作業台兼、食事台兼、物置兼……であったテーブルを綺麗に片付けた―――約十人掛け用の―――場所に、五人の人物が、腰を下ろしていた。
食卓にはそれぞれ、各人に行き渡る様に配置された、五つの湯呑みと、同じく、五枚の小皿。
黒茶色の木製である湯呑みからは、豊かな大地の香りが感じられる、深い緑を称えた液体が。
宇治とは名ばかりの、他から輸入し、その地で加工されているだけでその名が付いた数々の雑多な緑茶などではなく、きちんとその土地で育ち収穫された、通常のものより数倍の値の張る茶葉を使用したものが次がれ。
小皿には黒真珠を思わせる光沢を放つ、小豆を加工して作られた、長方形の甘味が二切れ。
飲み物と同色の、神代の森を連想させる緑が着色された、濡れる様な輝きを魅せる皿に盛られており、小脇に置かれたクロモジの楊枝が、黒と緑の彩りに、花を添えていた。
早い話、緑茶と羊羹である。
いずれも一般人がおいそれとは手……どころか、目にする事すら無い品々ではあるものの、悲しいかな、それらに口をつけるものは、過半数に届かなかった。
嵐の前の静けさとも、一触即発の危険地帯とも……。呼び方は、如何様にもあるだろう。
一人は、この場の主にして、この場の誰よりも立場が上であろう、八意永琳。
深く目を閉じ、ゆっくりと呼吸を整えながら、その整った顔立ちを若干歪め、眉間に皺を寄せている。
一人は、月の頭脳の教え子の内の一人であり、近年、政治方面にてその手腕を発揮している、綿月豊姫。
目尻を下げて何かに困っている表情で、目を見開く事は無く、場の成り行きを見守っている。
流れるような自然な動作で場の空気を全く乱すこと無く、クロモジで作られた楊枝を使い、口元に茶菓子を運びながら。
一人は、同じく月の頭脳の教え子の一人であり、持ち前の能力も相まって、軍部にて目覚しい活躍を上げている、綿月依姫。
この場に居る誰よりも、その表情を苦悶に歪め、隠し切れない不安と不満の空気が辺りに漏れ出している。
それらの人物の対面。
一人は全身を青い衣で着飾った、異界より呼ばれし、次元を渡る者、【ジェイス・ベレレン】。
頭をすっぽりとフード覆い隠し、口元だけしかその表情は確認出来ないものの、何を気にする風でもなく、ただそこに腰掛けて、時間を潰している様子が伺える。
ただそこに居るだけだというのに、彼からこぼれ出る無限の魔力の残滓が、若干ピリピリとした空気を作り出していた。
豊姫と同じく、手元に置かれている羊羹を口に運び、それを満足そうに咀嚼しているのは、氷山を思わせる雰囲気を常日頃から纏っている―――彼を良く知る者が見たのなら、目を見開いて凝視していたであろう。
そして―――。
「―――と、いう訳で、殺気に対抗するべく、こっちはあなた方……綿月さん達や、永琳さんの意識を刈り取った……って流れになった訳で……はい……」
語尾がどこぞの北国に暮らす人々を描いた番組のナレーションっぽくなっているのにも気づかないくらいに、色んな気持ちが入り乱れテンパっているワタクシこと、九十九であった。
「―――そう。やっと合点がいった。……と、言えばいいのかしら……ね」
永琳さんが、今までで最も大きな溜め息をついた。
長年解の出なかった問いが氷解したは良いものの、それが喜ばしくない答えでした。って心境なんだろうか。
『まっくもう』とか幻聴が聞こえてきそうな様子で、小さくかぶりを振る彼女に、その隣に居た依姫の肩が、びくりと震える。
原因が自身の殺気であるという事を指摘され、たじろぎ→萎縮→物置、の三段移行変形されたようで。
先程から肩身を狭く、小さくなっていたというのに、今の台詞でさらに萎縮してしまっているのは、これでは遠からず、小さくなり過ぎて消滅してしまうのではないかと思えてしまう。
ただ空気が抜けていくのを待つだけの風船のような、その辺に投げ捨てられ、風化を待つだけの玩具的な何かと化していた。
それを何とも言えない視線で眺める、彼女の姉は……ふむ。可哀想な&楽しそうな……そう、いじめっ子気質な瞳を向けている。と、俺には見て取れるんだが、どう判断したら良いのだろう。
(あれ。そういえば、あの二人の情報って、断片的なものしか……)
一通りの情報―――戦闘能力とか思考パターンなどは大体頭に入っているのだが、細かい性格や、何を是とし、何を非とするのか、などの基準が殆ど分からない。
……というか、詳細に関する記述って、何かの作品でやっていただろうか。
(姉が桃好きで……妹が星好きだっけ?)
前者は木に実った桃欲しさに、二階から手を伸ばし転落していた……ような? 後者は某白黒魔女のスター系シリーズの魔法で出てきたお星様を齧っていたような?
