一年前。
「信也ぁ、おめえこの前そろそろ引きてえ、とか抜かしてやがったよな」
「局長ぉ。俺ぁ来年四十です。若くねえし今までみたく無茶できません」
「で、逃げた女房と娘の後追っかけるってか?」
「うるせえよ。あんたにゃ関係ねえだろうが」
「大有りだ、今てめえに抜けられたらパワーバランス崩れちまう」
「ヒトに頼んじゃねえよこのグラサンタヌキ」
「おめえがバカやりすぎたせいだろうがチンピラ」
実際、専従班の練度は決して低くはない、と局長である室戸は常々思っている。
つまりこの男が突出し過ぎているだけなのだ。
しかし国内外でも鬼包丁、もしくはヘルマシェーテと仇名される藤原の存在は大きく、これが一つの抑止力ともなっていた。
頼るつもりなど毛頭無い、引くというならそれでもいい。しかし室戸は思う。
お前の名は利用させてもらう。引くのは一線だけだ。ガラは離さない。所属しているという事実さえあればいい。
「ワンマンアーミーなんて時代遅れなんスよ」
「おめえが言うんじゃねえよオメエが」
藤原は自分が変わったのはあの女と娘のせいだと思っているらしい。だが違うと室戸は思う。
この男の本質は享楽的なペシミストなのだ。狂乱と血と酒と薔薇の日々をいくら渡り歩こうと、頭の隅でどこかが必ず醒めている。
だからこそ今まで生き残り、どこからでも帰って来れたのだ。醒めている、というより熱を寄せ付けないと言った方が正しい。
熱気と熱狂に彩られた男の芯は冬の鋼よりも冷たい。彼が引き時と考えるのは冷たい芯がそう囁くからだ。
「ま、直ぐにとは言いませんが、そろそろ、ってね」
「まあそれについちゃ、プランがねえ事はねえんだが」
それにはちと準備がな、と局長はにたりと笑う。
「ま、煮るなり焼くなりッスかね。ここに下駄脱いだ時から俺ぁ覚悟出来てますんで」
「その為にもおめえ、今から後釜作っとく気ねえか?」
「後釜?そんなんゲンタとかカネトモとか幾らでもいるでしょうが」
「違う違う、おめえ自身の後釜って奴さ」
ラストダイナソー──最後の恐竜で終わらすにはもったいねえってんだ、と室戸は笑う。
「養成所から引っ張ってくるとか気の長い事言わねえで下さいよ」
「ダァホ、そんな手間も時間もかけられるか」
そのまま室戸は机のインカムを押し──寄越してくれ、ゆっくりでいい──と指示を出す。
「ま、計ったみてえに、うってつけの奴が見つかってよ」
へえー、と半開きの眼で返す藤原。嘘だ、絶対このタヌキ仕込んでやがった。お互い長い付き合いだから解る。
そもそも今日、特別用も無いのに何故、局長室に自分を呼び出したのか。室戸の意図が読めてきた藤原。しかし。
「羽田トランク──覚えているよな、信也」
意外な室戸の一言に一瞬目を剥く藤原。
一体自分の後釜の話とどう繋がる──いや、だからかと藤原は気付く。
自分が引く事を考えた理由、その全ての発端はあの事件に起因するのだ。目の前の上司は恐らく──気付いている。
「忘れようがねえですよ、局長」
「二十年前か」
「十九年前です」
俺がハタチん時ですからね、と笑う藤原。
「そうだな、おめえアレで童貞捨てたんだもんな」
「そうッスね。バケモンで童貞捨てるなんざ最悪ですがね」
「一匹──逃がしたんだっけか」
「──ええ」
藤原の脳裏に響く少女の声。
──みつけた、みつけたあ、わたしのおとこ。
忘れる事など出来るものか。
「あれは──まあいい。今更言わねえ。てめえへのご褒美って事にしといてやる」
「──ありがとうございます」
やはり気付いていた。たった一度の過ちを室戸は気付いていたのだ、と藤原は確信する。
目こぼしされていたのか、それとも今日この日の為、その切札に取っておいたのか。それは解らない。
けれど、ほんの少しだけ肩の荷が軽くなったような気がする。当然その代わりに何かを背負わされるのは間違いないのだが。
「関わりがあるんスか?」
「まあな。おめえあの時何があったか、全部覚えてんよな」
「ええ、まあ」
十九年前。ある空港で給油の為立ち寄った一機の貨物機が着陸に失敗、炎上大破するという事件が起きた。
それだけならば単なる事故で管轄が違う。しかし問題はその荷だった。
空港は一時封鎖され、厳重な警戒と報道管制が敷かれた。
後の公式発表では、機の積荷の中に特定伝染病の培養体があり、危険度は極めて少ないながらも法令に則り封鎖措置を施したとある。
しかし消化活動の最中に突然下された退避命令。入れ替わりに現れた内務省管轄の即応部隊。
完全武装の彼らが見た物は炎に包まれる機体と、滑走路に散乱する破片と荷物。
その中で不自然なほど綺麗に並べられたトランクのような物。
まるで彼らを待ち構えていたかのように横一列に並べられた六個のトランクを前に、隊員達に緊張が走る、その時。
