むかしむかし。
このあたりはたくさんの山々に囲まれ、
猫のひたいほどの山あいに小さな村々が、ひっそりと身を寄せ合って、つつましやかに暮らしていました。
そんなある日、満月の晩のこと。静かな山あいにとつぜん、どーん、と大きな音がしました。
おどろいた村人たちが音のした場所にかけつけるとびっくり。
なんとそこにあったはずの山が三つも消え、かわりに大きな穴が開いていたのです。
天狗さまのしわざだ、と村人たちはおそれおののき急いで村に逃げ帰りました。
その夜からしばらく大雨の日が続き、ようやく雨の上がった七日目。
猟師のひとりがあの場所を見に行くと、なんと大穴が消えているではありませんか。
どうやら大雨のせいで山くずれが起き、流れ込んだ泥や土で埋められてしまったようです。
大穴で山が三つ消え、山くずれでまた三つ消え、それはそれは大きな平野になっていました。
これを聞いた回りの村むらから次つぎと人がうつり住み、やがて大きな町になりました。
これが、かなめの始まりと言われています。
「──らしいよ、お父さん」
受付で渡された小冊子を読みながら、真澄がくいくいと藤原の裾を引く。
開いたページに書かれた題字──かなめ民話集・かなめの大穴の話。
「そっかー、真澄えらいぞー、よくよめました」
「お父さん、バカにしてる?」
「そんな事はございませんよお嬢さま」
ぽんっ、と真澄の顔が赤くなる。
「んもうっ!んもー!もー!」
ぽかぽかと娘がお父さんを叩く。
「はははお嬢さまはしたない」
おめかしした娘が顔真っ赤にして照れ隠しの様に父を叩く姿に、周囲が微笑む。
「お嬢さまいうなー!お嬢さまいうなー!」
「はははお嬢さま痛い痛い、痛いッ!痛ッ!」
ビシッバシッと鞭のような鋭い蹴りが父の腿裏に連打される様を見て周囲ドン引き。
「おちつけ、クールだ、クールにいこう、な?真澄、なッ!」
フーッフーッと肩で息するおめかし娘をなんとか抑えお父さん冷や汗でまくり。
今日は土曜日。いま二人がどこに居るかといいますと、正式開館を明日に控えたかなめ市郷土資料館、そのプレオープンに来ております。
先週この町のヌシから渡された招待券を手に、お父さん休みにも関わらずスーツ姿、娘さんフリフリワンピでおめかしなんかしちゃって気合入ってます。
そのくせお嬢さまなどとからかいでもしましたら、照れ隠しがヒートアップしてマジ蹴り食らわせるもんですからお父さんたまりません。
なんとかなだめすかし真澄可愛いよ可愛いよ真澄とご機嫌を取りつつ、気を取り直して再び館内巡りを始めるフジワラ親子でした。
「結構人いるもんだなあ」
「そうだね、夕方なのに」
「つうか開始六時ってどうなってんだ」
「カッコいいじゃない、ナイトミュージアムっぽくて」
まあ確かに、と藤原は思い直す。こういうのもおつなもんだと。
それに中々凝った造りじゃねえか、と改めて館内を見渡す。
外観は重厚なコンクリートに覆われ、やけに窓の少ない灰色の真四角な箱、なのだが中身はどうして凝ったものだ。
それもその筈、元々この建物は商工会議所であると同時に、迎賓館的な役割も果たしていたらしい。
当時ここに案内された来賓達は外観の素っ気無さと中身のギャップにさぞや驚いた事だろう。
少々意地悪な意匠の姿を想像するも、待てよ、と藤原はそこに篭められた意図を想う。
まるでこの町のようではないかと。
「おや藤原さん。今日はお休みの所ありがとう御座いますね」
にこにこと笑みを湛え現れた痩躯の好々爺に、こちらこそお招き頂き有難うございます、と一礼する藤原。
父に併せぺこり、と頭を下げる真澄。頭を上げちらり胸元を見れば市長の記章。
「あなたが真澄さんですね?粟川と申します」
「は、はじめましてっ!藤原真澄ですっ!」
すごい!お父さん市長さんと知り合いなんだすごい!と娘から羨望の眼差しを受けお父さんちょっと鼻高々。
そうだとも娘、お父さんはこう見えて結構凄いんだ。
ヒマなんで時たま市長さんと一緒に市庁舎周辺の草むしりしたり、閑休庵の蕎麦食い仲間だったりするのは内緒だけどな!
