第三話『その味が共に楽しめるほど現実であれば
―――或いは、皆で歌おうマサラの歌』
昼食後しばらくは、俺もおとなしく休んでいた。
尤も、それは体を休めていただけの話で、首にかけた指輪を弄りながらだから、広い意味では具現化系の修練かもしれないし、同時にこれからどうするのかを考え続けてもいたから、点をしていたと言えなくもない。
そう言えばスルト(オレ)って、ある意味ではすっと燃の――偽の四大行の――修練をし続けていたと言えなくもないんだよな。
H×Hにも、怪我をして燃の修行を止められていたゴンが言いつけ通りに毎日『点』を続けていたら、解禁後に『纏』の方も自然、滑らかになっていたという描写があったけど、もしかしたら俺に念の素養があったのはそのせいなのかもしれない。
ネテロ会長の正拳突き一万回も、燃に対応してるんじゃなかろうかとか、あの馬鹿も言っていたような気も……まぁ、いいか。
一万回やるかはともかくとして、ネテロ会長風正拳突き修行とかも面白そうなんだが、俺には格闘技経験も無いわけだし、変なフォームで固まっちまったりしたらやばいよなぁ。
いや、そもそも武術に拘りがない俺がアレやって意味あんのかって意見もあるだろうけど、貫くべき一つに思いを定め正拳突きを繰り返すってのは、念の戦闘能力を養うには格好の修行だと思うわけよ。
特に俺の場合、指輪を具現化するともう決めちまってるしな。
……でもまぁ、聞きかじりの半端な知識しかないような状態で変な癖つけちまうのは問題あると思うんで、素直に格闘技を習い始めるまでは、基礎体力作りに専心するか。
勉強は軽い予習復習程度に抑えて、その時間はランニングか何かに充てよう。
ま、色々考えたんだけど、まずはある程度の能力を得ないことには始まらんしな。
傷関連の放置は少しばかり怖くはあるが、現状で何も出来ない事を考えれば、俺自身の能力底上げこそ急務だろう。
取りあえず現時点での行動は、第一が心源流拳法に入門して、そこからどうにか協会の念能力者との接触を計る事だ。
ハンターの料金体系は非常に高額なので、金銭面で非常に心許ないモノはあるんだが、それだけで事が全て解決する可能性もあるし、仮になにも変わらなかったとしても、今後念の情報や能力者とのコネクションは役に立つだろう。
第二が、ゴンたちと同じ287期ハンター試験に参加し、合格する事。
主な目的はハンター証の入手と、ゴンパーティ及びネテロ会長との接触。
ハンター証は、他のハンターに何かを依頼する必要が発生した場合の資金源として、ネテロ会長は……あの人が良い様に使われてくれるとはとても思えないけど、ここで顔を売っておくだけでも、随分後が違うはずだ。
仮に、今の俺の状態が現在進行形で作用し続ける念能力の影響であり、それを外す事で元の状態に戻れる事がわかった場合、今度は雪男よりレアな優秀な除念師を探さなければならなくなる……わけなんだが、H×H本編で確認された優秀な除念師はたったの二人――それも、片方(アベンガネ)はグリードアイランド内で幻影旅団との競合、もう片方(ヒナ)に至ってはキメラアント――だ。
残り五年で、俺が旅団やアリと直接戦えたり、交渉したりできる程強くなれる保証は全くない。
故に、ネテロ会長に未来情報を売る代わりに対象のアリを捕獲してもらうとか、そう言ったある程度話が通じる面子との取引を成立させるのがベストな選択なのだが、そのためにもまずは、自分に興味を持ってもらわなければならなかった。
そして第三が、バッテラ氏の募集に合格し、グリードアイランドをプレイする事。
別に、トリップ系SSの定番らしい『島の外に離脱を持ち出して』、なんて事を考えているわけではない。
なんつーか、ゲーム設定なら兎も角、俺の場合それで戻れるとも思えんし、そもそも、スルトのまま『向こう側』に戻ってどうするよ?
なわけで、俺がグリードアイランドに行きたい目的はと言えば、ビスケット・クルーガーと、もしもテレビ!思い出写真館!人生図鑑!
ビスケは当然、優秀な師匠だからで、教えてもらえるかはともかくとして、顔見知りくらいにはなっておきたい。
もしもテレビは――実際の効果や効果範囲はどうだか判らないから確言はできないんだが、『もし、スルト・マクシェイ(詳細説明)が、“向こう側の世界”の榊晴信(詳細設定)の現状を知る事ができたら?』や、『向こう側への移動方法を知る事ができたら』等と言った文章を打ち込めば、向こう側での俺の現状など通常では手に入らない情報を入手できる可能性がある。
また、思い出写真館と人生辞典のコンボがあれば、一昨日の晩俺に何が起こったのかを解明する事もできるだろう。
しかも、これら全ては、レアリティが極悪に高いわけでもなく、カード化限界が極端に低いわけでも無い上に、グリードアイランド内で使っても問題ないアイテムと言うのがまたミソ。
つーか、よく覚えてんな、俺。
それも、こんな一覧表に載ってただけのカードデータまで……。
やっぱりこっちに来たときに、晴信の記憶は念に刻み込まれたデータベースとかになってたりするんだろうか?
その辺りを調べる為にも、遊魂枕とかも欲しいなぁ。
後は、アリ戦対策を仮定した能力底上げに役立ちそうな、そう、例えばマッド博士の筋肉増強剤とか。
アレも、島の中で使っても全く問題ないアイテムだし……くそ、流石は貪欲の島、本当に、己の強欲さがしれるな。
まあ、最悪クリア直後のゴンに誠心誠意頼めば、そこらのアイテムは快く譲ってくれるだろう。
その為にも、287期ハンター試験におけるゴンたちへの顔繋ぎは重要だ。
できれば、天空闘技場までは同行して200階クラス迄は至っておきたい。
そして、その時に両親やら学校を黙らせる為にもハンター証は必要ッ!
コイツがあれば、高校卒業しなくても即大学受験できるし、それに、現役ハンター高校生在籍は学校のイメージにとっても大きなプラスになるはずだ。
幸いな事に、ハンター試験は新年。
この世界でも新年すぐは冬休みなのだ。
287期ハンター試験まで真面目に手堅く暮らしていれば、それから出席日数ギリギリまで外を出歩いていても、そう大きな文句は言われないだろう。
じゃなくとも、公共機関は大半ハンター証で料金免除になるから、特待取り消されても問題なしだしな。
……とは言え、現時点ではただの皮算用。
実際のところ、ガリ勉貧弱ンな俺の体が、たった四年でどこまで出来上がるかわからんし、戦闘技術に至っては何を況や。
正直、念で超回復力も強化できるだろう事が唯一の楽観要素と言うのが、本当に悲しいな。
まあ、二十歳過ぎた晴信の体で、こっちに飛ばされるよか百万倍マシではあるし、無い物強請りばかりをしていても仕方ない。
少なくとも、今のスルト(オレ)はまだ小学生だし、それになにより、ハンター世界で生まれ育った人間だ――と、休みながらこの先の展望について考え(妄想し)ていた所で、机の上の端末にセットしておいたタイマーが鳴った。
よし、二時間経過だ。
俺は、寝っ転がっていたベッドから飛び起きると、机の上の端末のタイマーを、再び二時間でセットする。
天空闘技場でウィングさんが、ゴンとキルアに『睡眠、修行、息抜きには同じだけ時間を…』と言っていたので、俺は、先ほど水見式の試行錯誤に充てた二時間を基本単位にして、交互に修行と休憩を行う事した。
俺の場合、そうやって時間決めで動かないと、ズルズルと潰れるまで修行続けちまいそうだからね。
スルトは思いつめて一つの事にのめり込んじまうタイプだったし、晴信は晴信で、止め時が見つかんなくて中毒になるしで……。
取りあえず今の所は…だが、二人混じっても、バランスよく強くなるなんて甘い事はないみたいだ。
尤も、晴信(オレ)は、スルト(オレ)に近い点があったからこそ、こっちに曳かれてしまったんだろうから当たり前なんだがな。
……俺は、部屋の真ん中に自然体で立つと、目を瞑って腹式呼吸を始めた。
纏が得意で、だから多分AOP最大値が大きいだろう俺だが、POPを取り出す技術は多分それほど巧くない。
いや、あの恐怖の蝶汁を思えば低いとも考えにくいんだが、あの時は反応ない事に戸惑って五分以上も延々練してたから、きっとそのせいだろう。
なにせ、GI編開始後暫くのゴンの、最長持続時間の三倍強も練をたもってたわけだからね。
だから、単位時間当たりの影響は少なくても、最終的な結果はむしろ多かったのだろうと考えている。
そんなわけで、オレの当面の修練は、練の反復練習。
できるだけ早く、できるだけ自然に、できるだけ多くのオーラを搾り出し、高いAOPという持ち味を生かせるようにする。
これを行えば自然防御力も上がって行くわけだし、攻勢に出られない現在では最良の修行だろうと俺は考えていた。
後は凝って言うか、流って言うか……まずは凝か?
