ぱらり。沈黙の降りた局長室に、紙をめくる音だけが響く。
部屋の主は、机上に置かれた一冊のファイルを丹念に眼を通していた。
けれどサングラスは外さない。部屋の中、書類に眼を通しているというのに。
それどころかこの人は、未だかつて人前で、一度もそれを外した事が無いのだ。
書類に目を通す人物の机、その前に立ち女は思う。この男は何の為に自分を呼び出したのだろうかと。
いま彼が黙々と読み続けているファイルは三年前の報告書なのだ。それを今更──何かある、と田中真美は察する。
「神は天におわし、世は全て事も無し」
ぱたり。閉じられた表紙。やがて溜息ひとつ吐き、局長の室戸が呟いた。
「なんスか、それ」
「ロバート・ブラウニングって奴の詩さ」
「へー、博識なんスね」
「ピッパが通る、だったかな。そんな名前の戯詩集の中に収められた一本なんだが、こいつぁその一節でな。
なんかココだけ色んなトコに引用されて有名になっちまって、挙句にまっとうに取ればいいものを、少しヒネた見方をする奴が出てきやがってよ」
「神様が天より見守ってくださるので我等はなんの心配もいらない──でしょ?」
「ああ、まっとうな読み方すりゃそうさ。俺たちが毎日七転八倒しながら繰り広げている騒動も、天から観ておられる神様の前じゃ些細なこと。
どんな事があろうとも主は我らに等しく愛を御与え下さる、だからいちいち細けえこと気にすんな、って意味だよな、普通」
「ふーん。そんじゃ、局長みたくヒネた見方すれば?」
うるせえよ、と返しつつ口元を緩める室戸。
「おめえらの事なんざゴッド知るか。勝手にやってろ馬鹿──かな」
けれどその笑みは、どこか疲れたように力無く、一抹の寂しささえ含んでいるように真美は感じる。
そういえば白髪も増えた。相変わらずの狸腹ではあるが、最近少し痩せたようにも見える。変わらないのはサングラスだけだ。
「勝手にやってろ、か」
机上に置かれたファイルを見て真美は呟く。
これは彼女が作成したもので三年前の事件、その顛末が記載された報告書だった。ここに記されているものは只の事実でしかない。
ひとつ、その夜かなめ市を監視する外部ネットワークが寸断され数時間音信不通に陥った事。
ひとつ、一瞬ではあるがラインの飽和状態が確認された事。
ひとつ、その件の詳細は不明である事。
ひとつ、町はこれら影響を受けず特筆すべき変化は見られなかった事。
ひとつ、翌日かなめ市長である粟川礼次郎が体調不良を理由に退任したとの発表がなされ助役が任期を継いだ事。
ひとつ、その後前市長の消息は不明──そして。
「あいつ今頃、どこで何やってんだか」
ひとつ、要事案部所属駐在調整官、藤原信也とその娘、藤原真澄が失踪した事。
部屋の天井を見上げ、独り言のように呟く室戸。その姿を見て真美は想う。
所詮外の者達には理解出来る筈が無いのだと。
三年前──あの夜に起きた事は。
狼の娘・滅日の銃
真美が目を醒ますと、空は既に白みがかり朝もやが立ち込めていた。
市庁舎の屋上、冷たいコンクリートから即座に飛び起き、辺りを見回すも人っ子一人居はしない。
突如現れた化物も、あの恐ろしい女王も、炎に包まれ瓦礫と化した町も、まるで夢の出来事かのようにその痕跡すら残さず、
眼下を見下ろせばいつも通り、朝を迎え目覚め始めた静かな町の景色が漠然と広がっていた。
何が起きたのか。何がどう終わったのか。何よりもあのひとは、そしてあの子は。
階段を駆け下り市庁舎を出れば、目の前を始発の路面電車が通り過ぎていく。
真美は堪らず走り出す。三駅先にある彼らの家に向けて。
「はぁっ、はあっ」
全力疾走で辿り付き、家の戸を開け放った瞬間、真美は目を見張る。
何も無い、何もかもが消えている。がらんとした玄関口から中を見れば、あの親娘が暮らした痕跡が綺麗さっぱり消えていた。
家に上がり彼女は叫ぶ──師匠!真澄ちゃん!けれど家の中には人の気配が微塵も無い。
いやだ、そんなのはいやだ──胸騒ぎを抑え居間の戸を開け放つとそこに。
「──っ」
黒髪の童女、常世繭子が居た。
「ふたり、は──どこに」
窓から注ぐ朝の光、がらんとした部屋の中、真美の声が虚しく響く。
けれど繭子は振り返らず、光の中で静かに佇む。その視線は足元を向いていた。
そこにあるものは、ぽつんと残された丸いちゃぶ台。五年間、皆で夕餉を囲んだ食卓の残滓、それは楽園の象徴だった。
「お前が探す二人は、もう居りませぬ」
ぺたり。膝が折れ力無く床へと座り込む真美。
しばし茫然とちゃぶ台を見つめ、再び顔を挙げれば自分を見下ろす能面の童女。
