ごうん、ごうん、ごうん、ごうん……。
回る洗濯機と、それにさーと重なるシャワー音、微かに届く少女達の声。
雨降って地固まる――と言うか、寧ろ水とは違うものが漏れたのだけど――とにかく、一人の少女の貴重な犠牲により、ウイングさんと俺たちとの間の緊張は解けた。
なんでウイングさんがライカさんをマァハに預けるほど信用してくたのかは良く判らないのだけれど、どうやら俺がキレた時には既に、暴発は警戒しても悪意はそれほど気にしていなかったようだ。
……ライカさんには、後でお詫びの品でも持ってかないとね。
とは言え、ノグ村の特産と言えば、隣接したヌメーレ湿原で取れる僅かな動植物ぐらいしかないので、ライカさんが貰っても嬉しくはないだろうけど……っとまぁ、そんな事は今はどうでもいい。
道場の奥に設えられた、独身向けの安手のアパートのような居住区画、気まずげにシャワーと洗濯機の立てる音を聴いていた俺は、顔を上げ、同様に俯いているウイングさんへと口を開いた。
「すいません、マァハとライカさんがシャワーを浴びている間、先の話を続けても良いですか?」
状況的に連れて来ざるを得なかったマァハだが、正直、聞かせたくない話も多い。
余りに気まずい現況は、しかし、彼に事の概要を話すにはもってこいでもあった。
「……ええ、そうですね」
こちらの事情を忘れかけていたのだろう。
顔を上げて苦笑するウイングさんに、苦笑を返し、立ち上がる。
「……では。
二月六日の深夜、何らかの理由で部屋を離れた僕は、翌朝崖下に血まみれで倒れている所を発見されました。
傷の原因は崖からの落下、木々がクッションにならなければ確実に死んでいたそうです。
そして、翌々日の二月八日早朝、僕は全身の傷が殆ど治った状態で目を覚ましました」
そして、説明を始めた。
目覚めたらこの力にを使えるようになっていた事、自分が崖から落ちた晩の記憶を失っていた事、そして……。
「それが問題の傷、ですか?」
「はい、傷の大きさにも拘らず出血も痛みも無く、また、他の傷は完全に治っているというのに、これだけは治癒の気配も見せません」
そう応えつつ肩越しに覗き見ると、眼にオーラを集めたウイングさんは、同時、何故か困ったような表情でこちらから目を逸らしていた。
なにか、見てはいけないものを見ているかのような表情で、チラチラと傷の辺りを目の端で眺めている。
晴信は向こう側で、敢えて視界の中心に対象を捉えない観相法があると言う話を耳にした憶えがあるが、これも似たような術理の念の技法なのだろうか?
表情的に、とてもそうとは思えない――とは言え、ウイングさんがこちらから目を逸らす理由など、他に何も思いつかない。
「どうかなさいましたか?」
そんな彼の姿に困惑しつつもそう尋ねると、ウイングさんは、その顔に浮いた苦味を深めながら、下がっていた眼鏡を中指で押し上げた。
「いえ、すいません。
もう服は直してもかまいませんよ。」
言葉を濁してそう答えると、今度は真顔になって、こちらの顔をまっすぐ見据える。
「スルトさんの物に紛れてかなり判別し難い状態ですが、確かにその傷口には、貴方の物とは別のオーラが残留しているようです。
貴方を傷つけた人間が念能力者であり、また、そのせいで念に目覚めたのは、まず間違いないでしょう」
「オーラに、念能力?
それがこの湯気のようなものと、それを扱う能力の名前ですか?」
「……はい。
そう言えばまだ貴方には、この能力のことを何も話していませんでしたね」
誘導尋問なのか、素で忘れていたのか――先の表情や、マァハにライカさんを任せているところを見るに、後者か?
こほんと咳払いを一つ、ウイングさんは念の説明を始めた。
念、生体エネルギーであるオーラを扱う技術の総称。
基礎の技法として、纏、絶、練、発の4大行が存在し、また、使い手はその資質により強化、変化、具現化、放出、操作、特質の六系統に分類される。
「……ちゃんと確かめてみないと判りませんが、話を聞いた限りでは、貴方は強化系の念能力者のようですね。
それだけの怪我を一昼夜で回復させる程、それも、無意識の内に自己治癒力を向上させられる能力を持っているのですから」
既に念をある程度修めているためだろうか?