なんでこう、食べ物に関しての記憶しか残っていないんだろうか。しかも疑問系。
役に立たない訳じゃあないが、返って微妙な情報のせいで、混乱してしまいそうだ。
(う~む……。ただ、何にせよ……)
場が場だけに凝視する事は出来ないが、永琳さんと同じく、チラっと見ただけでも、とんでもないレベルの美人さんだってのは良く分かる。
綿月豊姫。
赤い大きなリボンがアクセントになっている、真っ白な帽子を被っているのが特徴的な、薄い金髪をした女性。八意永琳の……甥の……いや、ひ孫……いやいや、妹……? とりあえず、親戚の類……だった筈だ。
『海と山を繋ぐ』程度の能力を保持し、その戦闘能力は、未知数。というか、能力が具体的にどんなものなのだか、イマイチ記憶していない。
ただ、いずれは森を一瞬で素粒子化させる武器を所持し、ある程度の空間を、自由に操作出来る力を持っていた筈。
性格は温厚……に部類しても良いだろう。
平時は、ひたすらマイペースなのほほん空間、とでも呼べる空気を展開していた気がする。
しかし非常時には、あの妖怪の賢者、八雲紫を手玉に取れるだけの立ち回りを演じていた。
暖かな雰囲気を信じきるのは、得策ではないと仮定しておこう。
そして、その妹である、綿月依姫。
祇園様やら愛宕様やら神々の力を借り受け、行使する―――『神霊の依代となる』程度の能力を持つ、最高クラスのイタコさん。
多岐に渡りその能力を遺憾なく発揮させて、地球側からの侵略に備え、玉兎達の育成に力を入れていたんだったか。
薄紫の髪は朝露に濡れた紫陽花を彷彿とさせ、剣の切っ先のような空気を纏わせて(こっちにだけ)、チラチラと鞘から刀身を覗かせる、一本の刀のような印象を受けた。
そして……確か……彼女は……。
「人妻属性あるんだっけ?」
「……は?」
微生物クラスの小ささにまでなりそうであった依姫が、律儀にも、こちらの言葉に反応し、疑問の声を上げる。
……参ったな。要らんトコだけ口スピーカーのスイッチがONになってしまった。
「いえ、気にしないで下さいホント。スルーでお願いします」
「……?」
状況が飲み込めないようで―――飲み込まれても困るが―――憮然とした表情をしながらも、こちらの発言をスルーしてくれました。セフセフ。
(……でも、まぁ、それを考えると、諏訪子さんだって、人妻属性だったしなぁ)
―――あの諏訪子さんに、旦那が居る。
僅かな年数しか共に居なかったが、それらしい話は、とんと耳にしたことが無い。
(……じゃあ何か? これからお見合いなり祝杯なり……同衾なりするってことなのか?)
濃縮された重油でも及びも付かない。粘度の枠を超え、硬度の域に達した液体の如き黒い感情が体中を駆け巡る。
……しかし、それは、俺が口を挟むような事じゃあ無い。
当人同士が―――なんて気持ちは全く無いが、少なくとも諏訪子さんが心から望んだのであったのなら、そういった流れも、致し方ない……の……だろう……が……。
(……いや待てよ。それは史実の話であって、東方キャラに当てはまるのか、って聞かれたら、違うんじゃね? って言えるぞ)
それを言い出すなら、突込み所満載過ぎて、荷崩れどころか雪崩れやら津波でも起こしそうなキャラ達が、わんさか居るのだ。
詳細な諸々は当初の考え通り、参考にしこそすれ、信じきるのはやめておこう。と、改めて認識する。
―――と、言うか、だ。
「あの……永琳さん……」
「? どうしたの? 何処かまだ、痛むところが?」
「疲労はそこそこ溜まってますが、痛いとか、それらしい感覚はありません。それで、ですね……」
このままスルーして物事が進みそうなのは、彼女達のKYスキルの高さが成せる技なのか。はたまた、永琳さんの纏った空気に萎縮してしまっている為なのか。あるいは全部か。
「一応、これで、こっちの説明は大体終わったんですが……」
永琳さんの時もそうだった。
だから、今回も、それを実行しよう。
人間、初めての顔合わせの時にする事と言えば。
「そちらのお二人……どちら様でしょうか?」
はたと、今までの空気が一気に四散してしまったのが分かる。
永琳さんと依姫の目が大きく見開かれ、いつの間にやら羊羹を平らげた豊姫は、ぽやぽやとした印象で、小口で『あ』の字を形作っていた。
俺が喋っていた事は、ジェイスが綿月姉妹と永琳さんを昏倒させた経緯と理由だけであって、ジェイス自身の紹介や、彼女達の挨拶は交えていない。
一応、彼女達とは初対面なのだ。
知っていたとはいえ―――いや、知っているからこそ、相手を理解する為には、何事にも取っ掛かりは大事だろう。
「私ったら、また自分中心で……」
「い、いえ! 永琳様に非はありません! 全ては私の思慮の浅さが招いた結果であって―――」
ぬ。このままだと、非礼の侘びやら謝罪の嵐が、食卓を行き交う羽目になりそうです。
「永琳様。まずは、彼の期待に答える為にも……自己紹介。してしまいませんか?」
「……そうね。まずは、そこからよね」
ぽやぽやさん(失礼)がフォローして、どうにか事態が動き出す。
いやいや、見掛けに騙されるな、俺。
伊達に、月の頭脳と師弟関係を結んじゃいない筈だぞ。めっちゃ頭良い人の筈なんだ。うん。
「じゃあまずは私から。―――技術研究、学問探求、地上の調査や監視……挙げてみたらキリが無いんだけれど……。この地で様々な役に就いています。八意永琳です」
当然ながら、既に面識のある俺にではなく、隣で“我関せず”を貫いていたジェイスに向かって、挨拶をした。
しゃんと伸ばした背筋で、淀みなく紡がれた言葉に、それを言われた青きPWは、息を呑んでいた。
自然な態度、硬すぎず、柔らか過ぎない口調。そんなただの自己紹介だというのに、こう、胸に迫るものがあるのは、彼女がただの一般人でない事を裏付ける印象であった。
それに何かしらを感じ取ったのか、やや動揺するジェイス。少し彼の以外な一面を見れた気がして、『へぇ』と内心で感心の声を上げた。
「じゃあ、次は私ね」
永琳さんの横。
成り行きを見守っていた綿月の姉が、動いた。
お茶を一口。唇を湿らせて、柔らかな笑顔を浮かべる。
「主に行政方面の職に就いています。綿月豊姫、と申します。―――初めまして。地上から来られた方々」
にこりと暖かな表情を作り、こちらの顔までほにゃんとした気分にさせてくれる。
ただそれは、ジェイスには効果が無かったようで、永琳さんに挨拶される前の、無関心状態に戻ってしまっていた。
この手の事では、もはや動揺など無い、とても言いたげな態度だ。
それに対して、豊姫はさして気にした風もなく、自己紹介を終えた。
何だかなー。彼の事情はそれなりには把握しているので、あの態度も納得っちゃ納得なのだが、それにしたって……もっとこう……。
(……ジェイスってさ)
念話で、ぼそりと。
ただ漠然と、他意の全くない疑問を、彼に囁いた。
(結構、人見知りする性質?)
