唐突ではあるが、マァハはとても観察力のある娘だ。
引っ込み思案な反面、物事をよく観察していて、それを元に判断する能力にも長けている。
……それが、臆病で周りの我が強い面々に応対してきた結果なのが泣かせるけどさ。
また、記憶力もよく、一度覚えた事は殆ど忘れないと言う特技も持っていて、暗記科目は得意中の得意といっていいだろう。
……上がり症で、慌てるとすぐオーバーフローするけどな。
つまるところ彼女は、頭が良い……んだが、その能力を中々発揮できない、典型的なタイプだった。
その上依存心旺盛で、近くに信頼できる人間がいないと、些細な事でテンパるからまた始末に終えない。
まあ、依存心については、逆に、近くに信頼できる人がいさえすればあまり混乱しないって言う利点でもあるが……。
床に置いたクッションに胡坐をかいた俺は、問題をスイスイ解いて行くマァハを眺めつつ、そんな事を考えていた。
彼女を廻る人間関係を思えば、マァハをこの村にそのまま置いておくのは、拙い。
マァハと同居ってのは正直気まずい事も多いが、ジョネス君の事を知った時点でそれに反対する気は全く失せた。
だから今俺は、マァハを同じルスタ附中に合格させるべく努力してる……んだが、ねぇ。
この実力を常に発揮できるなら、一緒に特待目指せたんだがなぁ……。
いや、それでも無理か、特待試験受けた頃のスルトには、そんな余裕無かったしなー。
スルトが晴信を取り込んでから、或いは、晴信がスルトに乗り移ってから、凡そ一週間――流石に、怒涛の初日二日目を越えてからはそう大したイベントも無く、俺はここしばらく、のんびりただ只管と、念と肉体の鍛錬及びマァハの家庭教師だけを続けていた。
現状、未熟な俺の念や身体能力は、修練すれば修練しただけ伸びていく状態にある。
……いや、まぁ、未だに纏を解く方法とか、絶なんかのやり方はさっぱりなんだがなー。
本来なら、解けている状態が普通――なのにも関わらず、これだけ修練を積み重ねてもその手法の一端も見えてこないのは明かに異常なんで、これはもう確実に、特質系念能力者である俺自身の特異性、なんだろう。
そう判断した俺は、そっち方面の試行錯誤は……って、いかんな、そろそろ時間だ。
「よし、一時間経過、ペンを置いて……」
「……うん」
そう宣言し、机に座るマァハの前からプリントの束を取ると、テキスト傍らに添削を始める。
そんなわけで、現在抱えた最大の懸念は、既に充分な学習を積み重ねた状態にあるマァハの、もう三日後に迫る入学試験にあった。
で、スルトが受けた推薦入試の難易度やら手応えやらを考えるに、マァハの学力は既にルスタの――それも、特待の――合格範囲内にある筈、なんだが……。
コイツの場合、一番の問題点は精神の方にあるからなぁ……。
丸をつけながら溜息をつくと、じっとこちらを見ていたマァハの瞳が、おどおどと揺れる。
「……ダメ、だった?」
独特の、文節を切る様な語調――コイツ、長広舌をぶってる時に口挟まれると確実に舌を噛むからこうなったんだが――で尋ねるマァハに、俺は意識して、努力して笑って見せた。
「いや、この出来なら合格間違い無しだな」
兎に角、コイツに自信を持たせなきゃならないんだが、言い過ぎると今度はそれがプレッシャーになる。
並んで一緒に試験を受ければ合格は間違いなしなんだろうが、もう既に特待推薦に受かっている身では、校門まで――その日は、一緒にザパンまで出向いて、向こうでの部屋探しやら、諸手続きやらを済ませることになっている――ついていくことしか出来なかった。
気休めに、特待試験の時に使った筆記用具一式を持たせるつもりではあるが、それもどこまで効力を発揮するか……。
そんなわけで今は、戦術的なものから性格改善に至るまで、試験対策に思いつく事を片っ端からやらせている、んだが……。
「……よかった」
安心したようにそう呟いて、はにかむマァハを眺めながら、内心、大きな溜息を吐く。