蓋が開いた。六個の蓋が一斉に口を開けた。
銃を構える隊員達の中に養成所上がりの新人、藤原も居た。
そして彼は目にする。口の開いたトランクから立ち上がる何かの姿を。
最初は半透明なゼリーのようだった。その中に骨格が生まれ併せて徐々にヒトの形を模していく。
頭部らしき部位に脳らしきものが生まれる。脳から全身に張り巡らされる神経。胸に心臓。心臓から全身に行き渡る血管。
循環する血流と共に内臓が生まれ肉と腱が覆いやがてそれは皮膚で包まれる。
その間僅か十秒足らず。ガスマスクの向こう側で繰り広げられる光景に一瞬見とれる隊員達。
しかし若き藤原は直感する。これはやばい、何かは解らぬが確実にやばいと。
見れば既に目の前のそれは人の形を作り終えていた。柔らかなラインと胸の膨らみから女と思われた。それも発育途中の少女に見える。ただし。
顔が無かった。目も口も鼻も、何も無かった。なのに、こちらを見たような気がした。
その時、左脇の隊員が倒れた。右脇の隊員も倒れた。のっぺらぼうのヒトガタが二つ消えていた。
本能的に身を引く藤原。その瞬間彼の居た場所に突き刺さる第三のヒトガタ、のっぺらぼうの腕の先が滑走路を貫く。
身を翻し見れば空のトランク六個。突如始まる狂宴。閃光、銃声、絶叫、次々とヒトガタに屠られていく隊員達。
藤原はガスマスクを投げ捨てる。クリアになる視界と鼻腔に広がる血の匂い。トリガーを引く、小銃から閃光、しかし全て避けられる。
その間にも次々と息絶える仲間達──気が付けば一人。
炎に包まれ燃え落ちる残骸を背に立ち上がる六つのヒトガタを前に、藤原は覚悟を決める。
重い装備を外しボディーアーマーすら脱ぎ捨て、右手にハンドガン左手にナイフを持ち構える藤原。
これでいい、これしかないと判断する。跳ね上がる鼓動が血流を循環させる。体中に血が巡る。けれど頭は醒めていく。
その時群れの中から彼に飛び掛る一体のヒトガタ。体に触れる刹那身を交わせば姿勢を崩し地に伏せる。
その瞬間、心臓の裏側に突き立てられた刃先。崩れ落ちるヒトガタ。
刃先を抜く隙を突き第二のヒトガタが飛び掛るも一体目の骸を膝で蹴り上げ投げつける。
あおり受けて姿勢を崩す二体目の額に右手の銃口、そして銃声。二体目沈黙。
やはりな、と藤原が笑う。口の端々を獣のように吊り上げて。
俺は見た。奴らには脳が、心臓が、内臓が、肉があった。何の事は無い。こいつらは急所を持った只の化物、ヒトモドキだ。
ならば構うものか。殺って殺って殺りまくれ。
──残り四つ。さあどうした来いよ糞虫ども。殺り合おうぜ!
藤原が叫ぶと一体を残し三体が一斉に飛び掛る。しかし同時に藤原も地を蹴り飛び込む。
養成所で習得した技能など糞の役にも立ちゃしねえ、ならば本能の赴くままに屠るのみ。
突き出された手刀を紙一重で避けその手首を噛み千切る。噴出す赤、やはり血。
引こうとする手を咥え離さず引き寄せてその喉元をナイフで裂く、まずは一体。
背中の気配に肘鉄一閃、姿勢を崩す二体目に肘を伸ばし銃口を胸の膨らみに押し当て横に滑らせながら5.7mmを三発撃ち込む。二体目沈黙。
そのまま右腕を頭上に掲げ二発発射。のっぺらぼうの額に二つの穴を開けた亡骸がどさり、と男の足元に落ちた。三体目沈黙。
残弾十四、刃こぼれ無し。
──てめえ、ずっと見てやがったな。
炎を背に佇む最後のヒトガタを見て藤原は気付く。
こいつはずっと見ていた。他の五体は恐らく、俺を計る為の犠牲、否、残る一体の為に生贄にされたのだと。
──へえ、やる気マンマンじゃねえか。
藤原は気付く。少女の曲線を持つそのヒトガタの手に握られたものを。
彼が戦っている最中、倒れた隊員から抜き取ったであろうもの。左手に銃,、右手にナイフ。
──邪魔入る前にとっととヤろうぜ、ネエちゃん。
のっぺらぼうが笑った、ように見えた。
「トランクはあの時いくつあったかな、信也」
局長の言葉が藤原を過去から引き戻す。
「六個ですね、それが何か」
結局あれは何だったのか。公式には記されていない。
犠牲となった隊員達は救助活動中の殉職と処理された。しかし後に藤原は事件の黒幕を知る──ヴォクスホール、その存在を。
「もう一個、あったんだ」
どくん、と藤原の心臓が大きく脈打つ。
「今何つった、室戸さん」
「全部で七個だったんだよ、藤原」
その時、局長室のドアを叩く音。そのまま待て、と室戸は告げる。
「ぶっちゃけた話、七つでワンセットだったらしいんだわ、シンヤ」
あんた何を今更、と藤原は言おうとするも、ドアの外の気配に気が逸れ言葉が出ない。
「あれは事故だった、というのがヴォクスホール側の見解でな」