途端、彼は口に含んでいた液体を、若干吹き出―――す事は無かったが、どこぞ変な場所にでも入ったのか、軽く咳き込み始めた。
ずっと冷たい威圧感バリバリで居座っていた身長2メートルの巨漢が急に咳をし始めた事によって、月側陣営がビクリと体を震わせた。
ぬぅ、唐突過ぎたか。
それに彼の場合、人見知りなどというレベルではなく、人間不信であったのだった。
幼い頃から誰よりも精神感応者として、その稀有な才能を持て余していた、【ジェイス・ベレレン】。
それ故に、無着色であった彼の心には、様々な欲望渦巻く者達の内面を見て、所々に暗い色が付いてしまったり、周りの者―――両親すらも、彼の在り方を疎ましく思い、拒絶に近い手段を取られてしまった。
当然だ。誰だって、自分が思っている事を読まれるのは、好ましくない。むしろ、嫌悪の対象でしかないだろう。
ならば俺はどうなんだ、と問われれば、安直に言葉にするのなら、“諦めた”の一言で片が付く。
『彼なら仕方ないよね』と思える土台が、既に、俺の中では出来上がっていたのだ。……具体的には、東方地霊殿のキャラである、サトリ妖怪が登場した辺りで。
『あなたっ! 何考えてるんですか!』とか、顔を朱色に染め上げさせてみたり。『この、駄犬―――』とか、絶対零度の蔑みをさせてみたり。
思うよね? 思ったよね? ……共感出来なかった方はスルーでおながいしあす(ペコリッ)。
それに何より、彼は男。そして、俺も男。
……後はまぁ、察して下さい、みたいな。
(すまんかった。以後気をつけます)
友人に謝るような軽さで、謝罪の言葉を送る。
―――だって、彼、超睨んでますからね(汗
目の部分にだけ影が入り、そこから爛々と輝く眼光だけが覗いているのだ。軽めに伝えておかないと……逆に重い謝罪の言葉を口にしたのなら、その重みで、どんどんと、どつぼにハマっていきそうな気がした。形無き底なし沼を発見した気分である。
(睨まれるだけで意識が遠のくってのは、そうそう経験出来るもんじゃないね。……こっちに来てからは結構多いけど)
周りの誰からも疎まれたレベルのトラウマを、『シャイな性格なんですね』レベルにまで貶めた言葉は、流石のジェイスも不意打ちだったのだろう。
一瞬の混乱は見せたものの、魔法でも使って何かされそうな勢いだったのだが―――その中に少しだけ、彼の心の暖かを、垣間見た気がした。
―――俺が彼に示せるものは、偽りの無い、素の自分のみ。
ある程度の節度は当然だとして、よそよそしい間柄よりも、それなりに毒を吐ける間柄になりたいと―――そうでありたいと願っている。
これは、それの第一歩。
たった数時間しか接していないけれど。安直な言葉になってしまうが、彼がとても良い人だ、というのは実感出来た。
口数も少なく、表情も乏しく、それでも相手へ一定の節度を以って接する彼に、俺は惹かれ、友人になりたいと思った。
それが彼にも伝わったのか、たどたどしくも、何処か一定の気持ちを寄せて来てくれているのが分かる。
これが呼び出した直後だったのならば、問答無用で昏倒させられていた事だろう。
だが今は、真剣に怒りながらも、何処か恥ずかしさを誤魔化すような仕草をするのだ。
少し不服そうな顔をして、再び寡黙な態度に戻ろうとするものの。……ちょっとだけ、彼を見る月陣営の目線が、暖かくなった気がする。
「では、次は私だな」
先程まで萎縮していた姿は何処へやら。
剣の先を突きつけられているかのような視線が、体中(俺だけ)に刺さるのが分かる。
こちらに来た頃の俺ならば、それだけで顔色を青くしていたであろう……いや。意識を失っていた眼力も、諏訪子さんや神奈子さんに鍛えられた……鍛えられたっけか……? ん”ん”ッ……鍛えられた事で、そこまで気にするものでは無くなっている。
「主に治安、防衛方面の職を担当している。綿月依姫だ。名前から分かるかと思うが、私と姉上は、姉妹だ」
