燃やし尽くさんばかりに肥大し、熱くなった結果……………彼女は砂糖の僕となったのだ。
「肥大したのは想いだけではなく脂肪。そして、いま燃やし尽くさなければならないものこそ脂肪という訳だね」
「そんな風に言わ………はい、そうです」
「ムギは我慢していたというわけだ」
「ええ、私は和菓子も大好きだから平気だったけど……澪ちゃんは条約を破ってしまったようね……」
貴様らの間の裏切りなど知ったことか。おっとり自己弁護したところで所詮は共犯である。
夏音は盛大に溜め息を漏らし、あきれかえった。
「なるほど………て、いうかさ? 要するに二人の問題に全力で巻き込まれている俺たちの立場はどうなの?」
律と唯がばっと顔をあげた。言った、言ってくれたぞこの男! と勇者を仰ぎ見るようなアツイ視線が夏音に送られた。
「つまり、だ。俺たちは我慢を強いられていたわけだ。圧政に耐えていたわけだ!」
うっ、と押し黙る両名を見て、まさに水を得た魚状態の夏音は両腕を広げて高らかに声をあげた。ついでに最高潮に高まった夏音は机の上にだんと上った。
「俺たちは甘いものを食べる権利がある! つまりハロウィーンだ! もう決めたからね俺は。テーブルには甘いもの以外乗せない! 辛いものを一切排除するんだ。そして虫歯なんて概念を捨て去り、砂糖で骨を溶かす勢いでそれを食す!」
それはまた堪らん……と唯は溢れ出そうになる唾液を必死に嚥下する。
「ただし! そこに参加できるのはスイーツに身も心も捧げられる者のみだ! 体重だなんだと気にしてスイーツ様に背中向けようとする者に参加の資格はない!」
「!?」
革命の狼煙は今あげられた。予想をだにしていなかった内部反乱にダイエット同盟が驚愕にくれる。
「あ、来たければ来てもいいけど。それなりの誠意を見せてもらうからね」
夏音は怜悧な表情で二人を睥睨する。普段は爽やかな夏の空のような瞳が、今や極寒の海のような冷たさを帯びている。
その視線にあてられて、戦慄く二人は顔を見合わせた。
「では、後日」
スタンと机から降りてそれだけ言い残すと、颯爽と部室を去りゆく夏音。後をついて行こうか行くまいか逡巡して見せた唯と律。
この場合の味方になるべき相手は考えるまでもなく、結果、部室には魂が抜けたようにかたまる約二名のダイエット女子が残ることになった。
ハロウィーン当日。
「う、うわー。お姉ちゃん! 私、本当にこんな場所で料理しちゃっていいのかな!」
「無駄に広くてごめんねー憂ちゃん。たかが台所だから気兼ねなく楽しもうよ」
せっかくの催しなので、他に誰か呼ぼうということになり、唯の妹である憂も招くことにした。誰かゲストを呼んで楽しむ、というより自分たちで準備して騒ぐのが目的なので、もちろん準備には唯や律も参加しなくてはならない。
そうなると、日頃から姉の労働負担を減らすことを目標とする憂が黙っているはずがなかった。
夏音が止めるも、「私も手伝います!」と言って聞かなかったのである。実に良い子だ。夏音の中で彼女の株がうなぎ登り。
やはりハロウィーンということで、パンプキンづくしである。ケーキ、タルト、パイ、プリン、ババロア、ムース、かぼちゃのスフレロール、ブリュレ、スコーン、モンブラン、さつまいもとコラボしたキッシュ、ベーグルや鯛焼きなんてものまで。
目白押しすぎて、なんかアレである。胸焼け確定ってことだろう。
さすがにやり過ぎではないかと思ったが、あれだけ啖呵をきったもので後にはひけないという現状である。
「そう思っていたので、紅茶とコーヒーの取り揃えを充実しているからね」
同じ不安を抱いていたらしい律は、夏音が見せたその茶葉とコーヒーの種類に度肝を抜かれた。
「品評会でもするつもりか……」
はたまた「きき紅茶」でもするのかといったところか。
しかし、当日中にすべてを準備するのは困難であるので、一人につき二品を用意してきて、残りは夏音の家で作るということになっていた。
スポンジから作るケーキというのもなかなか本格的である。
夏音はそこまでやろうと思っていなかったが、それを可能にするオーブンも完備してあるキッチンの噂を聞きつけた憂いが是非にも、ということだった。あくなき探求心に感服。
