奴が見ている。それを感じ若き藤原の胸が高鳴る。
炎の出会いから五年、彼は専従班の一つを任される程に成長を遂げていた。
それでも驕る事無く常に過酷な職務へと身を投じ、自身を磨きつづけてきたのは、
あの日の屈辱が脳裏から決して離れなかったばかりでなく、ともすれば蕩けてしまいそうな狂気を今一度、と切望していたからだ。
奴は必ずまた来る。あの日の続きを。奴は牙を研いでいる。だから自分も牙を研ぐ。喰うか喰われるか。
その時は誰にも邪魔されず最後まで。いつしかそれは彼の原動力ともなっていた。
あの日、本能のまま動き敵を屠った拳銃とナイフを用いた技は、五年の月日で熟成されガンソード・アーツと呼ばれるスタイルにまで進化を遂げた。
銃は反動の少なく貫通性の高い5.7mmの口径のままではあったが、標準装備のコンバットナイフから堅牢なフクロナガサと呼ばれる小刀に持ち替え、
それは鬼包丁と仇名される彼の代名詞ともなった。
待たせたな、準備は完了、これでいい、いつでも来い、殺り合おう。
お前の居場所は掴んでいる。ヴォクスホール領事館に保護されていた事も、最近自分と同じ得物を入手した事も解っている。
さあ来い。殺ろうぜ。
彼の想いに応えたかのようにその日、不意に注がれた熱い視線。
来た。藤原の胸が高鳴る。
同僚に悟られぬよう簡単に身辺整理を済ませ、庁舎を後にした藤原は、かねてより目星をつけていた埋立地へと足を向け、
誰も居ないその只中で神経を研ぎ澄ます。さわさわと冷たい冬の雨。濡れるセイタカアワダチソウ。遠く街の灯。
暗闇の中意識を探る。居る。奴が居る。その距離は確実に狭まり、そして。
「あはは。お互いもう、辛抱出来ないよね」
振り返れば女が一人。
卸し立て真紅の鮮やかなドレスを身に纏い、薄く化粧を施した彼女は、もう少女ではなかった。とびきりの女になっていた。
そのくせ、未通女(おぼこ)のように軽く頬を朱に染めていたのは、彼女にとって彼も、想い人であるかのようだった。
「ねえダーリン、アタシを殺したい?」
五年ぶりの再会。彼女は一匹の雌になっていた。
「ねえダーリン、アンタ殺していい?」
雄が笑う。心底嬉しそうに雌も笑う。
「それじゃ」
「おう」
すう、と彼女の右手に現れたフクロナガサと左手にゴー・ナナ。
藤原は構える。右手にゴー・ナナ、左手にフクロナガサを握り締め。その姿は鏡向かい合う鏡のようだった。
「殺ろうか」
「殺ろうぜ」
同時に跳躍、閃光、兆弾、重なる刃先、火花、火花。
雌が笑う、雄も笑う。笑い二匹は殺し合う。夜雨の中で始まる獣同士の共食い。
「あはは!あははははッ!」
放火の閃光と切り結ぶ火花に照らされて女が笑う。無論藤原も笑っていた。そして気付く。
やはり同じだ、こいつは俺と同じ進化を遂げている。技も互角、力も互角、殺意すら互角、違うのは容姿。
片や男、片や女。それが何を意味するのかは解らない。だが今だけは感謝しよう。
「素敵!アンタやっぱり最高ッ!」
「そりゃこっちの台詞だッ!」
こんな女、二人といねえ。
俺を殺せる唯一の女、俺が殺せる唯一の女。極上の女、最高の女、運命の女。
例えそれが仕組まれた運命とやらでも構やしねえ。気を抜くな、
全てを放て、全てを受け、全てを注げ、それはすべてこの日の為に。ああ、嗚呼最高だこの野郎。
「あはははははッ!」
「イャーッツハァ!」
その饗宴は永遠に続くと思われた。
湾に突き出した牙の形をした埋立地、人に創られ忘れ去られたその場所で延々と殺し合う二匹の獣。
フロムダスク・ティルドーン、宵闇から薄明まで。体中から血を流し喉から荒い息を吐き、それでも笑う雄と雌。
夜半まで降り注いだ雨はいつしか上がり、夜明け前、白いもやとなって辺りを包む。