そう言って、原作でゴンたちに話した内容と比べ、より詳細な説明を終えたウイングさんに対し、俺は首を横に振る。
「いえ、恐らく僕の能力は具現化系に属するものだと思います。
その、これを見ていただけますか?」
そう否定しながら、首に提げた指輪を引き出すと、右手指に嵌めたままのそれと比べて見せた。
瓜二つのそれを眺めて怪訝な表情を浮かべるウイングさんに、こう続ける。
「首に下げているこれは、御守り代わりに父から預かったものですが、こちらは違います。
……その、僕が創ったものなんです」
制約の発動を恐れて放置していたこの指輪だが、目の前にウイングさんが居る今こそが、これを外す良い機会だろう。
俺は両親の指輪を下ろすと、俺の指輪を開いた指でつまみ、そろそろと引き抜いて行った。
指輪が外れたとたん、ふわりと身を押し包む重圧が和らぎ、俺は安堵の溜息を吐く。
予想通り……か。
いや、まてよ? これを俺の心象が作り出したものだとすると、もしかして……。
ふと気付いて、俺は指輪を窓越しの日差しに翳すと、本来両親の名が刻まれている筈の環の内側を眺めた。
果たしてそこには……
『一つの指輪は全てを統べ。一つの指輪は全てを見つけ、一つの指輪は全てを捕らえて、暗闇の中に繋ぎとめる。……』
そこには予想通り、両親の名に代わってエルフ文字の流麗な連なりが刻み込まれている。
俺の心象が作り上げた、その指輪――この身にオーラを繋ぎとめるそれ――は、火にくべずとも読める銘が裏返しの場所に刻み込まれた、一つの指輪の紛い物だった。
何故だかそんな紛い物が、自分には酷く似つかわしく思えて得心……俺は思わず、クスリ、微かな笑みを漏らす。
「……これは」
そして、思わずといった風にそう呟いたウイングさんへ、摘んだ指輪を差し出した。
「これについて、何かわかりますか?」
念で作られた、或いは、篭められた器物に、念能力者が何の防護も無く触れる筈も無い。
怪しまれるだろうか――そうも思うが、念の知識も無い子供が、如才ない対応をしすぎるのも逆に不自然だ。
ままよ…と、差し出されたそれを、やはりウイングさんが手に取る事は無かった。
「失礼……」
そう言って立ち上がるとその腰を屈め、摘んだ指先にある指輪を凝の眼で、矯めつ、眇めつ。
「なるほど、確かにこれは、念で創られた物のようですね」
ウイングさんはそう言うと、再び椅子に腰を下ろした。
軽くなったオーラを再び凝、掌の中の指輪を観察したが、俺にはこれが、オーラを纏っている程度しかわからない。
……原作では、操作系で操る道具と、具現化系で具現化した物の判別は困難、或いは、出来ないような話だったんだが……。
少なくとも、クラピカやコルトピの具現化させた器物を他の念能力者はそれと見抜けなかった筈だが、この指輪のは簡単にそれとわかってしまうほど念の構成が甘かったりするのだろうか?
