夜中に眼が醒める。
けれど瞳は開けない。身体を起こす事も無い。ただ意識を研ぎ澄ます。
すう、と居間の戸が開く。何かが立っている。真澄の形をした何かが立ち尽くし、自分を見下ろしている。
呼吸を乱すな、悟られるな、あの子に感ずかれるな。男は身体を弛緩させながらも意識だけは研ぎ澄ます。
あの子が座る。あの子が屈む。あの子の顔が目蓋の向こうで自分を見る。眼を開けるな。それを見るな。
はあっと熱い吐息が頬に触れる。あの子の息、荒い息。
「──おとう、さぁん」
囁く小さな声と熱い息が耳元に触れる。
「──すき」
はぁはぁと熱い吐息、せつなげな囁きで男は狂いそうになる。
「──だいすき」
欲情の篭る荒い息。
はあはあと耳元にかかる喘ぎはやがて男の口元に掛かり、湿った彼女のくちびるが彼の口へと重なろうとした瞬間。
「んんー、うぇあ?」
大袈裟な寝言とこれ見よがしな寝返り。その瞬間、あの子の身体が離れる。
即座に身を起こし、慌てて立ち上がる気配、居間の戸を閉め廊下を駆けて行く小さな足音。気配が消える。
やがて男は眼を開ける。身を起こし振り返れば閉じられた居間の障子戸。
軽く首を振り、どうか今のは悪い夢であってくれ、と噛み締める。
けれど未だ耳元と頬と口元に残る熱の残滓と前髪に微かに香るあの子の匂いはそれが現実だと告げていた。
あの夕暮れから、夜毎繰り返される悪夢は確実に男を蝕み始めた。
その度に繰り返される危うい狸寝入り。男は思う。眼を開けたなら何を見るだろうかと。
その時、あの娘はきっと、あの眼をしているに違いない。
そのまま寝床で身を丸め男は夜をやり過ごす。けれど彼はいつも思う。
朝は、来るのだろうかと。
狼の娘・滅日の銃
第十三話 - 嵐の前の日 -
「ごちそうさまでした。今日も美味しかったですよ、真澄」
相変わらずのどんぶり飯をぺろりと平らげて平然と会釈する大家。
いつもどおりの夕飯風景。しかし彼の姿は無かった。時計を見れば八時近く。
ここ数日多忙らしく、遅い帰宅が続いている。真澄は心なしか元気が無いようにも見えた。
「どうしましたか。真澄」
「──ううん、なんでもない」
取り繕うように真澄は笑う。
そのとき、傍に寄り、彼女の腕に添えられる小さな手。
「繭子、さん?」
「大家と言えば親も同然と申します」
彼女は何も言わず、自分より一回り大きくなった娘を抱き寄せる。
「──ありがとう」
そのまま繭子に見を委ねる真澄。
小さい筈の身体がやけに大きく感じる。まるで包み込まれるような心地良さが真澄の心を満たしていく。
繭子は何も言わない。まるで全てを理解しているようだと彼女は感じる。だから何も言わないのだ。
有り難い。何も言わず父が帰るまでこうして寄り添ってくれる。それだけでどれほど救われたか。
もし今、一人で彼の帰りを待ち、空虚な時間に身を置き続けていたとしたら、きっと自分は狂ってしまうだろう。
この胸に過ぎる言いようの無い喪失感の原因はきっと──あの日からだ。
一週間前、気持ちを抑え切れず父の胸に飛び込んだ。
その日からだ。自分に対し、彼がどこか一歩引いたような態度を取り始めたのは。
表面上は変わらない。相変わらずの優しい笑顔。穏やかな声。
けれど、その瞳の奥に時折過ぎる無機質な光。やがてその意味に気付く。
彼は、避けている。自分を直視するのを。
「明日は満月ですね、真澄」
小さな手が娘の髪を撫でる。
「明日の夕餉は結構です。その代わり身を空けておきなさい。解りましたね」
繭子の言葉になんで?と問いかけようとしたその時。
「ただーい、まー」
玄関から待ちわびた声が響く。
一瞬身を固める真澄。その時、彼女の肩をぽんぽん、と優しく叩く小さな手。
見上げれば人形顔で無表情の大家がこくり、と頷く。ぎこちなく笑みを作り、ありがとう、と呟く真澄。
そして身を起こし、愛しい彼を出迎えるべく席を立つ。
「おかえりー、今日も遅かったね」
「いやぁ悪ぃ悪ぃ、ここんとこ色々重なってよ」
やがて玄関先から聞こえて来る親子の声。いつもどおりの声。けれど偽りに満ちた声。
「──さて」
そして繭子も身を起こす。
自分の役目が終わったかのように立ち上がり、居間を後にした。
■
狭いはずの執務室がやけに広く感じる。
「──くそったれ」
旨い筈の珈琲がやけに苦い。
「何故、気付かなかった」
あの日から男は自問を続ける。
気付かなかった?否、気付かない振りをしていたのだ。
まさに繭子の言う通りだった。そんな事などあるはずが無いと思い込んだ。
そうであると無意識に蓋をした。挙句の果てがこのざまだ。あの子が見せたあの眼、あれは。
「真来──独りで背負い込みやがって」
ばかやろう、と男は呟く。
今更ながら思い知る。馬鹿は俺だ。だからあいつは離れたのだ。
その可能性を考えず、ただあいつの言葉を鵜呑みにして、自分勝手に曲解して、その言葉に込められた真なる意味、
切ないまでの想いに気付いてやれず、あいつを独りで逝かせてしまった。ばかやろう、本当に俺は大馬鹿野郎だ。
「なあ真来。あの子は、そうなんだな」
藤原は思い出す。五年前、十二歳の真澄が自分の前に現れた時、何を言ったか。
──あなたを父などと呼ぶつもりはありません。
あれこそが偽らざる言葉。母親という鎖を引き千切った本能の叫び。
──お、おおお父さんと呼んであげてもっ、いいわっ!