「どうですか藤原さん、せっかくなのでご案内しますよ」
市長直々の有り難い御言葉を断れる筈も無く、一緒に館内を廻る事になった一行。
さて、何を見せてくれるのか。藤原は猛る胸を押し殺す。
狼の娘・滅日の銃
第六話 - 時には昔の話をしようか -
地上三階地下一階の建物は、敷地面積だけでも市庁舎と並ぶほどの規模があり結構広い。
明日正式に開館するかなめ市郷土資料館は、その名の通り町の歴史やゆかりのある品々を一同に集め展示する目的で設立された。
しかしそれだけに留まらず、この地に伝承される民話の数々や映像記録も保管し、それらを公開するアーカイブ的要素も併せ持つようだ。
また謎の多い地形に関する考察や現在までの研究成果の公開といったマニアックなものから、
子供も楽しめるように趣向を凝らした常設展示など、どちらかと言えば博物館的な趣が強い。
「そういえば粟川さん。確か以前は学者さんで」
「はい。考古学と民俗学を少々かじっておりました」
なるほど、と藤原は思う。ならばこの充実ぶりも頷ける。しかし少々どころではないだろう。
粟川礼次郎といえば、当時その名を轟かした新進気鋭にして異端の考古学者だ。
特にまつろわぬ民と各地の伝承、そして神話を結びつけた独自の解釈は、各地の怪しげな風習や魑魅魍魎の類にまで手を伸ばし、
時の学会でも問題視され、一部からは妖怪ハンターなどと揶揄されていたらしい。
そんな彼がカナメに目を付けたのも当然の流れと言える。
「まあ市長なんて二の次でして、こっちがライフワークみたいなものですかねえ」
ここはいわゆる民俗学最後の秘境ですからね、と粟川は笑う。
「秘境ですか」
「ええ。宝庫といっても良いですねえ」
粟川は元々民俗学専攻だった。そして民話にも周圏論が適用されると考えていた。
これは民俗学の祖と言われる柳田國男が唱えた、有名な方言周圏論に民話を当てはめたものだ。
方言周圏論とは、中央から生まれた言葉が同心円状に地方へ伝播するという説である。
水面に石を落した時に広がる波紋のように、中央から広がるものは活発な人の往来により、その円は大きなものとなりうる。
各地に点在する方言に類似性が見られるのは、その時に広まった、いにしえ言葉の名残であると。
しかし地方の民話は人の交流も限られる為、その円は小さなものとなる。
中央からの伝播が大きな石だとするならば、地方の民話は細かい砂利だ。
水面に落ちる雨のように細かい波紋は輪を広げきる前に互いにぶつかり干渉し合い、様々な形に変化する。
しかも言葉ではなく物語。伝播の途中で様々な脚色がなされ、バリエーションも増えていく。
だが核となる部分が必ずある。河童しかり巨人伝承しかり天変地異しかり。
粟川は考えた。各地に残る類似性のある伝承を結べばその起点が解るのではないかと。
実際その通りだった。近隣は当然として、離れていても交流の盛んな土地同士ならば類似性を見る事が出来た。そこには必ず人と人との交流がある。
例え別の場所で起きた出来事だとしても、あたかもその場所で起きたかのような既成事実が作られている事例もあった。しかし。
「どういう訳かこの地に伝わる話というのは、他と全く類似性が見られんのですわ」
困ったような素振りを見せながら、どこか嬉しそうに笑う粟川。
ここは石を落しても波紋が起きぬようだと。かなめで生まれた伝承は何処にも伝わらず、ここにだけに留まったのだと。
それはまるで、石は水面には落ちず、穴の中に消えたようだと。
「さきほど真澄さんが読まれていた、かなめの大穴の話がまさにそれでして」
失礼、可愛い声が聞こえたのでつい聞き耳を立ててしまいまして、と好々爺が笑う。
「謎を解こうと意気込んでいるうちに、なんか解らんうちにこうなりまして」
実際この地は、特異なフォークロワの宝庫だった。しかもそれは、他と類似性が一切見られなかった。