ふざけんな、喉元まで出掛かる藤原の言葉を室戸が手で制す。まあ聞け、と。
「そりゃそうだ。あいつら〈他の地は侵さず〉が原則だからな。それがカナメに鎮座まします常世の君との盟約だ。
だからあいつらの持つ魔道師団は、防衛にのみ絶大な力を行使する事が許された。
だから魔道〈旅団〉の存在は間違っても公には出来ねえのさ」
そんな訳で残骸から見つかった最後の一個が宙に浮いちまったんだ、と室戸は言う。
「突っ返そうにもそんなん知らね、が奴らのスタンスでな」
だからウチで秘密裏に保管していたのさ、と室戸は続ける。
バラしても良かったんだが少々やっかいな封印施されているみてえで下手に開けたらちとヤバイ事なりそうでよ。
そんならこのまま丁重に御預かりしてだ、何かの時のカードに使おうってな、と笑う局長。
「アンタ相変わらず、食えねえな」
「誉めんなよ」
「で、それがドアの後ろで行儀良く待ってる、何もねえ奴と関わりあんのか?」
「さすが鬼包丁、気付いたか」
そう、藤原は気付いていた。ドアの外の存在に。
正確に言えばドアの外に居るにも関わらず、何も感じさせぬ得体の知れないものに。
「そんじゃご対面といくか──いいぞ、入れ」
そして、ドアが開く。
狼の娘・滅日の銃
第四話 - 馬鹿がおうちにやって来た -
「あ、お帰りお父さん──なに、それ」
「うん、話せば長くなるんだが。簡単に言えば馬鹿連れてきた」
「こんばんは真澄ちゃん!バカでーす!」
ちょいちょい、と真澄が笑いながらこっちゃ来いのポーズ。
ン!と弟子の手前お父さんカラ威張りで娘と共にキッチンの奥へと消えました。すると。
「なんで今日マミさん来るって事前に言わないのよバカー!」
「痛いッ!痛いッ!しゃーねえだろあの馬鹿いきなり降って来たんだからよ痛いッ」
バシッバシッと肉を叩く音と共に、親子の叫び声がキッチンの奥から聞こえてくる。
「ご飯あらかたマユコさん食べちゃったわよ!もうお父さんの分しかないわよ!」
「痛いッ!おめえ腿裏蹴るな!っていうか何で奴いつもウチで飯喰ってんだ痛いッ!」
「知らないわよ大家と言えば親も同然なんでしょセイッ!」
「痛いッ!痛いッ!痛いッ!痛いッ!痛いッ!痛アッー!」
五分後、太ももをさすりながら藤原再び登場。
後ろの真澄、いくぶんすっきりした顔つき。
「あーなんだ、娘にも良く言って聞かせたから今日は泊まってけ、けどオメエの飯ねえから」
「ごめんねマミさん、後で何か買ってくるね。大家さんいるけど今日はゆっくりしていってね!
あ、ところで──お父さん、そのシャツどうしたの?」
にっこりと笑う真澄。来たか、と藤原覚悟完了。
「チッうっせーな──汚しました、すいません」
お父さん最近素直に謝る術を身につけました。
ここまでは良かったのです。ここまでは。
「ごめん真澄ちゃん!それアタシの血なの!ごめん!」
この馬鹿が余計なコト言うまでは良かったのです。
「マミさんの──血?」
そうですかそうですか。真澄ちゃんキミね、きっと誤解してるよ、と固まるお父さん。
けれどやはり馬鹿の二つ名は伊達じゃない。きっちりやらかしてくれました。
「アタシのぉ、はじめてぇを、師匠にぃ、あげちゃった!キャハ!」
「お父さんちょっとこっち来て」
くいくいっ、とアゴでいいからこっち来んかいのポーズを取る娘を見て、お父さんがっくりと肩を落とし、そのまま二人キッチンの奥へ。
「ハイッ!ハイッ!ハイッ!ハイッ!」
「痛いッ!痛いッ!痛いッ!痛いッ!」
五分後、蝉の抜け殻のような顔で現れたお父さん。
なんとか誤解を解き、この馬鹿を明日タコ殴りにする事を決意して再び玄関へ戻ると。
「藤原、藤原」
いつのまにか現れた着物童女が藤原の袖をくいくいとつかみ。
「あ、なんだおめえまだ居たのか」
相変わらずの無表情で、ちょっとコレ見てみ?と藤原を促す繭子。
「この子狐ですが藤原」
「あ」
しまった、と藤原師匠、うっかりハチベエ並にうっかりしてましたの巻。
魂とかルフランとかすっかり抜けたように、玄関で茫然と立ち尽くす馬鹿を見ながら、そういや言ってなかったよなあ、と藤原ふたたび肩を落す。
良く見れば馬鹿、気を失っております。失禁もしてます。おもらし属性また開花。だよねー、と横目で繭子を見ながら溜息をつく。
「わたくし少々悲しくなりましたよ藤原」
「おめえ少しは手加減してやれよ」
「わたしは何もしておりませぬ」
「そっか、悪かったな」
そうだよな、と藤原は苦笑する。二週間前、初めてこいつと出会った時も俺ヤバかったもんな、と今更ながら思い知る。
局長こいつに──言うわけねえわなあ。通過儀礼みたいなもんだなコレは。
しかしまあ、こいつも馬鹿なりにちゃんと気付けたってのは収穫だな、と目を細める藤原。漏らしたけど。