けれどあの子は抗った。その言葉は自分を縛るための新しい鎖だった。
──あなたをお父さんと呼ぶのは私の妥協。あなたへの復讐のために。
妥協などではない。精一杯の抵抗だったのだ。自分の本能と。自らの欲望を抑える為に。
俺を父と呼ぶ事、それは血の鎖。自分を捨てた仇と思う事、それは憎悪の鎖。
幾重にも鎖で縛り付けそれを理性で制御し、自分を保っていたのだ。
五年の年月。その鎖を一本一本引き千切ってしまったのは誰あろう、俺だ。
「大丈夫だ」
落ち着け。うろたえるな。動揺するな。隠せ。悟られるな。
装え。父親である事を演じ通せ。俺が俺である為に。何よりも、あの子の為に。
「まだ──大丈夫だ、問題ない」
家族と言う名の絆は、今や彼を縛る鎖と成り果てた。
「──くそったれ」
気が付けばとうに日は落ち、薄暗がりの部屋の中で男は独り中空を見つめていた。
冷めた珈琲を一気に飲み干しその苦さに口元を歪め、空になった紙コップをゴミ箱へ放る。かさっと軽い音がした。
その時、扉の向こうから彼の名を呼ぶ老人の声。
「藤原さん、よろしいですか?」
立ち上がりドアを開けると市長、粟川が両手に湯気の立つ珈琲を持ち立っていた。
「これ、差し入れです」
こりゃどうも、と作り笑顔で出迎え、部屋の中へ招き入れる藤原。
そのまま二人、部屋の片隅に置かれた小さな応接セットのソファーに腰を降ろし向かい合う。
「珈琲、苦いでしょう?」
粟川の言葉に藤原は苦笑する。この人は何もかもお見通しなんだな、と。
「ええ。旨い筈だったんですけどね」
「それがこの珈琲の不思議なとこでしてね。
楽しい時、安らかな時には美味しいのに、辛い時にはやけに苦く感じてしまう。まあ鏡みたいなもんですかね」
なるほど、と藤原は頷き今一度淹れたての珈琲を口にする。やはり苦い。
「ここのところ、帰りが遅いようですね」
「はい。色々と雑務が重なりまして」
それは、稚拙な嘘。しかし粟川は何も言わない。
「五年ですか。あなたたちがこの町に来られてから」
「長いようで短いというか。あっという間でしたね」
「夢のようでしょう?」
その言葉に藤原は素直に微笑む。
夢。まさに的を射た表現だと。
「調べても調べても、この町の正体が解りませんよ、市長」
この五年で随分とデータは蓄積された。
藤原が交流という名のフィールドワークで得た情報を元に、本局では解析用アルゴリズムを用いてカナメの人的相互交感図、
有機ヒューマンネットワークの割り出しに総力を挙げている。その最終目的は──〈ホール〉の把握。
ヴォクスホールにはラインの落ちる場所〈ホール〉が存在する。それは力の吸入口だ。
ならばラインの源泉であるカナメにも同様に噴出口が存在する筈だ。
しかし、過去どのような手段を経ても地理上はその位置を確認する事が出来なかった。
当初、脈動を続ける町の中心軸、現郷土資料館がそれではないかと思われたが、ラインの収束は確認出来なかった。
ならば一体何処にあるのか。町の実質的な盟主が居住する常世邸でもない。
地理上で把握できぬのならばと新たなアプローチが開始されたのが五年前。
人の収束点を割り出せば隠されたホールの位置も浮かび上がるのではないか。
町に分布する居住者は地図上で見れば散らばる点に過ぎないが、血縁・知己・職務などの繋がりを線で結べば必ず何処かが交差する。
その交差が多い場所、つまり最多収束点が割り出せればおのずとホールへと繋がる道標となり得る──しかし。
「解った事といえば、うちの大家に集中していることくらいで」
そう。予想通りやはりあの存在、常世繭子に収束するのだ。藤原にとって一番身近で、一番謎に包まれたあの存在に。
五年がかりで得た事といえばそれくらいだ。とどのつまり確認作業に過ぎなかったのかも知れない。
つまり──常世繭子こそが〈ホール〉であると。