「くっ!」
「がっ!」
ぼろぼろに欠けた最後の一刀が互いの肩口を貫き、遂に折れる。
残る得物は二挺の銃。残弾共に一発。
男は右手、女は左手で銃を構え、互いに空いた肩口から血を流し、既に使い物にならないであろうその腕がだらりと下がる。
そのままじりじりと間合いを詰めていく二人。銃口は共に額を狙う。
一歩二歩、三歩四歩、既に眼を瞑ってでも撃ち抜ける距離にも関わらず尚も近付いて行く二人。
五歩六歩、二つの銃口が交差し、そして。
「ねえ、ダーリン」
「あんだよ」
ゴリ、ゴリッ、と互いの額に押し付けられるバレル。
「名前で呼んで、シンヤ」
「生意気なんだよ、マキ」
額に銃口。瞬きもせず互いを見つめ、笑う二人。
「これで御終いかな?やっぱり寂しいね」
「だろうよ。終わらねえ祭りなんざねえんだ」
「楽しかったね」
「ああ、最高だったぜ」
互いに銃口を押し付けたまま震える二人の人差し指。
力を篭めれば全てが終わる。けれど終わらせたくない。だが引かなくてはならない。
それが全てを賭した相手への礼儀であり、獣の矜持だ。結末は共倒れ。なんと無様で最高なフィナーレ。
それしかない。だがそれでいい。藤原が力を篭めようとしたその時、不意に女が囁く。
「あのさ──アタシが勝ったらさ」
その言葉に噴出しそうになるのをかろうじて堪える藤原。
その顔を目にし、ぷくうと拗ねたように頬膨らますマキを見て、やばい、こいつ可愛い、と思ってしまう。
「──悪ぃ、おめえポジティブなんだな」
どう考えてもお互い後が無い。なのに未だこいつは勝ち負けを考えている。諦めなど端から考えていないのだ。
それを思うと藤原は愉快で仕方が無い。
「言えよ、聞いてやるさ」
「それじゃ──あんたを犯していい?」
いいぜ、と藤原は笑う。
五年前始めて会ったその時から、この身体も心でさえも、みんなおめえに蕩けちまってんだ。
むしろそれはご褒美ってもんだ。だからよ、と彼は言葉を続ける。
「その代わり俺が勝ったら、一発やらせろ」
「ふふっ、もちろん──望むところよ」
次の瞬間、同時に引き金が引かれ撃鉄が落ちる、が。
「──え?」
「──お?」
ガチン、ガチンと虚しく響く二対の金属音。双方共にミスファイア。
なんだよそりゃありえねえだろ、と二人がそれぞれの撃鉄を見れば先端の撃針が折れていた。
手から力が抜け、二挺のゴー・ナナが泥の中にひとつ、またひとつ落ちていく。
「──延長戦」
「──あ?」
そして藤原の口が塞がれる。その女──真来の唇に。
狼の娘・滅日の銃
第十ニ話 - おとうさんだいすき -
知らない天井だ。嘘ごめん、言ってみただけ。
ぼう、と視界に映る見慣れた木目が現実への帰還を告げていた。一瞬で藤原の脳裏を過ぎる二十年の月日、そして覚醒。
背中から娘の寝息が聞こえる。だからか──と父は微笑む。
「似てきたよなあ」
真澄を起こさぬようにそっと起き上がり、娘の寝顔を見つめる藤原。
その顔も、髪も、安らかな吐息も本当に真来に似てきた。だから久方ぶりにあいつの夢を見たのだ、と彼は納得する。
「──フジワラスタイルもマジで終了だな、こりゃ」
同じ屋根の下で暮らしているとつい忘れがちになるが、こいつはもういっぱしの女なんだよなあ、としみじみするお父さん。
あの時はまんまとしてやられたが、添い寝はもう終わり。
償いは他で存分に補うさ、と朝日が注ぎ始めた部屋の中、微笑む男の目尻に深い皺が刻まれる。
「大きくなりやがって」
俺はこいつに何を残してやれるのだろうか。
こんな事を思うのは年食った証拠だな、と藤原が苦笑する。
たいして残せるものは無い。けれどせめて、この子にとって自分と共に過ごした日々が笑顔で埋まるよう、踏ん張るか。
