その機影は名の通り、翼を広げた猛禽の鳥にも見えた。
「定期便ミサゴ一号、これより某所上空、通信終わり」
某所──対象エリアに入った事を告げ通信を切る機長。
そして翼の両脇で回る巨大なプロペラが緩やかに可動し機首を下げる。
やがて薄い雲を抜けたティルトローター機はその眼下に町を見る。四方を山に囲まれた、否、山間地に突如現れた平地、かなめ市。
相変わらず視ているな、と機長は思う。視線を感じるのだ。誰のではない。町だ。これは町の視線だ。町が視ている。
さながら一個の巨大な眼球の如くに小さき我らを凝視する。
「──失礼致します、荷を降ろし次第、直ちに帰ります」
「──何卒、何卒宜しくお願い申し上げます」
機長に合わせ、隣の副長も計器類より目を離し、町の全貌を視界に映し言葉を続ける。
一拍置き不意に消える視線。ふぅと二人が溜息をつく。この通過儀礼だけはやはり慣れない。
「おい姉ちゃん、そろそろ起きろ」
「うあ?」
副長が振り返り本日の荷物、二つの内の片方、ナマモノの方に声を掛ける。
あー着いたッスか、と口元の涎をぬぐい、自分の背丈を超える大きなコンテナを背負い準備を始める女──おんな?
いや、確かに発育は良さそうだがどうみても女子高生くらいの娘だ。
なんでこんな小娘を本局は便乗させたのか、と副長は今更ながら首を傾げる。
「──っておい!姉ちゃんお前それ背負っていくのかよ!」
「へ?そっちのほうがいいじゃないスか。だって後から取り行くの面倒ッスもん」
お前バカだろ!と叫ぶも、横の機長が、あれはアレでいいんだよと笑う。
「まああの子アレだ、特別でな。なんたって藤原さんの秘蔵っ子だから」
「嘘ッ!こんな小娘が鬼包丁のアレですか!いやそんなまさか」
「あースンマセン、どちらでもいいんで、この書類ハンコ押して出しといてクダサイ」
アレな小娘から不意に差し出された一枚の書類を取り、しばし眺める副長。
「えーと、なんだこれ」
その書類は──降下訓練終了証明書、と書かれていた。
「お前バカだろ!物資投下とエアボーン訓練兼用すんなよ!ド素人じゃねえか!」
「そんじゃペイロードベイオープン」
「何やってんすか機長!あの子、あのコ!」
「おおういい風ッスねえーんじゃいってきまーす!」
ランドアホーイ!イヤーッハァ!と嬌声を上げながら、でっかいコンテナ背負った娘がケタケタ笑いながら落ちていく。
その様子をもうどうにでもなれ、と副長が茫然と眺める。
おやパラ開くの早くね?ほら風に流された。あら町中行っちゃったよ。知るかバカ。
狼の娘・滅日の銃
第三話 - 馬鹿が舞い降りた -
「やっぱうめえな、これ」
紙コップから口を離し藤原がつぶやく。
着任初日から二週間を経たが、日々日課のように二階と往復しながら売上に貢献している自分。
しかし旨いもんは旨いんだからしょうがない。
「いい天気だねえ」
窓に目を向ければ相変わらずの青空。洗いざらしのブルー。
静かで誰にも邪魔されず、たいした仕事もなく、日がな一日こうやって安くて旨いコーヒーを啜り、
端末から吐き出される情勢と情報を流し読みする毎日。
昼は食堂の日替わりか弁当か閑休庵の黄金ルーチン。家に帰れば可愛い娘が美味しいご飯作って待っている。
余計なのもたまに居るがもう慣れた。夜は相変わらずの添い寝だが最近お父さんそれちょっと嬉しい。
これひょっとしたら至福って奴かも。
──みんなが枯れ果てた時、また一緒に暮らそう。
けれどお前だけがいない。藤原はあの女の声を思い出す。
本当にいい女だった。あれほどの女はもう居ない。そう、お前だけがいない。お前だけが。