「藤原さんもそう思われますか?」
「違うんでしょう?粟川さん」
その問いに老人は微笑む。老練な教師が教え子に応えるように。
「藤原さん。あなたにはもう御解りなんですね」
「いいえ。ですが、ただひとつ解った事があります。あいつは──嘘を言わない」
彼には解っていた。繭子が嘘を言わぬ事を。
彼女は自分が大家であると言った。その言葉は本局には伝えていない。藤原は痛感している。伝えても無理なのだ。
この場所に住み、共に飯を食わなければその言葉を理解する事など出来はしない。その事実はあまりにも大き過ぎる。
「ひとは夢と同じもので出来ている──この言葉、ご存知ですか?」
「テンペスト──シェイクスピアですか」
「私にも夢があったんですよ、藤原さん」
粟川は笑う。夜毎神話が辿りつくところを探し出す──という夢ですがねと。
「若い頃は、各地の魑魅魍魎の伝承や神話を集め結び付け、どれが虚構で何が真実か見極めようと躍起になっておりました。
妖怪ハンターなどと呼ばれたのもその頃です。ですから当然この地を無視する事は出来なかったんです。
もしあの頃、分別を持ち、幾分かでも躊躇しておれば今とは別の人生を歩んでいたかも知れません」
「後悔、してますか?」
いいえ、と首を振る粟川。
「おかげさまで、真実に辿りつく事が出来ましたからね」
ですがまあ、たったひとつだけ後悔があるんですわ、と老人は溜息を吐く。
「知ってしまった故に、もう知る事が出来ないくらいですかねえ」
「知らなくてもいい事でさえも?」
うな垂れ問いかける藤原に、粟川は答えを返さない。けれど老人は思う。
町の事、否、この世界の理に比べれば彼の悩みなど些細な事だ。しかし。
「今のあなたには、それが全てなのですね」
力無く頷く藤原を見て、ああやはりと粟川は納得する。
カナメもヴォクスホールもラインも世界でさえも関係無い。それこそこの男には些細な事だ。
彼の世界の中心にはあの娘がいる。それこそが全てなのだと。
「──つまり、夢なのですよ。藤原さん」
私にはこの言葉しかお渡しできません、と粟川は囁く。
「そして夢はいつか、醒めるものです」
この珈琲と同じようにね。そのまま温くなったカップに口をつける。やはり苦い。
「それじゃ藤原さん、私はお先においとましますが、これ、お渡ししておきますね」
彼の差し出した手に鍵が一つ。
「屋上の鍵です。戸締りお願い出来ますか?」
守衛さんには伝えておきます、多少大きな物音がしても放っておくようにね、と笑う粟川。
「──ありがとうございます」
深く頭を下げる藤原に、いえいえ、と手を振り部屋から去る市長。
こっちもやっぱり御見通しか、と再び苦笑する藤原。ひとつ借りが出来たな、と鍵を握り締め席を立つ。
「行くか」
随分前から気付いていた。先刻より頭上から発せられる並々ならぬ殺気に。
そして藤原は部屋を出る。誰も居ない廊下を進み、奴が待つであろう屋上へ向かう。
馬鹿の衣を脱ぎ捨て、真来と寸分違わぬ気を放ち、わたしはここにいると自分を呼ぶあいつの元へ。
あいつが来ている。あの子の最後の鎖を切ってしまったであろう──真美が。
■
風が強い。びゅうびゅうと吹きすさぶ。
日の暮れた屋上は暗闇に包まれる事も無く、青白く照らされていた。
見上げれば大きな丸い月。満月を見上げ風に髪をなびかせ佇む女が独り。
「今日も遅く帰るんですね、師匠」
背後に気配を察し、その女は告げる。
「あの子が怖いですか?」
男に振り向く彼女の顔は、微笑んでいた。
「てめえ」
真正面から彼女、田中真美を睨み、藤原は言葉を吐く。
「俺は言ったよな、余計な事を言うなと」
「私は、あなたが欲しかった」
その為なら何だってやります、と真美は笑う。
「私は言いましたよね?恋は戦争だと」
「てめえ、解っててやったのか」
ぎりっ、と藤原の奥歯が軋む。