これ掃除俺やんだろうなあ、困った困った。
「悲しいゆえに今宵は帰りまする。真澄、明日の馳走を期待しておりまする」
「マユコさんおやすみー」
はいはい明日もウチでメシ食うのね、はいはい。とすっかり慣れたものですお父さん。
「ところでお父さん、これ」
「うん。とりあえず風呂に放り込んでおくか」
さて掃除掃除、と腕まくりする藤原でした。
■
のっぺらぼうが笑った、ように見えた。
違う、見間違いじゃねえと若き藤原は凝視する
何も無い筈の顔に、にじみ出るかの如く唇が現れたのだ。その口元は笑っている。
「おう、楽しそうだな」
鏡かも知れない。不意にその考えが脳裏を過ぎる。何故ならそれは自分と同じだからだ。
「俺も楽しいぜネエちゃんよおッ!」
同時に飛ぶ二つの影。交差する刃と刃、散る火花、笑う口と口。
ゴリッと重なり軋みあう二対の強化樹脂、内包される小口径の銃口がお互いの額を捕らえる、そして銃声。
「ハッハァ!」
鼻先をかすめる音速の銃弾、焼ける前髪、のけぞる頭。
しかし振り子の如くに反動をつけ突き出された額、向こうも同じ、ゴッと鈍い音を立てぶつかり合う額と額、その時。
目が開く。
触れ合う程の距離で藤原は見る。彼女の瞳──そう、遂にヒトガタは少女となった。
はぁっ、と開いた口から熱い吐息が漏れる。鼻もあった。鼻の頭を擦り付けて彼女が笑う。
ちろり、と赤い舌が藤原の唇を舐める。ギリギリと拮抗する刃と刃、銃口と銃口。
はらり、と彼女の前髪が藤原の頬を撫でる。前髪?そう前髪だ。
現れた目鼻と共に既に少女は肩まで伸びた髪を生やしている──限界だ。藤原は腿を蹴り上げる。
「てめッ!」
腿が触れる瞬間、男から飛び退く少女。即座に構える藤原。
そして彼女の全身を目に映す。既に胸の膨らみは乳房と化していた。腹部にへそ、その下に薄い茂みすら湛えている。
「──真来」
不意にその名が口から漏れる。自分と同じ構えを取る裸体の少女に、その名を告げてしまう。
マキ──その名。藤原の眼前で笑いながら牙を研ぐ少女の顔は、遠い昔、亡くした筈の妹、その面影を色濃く映していた。
一瞬の混乱、その隙を突き少女が跳ぶ。
「くそったれえ!」
その刃先が藤原の頬を裂く。彼の銃口が少女の前髪を焼く。倒れ組む男、馬乗りに組み伏せる少女。
華奢な腕とは思えぬその力、刃と銃口、再びの拮抗、しかし。
「──そう、わたし、マキって言うのね」
開いた少女の口から囁かれた言葉で遂に藤原は理解する。
こいつは俺の技を取り込んだ。俺の心さえ吸い取った。吸い取り取り込み消化した。
やがて、妹の面影を宿すその少女が惚けたように笑う。
「みつけた、みつけたあ、わたしのおとこ」
声が出なかった。何故なら塞がれたからだ。その唇で。
重ねられた唇を割り熱い少女の舌が男の口腔に侵入する。
くそったれ、心の内で吐き捨てながら藤原は抗うも、蛇のような舌が彼の舌に巻きつき離さない。
噛み切れ──微かに残った理性が警告する。しかし本能がそれを拒否する。
徐々に彼女を受け入れていく藤原の口と舌。くそったれ、くそったれと何度も脳裏で叫ぼうと抗い切れぬその感覚。
蕩けていく。このまま全部こいつに、妹に似たこいつに吸わちまうのか、くそったれ。
蕩けていくその感覚でさえも消えようとしたその時──突如少女が身を引く。
「──てめッ!」
我に返り藤原が飛び起きる。その瞬間頭上から眩い光、そして突風。
轟音と共にヘリのローター音が、二人の逢瀬を切り裂かんばかりに滑走路に降り注ぐ。
増援──それに気付き再び銃とナイフを構える藤原。しかし少女は。
「てめえ──何してやがる」
突風に髪をなびかせて裸体の少女が微笑む。片手に空のトランクを掴み、藤原にこう告げる。
「また会いましょう──ダーリン」
そして、風と共に光届かぬ闇の奥へと消えた。
「くそったれ」
藤原は追わなかった。その気力すら沸かず、どさり、とその場に座り込む。
「くそったれえッ!」
炎と亡骸と風の中で、彼の絶叫だけが虚しく響いた。
■
「──くそったれ」
その少女を見て藤原は、開口一番、十九年前叫んだ言葉を再び吐き捨てる。
「シンヤ、紹介しておく。本日付けでウチの預かりとなった備品だ」
「備品?」
「おう、備品だ」
その少女は人形のようだった。感情を浮かべず、しかし言語を介し相応の知識も有していた。
室戸は言う。一ヶ月前、何の前触れも無しに最後のトランクが開いたと。そして中からこの少女が現れたと。
しかし別段抵抗する事もせず、それどころか恭順の意すら示したと。
「局長、なんでこいつに──顔があんだよ」
藤原の脳裏にあの一夜が鮮明に蘇る。のっぺらぼうのヒトガタ。