笑うでもなく、泣くでもなく、ガラス玉のように無機質な瞳が告げている。それはまごうこと無き真実なのだと。しかし。
「うそ、だ」
常世繭子は嘘を言わない。それは真美も知っている、けれど。
「嘘を言うなッ!」
叫び、立ち上がり、踵を返し、床を蹴り、がらんどうの家を飛び出す。
嘘だ嘘だ信じるものか。そのまま大通りに出て立ち止まる。どこだ何処へ行った。せわしなく首を回すも探す姿は見つけられる筈も無く。
けれど真美はあきらめない。こうなったら町中しらみつぶしに──
──この町にある唯一の空家のものです、良く御覧なさい。
その時、記憶の中で閃く言葉。
昨夜、あの市長のフリをした化物から見せられた一通の書類が鮮明に脳裏に甦る。
登記簿謄本、記載された内容──あれは。
「止まって!」
丁度通り掛ったタクシーを拾い乗り込む。運転手に行き先を告げ、急いで、と先をせかす真美。
後部座席に座り、息を鎮め高鳴る動悸を抑え、そうだ、きっとそうだ間違い無いとひたすら自答を繰り返す。
やがて車は町の中心を抜け郊外へと進み、山のふもとにある小さな屋敷森の前で止まった。
走り去る車に彼女は一瞥も返さず、見上げれば森の奥に垣間見える大きな洋館の屋根。
そして眼前、彼女の行く手を阻むかのように閉じられた鉄の門扉。
「ひいらぎ──」
柊の屋敷。藤原が行ったフィールドワークの最中に見つかった町で唯一の空き家。所有者不明物件だったもの。
しかし昨夜見せられた書類に記された名前──柊真澄。
「──この中に」
居る。何かが居る。何かの気配がする。ここはもう、空き家ではないのだ。
では何が居る?決まっている、あの人とあの子だ。行こう。
真美は門扉に手を掛けようとしたその時、この手が震えている事に気付く。
何をしている、さあ行こう、何を恐れている──私は、恐れている?
──オメガ、これはせめてもの慈悲と思いなさい。
倒れ伏し意識が途切れる刹那、確かに聞こえた女王の言葉が真美の脳裏に甦る。
あの恐ろしい女は確かにそう言ったのだ。それを見ればお前は本当に狂ってしまう、と。
──お前が探す二人は、もう居りませぬ。
そして、今しがた聞いた繭子の言葉を思い出す。
二人はここに居る、確かに居る。ならばそれは偽りだろうか。否、と真美は思う。それは真実なのだと。
師匠である藤原はかつて言っていた。常世繭子は決して嘘を言わぬと。だがあの存在の言葉は、受け取る者によって意味が変わるのだと。
震える手を降ろし、再びその言葉を反芻する。あの二人はもう居ない、違う、お前が探す二人はもう居ないと言ったのだ。
あの抑揚の無い声で、あの能面の如き無表情で。なのに何故だろう、その顔が泣き顔に見えてしまったのは。
「アタシ──私は」
つう、と頬を伝う一筋の涙。そして気付く、この口元が微笑んでいる事に。
そして真美は思う。鏡の前で無くて良かったと。今もし、泣き笑うその顔を鏡に映せば自分は何を見るだろう。
きっとあの笑みだ。嫌で堪らないあの笑み、かつて粟川が浮かべていたあの、何もかもあきらめたような笑い顔、それを見るに違いない。
「もう──いい」
固く閉じられた鉄の門扉、その前で田中真美は立ち尽くす。
うな垂れた顔、その口元に何もかもをあきらめたような微笑みを浮かべ、静かに泣く。
けれどその手は、それきり門に触れることは無かった。何故ならば。
この門を開ければ、おぞましい何かを見てしまう、そう感じたからだ。
エピローグ - 一睡の夢、されど醒めぬ嘘 -
三年前の夜、一体何が起きたのか。外に居る者たちには解る筈も無い。
自分が目にし感じ、告げられたものが真実だと示す証拠がない。
それ以前に誰が信じようか。あの町はゆめまぼろしなのだと、否、この世界こそが、眠りつく星の見る一睡の夢なのだと。
「──勝手にやってろ」
「ん?何だ」
何でもないッス、と真美は再び局長に向き直る。
「で?今更こんな前の報告書持ち出してどうしたんスか?」
「真美よぉ、おめえ俺に隠してる事あんのか」
とん、とん、と意味ありげにファイルを指で突く局長。
「全て終わった事っスよ」
へえ、と室戸は口元に笑みを浮かべ。
「その割にゃおめえ、近頃俺の周り、何コソコソ嗅ぎ回ってやがんだ?」
やっぱりバレてたか。心のうちで舌を出す真美。
「あんま無茶すんじゃねえぞ。てめえはもう備品じゃねえんだ」
お前は既にここを構成する重要なパーツなんだ。
内務省統合情報管理局長である室戸は釘を刺す。
藤原が消えて後、目の前の女は彼が元々就いていたポストを与えられた。