重要なんだが、オーラが隠されているものなんか身近にない以上、鏡を見つめながら目にオーラが集中している事を確認するくらいしかやりようがないのが、なぁ……。
まあいいや、取りあえずは練だ。
そもそも、取り出せるオーラ量が少なくちゃ、高度な凝をこなせても意味ないわけだしな。
そんなわけで始めた練の修行だが、これが中々に難航した。
前に行ったとおり、力はただ引き出すだけならそう難しいことではなかったし、それどころか俺は、練を繰り返す事によって徐々にだが手応えらしきものまで感じ初めている。
なんと言えば良いのか、俺の中にある力を引き出し集める為の最良のイメージとそれを開放する為のスイッチが、それを繰り返すたびに少しづつ形を確かなものに変えていっている、そんな感覚だ。
いや、それは言うまでもなく例の黄金の円環で、これが形になっていくにつれ、帰れない深みに足をズブズブ踏み込んで言っているような気がしないでもないのだけれど……。
だから、練の練習で問題になったのは引き出す技術ではなく、俺の持つアドバンテージである、纏う纏の強さだった。
引き出されたオーラは、消費されなくても徐々に減っていく。
纏は、オーラを『固定』する技術ではなく、そこに『留め』る技術だからだ。
留める力が弱ければ、或いは、コントロールする技術が低ければその減少は激しくなるし、逆に留める力やコントロールに熟達していれば、その減少は少なくなる。
俺の場合、逆に力を引き出す技術に対して留める力が強すぎて、この不均衡が修練の足かせとなった。
通常状態のオーラを1、練をして引き出せるオーラを4としよう。
俺が特に何もしない状態で体外に留めておけるオーラが凡そ3位、集中して纏を行うと……そうだな、最大6~7位は留めておけるんじゃないかと思う。
そして、現時点の俺が持つオーラの保持力を3以下に抑える手段は、水見式の時にしたように意図的に纏の薄い部分を作って、そこからオーラを流出させるか、強化状態の纏を極限まで保って、オーラを体の周りに留める力そのものを消耗させるかしかなかった。
それで、ここからが本題なんだが、練の後、オーラを特に留めようとしなければそれは急激に蒸散して行くが、それが保持力の限界まで差し掛かるとそれ以降は緩やかになる。
つまり、練をした後俺は、通常時の1ではなく、3OP(のオーラ)を常時身に纏った状態になるってことだ。
勿論、そう言う状態では消耗も通常より早くなるから、纏うオーラは緩やかに1へと近付いていくんだが、これがまた時間がかかる。
で、時間がもったいなくて纏を弄ってのガス抜きをするんだが、こうすると今度はかなりオーラ=体力の消費が激しくなった。
試した時みたいな保持力以下の力を引き出す手ぇ抜いた練とは違うから、噴出す勢いも凄いし、適当なところで留める為の纏の修復にも、えっらく手間がかかる。
つうか、絶や纏解くのって、どうやるんだろね?
それが出来れば何も問題ないはずなんだが、正直な話、皆目見当も付かんよ
で、仕方なく、普通の人が練の修行してるのと同じだとと思えばいいやと割り切って、OP3保持状態で練修行を行ったら、今度はなんか変に体が軋んだ。
息苦しいと言うか、なんか、肉体がオーラの出力に付いていけない感じ?
流石は特質系、特殊すぎるぜこんちきしょーめぃッ!
つーか、俺のレベルで体が軋むッたら、コルトピなんかどうなんだよ、コルトピ。
あのトンでも能力で、しかも体は華奢だぜ?
もしかしてあれは、極限までシェイプされた究極のボクサーボディなのか?
それとも奴も、戦闘モードになるとビスケみたいに体膨らむんか?
そーなのかッ!?
いや、実際には本当の理由が判らんからなんとも言えんのだが、取りあえず体を鍛えないとOP3保持状態での練修行は拙いっぽい。
体壊して、通常の練修行までできなくなったら本末転倒だしな。
そう言うわけで俺は、纏弄って、一々ガス抜きしながら練修行をしなければならなくなった。
手間が掛かるわ、時間は掛かるわ、疲れるわで、もぉ、大変……。
薄々感じてた事ではあるけれど、俺の纏って多分普通じゃないよなぁ。
能力の強さがどうのとか言う以前に、性質からして違う感じだし。
ゴンは、ぶよぶよの薄皮一枚とかいってたけど、俺の纏はタイヤのゴムみたいな質感がある。
特に練を使った後なんかはみっちり空気が詰まった感じで、ぶよぶよと評されるような緩みは全く感じられなかった。
まるでオーラを、確りと内側に閉じ込めるみたいに……。
ピピピピピピピピピッ!
そして、再びアラームがなる。
俺は溜息を一つ付くと服を脱ぎ、用意しておいたタオルで汗だくになった全身を拭った。
二時間経過……しかし、行えた練の回数は、たったの八。
そりゃあ、初めっからそうサクサク進歩するとは思っていなかったが、これではいくらなんでも、余計な時間を食いすぎである。
元々纏に余裕があり、引き出す部分を重点的に鍛えたかった俺にとって、回数こなせないと言うのはかなり痛い事態だ。
蒸散させるに任せると時間がかかりすぎるし、ガス抜きすると一発で息が上がる。
重ねて練を行うと体への反動がきつく、今の俺にはその是非を判断できるだけの知識が無かった。
対策として考えられるのは、纏とオーラ操作の練度向上による流出量操作と、肉体鍛錬による耐久力強化。
どちらにせよ、一朝一夕には成せぬ事であり、正直、八方塞とも言える。
まあ、鍛錬に王道なし――いや、地道な鍛錬こそが王道か?
学校を休んでいる現在、本格的な肉体鍛錬はできないわけであるし、せいぜい纏及びオーラの操作に力を入れるとしますか。
練が片手間になってしまうことは正直口惜しいが、効率こそが資本主義の神である。
この世知辛い世の中で、少しでも思い通りに生きる為には、多少の拘りは捨てるべきだった。
殊に、今は俺自身の命とか精神とか存在とか、そう言ったヤバイ物が関わっている可能性が高いしな。
……しかし、休憩二時間は長いな。
気晴らしに予習復習でもやるか?
いや、まぁ、無茶な事を考えているとは思うんんだが、この部屋、遊び道具の類はなくてなぁ。
ある物はと言えば参考書と端末くらい――んー、こっちの世界にもネット小説とかあるのか?
ふと思い立って、端末の前に座るとプラウザを立ち上げる。
まずはプラウザのロゴが表示され、次いで『幸福は市民の義務です』とか言い出しそうな電脳ページのイメージが映し出された。
つーか、この毒電波撒き散らしてそうな脳髄、誰がデザインしたんだろうな?
採用した奴もそうだけど、悪趣味にも程があるぜ。
そんな事を考えながら、俺は昨日ブックマークしておいた検索エンジンに繋いで、と……さて、何を調べようか?
マジな話、スルトはそう言った娯楽関係は弱いんで、何調べて良いのやらさっぱりわからん。
うーんと、取りあえず頭に浮かんだものを検索してみる。
チョコロボ君……すげぇな、百万件以上Hitしてるぜ。
なんか、コレクター要素が大きな玩具付きお菓子の類らしい。
菓子としての味も絶品だそうだが、キルアも存外にオタクなんかいな。
ゲームもかなりやりこんでたみたいだし、やっぱ、ミルキの影響か?