「なぜ俺に固執する」
「それが私の使命。それこそが存在意義」
全てはあなた、藤原信也というより強きものに固執する為に創られたもの、と彼女は告げる。
「私は予備では無かった。六体の姉、その情報を蓄積し再構築すべく仕組まれたもの」
バックアップでは無く、最後に目覚めるべく仕組まれたものだったと彼女は言う。
「あなたを襲った五体のアルファはあなたに倒された。あなたを愛した一体のアルファは母となりあなたの子を産んだ。
そしてあなたは、最後の一体である私を育ててくれた」
全て思い出したんです。笑う真美の口元が醜く歪む。
「私はオメガ。アルファ達の想いを継ぎ、うまれたもの」
告げる真美の口元が更に歪み、妖艶な笑みを作り出す。
「全てはレムナント・セブンの名の下に」
またか、またそれか。真美を睨みながらも藤原は首を振る。もううんざりだと。
いつまで俺を、いや俺達を縛るつもりだ。俺を、真来を、そして真澄をも縛り続ける忌々しいその言葉。
ふりほどいても引き千切っても付きまとうその鎖。そんなにこの血が欲しいのか。呪われたこの狗の血を。
妹を殺した血、俺を狂わせた血、そして娘すら惑わせる穢れたこの血が欲しいのか、くそったれ。
「──いい加減にしろ」
「そうは行かないのよ、シンヤ」
藤原は眼を剥く。
自分を名前で呼ぶ彼女の顔は、まるであの女、真来そのものに見えた。
「全て思い出したの。そう、すべて」
そして直感する。こいつは完成したのだと。
「私は〈C.E〉のプロトタイプ」
〈C.E〉──コクーン・イーター。
それは女王の獣につけられた名でも個体を示す識別名称でもない。
或る目的を遂行するものに与えられる称号である。その目的とは、つまり。
「黒髪の魔女コクーンを喰らうべく仕組まれたもの」
藤原の疑問が氷解する。こいつはいつも繭子に対し過剰に反応した。自分よりもなお過敏にだ。
おかしいとは思っていた。だがこれなら頷ける。あらかじめ真美には繭子に対する防御機構が刷り込まれていたのだ。
力を蓄え成長を遂げ、いずれ牙を剥くその時をしたたかに狙っていたのだ。
俺と初めて会った時こいつは仮面を被っていた。引き剥がした仮面の下には馬鹿がいた。
しかしそれすらも仮面だったのか。二枚重ねの面。それを遂に脱いだのならば。
「つまり、師弟ごっこはもう御仕舞いって訳か」
「ありがとう、育ててくれて」
真美は笑う。吊上がる唇はまるで三日月。口の端々から覗く犬歯を隠そうともせず。
「ああもういい、わかった」
その瞬間、藤原の眼光が変化する。冷たい鋼のような光。彼が真美を敵と認識した証。
「ねえダーリン、わたしを殺したい?」
真来と同じ言葉を吐く真美。これ以上無い挑発。藤原の胸に湧き上がる衝動。
「ねえダーリン、あなた殺していい?」
その言葉を敢えて使う彼女に藤原の血がたぎる。
その言葉を吐くな。それはあいつのものだ。あいつを汚すな。俺とあいつの想いを汚すな。
殺す。殺し切る。穢れた狗の血が彼の身体を駆け巡る。その姿を見て真美は笑う。心底嬉しそうに見をよじり愉悦に浸る。
「ああ。やっとその気になってくれたのね」
笑いながら真美は唇を噛む。しかし、その仕草を藤原は見逃さなかった。
やはりそうか馬鹿野郎。それはあいつの癖だ。真来の癖だ。お前はそれさえも受け継いだ。
その癖の意味する所はただ一つ。真美、いやベソ美。やっぱりお前は──馬鹿だ。
「いくよ、シンヤ」
その刹那、満月を背に立つ真美の姿がぼうと揺れ、掻き消える。一瞬の静寂、そして。
「──ッ」
藤原の眼前に、光る刃先。
■狼の娘・滅日の銃
■第十三話/嵐の前の日■了
■次回■第十四話「暴風域」
※おまけ画ェ…(ベソ美)
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