「ばかやろう──先、逝っちまいやがって」
じわり、と視界が滲む。慌てて目頭を拭う藤原。
いけねえ、ここ最近いろいろあり過ぎて涙腺緩くなっちまったみてえだ。年だな。
俺も四十過ぎちまった。老いぼれたもんだ。
「そういや、あいつ」
指についた水滴を見つめながら、藤原はふと真澄の事を思い出す。
あの子は俺と出会った時以来、一度も母親の事を口にしてないな、と。
「まだ無理してんかな、あいつ」
だろうよ、と藤原は思う。しっかりしていると言ってもまだ十二歳。いいさ、時間はたっぷりある。
お互いゆっくりほぐして行こう。いつか本当の事を話せる日が来るだろうか。
それはいつだろう、と男は思う。まあいい、焦る事は無い、全ては時間が解決するさ。
「でもまあ本当に、いい天気だよなぁ」
再び紙コップを口に運びコーヒーを啜る。うん、旨い。
窓の外は相変わらずのブルー。こうやって自分は年老いていくのだろう。
窓の外、青空を眺めながら甘い日々にだらしなく口元を緩め、砂糖菓子の時間に埋もれ、そして枯れ果てていくのだろう。
それでいいじゃねえか。最高だ。それにしても今日はいい天気──
「ぬおおおおわあああああああああああああああああああああああああッー」
何か空から聞き覚えのある叫び声が聞こえたような気がしたが空耳だろう。
「ちょ!早いッ!早いって!なにこれこわいっ!いやぁあああああああああ!」
何かが窓の外ほぼ垂直に落ちていったような気がしたがそんな事はなかったぜ。
「オウフッ!」
何かが中庭の茂みの中に突き刺さったような気がしたが、まあいいや。
こんないい天気の日だ、空から城とか王族の末裔とかロボット兵とかヒトがゴミのように降って来てもおかしくはねえさ。
うん、何も問題なし。
「やっぱうめえな、これ」
そして藤原はコーヒーを飲み干し、ふぅとタメ息をついた後、やがて椅子から身を起こす。
さて、あのバカ殴りに行くか。
■
「ほんっとうに、もうしわけっ、ございませんっ!」
藤原、市長執務室で漢の土下座の巻。
「ごわ、ごわがったぁ、風がっ、びゅうって、カラダっびゅーんって、ごわがっだぁ」
馬鹿、市長執務室で土下座する藤原の横でベソかきまくるの巻。
「まあまあまあ藤原さん顔上げて。ええと田中さん?でしたっけ、ほら涙拭いて」
市長から渡されたハンカチで涙を拭き鼻をかむ、空から落ちてきた小娘、田中真美。
あのあと。
藤原中庭の茂みに突き刺さる馬鹿発見。藤原引っこ抜く。馬鹿突如泣き始める。職員さんわらわら沸いてくる。
藤原殴ろうにも殴れず愛想笑い。市長登場。藤原すいませんこいつウチの備品です何卒ご勘弁をと懇願。
市長笑いながら職員に後片付け指示。藤原頭下げまくるも市長の額に青筋発見。藤原ますます平身低頭。
コンテナを庶務課の皆様総出で藤原の部屋に搬入。これなんですかすんごい重いですねと職員問う。
ああすいません注文していた冷蔵庫ですわハハハと誤魔化す藤原。
搬入完了。藤原お礼にと庶務課全員に食堂の定食クーポン配布。いやいやまあまあと両者しばし押したり引いたり。
そうですかあそれじゃと職員笑顔で受け取り退室。なるほどアレここの基本通貨みたいなもんだなと藤原得心。
振り返ると馬鹿ヘラヘラ笑ってる。藤原詰め寄ると馬鹿泣き出す。ウソ泣きと判断。一発頭突き。
馬鹿本気で泣く。藤原泣き喚く馬鹿にヘッドロック掛けたまま市長執務室へ詫び入れ。
市長笑顔で迎え入れるも未だ青筋引かず。藤原土下座。馬鹿泣いたまま。いまココ。
「何事も無くてよかったよかった。ね?藤原さん、田中さん」
「暖かい御言葉をいただきこの藤原感激の極み!」