ふむんと、頷いてから、今度はトイランドで検索。
ゲーム関連を見てみると、今の主力機はジョイステーション2。
3はまだ出たばかりで、余り普及していないらしい。
キルアの言葉では初代ジョイステーションは三世代前の型って事だけど、そうすると今後四年以内にジョイステーション4が出るわけか。
ゲームソフトの紹介画面を幾つか見て歩き、ジャンル的に面白そうな作品とレヴューで検索してみる。
その中で広く名作判定されているゲーム名を……はて、この世界で二次創作って、どう略されているんだろ?
いかんな、どうにもスルトは世事に疎すぎる。
いや、晴信にしても世知に関してはかなり捻くれ曲がっていた自覚はあるが、この世間知らずはどうにかせんとなぁ……。
取りあえず、ニュースサイトをと、電脳ページの最初のほうに戻って、契約プロバイダのページを調べてっ、と…業者がこの辺りの所だから、周辺のニュースはわかるはず。
そうして見つけたニュースサイトを捲った俺は、脱力して机に突っ伏した。
連続殺人鬼-通称解体屋-真昼の凶行……初っ端から解体屋ジョネス君の記事かいな。
あー、そりゃ母さんが村長の申し出を受けて当然と言った態度を取るわけだよなぁ。
つまるところ村長の申し出は、お目付け役でも焚き付け役でもなく、単にまとめて護衛付けたいって事だったのか。
ここから無理なく行き来できる都市で、ランクの高い学校があるのはザパン市だけで、そこではジョネス君がお楽しみの真っ最中と……。
ネットの記事は色々調べてみるとジョネス君もまだ活動初めて間もないみたいで、だから母さんもまだそんなに深刻な危惧は抱いていないみたいだけど、逆に言えばそれは、今後まだまだこの事件は長引くし、それに従って心配も加速度的に増えてくって事だ。
これは、同居は避けられんかもなぁ、いっそジョネス君のことを官憲に垂れ込むか?
けど俺、ジョネス君って、147人を素手でばらしたって事位しかしらねーし、せめて、フルネームでも判ればなぁ。
まぁ、ジョネス君の行動はランダムエンカウントのレアモンスターみたいなものだから、迂闊な事しなければ遭遇率は低いだろうし、今後を考えると、あれくらい楽勝で勝てないとお話にならないんだけど、試したら死にましたなんつーのは愚の骨頂だ。
下手なちょっかい出してマァハを巻き込んじまったなんて事になったら、目も当てられんしな。
取りあえず、セキュリティの充実した建物の3階以上の階に住んで、移動は車でを徹底すれば遭遇確率は殆どゼロだろうから、その辺りを村長と交渉しよう。
最悪奴と出合ったしまった場合も、俺が盾になればマァハを逃がして護衛の人に官憲呼んでもらえるだろうしな。
なにせ、ゴンが身体能力だけで200階までゴリ押しした天空闘技場の、50階近辺で躓いたズシでさえキルアの本気の一撃に耐えたのだ。
貧弱な俺でも、堅の状態であればジョネスの握撃を凌げるだろうし、一撃当てられれば勝機だってある。
……最悪の場合、念に目覚めたスーパー解体屋ジョネス君が爆誕するけどな。
どちらにせよ、この件では早急に村長と話をする必要がありそうだ。
俺は、頭の中の懸案リストに解体屋ジョネス君の名前を書き付けると、記事をスクロールさせていった。
んー、気になるのはジョネス君の乱行くらいか、国際ニュースも大半がハンター協会会長選関連だしな。
興味の赴くままに色々捲って見たが、あんまり面白そうな記事はなさそうだ。
時間もキリのいいところだったので、俺はプラウザを落とすと大きく背を伸ばす。
気分転換どころか懸案事項が増えた気はするが、少なくとも念からは気が逸れた。
だが、もう少しばかり休憩時間は残っている。
折角だから茶でも入れるかと、俺は席を立って台所に向かった。
……けど、この家ってちゃんとした茶葉ってあるのかね?
いや、それ以前にあったとして、それは俺が勝手に飲んで良いものなのだろうか?
どこでもそうだろうが、一般的に外から買い入れなければならない品物は高くて、自給できるものは安い。
特に、貧乏で人口の少ないこの地方では、嗜好品の類は極めて高い値段が付けられていた。
明かに前者な上に、完全なる嗜好品であるお茶の類は、一応、この村の数少ない商店でも取り扱われてはいるのだけど、それに付けられている値札は、ネットを使って専門店と直接取引きした方が安いくらいである。
本来なら僻地で運送費が嵩むぶんこっちで買うほうが安くなるのだけれど、ウチの場合、薬品なんかを取り寄せる時に――ぶっちゃけ、村長の家がこの辺りの特産物を輸出するのに使う奴なんだが――相乗りさせられるから、最寄港であるドーレまでの郵送費で済むからな。
その辺りの事情は、俺も参考書やら何やらを医学書なんかと一緒に取り寄せてもらっているので、よく知っている。
考えてみればそうだよなぁ。
この辺りじゃあお茶は高い。
一応、代用品のハーブみたいなのとかコーヒーの偽者みたいなのはあるけれど、余り美味いもんでもないし、第一入れ方が判らない。
それに、お茶があったとしても、晴信の好きな茶葉は……今まで、色々とショックな事続きでそこまで気が廻らないでいたが、気付いてみればこれが一番ショックな気がした。
ああ、もう二度とあの祁門の工夫茶はッ、雲南の金芽茶は飲めないのかッ!
ディンブラはっ!ネパールはっ!マレーシアのBOHはッ!
国産の那須野紅茶も、仕上がりが段々良くなって来て先行きが楽しみな時だったのにッ!
ッ……Be Cool、Be Cool。
オーケィ、まずは落ち着こう、素数でも数えるんだ。
そう、ここは逆に考えるんだ。
まだ見ぬ銘茶を味わえるチャンスと考えれば……それに、希望だってある。
グリードアイランドには、バーチャルレストランがあるんだッ。
バーチャルなあそこなら、オレの記憶を元に、この世界にはないお茶でも飲ませてくれるかもしれん。
しかし、この世界の茶を追うのはもはや確定として、問題は金だわな。
今後の事もある。
幾ら特待取ったからって、親にそんなに金出させるわけにはいかんし、ザパン市に行ったらバイトして……って、その時でも俺、まだ中学生じゃん。
G・I内なら兎も角、ザパン市に中学生雇ってくれる店ってあるのか?
それに、修行だってあるわけだし。
いや、ここは四年の一人暮らし歴を生かして、食費や生活費を……って、マァハと同居の時点で無理だよなぁ。
四年+αの自炊経験を持つ『俺』とは違い、スルトもマァハも全く家事ができないから、生活費やらなにやらは使用人の預かりになる筈。
クソッ、許すまじジョネスッ!
貴様がいらんことしぃなせいでッ、俺はッ!
