天気晴朗。空は相変わらずの青。洗いざらしのブルー。
今日も良い天気です一日頑張りましょう、という時間には少々遅いお昼前。庁舎の屋上に人だかり。
何かをぐるりと取り囲んだその輪の真ん中に、プッシューと携帯ボンベからガスを送り大きな風船を膨らませる小娘と、
その隣でなんでこんな事に、と冷や汗だらだら流す男の姿。
「何か面白い見世物があると助役さんから聞いてきたんですが」
人だかりの中にひょっこり市長さんまで現れて、藤原もはや逃げ場なし。
「いやあ昨日ご迷惑かけたんで、お詫びッスよお詫び」
などとケタケタ笑う馬鹿を見ながら師匠は、
こいつ殴りてえ人目さえなければ今すぐマウント取ってこいつタコ殴りにしてえ、と苦笑しながら拳を握る。
そうこうしている内にパンパンに膨らんだ風船がふわりと大空に舞い上がる。おおー、と職員の皆様から歓声。
風船につけられたロープが引かれ、するすると空高く昇っていく。
そして真美は足元からリュックを拾い上げ腕を通し背負った後、カチリとベルトを固定した。
やがて空高くまで伸びたロープがぴんと張られ、見れば背中のリュックに繋がれていた。
「さあさあ皆様、マミたんのビックリイリュージョン、はっじまるよー!」
女子高生っぽい小娘の掛け声で、おおーと盛り上がる職員の皆様。市長さんパチパチと拍手までする始末。
その様子を見ながら藤原は、いやみなさんコレただのスカイフックですから、
騙されちゃいけません良く見りゃコイツただの風船背負った馬鹿ですよ?と言おうとするも。
「あ、師匠ぉ!」
自分目掛け、たったかたったか寄ってくるこの馬鹿ともしばらく会えねえんだなあ、と想うとフジワラ師匠、ほんの少しだけしんみり。
何せこの馬鹿、あの子と暮らすまでは四六時中、ずっと俺の視界が届く範疇で目障りなくらいチャカチャカ動いてたからなあ。
そう考えると少し寂しくなっちゃった師匠、つい油断してしまうのも無理は無い。
「おう、次来ん時ぁマトモに来いよ」
「あい」
「次は気ぃ失うんじゃねえぞ」
「あい」
だからつい油断して、寂しそうな顔をする馬鹿の頭を撫でてしまった師匠。
「じじょおおおおおおおおぉぉぉ」
「ああもう泣くなコラ恥ずかしい」
油断した、こいつすぐ泣きやがんの、ばーか。と真美をつい抱き寄せてしまったのも無理は無い、
無理はないのだ、と無理矢理自分に言い聞かせる藤原。
周りからはヒューヒューとはやし立てる声と、何を勘違いしたのかテントウ虫のなんちゃらという歌のサビの部分を何度も繰り返す集団がいるあたり、
意外とココの皆さんノリがいい。ちなみに市長も歌ってました。
そんなこんなで耳を澄ませば遠くからブーンというプロペラ音。
やがて山の向こうからタカというかトンビというかそんな格好したティルトローターが飛んで来る。
その機影を認め真美は目尻を拭い、顔を上げ藤原にこう告げた。
「師匠、アタシ決めたッス」
「なんだよいきなり」
「恋は戦争なんスね」
「ああ?何言ってんのおめえ」
姉の想いは果たした。この先は言い訳出来ない。ならば好きにやらせてもらう、と真美は決意する。
この先はもう戦争なのだと。自分はもう決めたのだと。
今朝、おはようと笑った真澄は昨夜の事を覚えていないようだった。あの恐ろしい狼の娘は朝の光と共に消えてしまったようだった。
けれど違うと真美は思う。寝ているだけだ。しかもその眠りはとても浅い。いつまた眼を醒ますかわからない。
だから向き合う、そして戦う。例え血みどろになろうとも戦って戦い抜いて手に入れる。愛しい男と愛しい娘を手に入れる。
覚悟しろ。私は案外欲深い──そして真美は。
「えいっ」
愛しい男に唇を重ねた。
「てっ、てめえ!」
不意をつかれ狼狽する藤原。次の瞬間、びゅーんと真美の身体が宙に舞う。
風船をフックに引っ掛けたミサゴ一号が、ロープの先の彼女を空へ空へと引き上げる。
「あたしゃ負けねええぞおおおおおお!」
まんまと一矢報いた真美が捨て台詞を吐きながら大空高く舞い上がる。
「てめコラ覚えてやがれコラァ!」
師匠の怒声に送られて、空の彼方へと馬鹿は消えた。
狼の娘・滅日の銃
第五話 - かなめ!ふしぎ! -