広域捜査部(L.F.S.D.) 、強襲専従班長。これが現在、田中真美に与えられた肩書きである。
かつての鬼包丁同様、単騎で魔道師団と渡り合える程の実力を持つ彼女は、既に局の中核を成していた。
「おかげさまで、機密レベル上げてもらったんで色々見せてもらったんス」
バレちゃしょうがないっスね、と開き直ったように口を開く真美。
「アタシがここに今、こうして居る訳とか。例えば二十八年前、羽田の事件──」
散らばるパズルの欠片をばら撒きながら真美は淡々と言葉を紡ぐ。
「専従班の前身、即応部隊動かしたの、局長、アンタですよね」
自分が生まれるきっかけとなったものであり、藤原信也と、後に藤原真来となるアルファを出会わせ、
結果、藤原真澄が産まれる事となったあの事件。これが全ての発端だと真美は睨む。
「養成所上がりの新人が、即応部隊に抜擢された一週間後にあの事件、偶然ですかね」
「何が言いたい?」
サングラスの奥、自分を射抜く眼光を感じながら真美は続ける。
あの貨物機は着陸に失敗したのではなく、着陸後爆破されたのだと。不意の事故を装い、即応部隊を出動させる為に。
積まれた荷の目的を把握していた者があの事件を仕組んだのではないかと。ヴォクスホールと何らかの密約が取り交わされたのではないかと。
女王の目論見通りあの男へとギフトは渡された。その代価にこの国が手に入れたものは二つ。
ひとつは私。アルファの本体である自分が眠る最後のトランク。そして、もうひとつは。
「最強のドリフター、ブラックドッグの完全覚醒」
混乱を、秩序の為の混乱を。
一方的な蹂躙では得られぬもの。双方共に拮抗してこそ始めて生まれる混乱。
魔道師団及び旅団がフラットライナー側の最強戦力ならば、片方にもそれに耐え得る力を。これが女王の真なる目的。
かくして、世界中で暗躍する魔道旅団への切札として強襲専従班が誕生する。
対ヴォクスホール戦略の最前線部隊、その中心には彼が居た。
鬼包丁、ヘルマシェーテと恐れられ、銃と小刀を駆使するガンソード・アーツを用い、立ち塞がる全ての敵を倒すために存在する黒狗、藤原信也が。
「つまりアタシらレムナント・ドールズは、いわば目覚し時計だった訳っスね」
「それくれえ、あいつも当に納得済みさ」
「でしょうね。あのひとはそれを甘んじて受け入れた。むしろ悦びすら感じながら」
でもね、と真美は言葉を続ける。この背景にはまだ奥があると。
「室戸さん、アンタの元上司、即応部隊の礎を築いた藤原源也って方なんスね」
藤原さんの父親ですよね?意味ありげに真美は微笑む。
それがどうした?さしたる動揺も見せず室戸も笑う。
「何か託されたんじゃないですか?」
あのひとが自分を育ててくれたように、貴方もそのひとに育てられた。
私があのひとを愛したように、貴方もそのひとを慕った。だから解るんです、と真美は言う。
「さあて、な」
「そのひとは、ブラックドッグの血を断とうとした、違いますか?」
その時、室戸の口元から笑みが消える。ぎり、と固く閉じられた口の中から歯軋り。その様子を見てやはりそうか、と真美は確信する。
彼の父、藤原源也は自身に流れる血がどういうものであるのかを冷徹に理解していた。
濃縮された黒狗の血。自分よりも強きものを屠ろう猛る獣の本性。
そして予見したのだ。己の娘が血に狂い自分に牙を剥くであろう事を。けれど彼はそれを敢えて放置した。
自分が殺されるために、あのひとに殺させるために。
「──てめえに、何が解る」
低く、室戸の腹の底から搾り出される声。
「あのひとはなぁ、本当に子供たちを愛していたんだ。だから葛藤したんだ。その末に出した苦渋の選択だったんだ。
解るか?もしあのひとが娘に殺されなかったらどうなっていたか」
シンヤの妹はな、狂気の塊だったんだよ。苦虫を噛み潰したように室戸は語る。
源也さんは、だからこそ自分に殺意を向けさせた。もしそうしなければ真っ先に兄へと牙を剥いただろうさ。
引き離し里子になんか出せはしない。そうしても、探し出し必ず獲物へ喰らいつく。そういう本性を持った娘だったんだ。
だから手元に置き抑制した。一番強いであろう兄を獲物と見なさぬように。お前は弱い、体も心も、そう言い聞かせ暗示で縛った。
けれど限界が来た。それでもあのひとは娘を愛した、だからこそ黙って殺された。何故かって?残されたシンヤに理由を与えてやる為だ。
「父を殺した敵を打つ、兄としての責務で。そういう理由をな」
その理由がなければあいつは、ただの妹殺しの屑に成り果ててしまう。