俺は、八つ当たりで打倒ジョネスを強く心に誓うと、一つ溜息をついて自室を出た。
取りあえずは、牛乳でも飲んでお茶を濁そうと、今は無人の筈の台所を目指す。
朝の牛乳粥でもわかるとおり、この地方では酪農はそこそこ盛んで、少なくとも『あちら側』で晴信(オレ)が飲んでいたものよりかはるかに新鮮で美味い牛乳が格安で手に入った。
だから、母さんのパンの牛乳粥が美味い理由の中には、いい牛乳を使ってるってのもあるんだろう。
いや、まぁ、ここはハンター世界だし、普通の牛の乳じゃないかもしれないが……俺はその味を反芻し、少しだけ唾を飲んだ。
スルトと晴信の記憶がが入り混じっているせいか、なんだか随分長い間、不味い牛乳ばかりを飲んでいた気がしている。
因みに、向こう側では、美味しい牛乳=濃厚なイメージがあるけど、ここの牛乳はそんな不自然に濃くも甘くもない。
コクはあるんだけど癖は少なく、サラッとしていてとても飲みやすい味だ。
……あれと祁門の超級茶辺りでミルクティー入れたら、さぞかし美味いだろうなぁ。
俺は、ふと、そんな事を思い、緩んだ口元を引き締めると慌てて頭を振った。
いかんいかん、余裕が出てきたのは悪い事ではないが、緩んでしまうのは余り良くない。
可能性はそんなに高くないとは思うが、俺は、今後自分が念能力者に襲われる可能性って奴を捨てきれない状況にいるのだ。
それに、昨日の今日と言うか、現在進行形で非常事態な俺が、あまりに何時もと違うところを見せれば、父さんと母さんは、確実に俺の心配をするだろう。
なんつーか、自身の存在の保全の為、今後親不孝を繰り返す事が予想されるだけに、俺はそれ以外、それ以前では余り親を心配させない良い子でありたかった。
今までずっと張り詰めていた俺がいきなりテロテロになって、コアな紅茶趣味を露呈させたりすれば、両親を驚かせてしてしまう。
そんなくだらない事で父さんと母さんに心配させるのは、情理両面で嫌だ。
だから、紅茶趣味は中学に入ってから――俺はそう決意して、表情を引き締める。
どうせ一足飛びに茶道具や銘茶を揃えるのは難しいのだし、向こうでの生活基盤を整えながらじわりじわりと事を進めよう。
何せ今のスルトには、奇妙に強化された晴信の記憶があるわけで、だから学業面についてはかなりの余裕があった。
混乱したり追い詰められたりで、今までは修行かそれまでのインターバルとしか認識できずにいたその余裕だけど、こうして考えてみると存外に楽しみもありそうである。
まあ、念能力者的には一つの事に凝り固まったほうが強くなれるんだろうが、それ以上に危険だからな、アレは……。
それは、良きにつけ悪しきにつけ、典型的なクラピカを見れば良く判ったし、俺も正直ああはなりたくは――いや、現状や水見式の結果を見るに、俺は既に一度その陥穽に落ちた後なのだろう。
そして俺には、同じ轍を二度踏むつもりはなかった。
二体合体の時点で、もういい加減持て余してるってのに、その相手がこれ以上増える可能性があるなんてのは御免被る。
正直、『二十四体合体ッ! ビリィィィーッ・ミリッガーンッ!!』なんて事にはなりたくないしな。
それを避ける為にも、一つの事だけに凝り固まらないように――即ち、修行と息抜きと睡眠を等分に、か。
これ、多分心源流の教えの一つだと思うのだけど、そう考えると良く出来ている。
じゃあネテロ会長の万本突き修行とかどうなんだよって声もあるけど、アレは、一度限界に達してからの臨界行なのだろうし、それを基礎的な内容と同列に置くのは間違いだろう、
……すると差し詰め、俺はまだ確固とした基盤を持たぬうちに臨界行を行ったようなものか。
そう考えてみると、俺の現状は、準備の整わないまま臨界行に挑み、半端に成功してしまった者に似ているように思えた。
結果はかなり特殊だけれど、その詳細を除く俺の状況は、そう言った力と歪みを得た者達に非常に近い。
特に、起きた変化に拘泥し、凝り固まっている辺りが……その認識にはぁと息を吐き、俺は足を止めた。
今の俺は、スルトと晴信が混じったものだ。
恐らくは、スルトが晴信をこちらに引き込んだものと思うが、もしかしたらその逆かもしれない。
晴信の故郷である『向こう側』の実在も、そこがあるとしたらそこで晴信の体がどうなっているのかも判らない。
スルトは晴信を殺したのかも知れず、晴信がスルトを飲み込んでしまったのかも知れない。
もしくは、どちらでもなく、全ては狂った俺の妄想なのかも……。
どれでも有り得てどれとも言い切れない状況の中で、俺はどれでもある為に全ての罪悪感と不安とを味わい続けていた。
あちらへ転がり、こちらへ転がり、しかし、最終的に落ちる所は、常に同じ陥穽。
ここから真に這い上がる為には、少なくとも事実を知る必要があると、そう思いつめて……。
まあ、なんつーか、絵に描いたような自己嫌悪スパイラルッつーか、中二病?
いや、実際に理不尽な状況に対応しているわけだから、中二病の表現は適当じゃないか。
兎に角、視野狭窄で自分の目の前と内側しか見えなくなってたことには違いな……って、話がどこまでも逸れてくな。
まぁ、なんだ。
一言で言えば、『ウィングさんありがとう。おかげで一つ壁を乗り越えられました』か。
もっと視野を広く、一つの事に凝り固まらない。
理屈では最初から解っていた事を、ようやく感得できたわけだな、俺は……。
ハハハと乾いた笑いを漏らして、俺は再び台所に向かって歩き始めた。
取りあえず、牛乳を飲もう。
ウィングさんはゴン達に言っていた、人生を楽しみなさい、と。
今まで、この現状に決着が付くまでは本当の俺の人生は始まらない的な事を考えていたが、当たり前だけどそんな事はなかった。
俺の人生を楽しむ事――それは、一杯の牛乳を楽しむ事から始まる、なんてな。
晴信はスルトの空想だったかもしれないし、スルトは晴信の妄想なのかもしれない。
けれど、それが紅茶の味が楽しめるくらいに現実であれば、実際にはどうだってことには余り意味はなかった。
少なくとも、今の俺にとっては目の前のコレが現実なのだから、それを存分に楽しめばいいのだ。
晴信の現在は確かに気に掛かるが、別にそれが死んだとか、失踪したとか、植物状態だとかに決まったわけじゃぁない。
スルトに至っては、晴信を手に入れた事で強迫観念じみた渇望から自由になっていた。
そう、今まで混乱してたけど、現状が悪いものだと決まったわけではないのだ。
その可能性を心の中に留めておくと言うのは確かに重要だけど、それに縛られて可能性を狭めるのは良い事じゃない。
今のスルトは、年齢的にも、状況的にも、今は沢山勉強して楽しんで、自分の可能性を増やすべき時だ。
勿論、時間が向こうの晴信に致命的な影響を及ぼす可能性もあるけどさ、焦って死んだり、スルトの持つ可能性を歪にしちまっても意味はないんだよね。
もし『今の俺』がここにいる事で『向こう側の俺』が昏睡状態に陥っていたりする場合、晴信の『魂』的なものは当然ここにある事になるわけで、だから『俺の体』に『致命的な何か』が起これば、同時に『向こうの俺の体』も目覚められなくなる可能性がある。
だから、焦ってそれだけを考える事にそんなに意味はないんだよな。
二つの世界の時間が同期しているとは限らないっつーか、もう殆ど捨てかけている可能性ではあるけれど、仮に『スルト』が『晴信』を体験していたとすれば、こっちの一晩に、向こう側では二十年近くの時間が経過した事になるわけだから。
それに、これは俺一人で解決しなきゃならない問題でもなかった。
グリードアイランドのアイテムやら会長やら、都合よく色々頼る妄想考えたいながら、なんでこんな単純な事に気付かなかったのかね?