伝承の起点には必ず事実が存在すると考えた粟川でさえ、当初はこれら話の真贋を疑ったものだ。
それだけこの地方に残る伝承の数々は特異と言えた。
曰く、天高く昇る金色の虹の話。
曰く、空から降りてきた黒い童の話。
曰く、一夜にして消えた軍勢の話。
曰く──かなめの大穴の話。
「しかし結局、良く解らなかったというのが顛末でして」
案内する粟川の足が不意に止まる。
見ればそこには数年前行われた地質調査の模様を記録した写真とジオラマ。壁掛けのモニターには再現CGがエンドレスで流れている。
「色々と諸説はあるのですけどね」
地震による崩壊説、森林伐採による山崩れ説、そして隕石説。それら諸説を仮想したシミュレーションCG。
だがそれらは、かなめ市という場所のある広い平地を作り出す事は無かった。
「以前、比較的大規模な地質調査が行われたんですがね」
私も立ち会ったのですが、と粟川は当時を思い出しながら言う。
その際判明したのが、この町の地層は自然堆積で出来たものではなく、明らかに崩落の痕跡が認められた事。
しかし時期は不思議な事に測定不明、あと極少量ではあるがこの地域ではまず見られない種類の鉱物類が含まれていた事。
但しこれは隕鉄では無い事──
「──つまり、謎は余計深まってしまったという事ですわ」
話し終えた粟川の片手には、先ほど真澄が読んだものと同じ小冊子。
細い指で開かれたページには子供向けのイラストと共に〈かなめの、ふしぎ!〉と書かれた章題と、今まさに彼が述べた説明文がそのまま載っていた。
「ふしぎだね、お父さん」
「んだなぁ」
真澄の頭を撫でながら藤原は思う。人の叡智なんざ所詮この程度なのだと。
禁忌の地であるカナメの調査が許されたのは、何も解らぬと端から解っていたからだろうと。
所詮ヒトは獣だ。その獣が二本の足で立ち上がり、二本の腕で火を灯し、地の上を我が物顔で闊歩する。
支配者を自称し何もかもが怖くなくなった振りをしても、その本性は変わらない。
だがヒトには他の獣と違い一つだけ大きな武器がある。想像力という名の武器が。
いま目の前で笑うこの老人は、恐らく何かに気付いてしまったのだろう、と藤原は確信する。
ゆえに選ばれてしまったのだ。だから取り込まれてしまったのだ──この町に。
「そうそう、不思議と言えばね真澄さん」
ここにはもっと不思議なものがあるんですよ、と優しく微笑む好々爺。
「え?なになに?なんですか市長さん」
どうぞこちらへ。彼が二人を手招く。
一階へと降り、導かれるまま進む先に閉じられた扉。関係者立ち入り禁止と書かれた札をめくり、鍵を挿し扉を開ける市長。
その先に地下へと降りる階段があった。どうぞ、さあどうぞ。粟川礼次郎が藤原親子を招く。
「常世さんから頼まれましてね。今回は特別という事で」
「え?市長さん、マユコさん知ってるんですか?」
「ええ、良く存じておりますよ」
笑う老人の顔は、冥府の門番のようでもあった。
■
パチン、パチンとスイッチが入る。
暗い部屋に次々と灯されて行くスポットライトは、その下に存在するであろう何かを照らし出し、その全容を浮かび上がらせた。
「すご、い」
真澄が絶句する。
「こりゃ、すげえ」
藤原も思わず声を出す。
「これが、要市縮尺模型図といわれるものです」
かなめ市が始まった一世紀前に作られたものですよ、と粟川が微笑む。
「どう思います?」
「すごく」
「おおきいです」
それは名の通り模型だった。しかし一般で言われる模型とは規模が違った。
広大な地下一階のフロア、その一面を使い切り敷き詰められた、巨大な町のミニチュアだった。
「作りこみが半端じゃ無いですね、これは」
藤原が驚くのも無理は無い。
今から一世紀前に作られたというこの模型は、その大きさとは対照的にとても精緻に作られており、