──離れなさいフジワラさん。あの娘はアナタを破滅させまス。
ふと脳裏に過ぎるベアの声。思い出し首を振り藤原は今一度つぶやく。
「ふざけるな。この子は俺の全てだ」
──それゆえにでス。あの娘は今に牙を剥く。
「上等じゃねえか」
昨夜の一戦は久方ぶりに藤原の血を滾らせた。
忘れかけていた獣の血、血流の入れ換わる様を味わえたのは果たして何年振りだろうか。
ともすれば蕩けてしまいそうなあの感覚。けれどあの頃には戻れない。自分はもう雄ではない。親だ。父親だ。
──あの娘はアナタを殺しまス。アナタの──心を。
「この子に殺されるなら本望ってもんだ」
オゥケイ、殺してくれ。と自身に刻み込むように藤原は呟く。
運命の女は母になった。あの極上の雌は母親になれた。
ならば生き残ったつがいの片割れとして俺は雄ではなく父としてこの子に喰われよう。
親を餌として子は立ち、子もやがて親となり身を子に捧げる。その繰り返し。
この子を巡る輪廻の中に俺も入れるのならそれこそ本望。喜んで血肉となるさ。
「んー──あれ?お父さん。おはよ」
そして、娘が目を醒ます。
目をこすりまなこを空ければ優しく微笑む父の顔。
「──すけべ」
「はあっ?」
寝ぼけまなこでいたずらな笑みを浮かべる真澄。
「お父様。さてはわたしの寝顔に欲情されましたね?」
寝床の中でうふーん、と大げさに身をくねらせる娘を見てお父さん溜息ひとつ。
「うん。そんなタワゴトは目ヤニとヨダレ拭いてから言おうな?」
ぶおん、と投げられた枕が藤原の顔に直撃。
「デリカシーなさすぎ!知らない!」
そのままがばりと立ち上がり、どかどかと足音を響かせて洗面所へ駆けて行く娘。
ぼとり、と落ちる枕。その姿を見送りながら目を細めるお父さん。
「──育ち盛りだなあ」
本当に大きくなった。投げつける枕の威力も中々のもんだ。手足も背も随分伸びた。
五年前初めて添い寝した時は背中からしがみつくといった感じだったのに、今じゃ真っ当に抱き締めてやがる。
こりゃ本気で諭さないと、今にあいつ、野郎に変な免疫ついちまう。くわばらくわばら。
今晩あたりちと本気で父の威厳つう奴をだな──
「──あれ?」
その時初めて気付いた事。藤原の背中にじんわりと蘇る柔らかな感触。
「あいつ、胸大きくなってねえか?」
いやいやいや、ないないそれはない。
ぶんぶんと首を振り、布団を畳むお父さんでした。
■
蛇口を開ければざばざばと冷たい水が流れ出す。
真澄は長い後ろ髪をバンドで束ね、前髪をクリップで留める。
準備完了。腰を曲げ流れる水を両手の平に溜め、ぱしゃぱしゃと顔を濡らす。
冷たい水が火照った顔の熱を取り、未だ眠る頭の半分を急速に覚醒させる。何度も繰り返してきた朝の儀式。
やがて蛇口が閉じられる。壁掛けのタオルを手に取り顔を拭く。そして身を起こせば洗面台の鏡の中に──あの女。
「おかあ──さん?」
鏡の中で、あの女──藤原真来が微笑む。
「おいで。真澄」
不意に意識が途切れる。一瞬のブラックアウト。
再び視界が戻れば白い部屋。何も無い病室。無意識に握った自分の手。
見れば一回り小さい手。六年前。十一歳の自分がそこに居る。
「さ、おいで」
ベッドで半身を起こし手招く母は、まるで鶏がらの様にやせ細り、けれど病的なまでに白い肌は妖艶な美しさを放っていた。
その時、不意に真澄の脳裏に引き戻される記憶。
湯船が赤く染まったあの夜、母は一晩中自分に付き添ってくれた。
夜が明け、未だ鉛の様に重い下腹部の感覚に耐えながら目蓋を開ければ、自分の横で身じろぎ一つせず倒れ伏した母の姿。
肩を揺らしても反応が無い。はあはあと口元から微かに荒い息。異変を察し病院へと連絡しようとした矢先。突如現れる白衣の集団。
茫然と立ち尽くす真澄の前から運び出される母。