俺が必要な能力を備えていないのなら、借りるか買うか奪うかすればいい。
その為に重要なのは、歪に尖った単能よりも強い人間力であり、それを培うのは修練と広範なる経験――即ち、人生を楽しむ事だ。
……だから、まずは一杯の牛乳を飲むところから始めよう。
俺は、台所に入ると冷蔵庫を開いた。
ドアポケットから壜入りの牛乳を取り出し、午前中使ったのと同じ型のタンブラーになみなみと注ぎ入れる。
なんか嫌な記憶が脳の中を過ぎったけれど、俺は気味の悪い連想を無視してタンブラーに手を掛けた瞬間……
ブーッ。
……玄関の方からそんなブザー音が聞こえた。
間が悪いな、と思いながら、俺はタンブラーを机に置くと、台所を出て玄関へと向かう。
診療の終わっていないこの時間、両親は病院で仕事をしている。
この辺りの人間でそれを知らない人は居ないから、玄関から来るのは十中八九、俺目当ての客。
時間はもう四時過ぎだし、見舞いと証して何人か人が来てもおかしくない時間だ。
他人前で念修行するわけにもいかないが、この辺りに本当の意味でスルトと親しい人間なんてのは一人二人しかいない。
向こうもこっちが暖かく応対するなんて想像してない連中が大半だろうし、適当に応対して門前払いを食わせればいいだろう――そんな事を思って玄関に急いだ俺の、行く先からありえない音と声が聞こえてきたのは、そんな時だった。
扉の開く音、恐らくクラスメイトのものだろう少女達のきゃわきゃわとかしましい笑い声と、それを応対する母さんの声。
そう言えば、そうだった。
基本的に子煩悩なウチの両親が、あんな俺の姿を見て一人にしておくはずもない。
加えて、昨日村長が廻状を廻したから、この辺りの人間は全員、俺が大怪我した事を知っている。
朝方はかなり患者も多かったようだが、昼食時の父さん達を見るに、今は落ち着いているかむしろいつもより少ないんじゃないだろうか。
俺は焦って、その足を速めた。
母さんの性格から言って、彼女達を家に上げてしまう可能性は高い。
それまでに玄関に辿り着いて、何とか彼女達を追い返さねば……
「今スルトを呼んで来るから、上がって待っていてちょうだい」
……そう思った時にはもう遅かった。
クラスメイト達は兎も角、母さんは俺の現状を良く知っている。
大方、家族以外の人間と会話させて気分転換させる心算なんだろうが、コイツはスルト(オレ)には逆効果だと思うぞ。
俺は、大いに脱力すると、肩を落として玄関へと向かった。
いや、なんかほんとに心の中のやる気メーターがギュンギュン落ちてくよ。
完全なスルトではない今の俺の中の、嘗てのスルトの嫌悪は結構薄れているし、俺も男だから女性に騒がれるのは嬉しいけどさぁ。
けど、悲しいかな、俺の精神年齢って二十歳超えてるんだよね。
いや、まぁ、ほら、時々第二次成長が早く始まって小学生とは思えない体格した子っているし、そう言うのなら外見だけは、ストライクゾーンギリギリ低め外れるくらいには育ってるけどさ、でも、ねぇ。
同級で一番背の高い幼馴染――悔しいが、今のスルトより遥かに背が高い――の姿を思い浮かべて、俺は大きく息を吐いた。
精神年齢的に完全にボールっつーか、大暴投だよね、小学校六年生って……。
せめて彼女らが中学三年生なら、精神年齢的にもギリギリアウト程度で済むんだが――俺は、そんな不純な事を考えながら、玄関で会話している母さんと幼馴染+招かれざる六人に物陰からこう口を開いた。
「……母さん、どうしたの?」
そう言って顔を出した俺に、一人を除く少女達のボルテージが、きゃいきゃいと跳ね上がる。
箸が転げても笑う年頃って言葉があるが、見た感じちょうどそんな風で、大きくて甲高いその声は正直俺の耳には痛すぎた。
「ルト、これ、学校のプリントだから……」
そして、そんな俺の不快感を感じ取ったのだろう……先頭にいた長身の少女はすまなそうにそう言うと、リストバンドを付けた手を伸ばして一塊のプリントを俺に差し出す。
……恐らくは、見舞いに付いてくると主張する、自称友人達に押し切られたのだろう。
「具合悪いのに煩くしてごめんね、その、わたし、すぐ帰るから」
そう言った少女の身の丈は、百五十九――本当はもうちょっとあるらしいけど、コンプレックスになっているらしくて、頑なに百五十九を主張している――程、流石に女性的なふくよかさと言う意味ではまだまだだったけれど、バランスよく筋肉の付いたそのラインには、猫科の肉食獣を思わせる優美さ精悍さがある。
目尻の下がった大きな目に嵌るトパーズ色の瞳に、カフェオレ色の肌を彩る銀灰色の髪……『向こう側』ではちょっとあり得ない、派手な色彩を纏う少女の顔は整った造作をしていて、パッと見とても華やかに見えた。
……尤も、そんな彼女のおどおどと宙を彷徨う視線は、少女が生まれ持った華やかさを完全に裏切っているんだが……。
俺は、大きな幼馴染が居心地悪げに身を縮込める様に、ハァと溜息を吐いた。
「……プリント届けろって、先生に頼まれたんだろ?
だったらマァハのせいじゃないよ」
そうして告げた俺の言葉に、少女はほっとした表情を顔に浮かべる。
外見派手目なお姉さんで、内面気弱な妹系――村長の娘兼スルトの幼馴染であるマァハ・クランはそんな少女だった。
ワンマンで迫力のある親の子供が萎縮するってのは良く聞く話だけど、彼女はまさにその典型で、その上村長、あれでかなり有能だったりするから、マァハは『父さんの言うとおりにしてれば間違いない』っつー感じのイエスガールに育ちましたとさ。
しかも、マァハの母親は、村長が外で惚れ込んで口説き落としてきた女性で、善い人ではあるのだけれどその派手な外見と有能さで村の女性陣からの受けは悪く、そんな母親と村長の外見的特徴を、派手さを増す方向で引き継いでしまった彼女は……。
マァハの自称友人達が、やんわりと――大人視点だと丸見えなのだが――彼女を押しのけようとする様を見て、俺は再び溜息を吐いた。
派手な外見を持ち、親は金持ち、本人は気弱で、告げ口すらしない、できない。
更には、その母親は嫌われ者の余所者で、年の半分は仕事で村の外に出ていて、帰ってこない。
そんな状況の結果として、マァハは女子の中で孤立していた。
色々と利用価値や攻撃時のリスクが高い人間なので、基本は無視して必要な時だけ集って毟り取る。
そして、そう言った自分達の行動が潔癖な少年に嫌悪感を与えていると気付いていない彼女らは、俺に媚びて自分達を遠ざけさせていると更にマァハを嫌って……そんなわけで、スルトにとってのマァハは、妹(みたいなもの)で、被保護者、そして、自分を縛る鎖であり、似た境遇にいる同胞と言った、とても複雑な存在だった。
まぁ、スルトがもっと巧く立ち回っていれば、俺も彼女ももう少しマシな状況にでき――いや、無理か、大人の道理が通じる存在なら、子供とは言わないもんな。
そんなわけで、マァハの自称・友人達と一緒にいるのは俺にとって苦痛だし、マァハにとっても針の筵の筈なんだが、どうしようかね。
どうにかして彼女らをやんわり追い返し、尚且つ、その皺寄せがマァハに行かないようにしたいんだが、そう巧くいくはずもないよなぁ。
どーせ、俺たちゃ今後かなりの間この村を離れるんだし、いっそマァハだけ残して他をおん出すか?
……今後もずっと、マァハと一緒に生きてく心算があるなら、それもいいんだろうけどなー。
気心は知れてるし、外見的にも申し分はない。
それも悪くないかな……なんて事をスルトですら思っていたマァハだけれど、でも、現状と今後を考えるに、彼女が更に俺べったりになるような選択は避けるべきだろう。
ザパンに行って、中学入って、周囲との関係性が一旦リセットされてしまえば、マァハみたいな美人はそれこそ引く手数多になるだろうから、きっと俺よかいい奴が見つかるだろうしな。
ま、マァハが変な奴に引っ掛かったら速攻で俺がぶち壊すけど。
うん、マァハのお相手ならレオリオみたいな奴がいいなぁ。
アイツはいいヤツだし、都合が良い事に医者志望でもある。
うまくアイツと知り合えたら、マァハに引き合わ……
「スルト、母さんはお茶を入れるから、お友達を居間にお通したら?」
……等と、半ば現実逃避気味にどうしようかと考えていた俺に、母さんがそう言葉をかけてきた。
困ってるのに気付いたのか、それとも、彼女達から挙動不審な俺の、ここ最近の様子でも聞きだしたいのか?