現存する市庁舎、市役所前駅、そして当時は商工会議所だった現在の郷土資料館すらほぼ完璧に再現されている。
元々古い町並みのせいだろうか、百年を経た今見ても、かなめ市に住む者ならば、
ここは自分の町だ、と一目見ただけで解かるほど微に入り細に入り作りこまれており、
しかも大変保存状態が良く、これだけの年月を経た今も劣化を感じさせない。
「あの、触ってみてもいいですか?」
「どうぞ」
模型を壊さぬように、そっと模型図の端に触れる真澄。
すぐに彼女の指に伝わるのは硬さ、やがて、ほのかに上気した肌の熱さえ奪うような冷たさ。
「うそ、これ──石?」
「そうですよ。これが一世紀を経ても劣化しない大きな理由です」
凄い、と感嘆する真澄。
この巨大かつ精密な模型の材質は石。その上から顔料で彩色が施されているらしい。しかも、と粟川は続ける。
「これ、削り出しなんですよ」
彼は言う、これはたった一つの石を削り作られたものだと。
「粟川さん。そのような事が果たして」
「可能なんでしょうねえ。こうして現物が眼の前にある以上」
「誰が作ったんですか?市長さん」
「製作者は解かっていません、ただ、これが出来た経緯は伝わっておりますがね」
市長が語る経緯とはこうだ。
百年前、商工会議所が作られる際のこと。当時としては珍しく地下一階に貯蔵倉庫を組み入れた設計ではあったが、
基礎工事中大きな問題に突き当たる。事前調査不測の為か、突如硬い岩盤に当たってしまったのだ。
今でこそ地盤調査が確立されてはいるが、この頃はまだ緩く、生じた問題に対し、工期を延ばしてでも何とかしてこの岩盤を削るか、
工事を取りやめて移転するか、もしくは設計を見直し地階を無くすか、これら三つのの瀬戸際に立たされた。
ここまではまあ、良くある話なのではあるが。
「この後の展開が面白いんですよ」
選択を迫られる最中、或る人物がその岩盤を見させて欲しい、と建設現場を訪れる。
その人物曰く、この問題を解決する手段が自分ならば見つけられるかも知れないとの事。
工事の無い夜、一晩きりならばと立ち入りを許し、翌日作業員が現場を訪れたところ──
「嘘みたいな話でしょう?そこにコレがあったそうです」
件の人物が一体何者であったのか、そして何処へ消えたのかは定かではない。
しかしあまりにも見事な出来栄えに、関係者はこれを残す事に決め、
以来この建物の地下に存在する奇跡の模型図は訪れる人々を驚嘆させ続けているという。
「確かに、にわかには信じ難い話ですね」
「誰が何の為にこんなもの作ったのか解かりませんがね。
まあつまり掘削でも移転でも設計変更でもない第四の選択が取られたと言う訳です。
ただ出自があまりにも怪しすぎて、あまりコレおおっぴらに出来ないんですよ。惜しいですがね」
賢明ですね、と藤原は頷く。
確かにこれ程の物ならば良い観光資源になるのだろうが、一方で騒ぎの種となるのは必至。
大きなものを得たとしても、それ以上に失うものが多いだろう。
「それでも、もったいないですね」
再び足元に拡がる模型図へと視線を落し、藤原がその細部を凝視する。確かにこれは凄い。
素晴らしい、というよりもまさしく凄いという表現が的確だろう。
その精密さ、例えば建物の窓枠、商店の軒先にならぶ品々の数々、町の中心を走る市電の細部に至るまでほぼ完璧に作りこまれている。
機械技術の発達した今ならば可能──無理だ、と藤原は思う。
ここまで精緻に、しかもたった一つの岩から削り出して作ることなど、ましてや一晩でなど。
「しかし本当に、凄いものです」
藤原はそれに触れる、が、言葉とは裏腹に少々拍子抜けした感が否めない。
確かにこれは凄い物だ、だがそれだけだ。これはただの石だ。何の変哲も無いただの石だ。
脈動する町の基点、言うなれば心臓とも言える場所、にも関わらずこれだけかと──しかし。