どうにも、マァハの試験対策の進展がはかばかしくないっつーか、コイツの場合、俺が考えたって時点で、何でも無批判に受け入れちまうみたいなんだな、これが。
例えば、今コイツが笑ったのだって、高く評価されたことではなく、俺を失望させなかった事に安心したからだ。
無茶なこと言っても素直に取り組んでくれる分、基礎能力自体はそれなりに成長してるみたいなんだが、反面、マァハの精神面での訓練には全くなっちゃいない。
で、今のコイツの一番の問題点は、精神面にあるわけで……。
「……少し、休憩にしよう。
今、お茶を入れてくるから、マァハは少し休んでてくれ」
もう、試験まで殆ど時間も無い。
ここ数日、ちょっと無茶っぽい事もさせてるから、幾らなんでも前日は休ませたほうがいいだろうし、となれば残るは今日も入れて後三日……。
正直、これはもうだめかもわからんなーとか思いながら、ドアノブを掴んだ。
事が精神の問題だけに、急速な改善は望めない上に、マァハは意気込むと失敗確率が上がる難儀な性格をしている。
……兎に角、茶でも入れながら考えをまとめよう。
背後の少女に聴こえないよう、微かな溜息を吐きながら扉を開く。
「あ、の……、ねぇ、ルト」
そして一歩、廊下に足を踏み出そうとした俺の背に、マァハがおずおずとそんな言葉をかけた。
「どうした、マァハ?」
……やっぱ、俺の不安に気付いてるんだろうな、マァハだし……。
内心そう思いながらも笑顔を作り、振り返った俺の目をマァハのそれが射抜く。
珍しくも、その視線を揺らさない美の付く少女の直視を受けて、どきり、生まれ持った蚤の心臓が大きく脈打った。
いや、見上げたっても、そんなに身長差無いんだけどな、マァハが座ってても……。
それを誤魔化すようにくだらない事を思い浮かべながら、マァハの視線を見返す。
いや、別に、本気でマァハと目が合ったことに動転してるとか、実は身長差を気にしてて、この状況もかなり悔しいとか、そういったわけじゃないぞ。
……そう…、私は冷静だ…!!――って、これじゃ、ぜんぜん冷静じゃねぇよな。
どうやらおちゃらけや誤魔化しが通じるような状況には見えないしーと、軽く目を瞑って大きく息を吐く。
再び目を開くと、『今』の素の自分の、飾らぬ表情でマァハのソレを見返した。
まぁ、負け惜しみじゃなく、そろそろ何か来る頃だろうとも思っていたしなー。
そして、しばしの沈黙……ややあってマァハは、ふうと息を吐くとこんな言葉を紡いだ。
「……ルト、何で、こんなに一生懸命、なの?」
ふむ、まずはそっちか。
俺だから言いたい事がなんとなく解るが、言葉足らずで何に付いて尋ねているんだかよく判らないぞ、マァハ……。
「もうちょっと具体的に言ってくれないと答えようが無い……けど、まぁ、大雑把に総括するなら、一度死の直前を経験したから、かな」
そう言って俺は、背中の傷に手を当てた。
「……?」
言葉の意味がよく判らないのか、首を可愛らしく傾げたマァハに、苦笑……。
「……後悔はしたくないって事だよ」
そう補足すると、マァハの頭を囲む疑問符が更に2~3個増殖する。
「……後悔、したくないから、あたしに勉強を教える……の?
ルト、あたしと同じ学校に行くの、嫌…なんでしょう?
それに昨夜、父さん言ってたよ。
……向こうでは、ルトとお前は一緒に暮らすんだよって……。
それだって、何時ものルトだったら、絶対、反対するよ」
そう言うマァハも、若干普段とは違った精神状態のようで、普段ならとてもいえないだろう言葉を、迷い迷いながらもその舌に乗せる。
……うんうん、依存対象に疑問を抱くのは良い事だ。
この調子で自立してくれればもっと良いんだが、それは無いだろうなー
俺は、微妙に震える彼女の声に、ちょっとだけ口元を緩めながら、こう答えた。
「ジョ…ザパン市の解体屋の話はマァハも知ってるよな?