──藤原真澄さんですね?お母様は私達に任せて。さ、あなたも一緒に。
白服の一人に声を掛けられた所で記憶が途切れる。
どこへ連れて行かれたのかは解らない。気が付けば意識を戻した母がベッドから身を起こし、微笑みながら自分を招く。
「お母さんどうしたの?ねえ大丈夫なの?」
「何も心配要らないよ真澄。こうなる事は解ってたからね」
優しく自分を引き寄せ、髪を撫でる母の手からは生気が感じられなかった。
「お前は女になった。だから、あたしの役目は御終いなんだよ」
「なによそれ、わけがわからない」
「これでも持った方さ。理論上の耐用年数、その倍は生きれたんだ」
母が何を言っているのか真澄には解らない。
けれど彼女がただの病気ではなく、命の灯火が消えようとしている事だけは理解出来た。
何故かは知らない。だがそう実感した。
そうか、お母さん、終わるんだ。
口にこそ出しはしなかったが、その事実を真澄は肌で感していた。
しかもそれを自分でも驚くほど冷静に受け止めている。どこか他人事の様でもあった。
まるで自分を含めた白い部屋の全てを俯瞰するように、ただその光景を静かに見つめ、受け入れていた。
「真澄、やっぱりあんた、あたしの娘だ」
娘の顔を見て真来は微笑む。
「なんて良い眼してんだろ」
その言葉が真澄の胸に突き刺さる。母の目に映る自分の眼は果たして。
「あたしが逝くの、今か今かと狙ってるね」
本能的に顔を背ける真澄。
心を覗かれた。鳥肌が立つ、悪寒が走る。彼女は全てを見抜いていたのだ。
「違う!私は」
「いいんだよ。あんたが小さい頃から解ってたんだ」
あいつにはとてもじゃないが言えなかったけどね、と真来が笑う。
「おまえが生まれた時、あいつのはしゃぎようったら無かったからね。
だらしなく目元を緩ませてさ、口なんか半開きで惚けちまってさ、滑稽だった。
けれど、そんなあいつが愛しくて堪らなかったさ、お前と同じくらいね。だから余計胸が痛んだのさ。
あいつがお前を見つめる眼差しは大切な宝物を見るようだった。けれどお前があいつを見つめる眼は違った。だから」
「なんで今さらそんなことを言うの!あの男は、私を!」
私を捨てた──喉元から声を吐き出すように真澄は言う。
「そうだね。お前はそう思ったんだね。そう思うことで抑えたんだね」
娘を諭すように淡々と告げる母。
けれど真来は思う。自分は一度もそんな事など言った覚えは無い。どうしようもない理由があって別れたとしか話していない。
それをこの子は、父は自分を捨てた憎き仇のように思い込んでしまった。
何故そうなってしまったのか。真来には痛いほど理解出来る。
それは、この子に芽生えた理性が、この子の本能を抑えるべく作り出した虚像なのだから。
それに気付いたからこそ敢えて否定も肯定もしなかったのだ。しかし。
「いいんだよ、真澄」
自分は終わりだ。もうこの子を守る事が出来ない。もうこの子を縛る事など出来はしない。
けれど、愛しいこの子を授かった事を過ちにはしたくない、だから──そして真来は告げる。
「お行き、あの男のとこへ」
この子に芽生えた理性という名の自我が、鎖となって本性を縛り続ける事を、切に願う。
その気持ちさえ忘れなければ、お前はあいつの所へ行っても上手くやっていける。
「いやだよお母さん、そんな事言わないで、だったら一緒に」
「それだけは駄目なんだ」
「何で、何で駄目なの」
「あんたと殺し合いたくは無いからさ」
真来の言葉に真澄は目を剥く。
「あたしはまだ、あいつに惚れてる──解るだろ?真澄」
母を憎んだ事など一度も無い。
女手一つで自分を育ててくれた彼女。いつも優しく自分を包み込んでくれた存在。大好きなお母さん。