「粟川さん、あの窓は一体?」
藤原はふと、ある一点に気付き模型から目を離し、ホールの天井を注視する。
ライトの明かりで最初は気付かなかったのだが、目を凝らせば天井の中央に、鎧戸で閉じられた大きな天窓が見えたからだ。
「ああ、あれですか。月見窓ですね」
「ツキミマド?風流ですね。何故そのようなものが」
説明するよりご覧いただくほうが早いですね、と壁際に寄る粟川。
ライトのスイッチが並ぶ横、小さな扉を開き中からハンドルを引き出し、ぐるぐると回す。
「今宵は中潮、つまり満月の一日前なので大丈夫かと思いますが」
ハンドルの回転と連動しながら、きいきいと軽い金属音を立て開かれて行く鎧戸。
「お二人とも、良く眼を凝らしてご覧くださいね」
やがて金属音が止まり、一拍置いてパチン、パチンとスイッチが降ろされる。
消えて行くスポットライト、やがてホールが暗闇に包まれる──と思われたが。
「この建物は地上三階地下一階。ですが中心部に風通し用に穴が開いてまして、その穴は地下まで通じあの天窓に行き当たります。
何故こんな無駄な作りをしているかと言いますと」
たぶん、これのせいなのでしょうね、と粟川が囁く。
露出した円形の天窓から注ぎ込まれる月の光。おそらく丸く分厚いガラスはレンズの役目を果たしているのだろう。
拡散する青白い光は、隅から隅まで満遍なく模型図を照らし出す。
「すご、い」
今度こそ心の底から感嘆の声を上げる藤原。真澄は声を上げる事すら忘れその光景にただ魅入る。
二人の視界に映るもの、月明かりに照らされた箱庭の町、建物の窓という窓から漏れる光──夜の町が、そこにあった。
「反射、しているのですね」
眼を凝らし光の一つ一つを注視すると、その光は、建物の窓や道筋の所々、
顔料が塗られていない石の地肌剥き出しの個所から発しているのが見て取れる。
「陽光やライトにではなく、月の光だけに反応するらしいのです」
どうぞこちらへ。手招く粟川に誘われて、彼の隣に身を寄せる真澄と藤原。
そして二人は見る。自分の今まで立っていた位置からは見えなかったものが、ここからは見える。
「お父さん、これ──なんて読むの?」
くいくいと父の袖を引き娘が尋ねる。父は心ここにあらずといった風でぼそり、と呟く。
「noli ・me ・tangere」
藤原の口から漏れた言葉。一際強く輝く個所が重なり合い、光の文字が読み取れた。
「はい。どうやらこの文字はラテン語で、確か意味は」
「ノリ・メ・タンゲレ──我に触れるな、ですね」
「流石です藤原さん。まぁこれが一般には出せない大きな理由です、これはもう、あまりにも」
そう、これはあまりにも妖し過ぎる。一体これは何なのだと藤原は思う。
馳走の礼、と繭子は言った。言葉足らずの化物はこれを見せたかったのか。
恐らくこれがあいつなりに自分に対し示した一つの答えなのだろう。何を意味するのかは解らぬが。
「──きれいだね、お父さん」
「──ああ、そうだな」
傍らの真澄は今にも蕩け出しそうな顔で、その文字と光溢れる夜の町を見つめている。
藤原がそっと娘の肩を抱く。彼の手をきゅっと握る小さな手。目元を緩ませ藤原も握り返す。そして思う。
まあいいさ。そこにどんな意図が篭められていようが、今だけは仕事を忘れ、この綺麗で不思議な光景を楽しもう。この子と一緒に。それでいいさ。
「さて、そろそろ戻りませんと」
そして月見窓が閉じられる。
夜の灯が消え、再びスポットライトが照らされる。
「粟川さん、お忙しいところ有難うございました──真澄。ほら」
「あ、はい。市長さん、ありがとうございました」
ぺこりと頭を下げる娘に目を細め、どういたしましてと粟川が微笑む。
「そういえば、先ほど満月の一日前なので大丈夫、と仰られましたよね?」
「ええ、その夜だけは窓を開けないほうが良いと伝え聞いておるもので」