だからこそあのひとは、最後の最期でその選択を取ったんだ。
「狂ってる──それ以上に、卑怯じゃないスか」
真美は吐き捨てる。その役目を息子に押し付けるなんて。しかし室戸はそれを制し。
「本当は──道連れにしようとしたんだよ、でもな」
俺が駆けつけた時、まだ微かに息があった。そして言ったんだ──出来なかった、と。
「確かに俺は、源也さんに託されたよ。あいつを頼むってな」
あいつを二度と狂わせてはならない。
だから俺はシンヤに、自身に流れる血が一体何であるのか、どう向き合うべきかを徹底的に叩き込んだ。そして戦い続けさせる事で正気を保させた。
お前は狗じゃない、狼だ。黒狗の血に惑わされるな、けれど否定するな、むしろ生き抜くために利用しろ、狡猾な狼になれってな。
あいつの存在をヴォクスホールにリークし女王を動かしたのは俺だ。あいつに敵を与える為に、全身全霊を込め戦える相手を送り込ませるために。
狼同士の共食いとなろうとも。せめて、その中であいつが、笑って逝けるように──だがな。
「女王は俺より一枚上手だった。してやられたよ」
力無く肩を落とし、室戸は天井を仰ぎながら吐き捨てる。あろう事か奴ぁ雌の狼を贈ってきやがった。
つまり、血を残そうとした。更なる混乱の種を撒きやがった。
「あいつに娘が出来たと知った時、俺ぁ心底肝が冷えたよ」
あの野郎、それが何を意味するかなんて気付きゃしねえ。俺にも家族出来たって嬉しそう惚けやがって。
その姿を見て俺は気が気じゃなかった。またあの狂気を繰り返すんじゃねえかってな。
でも言えなかった。そんときのあいつの顔が、子供の話をする源也さんに重なってよ。
だが何とかしなきゃならねえ。今ならやりようがある。だからあいつに隠れて嫁さんと会った。
「会ったん、ですか」
真美は驚く。
室戸が姉に会っていたという事実以上に、普段人を食ったかのような態度で誰もを煙に巻き、そのくせ冷厳かつ冷酷に処断を躊躇なく下すこの男が、
他者の為にそこまで動いていたという事実に。彼をそこまで駆り立てるものは果たして。
「おったまげたよ。あの女、あいつの妹と瓜二つじゃねえか、しかも名前は──真来」
嫁さん言ってたよ。この姿を選んだのは彼が求めるものだったからだと。彼に固執する為に生み出された自分だからこそ、そうなったのだと。
だが俺はそれを責める気が起きなかった。胸に小さな娘を愛しげに抱くその顔は、幸せそうな母親の顔だったからな。
そして気付いたんだ。あいつ、一度は手に掛け失った家族を、再び手に入れたのだと。
贖罪を愛に置き換え、やっとあいつは救われたのだと。だから言えなかった。あいつの前から消えてくれとは。
「だってよ、その子、すげえ可愛かったんだ」
俺に孫がいたら、きっとあんな風になっちまうんだろうな──想い出し、惚けた様に笑う室戸を見て真美は思う。
この男にとっても家族とは、手に入れたくとも決して届かぬ物なのだと。だから夢を見たのだ。
息子夫婦と可愛い孫、そんな幻想を彼等に重ねてしまったのだ。
「だがな、俺が言い出す前に嫁さん、言ったんだ」
仕方ないですよね、だってこの子を過ちにしたくないもの──それ聞いて俺ぁ胸が詰まったよ。
あの女とうに気付いてたんだな。そして自分から切り出したんだ。そうすべきなんだって。
その翌日だよ、あいつの元から嫁さんが去ったのは。あの子を連れてな。
その後、局の保護監察プログラムに組み込み二人の足跡を消した。シンヤが探せないように、何よりもヴォクスホールから隠す為に。
以来十年、極秘裏の内に要事案部に監視させ同時に支援も行った、つまり。
「あの女の最期を看取ったのは、俺だ」
逝き際にあの女は言った。
十年かけてあの子を縛った、出来る限りの事はした、だからあの子が父親の下に行くのを許してやってくれと。
俺はそれを呑んだ。丁度シンヤも一線から引きたがっていたからな。もういいだろうと思ったんだ。
せめてひと時でもいい、父親と娘、親子として暮せてやりたかった。そして、あの町でならそれが出来るんじゃねえかってな。
「ありがとう──ございます」
真美は素直に頭を下げる。この男は、余生少ない姉に終の場所を与えてくれたのだと。
しかし室戸は──止せ、そんなんじゃねえと口元を歪め、自嘲する。
「これも全て仕事の──違うな。それならもっと割り切れた」
「なら、何でそこまで」
「解らねえか?いや、解るはずだ、おめえなら」
男の脳裏にあの女、藤原真来の声が甦る。愛しい娘を胸に抱く母の声が。
室戸さん、この子可愛いでしょう?この子が愛しいと思ったでしょう?