……まあ、心情的には色々アレだけど、ここは母さんの言葉に従ったほうがいいな。
あいつ等を追い返すのは簡単だし、何時ものスルトならそうするだろうけど、そしたらその皺寄せはマァハの方へ行く可能性が高い。
けれど、それが一旦ウチに上げてガス抜きをした後ならば、マァハに迷惑掛ける危険性は大幅に減少するし、それに、あの自称・友人一行を自分の部屋に入れるのは今の俺も絶対に嫌だったが、母さんが提案している客間であれば、まだ許容範囲だった。
「ん、わかっ……いや、お茶は俺が入れるから、母さんとマァハは皆の事をお願い」
俺は、それを了承しかけて、途中で首を横に振る。
「え、けどスルト……」
そして俺は、怪訝に首を傾げる母さんに『それくらい解るよ』と答え、さっさと皆に背を向けた。
「あ、棚の右端の茶葉、使っていいからね」
そして、俺の背中にそう声を掛ける母さんに、『 計 画 通 り 』と一人厭らしくほくそ笑む。
彼女達から『最近のスルト』を聞きだしたいなら、当の本人は居ない方がやりやすい。
自称友人達の案内も、俺がやればどうしてもマァハを優先するから、後で風当たりが強まる可能性もあるけど、それも母さんならそれほど鼻につかないだろう――それに、奴らも、母さんには色々聞きたい事があるだろうから、それほど不満は出ない筈。
で、俺は大手を振って来客用の茶葉に触れることができるってわけだ。
これで、八方丸く収まるな。
そんな事を考えながら、俺が台所へ向かって歩き出すと、背中の向こうから母さんの声と少女達の歓声――そして、追ってくる軽い足音が聞こえた。
「ん?」
なんだと思い振り返ると、皆から離れてマァハが一人、俺の後をついて来る。
「どうした、マァハ?」
怪訝に思ってそう尋ねると、マァハは視線を逸らすように少しだけ俯向いた。
「おばさんが、ルトを手伝ってくれって……」
あー、こう来たか、母さん。
ふと視線を感じ玄関の方を見ると、俺に目配せする母さんと、マァハに視線を向けている少女が二人ほど……。
全くの無意味にされてしまった気遣いに俺は溜息をついた。
「……けど、マァハもお茶なんか入れた事ないだろ?」
ウチの両親は子煩悩だけど、村長の所は過保護だ。
村長が、と言うよりは、その周囲の使用人達が、だが。
ワンマン且つ強健な村長とその妻は、兎の心臓を持つ愛娘にもう少し豪胆に、なんでも自分から動けるようになって欲しいと願っているのだが、その下の使用人達はそれとは逆の考えを持っていた。
なにせ、この村長であるダグ・クランと言う男は、この地方の実質的な専制君主である。
その怒りに触れることが怖い使用人達は、できるだけマァハに大人しくしていて欲しいのだ。
だからアイツは、自分の家の中では何もさせてもらえない。
そのせいか、マァハは酷く不器用で、実習系の授業では、よくその指に切り傷を作っていた。
母さんが、俺達をセットにしたがるのはわかるんだが、正直、いるだけ足手まといだと思う。
そもそも、お茶入れるのに二人も人間いらんしなー。
災い転じて福……と言ってしまってはマァハに悪いけど、それを理由に断ったほうが波風は立たないだろう。
「うん、けど、おばさんがお茶入れるのを、手伝った事はあるから」
だから…と、やんわり助力を断るつもりだった俺に、マァハは俯いたままそう答えた。
なるほど、母さんがマァハを気に入ってるのと同じ位、マァハも母さんに懐いているし、それに母さんはマァハが村長の娘だからといって萎縮するような性格はしていない。
見てないところでそう言った事があったと言われれば俺は納得する他ないし、だとしたら確かに、マァハに手伝ってもらえるのは助かる。
手先が不器用な上にあがり性で、ギャグみたいな失敗も多いマァハだが、記憶力なんかは低くない……つーか、むしろ俺よりずっと高い。
だから、彼女が母さんがお茶を入れた時手伝ったと言うのなら、道具の配置なんかはちゃんと覚えているはずなのだ。
「……なるほどね、俺はその辺り手伝ったりしないからな」
なるほど、俺がお茶をいれるとなると、その辺りを物色する所から始めなければならない。
後片付けをする母さんとしては、どこに何があるのか知っているマァハを、俺につけたくもなるだろう。
俺は一つ頷くと、行こうと仕草で示してからマァハに背を向けた。
後をついてくる、どこかほっとする気配を感じながら台所の扉を潜り、まずはテーブルの上に置き離していたタンブラーの中身を干す。
……ミルクティー向けの茶葉があればいいんだが……。
そして、そんな事を考えながら、俺は戸棚を眺めた。
「あ、ルト、これ……」
そんな俺にそう声を掛け、マァハが取り出そうとしたのは、五脚組みのティーカップと、それに合わせたサイズのティーポット。
ティーカップは自称友人達に廻すとして、それに俺と母さん、マァハの三人が加わった人数八人だから、二度淹れなければ量が足りんな。
「マァハ、棚の右端の茶葉って言うのは?」
「これ」
言葉少なに差し出す缶を開くと、中には白いティップス入りの茶葉が、かなりの量入っていた。
葉の縒りもかなり細かく、結構な高級品である事は間違いない。
……抽出時間は3~4分ってとこか。
んー、しかし、よくも母さん、こんな繊細な茶葉を何も知らん奴に飲ませる気になったな?
正直、高い茶は癖が強い事も多いし、味が繊細で飲みなれない奴にはその好さがわかりにくいものが多い。
ダージリンなんかは、その際たる例だ。
何を隠そう、俺もダージリンなら、セカンドやオータムナルより、味は薄めで香高いファストフラッシュの方が好きだしな。
かと言って、これは見た感じミルクティに使うような茶葉でもないしなぁ。
ティップス入ると、香が良くなる代わりに、味は繊細になるし。
他に何か茶葉はないかと、右端以外の棚を見ると……んー、CTCの茶葉があるな。
CTCというのは砕いて潰して丸めて加工した茶葉で、早く濃く味が出る。
そうだな、人数的にも季節的にも丁度いいだろう。
「なぁ、マァハ。スパイス入ってる所、知ってるか?」
「それは、ここ」
んー、基本は一通り揃ってるな。
んじゃ、シナモンシナモン、カルダモンー、と……。
俺は、即興の『マサラの歌』を歌いながら必要なスパイスを集めると、適当なサイズの鍋に水を張って火にかけた。
母さん自慢のシステムキッチンの、火力最大で一気に水を沸騰させる。
「え? ルト、なにしてるの?」
そして、そんな俺の姿に目を丸くしながらティーポットを指し示すマァハに、笑ってこういった。
「ああ、チャイを入れるんだ。
……普通にティーポットで淹れたんじゃ、一度に全員分は淹れられないだろ?」
マァハは、自信たっぷりに押し切られると弱い。
目を丸くしたまま沈黙するマァハを背に、俺は水が沸騰するのを待って火を弱火にし、中に茶葉を投入する。
「ルト、その茶葉……」
「うん、解ってる。
まぁ見てなって、紅茶の淹れ方ってのは一つじゃないんだ」
マサラマサラガラムマサラーと歌いながらも、俺はそう答えて鍋を睨んだ。
もう茶葉は充分開いてる――いや、CTCだけどな――試しにスプーンで一口すくうと、ストレートで飲むには濃いめの味が口の中に広がった。
ふむん、まぁこんなもんか?
俺は冷蔵庫を開いてミルクをお湯とほぼ同量加えると、弱火のまま微温った鍋の中身が再沸騰するのを待つ。
泡が立ち始めた辺りで蓋をして蒸らして、数分待った後で各ティーカップに茶漉しで茶葉をこしたチャイを……っ、しまったティーカップ暖めるの忘れてたッ!
まぁ、いいか、海原雄山にチャイを出すわけでもないしな。
俺は、五脚組みのティーカップと、俺と母さんと父さんとマァハのマグを取り出して、各々にチャイを注ぐと、最後の仕上げとばかりに上から香辛料を振った。
「……凄い」
そんな俺の背の向こう、ポツリとマァハが、そうこぼす。
よしッ、完成!
