荒い息を吐き、肩が揺れる。
軽くなったベストを脱ぎ捨て、男は最期の弾装を銃に挿した。
額、頬、首筋、胸、腹、両腕、両足、いたる所に無数の傷。切り刻まれた白いシャツが真紅に染まる。
けれど彼の眼光は揺ぎ無く、黒き異形を瞳に映し、なおも口元は笑い、歪む。
「──ふん」
笑いながらも男は、自分を圧倒する敵を前に残る気力を振り絞る。
撃っても撃っても弾は散り、削っても刺しても貫けぬ固い殻。そして薙ぎ払っても叩き折っても生えてくる無尽蔵の槍。
こいつは本当の化物だ、しかも──ぎりっ、と歯を鳴らす彼の眼前、悠然と佇む黒き異形は身動き一つせず彼の反撃を待っている。
余裕?否、これは余興。俺は──遊ばれている。
「──くそったれ」
体が悲鳴を上げている。疲れたもう休みたいと愚痴垂れる。
真来と出会ったあの頃は一晩中闘ってもどうという事はなかった。なのにこの体たらく、老いぼれたもんだ。男の口元に浮かぶ自嘲の笑み。
けれど未だ、腹の底から湧き上がるこの感情は何だ。くそったれ、俺ぁ楽しいのか。
この腐った黒狗の血が歓喜に叫ぶ。もっと、もっと、もっと。戦え、闘え、喰らいつけ。
枯れ果てるまで、最期の一滴が流れ落ちるまでこの身体は駆動する。走れ、吼えろ、眼前の敵目掛け一心不乱に駆け抜けろ。
まだだ、まだやれる、やってやる、ああ、やってやるとも。
「楽しいなあっ、オイッ!」
血の滴る右腕が銃を構え獲物を狙う。
左手には七尺五寸のフクロナガサ、刃の欠けたそれを逆手に構え藤原は不敵に笑う。
いつでもいいぜ──闘争再開、その合図を受けたかのように〈C・E〉もまた口元を歪め笑い、両腕を大きく広げる。
再び全身より姿を現す無数の刺。また槍か?藤原は刺突に構えるも今度は様子が異なる。
黒き殻より生え出た無数の刺は、しかしそれ以上切先を伸ばさず先端が熱せられた鉄のように赤く染まり、次の瞬間──
「──くッ」
身体を覆う灼熱の刺が突如、四方八方に飛び散る。
間一髪身をかわせば藤原の背後で炸裂する閃光。遅れて前方から真上から響く爆裂音。
静かな夜が一変、火の海と化し次々に崩れ落ちていく。轟音と業火に包まれ燃え落ちる町。
次から次へと生まれては飛び立つ火の槍、降り注ぐ焼夷弾の如き炎の雨を避けながら熱さに耐え、藤原は歯を食いしばる。
この化物は全てを灰燼に帰すつもりか。この町を、あの子と過ごした五年間の楽園を、真澄が居るこの場所を。
させるか、そんな事させるか、俺はあの子を守る為に──。
──違うだろ?