というか、女子だらけのお菓子づくり。なんとも華やぎに満ちた空間であるが、ふと「これでいいのか俺」と自問自答に苦しむこともある。だが、誰もが口を揃えて「決して違和感はない」と言うだろう。それこそが問題であるのだが。
しばらくして、夏音は自分の担当するベーグルが焼けるのを待つだけとなり、暇をもてあましてキッチンを出た。そのままリビングから玄関までの飾り付けを再び眺める。
前日の朝から自宅をハロウィーン仕様に飾り付けていた努力もあって、なかなかの出来映えに満面の笑みでうなずいた。これは是非、誰かに見てもらわないといけない。
「さて、あの二人はどうすんのかねー」
あれからいっこうに連絡がない。
一応、開始時刻は伝えておいた。家にあがる時の条件も添えて。
準備の時間はめまぐるしく過ぎ、宵が訪れる時刻となった。
あらゆるスイーツがテーブルの上に乗り、香る極上の甘味たち。女の子の空間。スイーツパラダイスの完成であった。
現在、唯たちはというと別の部屋でハロウィーンの衣装に着替えている。仮装して参加することが様式美であり、このパーティの大前提だという夏音による主張のためである。
この仮装に関して、夏音は何をモチーフにしようかひたすら悩んだ。
なにせ今までは母親が半強制的に着せたいものを彼に着せていたから、実は自分で選ぶのは今回が初めてなのだ。マザコン疑惑。
「夏音くん何ソレ変ー!!」
「び、びっくりするくらいテーマが見えない!」
「すごく……ユーモラスだと思います」
三者三様の反応であるが、ここからどんな答えが窺えるだろうかと夏音は小首をかしげた。
「おかしいかな? 色々コラボってるんだけど……」
「その耳は?」
「狼男の耳だよ」
「そ、そもそも服装は……」
「シスターを意識している」
「その長い犬歯は?」
「ドラキュラだな」
「その尻尾は?」
「さあ……なんだろ?」
「私は夏音がよければそれでいいと思う」
律が仏のような目で俺に微笑んだ。その表情を見てどこか腑に落ちないが、褒め言葉として夏音は受け取った。
かく言う彼女たちはなかなか可愛い装いである。平沢姉妹は王道パターンのとんがり帽子の魔女仮装をおそろいで、律は髪をオールバックにしてでかい傷シールと頭から飛び出るネジ……フランケンシュタイン。
しかし、クオリティが低いというか雑すぎる。
お互いが「………………」無言の評価を下し合った。
とりあえず記念撮影をした。
「ところで澪ちゃんたち、本当に来ないのかな?」
開始時間まであとわずかといったところで、唯が心許なくなったのか、ふとそんなことを漏らした。
「うん……一応、誘ったんだけど」
「夏音がきつく言い過ぎたからじゃないの~?」
「とはいえ、あの時は結構キてたし……ほら、お互いにさ」
「でもあんな言い方されたら来づらいと思うけどなー。そもそも澪に至っては今さら甘いものなんて食べたら…………そんな親友の姿を見るのは辛いっ!」
「んー。一応、今日のはカロリー抑えめなんだけどな。砂糖や食材からすべて気を遣っているしさ」
立花夏音に妥協の文字はない。
「ていうか今日の目的だって、澪たちに来てもらわないと達成しないっていうか……」
「え? そんな目的とかあったっけ?」
「あれ、言ってなかったっけ?」
双方、マジ驚く。
「あ、ごめん。普通に言うの忘れていた」
「お、おいおい……」
「ていうか、かなり大事なことなんだけどさ」
とザックバランな口調で夏音が説明をすると。
「ってそんなに重要なことを言い忘れるなーーーー!!!!」
フランケンがキレた。
その頃、秋山澪はごく最近に一蓮托生となった相方・琴吹紬と夜の住宅街を歩んでいた。着慣れない、というか普段なら絶対に着るはずもない服のヒラヒラした部分が風にはためく。
だいぶ日は短くなり、白い電灯が点いてからずいぶん経つ。いつもなら、この時期に感じる一年の終わりに寂寞を感じていた澪であったが、この瞬間だけは暗くてマジで助かったと安堵した。
「ね、ねえ。本当にこんな格好でいくの……?」
「え、素敵な格好じゃない?」
「は、恥ずかしいよ」