今の彼女の背景に貼り付ける効果音があるとするのなら、デカデカと、ギンッ!! なんて表示されている事だろう。
ゲイザーやらメデューサに勝るとも劣らない眼力? にも大分慣れた筈だと言うのに、段々と息苦しくなって来ているのは結構勘弁願いたい。
……あれ、これって自己紹介だよね? 冷や汗が止まらないですが。何で俺、威圧のレベルを通り越しそうな視線向けられてるんだろう。
―――と、そんなこちらの状況を察知してくれたようで、ジェイスが再び、何かの魔法を行使するかのように、その片手を持ち上げた。
彼の口元は、横一文字。
ただ淡々と役割をこなすだけの―――冷血とも例えられそうな機械へと、豹変してしまったかのようだ。
ただ、その、使おうとしていた精神魔法は、完遂する事は無い。
「―――依姫」
ビクリと、名を呼ばれた彼女の肩が震える。
呼び掛けを行った声の主、綿月豊姫は、怒りとも取れれる感情を込めた瞳を、名を呼んだ者に対して向けていた。
そこに、数瞬前までの朗らかな微笑を浮かべる女性は居なかった。
今居るのは、瞳の奥に不動の何かが透けて見える、月の為政者としての顔である。
(うっへ、やっぱこんな顔も出来るのか……極力怒らせないようにしよっと)
まるで先程にまで時間が巻き戻ってしまったかのように、依姫は再びその肩を落とし、背を曲げ、小さくなってしまった。
敵意が無い、と判断したのだろう。ジェイスも再びその手を下へと下げ、事の成り行きを見守る姿勢をとった。
それを見ていた永琳さんは、興味深いという風に、彼女達のやり取りに耳を傾け始める。
「……はぁ。依姫ちゃん、まだこの方達の事が気にいらないの?」
出来の悪い子をあやす様な口調で。けれど、二度とそんな態度は御免被るとでも言う風に。
「いえ……その……」
口篭る依姫を目にし、もう一度、その姉が溜め息をつきながら、こちらへと顔を向けて来た。
「申し訳ありません、ジェイス様。九十九さん。この子は、あなた方が永琳様と一緒に暮らしている事に、我慢がならないようなのです」
嫉妬。
依姫が抱えている感情は、多分、それ。俺はそう判断した。
知識の中の彼女と現状を照らし合わせて導き出された結論だが、当たらずとも遠からずな答えである、と思う。
しかし、今の豊姫が言った台詞で注目すべき箇所は、そこではない。
(ジェイス“様”に、九十九“さん”……ねぇ……)
いやまぁ、当然っちゃ当然ですけどね。
仮に俺が彼女達の立場になっていたのなら、その力関係は豊姫が言ったとおりの立場である、と考えるだろう。
(そういや、ジェイスは俺が呼びましたって説明は、まだしてなかったなぁ)
そうだそうだ。それを言っていなかったから、彼女はそう判断したのだろう。そこを理解してくれれば、俺への対応ももっと、こう、羨望とか驚愕とか『キャー、ツクモさん、スゴーイ』とか、そういった素敵な色が混じる事だろう。
ふふふ、いやぁ今日は暑いねぇ。何かこう、心からしょっぱい汗がちょろちょろ流れて来ましたよ。……汗は元々しょっぱいよなぁ。
「……九十九さん、どうかした?」
俺の様子に疑問を覚えたようで、永琳さんが心配そうに声を掛けて来てくれた。
「ああ……当然の流れかなぁ、と思いまして」
答えになっていない答えに対して、彼女は小さく首を傾げた。
その仕草は見とれてしまうレベルものだが、今はスルーしておいて下さい。と、声にならない願いを胸に。
「じゃあ、次はこっちの番ですかね」
とりあえず話を進めよう。
既に彼と俺とのランクが決まってしまっているのは、仕方の無い事なのだ。と、諦める事にした。
(ジェイス、自己紹介とかって出来る?)
チラと彼を見てみれば、しばらく俯き思考を巡らせた後、再び顔を上げて―――。
「あら」
「まぁ」
「なっ」
月の者達が、それぞれの声を発した。
(ジェイス、何やったの?)