男の奥底で冷たい芯が囁く。そうだな、と男は応える。
解っているさ、こんな化物敵う訳がない。それでもいい、忘れさせてくれ。
俺の撒いた種を、あの娘の狂気を、ひと時でいい忘れさせてくれ。
せめて嘘をつかせてくれ。愛しいあの娘を守る為に逝ったと体の良い嘘に浸らせてくれ──だから。
「うおおおおおおおおっっっっ!」
燃える地を蹴り藤原が駆け出す。体中から火弾を放つ化物目掛け一気呵成に間合いを詰める。
それに応じ四方に散らばる火の槍は突如その向きを変え男へと目掛け迫り来る。
閃光と灼熱の集中砲火、肩が燃え腿が焼かれ肉が削げる、しかし彼の頭と上半身は決してぶれない。
あと二十歩、身体の中心軸に迫る槍を振り払うゴー・ナナの銃砲、
あと十歩、振り払う七尺五寸ナガサの刃先がばきりと折れる、あと五歩──行け。
節々より血を撒き散らし跳躍、化物の懐に飛び込み着地する刹那、藤原の眼に止まるは槍の生えぬ左脇腹、そこ目掛け三発打ち込む。
一瞬揺れる〈C・E〉の身体。
着地と同時に右足を軸にぐるりと回り、折れた小刀を投げ捨て、腰溜めよりもう一本のナガサを空いた左手で抜き、
回る体の反動と共に力を篭め、着弾した箇所に突き刺す。
ずぶり、鈍い感触、手ごたえアリ。見れば脇腹深く差し込まれた四尺五寸の刃先。
「──バラして、やる」
化物の耳元で吐き捨て、握った柄に力を込める。が、差し込まれた刃先はびくともしない。
目を剥く藤原の横で、人形の口元が吊上がり、笑った。
「てめえ──」
その時、黒き異形、少女の如き細い腕が藤原を抱き締める。
──つかまえたぁ。
脳裏に響く冷たい声。背筋が凍りつく。
離せ──反射的に腕を払いのけようとしたその時。
「ぐッ!」
ぞぶぞぶぞぶぞぶぞぶっ。体中から響く嫌な音。
〈C・E〉の腕が戒めを解き、静かに下りる。しかし藤原の身体は微動だにせず、その場所で立ち尽くす。
彼は動けなかった。何故なら黒い殻から生えた無数の槍が、彼の胸と腹を貫き、串刺しにしていたからだ。
「ぐ──がっ、がはぁッ」
男の口元からぼたぼたと落ちていく赤黒い血。
彼より頭一つ分小さな異形が頭を上げれば、その白い顔に彼の吐血が降り注ぐ。
縫い合わされた目は何も見ず、閉ざされた口は何も言わず、けれど歪み、やはり笑う。
やがて〈C・E〉の背後からぞるっ、ぞるっ、と無数の黒い手が生え出でて、手の平の中にある口を開き牙を立て、男の肩に腕に足に脇腹に喰らいつく。
そのまま槍から男を引き抜き、手の主、黒き少女の頭上に掲げれば、引き抜いた傷口からぼたぼたと降り注ぐ黒狗の血──そして。
「があっ!ぐっ!げはぁッ!」
ぞぶっ、ぞぶっ、ぞぶっ、ぞぶっ。
黒い手が支える藤原の身体に向け、再び刺し込まれる〈C・E〉の槍。
引き抜いては刺し、刺しては引き抜き、何度も何度も何度も、ただひたすらに繰り返す。
やがて藤原の口から絶叫が止む。力なくうな垂れる弛緩した彼の身体を再度大きく掲げ、黒い手が一振り、燃える夜空に投げ捨てる。
血を撒き散らし宙を舞うヒトガタ。
どさり。舞う火の粉と土煙。物言わぬ骸は、瓦礫に打ち捨てられた。
狼の娘・滅日の銃
第十六話 - そして、滅日の銃 -
熱い。燃えるような熱さだ。耐え切れず男は眼を開ける。
燃えていた。町が火に包まれ燃えていた。あの娘と暮らしたあの町が、五年間の楽園が、業火に包まれ燃えている。
その光景を、視界の半分を朱に染めながら、男はただ見つめていた。
もう、動けない。老いぼれたもんだ、自分の手と同じくらい握ってきたこいつがこんなにも重いなんて。
ごとり、と男の手から銃が落ちた。
瓦礫に背を預け、もう使い物にならないであろう足を伸ばし、ざまあない、と男は笑う。
──どうだ、これで満足か?