一人でアレに遭ったら、賽がどう転んだってマァハは死ぬ、間違いなく……けど、俺と一緒だったら、二人とも生きて帰れる目があると思う。
もし、マァハが、ルスタに落ちたことが原因で独りで死ぬ事があったら、俺は絶対に後悔する。
……そう思っただけだよ」
どうやら、ジョネスは捕まった後でそれと知れたらしく、未だ解体屋の指名手配はなされていない。
覗いた襤褸を誤魔化しつつも、そう返した俺の言葉に、マァハの目と口とが、ポカン、開かれた。
「あたしの、為に、なの?」
返って来た答えが、よほど意外だったのだろう。
「解体屋相手じゃ、ルトがいたってどうにもならない、かもしれないよ?
それに、あたし、足手まといだから、そのせいでルトが死ぬ事も……」
呆気に取られた表情で問い返すマァハの、言葉が最後まで紡がれる事はとうとう無かった。
「……違う」
戸惑ったように揺れるマァハの言葉を、俺はそう言って断ち切る。
そして、暫し言い淀んだ。
一応、対ジョネス戦術は既に幾つか考えついているし、それなりに勝つ算段も立っているんだが、流石にそれをマァハに言うわけにもいかない。
マァハの視線から逃れるように、俺は彼女に背を向けると、言葉を捜して二、三度髪を掻き雑ぜた。
どうにか満足いく言葉を見つけて、口を開く。
「これは俺のエゴ――いや、俺自身の為、だよ。
単に俺が、やれば出来たことで後悔したくないんだ。
……それに、死んだなら死んだで、そん時ゃ俺はマァハより先に死んでるから、後の事はどうでもいいのさ」
因みに、信仰を持たない俺は、死んだら意識が拡散してそれで終わりなんだろうな…とか思っている。
そして、寝て意識が無い時の事を考えれば、それもそう悪くはなかろう、とも……。
無言のマァハを振り返ることもせず、逃げるように廊下に出ると、俺は、閉じた扉に背を持たせかけた。
それに、死ねば晴信の体に帰る可能性だってあるからなー
未だにどちらが主体なのかの結論が出ない、曖昧な状態にある俺だ。
そういった可能性も、今はまだ、捨てきれない。
だから、妙に自分の命を顧みない行動を考えたりするのは、きっとそのせいなのだ。
そもそも、打算なく他人を庇えるほど善人ってわけじゃぁ無いし……。
そんな俺の思考なんて、打算と言い訳と後ろ向きの三重奏……それっぽい語句並べ連ねて自分を盛り上げにゃあ、こんな状況じゃ、一歩だって前に進めやしない。
……尤も、煮詰まって挙句、逃避の暴走って線ならありえるがね。
だから、マァハには早く自立して欲しい――俺は、心底からそう思った。
そんな『小心な小利口者』についてきたって何も良い事は無い。
今のスルトは、マァハの『現実』から半ば乖離してしまっているのだから、それは尚更だった。
しかも、このヘタレはそう思いつつも、投げかけられた情の鎖を力尽くで振りほどくだけの優しさすら持ってないときている。
切り捨てる覚悟も、嫌われる優しさもなく、ただ相手が遠ざかってくれる事を期待するだけってのは浅ましいにも……って、止め止め。
ただでさえ俺はメンドクサイ性格してんのに、この上ウジウジしてたら、もう手のつけようも無い生ゴミだ。
大体、無限ループに嵌ってドロドログチャグチャしてても構ってもらえるなんざ、余程美形か立派な奴かの二択なわけで、そのどっちでもない奴が湿っぽくしてたって、黴て腐るが関の山……でもって、今はそんな暇も無い。
……思考の迷宮に嵌るのは嫌いじゃないが、わざわざ黴臭い穴倉に篭もって腐る程の悪趣味では無いしな。
それに、今の俺に必要なのは、思考の迷宮への逃避じゃなく、踏みとどまって戦う精神だ。
まあ、ベアナックル時代のボクシングでは死者が続出してたとか、その時代の最強の拳闘士は『卑怯者の戦法』に完敗してるとか、嫌な連想も沢山浮かんだが、それは気にしない事にする。
気にしたって意味は無い。
まあ、そんな事言いつつも考えずにはいられないのが俺、なんだが、一応気にしない振りくらいはできた。
兎に角、今はお茶だ、お茶。
無くては生きていけない……とは言わないが、お茶を入れるのも飲むのも、俺の精神の安定にはすごぶる役に立つ。
そんな事を考えてちょっとだけ苦笑すると、俺は扉から背を離して廊下を歩き始めた。
因みに、これも怪我の功名と言うべきだろうか?