「じじょぉう、ごのおじいぢゃぁぁん、やざじぃいー」
「ご温情返す言葉もございません!こいつ本当に馬鹿で馬鹿でもひとつおまけに馬鹿でウチの備品扱いな馬鹿でございますが、
馬鹿な子ほど馬鹿と申します、せめて人さまにご迷惑かけぬようタコ殴りしておきますので、何卒!なにとぞ!平にお許しのほどをっ!」
「藤原さん殴るだなんて女の子じゃないですか──せめて顔は止めときましょう」
「ボディ?」
「イエス、ボディボディ」
にやりと笑う中年と老人。
その後、いやあだああおながはやめでえぇもれちゃうんでぃすのおお!と少々誤解されそうな叫び声を発するツナギ姿の真美。
その首根っこを掴み執務室を後にした藤原。そのまま泣き叫ぶ馬鹿を引きずりながら長い廊下を進み角を曲がる。すると。
「あんなんで良かったスかね?」
「おめえにしちゃ上出来だ」
へへへぇ、と得意げな笑顔で調子ずく真美を見て、藤原の額に青筋が浮かぶ。
「おーうベソ美ぃ」
「なんスかぁ師匠」
むかついたので頭突き。
■
七桁の暗証番号入力の後、プシュッと圧縮空気が抜ける音と共にコンテナが開く。
「うわコレやばくね?」
「うわこんなん背負ってたんだアタシ」
冷蔵庫程度の大きさだった筈のコンテナが開いた途端、
両扉が左右にスライドし中扉が次々とせり上がり三倍程の大きさに展開、その中身を露出する。
ずらりと並ぶ銃火器類と刃物類を目にし軽く頭を抱える藤原──局長、マジじゃねえか。
「なあベソ美ぃ、このゴー・ナナよぉ、カタログ載ってねえよなあ」
「あー、なんかエフエヌさん気合入れて作ってくれた特注らしいッスよ」
ゴー・ナナ──FN社製ファイブセブン・ピストル。
「なあベソ美ぃ、俺フクロナガサ四寸五分と七寸ふたつだけ頼んだよなあ」
「あー、なんかニシさん気合入れて全寸打ち込んでくれたらしいッスよ」
フクロナガサ──別名叉鬼山刀とも熊殺しとも言われるマタギ愛用の山刀。
「なあみんなバカなん?お前含めてみんなバカばっかなん?」
「あ、キューピーめっけ!しかもふたつ!いいなぁ」
「聞けよぉ!」
人の話を聞かないバカが手にするのはFN社製P90。
彼のゴー・ナナ、つまり同じ5.7×28mm弾頭を併用する小銃である。
こんな不人気も押し付けやがって、と藤原がぶつくさ言いながら下段のスライディングドアを引き出す。
はーよっこいしょういち、と身を屈め内訳を確認。
「多くね?」
「よりどりみどりッスね」
ずらりと敷き詰められた弾薬類と予備弾装の数々。
「内訳は?」
コンテナ備え付けのPADを手に藤原にのしかかるように身を屈め真美が告げる。
「メインはズッドンとスケベイスとですね、あ、バッバンもあるッス」
FMJとホローポイントそして炸裂弾頭、これらに加え。
「まさかペトペトは──ああ、やっぱあるわ」
HESH──粘着榴弾のような特殊弾頭も。
正直なところファイブセブンは小口径の利点を活かしボディアーマーすら抜く貫通性が大きな売り、
なのにも関わらずあれもこれも本当に使うかどうかも疑わしい用途不明なブツまで大量に送りつけてきた局長のいやらしさに、藤原はしばし閉口する。
てめえ今更逃げんじゃねえぞという暗黙の恫喝。まあそれはいいとして。
藤原にとって目下の課題は、いま自分の頭にのしかかっているブツだ。
「ところでオメエ何してんだ?」
「いや胸が重くて」
ああんマミたんボインで困っちゃぅ、と胸の脂肪をこれでもかと藤原に押し付ける真美。
「ほほう、いっちょまえにサカってんのか」
「わかりますぅ?」
藤原に向き直り、ジィィとツナギのジッパーを縦一直線に降ろす真美。