囁く芯に男は笑う。まあな、最高で無様な逝き様じゃねえか。
ああ、これで最期だ、これで全て御仕舞いだ。ならば無様な俺の生き様を、偽りの矜持と嘘で飾ってくれ。
「殺れよ、さあ殺れ、糞虫──殺ってくれ」
燃え盛る火の中で、ゆらゆらと揺れる黒い影に向け男はつぶやく。
シルエットは少女。しかし目と口を糸で縫われ、全身に鋭い刺を生やす黒い殻を纏うその人形は、
腹に男の突き刺した小刀さえ意に介さず、血すら流さず、平然と彼を見下ろす。
やがてそれは平然と小刀を抜き投げ捨てた。
瞬く間に塞がる穴。そして、もう男など興味を無くしたかのように背中を向け、肩口から生える無数の黒い手を翼のようになびかせ、悠然と飛び立たつ。
その姿を見て彼は思う。とどめすら刺さぬとは。その価値すら無いとは。無様だな、と男が笑う──その時。
「おまえはそこで、まっていろ」
炎の中、突如現れた何かが凛と佇みが静かに告げる。
抑揚の無い口調で冷厳に放つその声を受け、異形の翼を形作る黒い手がぞわり、と沸き立つ。
均整が解け、千々に荒れ狂う手の群れ。突如翼の制御を失い、どさり、と地に堕ちる黒──何だあれは。
逃げろ逃げろあれから逃げろ。背中より伝わる黒い手の恐慌。振り返れば炎の中に立つ小さな姿。自分よりもひと回り小さな童女。
あれは一体──何を今更。決まっている、来た、遂に来たのだ、かつてない恐怖を放つものが。
極上の餌、恋焦がれた母なるもの。貴様を前に為すべき事はただ一つ──喰らえ。与えられしコクーン・イーターの名にかけて。
そして〈C・E〉は立ち上がる──否、立ち上がろうとした。
しかし、腰を上げるも足の震えがそれを許さない。生まれたての子馬のように膝を震わせ、本能が意志を裏切る。
なんという事だ。我は──恐れている。
かつてまだ一匹の獣であったころ、山野を駆け巡り原色の恐怖を次から次へと喰らい、そして捕縛、精製され調教を受けて後、
恐怖ではなく恐怖を放つもの、それを喰らう者として変貌させられた。その筈だった。
しかし今、まるで己の喰らった恐怖という毒にやられたかのように動けずに身を固め、震えている。
そして想う──我は、こんなものを喰っていたのかと。
「繭……子?」
男が顔を上げれば、黒い髪の童女が能面を被ったかのような無表情でそこに居た。
炎の中でさえ涼しげに着物を着こなすその姿は美しく、なによりも恐ろしい。
やがて彼女、常世繭子は袖から何かを取り出し、それを男の足元に放り投げる。
どさり、と舞い上がる埃が高温にさらされ火花と化す。男が視線を向けると錆付いた鉄の塊、一挺の銃。
「取りなさい、藤原信也」
眉ひとつ動かさず、能面のまま童女は告げる。
「もう眠りてえんだ、繭子」
男の眼に映るのは童女、そして己の千切れかけた腕と足。もういいだろう、と男は笑う。
「それでいいのですか藤原」
淡々と告げる抑揚の無い繭子の声。しかし藤原は思う──こいつ怒ってやがると。
解るさ、たかが五年、されど五年。同じ夕飯を食った仲じゃねえか。
まあ、てめえが怒るのも無理は無ぇ。こんな不甲斐ない姿、眼も当てらやしねえもんな。ざまぁねえぜ。
「お前の愛しいあの子を守りたくはないのですか?」
そうだ、俺はあの子が愛しい。
愛しくて堪らない。だから、怖いんだ。
あの娘が怖い──それに気付いたのは、忘れもしない、あの眼を見た、あの日。
あの夕暮れに染まる空の下で俺は見た。
あの子の眼を、忘れ様が無いあの眼を、息絶える妹の目に映っていた俺の眼を、敵を屠る悦びに満ちたあの眼を見た。
だから怖い、あの子が怖い。愛しくて堪らないあの子を、俺を殺そうとするあの子を、敵と定め、殺すであろう俺が怖い。
「守りてえよ、だがな」
そう、守りたい。あの子をこの手に掛ける前に、俺自身の手から守りたい。
だからこそ逝かせてくれ。このまま逝き果てさせてくれ。あの子を守る為に戦って果てたと都合の良い嘘に浸らせてくれ。
そしてあの子に言ってくれ。お前が狙う強きものは、実はてんで弱い三下だったと。お前が執着する価値の無い糞虫だと。