なのに、ああ、それなのに。今、心の奥底から湧き上がるこの感情は何だ。
それを認め真澄は戸惑う。娘の心を察し、真来は静かに告げる。
「あたしの眼を良く見るんだ」
顔を上げれば、母はもう笑ってなどいなかった。
「見えるかい?お前が映っているね?」
見開かれた母の瞳の中に自分が居る。
「お前はいま、どんな眼をしている?」
その眼を見た。
そして──意識が再び、暗闇に落ちる。
「おーい、真澄ぃ。まだ空かねえのか?」
気が付けば洗面所。
戸の向こうから自分を呼ぶ父の声で我に返る。
目の前に鏡があった。鏡の中で自分を睨みつけている十七歳の少女が居る。
その顔は、驚くほど母に似ていた。
■
今朝のあの子は少しおかしかった。
執務室の天井をぼんやりと眺めながら藤原は述懐する。
あれからいつも通り一緒に朝食を取り、いつも通りたわいのない会話をし、いつも通り一緒に家を出て後ろ姿を見送った。
いつもの声、いつもの笑顔。相変わらず可愛い娘。
別段どこに異常がある訳でもないのだが、身に纏う雰囲気が妙に艶かしいというかなんというか。
「──オンナノコの日か?」
何てことをあの子に問おうものなら、また今朝のように枕とか目覚まし時計とか飛んで来るかもしれない。
くわばらくわばら、と肩をすくめるお父さん。そしてはぁっ、と深く溜息。
「ひと波乱、あんだろうなあ」
今朝、つい言いそびれてしまった事。それはフジワラスタイル終了の提案。
つまりは添い寝はもう御仕舞いにしようという宣告だ。世間一般がどうかは知らないが、やはりアレはちと異常だ。
娘に欲情する気なんざさらさら無いが、やはり教育上宜しくない。男に変な免疫ついて誰彼構わず添い寝するような女にはなって欲しくない。
そんな事になろうものならお父さん泣く。泣きながら殴る。もちろん男の方を。しかし何でまた急に。
そこで藤原思い出す。あ、馬鹿忘れてた。
あいつ昨日、挨拶も無しに急に帰りやがって。携帯を取り出し呼び出せばワンコールで出る真美。犬みてえだなおめえ。
「──すんません」
「──おう。昨日どうした?」
「──ちと野暮用が、ハイ」
嘘だな、と藤原は直感する。声に抑揚が無い。何かを隠している証拠だ。
「師匠──真澄ちゃん、その」
「言え。昨日何があった」
通話口の向こうで途切れる声。
「喧嘩でもしたんか」
「──はい。そんなとこです。すいません」
これも嘘。さてどう囲むか、と藤原が思案した矢先。
「来週、何とか時間作ってそっち行きます。その時にお話します」
「──解った」
そのまま切れた通話。なるほど、原因はこいつか、と藤原は納得する。
たかが娘っ子同士の痴話喧嘩に目くじら立てる気など毛頭ないが、それにしてはやけに思いつめていたような真美の口調が気になる。
ふと沸き起こる妙な胸騒ぎ。これはまるで。
──見ないふりも過ぎれば、取り返しのつかぬ事となり得る。
繭子の言葉を思い出すも、思い直し首を振る藤原。
考え過ぎだ馬鹿野郎、と自身を戒め、机上に置かれたままの紙コップを思い出し、手に取り口に含む。
冷めた珈琲が、やけに苦い。
■
遅い昼食。閑休庵の暖簾をくぐれば案の定、奴が居た。
「間に合ったか?」
「閉まってまシタ」
「だよなー」
がっくりと肩を落としつつ蕎麦を手繰るベア。
しかし藤原に妙な違和感──あ、卵乗ってない。
「おう、どうした?今日は月見じゃねえのか」
「最後くらい、カケを楽しもうかと思いマシテ」
「最後?ふーん、帰るんか」
「ワタシできればココ離れたくありませんデシタ。
ですが慈悲深き我らが主、王宮食堂に蕎麦を加えて下さりました。そのご高配に深く感謝せねばなりまセン」
「おう、よかったじゃねえか」
「良くないのでス!蕎麦は立って喰わねば意味ないのでス!」