だぶだぶのツナギはそのままぱさり、と足元に落ち、露わになる肢体。
「ね?いいでしょ師匠。アタシ溜まってるんです」
「ほほーう」
ほのかに上気し薄く朱に染まる真美の頬。唇からちろり、と赤い舌が這う。
露わになった彼女の裸体──ではなく、上は豊かな胸に貼りつく黒いノースリーブシャツ、下は身体のラインをこれでもかと見せつける黒いスパッツ。
両肘と両膝にはサポーターすら巻かれ、あらこの娘ったらやるきまんまん。準備万端な小娘の姿を見て男もネクタイを緩める。
そんじゃ屋上行くべ。爽やかに藤原は笑った。
■
ここんとこいい天気続くよなぁ、と藤原は空を見て思う。
「よッ!はっ!とぉう!」
空など見向きもせず、目の前の男に一矢報いようと俊敏に動く真美。
「なあベソ美ぃ、向こうも天気いいんか?」
「なに、余裕、かましてん、スかッ!」
青空の下、小娘が繰り出す手刀と蹴りの連撃を、だるそうに避ける中年男。
蝶のように舞い蜂のように刺そうと藤原の周囲を激しく回り死角から攻めるも、真美の攻撃は全て紙一重で避けられる。
気付けば藤原、自分の立ち位置直径五十センチの円内より一歩も出てはいない。動く真美と回る藤原。
その姿はさながら小娘にダンスを教える老練な教師にも見える。
「いやこう天気いいとさ、どっか行かなきゃもったいねえじゃん」
こんどの休みは真澄連れて町回るかなあ、とお父さん休日プラン練るの巻。
「その前にっ!アンタを極楽にっ!送って!やんよッ!」
「はい隙アリー」
ゾーン内に入り込み過ぎた真美の首筋をつう、と横一文字になぞる藤原の左指先。
ハイいきましたー、お前頚動脈いったよー、の合図。
「んもぅ!」
その場にうずくまり屋上の床をばんばん叩く真美。
これでもう五回目だ。さっきからこのオヤジは自分の首筋はもとより、
その指先は両手首、脇腹、大腿部の付け根、蹴り出した足の腱など急所という急所に触れている。
しかも未だ遊び──くやしい、と真美は唇を噛む。
「ほーらベソ美ぃ、そんなトコで寝てるとぉ」
彼女の頭に触れる男の右手、伸ばした人差し指と中指。そして藤原は笑う。
「ばーん」
しかし指の銃が架空の弾を出す瞬間、真美の身体が掻き消える。ふわりと風。
「おおー」
風の向きを辿り顔を上げれば藤原の前、五メートルほど離れゆるりと立ち上がる真美の姿。
その顔からは既に表情が消え、無機質な瞳に男の姿を映している。
「ウォーミングアップ終了。ここからは本気で行きます」
感情の消えた静かな声で彼女は告げる。
「あらら、まだ本気出してなかったの?」
「師匠、前に言いましたよね」
「ん?何かいったけか」
「感情を殺すな、制し武器にしろ──って」
「ああ言った、言った」
「いま私、どんな気持ちか解ります?」
藤原が溜息をひとつ吐き、笑う。
「楽しくてしょうがねえだろ」
真美が口の端を吊り上げて、笑う。
「その通りッ!」
言葉と共に男の視界から彼女の姿が掻き消える。しかし藤原さして動ずる事もなくその場に佇む。
そして思う。いま真下だな、地を這うようにハイここでジャンプ──その時、風が舞い上がり鼻先をかすめ彼の前髪を揺らす。
ハイいま俺の頭飛び越えた、ハイいま俺のバック、ハイ振り返ったハイ近付き過ぎハイ惜しいハイここです──突き出される男の肘。
「ぶっ!」
藤原の肘が真美の鼻先を直撃。
自身の反動と相まって激しく強打され、彼女は鼻血を撒き散らしながらもんどり打って倒れこむ。
「お前、解り易すぎ」
即座に飛び起きる真美。
「最っ高ッ!」
噴出し滴り落ちていく血を気にも止めず彼女は笑う。