良くは解からぬのですが、と前置きした上で粟川は答える。
「たぶん、これ以上のものを見てしまうからじゃないですかねえ。当てられてしまうというか」
ほら、月の光は色々と狂わせてしまうそうですから──かなめ市長、粟川礼次郎が笑う。
「あれ?これ漢字だ」
ホールの隅、置かれた立て看板を見て真澄が気付く。
記された文字──要市縮尺模型図。
「町の名前、昔はひらがなじゃなかったんですね、市長さん」
「いえ、昔からかなめ市は平仮名表記ですが、はてさて」
曖昧な笑みを浮かべる粟川。そ知らぬフリをしているが、その意味を解らぬ筈ないだろうと藤原は苦笑する。
そして今一度、模型図の全景を脳裏に刻む。おおまかな道筋は現在とあまり変らぬようだ。ならば、と藤原は三つのイメージを重ねる。
最初見た町の全景、一週間前見た町の全景、そして模型図。アウトラインは綺麗に一致。それはこの模型図の正確さを物語る。
しかし中身はどうか。確かにずれている。しかしひと月前は右、先週は左。この模型図は丁度中間に位置していた。基準値だと藤原は察する。
そして基点は──基点?待てこれは。
「──お父さん?」
真澄の声で我に返る藤原。
「では戻りましょうか」
粟川に促され地下ホールを後にする二人。
しかし藤原は気付いた。市長が言う通りの伝承ならば、それが本当に正しいのならば。
あの模型図──ありえないものがある。
■
煌々と中潮の月が夜の町を照らす。
路地に伸びていく二人の影。手を繋ぐ父と娘。さあ、おうちへかえろう。
「すごかったね」
「ああ、スゴかったなあ」
えらいもん見せられてお父さんと娘、少し顔が上気しております。
郷土資料館自体もかなり良かったのですが、その後見せられたとんでもないブツのおかげでそれ以外ぶっとんでしまった二人。
娘さんがどこか夢見ごこちなのはそのせいです。
「満月だと何が見れるのかな?」
「さあな。エレクトリカルパレードとか始まんじゃねえの?」
甲高い声で人語を発する直立歩行型ドブネズミとか恋人のビッチマウスとか水兵のコスプレしたダミ声アヒルとか
毒殺されても蘇るスノーホワイトソンビクイーンと従僕のセブンミュータントとか。
そんな奴等が発光しながらイネガア、ワルイゴハイネガアと口から唾を吐き叫びつつ目抜き通りを狂ったように疾走する。
まさに子供達を恐怖のズンドコに叩き落すフリークスランド。お得なフリーパスのお値段はオマエノ命ダ。
「──という感じじゃねえかな」
「なにそれこわい」
ぶるぶると首を振り満月の夜だけはあの建物に近付かないようにしよう、と固く誓う真澄。
その様子を見て安心する藤原。あれは不思議のままにしておいた方が良いのだろうと彼は思う。
──ほら、月の光は色々と狂わせてしまうそうですから。
その言葉を発した好々爺の瞳に宿るものは、狂気の光などではなく、達観のともしびだった。
彼が何を見たのか、何を知ってしまったのか、そして何を理解したのか。藤原には窺い知る事が出来ない。
知ろうとも思わない。なぜなら彼の達観とは、あきらめとも言えるからだ。
──藤原さん。わたくし隠すつもりなど御座いませんから。
帰り際、藤原の耳元で囁かれた市長の言葉を思い出す。
隠すつもりなど御座いません。常世の君があなた方に見せろと言われるのならば従うまで。
見なさい藤原さん。思う存分御覧なさい。この町の秘密を。この町に眠るもう一つの要市を。魔道の源流カナメの全てを。
止める事など出来ましょうか。どうぞお好きなように。この町に住むという事は、そういう事なのですからね。
「なあ、真澄」
「なに?お父さん」
「この町、好きか?」
「好きだよ。お父さんと暮らす町だもん」
頬を染めて真澄が笑う。そっか、と藤原も笑う。
ならばもう迷わない。全てを見る、全てを知る。この子と笑って暮らす為に。この子を守り抜く為に。