「だったら立って喰えばいいじゃねえか!」
「それじゃ私バカみたいでス!」
「おめえ正真正銘の馬鹿だよ!」
「女王何も解ってないでス!王宮食堂にはカウンターが無いのでス!しかも七割蕎麦で美味過ぎるのでス!何も何も解ってない!それではただの旨い料理に過ぎない!蕎麦粉三分つなぎ七分のモサモサが無い!箸で摘んだら切れるか切れぬかの微妙なコシが無い!解っていない!解っていないのだ!立ち食いとは!そのギリギリを味わい愛でるものだ!その誉めようがない味を何とか誉めて誉めて誉め倒して金払わず立ち去るのが真なる立喰師なのだ!」
「払えよ!熱く語んなよ!途中から語尾まともになってんじゃねえよ!」
半泣きで残る蕎麦と汁を掻き込むベア。やがてタンッ、と威勢良く空になった椀が置かれ。
「ごちそうさん、オヤジサン、いくら?」
「はい、二百八十円ねー、まいどー」
「払ってんじゃねーか!」
プフー、と最後の蕎麦を堪能した後、足元から大きなリュックを拾い上げ肩に背負うベア。
大きな荷物を見て、まさかこいつずっと野宿とかしてたんじゃねえのか、と些細な疑問が藤原の脳裏に浮かぶ。
その様子を見て親指を立て、グッドプロティン!と笑うベア。
「私ここ去りますがネ、藤原サン」
本当にいいんでスネ?と今一度彼に問うベア。
「しつけえよ。ほれ、コレもってけ」
藤原が差し出した袋を見て、大袈裟に目を丸くするベア。
「オウ!酒と白ダシでは無いでスカ!これで帰ってからスイーツオムレット作れマス!」
うやうやしく両手を合わせ、ナマステー、と、どう見ても間違った日本式挨拶をするベアに藤原は苦笑する。
なんというか本当におかしな奴だったと。
「次やん時ぁ、あんな変な得物使うんじゃねえぞ」
だがひと時とは言え、戦いの愉悦を味あわせてくれたこの男に妙な親近感が沸いてくる。
そう思えばこの別れも少し寂しいな、と藤原は笑う。
「次──次でスカ。あるといいでスねエ」
やや神妙な面持ちで藤原に向き直り。
「土産のお礼にひと言だけ残しマス」
そして魔道第五機動師団〈青〉副団長ベア・グリーズが告げる。
「フジワラさん、嵐が来ますヨ。この町が吹き飛ぶ程の嵐がネ」
「警告ってやつか?」
「警告?とんでもナイ」
あなた我が主の事何も解っておりマセン、とベアが笑う。
「ワタシはネ、フジワラさん。女王の言葉を伝える勅使であると同時に、もう一つの任務も与えられてマシタ。
その仕事も終えたので帰るのでスヨ。この意味が解りますカ?」
「そっちが本題か。おめえ、何しに来たんだ」
「見極め人なのでス」
「何のだ」
「強きもの。それも嵐を前にしても逃げる事のないであろう、より強きもの、でスヨ」
なのでわたし、帰りマス、とベアは満足げに微笑む。
「頑張ってくださいネ、フジワラさん」
しかし藤原は彼の言葉をふん、と笑い飛ばす。来るなら来い、とでも言うように。
「つうかよ、電車出るぞ」
「オウ!」
振り返れば発射ベルが鳴り終わり、改札口の向こうで静かに動き出すオレンジとグリーン、ツートンカラーの路面電車。
オウこれもまたサバイバル!と叫びアディオス!と笑顔のまま駆けて行く清々しい馬鹿。
改札を飛び越え、追う駅員を振りほどき、電車の窓にしがみ付くベア・グリーズ。
親指を立てこれで家に帰れマース!とか叫ぶ奴も奴だが、それでも止まらない電車も電車だと藤原は思うも、
まあこの町じゃ日常茶飯事だよなあ、と、五年も住めばなれたものですお父さん。そして駅を出てふと気付く。
あ、昼メシ喰うの忘れた。
■
「あれ?どしたのお前」
夕暮れ時、庁舎から出ると制服姿の真澄が両手に買物袋を下げ藤原を待っていた。
「か、買物帰りよ!ぐ、偶然よ、ぐーぜん!」
なんかどっかで聞いた台詞だよなあ、と軽いデジャブ。