倒した五体には顔がなかった。そして最後の一体は彼の記憶からあの顔を引きずり出し、己のものとした。
「しらねえよ、このまんま出てきたんだ」
おめえの言っていた手順を踏まずにな、と室戸は告げる。
あの半透明なゼリーでもなく、このままの姿で七個目のトランクから出てきたんだ、と。
「──ふん」
あの時の自分ならば、即座に喉笛をかっ切っていただろうと藤原は思う。
けれど悲しいかな十九年で身に付いた分別とやらが邪魔をする。
「ご大層なツラしやがって」
その言葉に何の反応も示さない少女を見て藤原は思い出す。
振り返ればあの時、あいつが妹の顔を模したのは、その時自身の身を守る為にそうしたのだと確信している。
だから隙が出来た。あいつはそれを見逃さなかった。本来はそういう物だったのだろう、しかし。
「似ておりますか?」
少女の第一声、抑揚の無い機械的なその声を聞き、藤原は拳を固く握る。
「私の本体──アルファに」
風を切り藤原の裏拳が少女の鼻先で静止する。
「どういう意味だ」
拳圧を受けても瞬きすらしないこの少女は、確かにあいつに似ていた。
「私はオメガ。六体の姉、アルファ達のバックアップ、予備素体ですので」
しかし似すぎてはいなかった。姉妹といえば姉妹、別人といえば別人と言えた。
中々どうして狡猾だな、と藤原は思う。別人になり切らず面影を残す。つまりはアピールだ。
あの女に似ている私をお前はどうする、と試しているのだ。やはりターゲットは俺か。反吐が出る。
「何故今頃になって目覚めた」
「解りません」
嘘だな、と直感する。
解らぬ訳ないだろうと。お前が目覚めたのには明確な理由がある。それはきっと。
──あんたの足枷にはならない。
あの女の別れ際の一言が今になって効いてくる。今更ながら思い知る。馬鹿野郎、と藤原はつぶやく。
気高き獣は最期の姿を誰にも見せぬという。バックアップが目覚めた理由、それは本体の終焉を意味する。
馬鹿野郎、何故気付かなかった。あの意地っ張りめ。なら何故あの子を連れて行った。
馬鹿野郎。てめえはやっぱ狼、それもタチの悪いことに寂しがり屋の一匹狼。
馬鹿野郎、てめえって奴はやっぱり──俺と同じだ。
「──ばかやろう」
「私が馬鹿という意味ですか」
「ああ、そうだ、そうだともよ馬鹿」
拳を下ろし、藤原は力なく首を振る。
「一応言っとくがなシンヤ。ちなみにこいつ、どう調べても人間だったわ」
室戸の言葉に溜息で返し、そうだろうよ、そうだともよ、と藤原は頷く。
「驚ろかねえな、おめえ」
「ええ、いろいろ知ってますんで。こいつらの事は」
こいつは化物だが只の女にも雌にもなれる。そして──母にも。
「そっか。んじゃ話早えなシンヤ。こいつ、おめえに預けるから」
「なん、ですと」
まさかそう来るとは。今度こそ驚く藤原。
「一年やる。こいつ後釜に仕立てろや」
「いやいやいや、あんた何言ってんスか!だってこいつ、ヴォクスホールの!」
「ヴォクスホールのパテントは解除されております。私はフリーです。ちなみに処女です」
「おめえも何言ってんのバカー!」
「いやシンヤこいつお買い得だぜ?人間っぽいけど身体能力はすげえぞ?おめえも解るだろ?
こいつなら煮るなり焼くなり犯すなり犯されるなりしても文句言わねえし、あと生娘だし」
「あんたも何言ってんだバカー!」
「宜しくお願い致します、マスター」
ぺこりと頭を下げる少女の頭をはったおそうかと思うも、ぐっと堪える藤原。そして気付く。
「──マスター?」
「はい、マスター」
「なしてそう呼びはるの?」
「私はあなたの所有物です。ですので煮るなり焼くなり殺すなり殺されるなり
犯すなり私に犯されるなりご自由にして下さいという意味でそう呼びました。ちなみに処女です」
何でこいつ自分の処女性を強調すんだろう。誘ってんのかオイ、まあそれはおいといて。
どのみちこのタヌキ全てお膳立て整えやがったな、ジタバタすんだけ無駄か。ならばと藤原は局長に向き直り改めて告げる。
「こいつのガラ預けんなら、俺以外、誰も手出し無用でいいな?」
「たりめーだ。誰が鬼包丁のブツに手ェ出せっか。あと戸籍作るぞ、名前どうする?」
「いやどうするってアンタ」
「固有識別名称を、マスター」
「解った、まずマスター止めろ」
喫茶店じゃねえんだからよ、と藤原。せめて師匠にしろと少女に告げる。
「了解しましたフジワラ師匠」
「何か漫才師みてえだな、マスターよりかずっとマシだが」
「固有識別名称を、師匠」
「──真美」
藤原のつぶやいた一言で少女が言葉を止める。そして。
「マミ──良い名を有難うございます、師匠」
一瞬、口元が緩むのを藤原は見逃さなかった。なるほど、そのツラも嘘か、と。