先日の一件で、紅茶に興味を抱いている事が周知となったお陰で、俺の紅茶ライフは格段に向上していた。
勉強しかしない我が子に危惧を抱いていた父さんと母さんは、スルトが茶道具一式を遊び道具にする事をむしろ奨励してくれているし、マァハは家庭教師の礼にと自分の家で飲んでいる茶葉を持ってきてくれる。
それらの事情の変化に、どうやら、味覚は晴信よりスルトの方が優れている――いや、子供だから当たり前、なんだが――らしい事も加わって、ここ数日の俺は、毎日紅茶を入れるのが楽しみで楽しみで仕方ない状態にあった。
今日は、どの茶葉を淹れっかなー。
つーても三種類しかねーし、シルバーティップスはマァハあんまり好きじゃないみたいだけどなー。
まぁ、アレは香りメインで味が淡すぎるから、素人さんにはお勧めできないものだけど……けど、馴れた者にはたまらない魅力があるんだよなぁ……。
最初にアレ入れて飲んだ時なんか、俺、感極まってマァハに抱きついちゃったしなー。
いや、晴信もシルバーティップス飲んだの初めてってわけじゃないけどさ、この体で味わうアレはマジ反則。
こう、爽やかで透き通った香りが口の中に爆発するんだぜ、もう、アレは広がるってレベルじゃない。
正直、初めてフォ○ョンのSAK○RAを飲んだ時以来の感動が……ってまぁ、今はそんなことはどうでも良い。
……ま、マァハの趣味を考えると、チャイが適当か。
母さんもそうだけど、マァハはあの時入れたチャイを甚く気に入ったみたいで、なにが飲みたいか試しに聞くと『……チャイ』と答える状態だったりする。
まぁ、俺も嫌いなわけじゃあないし、スパイス入りのチャイは気分が落ち込んでいる時にいい――そんな事を口の中で呟きながら、台所へと足を踏み入れた。
水道から鍋に水を張り、火にかける。
沸かす間に茶葉と四人分のマグカップを用意して……俺は、キッチンの作業台に備え付けの椅子に、腰を下ろした。
さあ、湯が沸くまでに考えをまとめとかないとなー。
随分思考が脱線したが、現状の目的はマァハのルスタ附中合格、その為の精神修養の手法の模索が第一義だ。
俺は、胸元に下げた指輪を弄びながら、ぶれていた思考を短期目標の前に据え直す。
けど、なんだかなー。
ジョネスの事を知ってからのこの一週間、色々考えて実行してきたんだけどさ、もう、そう言った小手先の技じゃどうにもならんような気がしてるんだよな。
まあ、アイツを一生抱え込む覚悟があるんなら、まだやりようも無いではない……って言うのはスルトの自惚れか。
この小さな檻から出れば、マァハももっと自分を強く出せるようになるだろう。
そして、そうなればアイツは、本当に何でもできるはずなんだ。
例えば、今も世界中を飛び回っているらしい、アイツの母さんみたいに……。
マァハと同じカフェオレ色の肌に赤い髪、青い眼をした女性の姿を、頭に思い浮かべる。
ダグ村長も、その息子のザグさんも、こんな辺境には過ぎた傑物だとは思うが、村長の妻であるマリアンさんの持つ才は、それらを軽く超えていた。
正直、どうやってあの人と結婚まで漕ぎ着けたのか、村長に一度問いただしたいくらいである。
あの人、世界中飛び回っていて滅多に帰って来ないけど、帰ってきた時の熱愛っぷりったらないしなー。
それこそ、帰ってきた当日は、マァハもザグさんも、自分の家から逃げ出すくらいだ。
……で、俺の見た所マァハは、外見も能力もその母親似。
それも、その持てる気概と父親から引き継いだ白銀の髪とトパーズ色の瞳さえ除けば、そっくりそのままと言って良いくらいだ。