もうそんなものに縛られる必要はないのだと、あの子に気付かせてやってくれ、だから。
「もうそんな重い奴ぁ、握れねえ」
重いんだ。銃じゃない、篭められた殺意でもない。あの子の想いが、重いんだ。
「ならば触れなさい藤原」
しかし繭子は冷厳と告げる。それは許さないと。
あの子は選んだ、ならばお前も選ばねばならない。逃げる事は許さない、最期まで立ち向かえ。
泣き言を言う暇があるのなら目の前の敵を倒せ。嘘だというのなら、その嘘を付き通せ。嘘の矜持を貫き通せ、と。
「それだけで良い。お前がふさわしいなら。それは認める」
「認めたら、どうなるんだ?」
「お前は、エル・レイになります」
「何だよ、それ」
繭子は告げる──弾丸(アモ)です、と。
藤原は応える──弾丸(タマ)か、と。
「エル・レイはこの銃、メキシカンの弾丸です。お前はエル・レイとなり籠められます」
で?どうなる──と藤原が聞けば。
〈あれ〉を倒せます。命と引き換えに──と繭子は答える。
「ふん、なるほどな」
そりゃあいい、と男が笑う。どうせ逝くのなら最期にひと華咲かせてやるぜ。
そして藤原は力を込める。引き裂かれた傷口から吹き出す血潮、骨とかろうじて残る肉と腱に最期の力を注ぎこむ。やがて動き出す指。
「上等だぁ」
じりじりと動く指が、血を滴らせ地を這う。
あと少し、あと少しで銃身──これで。
「お前ならそうすると思っておりましたよ、藤原」
繭子の爪先がそれを蹴る。くるりと回り向きを変え男の手に収まる朽ちたグリップ。
「お前は本当に、くそったれだよ、繭子」
何泣きそうな顔してんだよ、笑え──ありがとうよ、繭子。
「誉めるでない藤原、恥ずかしい」
そして男は、滅日の銃を握る。
「あの子を守れるならば」
あの子より逃げられるならば。
「この命、惜しくない」
この命、その駄賃にくれてやる。
「さあ、立ちなさい藤原信也」
熱い、燃えるような熱さだ、いや燃えている。この身体が燃えている。
銃から放たれた熱が腕を伝い血管を焼きながら心臓に注がれる。傷口という傷口から吹き出す火。
おいぼれたこの体が燃え盛る。青い火、完全燃焼の炎。再構成される身体。
あの頃に、今一度一匹の獣だったあの頃に。不死鳥は炎の中で蘇る。その時が、来た。
「おはよう藤原、否──」
常世繭子の能面が一瞬解ける。口の端を小さく吊り上げ、微笑む。
「ひとでなしのエル・レイ」
掻き消えた炎から若々しい男の姿、手にしたものは鉛色の光沢を放つ生まれたての銃。
バレルに刻まれるは喰らい合う毒蛇と毒蛙──テルシオペロとデンドロバテスの紋章。
「さぁ、喰うぜ」
そして男は、眼前の化物へと火を放つ。
■
いつからだ、いつから貴女は──真美の震える喉元はその言葉を出せない。
初めて出会った五年前からそうなのか。
それとも市長となった時に入れ替わったとでもいうのか、もしくは──混乱する彼女の心を察し、女王は穏やかに告げた。
「最初からですよ、オメガ」
イレイザーで存在を消し切り、エイリアスで自身とは全く異なる存在を創造する。
お前の持つこれらのスキルは、突き詰めればこう使うべきもの。
つまり粟川礼次郎とは、そういうものなのですよ──淡々と、まるで他人事のように話す女王が、真美は恐ろしくて堪らない。
「はじめ、から」
恐怖に耐え、口から言葉を搾り出す。
コクーンに対する防御機構として植え付けられたものとは異なる根源的な恐怖。
血が騒ぐ、身体を構成する全ての部位が泣き叫ぶ、逃げろ、喰われるぞ、早く──けれど真美は唇を噛み締める。
逃げろ?ふざけるな。私は行かない、行くものか。
あのひとの最期を焼き付ける、そしてあの子を守る、誓った筈だ、この身体に刻まれた証を蔑むな。
私は私だ、誰の人形でもない、自らの意志で此処に立つ。
「あなたは──アンタはッ!」
噛み締めた唇から滴り落ちる血の一筋。銃を引き抜き真美は叫ぶ。
だから笑っていたのか、あの何もかも諦めたような顔で笑っていたのか、
何もかも見通したかのようなしたり顔で私達を笑っていたのか、全ては茶番だと嘲っていたのか、ふざけるな、ふざけるんじゃない!