この反応は、彼が何かしたからだろう、と当たりをつけて、訊ねてみれば、『自己紹介をした』と、簡潔な返答が戻って来た。
何でも、簡単な自己紹介文を、相手の頭の中に送り込んだのだそうだ。
いまいち分かり難いと思ったんだが、その意図を汲んでくれて、彼女達にした事を、俺に対してもしてくれた。
(おお。……なるほど……これは……うん……凄いな……)
ジェイスという名と、魔法を使う、としか書かれていない紙が、既に頭の中にあり、それを見ながら情報を得ている感覚だった。
メールというか、説明書を読んできる気分である。
「……ジェイスさん、でしたね。さぞ名のある―――魔法使いだとお見受けしましたが、専攻は、精神・心理辺りを?」
無限の魔力を有し、神とすら呼ばれる一面を持つ魔法使い―――プレインズウォーカーに専攻を訊ねる、月の頭脳がここに一人。
彼女にしてみれば、魔法も、学問の一種なのかもしれない。
しかし、その疑問に彼は答えない。
一秒、二秒と沈黙が続き、ジェイスが何も返してくれないであろう様子に、永琳さんは眉を顰めた。
「……少し、込み入った事情があるみたいですね。ごめんなさい。変な事を聞いて」
けれど、これといって気分を害する事は無かったようで、彼女は謝罪の言葉を口にして、質問を切り上げた。
……拒絶に近い態度をしている彼と、少し前までそれなりに親しく世間話までしていた俺にとっては、今の彼と、先程までの彼のイメージが、結びつかない。
一体どうして、ここまで頑ななジェイスと話す事が出来ていたのかは疑問は尽きないが、今は、自己紹介が済んでいない最後の一人として、チャッチャと終えてしまう事にしよう。
一瞬、男と女の席だから合コン的なノリで。との雑念が頭を過ぎったけれど、場違いも甚だしく、そもそも合コンなんて素敵イベントは一度として経験した事がないのを思い出し、その考えを切って捨てた。
「最後は俺ですね。……えっ、と……地上から来た、九十九です。鳥とか温泉とか料理とか出せます」
後、ジェイスとか。
そう最後に付け加えたのだが、あまりにさらっと言い過ぎたせいか、数秒の間、彼女達の反応は、ただ耳を傾けているだけのものでしかなかったのだが―――。
「……え? ジェイス様を?」
「……む? この御仁を、お前が?」
「……あら? 彼って、九十九さんが……出した……え……?」
いっそ、大声でも出して驚いてくれたのなら、幾らか気分は良かったのだけれど。
しかし彼女達は、俺の発言に色々と思うところがあるようで、皆が皆、真剣な顔をして―――あの豊姫まで―――それぞれの考えに耽り始めてしまった。
(お~い……リアクション薄いよー……。寂しいっつかー、悲しいっつーか……むしろ怖いですよぉー……)
態度にこそ出さないが、内心で、よよよと俺は崩れ落ちた。
ノリ悪いッス。驚かせ甲斐無いッス。マジ不満ッス。そして空気が重くて怖いッス。略してオモコワ。
そのまま数秒。
じわりと浮かんだ汗が、肌を伝うほどに大粒になろうか、という矢先。
何とも言えない沈黙が支配する空気の中で、やっと発せられた一言が。
「……そう。……九十九さんって、凄いのね」
温度の全く感じられない―――絶対、言葉通りの気持ちが篭っていないであろう、八意永琳さんのお言葉でございました。
信じられない。
言葉に纏めるのなら、その一言で済む。
地上には様々な者が居る……というは、今更語るまでも無い、周知の事実。
大地を創造した者や、生きとし生けるもの全ての霊魂を管理する者。数多の感情を司っていたり、運命を示す者であったり。
それこそ八百万の超越者―――神と部類される、その者達は、そのカテゴリに見合うだけの力を持っていた。
―――私の前に居る存在は、そんな者達のうちの一人。
一体何の神なのかは分からないが、私達姉妹や、永琳様を昏倒させ、その永琳様の質問である、『精神、心理』との言葉から推測するに、心を司る神なのではないか。と、考えられられよう。
あの永琳様の意識を奪った力は、絶大の一言に尽きる。
幾ら不意打ちとはいえ、ここ月の都市でも、三本の指に入る実力を有しているあの方を、気絶させる寸前まで追い込んでいるのだ。
それだけも充分に驚嘆に値するというのに、それを短時間で、なおかつ、複数の対象―――私や姉上にも、影響を与えている。
恐らく地上の神々でも、このような事が出来る存在など、まず居ないだろう。
驚愕である。驚嘆である。脅威である。
そう思い、彼―――【ジェイス・ベレレン】の存在に、どう対応していこうかと悩んでいた矢先―――。
(“これ”が―――ジェイスを召喚した……だと……?)