マァハの評価とは異なり完璧とは言いがたいチャイだが、飲めないほど不味くもなかろう。
そして、どうよ、と振り返る俺の視線を受けて、マァハは素直に、丸くしていていた目をおいしそうと細めた。
そんな彼女に俺は笑顔を返すと、トレイ二つに乗せたティーカップと小道具を二人で分け持つ。
・
・
・
茶道具を持った俺達が食堂を抜け居間の扉を開くと、部屋の中では、上座に当たる一人掛けの椅子に座った母さんを、両脇の長椅子に2・3に分かれた少女達が囲み、何かを話している最中だった。
母さんは、僕の近況を知りたがっている(だろう)から、なにか聞かれたくない話の最中かもしれない――そう思い、まず最初に部屋の中を伺った俺だが、一同の表情を見る限りそれは杞憂のようだった。
……まあ、母さんは色々ざっくりな人ではあるけど、別に馬鹿ってわけじゃあない。
そう言った話は、まだ湯が沸かないだろう早いうちに済ませているとも思っていたけれど、夢中になるとそう言う気遣いが抜けていくのが母さんだからな。
そう言った面は、俺も同じっつーか、俺のそう言うところは母さんに似た――って、なんかおかしいな。
視野狭窄の気はスルトも強く持っているけど、夢中になった忘れるのはむしろ、晴信の属性だ。
自分で言うのもなんだけど、俺には『目的の為なら手段を選ばず、手段の為に目的を忘れる(by某有名漫画の女神様)』ような所が……いや、いかんな、また忘れるところだった。
俺は、ふと自分の現状を思い出すと、背後で怪訝に首を傾げるマァハに振り返って苦笑を見せた。
……それに、折角入れたチャイなんだ、まだ熱い内に飲んで欲しいしな……。
僅かに開いた扉を音を立てぬよう一度戻すと、俺はノブから手を離した。
一度深呼吸、二・三度ノックしてから再び――今度は大きく――扉を開く。
「おまたせ」
俺はそう、言葉少なに告げると、母さんの対面のソファー前にまずトレイを置いた。
続いて俺の脇、二人座っているソファーの側に座るようマァハを促すと、目の前のテーブルに彼女の持っていた方のトレイを置かせる。
少女達が動き始める前に、客人用のティーカップが五つ載ったトレイを取り上げ、俺は再び立ち上がると、母さんを囲む配置についた自称・友人達の前にソーサーとカップとを配膳した。
次いで、自分達と母さんの席の前に、計三つの、日常使い用のマグカップを置く。
目の前に置かれたカップ――唐草模様が施された陶磁の器――に、少女達の体が一様に硬直した。
彼女達のチャイを淹れたカップは本来客人用……プリント模様の大量生産品ではあるけれど、れっきとしたボーンチャイナである。
この辺りでそんな器を当たり前のように使える子供なんざ、俺とマァハくらいしか居はしなかった。
少なくとも、置かれた器に萎縮している彼女らに、それを手に取ってこちらに寄せる事など、出来はしまい。
俺は、内心、クククと悪役笑いを浮かべながら自分の席に戻った。
とてもいい気分で自分用の、可愛らしい猫柄のマグを手に取る。
「ねぇ、スルト?
これ、右端の茶葉で入れたの?」
「いや、違うよ。
その隣にあった、CTCの茶葉を使ったんだ。
確か、オーキスリとか言う産地名が書いてあったけど」
マグを手に取り困ったような顔で尋ねる母さんに、俺はそう答えながら手にしたチャイに口をつけた。
いい茶葉だ―― 一口含んで、まず俺は思う。
チャイ独特の強いとろみと、牛乳、香辛料、紅茶そのものの甘みが入り混じった、なんとも言えない濃厚な甘さ。
まだ幼いせいか……或いは、根本的な肉体の出来が違うのか?
口の中で爆発する幾多の味と香に、俺は、ほうと息を吐いて口元を緩めた。
「へぇ、よくわかったわね、スルト」
どこか、セイロンの茶葉を思わせる味と香。
会心の1杯に目を細める俺を、母さんはどこか困惑した様な、感心した様な目で眺めながら、自分もチャイに口をつける。
「……美味しい」
戸惑ったような顔が驚きに、目を大きく見開いて母さんは言った。
「ちょっと、スルト!
これ、お茶に何入れたの?」
母さんに続いてチャイに口をつけたマァハも、驚いた顔で首をコクコクと縦に振る。
「……カルダモンとシナモン、後はグローヴとジンジャー、かな。
みんな母さんの持ってたスパイスだよ。
あ、けど、電脳ネットに上がってたレシピを見様見真似で再現しただけだから、香辛料の名前とかはここらでの呼ばれ方とは違うかも」
お茶入れてて何が嬉しいって、やっぱりこうやって美味しいって言って飲んでくれる時に勝るモノはないやね。
驚く母さんとマァハの姿に、俺の頬が緩むのが解った……って、俺なんか忘れているような?
ふと気付いて顔を上げると、母さんを中心に、自称友達の五人、そして、俺の傍らのマァハ――全員が全員、俺の方を見て唖然と口を開いていた。
「……どうかした、母さん? マァハ?」
そう問いかけると、二人はぱくんと口を閉じ、首をプルプルと横に振る。
「……スルト君がこんな風に笑ったのって、私、始めて見た」
「うん、私も……」
固まっている二人の周りで、残りの少女達が驚いた顔でそう言い合う……って、お前ら俺に聴こえてんぞ。
それに、母さんもマァハも、俺が笑ったのがそんなに意外なのか?
いや、そりゃあ、ここ数年、外に出る事だけ考えて、むすっとした顔ばっかりしてた気は自分でもしてるけどさ。
そんな思いが顔に出たのか、視線の先で母さんとマァハが慌ててその両手を振った。
つーか、こういう仕草って母さんそっくりなんだよな、マァハ。
まあ、本当の母さんよか、ウチの母さんと一緒にいる時間の方が長いし、仕方ないっちゃぁ仕方ないんだろうが。
「いや、スルトがそんなにお茶好きだったなんて、今の今まで知らなかったからね。
マァハちゃんも、そう思うでしょう?」
「うん、ルトがお茶入れるって言い出した時……ちょっと、びっくりした。
美味しいのも、ちょっと意外。
……ルトが自分から言い出した事だから、不味くはないだろうとは思ってたけど」
そう、親子のように似た仕草で顔を見合わせる二人に、少しばかり苦味を含んでいた俺の笑顔が、更に引き攣る。
いかん、晴信とは違ってスルトは紅茶趣味なんて持ってなかった事をすっかり忘れ……いや、正確に言えば、覚えてたけど忘れてた。
あんまり違和感ないから、ココが晴信にとって異郷だってことをさ。
ほら、あれだ、日本ならちょっと紅茶を知ってる人でも、チャイくらい普通に淹れられるだろ?
けど、この村では、チャイを知ってる人が俺以外に存在しているかどうかすら怪しい……そのギャップを、俺は忘れてたんだ。
しまったなぁ、普通にロイヤルミルクティーでも淹れておけば良かった。
「……前から、興味自体はあったんだよ。
電脳ネットで良く見るページの管理人が、紅茶好きな人だから。
このレシピも、そこで見たものなんだ。
ルスタ附中にも合格して少し余裕が出てきたし、いい機会だから、試してみようと思ってさ」
俺は、そんな言い訳を口にしながら、引き攣った笑顔を興味なさそな表情へと変えると、二人にそっぽを向いてみせた。
別に、母さんとマァハに美味しい紅茶を飲ませてやろうなんて、その、ちょっとは思ったけどさ……。
そして俺は、そっぽを向いたまま立ち上がると、空になったお盆の片方を手に取る。
「父さんの分も淹れたから、病院のほうに届けてくるよ。
……そろそろ、診療時間も終わる頃だから」
そう言って背を向けた、俺の視界の隅で、母さんとマァハが顔を見合わせてクスリと笑った。
俺は、ちょっとだけ熱くなった頬を意識しながら台所へと歩き出す。
……母さんもマァハも、何がおかしいんだよ。
今度は、マァハも着いて来なかったので俺は一人、背中の向こうから届くきゃいきゃいと姦しい囀りを聞きながら、台所まで歩いていった。
耳に届く少女達+1の声の中には、珍しくマァハの物も混じっていて、それは俺にとって喜ばしいこと……のはずなんだが、それを聞いていると心の奥底から湧きあがってくる、この奇妙な敗北感はなんなのだろう。
やりきれない思いを噛み締めながら、俺は蓋をしたまま父さんのカップをトレーに乗せると、廊下を経て診療所へと続く扉を開いた。
入った事務室兼受付から待合室を除いてみると、やはり、と言うべきか、そこにはもう患者はいない。
扉の前で耳を澄まして、診察室に父さん以外誰もいないことを確認してから、その扉をノックした。
「父さん、開けるよ?」
「……ああ」
返ってきた返事に扉を開けると、そこでは父さんが一人、カルテの整理をしていた。
普段は、母さんがそう言った作業をしているのだけれど、今日はその母さんが途中で抜けたから、父さんが診療終了後にやっているらしい。
「紅茶入れたから、持ってきた。
それから、手伝う事があったら言って……」
そう言ってカップを置くと、父さんは驚いたように目を見開いて俺の顔を見上げた。
やっぱり、スルトがそう言う事をするのはおかしいんだろうか?