「そう、あなた──おんなにしてもらったのね」
照準器の向こうで女王は微笑む。
「うらやましいわ、あなたが」
真美の空いた手が無意識に下腹を庇う。蕩けた女の眼に晒されて背筋を伝う冷たい汗。
「愛する人に身を捧げるほど、好き勝手に生きれるあなたがね」
「アンタは、そんなアタシ達を!」
楽しかったか?この見世物は。したり顔して、何でもお見通しみたいに笑って、お前は!
叫ぶその口元から飛び散る唾と血。けれど女王は微笑みを崩さず、静かに告げる。
「ええ、楽しかったわ。そして、羨ましかった」
うらやましい?何を馬鹿な──言い返そうとするも、真美は言葉を呑む。
「わたくしもね、出来る事ならずっと、夢を見ていたかった」
見えてしまったのだ。女王の口元の浮かぶ笑みの中、色濃く混じる自嘲の影を。
「ラインなどに囚われず、力無きただの人として気兼ねなく旅に出て、
やがて老い、どこか終の棲家を定め、朽ち果てるその時を静かに待つ、そんな夢をね」
まあ、わたくしには所詮無理なのだけれども──自らを嘲るが如くに女王は微笑む。
常世の君、黒髪の魔女コクーンに連なる常若の君として、ライン委託管理者として、
ライン尽きぬ限り永遠を生きねばならぬ者として、それは無理なのですけどね。
だからこのひと時はわたくしの儚い夢のひと時。それが醒める時が来た、それだけのこと。
「何を今更ッ!アンタは願ったはずだ!」
知っているぞ女王、と真美は叫ぶ。
貴女は願った筈だ。お前はコクーンの前で、そういう存在になりたいと願った。それを今更になってお前は。
絶大な力に飽きたら今度は旅に出たい?老いて朽ちたい?何だそれは!虫が良いにも程が在る──叫び真美の指が引金に触れる。
「──ッ」
その瞬間、業と燃え上がる銃。暴発のいとまも与えず一瞬で炎が全てを焼き尽くす。
「そう、あなたわたくしの記憶の一部も継いだのね、ならば──」
すかさず腰溜めより短刀を引き抜き構える真美、しかし。
「これが何か解るでしょう?」
女王は動ぜず、微笑みながら胸元に掛けられたペンダント引き抜き掲げた。
白い指に掴まれたそれを目にした真美の動きが止まる。眼前で揺れる──黒い石を瞳に映し。
「欠片──キー・ストーン、の」
それを目にし、真美の脳裏で弾けるビジョン。一気に解凍される記憶のフラッシュバック。
黒い石、キー・ストーン、コクーン、そして幼い一人の娘──アメリア。
「願ったのではありません、願わされたのですよ」
真美の脳裏で、幼いアメリアがそっと囁く。
これはね、本体が稼動を始め、ラインが放射され初めて彼の地にたどり着いた時、流れに乗って落ちてきた二つの欠片、その内のひとつなの。
一つはドリフターによって彼の地を離れ、人の手に渡り、やがて滅日の銃となったの。
でもね、もう一つのこれは彼の地に残り、コクーンの力を彼の地に留め置きたい者達によって使われた。どうやったかって?それはね──
「わたくしはコクーンに捧げられた供物」
それはね、子を宿した女、その中に石を転移し融合させ、わたしを作ったの。
「キー・ストーンの欠片から作り出されたモノ」
そして、あの愛しい御方が興味を引いてくれるような存在として産ませたの。
おかしいよね、そこまでして彼らはコクーンの力を手に入れたかった。笑っちゃうでしょ、なりふり構う余裕なんかなかったのね。
もちろんちゃんとお礼したわ。彼らはあの日、一人残らず黒い手に──
「何も無い、虚無の娘」
幼子の言葉と、眼前の女王の言葉が重なる。
その時、アメリア・ヴォクスホールが手にした黒い石が砕け散り、無数の破片が光となって彼女を覆い、やがて吸い込まれ、消えた。
「それが、わたくし」
じわり、アメリアの青い瞳が黒に染まる。
白目すら覆い尽くし、やがて二つの眼は何も無い漆黒の穴と化す。それはまるで──真美の意識は、そこで途切れた。
「オメガ、これはせめてもの慈悲と思いなさい」