青き者の隣。
淡々と出来る事を語り終えた地上人―――九十九が、その言葉の最後に、とんでもない事実を上乗せして来たのだ。
彼が出来る事。それは、様々なモノの召喚だという。現在、永琳様が執筆中の資料には、そう書かれていた。
【ダークスティール】という、“殆ど”欠損しない、漆黒の物質。
【極楽鳥】という、鮮やかな炎の色の、小型鳥。
【ジャンドールの鞍袋】という、煌びやかな袋。一切原理の解明出来ない、食材を主とした物質召喚装置。
名は知らぬが、同様の能力を使って死の大地と化した月面を、懇々と湯水の湧き出る場へと変貌させていた。
ざっと目を通したのはそれぐらいだったが、【ジャンドールの鞍袋】は除くとしても、それ以外はまだ、理解の範囲が及ぶところではあったのだ。
しかし、この【ジェイス・ベレレン】という、神の召喚。
―――とても、少し変わった能力を持っているだけの地上人が、行えるものではない。
……断じて、ない筈……なのに。
(現に、それは起こっている。―――この地上人は一体、何を代価に、能力を使っているというのだ)
力には、代償が伴う。
それこそ千差万別のものだが、神の召喚―――それも、圧倒的に格下であろう者が、それを行うには、さて、どんなものを天秤に乗せれば釣り合うというのか。
数多の生命か。山の様な財宝か。広大な領土か。
幾つか思い浮かんでは、けれどそのどれもが、彼の者を呼び出し、助力を得るには役不足に思えてならない。
改めて、その異常事態を引き起こした地上人を観察してみれば、第一印象と全く変わらず。
何の力も感じられない……ただの地上人だ、という結論しか出てこない。
体からは若干、神気を纏っているようだが、これは、この者から出ているものではない。薄らいでいるというのに、それ程の“怨”の色が感じ取れた。
きっと、名のある祟り神の傍にでも居たのだろう。恐らく、地上ではそういった神に仕えている、神職であったのだと推測出来る。
(面白い―――)
月に生を受け、云万年。
代わり映えの無い平和は好きであったが、同時に、物足りなくも思っていた。
力を持ってしまったからだろう。触れるもの全てが脆弱に見えて、その力は完全に発散出来ずに、蓄積されていく。
如何なる時にでもじっとしてはいはいられない、幼子のように。
日々、溜まり続けるストレスと折り合いをつけ、事もなさげな風を装いながらも、何の支障も無く、平穏に過ごしてきた。
例外を上げるのなら、永琳様は当然として、私の姉や、華奢な体に似合わず剛毅の性である輝夜様達との、指導名目の模擬戦などは心躍るものがある。
けれど、皆はいずれも私が心を寄せる者達ばかり。心の何処かで、一定のラインを超えられず―――殺してしまうかもしれない、との念が付き纏い、スポーツ以上の展開は見込めそうになかった。
私自身も、それを仕方のない事だと……そうであるべきものなのだと、諦めていたのだから。
―――その前提が、今、覆るかもしれない。
地上の神々ならば、この悩みを解決してくれそうではあったけれど。
穢れ云々はさて置くとしても、月の治安を守護する者としては、まず地上に赴く事など出来よう筈もなく、ならばその神々を呼び出すにしては、有効な手段が無い。
それに、仮にも神とは、いずれかの地に留まり、私と同じく、その土地に居る下々を守護する役割を担っている。万が一の事でも、起こってしまっては宜しくない。
だが、この者は違う。
九十九という神は、元来、長い年月を掛けて、魂の無い物体に宿る者であった筈だ。
しかし、この者はとてもそのような存在には見えず、名が同じだけの全く別の者……と、考えるのが自然であろう。
だとするのなら、九十九などという神が治めている土地の名など聞いた事が無い。
これは、好機。
強大な力を持ち、月とは全く関係の無い者。そして、その力が弱まってしまったとしても、全く問題の無い者。
そして、万が一の事が起こってしまったとしても、全く影響の無い者。
この機を逃せば、次は何万年後か……いや、次があるのかどうかすら、怪しいものではないか。
(見つけたぞ)
積年の恨みの篭ったような、長年恋焦がれた相手に出会えたような、熱の入った瞳を向ける。
それに気づいたのか、その地上人はビクリと肩を震わせ、弱々しい、何かに縋るような顔に―――酷く、嗜虐心を刺激される。
……これでは、この男に、それなり以上の感情を抱いてしまいそうになるではないか。
全く、この様では、永琳様の事を強くは言えないな、と。
私、綿月依姫は、千載一遇の機会に、初めて恋を知った乙女の如く。熱く胸の鼓動を早め、高鳴らせていった。
今日は、実に楽しい体験が続いている。
唖然とする依姫ちゃんや、永琳様を横目に見ながら、湧き上がる愉悦に身を任せていた。
初めは単なる暇つぶし。それ以上の意味など、皆無だったのに。
(この子、一体何者なのかしらねぇ)
地上に居る神々と同等か、それ以上には、長く生きてきたと思っていたけれど、こんな存在が居るだなんて、微塵も知らなかった。
それは永琳様にも該当される様で、親しみある表情が殆ど隠れ、興味の対象―――実験体を前にした時の顔になっているのが分かる。
(あれは、初めて依姫ちゃんと出会った時だったかしら……)
あの時の永琳様は、それはもう、楽しそうなお顔をされていらっしゃった。
全てが喜びの色で飾られた表情は、ただ一点、目が薄く開き、ガラス球のような瞳を覗かせていた、というだけで、全く正反対の感情を伝えられるのだ、という事実に気づかされた瞬間でもある。
(あの時の依姫ちゃん、可愛かったわねぇ)