……おかしいんだろうな、やっぱり。
ここまで違和感なく二つの記憶が交じり合っている事でわかるとおり、晴信とスルトの嗜好には似通ってる部分が多い。
だから、一人暮らしを始めたら、遅かれ早かれ何らかのソフトドリンクにはまってたと思うけどなー。
尤も、こっちの俺には色んな意味で余裕がなさ過ぎたから、今まではその片鱗も外に出していなかったわけではあるし、まぁ仕方ない事なんだが……。
「…………」
……なんだが、そう頭では理解出来ていても、やはり感情的には少し、ねぇ。
そんなもやもやが表情に表れたのか、俺を見上げる父さんの顔が微かな苦笑を浮かべた。
「お茶はもらおう……だが、手伝いのほうは、いい。
たいした仕事も残っていないし、これでも一応、医者の義務と言うものもあるからな……」
そして俺に、そう答える。
……ヒポクラテスの誓いか、こっちにもあるんだな。
尤も、母さんにカルテの整理を任せてる時点で、片手落ちって気がしないでも無いが……そもそも俺の場合、中身は兎も角、肉体的には小学生の餓鬼なわけで、確かにそう言った事を任せられるはずもなかった。
それに、やらせても問題ない掃除やらの雑事は、朝、通いの人にやってもらってるから、今手伝わせる事もないのだろう。
まぁ、ダメ元で言ったから、断られてどうこうって事も無いんだが、何か言いつけて欲しかったなー。
なにか、こっちで時間を潰す大義名分になるようなことを……。
そんな事を考えながら佇む俺を、感想待ちと解したのか?
父さんは俺を見上げていた目を、カップへと落とした。
無言のままに蓋を取り置き、開いた手で取っ手を掴むと、中のチャイを口へと運ぶ。
俺としては、少しでもこっちで時間を潰そうと、ただそう考えただけなんだが、父さんがそう解釈してくれたのは好都合だ。
感想待ちの精神的姿勢で、俺は父さんの姿をちょっとだけ緊張気味に眺める。
そんな俺の目の前で、父さんの目元・口元が綻び、俺は思わず、ィヨッシャァッ!と、内心雄叫びを上げた。
余り激しい反応を見せれば父さんもいぶかしむだろうと、感情を面に出すのだけはなんとか堪えたが、思わず手の中のトレイをキュッと抱きしめてしまったのは、ご愛嬌――愛嬌で済むよね、そのくらい、多分、きっと……。
ウチの父さんは、俺や母さんとは違ってかなり冷静沈着な人だから、こう、思わず笑ってしまったなんて表情は、かなりの貴重品だ。
息子が入れてくれたお茶だから……ってのはあるだろうけど、少なくとも父さんの口には合ったんだろう。
まあ、結構品の良さそうな茶葉に、あれだけ美味い牛乳を合わせ、基本をちゃんと抑えて入れたんだから、不味くなりようはないんだが。
「……チャイを飲むのは随分久しぶりだが、美味しく入っている」
そして、そう感想を述べる父さんに、俺の目は、ちょっとだけ大きくなった。
「へぇ……。
母さんもマァハも知らなかったからから、マイナな入れ方だったんだ…って思ってたけど、父さんにわかるならそうでもないのかな?」
「……二人が知らないのも無理は無い、ずっとこの村に住んでいたのではな。
母さんは村の外に住んでいた事もあるが、あの頃の母さんは、別に紅茶趣味と言うわけでもなかったからな。
父さんが知っていたのも、ほとんど偶然……だからこれは、あまりポピュラーな入れ方とはいえないだろうな。
スルトは電脳ネットで入れ方を見たのか?」
珍しく饒舌な父さんに、俺はうんと頷いた。
「……まぁね。
暇つぶしにネットを見ていたら、なんだか目に付いちゃってさ」
実際、宙に浮いた時間つぶしには苦慮したからな。
それを記述したページが存在しない事を除けば、別に嘘は無い。
そんな俺の言葉に、父さんはもう一口のチャイを口に含み、ふむと頷いた。
「本当に、美味しく入っている。
……久しぶりにこれを飲むと、学生時代を思い出すな。
昔、父さんが通っていた大学の近くには、チャイが美味い喫茶店があってな……」
そんな事を珍しく口にする父さんに、俺は診察台に座って話を聞く姿勢に入る。
父さんには悪いが、丁度いい暇つぶし兼、こっちの世界の生の情報だ。
「それで、どうしたの?」
そう先を促した俺に、父さんは怪訝そうに……かすかに眉を潜めた。
「いや、それだけだが……」
そう言って、ふむん…と一人納得したように頷くと、俺に患者用の椅子へ座るよう促す。
「そうだな、ついでだからお前の事も見ておこう。
……ああ、背中のほうだけでいい」
そして、そう続けた父さんに、俺はシャツを脱いで背中を向けた。
スルスルと包帯を解くと、未だ開いたままの傷がひんやりとした空気に触れる。
冬の寒い日に、冷え切った剃刀を肌に当てたような――そんな震えを誘う――感触。
だがその感触は同時、俺の背の傷口が完全に滑り無く、乾ききっている事も感じさせた。
そんな傷口の周りに、父さんが手を触れる。
「血は完全に止まっているようだが……」
思わず…と言う様に父さんはそう呟いて、言葉を止める。
単純に傷の事を考えているのか、それとも俺に話すのは拙いと判断したのか?
俺は、背中に触れる父さんの手を意識しながら、そんな事を考える。
「……見れば見るほど奇妙な傷口だな、これは」
そんな沈黙に、俺の不安を感じたのだろう、父さんはそう言って、傷口から手を離した。
「化膿の心配はなさそうだ。
それに、ちゃんと抑えておけば、これ以上傷口が広がる事も無いだろう」
「でも、どの位で治るかは判らない?」
そう言いながら、手馴れた様子で包帯を巻きつける父さんに、俺はそう問いかける。
俺の言葉に父さんは一瞬黙って、けれどすぐに、黙っていても仕方ないと思い直したようだった
「……そうだな、見れば見るほど奇妙な傷だよ、これは。
切れ味のいい刃物等による創傷では、傷口が開いてから血が出てくるまでに間が空く場合があるが、これはまるで、その途中のようだ。
傷口が開いてからもう二日近く経つ筈なんだが、血や組織液の滲みも無ければ、肉色の変色も無い。
お前に大事無いから善い様なものの、一体、どこをどうすればこのような傷がつけられるものなのか……」
勿論、俺には心当たりがあるのだけれど、なにもしらないだろう父さんに、今そんな事を言っても心配させるだけで意味は無い。
俺は、包帯を巻き終えた体にシャツを羽織って、無言のまま立ち上がった。
「……ありがとう、父さん。
それから、仕事中に手間を取らせて、ごめん」
「いや、お前の診察は確かに必要な事だ。
それに、父さんも懐かしいものが飲めた」
最後にそう言い、診療室の戸に手を掛けた俺に、父さんは気にするなと言うようにそう答える。
「……それに、親としては不出来な俺だが、息子の逃げ場所くらいにはなってやれるからな」
そして、父さんは苦笑しながら窓の外へと視線を向けると、最後にそう付け加えたのだった。