どさり。意識を失い倒れ伏した真美を見下ろし、女王は優しく告げる。
「これより起こる事を目にすれば、お前は本当に狂ってしまう」
眼下より巻き起こる爆音も彼女の耳には届かない。
ただ、市庁舎の屋上より遠く町の全貌を眺め、一時共に過ごした夢の日々を想い、夜の町に浮かぶ文字を瞳に映す。
「出来得る事ならわたくしも、あの光の一つになりたかった」
彼女の眼に浮かぶ光の文字。noli ・me ・tangere(ノリ・メ・タンゲレ)──我に触れるな。
アメリアは知っている。町の灯が形作るその文字は、ラインという鎖から解き放たれた者達が最後に願う切なる願いなのだと。
代理闘争に命を落とした者達、フラットライナーズ、そしてドリフターズ。
糸(ライン)に操られ要石(キー・ストーン)という舞台の上で踊り終え、裾に降りた者達。
自分をコクーンに差し出した者も、自分を産み出し事切れた女も、繰り糸が切れ狂気が解け素に戻り、きっとこの中に居るのだろう。
もうアメリアはそれに何の感慨も抱いていない。彼等は既に舞台を降りたのだから。やっと、降りれたのだから。
故に彼等は言うのだ、ノリ・メ・タンゲレ、我等に触れるな、関わるな、放っておけ。
舞台がはければ我等は皆同じもの、共に肩組み酒酌み交わし、終わりの時を待とう。
役目を終えたこの身も意識もじきにライン溶けて消え果てる、それまでせめて穏やかに、おあとがよろしいようで。
「彼等は終われる、けれどわたくしたちは、終われない」
舞台が終るとき、この世界は終わる。
この世界は、滅びに瀕したこの星が見る最後の夢なのだ。
故にキー・ストーンはこの星に落ち、ひと時だけ願いを叶えるべく世界を再生し舞台を創り上げた。
故に終わらせてはならない。アメリアは理解していた。それがコクーンの役割であり、ライン管理を委譲された我が使命だと。
そのためならば狂ったフリなど易いものだ。
「それでも良いのです。コクーン、あなたのお役に立てるのなら、それが悦び」
彼女はつぶやく。
何も無い虚無なる娘に、大いなる役目を与えて下さった愛しき魔女様。
とわにお慕い申し上げます、その気持ちに一片の曇りなどございません──ですが。
──たまにで良い、美味なる馳走を届けてくれ。
コクーン、あなたは申されました。その意味をわたくしは取り違えてなどおりません。だからこそ種を撒き続けました。
混乱を、秩序の為の混乱を。混乱を秩序正しく制御せねばならない、決して平穏をもたらしてはならない、そうなれば、この世界は終わるのだから。
かつて無秩序に争い滅んだ世界を、こんなはずじゃなかった世界を、安らかな平穏に包まれた、こうであって欲しい世界へ。
それがこの星の願い。しかし、それが叶えばキー・ストーンは役目を終えこの世界は終わる。あなたが愛した世界は終わる。そうさせてはならない。
この世界は、否、この星が刹那に見る夢の物語は。
平穏を目指しながらも、その実、制御された混乱によりカラ騒ぎを繰り広げ、
果てなく続く終わらない物語、ネバーエンディングワールドでなくてはならない。
あなたの欲する美味なる馳走とは、世界を終わらせぬ為の糧であり、平穏という膠着を引き起こさぬ為の添加剤に他ならない、つまり。
「Show must go on──舞台を続けなければならない。これがあなたの真意」
故にわたくしは種を撒きつづけました。あたたにとって美味なる馳走を。混乱の種を。この世界を終わらせぬために。
その為の獣、その為のブラックドッグ、その為のレムナント、その為のエレン・V、その為の我が魔道帝国ヴォクスホール──そして。
「〈C・E〉──あの程度のもので、あなたを消す事など出来る訳ないでしょう?」
それはコクーン、あなたにも御解りでしょう。なのにあなたは、わたくしが狂ったと申されますか。
いいえ。そうではありません。あなたは気付かれましたか?