永琳様と出会う以前から、畏怖に近い尊敬の念を持っていたあの子が、彼女の期待に答えなければ、という忠誠心(理性)と、薄目を開けて微笑みを湛えた表情から来る恐怖(本能)の間で揺れている様は、今思い出すだけでも、静かな笑いが漏れて来そうだ。
そして、そんな表情を再び見る切欠になった、この地上人―――九十九は、そんな永琳様が浮かべた表情に、口元を引きつらせ、顔色を青くし始めた。
(そうよねぇ。怖いもんね。あの顔)
同情するわ。地上から来られたお方。
けれど、謝罪はしないわ。改善もしないわ。静止もしないわ。
だって。
(―――あなた、地上人どころか……私達の知る生命体かどうかすらも、怪しいし)
様々なものを呼び寄せる、既存のルールなど歯牙にも掛けない、全く別の法則を持った駆動式。
きっとこの者は、その力を生まれながらに持ち、その力の強大さ―――異常さを、殆ど理解出来ぬままに、今のこの時まで過ごしてきたのだろう。能力の表し方が、あまりに無防備過ぎる。
空間の歪曲も、次元の裂け目も、エネルギーの異常発生も、その他諸々、ほぼ全て。
目を通した資料では、彼が召喚を行う場合には、それらの変動は、一切検知されていない。
まるで、ただそこにある事が普通であるかのように―――初めからそうであった、と言わんばかりに、唐突に出現するのだ。
唯一、僅かの間に光が集まる事くらいしか兆候が判明しなかったが、その発せられた光すら、既存の物質ではない、との調べが出ている。
一体何が発光しているのか。また、その光は何なのか。
法則も、関係性も、認識の有無に至るまで、一切合財、何もかも。
そういうものだから仕方ない。
そうであるのか当然であるもの。
全てのルールの基本にして、前提にして、根本に位置する、理。
(そう―――これは……概念)
彼だけの中に存在する、彼だけのルールブック。
それには、この世界の万物が干渉する余地は無く、ただ一方的な―――高位の次元が、下位の次元に接触でも図ってきているかのようだ。
絵本で幾ら驚異的な力を持っている存在が登場しようと、それが読者には、何ら危害を与えないように。
これでは、幾ら見掛けがただの地上人であろうと、全く参考になりはしない。
(……呼び方、間違えちゃったかなぁ)
気分を害していなければいいのだけれど、と。そう思う。
この場に居るだけで、常に魂を握られているのではないかと錯覚させる、青き者から溢れる力。
彼を神と呼ばずに何と呼ぶ、との直感から、自然と自身の中でそれぞれの呼称が変わってしまったのは、仕方のない事だと思いたい。
初めは冗談だと思った。
虚勢を張るただの地上人だと。穢れの中に生きる彼らは、その毒に侵されて、様々な欲望に支配されているだけの存在だと。
しかし、そんな地上人は、仮にも永琳様の客人。
卑しい者ではあるけれど、それ位の見栄は認めてあげましょう。こちらは、寛大なのだから。
事前に入手した資料に、目を通していても尚、そう思っていたというのに。
(この、【ジェイス・ベレレン】を見るまでは……)
永琳様のお言葉を信用するのなら、彼は主に、感情や気持ちを司っている神だと言える。
私にだって、少しならば精神に介入する手段を有してはいるけれど、あくまで私の能力は、“切断と結合”をメインとしたもの。彼とはそもそも、競う舞台が違う。
(呼び出すんだったら、もっと事前にやってくれていれば良いのに)
そうすれば、もっとこちらも、礼を失さぬよう努めていた筈だった。
……はて。
そういえば、何故この地上人は、青き神など呼び出したのだろうか。
彼の話では、ジェイスが対応した理由や経緯までは説明していたけれど、その神を呼び出した理由には一切触れていない。
(ん~? ……実は今、私達、月の民って……結構ピンチかしら?)
何の理由もなく、強大な存在を召喚するものなのだろうか。
否。そんな筈など……無い……とは言い切れないのが、より一層、私の思考を掻き乱す。
何せあちらは、こちらと別のルールによって動いている。何処までこちらの考えを当てはめられるのか、皆目検討もつかない。
ただ、悪い結果だけは、何通りだって思いつく。
月の支配だとか、壊滅だとか、そういった悲観的なものが。
けれどそれらの最悪は、永琳様の思考を刈り取らなかったり、私達の意識を呼び戻した事を顧みるに、いずれも決定打に欠けていた。
そして、この思考の流れすら、相手の思惑通りだとしたら、もはや、今の私では、地上人は兎も角として、この青き者には太刀打ち出来ない。
―――少なくとも、知略戦においては。
(まずは情報収集。その後は……その時に考えましょう)
今の段階で、結論を出すのは早計だ。
これら関係の最善は、彼―――ら―――の力を、月の為に役立ててくれる事だが……。
仮に、言葉以外の相対をするのなら、もっと戦力を整えてから。
せめて、全ての軍を動かせるだけの体制が揃うまでは、彼らとの会話が少しでも長く続くよう―――そして何よりも、要らぬ亀裂を生まぬよう、最悪に対する、最善を尽くす。
剣呑とした妹を目立たせない意図も含めて、その緩衝材の役割を、いつも通りの、周りを和ませる空気で維持しようではないか。
(依姫ちゃん、少しは交渉のイロハを実戦してぇ~)
一触即発の危険物を取り扱っているかのような気苦労をしているのは、自分だけのようだ。
実験体を見つけた永琳様とは、また違った瞳―――格好の獲物を発見した狩人を思わせる妹に、早くこの場から、撤退してしまいたい。
内心で流す涙に、終ぞ、この妹は気づく事は無かった。
―――変わってしまった。