「えー? 澪ちゃん似合ってる」
「こ、こんなの似合いたくない……」
「私のも素敵よねー。これ、なんて服だったかしら」
うきうきしている。この相方は、何故いつもこんな暢気でいられるのだろう。澪は自分の気持ちを共有してくれることを諦めた。
二人はそんな会話を挟みながら高級住宅街と呼ばれる一角に足を踏み入れた。
ここからは少し坂道となっている。澪は、少しの坂でも息が切れるようになった自分を情けなく感じた。
前までは体育会系とまでは言わないが、活発に運動を嗜んでいた。言い訳にするつもりはないが、軽音部に入ってから運動するという機会が極端に減った気がした。
かろうじて中学校まで培ったささやかな筋肉や、代謝といったものが高校生活を半年送っただけで失われていくような……。
最近では、学校の制服もきついものがある。精神的に。何故なら少しだけ肉付きの良くなった太ももを惜しげもなくさらさなくてはならないのだ。どうしてあんなにスカートが短いのかと恨み言を漏らすことも増えた。だから最近の高校生が風紀が乱れていると言われるんだ。入学前までは、「なんて可愛い制服」と思っていたのはあくまで過去の出来事。
(私は過去を振り返らない……)
所詮は言い訳だ。
自堕落に日々を過ごした報い。因果応報、まだ大丈夫と思い放置していた瑕瑾はやがて大きな致命傷へとなっただけのこと。
彼女は一週間前の「事件」以来、ずっと悲嘆にくれていた。
ついに立花夏音はこんな自分を見限っただろうか、と。
何せ自分たちのエゴで大切な軽音部のティータイムをぎくしゃくしたものにしてしまった。それだけではなく、澪はムギさえも裏切ったのである。
彼女は「仕方ないわ」と許してくれたが、夏音は違ったのだ…………と思いきや。本日、自分たちは立花宅で行われるハロウィーンパーティーに招かれている。
「澪ちゃん、パーリィよ」
だ、そうだ。ムギの訂正が入る。
スイーツに背を向ける者に来る資格なし、とまで宣言されては足を運べるわけがない。そう思っていたのだが、夏音は奇妙な条件をこちらに提示してきた。
『以下に指定するコス……仮装をしてくるならば、参加の権利を与えよう』と。手渡された紙袋の中身を見た時は目を疑った。
「だからって、こんなの恥ずかしい……」
暗闇にまぎれるのがこれ幸い。電灯の明かりでさえ避けて歩きたいような気分になる。
「ふふ。でも夏音くんはこれを着てこないとダメって言ってたじゃない?」
「何のつもりなのよーあの男……」
とぼやいたところで始まらない。
ついに自分たちは立花邸にたどり着いてしまったのだから。
「ム、ムギが押して」
「え、澪ちゃんからどうぞ?」
インターフォンを押す役目を押しつけ合う二人であったが、いつまでもまごついていられない。近所の人の目がある。
ピンポン。
「ハーイ?」
インターフォン越しに聞こえたのは、ここの家主(の息子)の聞き慣れた声。
「と、トリックオアトリート!!!!」
そして、二人は家についたらこう叫ぶようにという指示を律儀に守った。
「き、きた………ちょ、ちょっと待って!!!」
ガチャリ、と荒々しく置かれたであろう受話器の音。何故か焦ったような夏音の様子。
澪とムギがお互い顔を見合わせ、なんとも居心地の悪い空気を味わった。
どんな顔をして家にあがればいいのか。
いや、そもそもこんな格好だ。恥とか、この際どうでもいいのかもしれない。
そんな思いに耽っていると、バタンと玄関が開いた。
「魔女っ娘キターーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
!!!!!!!!!」
瞬間、目が眩む。襲ってくる怒濤のフラッシュ。
「こっちは巫女ダーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!」
ガトリングのように襲ってくる光の連射。
まさに鳩が豆鉄砲くらったような顔をしていたのだろう(後日の写真を確認したら、まさにそんな感じだった)。
驚いて言葉もない澪を見て、奇抜な仮装をした夏音が盛大にニヤニヤした。気が付けば唯や律、憂の三人もそろっていて澪たちの格好を見て口を開いていた。