だから多分、マァハに必要なのは、ほんのちょっぴりの自信だけなんだろう――そう、俺は思っている。
ひとかけらの自信を持って一歩目を踏み出せば、後はドミノ倒しのように一気に進んでいけるはずなんだ、アイツは。
そう言うわけで、俺はその一歩が誰かへの依存から進むものであって欲しくなかった。
……いや、そんな俺が熱心にマァハの受験の手伝いをするってのは矛盾してるんだがなぁ。
そんな思いが頭を過ぎって、俺は一つ、溜息を付く。
いや、解ってるんだよ、その矛盾は……。
実際、スルトだって今みたいになる前は、受験を口実にしてマァハを極力遠ざけてた。
だから、さっき、珍しくマァハが真意を問いただそうとしたのも、積み重なっていた過去と掌を返した現在への不審と不安とが、アイツの心の喫水線を越えたからなのだろう。
あちらを立てれば、こちらが立たず――まぁ、どっちを立てるべきかは明白な状況だから、悩まずに住むのは良いんだが、精神的に、その、なぁ……。
そんなこんなで、まともな対策も浮かばぬままに時は過ぎ、気付いた時には、チャイを移し変えたティーポットと暖めたマグ二つ、それから、作業台の上においてあったクッキー――マァハちゃんと食べる事との、母さんのメモ付き――の皿を手に自室の前に立っていた。
一応……とばかりに二・三度ノックすると、部屋の中から何かばたばたと慌てたような物音。
「どうした、マァハ、何かあったのか?
……入るぞ?」
一応そう声を掛け、それでも二拍ほど待ってから扉を開けると、額に汗し、微かに赤面したマァハはさっきまで俺が座っていたクッションの上で、正座の形に体を凍りつかせていた。
なーんか、変だな?
マァハの様子がおかしいだけじゃなくて、なんかこう、部屋の中も変わっているような気がするんだが、今日は結構上の空だったから、それがなんなのかが真面目に解らん。
こういう時、いつもはマァハの記憶力を頼るところなんだが、事の張本人だからな、今回は。
んー、しかし、この部屋でなにかするとなると……端末でも覗いてたのかねぇ?
さっきの受け答えで『最近のスルトの変化』に、疑心を抱いた、とか。
……別に、探られて困るようなものなんざ何も無いけど、今警戒心持たれるのはちょっと厄介だなー。
俺はそんな事を思いながら、マァハの目の前にトレイを置くと、それを挟んだ対面の床に腰を下ろした。
「……お待ちどう様」
表情を繕って警戒心を強められても困る――困惑を隠さぬ顔でそう言うと、マァハの顔へとまっすぐ視線を向ける。
目の前にあるマァハの顔はうっすら汗ばみ微かに上気して、それが俺の視線を避けるように俯いて、しかし、その視線は上目使いで、チラチラ俺の顔をうかがっていた。
それがなんだか妙に可愛らしく、また、女性的なモノに思えて、マァハからちょっとだけ視線を逸らす。
……まぁ、なんだ、その、なぁ、俺がいない間、マァハがこの部屋で何かをやって、それで後ろめたさを感じてるのは間違いないな。
それからどうやら、マァハは俺のことを警戒してはいないようだ。
それどころかなんだか、いつもより視線が据わってるって言うか、なんだろな、知られたらどうしよう…とか、そう言った怯みみたいなものはあるんだけど、嫌われたくない…とか、普段は過剰に向けてくる怯えがあまり感じられない。
んー、なんか、普段俺に向けてる視線より、母さんに向ける視線に近い、って言うか……。