かなめ市。
面積約百六十平方キロメートル。人口三万人弱。四方を山に囲まれた内陸山間地。
突出した産業も無く際立った観光地も無いごくごく平凡な地方小都市。ただし町並みは良い。
市政が始まった一世紀前から現存する建物の数々と、当時から敷かれていた市電と併せ計画的に整備されたであろう道路は、
機能性と相まって景観作りの一翼を担っている。
まるで箱庭のようだ。藤原は眼下に広がる町を眺めそう思う。
「お父さん、おにぎりは?」
「おう、そんじゃもういっこ。真澄、玉子焼きは?」
「おう、そんじゃもういっこ」
「マネすんじゃありません」
自分の口調を真似る真澄を見て、せめて娘の前では口を改めようと決意する藤原。
けれど美味しそうに小さな口一杯玉子焼きをほおばる娘を見て、早起きして玉子焼き作ってよかったなあとお父さんご満悦。
ちなみに他のおかずとおにぎりは娘が作りました。
「お父さん、はいお茶」
「ありがとう、真澄」
「お父さん、無理しないで」
「何を言っているんだい?お父さんはいつも」
「ていうかその口調気持ち悪い」
僅か一分弱で一大決心が粉々にされかっぐり肩を落すお父さん。ぽんぽんとその肩を叩く娘。
二人はいま、町を見下ろす小高い山の頂上に軽トラを止め、荷台にゴザを敷きお弁当を食べている。
せっかくの晴天、こんな日は家でゴロゴロもったいない、と休みを使ってピクニックに来た二人。
ずずう、とお茶を啜りながら仲良く町を展望する。
「いい天気だよねー」
「んだなー」
ぼーっと自分たちが暮らし始めた町、かなめ市を見下ろす二人。
その景色を眺めながらふと藤原は気付く。町並みも道路も線路も、全てが町の中心より同心円状に広がっていると。
ではその中心にあるものは。それは市庁舎でも駅でも無い、あの真四角な建物。
確か以前目を通した資料にはこの建物、旧商工会議所だったらしい。
なんでも市庁舎と市役所前駅が建てられた一世紀前より現存するらしく、かなめ市三大古臭い建物と呼ばれているとかいないとか。
そういや一ヶ月前、この町に来たとき改装してたよな、と藤原は思い出す。郷土資料館になるんだっけか。今度寄ってみるか。
「ごちそうさまでした」
「ゴチでございました」
手と手をあわせてしあわせ、ってな感じで仲良く向かい合って一礼。
その後お茶をずずずうとすするフジワラ親子。ぽかぽかと日差しが心地いい。
不意にごろん、と大の字に寝転がる娘。空は相変わらずのブルー。さわさわと風が真澄の前髪を揺らす。
「飯食ってすぐ寝ると牛になるぞ」
「んー、胸だけならいいのー」
そっか。お父さん触れない事にする。触れてはいけない気がする。
目を細めながら微笑み、再び眼下の町に視線を移す。そして藤原は思う。やはりおかしいと。
一ヶ月前、今いる場所に車を止めてしばし町の全景を眺めた。これは藤原の身についた習慣でもあった。
見知らぬ土地を訪れる時、彼はこの作業を欠かさない。自分が活動する場所の空間把握を行う為だ。
何処に何が有りどう動くべきか。それを脳裏に焼き付ける。
故に藤原は迷わない。行動を起こし遂行し戻るべく培われて来た習慣。しかし。
この町に来た初日、藤原は迷ってしまった。
町に入った時、微かな違和感。中心部を抜け、古びた住宅地へと入った途端、藤原の感覚が大きく狂う。
脳裏に焼き付けた筈のイメージにずれが生じたのだ。今までこの様な事は一度たりとも無かった。
ひと月を経た今でこそ慣れはしたが、あの感覚は忘れない。
「なるほどねえ、やっぱそうか」
そして現在。再び町を見下ろし、あの感覚の正体に気付く藤原。
一ヶ月前、脳裏に刻んだ町と今の町を重ねてみる。
そして彼は確信する。思い違いではなかったと。
感覚がずれたのではない。町がずれているのだ。
「おっかねえ町だわ、こりゃ」
藤原は夢想する。型枠の中で身をよじる巨大な獣。その姿が脈動する町に重なる。
しかし一箇所だけ動かぬ場所がある。基点だ、と藤原は直感する。あの真四角な灰色の箱。何かある。
「んー」
くいくいと袖を引かれ藤原は思索を止める。
振り向けばゴザの上で寝そべる娘が彼のシャツを引っ張っている。