金の指輪を陽に翳し、首を傾げて眺める俺に、ウイングさんは、年相応の子供に向けるような、笑みを含んだ視線を送った。
「光に当てないように、指輪を見て御覧なさい」
そして放たれた言葉に、指輪を掌の影に収める、と……。
「字が……?」
「ええ、どう言った意味があるのかはわかりませんが、その指輪に刻まれた文字は、日に当たっている時だけ姿を現すようです」
確かにこれは判りやすい。
光の加減どころではなく、その有無で刻されている筈の文字そのものが消えたり現れたりするとなれば……。
「……しかし、そうなると話に出てくる回復ぶりは、貴方の念とは関係ない可能性が出てきますね。
傷が消えない事と不自然な治癒を併せて考えると、これは……」
「………」
そう、何かを考え込む様子のウイングさんを前に、俺は口を挟むことも出来ずただ掌の上の指輪を転がしていた。
今日までの日々に考えた事は色々ある。
それらについて、ウイングさんに問いたい事は沢山あるのだが、今の俺は念のことをほとんど知らない人間だった。
どういう理由かは判らないが、せっかく警戒を解いてくれたウイングさんである。
うかつな事を口走って再び警戒させるなんて、真っ平御免だ。
だから、掌の上の指輪を転がしたり、指に抜き差ししたり、凝で眺めたりと、今までその機会の無かった観察を続ける。
オリジナルの『一つの指輪』の効果は、着用者の身を隠す、他の魔法の指輪の支配、そして、サウロンが指輪に封じ込めた力の行使等、多岐に渡っていたが、これの力はどうなのだろうか?
俺はふと思いついて、この指輪を傍らのテーブルに置いてみる事にした。
この指輪のモデルを『一つの指輪』と『両親の指輪』と仮定した場合予想される性質は幾つかあるが、その中でも大本命と言えるモノは『俺を繋ぎとめる』だろう。
全身に絡みつく鎖として現れた具現化の過程と、纏を強化する代わりに反動で身を圧迫すると言う現時点で明らかになっている能力も、その予想を裏付けるものと言えた。
ならば、『一つの指輪』の最も印象的な能力の一つ、『魅了の力』はどうなっているのか?
俺を縛り付ける事がこの指輪の能力の本質であるならば、当然備わっているはずなのだが――コトリ、音を立て傍らにあったテーブルに指輪を置く。
そして、それから指を離すか否や、黄金の円環は崩れた。
まるで、紡がれた糸が解れるかの様に、それは形を崩し無数の金糸と化して俺を取り巻く纏の中へと消えていく。
『こちらではなく、向こうが離れない、か……』
そしてふと、脳裏にマァハの姿が浮かんだ。
身に絡みつく地縁、断ち切れない情、それらの象徴が両親であり、彼女である。
だから、連想してもおかしくはない、おかしくはないのだけれど……やはり、おかしい。
「……ふむ、やはり貴方は具現化系かそれに近い系統の念能力者のようですね」
崩れ行く指輪を目の当たりに、ウイングさんはそんな独り言とも語りかけているとも付かぬ言葉を漏らした。
俺の念系統は特質系――どの系統からでも特質能力が発現する可能性がある事や、クラピカのエンペラータイム、ネフェルピトー、クロロ等の格闘戦能力等を鑑みるに、系統図の能力効率は必ずしも反映されないと考えられる。
でも、もしそうでないとすれば、傷はどうして癒えたのか?
……誰が癒したのか?
「ウイングさん……。
俺とマァハに、念を教えてはくれませんか?」
胸中に湧き上がる疑念を飲み下しながら、俺はウイングさんにそう頭を下げた。
「ええ、それはかまいません。
元々、我々心源流は、あなたの様に突発的な状況で念に目覚めた者達の指導をその活動の一つとしています。
どうやらマァハさんも念に目覚めかけている節がありますし、状況的に考えても二人一緒に教えた方が良いと思います。
ただ、名目だけでも心源流に入門していただく事になりますが……」
「はい、そちらの指導もよろしくお願いします。
異常な状況が続いているだけに、身を守れるくらいの実力は欲しいので……」
今後の予定を考えても、ここ一ヶ月ほどの異常な出来事の数々を考えても、戦闘能力の強化は急務だろう。
少なくとも、俺の『能力』の詳細がわかるまでは、気は抜けない。
何しろ、そのモデルである『一つの指輪』は、様々な災厄を引き寄せるのだから……。
「俺たちは、三月半ばにはこちらに引越し、四月からルスタ附中に進学する予定です。
正式な入門はそれからになると思います。
親への説得に関しては問題ないと思いますので、三月からはどうかよろしくお願いします」
こうして、俺達は心源流に入門し、それは後の波乱万丈な一生を決定付ける事となるのだけれど、この時はまだ、そんな事になるとは全く思っていなかった。