「うあー澪ちゃんかわいーーー!!」
「お前らよくその格好でこれたな……」
ムギも大きな瞳をぽかんと見開いている。そのまま視線をずらして、カメラ小僧よろしく一眼レフでフラッシュをたきまくる主催者を見やる。
「これ、これ! これが見たかったんだよね! いや、ヨカッタヨカッタ!!」
「か、夏音……その格好は!?」
「んー、よくわかんなくなった」
「この格好は!?」
「え? 黒魔女っ娘コスだけど。似合うよ?」
「似合うとかじゃなくて! ここまで来るの恥ずかしかったんだからな!」
「いやー、それも含めて………あると思います」
羞恥プレイも嗜むのか、この男。
「ムギも似合うと思っていたんだよなー。ていうか、澪も巫女さんにしようか迷ってさー」
澪は、いつまでも真剣にうなる目の前の男をぶん殴ろうとする衝動を必死に抑えた。
「夏音くん? 本日はお招きいただいてありがとうございます」
ムギがすらりと夏音にお辞儀をした。 そのまま顔をあげ、うかがうような表情で夏音に問うた。
「お邪魔してもよろしいかしら?」
「もちろんでございますお嬢さまがた」
夏音は軽妙な動作でお辞儀を返し、澪とムギの手をとってエスコートしていく。
玄関からリビングまで、ハロウィーン仕様となっている屋内。突貫作業にしては、かなり凝っているといってもいいだろう。
「う、うわ………」
覚悟はしていた。
テーブルの端から端まで乗っているスイーーツの数々に目がやられそうになる。
今の自分にはあまりのも酷な光景である。
澪の思考が、やはり夏音はこんな光景を自分に見せつけてこらしめようとしているのかもといったネガティブなものへ移行しそうになった。
「さー、全員そろったことだし始めようか!」
「夏音? 私は、その……た、食べられないん……だけど……」
澪が神妙な口調で言うと、夏音はふっと相好を崩した。
「I know...でも気にしなーーーーい! 言ったでしょ? スイーツに背を向けてはならないって」
確かに、言った。言われた。とはいえ、今の自分としてはスイーツを頬張りたくてもかなわないのである。これ以上の体重増加は女として堪えられない。
「今日は澪、ムギ。二人が主役なんだよ」
「え?」
思いがけない言葉に耳を疑う。ムギも同じようで、困惑した表情でいる。
「あのね、夏音くんは澪ちゃんとムギちゃんのためにこのパーリィを計画したんだよ」
夏音の言ったことに首肯して唯が前に出て説明を加えた。
「本日をもってして、明日以降、澪とムギが痩せるまで軽音部は甘いものを我慢することをここに誓います!!」
「ちかいまーす」
夏音の宣誓に、きわめてノリ気な声と、そうではない声が後に続いた。
「ど、どういうこと?」
澪は事態についていけず、狼狽を隠せない。
「つまりさ。俺たちは仲間じゃないか? ティータイムしている時、隣で我慢している仲間がいるのに平然としていられないんだ。だから、澪とムギが納得できる体重に戻るまでは俺たちも断スイーツを決行することにしたのだよ」
「夏音くん……」
そんな夏音の説明はあまりに荒唐無稽。そんな義理はないのだ。それがわかりきっているムギは震える声を出せずにいた。
澪はふらっとその場に崩れ倒れそうになった。
何てことだろう。そんな馬鹿な話があるはずがない。肥えたのは自分自身。脂肪貯金を一季に引き下ろしたのも自分だというのに、目の前の仲間たちは私と同じ苦しみを味わおうという。そんなことをする必要がないのに。
「だから、今日は遠慮しないで好きなだけ甘い物食べようよ。いやってほど食べて、死ぬほど胸やけして『もう甘いものいーや』ってなろう。それで痩せた後に『やっぱり甘いものないと生きていけないの!』ってなればいいじゃん? それって背を向けるっていうか、また後で目一杯楽しむためなんだから、ある意味前を向いてるってことじゃないかな」
優しさが燃えるようにいたい。傷に沁みて、情けないくらいにいたい。
気が付けば、澪の眦から涙がこぼれていた。
仲間に想われることの暖かさと切なさが胸をいっぱいにさせる。
「あ、ありがとうみんな………」