寝ろ。お前もこっちゃ来て寝ろ、の合図。
「へいへい」
苦笑しながら真澄の横に寝そべるお父さん。体を冷やさぬように娘を胸元に抱き寄せる。
柔らかな日差し、青い空。胸元で寝息を立てる愛しい娘。そして藤原は目を閉じる。
その姿はまるで、身を寄せ眠る、獣の親子のようだった。
■
傾き始めた日差し。山の稜線に伸びる影。
夕暮れ間近の山道を下り終え、軽トラが西日を背にとことこ進む。
「あ、お父さん見て!大きな家!」
真澄が指差す先に小さな森。目を凝らせば大きな洋館の屋根が見える。
「おー、でっけえなあ」
驚く素振りを見せながら藤原は思う。ああ、柊のお屋敷かと。
彼の仕事、駐在調整官とは、基本的にただ居ればいいだけの役職である。
何も無ければそれで結構。だが、もし何か事が起き、それが国に脅威を与えると判断した際、調整官の持つ特務権限、
つまり干渉権を行使しカナメへと介入せねばならない。
そのような事態が起こらぬ様、常に目を光らせ調整を行う必要があると彼は考えていた。
もっとも彼の上司は別の意図を持つようではあるが、まあそれはいいとして。
有事を考慮し事前に全世帯の概要に目を通す、それが内務省・統合情報管理局・要事案部・駐在調整官、藤原信也が
着任してより一ヶ月の間に取り組んでいた事だった。
総世帯数六千弱。誰が誰と繋がりどのように作用するのか。
長い間禁忌とされてきたカナメにおける有機的ヒューマンネットワークの解明は始まったばかりだ。
地道で気の長い作業ではある。本局の机上では当然計る事など出来はしない。
当然フィールドワークは必須。彼に課せられた任務の一つでもある。
まあ気楽にやるべさ、と呑気に構えている藤原ではあるが、いくつか気になる点が浮上する。その中の一つに柊の名があった。
「誰が住んでいるのかな?お嬢さまとか居たりして」
「あー、なんか空き家らしいぜ」
えー、もったいなーい、と窓の外、通り過ぎていく大きな門を見ながら真澄は言う。
だが事実なのだ。あの屋敷は空き家なのだ。しかも藤原が調べた限りでは過去二十年を遡っても居住者の記録が存在しない。
しかし納税記録は存在する。柊の名で途絶える事無く払われ続ける固定資産税。
本局調査部でさえ納入者が掴めぬという事実は、柊の名と屋敷が、かなめ市の空白地帯である事を示していた。
誰も居らぬ筈の屋敷、固く閉ざされた鉄の門は年を経たにも関わらず錆び一つ浮かべず、その先への侵入を拒んでいた。
何かがある、と藤原は感じる。
というか何かがあり過ぎて困るのだこの町は。
道に迷うわ隣の大家は化物だわ市長相変わらず草刈りに精出すわ化物大家が毎日夕飯たかりに来るわ
馬鹿が空から降って来るわピクニック来たらなんか町動いてるわエトセトラエトセトラ。
まあいいや、ゆっくりやるべ、とすっかり馴染んで来たお父さん。何故かと言いますと。
「でもやっぱ、おうちが一番だよね、お父さん」
なんて事を愛しい娘に言われようものならたまりません。
「片寄せ合うくらいが丁度いいもんね、わたしたち」
だよねー、とフジワラ口元緩みっぱなしでございます。
「だからお父さん、車のカタログ捨てといたから」
「なんですと」
いきなりの急展開にお父さんびっくり。
「いやおめえ、いつまでもコレじゃ」
「だーめ!コレがいいの!」
この軽トラ、実は引越し用のもらい物。
本当はレンタカーで済まそうと思っていたのだが、同僚の一人がコレ使って下さいよ藤原さん、と譲ってくれたものなのだ。
使い終わったら適当なとこで売っぱらって下さいと気の良いその同僚は笑った。
あ、大丈夫ですこの型もう二台あるんで。これ布教用ですから──彼は極度の軽トラマニアだった。
「いやだってコレせめえだろ、座席も倒せねえし」
「おうちも車も、これくらいが丁度いいの」
「第一よぉ、コレ二人乗りだぜ?」
「いいじゃない二人乗りで、二人っきりの家族なんだから」
フジワラ殺すにゃ刃物は要らぬ。娘のひとことあればいい。
お父さん限界です。泣きそうです。というか泣きました。
■
今日の晩御飯はカレーでした。
「ごちそうさまでした」
寸胴鍋がいい仕事してくれました。
「ごっつおうさんです」