心底楽しそうに愉悦に浸り田中真美が笑う、笑う、笑う。
その瞳に愛しい男を映し笑う。滴り落ちる血が鼻先から唇へ伝わり、彼女の舌がそれを舐める。
おいしい、この男にやられた血、とても美味しい、このままいつまでも味わっていたい、けれど。
少し名残惜しそうに血を手で拭う真美、そして。
「師匠。そのシャツ白くて糊利いてますね、娘さんですか?」
「おう、いいだろ。おかげでクリーニング代浮いて助かるわ」
「知ってます?血って結構落すのやっかいなんですよ」
「──お?」
言うが早いか拭った血を藤原目掛け払い飛ばす。
「てめ何すん──」
その一瞬で真美の姿をロストする藤原。
あーしまった、ちとわかんねえや。さっきより早くなってね?さすが俺様の一番弟子。
素質だけはバッチリなんだよなあ。ハイでも多分ココ。
「ぐふっ!」
何気なく藤原が突き出した右膝が突如現れた真美の腹を突き上げる。
「今のはいい。すげー惜しかった」
膝に押された反動でコの字に折れ曲がる真美。
彼女の背中に、とん、と藤原が左手の手刀、その先端で軽く押す。位置は彼女の心臓、その裏側。
「まだまだぁッ!」
しかし真美、藤原の膝を軸に前のめりにくるりと回り、タンッとブリッジの姿勢で着地、そのまま跳ね起きようとするも。
「まだ?」
藤原の一言で身体が凍りつく。
跳ね上がろうと力を溜めていた筈の筋肉が鉄のように固着し脳からの指令を拒む。
最初は身体、次に意志。自分の吐いた言葉の意味を遂に彼女は理解する。
「そんなもん、ねえんだよ」
見上げる彼女の瞳に映る真っ青な空。逆行で見えぬ男の顔。
しかしその右手、突き出された二本の指、その銃口は冷たく真美の額を捕らえていた。
「ふえ、ふええ」
無表情の面が剥がれじわりと真美の眼に滲む涙。
「まぁだぁまげだぁぁ、こんなオヤジにぃ、まぁだぁまげえだぁぁ」
「ああもう泣くな!うぜえ超ウゼエ!おめえやっぱ真美じゃねえベソ美だ」
苦笑しながら手を差し出す藤原。彼女は泣きながらその手を掴み、抱きつこうとするも。
「その手は食わねえ」
ぱっと手を離しお父さんのシャツセーフ。
そのまま顔面から倒れこみ、屋上とファーストキスしちゃったベソ美。
「しどい!乙女心もてあそんで!鬼ッス!アンタ鬼ッス!」
「ばかやろう!おめえ今、シャツの腹で鼻血拭こうとしただろ!」
「抱いてよ!アタシを抱きしめてよ!シャツとアタシどっちが!」
「シャツに決まってんだろうが!」
「ですよねー」
「だろー?」
あはははは、わはははは──午後の屋上に響く馬鹿と師匠の笑い声。なんだかんだ言ってこの二人、仲は良いのだ。
それもその筈、彼女こそ局内外で鬼包丁と恐れられる藤原の弟子で、目に入れてもやっぱ痛い程度には可愛い秘蔵っ子なのだ。
何よりもこいつは馬鹿だが素質だけは抜群だ、馬鹿だけど。と藤原は、あれだけ動いた後でも息一つ切れてない真美を見て目を細める。
動け動けと彼は言う。それしか能が無いならそれを武器にしろと彼女に言う。
獣の如き身体能力をもつこの小娘はそのいいつけを頑ななまでに守っている。
順調に仕上がってるじゃねえかと藤原は思う。ただそれを口にしたらこの馬鹿は直ぐ調子に乗るから言わないだけだ。
動け動け、動き俺の予測すら超えてみろ、その時が楽しみでしょうがない。局長が何故この小娘を自分に押し付けたのか、それが今なら良く解る。
たしかにもったいない。あの無機質で機械的な人形のままでは全て台無しだ。ただのキルマシーンで終わらせるにはもったいない。
泣いて笑ってまた泣いて相変わらずの馬鹿のまま溢れる情動を制御出来た時、はじめてお前は俺の跡を継ぐ。