俺は、奇妙に動揺して纏まらない思考を掻き集める様に、頭皮に爪を立てるとガリガリと掻き毟った。
そして溜息、意を決し、再びマァハへまっすぐな視線を向ける。
「……取りあえず、冷めない内にお茶にしよう」
突然の動きに、びっくりしたように身を竦めたマァハの前に、俺は彼女専用のマグカップを置いた。
そして、開いた手にポットを取り上げ、伸び上がるようにして高いところから、マァハの目の前にチャイを注ぐ。
インド式~♪
上手に注ぐのが結構難しいこのインド式――カップへ高いところから、茶を注ぐ手法――だが、実はパフォーマンスの色が強くてたいした意味は無いらしい。
だから、チャイ入れるからってわざわざやらなくても良いし、実際今までもやってなかったんだが、なんと言うか、部屋の空気と暖かいチャイとを攪拌するこの淹れ方が、実は結構好きだったりするんだよね、俺。
こう、部屋にふんわりと暖かさと香りとが広がる気がしてさ。
……ま、雰囲気だけってーか、気持ち程度だけど、な。
でも、それでも気は心…とも言うわけだし、それに、マァハの緊張を解すにも良いかもしれん――と、今回はわざわざ鍋に作ったチャイをティーポットに移し変えてから持ってきたわけだ。
それに、マァハの中にはチャイ=鍋の図式が出来上がっているだろうし、ポットで持ってきたけど中身はチャイと言うサプライズも期待できる。
まさか、こんな妙な雰囲気を払拭する為に使う羽目になるとは思わなかったが……。
果たして、始めて見るインド式に、マァハは目を二・三度ぱちくりさせると、その口元にかすかな笑みを浮かべた。
スルトの体でインド式をやったのは初めてだったせいか、ほんの一回、一瞬だけ茶を乱して零しそうになったが、なんとかそれは堪えてマァハのマグにチャイを注ぎ終えると、一度、ポットをトレイの上に置く。
クッキーの皿を下ろしマァハに勧めて、自分のマグに普通にチャイを注ぐと、俺はポットとトレイを脇に押しやった。
再びマァハに視線を向けると、彼女はむぅとちょっとだけ口を尖らせて、俺から逃れるように視線を逸らす
「……なんだか最近、ルトが可愛い」
どうせまだ第二次性徴始まって無いし、勉強漬けで食も太くは無いから体も細身だよ。
顔つきもどっちかと言えば女顔で、まだそんな身長に大差なかった頃に、母さんに面白半分でマァハと服を着せ代えられた時も『どっちも似合いすぎてて面白く無い』とコメントされたさ。
だから、そりゃあ、背の高いマァハから見たらちっこくて可愛い部類に入るだろうが、俺の成長期はまだまだこれから――小柄な母さんだけではなく、大柄な父さんの血も引いている俺だ、これから身長はまだまだ延びるはず。
それに、直接あった事は無いけれど、母さんの父さん(じいさん)も、背は高か……って、そんな事はどうでも良い。
俺は、困ったように、ちょっとだけ不満そうにそう言ったマァハに目を丸くした。
マァハがそうであるように、実はスルトもちょっとだけ、身長を気にしている。
過剰に他人を気にするマァハが、そんな俺に可愛い?
気付いて目を丸くすると、マァハもあっと気付いたように、口元に手を当てた。
その動きもなんとなく軽やかで、俺の傍にいてもどこか怯えていたマァハの、何時もの硬い仕草とは微妙に違うように感じられる。
強いて言うなら、なんだろう、母さんの隣で笑ってる時のマァハに近い、か?
まさか、俺みたいに…なんて事はないだろうけど、それにしてもこの唐突な変化は不可解すぎる。
部屋を出てたほんの十分ほどの間に、一体何が起きたんだ?