というかここの所フル稼働です。何故かといいますと。
「今日も美味しかったですよ真澄」
こいつがいるからです。
「お前の胃、どうなってんだよオイ」
「お前一人くらいは入りますよ藤原」
マジでか!とお父さんびっくり。底なし胃袋の大家さんにもすっかり馴染みました。
「真澄、片付け俺やっから、さき風呂入ってこいや」
「え?いいの?ありがとー!」
お父さんの気が変わらぬうちにたったかたったか風呂場へ駆けて行く娘。
その後ろ姿を見送った後、ちょいちょいと指で繭子を誘い、お茶の入った湯呑み片手にそのまま二人は庭先へ。
縁側に腰掛け、ずずう、ずずずう、と、しばし無言で茶をすする二人。そして。
「色々と調べておるようですね、藤原」
「仕事だからな」
再びずずう、と茶をすする二人。
「この町、一体全体なんなんだ」
「知りたいですか?」
「やっぱいいわ」
「それが良い」
三たびずずう、と茶をすする二人。
「帰り道、柊のお屋敷の前通ったんだわ」
湯飲みから口を離し藤原が呟く。
「あれ、おめえの持ちもんだよな、繭子」
導き出した結論をカナメの主に問う藤原。
とどのつまり、町の謎は全てこの存在に集約されると藤原は踏んでいた。
所有者不明物件、誰のものでもない屋敷。それはつまり、この童女の姿を模した化物のものなのだと。
「この家みたいなモンなんだろ?違うか?」
調査の過程で藤原は気付いた。現在この町には空き家が一軒しかない事に。
一ヶ月前は二軒あった。柊の屋敷ともう一軒。しかしそこは埋まった。自分達が居住したからだ。
「おめえ、この町の大家か」
藤原の言葉を受け、繭子の口が湯呑みから離れる。
「大家と言えば親も同然。そうでしょう?藤原」
相変わらずの無表情。抑揚の無い声で告げる繭子。
「ふん」
そしてまた、ずずずう、と二人が茶をすする。
軒先を見上げれば、欠けた月が夜空を照らす。青白い光に照らされる大家の顔は相変わらずの白。
町の主、常世繭子の横顔を見ながら藤原は思う。きっとこいつは町が生まれた一世紀前も、こうして佇んでいたのだろうかと。
果たしてこの存在は何を考えているのだろうかと。いや、何も考えていないのか。
それとも彼女の考えなど人間では到底窺い知る事など出来ぬのか。
だが、まあいい。と藤原は思う。
こいつは、今のところ自分たちに害為すつもりは無いらしい。少なくとも真澄に対してはその気が無いらしい。
ならば良し。それで十分。それだけで充分。それ以上は望まない。あの子もこいつに懐いている。
あの子の笑顔を構成する一片にこいつがいる限り、事を起こすつもりなど毛頭無い。
与えられた仕事はこなす。だが局長の意図など知るか。お国の事情もカナメもヴォクスホールも知るか。
あの子と二人この町で、笑っていられるならそれでいい。
それだけでいい、と藤原は思う。
「そうですか。それもまた良しですよ藤原」
「勝手に視るんじゃねえよ、このヤロウ」
ずずう。最後の一口をすする二人。
「あー、いいお風呂でしたー」
振り向けはほかほかと湯気立てるパジャマ姿の真澄の姿。
「あ、お父さんまだ片付けやってないじゃん!」
「おおう、すまんすまん」
ぷくう、と頬膨らます娘を見て藤原が微笑む。
「さて。馳走になりました。わたくしはそろそろ帰りますよ真澄、藤原」
「おう、帰れ帰れ」
「マユコさんおやすみー、またあしたー」
湯飲みを縁側に起き、すくっと立ち上がる着物童女。
「ところでお前たち。来週の土曜は空けておくように」
くるりと夜風に長い黒髪をなびかせて、しれっとのたまう童女。
「え?なにかあるのマユコさん」
繭子の小さな手にいつのまにか現れた、二通の招待状。
「なんじゃこりゃ」
藤原が目を凝らせば〈かなめ市郷土資料館プレオープンセレモニー御案内〉の文字。
ご丁寧にも自分のは藤原信也様、娘のは藤原真澄様、とそれぞれ宛名がふってある。
「馳走の礼をせねばなりませぬ。わかりましたねお前たち」
その時、藤原信也は信じられないものを見た。
人形顔の無表情、常世繭子が一瞬、微笑んだのだ。
■狼の娘・滅日の銃
■第五話/かなめ!ふしぎ!■了
■次回■第六話「時には昔の話をしようか」