いいだろうと男は思う。楽しみだと彼は思う。無表情の仮面を引き剥がしこれでもかと泣かせてやる。
俺を試した事を心底後悔させてやる。とことん泣かせて笑わせてやる。
今この瞬間が一年後恥ずかしいと思えるまでとことんてめえの感情を引きずり出してやる。
この人形気取りの馬鹿野郎、てめえは甘い。いいだろう楽しませてもらうぜ、と藤原が笑う。
「ではフジワラマミという事で」
「ちょっと待てやコラ」
さらりと既成事実を作ろうとした馬鹿を制し、急ぎ局長に告げるフジワラ師匠。
「苗字はそっちに任せるんで適当につけてください局長。ただしフジワラ以外でな!」
「マミ、マミねえ、ふーん」
そんな二人のやり取りを見ながら少々卑屈に口元を歪める局長。
「あんだよ、何か文句あんのか」
「いんや別に。真美か。ふぅん、いい名じゃねえか」
嫁さんと一文字違いか、そりゃいい、と室戸は笑った。
■
ぼそぼそとお父さんが娘に耳打ち。ふむふむと娘うなずきニヤリと笑う。
「あれ真澄ちゃんどしたの?おねーさんと一緒に入るぅ?」
小便臭い馬鹿、真美が脱衣所でツナギを脱いでいるとカラカラと引き戸が少し開き、真澄が扉から顔半分出し、じいっと真美を見つめる。
わざとらしい程の無表情。どうやったのか解らぬがご丁寧に目のハイライトとかも消している。そして、抑揚の無い声でぼそりと一言。
「こゆうしきべつめいしょうを、ますたー」
ぶふう、と噴出す真美。風呂場の脱衣所に座り込み、頭を抱え、足をジタバタやかましい。
「やめっ!やめてッ!恥ずかしいッ!」
突然の不意打ちに為す術も無く狭い脱衣所で、カゴとかひっくり返しながら頭抱えゴロゴロ転がるお年頃の小娘一人。
しかしここでやめる程この親子、甘くはない。
「ヨロシクオネガイシマス、マスター」
真澄に続き、抑揚の無い図太い声が扉の向こうから聞こえて来る。
「あんたら鬼ッス!やめて何その恥ずかしい黒歴史ッ!」
「われは、しっこくのきし。このひだりてにふういんされしものを、めざめさせるな」
「スピチュアル、ガシッ、ボカッ、ディープラヴ、スイーツ、アイアムラヴマシーン」
「言ってねえよ!そこまで言ってねえよッ!オニー!」
適当にアミダで決められた苗字を持つ小娘、田中真美が鬼親子の仕打ちに叫び転び泣き喚く。
有言実行。一年前の決意を無事成し遂げてフジワラ師匠、いたくご満悦の一幕でした。
■
この平屋、小さいながらも風呂は広い。
どれくらい広いかというと、小学生の娘と女子高生くらいの馬鹿が肩並べて湯船に浸かれるくらいには広い。
つまり現在、そんな状態。
「もうマミさん、機嫌直してよぉ。お茶目なお遊びじゃない」
「お茶目な遊びでアタシの心エグるなんて真澄ちゃんおそろしい子!」
あれから、洗濯機に頭突っ込んでスイッチを押そうとする所まで追い詰められた馬鹿を、何とかなだめすかし、
小便臭い衣服を洗い、ほらマミさん一緒に入ろ?ね?と、ほんの少し反省した真澄に促され、共に風呂に入る事にした真美。
背格好の割にお見事なおバスト様を湯船にぷかぷかと浮かべ、ぶくぶくと口で湯花を作る。
「マミさんて胸おっきいよねー、いいなー」
「へっへーん。オトナのオンナの魅力ってやつぅ?」
誉められると直ぐ調子に乗る馬鹿の横で、その豊満な胸をジト見する真澄。
ペタペタと自分の胸に手を当て、はあっ、と深い溜息をつきひと言。
「ねえ、潰していい?」
「真澄おそろしい子!」
なんか本気で潰しちゃいそうな恐ろしい小学生女子に、
まあまあ真澄ちゃんも直に大きくなるから、と当り障りの無いフォローを入れる真美。
「ほらオトナになったらもう、むちむちばいんばいんって」
「大人かぁ──なりたくないな」
「なして?」
「抑えられなくなっちゃうから」
何を──それを真美は聞けなかった。この子はもう気付いている。自分の本性に。
以前、父親に面会を求め庁舎を訪れたこの娘を案内したのは私だ。ひと目見て解った。この子は抑えていると。
自分の欲望を。それが痛々しかった。その気持ちはもう私だけにしか解らない。
しかしそれをこの娘に、決して悟られてはならないと真美は思った。
もし気付かれたら、この娘はその瞬間より私を敵とみなし──そして。
「ねえマミさん」
「ん?」
「マミさんてなんか、お母さんに似てるんだよね」
「へ?マジで?」
「うん、なんとなく」
そっかー、と気の抜けた返事を返す真美。
その時、すっと真澄が彼女の胸に手を添える。
湯船の中で豊満な胸に触れる小さな手──来たか、と真美は心を研ぎ澄ます。
「あんっ、そこらめぇ──ってこの、いたずらッ子め」
「ふふっごめんごめん」
この娘は怖い。いつも私を試しにくる、と真美は思う。
──あ、お帰りお父さん。
玄関で嬉しそうにあの男を出迎えたこの子は、次の瞬間、私の姿を認め。