そこまで考えて、目の前で慌ててるマァハの姿に気付いた。
……いや、ただの気のせいなのかもな……。
何時も通りハングアップし、ただおろおろ取り乱しているマァハの姿に、一つ溜息を付くといつしかあんぐり開いていた口を大げさにバクンと閉じる。
それから、怒っていないと示すように、ちょっとだけ苦笑して……。
「そうだな、どうやら俺は、ちょっとだけ大人になったらしい」
……そして、俺は、マァハに向かってそう言った。
返した言葉に、マァハがハングアップから回復する……が、どうやら、混乱自体はまだ収まっていないらしい。
マァハは、慌てていたせいかちょっとだけ赤くなった顔で、ただ呆と俺の顔を見た。
「……大人?
大人になると、可愛くなるの?」
判らないというようにそう問い返すマァハに、ああと頷く。
「自分が可愛いって事を……子供だって事を受け入れられる程度には、大人になれたのさ」
そう言って笑った俺に、今度はマァハの方がポカンと口を開いた。
まあ、見た目に合わない、らしくない事を言っている自覚はある。
呆れられても仕方ないかと、マァハから視界を外すように、自分用のマグカップを手に取った。
そして、開いた左手にクッキーを取って、パクリと一噛み……甘くてサクサクでバターの香りがふんわり広がるその味に目を細めると、今度は右手のチャイを一口。
自分で言うのもなんだが、かなり上出来な部類――そうにんまりと微笑んで、いやしかしと俺は表情を引き締める。
このチャイが美味さの五割は素材、残りの半分の内四割くらいは、母さんが作ったこのクッキーの美味しさだ。
……やはり、引っ越す前に母さんから料理を教わったほうがいいな。
今までも、料理はそこそこやっていたが、この辺りの料理のレシピは全く知らないし、それに菓子作りに挑戦した事は未だ一度も無い。
やっぱり気恥ずかしかった事もあるし、甘いもの好きな友達が居なかったから、作っても結局一人で食べる羽目になると言う周辺事情もあった。
けれど、マァハも甘いもの好きだし、多分、多少焦げ目があるくらいなら一緒に食べてくれるだろう。
だったら、今度は菓子作りに挑戦してみるのも面白……って、なんか忘れてないか、俺?
そう現状(いま)を思いだし、マグを床に置き上げた視線が、マアハのそれと――それも意外な近さで――重なった。
背が高く、また今はクッションの上に座っているマァハと、背の低く床に直に座っているスルトの顔が、これほど近くなる事なんて普通ならありえない。
……ありえないんだが、どうやら俺が紅茶と茶菓子に集中している間に、マァハはその姿勢を崩していたらしかった。
マァハは、正座だった足を所謂女の子座りに崩してその間に両手をつき、背は猫背にして身をこちらに乗り出している。
そんな崩れた姿勢のマァハと、きっちりとした姿勢に直ろうとした、俺。
二人の視線が偶さかに至近で交わり……そして、すぐに離れた。
「うわぇ!」
意外な近距離に驚いた俺が、奇矯な声と共に跳ぶようにして身を引く。
足元のマグが一瞬揺れて、しかし何とか持ち直したのにほっとするのもつかの間、再び上げた視線の先には、変わらぬまま表情を浮かべたままのマァハが在った。
今のマァハが浮かべている表情を、一言で評するならば――真剣。
それは今まで、マァハの顔にはついぞ見た事が無い表情だ。
「ルト、わたし……頑張る」
そして、そんなマァハがぽつりと放ったその言葉も、何時ものように意気込んで気負った様子のない、ただ、淡々とした、強い意思の様な物を感じさせる、そんな口調……。
……頑張る? 何を?
俺はそう、反射的に言葉に成しかけて、慌ててそれを喉奥に飲み込んだ。
何でその気になったのかはさっぱりなんだが、マァハが『今』頑張る事など一つしかない。
「そうか、分かった」
だから俺は、表情を引き締めてただ一言、ただそれだけ、そう応えた。
そんな、簡素な返答に、マァハもただうんと頷きを返す。
けれど、その僅かな仕草には、それ以前にマァハが口にしただろう全ての言葉を合わせたよりも多くの説得力が篭もっている――そんな気がした。