それでもまんざらでもないお父さん、大きな方の袋を持ち、親子仲良く家路を歩く。
「電車乗らなくていいのか?」
「いいじゃない、どうせ三駅くらいだもん。ゆっくり帰ろ?」
などと腕を絡めて来るものだからお父さんたまりません。
鼻の下をだらしなく伸ばし半笑いの姿など弟子とか局長に見られたら一体何を言われるか。
まあつまり、やはりこの男、娘と共に暮らした五年を経て、立派な親馬鹿と成り果てた。
「なあ、真澄」
「んー?」
「胸、当たってんぞ」
「あててんのよ」
やっぱ一回り大きくなってねえか、と藤原思うも口には出さない。こわいから。
「お前も大きくなったよなあ」
ふと見上げれば山に落ちる夕日が見えた。
黄色く染まる稜線。その上に淡い青、濃い青、そして紺色。瞬く一番星が光っている。
「なあ真澄。添い寝はもう、止めねえか?」
自然とその言葉が口に出た。一瞬の沈黙。そして。
「私がもう、おんなだから?」
藤原が苦笑する。ストレート過ぎるだろお前、と。
「まあ──そうだな。お年頃って奴だろ?」
「──いいよ」
やけにあっさりと返す彼女に少々肩透かしを食らう藤原。
「その代わり教えて欲しいの」
立ち止まり腕を解き、彼の前に立つ真澄。
「ねえ、お父さんは本当に私を捨てたの?」
不意の問いかけに、ああ、と男は短く返す。その通りだと。
「今さら許せ、とは言わねえよ」
「嘘ね」
一瞬の沈黙。
二人の横を通り過ぎるオレンジとグリーン。やがて路面電車の喧騒が消えた頃。
「傷つけたくなかったんでしょ?私たちを」
真美さんから聞いたわ、と笑う娘に、あんにゃろう、やっぱ馬鹿だ、と口元をしかめる男。
「危険な仕事に家族を巻き込みたくない、私たちを守るその一心で辛い決断をしたんだって」
いやあの、それは、えっと話せば長く──ベソ美てめえなんて事を。
だからか、だからおめえ逃げたんか。くそてめえ来週覚えてやがれ──と顔を背け頭を掻く男。
「ね、お父さん。もうどこにも行かないで?お願い」
娘の言葉に深く頷き、そして藤原は思う。
罰だと思っていた。自分に子など持つ資格など無い。
血と硝煙が織り成す黄金色の中で、いつか誰かに放った弾丸が巡り巡ってこの胸を貫き、自分は塵に帰るのだ。そう思っていた。
けれどこれは──そうか、これはご褒美だったのか。なんだ俺はちっとも間違っちゃいなかった。
神様はかつて鉄火を振るうべく獣を解き放ったっていうが、そのうちの一匹が俺だったってわけか。
ありがとうよ神様!こりゃ最高じゃねえか!もう離すもんか、やっぱりこの子は俺の宝物だ。
「いかねえよ。いくもんか。こんなべっぴんさん残してよ」
どさり、と買物袋が足元に落ちる。
次の瞬間、感極まったかのように涙を散らし彼の胸に飛び込む真澄。
「お父さん!」
胸に抱きつく娘の眼を見て男の心が凍りつく。
「だいすき!」
その腕を娘の背中に回そうともせず、ただ呆然と立ち尽くす。
そして女の言葉を思い出す。
──みんなが枯れ果てた時、また一緒に暮らそう。
ああ、これは、そういう意味だったのだ。
あの女は狼の如き勘でそれに気付いていたのだ。だからこの娘を自分と離したのだ。
これがご褒美?とんでもない!ああ神様あんたって奴は俺を決して許してくれなかったのか。
ああ、ああなんてこった、これが、これこそが──罰。
「もう!はなさない!」
男は見てしまったのだ。彼女の涙、その奥で光る、見慣れたあの眼光を。
■狼の娘・滅日の銃
■第十ニ話/おとうさんだいすき■了
■次回■第十三話「嵐の前の日」
※おまけェ(若い頃のおとうさんとおかあさん)
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