赤の他人である貴方さえ虜にするこの子は、そういうものなんです。わかりますよね。
「俺もあの子に、狂っちまったんだよ」
室戸は言う。藤原真澄という娘は、そういうものなのだと。
自身を排除しようとする者でさえ虜にし取り込む恐ろしいものなのだと。たった一つの目的の為に。愛しい獲物にたどり着くために。
入念に周到に綿密に網を巡らせ、自分の進む方向へレールを敷かせポイントを切り替える。
それを理性や思考ではなく本能で行ってしまう、そういう存在なのだと。
「俺を惑わせ、女王の目論見すら超えた存在、真なるイレギュラー」
ぞくり。真美の背中を走る悪寒。そんなまさか、ありえない。だが否定しきれぬ自分が居る。
この男の言う事を認めたくは無い。あのひとに抱いた恋情、あの子を愛しいと感じた愛情、それが偽者だと思いたくはない、しかし。
トランクの中で眠る最中も私はアルファと繋がっていた。彼女の経験、蓄積されたスキル、そして想い。私はそれを受け継いだ。
だからこそあの子を愛した。だが結果としてあの子を縛る鎖を切り、解き放ってしまったのは私だ。だがもし、そうならば。
分体であるアルファ、本体である私。情報の共有、その最中にアルファの体内に宿るあの子から影響を受けてしまったとしたら。
あの子が真に望む時、その戒めを解くよう私がそう動くよう設定されてしまったとしたら。
いや、自分だけでなく、あの子に関わる全てがそうだとしたら。
母である姉も、父であるあのひとも、目の前に居るこ男も、あの恐ろしい女王すら──そして。
「コクーンすら、ですか」
そして、この世界を司るあの存在さえ、取り込んでしまったとしたら。
「さて、それはどうかな」
言いながら室戸はサングラスを外す。
「要事案部立ち上げる時な、あの町に行ったんだ。そして、会った」
露出した彼の裸眼は、とても無機質で。あのコクーンの眼のようで。まるで人形のようで。
きぃ、微かな作動音と共に室戸の視線が動く。その様を目にし真美は気付く。
人形のようではない、そのものだ、つまり──戸惑う真美に向け、義眼を光らせながら彼は言う。
「俺ぁ源也さんやシンヤ、そしておめえみたく強かねえ、ただのでくのぼうだ。
だがな、唯一視る事が出来た。観て、視て、見渡し、先が読めた。俺がこうやってふんぞり返っていられんのも、その目のおかげでな」
だから常世の君との接見は、怖くもあり楽しみでもあったんだ。
どれお前を観てやろう、この眼でお前の底まで視てやろう、てめえの正体見せやがれってな。
今思えば、ひでえ自惚れだったよ、と自嘲気味に室戸は笑う。
「だが、あの御方は当にお見通しだった。そして俺に教えてくれたんだ。
それは鳥瞰視って奴なんだと。自分と同じ視点なんだと。こういう力を持った者は稀に居るんだと」
そして、常世繭子は彼に告げた──見たければ視るがいい。
抑揚の無いその声が、記憶の淵から滲み出し、室戸の脳裏で虚しく響く。
「挙句の果てが、このザマさ」
きぃ、きぃ。微かな作動音を立て動く義眼を見て真美は思う。
ああ、この男は見てしまったのだと。自分が女王より間接的に告げられた真実を、あろうことかその本体から直接見せられてしまったのだと。
つまりこの男は知っているのだ。三年前に起きた出来事を、自分の提出した報告書、その行間に秘められた真実を正確に読み取ったのだ。
外に居る者として、唯一。
「それほどの御方が、あの子をみすみす見逃すと思うか?」
「解りません。あの存在が何を考えているかなど──知りたくもありません」
震えを抑えるかのように、肩を抱く真美を一瞥した後、室戸はサングラスを掛け直す。
「そうだな、それがいい」
しかし、黒いレンズの奥で室戸は思う。
確かにあの存在の考える事などちっぽけな我等には理解出来るはずも無い。だが眼が潰れる間際、俺は見た。すすり泣く童女の姿を。
あれがそうであるならば、コクーンとはその名の通り繭であるのなら、あの存在があの容姿通りであるのなら。
あれが幼子であるのなら。永劫の孤独を課せられた小さき子供であるのなら。
いっそ、狂ってしまいたい、そう思ったのかも知れない。その為に、あの子を。
「まあ、いい。それじゃ話し換えて本題と行くか」
「はい?」
突然話題を変えられ、少々呆気に取られた素振りを見せる真美に、
おいてめえ呆けてんじゃねえぞと意地悪く口元を歪ませ、今日呼び出した目的を告げる室戸局長。
「ヴォクスホール関連で最近、嫌な動きがあるってのは知ってるな?」
「エレン・V──ですか」