「狂ったのはわたくしではなく、あなたご自身だという事に」
あなたは絶対無比なるものでなくてはならない。
冷徹に計算し冷酷に処断しこの終わらない世界を絶え間なく運行させるものでなくてはならない。
ですがあなたは、優しくなられた。それ故に狂ってしまわれた。
だからこそわたくしは、とっておきの種である獣を、彼の地に置いたわたくしの分体に命じ〈C・E〉に仕立て、あなたへのギフトとしてお贈り致しました。
あなたに今一度気付いていただくために。なのに、ああ、それなのに。
「マスミ──唯一のイレギュラー。お前は、生まれるべきではなかった」
狼の娘よ、お前は全てを狂わせた。あのお方を以ってしてもお前を御す事は出来なかった。
それどころかお前に取り込まれてしまった。出してはならぬ答えを出させてしまった。
「お前が憎い──そして、恐ろしい」
お前がこれから行おうとしている事は、恐怖という感情を忘れて久しいわたくしでさえ空恐ろしく感じる。
お前はたったひとりの男の為に、何よりも自身の欲望の為に、それを行おうとしている。
お前は、物語の外に居るべきコクーンや我と等しき存在を、物語の中に顕在させようとしている。
舞台から決して降りる事の出来ぬ、永遠のキャストを。
「あれほど忠告しましたのに、老いた狼。ブラックドッグ──シンヤ・フジワラ」
その時、アメリアの背後より巨大な火柱が立ち上がる。
振り返り市庁舎の屋上より真下を覗けば、巨大な銃身を手にした男が一人。長髪を熱風になびかせながら黒き異形の前に立つ。
「お前は、最後のエル・レイになったのですね」
お前は取り返しのつかぬことをした。
最後のエル・レイにして、永劫の射手となる者よ。
「お前が手にした銃、その意味を思い知るがいい」
黒い瞳でアメリアは笑う。
もうどうにでもなれ、と全てを諦めたような顔で。
「さて、戻りますか」
赤く燃える空を見上げ彼女は呟く。
では戻ろう、我が生まれた彼の地へ。六十五年ぶりの帰還を果たそう。
再び恐怖の女王として新たなる混乱を画策し、危うい夢の続きでも見ようか。
「所詮は儚いひと時の夢──けれど」
両腕を空に掲げれば、再び現れる女王の転送陣。その瞬間、ぼう、と燃え上がる彼女の肢体。
青白い炎の中で燃え尽きる刹那、アメリア・ヴォクスホールは今一度、夢見るように微笑む。
「楽しゅうございましたよ」
ああ愛しき常世の君、出来得るのならば、もう少しあなたのお傍に居とうございました。
きっとあなたはお気づきでしたのでしょうね、この老人がわたくしであると。けれどあなたは、わたくしをこの楽園に置いて下さった。
ひと時の夢を見せて下さった。その優しさがあなたを狂わす毒だと解っておりましたが、あなたの傍らに居る幸せについ甘えてしまいました。
ああ、幸せな夢を見させて頂きました。もう思い残す事はございません。
これより世界は炎の時を迎えるでしょう、それでもわたくしは──とわにお慕い申します、かあさま。
やがて光と炎が消え、彼女は消えた。未だ眠る真美を残し。
■狼の娘・滅日の銃
■第十六話/そして、滅日の銃/了
■次回■第十七話「ゆえに、狼の娘」(最終回)