剣銃武技──ガンソードアーツ。
俺の持つ全てを叩き込んでやる。覚悟しとけ馬鹿。
■
とはいったものの。
「もう一回!もう一回!」
今泣いたカラスが何とやらで、性懲りも無くもう一本とせがむ馬鹿を前に藤原少々持て余す。
「いや、俺まだ昼飯食ってねえし」
「ならアタシを食べればいいじゃない」
「日替わりとっくに終わったよなあ」
「ああぁん、マミったら汗で胸の谷間、べ・と・べ・と」
「弁当ねえし、しゃーねえ二日連続閑休庵かあ」
「ヘナチン」
ヒュッと藤原の鋭い蹴りが飛ぶもその爪先が空を切る。くるりと空を舞う真美の体。
おお、すげえ、助走無しでここまで跳べるたあ流石馬鹿、と藤原師匠いたく関心。
「よーしマミたん、次は最初から本気出しちゃうゾ」
着地の後、再び間合いを開け藤原より七メートル程度離れた真美が笑う。
「あら?このコったら本気じゃなかったのかしら」
「たりめーッス!さっきのは最初ウォーミングアップで途中から本気ッス!」
「あー、だからおめえ、駄目なんだ」
「へ?」
「なんでおめえハナから本気で来ねえんだ?馬鹿にしてんの?俺バカに馬鹿にされたの?」
俺とヤル時ぁ殺る気で殺れって言ってんじゃん。頭を掻きながら藤原がつぶやく。
「し、師匠だって、ほ、本気出して」
「あ?見たいの?本気」
めんどくせえなあぁ、腹減ってんだよこっちはぁ、とやる気なさそうな師匠へ馬鹿が一言。
「そんなコトいってえ、もうトシだからぁ本気なんかとうに出せないじゃ無いスかぁ?」
そうですかそうですか。あらやだこのコったらフラグ立てましてよ奥様。
などと藤原さして動ずる事も無く、しかし左右の指先が微妙に変化する。
「まぁ俺ぁトシだからよ、一回だけな──小便ちびんじゃねえぞ、餓鬼」
来た。
高鳴る胸を抑える真美。今度こそは裏切るなこの体、目を凝らせ、この男の一挙手一投足を刻み込め。
脳が全神経に指令を下す。一年前、あの時はそれが出来なかった。
たかが一年、されど一年。あの屈辱と快楽をひと時たりとも忘れた事など有りはしない。
動け動け私の身体。今こそこの男の想いに報いるのだ。血流が入れ替わる。獣の血がこの全身を駆け回る。
来た、来た。
眼前の男が一歩踏み出す。その緩慢な動作に錯覚するも騙されるなと何かが囁く。
二歩、三歩。男は歩く。目測六メートル。右か左か、否、ゆっくりと前を突き進む。ブラフか?違うまだ進む。
四歩五歩、目測五メートル。よし間合いだ跳ぶぞ。いや待て奴の腕を見ろ。
「見たな?」
告げる男の右手は既に銃の形を模していなかった。銃を握る形になっていた。
その右腕は上げられ、人差し指に掛かるトリガーが見えた。彼が握る艶消し黒のゴー・ナナが見えた。
小口径の銃口がこちらを狙う。照準器の向こうで鋼の如き男の眼光。
そして左手もまた既に手刀の形では無かった。小刀の柄を握る形になっていた。
握られた柄の先、四尺五寸の山刀、鈍く光るフクロナガサが見えた。
力無く垂れ下がったままの左腕、しかし男の歩が進もうとも決して揺れぬ刃先。
「どうした?本気なんだろ?」
六歩七歩、目測四メートル。限界だ飛べ。駄目だ奴は見ている。この体を全て見ている。自分が見ている以上に自分を見ている。
駄目だ全て見抜かれる。上に下に右に左に飛ぼうにもその一瞬先にゴー・ナナの弾が急所を打ち抜く。
引くは言語道断ならば前だそのまま直線に跳び奴の懐へ。
駄目だ落ちた瞬間フクロナガサが脇腹深く抉り取る。
八歩九歩、目測三メートル。こうなったら待つしかない。相打ち覚悟で奴の喉笛を噛み切るのみ。
十歩十一歩、目測ニメートル。さあ来い──来ない?