この一、二年、魔道師団内の特秘部隊、通称魔道旅団の動きが顕著になって来ている。
その中心に居るのは三年前、あの事件の直前、突如魔道師団軍団長に就任したエレン・V・ヴォクスホール。
女王執行権を併せ持つVをその名に刻む彼女は、ここ暫く国元を離れ、
旅団を率い各地で反ヴォクスホール勢力であるドリフター達を狩り、蹂躙し続けているという。
「あの女王の撒いた種がまたひとつ、芽吹いてきたってトコだな」
曰く、血塗れ姫。曰く、女王の刺。曰く、千人殺し。この三年で彼女に付けられた仇名は数知れない。
しかしヴォクスホールの大原則〈他の地は侵さず〉に沿い、国家ではなく名目上は反勢力への攻勢に限定されるため、
危ういバランスを保ちつつ各国は静観せざる得ない状況にある。
旅団によるこの国への攻勢は、水際ではあるが真美が率いる専従班が食い止めているのが現状だ。
しかし近い将来、彼女自身が乗り込んで来るだろう。つまり。
「今は前菜食ってるってトコだろうな。メインディッシュはもちろん」
「カナメ、ですか」
あの夜、眼前に現れた女王を前に何も出来なかった。
無様に倒れ伏し意識を断ち切られ、あのひとを見届ける事が出来なかった。
あの恐怖、そして屈辱。それを想い真美は拳を握る。
「なに生き急いでんだか。困ったもんスね、あの姫さんにも」
他人事のように気の無い素振りで返しながらも真美は想う。
かつてのエレンは慈愛に満ち民を愛し慕われたていたと聞いている。
しかしこの変節。恐らくあの哀れな姫君は、女王より何も教えられていないのだろう。カナメとは何であるのか、コクーンとはどういうものであるのか。
それさえも知らず、あの夜、二人の親子と共に露と消えた哀れな獣〈C・E〉のように精製し調教され、世に放たれてしまったのだろう。
皆殺しの雄叫びを上げ戦いの犬を野に放て。かの戯曲家の書いた一節が脳裏を過ぎる。
混乱を、秩序の為の混乱を。未だ真美の脳裏には恐怖の女王、アメリア・ヴォクスホールの微笑みが焼き付いて離れない。
エレンもやはり種なのだ。娘という役割を課せられた女王の分体。自分と同じもの。ならば。
「勝手にやってろ──ですよ」
しかし、その言葉とは裏腹に真美は唇を噛む。
所詮自分ははレムナント、帝国の生み出した廃棄物、捨て石に過ぎない。だが私にもなけなしの矜持が残っている。
来るなら来い軍団長。私はお前とは違う。人形ではない。自らの意志で此処に居る。
相手をしてやる、教育してやる。捨石の意地、トレッドストーンの矜持を見せてやる──細めた眼に光を滾らせ真美は笑う。
「つうわけでだ。おめえよ、要事案部に移らねえか?」
「はーいー?」
しかし、組織の長からいきなりカウンターパンチを食らわされ、
いきなり何を言うんだこのオヤジ、と目の前で座るグラサンタヌキに食って掛かろうとするも、室戸が発した次の言葉で身を固める。
「駐在調整官。こんな時だからこそ必要なんだよ」
もう三年だ、いつまでも空白にはしておけねえよ。
室戸の言葉を受け、その意味に思いを巡らす。それは一線から退けという意味だろうか。
ヴォクスホール製であり女王の分体でもあり、要は裏切り者である自分には、もう前線指揮を任せられないという意味だろうか。
「──信用ないんスか?アタシ」
「違げえよ、バカ」
本当におめえ馬鹿だよなあ、と室戸は溜息を付き静かに諭す。
いいか、エレン・Vは必ず来る、自らカナメに乗り込んで来る。
けどあのおっかねえ常世の君との盟約で俺たちは原則あの町にゃ手出し出来ねえ。
だが唯一カードがある。そりゃおめえ、干渉権持つ調整官だろうが。
けれどあの御方から許されたのはたった一人、それも〈より強きもの〉のみだ。
だったらおめえ、ウチの駒で最強の奴送るしかねえだろうが。それによぉ──
「生き急いでんのはてめえの方だろうが」
違うか?サングラスの奥から彼女を射抜く視線に言葉を返せない。
「てめえなりに片つけて来い、つってんだ」
彼女はただ、唇を噛み締める。見抜かれていた、未だ未練がある事に。切りたくとも切れない想いに。
確かにこの三年、それを忘れたいが為に戦いの中に身を投じてきた。冷静に冷徹に職務を遂行してきた、そのつもりだった。
けれど自分は未だ忘れられないのだ。悔しくて、悲しくて、せつない。それは女王より受けた屈辱からではない。
あの固く閉ざされた鉄扉の前であきらめてしまった自分が悔しくてたまらないのだ。
お前の想いは所詮、その程度だったのかと思い知らされてしまったようで。