──なに、それ。
その時、一瞬過ぎった眼光を忘れる事が出来ない。
「んもう!おマセさんめ!」
「あはは、ごめんごめん」
「いきなり触るもんだからお姉さんドキドキしたったゾ!」
「嘘ね」
感情の篭らぬ声で真澄は告げる。
「鼓動、全然早くないよ」
しまった、と己の失策に気付く真美。
「ばれたか。まぁつまり、小学生のテクじゃ感じない程度にはアタクシ大人ッスから」
「ふふっ、まぁそういうことにしておきましょう」
「ナマイキだぞー」
「なまいきなのー」
あの男に近付く雌をこの娘は決して許さない。呆けた笑い顔の下で真美はそう思う。
唯一の例外はあの化物、常世繭子。視られる前に意識を切断せねば今頃自分はどうなっていただろうか。
しかしこの子にとってはそれすらも些細な事なのだ。
真澄は判断した。あの存在は敵ではない、彼女は雌ではないと。それだけで十分なのだ、この子にとっては。
「マミさん、これみよがしに胸押し付けるのやめてくれない?」
「いーじゃなぁい、すきんしっぷー!」
「むー」
「へへへぇ」
この娘は怖い。けれど愛しい。我が姉が命を賭して生み出した奇跡。
姉の想いは、深い眠りの最中も常に私に注がれた。姉は──アルファは雌になり女になり、そして母になった。
私はどうなのだろうか、と真美は想う。雌でも無く未だ女ですらない、宙ぶらりんの馬鹿。
ひとでなしの化物として生を受け、本来の使命すら消された廃棄物。
けれど蓋が開く瞬間、この姿を選択したのはまぎれもなく自身の意志。
あの女になりたい。それだけが今の私を支えている。
「ねえマミさん。お父さんのこと、好き?」
「正直に言うとね、だいっきらい」
「あはは、ほんとかなー?」
これは嘘。好きで好きでたまらない。狂おしいほどあの男が欲しい。
「とか言っても何だかんだ言って師匠だからねえ、その点だけは最高かな」
「それじゃ、私の事は?」
「正直に言うとね、だいっすき!」
「あはは、うそつきー」
これは本当。この子が愛しい。自分と同じ想いを持つ最後の同胞が愛しくてたまらない。
「うそじゃないもーん」
しかし近い将来自分は決断を迫られる、と真美は感じる。
けれどそれまでは、嘘と真実の危うい綱渡りを演じていたい、灰色の線で反復横跳びをしながら能天気に笑っていたい、と切に願う。
こんな事を考える自分は、随分ヒトになったのだなあ、と彼女は思うのだ。
「つか、てめえら。早く出ろこのヤロウ!」
ガラリと脱衣所の戸が開き、曇りガラスの向こうからあの男の怒鳴り声。
「お父さんのエッチー!」
「師匠のドスケベェー!」
「俺だって早く風呂入りてぇんだよ!」
「じゃあお父さんも一緒に入るぅ?」
「あらぁん師匠ぉん、お背中お流ししますわぁん」
「出来るかバカー!」
「お前ら五月蝿い」
ガラッと浴室の窓が開き、大家さん登場。
「次やったら、引っこ抜きますゆえに」
スパンッ、と窓閉じました。
「あ、お父さーん、マミさん沈んでるー」
「あーそっかー。取りあえず髪の毛掴んで引きずり出しとけー」
「わかったー」
フジワラ親子、この立地にも随分と馴染みました。
■
日で三回の失神はここ最近では珍しい。
あーひどいめにあった、とバスタオルを頭に巻いた馬鹿が、真澄の作ってくれたさっと一品を箸でつつきながら頭を振る。
「でもまあ、これはこれで」
だらしなく口元を緩ませて、自分が着ているだぶだぶパジャマの袖口に鼻近づけて、くんかくんかする真美。
ああん師匠の匂いがするう、とかやっておりますと。
「おめえ何やっとんの?まあいいや、布団敷いたから早よ寝ろ」
「あーすいませんねえ、おや、師匠とザコ寝っスか、いいスねえ」
キッチンから居間を覗くと敷かれた二組の布団を見て、胸躍らすオトメモドキ。
「何言ってんだ。おめえは真澄の部屋に決まってんだろうが」
チッ、と藤原に見えぬよう舌打ちする真美。
せっかくあの子公認で添い寝出来るチャンスかと思った自分が甘かった。
寝相のせいにして抱きついたり馬乗りになってロデオみたく腰振ってやろうと密かに企んでいたアタシったらぁお馬鹿さぁん。
あ、ハイハイ、早く寝やがれですね、ハイハイ。
「んじゃ早く寝ろよー」
「はいはいー」
「マミさんおやすみー」
「へいへいー」
「じゃこっちも寝よっかお父さん」
「そうすっか」
「待てコラ」
家政婦、では無く馬鹿は見た。
藤原が布団に寝転がった瞬間、ぴょーんと父親の背中に抱きつく娘の姿を。
馬鹿は一瞬考えた。いやこれが仲良し親子というものだろうか。しかし待って欲しい。
それにしては娘少し大きくね?来年中学とか上がらね?胸とか密着させてね?
良く見りゃ足とかガッチリに絡ませてね?おかしくね?コレおかしくね?