この子が一人で歩くその日まで、笑い守り生き残る。その為ならばなんだってやってやる。
覚悟しろ──今の俺は無敵だぜ。
■
むかしむかし。
まだこの土地が深い山々に囲まれ、うっそうと繁る木々に囲まれた森だった時代のこと。
そこは魔女達が暮らす隠れ里でもありました。
魔女、と言いましても空を飛ぶわけでも人を鼠に変える訳でもありません。
多少勘が良くて明日の天気が解かったり、占いが良く当たるくらいのもので、つつましくも穏やかに暮らしておりました。
しかしある日、正真正銘本物の魔女が里に舞い降りました。
その髪は黒く、その姿は童女のようでしたが里のだれよりも長生きで、空を飛び火を吐き雷を落とし、人を鼠に、鼠を人に変える事すら出来ました。
つまりこの黒髪の魔女に出来ない事などなかったのです。
最初は誰も彼女のことを恐れていましたが、彼女が持つとてつもない力に、やがて多くの人々がひかれて行きました。
ああ、自分達もあんな力があったらなあ、とうらやましがりました。
そんなある日、月の消えた新月の夜の事でした。黒髪の魔女は人々を集め、こう聞きました。
おまえたちも、わたしのようになりたいかい?──なりたい!と人々は言いました。
かわりに、なにかをなくすかもしれないよ?──よろこんで!と皆は答えました。
ならば、はこをあけるよ。
黒髪の魔女が言うが早いかどーん、と大きな音がして地面がゆらゆらと揺れ、
彼女の足元から大きな、それはたいそう大きな岩が地を割り浮き上がります。
──あけたよ、はこをあけたよ、このふたはもらっていくよ。
その岩こそこの地に眠る要岩(キー・ストーン)と呼ばれるもので、地獄へと続く大穴を塞ぐふただったのです。
岩が消え現れた大穴からたくさんの黒い手がわき出し、あぜんとする人々を捕まえ次々と穴の中へとひきずりこんで行きます。
助けて、助けてと泣き叫ぶ声がひびき渡ります。けれど逃げるのに精一杯で助ける事などできません、
みんなその黒い手から逃げようとわれ先に逃げ出しますが一人また一人と捕まり次から次へと穴の中へと呑み込まれて行くではありませんか。
その光景はまるで、地獄が現れたかのようでした。
どれくらいたったことでしょう。
夜が明け、あたりが白くなった頃、かろうじて生きのびた人たちが見たものは、すっかり荒れ果てた森と、
えぐられあとかたもなく消えてしまった山々と、そして、あの大穴をふさぐように積み重ねられた、しかばねの山でした。
やがて生き残った人たちは気づきます。自分たちに、黒い髪の魔女のような大きな力が宿ったことに。
けれどもう誰も、それを喜ぶものはいません。
あの魔女が言ったとおりでした。
彼らは大きな力を手に入れる代わりに家族を、友人を、仲間たちを亡くし、
そしてかつての、つつましくも穏やかな生活さえ失くしてしまったのです。
そして彼らは誓いました。
この力はもう二度とこんな事が起きないように、あの要岩が消えてしまった大穴、地獄の入り口をふさぎ、守り続けるためだけに使おうと。
もう誰ひとり逃げるものはいません。いつかあの岩を取り返し、この大きな穴をふさぐその日まで、みんなでこの土地を守り続けようと固く誓ったのです。
あの岩と、黒い魔女がどこへ消えたのかは定かではありません。
はるか東の方角へ飛んでいったとも言われています。
それから後、この場所は、箱を開けて生まれた大穴という意味をこめてボックス・ホールと呼ばれ──
「──やがてその名は、ヴォクスホールになったと言われています」
おしまい、と彼女は微笑む。子供に寝物語を読み聞かせる母親のように、優しく。
果てさえ見えぬ暗闇の中、パタン、と本を閉じる音が響いた。
■狼の娘・滅日の銃
■第六話/時には昔の話をしようか■了
■次回■第七話「ハー・マジェスティ」