悔しくて未練たらたらの自分に腹が立つ。悲しくて惨めで泣きそうになる。せつなくて未だ胸がはちきれそうになる。
つまり私は本当に──馬鹿だ。
──おめえ、考えすぎだ。
その時、記憶の底に沈めていた言葉が、ふと脳裏に溢れ出す。
──馬鹿なんだからよ、考えるな。
八年前、初めて町に降り立ったあの日。まだ彼を師匠と呼んでいたあの頃。
市庁舎の屋上で彼は言った。動け動け、動き俺の予測すら超えてみろ。彼、藤原信也は言った。
その言葉が真美の心を軽くする。噛み締めた唇から力を抜ける。なるほど、確かに。
馬鹿は馬鹿なりに。そうッスよね、師匠。
「局長。返事三日、いや二日待ってもらっていいスか?」
「あん?いつでも構わねえけどよ」
「というワケで。二日分の有休使いますんで!よろぴく!」
返事聞く前に踵を返し、いきなり駆け出す馬鹿ひとり。
閉まるドアの向こう側に消える真美の背中を見ながら、室戸は苦笑した。
■
夜通し走り、山を抜け、日が昇る頃、辿り付いた三年振りの町。
市役所前駅の片隅に強行軍を共にした相棒、黄色いベスパを止め、朝もやに包まれた町を見渡し真美は想う。
相変わらず静かな町だと。朝が来たというのに、未だ眠り続け果て無き夢を見ているようだと。この幻影の町は。
「かなめ、何もかも皆、懐かしい──なんちゃって」
自販機で買った缶コーヒーを手に、どっかの宇宙戦艦の艦長が臨終間際に吐いた台詞っぽい言葉を呟く真美。
よし、調子出てきた。呑まれるな、感傷に浸るな、センチメンタルにはまだ早い。アタシは片を付けに来たのだ。泣くのは後だ。
さあ笑え。笑って進め。未だ飲み口より湯気を立てる熱い缶コーヒーをぐいっと飲み干し、えいっえいっ、と寒さで固まった腕や足を解きほぐす。
今日から四月。暦は春。とはいえ未だ夜は寒い。そんな中夜通し走って来たものだから身体は凍え固まろうというもの。
えいえいっとストレッチしながら体を暖める。
「まだちょっち寒いなあ。少し歩くか」
黄色いスクーターのスタンドを上げ両手でハンドルを握り、ベスパを引きながらえっちらおっちら歩き出す。
横を過ぎる市庁舎。八年前自分が落ちてきた場所。
背丈より大きいコンテナを背負い飛び出した初めての空、しかし風に流され、挙句の果てに市庁舎の中庭、茂みの中に突っ込んだ。
小枝に絡みジタバタもがく自分を引っこ抜いてくれた大きな手、あのひとの手。
見上げれば額に青筋を浮かべながらもよく来やがったなこの野郎と笑う顔、あのひとの笑顔。
きっとあの時、私はまるで、飼い主を見つけた子犬のような眼をしていたに違いない。
確かにあのひとは、あの子が全てだった。彼の世界の中心だった。いつも私は、あのひとの視界の隅にいた。
それでも良かった。それで幸せだった。だけど一度だけ、あのひとは私だけを見てくれた。
最後のひと時、あの部屋で私を真正面から見て、私を抱いてくれた。だから──
「──まったく」
真美の足が止まる。ハンドルから片手を離し、気付かぬ内に頬を伝っていた涙を拭う。
振り返ればあの市庁舎は遠くなり、大通りを行き交う車の数も増えてきた。
やがてことん、ことんと音を立て彼女の前を通り過ぎていくオレンジとグリーン、ツートンカラーの小さな箱、二両編成の路面電車。
中を見れば沢山の乗客、真新しい制服を着た学生の姿が見える。
その中に見慣れた紺色のブレザー。あの子の通っていたお嬢様学校の新入生らしき姿も見えた。
「入学式、かな?」
ふと真美は、無意識にあの子の姿を探している自分に気付き、やれやれと首を振り、再びハンドルを持ち直しベスパを引き歩き出す。
真四角な箱に似た灰色の建物、郷土資料館を通り過ぎ、かつては見慣れたその道を進んでいく。そして彼女は思いを馳せる。
あの二人もこうやって、あの小さな軽トラに乗って、この道を進んだのだろうか。
片寄せ合う小さな車内から見た町の景色は、果たしてどう見えたのだろうか。
四十になった男は父親として失った時間を取り戻す決意を胸にハンドルを握り、
十二になった娘はようやく会えた愛しき男と共に始まる新たな生活を夢に見て、
二人共に期待に胸を膨らませ、ガラス越しに見た景色はきっと、輝いていたのではないか。
その日々が続くと信じて。胸に過ぎる微かな不安を心の奥底に押し留め、やがて迎える結末など思いもせず。この町へ来たのだ。
その道を真美は黙々と進む。通いなれたかつての道を。この先にかつて彼らが住んでいた家がある。
五年間の楽園。今はがらんどうの小さな空家。
今でも時折、あの小さな童女の姿をした黒髪の大家は、何も無い居間にぽつんと残された一卓のちゃぶ台を、人形のような眼で見つめているのだろうか。