「つかオカシイだろあんたらぁ!」
「マミさんうるさい」
「おかしくねえぞ、これがフジワラスタイルなんだよ」
「あんた何馴染んでんでスか鬼包丁!いつからロリ包丁になったんスかぁ!」
「お前ら、五月蝿い」
大家みたび登場。馬鹿本日四度目の卒倒。
窓パシンと閉まる。藤原親子慣れた手つきで馬鹿を運び出し真澄の部屋に放り込む。
電気消す、お父さん寝る、娘抱きつく。そして就寝。
そのまま朝を迎える、と思われた。しかしそうは問屋が──馬鹿が卸さなかった。
■
狸寝入り、というスキルをご存知であろうか。
「──さて」
いくら馬鹿でもパターンくらいは読める。つまり四度目の卒倒は嘘でした。
「──やるか」
ここ最近、随分消してなかったなあ、と真美は目を閉じ呼吸を整える。以前は意識せずともこれが出来た。
つまりこのスキルは予め彼女に備わっていた。一年前、藤原と対面したあの時、彼がドアの向こうに何も無いと感じたのはまさにこれだった。
しかし真美の場合、消すのは気配だけではない。その程度なら藤原も軽くこなせる。彼女が消すのは己の存在感そのものだ。
昼間、藤原が一瞬だけ真美をロストしたのは彼女が有するこのスキルに起因する。
あれは、鬼包丁藤原だから避けられたのだ。獣の如き勘と、彼の持つ経験ゆえに。
「あらら、だらしなく口元緩ませちゃってまぁ」
にぃ、と口の両端を吊り上げて真美が笑う。枕元に立ち、寄り添う親子の姿を無機質な瞳にただ映している。
彼女の囁きも二人には届かない。声の存在すら消せるからだ。
「本当に、隙だらけに見えるなあ」
真美はその場にしゃがみこみ顔を男に近づける。
背中から娘に抱きつかれたまま、すうすうと安らかな寝息を立てるこの男、藤原信也。
「でも、隙ないのよねえ、困ったもんだ」
もし今、彼女が藤原の息の根を止めるべく、意志と殺意を以ってその喉元に刃を添えたらどうなるのか。
結果は明白。自動的に藤原の目蓋が開き、意識無きままで男の手刀は彼女の喉元を裂くだろう。故に鬼包丁なのだ。
しかし今──彼女にその意志は無い。
触れたい、と真美は思う。
その瞬間に力は解かれてしまうだろう。それがルールだからだ。そして彼に気付かれてしまうだろう。
構わない、寝ぼけた事にすればいい。またいつもの馬鹿に戻るのだ。この愛しい男を師匠と呼んで泣いたり笑ったりするのだ。それだけだ。
けれど真美は、触れない。
それがあの女との約束だから。それがあの女が最期に願った事だから。
だから今日、私はここに来た。男が娘と暮らし始めたこの家に。
いま男の背中越しで寝息を立てている、この恐ろしい娘の待つこの家に、この瞬間の為だけに今日ここに来た。私は、託されたのだ。
「──そいじゃ、ちょっと失礼」
そのまま藤原の横にごろん、と横になる真美。
本当は真澄を挟んで川の字が理想だが残念、そちらは空間が足りず触れてしまう。だから良しとしよう。こうして三人で寝れたのだから。
「願いは叶った?アルファ──」
雌と雄ではなく、もう一度だけ親子水入らずで添い寝がしたい。それだけがあの女の夢だった。
しかしそれは遂に叶わなかった。否、許されなかったのだ。
「──姉さん、これで満足?」
トランク──あの箱を通じて注がれ続けた想いを、ようやく叶えてやる事が出来た。今はこれで十分だと真美は想う。
わがままが許されるならば、こうして夜が明けるまでこの男と娘の寝息を聞いていたかった。
そして一緒に目を閉じたかった。じわり、と視界が歪む。
「いけない、アタシったら、もう」
目尻を拭う真美。これでいい、と身を起こした瞬間。
「──ッ」
息を呑む。
男の肩越しから視線。見れば彼の背中、真澄の目蓋が開いている。
「──ッ──ッ」
口に手を当て叫びそうになる自分を抑える。そして真美は自身に命ずる。
目を逸らすな、動揺するな。何も無い。私は何も無い、と暗示にも似た視線を娘に送る真美。
やがて、真澄の目蓋は静かに閉じた。
「──っはぁッ、はぁッ、はぁっ」
部屋に戻り、未だ収まらぬ動悸を鎮めようと、小さく呼吸を繰り返す真美。
「あの子が──怖い」
真美のつぶやきが部屋の闇に溶けて行く。
あの子が怖い、あの眼が怖い。あれは一ヶ月前に私へ向けた眼。あれは数時間前に一瞬過ぎった眼。
あれは獣だ。獲物を見る獣の眼だ。獲物を噛み殺す狼の眼だ。
そして真美は肩を抱く。抱きながら子供のように身を丸める。
あの子が怖い。あの子は許さなかったのだ。例え母でもあの子にとっては雌だったのだ。
狼の雌は女となり、やがて母となった。
しかしあの子は未だ──狼の娘。
■狼の娘・滅日の銃
■第四話/馬鹿がおうちにやって来た■了
■次回■第五話「かなめ!ふしぎ!」