「おめえ、考えすぎだ」
二メートル先で男は止まる。しかしその刹那、消えた。
「馬鹿なんだからよ、考えるな」
そして、現れる。彼女の鼻先三センチ。こつん、と額を合わせ優しく囁く男──しかし。
「ぐッ!」
彼の片腕、半握り左手の平が彼女の下腹部に触れている。ただそれだけの筈だ。
しかし真美は感じる。自身の下腹部に突き刺さる重厚な刃の感触を。
「かっ、はッ」
腿から足元に伝う熱い血と漏れた尿の感覚、その左手が緩やかにしかし確実に上へ上へと進んでいく。
這い進む手の感触は下腹部を過ぎ腹部そして胸の谷間へ。
しかし真美は今、この身体が血を噴きながら下から上へ縦一文字に裂かれていると実感する。
やがて見えぬ刃はその切先で喉元まで引き裂き、顎の骨に当たる寸前、身体より抜け──
「ほい、アンコウの出来上がり」
そこで真美の意識は途切れた。
■
「そおいっ!」
「ぬふうっ!」
背中から両腕を引っ張られた定番の気付けで真美が目を醒ます。
「え?あ、腹!もつがでろーんって!あれれ?」
「よく見ろバカ」
綺麗な身体だった。引き裂かれた筈の傷も、噴き出た血も、飛び出したはらわたも、そんな物ある筈が無かった。
唯一残るのはその感触──凄かった、それしか真美には言えなかった。
「まだまだッスねえ、アタシ」
「たりめーだバカ」
気ぃ失いやがって、と和やかに笑う男に微笑み返す。
しかし真美は思う。あれはショックで意識を無くしたのではないと。絶頂で意識が飛んだのだ。あの快楽、この狂気。
再びこれを味わう為なら何度でもこの男に挑んでやる。
そしてもし、この男を引き裂く事が出来るのなら絶頂のあまり今度こそ果てきってしまうだろう。
私の同胞──姉は、それを感じたのだろうか。だからこの男に惹かれたのか。
彼女亡き今、それはもう解らない。しかしそれを思うと体の芯から濡れてくる。濡れて──
「──濡れて、る?」
「よかったじゃねえか、おもらし属性ついてよ」
これで大きなお友達のハートキャッチだな。なあベソ美、いや改めモレ美。
藤原の追い討ちに真美の意識が違う意味で再び飛びかける。
しかし、鼻先に未だ残る鉄錆の匂いに気付き、にやぁりと笑う。
「──師匠」
「ん?どうした黄金水モレ美」
やけに優しい彼の声、軽く叩かれた肩、視界を覆う白いシャツ──チャンスですモレ美さん。
「しぃしょおおおおおお!」
「あ!くそてめっコラぁ!」
愛しい男の胸に飛び込む恋する乙女。
というより藤原の白いシャツに未だ鼻先に残る鼻血を涙と鼻水でブレンドしてこれでもかとぐりぐり顔を押し付ける真美。
彼女は怒っていた。気を失っていたにも関わらず手を出さぬ男へ無性に腹が立っていたのだ。
「ししよおおおおおおおおおおーーーう」
「離せっ!はなせコラッ!ハ・ナ・セ!」
藤原の脳裏で微笑む真澄は、そのまま父にカカト落しを喰らわせた。
■狼の娘・滅日の銃
■第三話/馬鹿が舞い降りた■了
■次回■第三話「馬鹿がおうちにやって来た」