ふと立ち寄りたい衝動に駆られるもそれを堪え、目指す先を仰ぎ見る。
「さて、と」
体も随分温まった。では行こう。
そして真美はベスパを車道の隅に寄せ、スタンドを下ろし、スピードメーター上に差し込まれているキーを一段回す。
くいっくいっとアクセルを二度開き、エンジン横から伸びるキックペダルに足を掛け、勢いつけて踏み降ろす。
ぶろん、ぶろろん。再び息を吹き返す排気量180ccのエンジン。マフラーより2ストローク特有の白煙が立ち昇る。
スタンドを上げシートに座り顔を上げ、これから向かう大通りの先、郊外へと伸びる一本道を彼女は見据えた。
この道は、あの屋敷へと続いている。
三年前自分が辿り付き、けれどあきらめてしまった柊のお屋敷へ。
さて片を付けに行こう。あの鉄扉を開け中へと進もう。未だ胸の内にくすぶり続けるこの想いにケリをつけるのだ。
例えそこで、何を見ようとも。
「──よし」
クラッチレバーを握り、ギアを入れ、アクセルを開ける。
しかしレバーから手を離そうとした瞬間、真美は見た。一本道の外れより静かに近付いてくる一台の大きなリムジンを。
それに何かを感じた彼女はギアをニュートラルに入れアクセルを戻す。アイドリンクのまま小刻みに震え続ける小さなエンジン。
マフラーから規則正しく吐かれる白煙。それすら忘れ真美は近付いて来るリムジンへと眼を凝らす。
灰色の大きな車。丸目四灯ヘッドライトに鈍く輝く巨大なグリル。ボンネットの上に立つ銀色の天使。型式は確か七十年式RRファントムⅣ。
その姿を認め真美は戸惑う。何故だ、何が気になる。
法廷速度を守りゆっくりと近付いて来るリムジン、幽霊の名を受けたロールスロイスを認め真美の胸がざわざわと騒ぐ。
フロントガラスは朝日に反射して誰が乗っているのか未だ見えない。ならば待とうと彼女はそのまま凝視する。
やがて車は彼女の横を通り過ぎる。その瞬間、確かに見た。運転手と、後部座席に座る者の姿を。
「そん、な」
後部座席には、お嬢様学校の制服を着た、おさげ髪に眼鏡の少女。しかしその顔は、真澄と瓜二つだった。
そして運転席には、温和に微笑む一人の男。真美とあまり年の違わぬ青年。
けれどその顔は、かつて見た二十年前の記録、二十代の彼、藤原信也そのものだった。
しばし呆然となりその場に佇む真美。やがて彼女は胸元から携帯を取り出す。
「あ、おはようございます局長」
ワンコールで繋がった相手に向け、彼女は告げる。
「あの話、謹んでお受けします、それでは」
解った──耳元で響く声に小さく頷き、携帯を切り、再び胸元に押し込める。
そして真美は、今しがた目にした光景を脳裏に浮かべ、そして想う。
あの娘は、確かに真澄だった。しかし、まったくの別の存在だった。
けれど掛けられた眼鏡の奥から運転席を見つめる彼女の眼は、あの狼の眼だった。
そして、背中から狼の視線を受けながらも青年は穏やかに笑っていた。少なくとも表面上はそう見えた、けれど。
あの男は、あんな風に笑わない。あのように曖昧に笑わない。
まるで自分を偽るように、まるで何かを耐えるように、そんな笑みは浮かべない。つまりあれは、仮面なのだ。
姿の変わらぬ娘は、その実、まったく違う何かと化してしまった。あの狼の眼を眼鏡で覆い、けれど視線は決して目の前の獲物から逸らさない。
そして姿を変えた男は、その実、変わらぬまま偽りの仮面を被ってしまった。自分に嘘を付き、そのように成り果ててしまったのだ。
「勝手に──やってろ」
うつむきき真美が吐き捨てる。けれど彼女は、その言葉とは裏腹に再びギアを入れ勢い良くアクセルを捻る。
同時にだんっ、と片足を付き暴れる後輪を路面に滑らせ、アクセルターンを決めブレーキを離す。
ゴムの焼ける煙を撒き散らし後輪が勢い付けて路面を蹴る。前輪を浮かせウイリーしながら飛び出すベスパ。
急回転して走り出すその先は、いまさっき通り過ぎたあのリムジン。
勝手にやってろ勝手にやってろアタシはもう知るもんか。ヘルメットの下で呪詛のように繰り返される言葉。けれど口元が笑い出す。
いいだろう。その嘘に付き合ってやる。私の気が済むまで付き合ってやる。私が飽きるまで見届けてやる。
所詮それは一睡の夢、けれど醒めぬ夢などないように、その嘘もいつかは醒める。永遠など無い。だからその時までとことん付き合い見届ける。
覚悟しろ、アタシは案外しつこいぞ。
そして真美は思うのだ。やっぱり自分は、馬鹿なのだと。
■狼の娘・滅日の銃■終劇