ふと澪はムギと顔を合わせると、隣の彼女も涙ぐんで笑んでいた。
「私たち絶対痩せる! 早くみんなとお菓子食べれるように!」
「がんばれよ二人とも」
「がんばってね!」
「応援してます!」
一同は二人の宣言を受け入れた。二人のダイエット戦士の誓いを、その胸に刻み込む。彼女達ならできるはず、と。
「じゃ、始めようか?」
今夜はハロウィーン。楽しい楽しいパーティの始まりである。
「ここで死んでもいい……!!」
「このために生きているの!」
極上のスイーツに囲まれ、感涙に咽ぶ澪とムギの幸せな姿。口いっぱいにスイーツを詰め込む彼女達はこの世の幸福を凝縮したような笑顔を見せた。
これより三週間―――夏音立花プロデュース・地獄のダイエット生活プログラムを終了するその時までに確認された二人の最後の心よりの笑顔であったという。
結局、彼女達は二人だけで用意された菓子の半分を消化してしまった。どれだけ砂糖に飢えていたかが如実に表れた結果であった。
パーティの片付けが終わり、皆は一斉に夏音の家を後にした。
ハロウィーンの飾り付けはまだ残しておいてもいいくらい愛着を抱いてしまった。今日は疲れているし、二、三にちくらいはこのままでいいだろうと夏音はうなずく。
「Zonked out...」
糞疲れたー、と仕事終わりのサラリーマンみたいにソファに寝転ぶ。
そのまま淡い微睡みに身を寄せようかと思ったところに、宅電が鳴り響く。
一人しかいないリビングに電話の音はけたたましく響く。
まるで誰もいないんだ、と家中に人が居ないことを確認していかのように空気を揺らしている。
だが、自宅にかけてくる相手は限られている。
夏音は重い身体を奮い立たせ、受話器をとった。
「Hello」
『Hi, honey?』
母である。
『夏音ーー!! トリックオアトリート!!!』
父である。
「父さん母さんいっせいに受話器で喋らないでよ」
いったい向こうはどんな状態なのだ。
「とりあえず父さんはすっこんでいてくれないかな?」
『ひ、ひどいぞ息子!?』
「酔っ払っているのわかるからねー?」
受話器から漏れる息づかいが一人分減った気がした。
『今日は一緒にいられなくてごめんなさいね?』
「べつにー平気だよ」
『なんだか楽しそう。お友達と一緒だったの?』
「あ、わかる? すごいね」
『トーゼンでしょ。なんだか満ち足りている声。あなたの声を聞けば、どんな状態が一発でわかるに決まっているじゃない』
息子だもの、と姿には見えないが胸を張っているだろうこの母親には敵わない、と夏音は思う。
『ところで夏音? 積もる話はあるんだけど、少し大事な話があるの』
「大事って……どれくらい? たいていそう言われる時は良いことないんだよね」
『ううん……あの……ちょっぴりよ?』
「母さんのちょっぴりが信用できない」
『ひ、ひどいわ夏音っ!! だいたい何っ? ママって呼びなさいよ!』
「ハイハイ。わかったから、教えてよ」
『むぅ…………あのね、あえて一言でまとめるからよく聞いておいてね』
「一言でトンデモネーのがきそう……どうぞ」
『マークに住所バレちゃった♪』
「そいつは…Mom....」
『じゃ、そういうことで』
「洒落になんねーぞ母さん!!!」
『アルヴィを責めちゃやーよー。ジョージも何にも悪くないの。クリスが全部悪いからね。そういうことに決めたの』
「ヘイ、何がどうなってそうなった?」
『私はこれ以上は……まぁ、あしからず』
「いや、ちょっ……母さん!?」
『愛してるわカヌーちゃんファイト♪』
「その愛称はやめてったら……!」
ガチャリ。
心優しい母親は無情にも電話をぶつ切った。
夏音は母親のあまりの身勝手な振る舞いはこの際気にしなかった。今に始まったことではない。
「マークがくる……だと」
戦慄がはしった。
「むしろ、崩壊の序曲?」
そんな気分で過ごす秋の夜長はどこかうすら寒かった。
※何というか、幕間に含めてもいいような内容。けいおんって季節が一気に飛ぶから、間に何か挟みたいなと思ったのです。つなぎ、的に。
原作に金髪碧眼キャラが出てきて、若干たじろいでおります。