安穏とした空気、潔癖とも言える清浄な空気が淀む、この月の都市に、恐らくかつて無いであろう、事態の変化を起こせるだけの存在を、見つけてしまったのだ。
良い実験体を見つけたと思ったのに、しかしそれは、回避できたであろう危険を、わざわざ内部へと呼び込む事態に陥ってしまった。
九十九さんからは、過去類を見ない程に、異常とも言えるだけの異能を見出せた。
“絶対に壊れない”能力から始まり、鳥、袋に食材、温泉と。
挙句の果ては、私ですらも知らない神ときた。
未知が増えれば増えるほどに、私は嬉々として研究にのめり込んで行ったけれど、今、この神を前にして、その認識を改めざるを得ないと実感した。
彼は今まで、それこそ様々なものを呼び出しては来たけれど、そのどれもが、呼び出した時には、自慢に満ちた表情を浮かべ、こちらの驚きや、喜ぶ姿を楽しんでいた節がある。
楽しかった。
かつて依姫と出会い、その力を、寝る間も惜しんで調べ尽くした時のように。
日々訪れる、新しい出会い。
今私は、生きているのだ、という実感を得ていたのだ。
それが―――変わってしまった。
彼が呼び出した、何処の者とも知れぬ、強大な力を秘めた者。
それを、誰とも知れずに呼び出していた。
憶測だが、この者の力を上手く活用してやれば、そこれこそ、この月ですらも、如何様に扱えるだろう。
―――制御出来ぬ力ほど、魅力的で、恐ろしいものは無い。
遊んでいた玩具が爆弾であった、と判明したかのよう。
危険だ、と思う自分が居る。
面白い、と思う自分が居る。
いっそ、彼がずっと、そこそこに力があるだけの、ただの地上人であったのなら良かったのに。
月を管理する者として、月を愛しむ者として、月に生きる者として。
滅びの一端とも取れる危険を、見過ごす訳にはいかない。
そう、私の理性が答えを下す。
不確定要素は完全に排除すべきだ、と。
(でも……)
けれど、私の感情がそれを拒絶する。
自分でも言うのもあれなものだが、ここ月の都市では、私に並ぶ能力を持つ者は、知能にしろ、技術にしろ、力にしろ、それこそ片手で数えられるだけしか居ない。
よって、その他の者達―――ほぼ全ての月の民からは、高嶺の花のような扱いを受け続けてきた。
ただ一人、それが当てはまらないのが、この月を支配する家系である、蓬莱山の長女、輝夜だけだったのだが、あの子とは、前提として、師弟の壁と、家柄の主従関係が存在している。
それ故に、どこか一歩、踏み込めずに居る事が多かった。
しかし、あの子は違う。
尊敬もあった。礼節もあった。
だというのに、それらの畏まった態度は、生活と共にする中で、簡単に崩壊し―――意図的かもしれないけれど―――段々と、彼の素が垣間見え始める。
細々とした出来事は間々あったけれど、最も原因となったものは、彼が滞在し始めて、四日目の朝の事。
睡眠から覚めぬ私に業を煮やした彼が、こちらの両の頬を摘んだのが切欠だったか。
いつもの様にソファーで眠る私が、顔に違和感を覚えて目覚めてみれば、自身の口の両端が釣り上がり、ぐにぐにと、彼の手によって前後左右に伸縮を繰り返していたのだ。
『おはよーございまーす』と、何とも意地悪な表情を浮かべて、ニタニタした笑みを見た瞬間、つい、数百万年前に培った技術の粋を凝らした掌低を、彼の顎に放ってしまったものだ。
脳全体を揺らす衝撃にを相殺し切れずに、木偶人形のように宙を舞い崩れ落ちた彼には、興味深いものがあったけれど……。
(首が引っこ抜けてもおかしくなかったのだけれど……)
今にして思えば、よく彼は生きていたと思う。
それ以来だろうか。
彼の前では、自分を律する事が、難しくなって来ていた。
帰還までの間、彼が苦に思わぬよう面倒を見るだけの筈であったというのに、気づけば私の行動は、彼の行動を前提にして動いてる。
ただの居住区は、家と呼べるものになり。
栄養補給の意味合いが強かった食事は、それを楽しむ為だけに、足早に帰宅を促すようになり。
彼の能力を知る為だけの実験は、気づけば、彼の一喜一憂を共に味わうものになっていた。
たった数日で、これだ。
これが数十日。数ヶ月。あるいは数万年となった場合、恐らく私は、今の私で居られなくなる自信がある。
興味を埋める事意外の利己的な面が、ここまで自身の中に眠っていたのだろうかと、新たな発見に驚き、そして、その心境の変化を楽しみ、心地良いと感じている自分が確かに居る。
指示する事はあっても、お願いする事など無かったのに。今ではそれこそ、息をするように、あれをして。これをお願い。との欲望を曝け出しているのだ。
(まだ何とか、最後の一線は保っているけれど……)
いずれはその一線―――下着の洗浄―――をも越えそうでならない。
……そんな考えを。
取るに足らない、馬鹿馬鹿しいまでの余分な思考を、いつまでも、ずっと。
それが出来たのなら、どんなに下らなく、時間の無駄で―――楽しい日々が、待ち受けていたのだろう。
この、どちらとも天秤の傾かない考えは……しかし、現状維持を許さない。
こうであれば良かったと。そうであれば良かったと。
束の間の夢は終わりを向かえ、新たな一歩を、刻まざるを得なくなる。
「……そう。九十九さんって、凄いのね」
変わる為の切欠を作るように、言葉の内容とは裏腹に、失意の感情がそれには込められていた。
彼との関係が……存在自体が、過去のものになるのか。
それとも、今後も共に何の懸念も気兼ねも無く、付き合っていける間柄へと進展するのか。
決して多くは無い、私の大事なもの。
それらを守る為、私は―――。